人類の繁栄

 

十年前、世界平和の理想は、想像できないほどにその形態と内容を形成していた。長い間不動に見えた障害物が崩れさり、解決不可能に思えた衝突問題は協議と解決の道を歩み始め、軍事的攻撃に反する動きは、国際的な協力により現れてきている。その結果として、人類全体、そして多くの世界的な指導者たちの間に、ほとんど消滅しかけていた地球の将来への希望を呼び覚まさせることになったのである。

 

世界中で、膨大なる知的・精神的エネルギーがその力を現そうとしている−−そのエネルギーの圧力は、この数十年の混乱に直接比例している。至るところで、地上の人々が闘争、苦しみ、破壊への終結を望んでいる兆候が見られる。このような変化を求める衝動は、掴み取り、長い間夢見られてきた地球的平和の実現を阻む残された障害物の除去のために活用されなければならない。そのような仕事に必要とされる努力は、社会を苦しめている無数の病いに対するアピールを総合するだけでは不十分である。それは、「人類の繁栄」というビジョンにより活気づけられねばならないのである−−それは、射程距離内にある精神的・物質的安寧の可能性に目覚めることである。それを授与するのは、わけへだてなく地上の全ての人々であらねばならない。

 

人類の歴史はこれまで、部族・文化・階級・国家のレベルに限られてきた。20世紀における地球の物理的統合、及び地上の全ての人々の相互依存の認識に伴い、人類の一体性の歴史が始まろうとしている。人類の文明化は長く、ゆっくりとしたプロセスで、その発展も散在的・不均衡であった。それにも関わらず、人類は、人種的・文化的多様性から生じる豊かさを資源として、意識的かつ体系的にその将来の計画を立て、遂行していくという挑戦を受けているのである。

 

人類の文明における次の段階のビジョンは、現在の社会経済発展のアプローチの根底にある態度や考えを再検討せずして形成することはできない。最も明らかなレベルでは、方針・資源の活用・計画の立案手順・実行方法論・組織と言った実用的な問題などを再検討する必要がある。しかし、検討の段階が進むにつれ、長期的目標、社会構造、社会正義の推進の意味、永続する変化をもたらすための知識の性質や役割などと言った根本的問題がすぐに生じるであろう。実際、そのような再検討のプロセスにおいては、人間の本性について、幅広く一致した見解が見られることが必要とされるのである。

 

これらの概念的あるいは実用的問題の取扱いに直接関して、二種類の経路が考えられる。これから、この二つの経路に添って、地球的発展に関する方法論について探ってみたい。最初の経路は発展のプロセスの性質と目的に関して広く広まっている信条について、もう一つはそのプロセスにおいて様々な主導者に与えられた役割に関するものである。

 

まず、現在用いられている発展の計画法は基本的に唯物的なものである。つまり、発展の目的は、物質的繁栄の達成に必要な手段を開発するという意味で定義されているのである。もちろん、開発にあたっては、文化や政治システムの違い、環境問題などに応じて、ある程度の修正はなされる。しかし、根底にある唯物的前提条件に変わりはないのである。

 

しかし、20世紀が終わりに近づくにつれ、生命の唯物主義的な解釈により成り立っている社会経済発展のアプローチが人類のニーズに答えられると言う信条は、もはや可能ではない。そのようなアプローチが抱いていた楽観的な未来観は消え去り、代わりに、ごく少数の人々の富と人類の大部分の貧しさとの大きな格差が生じてしまったのである。

 

この前例を見ない経済的危機と社会的崩壊は、人間の本性に関する概念の間違いを反映しているのである。なぜなら、現在の秩序により生じる人間の反応は、不十分なだけでなく、起きている出来事と比較して、無関連でさえ、あるからである。われわれは、社会の発展が、単なる物質的改善を越えるところに目的を見いださなければ、物質的目標でさえ達成することもできないと言うことを見せつけられている。そのような目的は、実は、生命と動機に関する精神的な次元に求められるべきなのであり、その次元は、常に変動する経済状態や、「先進国」・「発展途上国」と言った表面的分類をも超越するものなのである。

 

発展の目的を再定義するにつれ、発展のプロセスにおいて様々な主導者が果たす役割についても見ておく必要がある。まず、政府が果たす役割についてはもやは詳しく述べる必要はない。しかし、将来の世代は、平等主義と民主主義に敬意を払う時代に、なぜ、開発計画では人類を単に援助と訓練を受けるものとしてのみ見なされていたか、理解に苦しむであろう。参加を原則として認識しているにも関わらず、人民による意志決定はせいぜい副次的なレベルであり、人民とは直接関わりのない機関により形成された選択肢に限定されおり、その選択肢も、人民の現実問題とは矛盾する目標により決定されているのである。

 

このようなアプローチは、確立された宗教により直接、あるいは間接的に是認されている。温情主義の伝統により負担を抱えた、広まっている宗教的思想は、人間の精神的性質に関する信仰を、物質的条件を超越する人類の集団的能力への信念に置き換えることができないでいる。

 

そのような態度は、この時代でおそらく最も重大な社会現象の重要性を見落としている。もし世界の諸政府が国際連合のシステムを通して新世界秩序の建設のために努力しているのが事実であれば、世界の人々も同じビジョンにより活気づけられているはずである。実際、人々の反応は、地方・全国・国際のレベルで社会変革に関する無数の運動や組織として現れている。人権、女性の地位向上、経済発展、偏見の除去、子供の道徳的教育、識字教育、基本的保健衛生、その他多くの分野においてそれぞれが、世界中の至るところで、より多くの擁護者を必要としている。

 

このような、時代のニーズに対する世界中の人々の反応は、バハオラが百年以上前に挙げた言葉をこだましている−−「汝らが生きる時代の必要とすることに熱心に関心を示すが良い。そして汝らの審議を時代の状態や必要条件に向けるがよい」。膨大な数の普通の人々の自己概念の変化−−これは文明の歴史において突然の出来事なのであるが−−は、地球の将来を計画するにおいて人類全体に与えられた役割に関する基本的な問いを投げかけるのである。

 

 

 

世界の人々に、人類全体の運命に対する責任を背負わせるための方法の基盤となるのは、人類の一体性を意識させることである。単純なことのように思えるが、人類が一つの民族であると言う概念は、現代社会のほとんどの機構の機能に根本的な挑戦を投げかけるのである。政治機構における敵対関係にせよ、民法における弁護原則にせよ、階級間やその他の社会的グループ間の闘争、あるいは現代生活の大部分を占めている競争の精神、いずれにせよ、闘争は、人間生活の主軸においてにおいて受け入れられているのである。それは、また、過去二百年の間に強化されていった唯物主義的解釈による社会組織においても表現されている。

 

百年以上前にヴィクトリア女王にあてられた手紙の中で、バハオラは、世界を身体に例え、地球社会の組織法に関する確実なモデルについて指摘している。実際、存在するモデルの中で、これ以上に優れたものはない。人間社会は、単に、異なる細胞の集合体ではなく、様々な個人の連合体であり、各人に知性と意志の力が与えられているが、人間の生理的機能は、生存という大きな原理も説明できる。その原理の中でも主なものとして、「多様性の中の統合」がある。矛盾的ではあるが、人間の身体の全体性・複雑性、そしてそれが細胞に完璧に統合されていることこそが、各細胞や器官に備わる異なる機能が作用できる原因なのである。身体から離れて生きる細胞はなく、身体の機能に貢献しているか、あるいは身体の健康から益を得ているかのどちらかなのである。このようにして得られた健康は、人間の意識を表現することに目的を見いだす。つまり、生理的発展の目的は、身体とその諸器官の単なる生存を超越するのである。

 

個人の人間の生命に関しての事実は、人間社会にも当てはまる。人類は、有機的な全体性を形成し、進化の頂点を極めている。人類の意識が個々の知性や意志の無数の多様性を通して作動することは、人類の統合性から反れることを意味しない。実際、統合性を、同一性や画一性から区別するものは、この本来備わった多様性なのである。今日世界の人々が体験しているのは全体としての成熟である、とバハオラは述べている。そして、「多様性の中の統合」がその最高の表現の場を見つけるのは、この人類の成熟なのである。家族の生活の強化が始まったときから、社会の組織化のプロセスは部族構造から都市国家や国家建設の段階を経て、それぞれにおいて、人間の能力を新たに開発してきた。

 

明らかに、人類の発展は、人間の個性を犠牲にして起きたのではない。社会の組織化が進むにつれ、各個人に潜在する能力の表現の度合いもまた、同様に進歩してきた。個人と社会の関係は相互的なので、現在必要とされる「変革」は、個人の意識の内部と社会機構の構造内の両方において同時に起きなければならない。子の二重の変革プロセスが生じる機会において、地球的発展の方法論は目的が見いだされるのである。地球の歴史のこの重大な時期において、その目的とは、地球的文明が徐々に形成するための永続的基盤を確立することでなければならない。

 

地球的文明の基盤づくりには、性質と権限において普遍的な法律と機構の創造が必要である。この努力は、人類の一体性の概念が意志決定の責務を担う人々により完全に受け入れられ、関連する原則が教育システムやマス・メデイアを通して宣布されて初めて開始できる。この境界線を越えたなら、世界の人々が共通の目標を掲げ、それらの達成のために努力するプロセスが開始されるのである。このような抜本的再適応によってのみ、人々は、長い間続いてきた民族的・宗教的闘争から身を守ることができるのである。世界の人々は一つの人種であると言う、ようやく現れてきた意識によってのみ、地球の住民は過去に社会を独占してきた闘争パターンから身を引き離し、協力と問題解決の方法を学べるのである。バハオラは述べている−−「人類の安寧と平穏、安定は、その統合がしっかりと確立しなければ、そして確立するまでは、達成不可能なのである」。

 

 

II

 

人類の一体性の意識を全体の意志へ変えることのできるのは、正義の力である。それを通して、地球共同体の生活に必要な構造が確実に建設できるのである。性の人々があらゆる種の情報や様々な考えを入手することができる時代に、正義は、社会の組織化を成功させる主要な原則として自らを主張しているのである。地球の発展を目標とする提案は、より頻繁に、それが必要とする標準に身を任せなければならないのである。

 

個人的なレベルでは、正義とは真実を偽りから区別する、人間の魂の機能のひとつである。神の目において、正義は「万物のうちで最愛なるもの」と、バハオラは述べている。なぜなら、それは他人の目ではなく自分の目でものを見、他人の知識ではなく自分の知識で知ることを可能にするからである。それは、判断においては公平さを、他人との接触においては平等を要求するのである。

 

集団のレベルでは、正義は、集団での意志決定において不可欠の指針となる。思考と行動における統合が得られるからである。過去に、しばしば正義という名に覆われていた懲罰的な精神とは遠くかけ離れて、正義は、人類の進歩において個人と社会の利益は複雑につながっていると言う事を実用的に表現したものなのである。正義が人間社会において指針となる度合いに応じて、協議の精神も奨励され、可能な選択肢について公平に審議され、適切な進路が選択されるのである。そそのような精神においては、作為行為や派閥などの傾向は、意志決定のプロセスの障害となる可能性はずっと低くなるのである。

 

社会経済発展に関する正義の意味合いは非常に深い。正義への関心は、人類全般の安寧を犠牲にするという誘惑から、進歩の定義を守ることになる。正義により、計画にあたっては、限られた資源が社会的・経済的に優先する目標以外のことに分散しないように配慮される。何よりもまず、社会的ニーズに応え、目標において公正で公平なプログラムのみが、大衆の努力を引きつけることができる。実行の段階では、大衆に依存するからである。社会のあらゆるメンバー、あらゆるグループが、設定された標準により保護され、平等にあてがわれる利益を確保されるときに、正直、働く意志、協力の精神と言った特質が、巨大な全体の目標のために装備される。

 

したがって、社会経済発展の方法論の中心には、人権問題があるのである。そのような方法には、人権を過去の捕らわれから解き放つ必要がある。各個人が思考と行動の自由に預かるべきであると言う考えは、現代生活の多くの分野を腐敗させている不健全な個人主義を正当化することではない。また、社会全体の安寧の確保は、国家を人類の安寧の源泉として神格化することでもない。正反対である。今世紀の歴史が示すように、そのようなイデオロギーや派閥そのものが、それらが支持しようとしている利益を阻む主要な敵なのである。人類の有機的一体性の意識により可能にされた協議という枠組みの中においてのみ、人権の全ての局面が、正当で創造的な表現をできるのである。

 

今日、この枠組みを創り、人権を侵害するものから解放する任務を担っている機構は、二度の破壊的世界大戦と世界的経済崩壊の経験から生まれた国際機構のシステムである。重要なことに、「人権」という用語は、国連憲章が1945年に宣布され、その3年後に「人権宣言」が採用されてから初めて、一般に使われるようになったのである。これらの歴史的文書では、社会的正義が世界平和の相関的要素として正式に認識されている。この「宣言」が、国連総会において反対投票無しに可決されたと言う事実により、「宣言」には権限が付与され、これまで着実にその権限は勢いを増してきたのである。

 

人間の特異な本性に最も関連する活動として、真理を自ら追求するというものがある。生存の目的を追求する自由と、その追求を可能にする人間の才能は、保護されねばならない。人間には、知る自由があらねばならない。そのような自由がしばしば悪用されたこと、そのような悪用が現代社会によりひどく奨励されてしまったことは、その自由を駆り立てる衝動の妥当性を減じさすものではない。

 

「人権宣言」及びそれに関連する「契約」に道徳的活力を付与するのは、この人間の特異な衝動なのである。普遍的な教育、運動の自由、情報の入手、政治生活への参与の機会などはみな、その衝動の作用であり、それは、国際社会による明白な保証を必要とする。思想や信条、信仰の自由及び意見を持ちそれを適切に表現する自由なども、同様である。

 

人類という身体は一つであり、分割不可能なので、そのメンバーは、めいめい、全体の信託物として生まれてくる。この信託という関係が、その他のほとんどの権利の道徳的基盤となっている。それらの権利は主に社会的・経済的なものであるが、国連の機関は、これらについても定義をしている。

 

家族や家庭の安定、土地の所有権、プライバシーの権利などは、この信託性に含まれている。社会の義務は、雇用、精神的・身体的健康、社会保全、公平な賃金、レジャーや休暇などその他、個人が期待する妥当な要求に応えることにまで及ぶ。

 

集団的信託の原則は、個人のアイデンテイテイに不可欠な文化的条件が、国の法律や国際法により守られる権利も創り出す。遺伝子総体と環境が果たす役割と同じように、過去数千年の間に蓄えた文化的多様性の富は、成熟期を迎える人類の社会経済的発展には、不可欠の要素なのである。この多様性は、地球規模の文明において実を結ぶべき遺産なのである。そして一方では諸文化は、現在支配力の強い唯物主義的影響から解放されて表現されるべきであり、他方では、常に変動する文明のパターンにおいて、政治的派閥による操作に影響を受けずに、互いと交流すべきである。

 

バハオラは、こう述べている−−「人々の光は『正義』である。圧制と残虐の逆風持てそれを消すなかれ。正義の目的は、人々の間に統合が出現することなれば。聖なる英知の大海は、この崇高なる言葉の中でうねりを上げている。世界の諸々の書はその内なる意義を納めることもできない。」

 

 

III

 

人権の標準が推進され、国際的基準として確立するためには、人間関係について根本的再定義がなされなければならない。現在、人間の関係−−それは人間同士の関係、人間と自然、個人と社会、個人と機構の関係などを含む−−は、これ以前の段階においてじんるいが達成した理解を反映している。もし人類が成熟期を迎えており、地球の住民がひとつの民族であり、正義が社会組織の中心的原則であるのならば、過去の無知から生じた概念は捨て去らなければならない。

 

この方向への運動はまだ、まだ始まったばかりである。それはやがて、家族の性質、家族のメンバーの権利と責任について新たな理解を可能にするであろう。また、社会のあらゆるレベルにおいて女性の役割を完全に変革させるであろう。また、生活における仕事との関係や経済活動の意義というものが、大きく変わるであろう。行政機構や行政活動においても遠大な変化が生じ、非政府組織の活動も合理化されるであろう。全ての人々のニーズの満足と環境の保全の両方を確保する法律が制定されるであろう。そして、究極的には、国連が再構成され、変革し、独自の立法・司法・執行機関を有した世界連邦が確立されるであろう。

 

人間関係のシステムを再概念化するための中心的要素となるのは、バハオラが「協議」と読んでいるプロセスである。「全てのことに関して、協議は必要である。理解という贈り物の成熟は、協議を通して顕現される」とバハオラは助言している。

 

このプロセスが要求する、真理追求の標準は、今日の人間業務の話し合いを特徴づける交渉や妥協とは遠くかけ離れたものである。現代社会に広まっている抗議の傾向によっては、真理追求は達成し得ないのである。デイベート、プロパガンダ、派閥制などの方法はすべて、この目的を害するものである。つまり、ある状況の真実や選択肢からの最善の選択は、このような方法によらずとも、いつでも達成し得るということなのである。

 

バハオラが要求していることは、個々の参加者が、あるグループの利益と目標のために自己の見解を超越するということである。そのような雰囲気では、率直性と礼儀とが存在するが、そこでは、アイデは発言する個人に属するのではなく、グループ全体に属する。そして、グループでそれを吟味し、ある時は破棄し、ある時は修正していくのである。そのような状況下では、経験により問題が生じたならば、以前に達した決定事項を再考慮することも可能となる。

 

このような視点から見ると、協議は、人間業務における正義の表現なのである。それは、集団の努力には不可欠なので、社会経済発展方法論の基本的要素を構成しなければならない。実際、計画の遂行と成功には人々の参加が必要であり、その参加は、協議があらゆるプロジェクトの原則とならない限り、効果を発しないのである。バハオラは、こう助言している−−「人は、正義を通さずして、自己の真の地位に達成し得ない。統合なくして、力は存在し得ない。協議なくして、繁栄も幸福もありえない。」

 

 

IV

 

地球社会の発展に関する仕事は、これまで人類が有していたレベル以上の能力を必要とする。そのようなレベルに達するためには、個人と組織両方において知識の膨大な拡大を図らねばならない。これには、普遍的な教育が不可欠となるが、社会のあらゆる個人とグループと階層に教育が行き渡り、知識を適応できるように人間業務を再組織化して初めて、努力は実を結ぶのである。

 

記録された歴史の中で、人類は、主に二つの知識体系を通して潜在能力を開発し、表現してきた。それは、「科学」と「宗教」である。この二種類の媒介を通して、人類の経験は組織化され、環境が解釈され、潜在能力が開発され、道徳的生活・知的生活が整えられてきたのであるそれらは、文明の真の先駆者である。歴書を振り返ってみると、この二重構造が最大の効力を発したのは、科学と宗教が調和して作用していた時期であったことが分かる。

 

現在科学が受けている信用と敬意については、説明する必要はない。社会経済発展の方法論の見地から見ると、重要なのは、科学技術的活動外貨に組織化されるべきかと言うことである。もしそのような活動が、数カ国に住む少数のエリートを保護するだけであるなら、そのような組織がすでに創り出している富める者と貧しい者の差はますますと広がるばかりである。その結果は、これまでの世界経済の状態が示している通りである。もし、人類の大部分が科学とテクノロジーの産物のユーザーとして見なされるだけであるならば、彼らのニーズに応えるはずであった計画は、「発展」のためのものとは呼べないのである。

 

したがって、中心となる挑戦は、科学技術活動の膨大なる拡大である。そのような強力な社会的・経済的変革の道具はもはや、社会の有利な立場にある階層の世襲財産であってはならない。そして、能力に応じて、社会のあらゆる人々が参加できるように再組織化されるべきなのである。必要とされる教育を受けることのできる人には全て受けられるようにするプログラムを創造することの他に、上記の再組織化には、世界中の人々が知識を生産し、適応できるようにする学術・学習機関を設立することを必要とする。発展の方法論は、個人的な能力の差を考慮すると同時に、生来の権利である科学とテクノロジーの活用を地球上の住民が全て平等に預かれるようにすることを、主要な目標としなければならない。コミュニケーション・テクノロジーにより、情報や訓練が地上の膨大な数の人々に−−その居住地や文化的背景にに関係なく−−もたらすことができるようになり、現状維持をしようという議論は弱まりつつある。

 

宗教的生活において、人類が直面する挑戦もまた、圧倒的である。人類の大部分にとって、人間の本性が精神的なものであるという考えは、実証を必要としない真理である。この考えは、最古の文明から記録されており、過去の偉大なる宗教において数千年の間に発展してきた。法学や美術や修辞学などで宗教が成し遂げてきたことは、歴史に意味と実質を付与する。何らかの形において、宗教は大多数の人々の生活において日々影響を及ぼしており、世界中の出来事が示すように宗教が人の心に呼び起こす切望は消し去ることは不可能であり、計り知れないほど強力なのである。

 

したがって、人類の進歩を推進しようとする努力は、このように普遍的で創造的なる能力を開発することを目標としなければならない。それではなぜ、人類が直面する精神的課題が、発展の話しの中心に置かれなかったのか?なぜ、国際的発展の課題のうちほとんどの優先事項が−−そしてその根底にある前提条件も−−人類のほんの少数の人だけが賛成している唯物的世界観により決定されてきたのか?参加者の文化的アイデンテイテイを否定しつつ、全員参加の原則を唱えることができようか?

 

精神的・道徳的課題は、歴史的には、合い争う神学的教義と密接に関係があるため、国際共同体の発展の問題の枠組み外にある。そのような課題に重要な役割を与えることは、まさに、社会闘争を育み、人類の進歩を阻んできた独断的教義の影響の扉を開けることになる。もちろん、そのような討議にはある程度の道理はある。世界の様々な神学的システムの主導者らは進歩的思想家らによる反論に対応するという重大な責務を背負っているだけでなく、精神的な意味に関する人類の追求において生じた歪曲や抑制とも対応しなければならないのである。しかし、精神的心理の追求を控えさえ、人間の動機の根源を無視させることは、明らかに過ちである。そのような検閲の結果はせいぜい、心理は反道徳的であり事実は価値とは別に存在すると唱える派閥の手に陥ることくらいである。

 

地上の生存に関して言えば、宗教の最大の業績のほとんどは、道徳的なものである。その教えや、教えにより啓発された人々の模範により、あらゆる時代、そしてあらゆる国の人々は、「愛する」という能力を開発してきた。人々は、動物的な局面を規制し、共通の目的のために犠牲になり、許し・寛大・信頼を実践し、富や他の資源を文明の推進に役立てることを学んできた。これらの道徳的進歩を広大なスケールで社会生活の基準に変換させるための機構も考案された。精神的衝動は、クリシュナ・モーセ・仏陀・ゾロアスター・キリスト・ムハムマドと言った超越的人物らにより活力源を与えられたが、独断的教義により弱められ、宗派間の闘争により分散されてはきた。しかし、それは、人間の人格を洗練し開花させるために主要な影響力を及ぼしてきたのである。

 

人類の課題は、知識を取得して人類の力を増大させることであるので、これを可能にする方法は、継続し、増大する宗教と科学の間の対話の周りにあるべきなのである。人間活動のあらゆるレベル・分野において、科学的な知識や技能は、適切な応用がなされるように、精神的・道徳的原則により導かれるべきであるということは、自明の理であり、現在までにはすでにそうなっているべきなのである。たとえば、人々は、事実を推測から区別すること、主観的見解を客観的事実から区別することを学ばなければならない。しかし、科学的知識や技能の応用を任せられた人や機構は、真理に献身的であり、自分の利益や情欲から離脱している分、人間の進歩に貢献できるのである。科学が人々に植え付けなければならないもうひとつの能力は、プロセス−−歴史的プロセスを含む−−という意味での思考である。しかし、もしこの知的進歩が発展を促すことを究極の目的としているならば、その視点は、人種・文化・性別・宗教により片寄っていてはならない。同じように、地球の住民が富の生産に参加できるようにする訓練は、それが人類への奉仕こそが個人と社会機構の目的であると言う精神的考えにより啓発されていて初めて、発展の目標達成を推進できるのである。

 

 

 

人類が直面する経済問題の解決は、あらゆるレベルでの人間の知識の拡大を通して人間の能力を向上させると言う意味において、取り扱われるべきである。ここ数十年の経験が示すように、物質的利益や努力は、目的自体として見なすことはできない。価値は、衣食住などの根本的ニーズに応えることだけでなく、人間の能力を拡大させることも含む。したがって、経済活動が発展において果たすべき最も重要な役割は、個人や機構が発展の真の目的を達成できるような手段を供給することである。つまり、人間の意識に潜在する無限の可能性を開発できるような新しい社会秩序の基盤を創ることである。

 

経済的思考への挑戦となるのは、この発展の目的と目的達成のための手段のための自らの役割をはっきりと受け入れ入れることである。このようにして初めて、経済や関連する科学が、唯物主義的没頭から身を解放し、人類の安寧を確保するための道具として最大限に能力を発揮することができるのである。これ以上に、科学の活動と宗教的洞察力とが精力的に対話をする必要のある場所は、他にない。 貧困問題は、ちょうどその良い例である。この問題に対する解決案は、物質的資源がすでに存在するか、あるいは科学テクノロジーにより生産することができるという前提条件を持つ。そして、科学テクノロジーが、この長い間人類を苦しめてきた状況を和らげ、やがては完全に撲滅できるとする。そのような救済が成功していない主な理由は、科学テクノロジー的進歩が、人類全般が真に必要とすることとほとんど関係のない事柄に関するものだからである。貧困問題を世界から撲滅するためには、このような状態を抜本的に再組織する必要がある。それには、適切な価値観を追求すること、人類の精神的資源と科学的資源を両方を追求することが要求される。しかし、宗教は、足ることを知る生活と消極的な生活の区別ができす、貧困はこの世に備わった状態であり、そこから逃れるのは来世以外にないとする教義により捕らわれている限り、この発展の活動に貢献はできない。物質的安寧を人類にもたらすために、宗教的精神は、正義と公平を求めるこの時代に関連した新しい精神的概念や原則を宗教の「源泉」において、求めなければならない。

 

失業問題も同様である。現代思想では、労働は、生産物の消費のための手段獲得手段としてとらえられている。このシステムは悪循環をなしている−−生産物の取得と消費、その結果生産物を拡大し、維持していき、さらに賃金を伴う雇用がサポートされる。これらの活動のひとつひとつは、社会の安寧のために不可欠なことである。しかし、全体としての概念は不十分で、それは、雇用されている人々に見られる無気力、そして失業者の間にはびこる不道徳的状況にとって見られる。

 

したがって、世界には新しい「労働倫理」が必要とされていることがわかる。ここでも、宗教と科学の知識体系の相互作用こそが、このような習慣や態度を再編成する力を有しているのである。動物は、環境が提供する生命維持物に依存するだけであるが、人間は、自らのニーズに応じて物を生産する能力がある。それゆえに、人間は、どれだけ些細なレベルであろうと、文明の推進に関与するのである。人類への奉仕の精神でなされる分だけ、仕事は祈りの一種となり、神への崇拝となる、とバハオラは述べている。あらゆる人が、自らをこの視点において見ることができる。発展の方法論が目を向けるべきは、この「自我」の能力である。将来の経済活動には、これほど遠大な視点を必要とするのである。

 

また、環境問題により、同様の経済的思考が要求されている。人間の要求に対する自然の能力には限界がないとする信条の過ちが今や暴露された。人間の欲望の拡大・取得・満足に絶対的価値観を置く文化は、そのような目標は方針設定のための実用的なガイドではないことの認識を強いられている。ほとんどの主要な経済問題は、特定の地域ではなく、地球規模に関するものであるという事実を認められない経済アプローチもまた、同様に不完全である。

 

この道徳的危機が、神格化された自然により何とか対応されるであろうと言う希望は、この危機が生んだ精神的・知的絶望感の現れである。創造界は有機的な全体性を有し、人類はこの全体性のために配慮すべき責任があると認めるだけでは、人間の意識の中に新しい価値観を創り出すことはできない。科学的かつ精神的理解に突破口を見つけることのみが、人類にこの責務を担わせることを可能にするのである。

 

たとえば、全ての人が、足ることを知る能力、道徳的規律の受容、人間として不可欠の義務への献身といったものを回復せざるを得ないのである。歴史的に振り返ると、偉大な宗教の創設者たちは、このような人格や特質を、大衆の中に植え付けてきたことがわかる。そのような特質はいまやさらに重要となっているが、それらの表現は、人類の成熟に適応したものでなければならない。ここでも、宗教のなすべきことは、過去の妄想から自らを解き放つことである−−つまり、足ることを知るとは運命主義ではないこと、道徳性とは生命を否定するような極端な厳格主義ではないこと、義務に対する献身の結果は独りよがりではなく、自己に価値を見いだすことであること、である。

 

女性に男性と同等の権利を与えないことの結果は、人類の経済的生活における宗教と科学にさらなる挑戦を投げかける。客観的観察者にとって、男女の平等は、地球とその住民なる人類の安寧に関する考えに根本的原則である。それは、人類の歴史上長い間見過ごされてきた真実を示す。バハオラは、「女性と男性は、神の目において、平等であったし、またこれからも平等であり続けるのである」と述べている。理性的魂には性別はなく、過去の生き残りの条件のために生じた男女の社会的不均衡は、人類が成熟の敷居に立つとき、もはや正当化されないのである。社会のあらゆるレベルそしてあらゆる分野において男女の平等を確立することは、地球的発展の方法を考案し、実施するための中心的要素となるであろう。

 

この分野における成功は、発展プログラムの成功の尺度ともなるのである。文明の推進における経済活動の重要な役割を考慮すると、発展の度合いは、女性が経済活動のあらゆる面にどれだけ関与しているかに依存するであろう。この挑戦は、機会の均等な提供−−それは重要なことではあるが−−を越えるものである。それは、これまで話しから疎外されてきた人類の経験と洞察力−−つまり女性のそれ−−を十分に招いて、経済的課題について再考慮することを必要とする。人間が自己の利益に即した選択をする、機会的な市場を基にした古典的経済モデルは、統合と正義の理想により動機づけされた世界のニーズを満たすことはできない。社会は、新しい経済モデルを開発することを要求されるであろう。そのようなモデルは、家族と共同体の社会的安寧の中心的役割を認識し、人間の相互関係や他者への人道的配慮に基づいたモデルである。そのような知的突破口は、人類の精神的・科学的感性に大きく依存しなければならない。そして数千年の経験が女性をこの共通の活動への重要な貢献をするために準備させてきたのである。

 

 

VI

 

このようなスケールでの変革を考えることは、それに必要な権力について、及びそれに密接に関係する課題、つまりその権力を行使する権限についての二つの問題を提示する。加速化する地球とその住民の統合を考慮すると、この二つの用語は再定義を緊急に必要とするのである。

 

権力は、神学的にも哲学的にも、肯定的なものであったが、歴史的には、人あるいはグループが預かる有利な条件として解釈されてきた。しばしば、それは他者を利用する手段として表現されてきたこともあった。このような権力の解釈は、過去数千年の人類を特徴づけてきた分裂と闘争の社会的・宗教的・政治的文化に備わった特徴となってしまった。それは主に男性に関連する属性であった。その結果、獲得し、優勢を誇り、威圧し、抵抗し、勝利を収める能力がその遺産であった。

 

そして、人類の安寧を脅かす破壊的な状態と、巨大な文明の推進の両方とが、結果として生じた。その利益を認識することは、その問題点を認識することでもあり、また、そのパターンの限界を知ることでもある。人類の青少年期に現れた権力の行使に関連している習慣や態度は、その効力において限界に達している。今日、最も緊急な問題の多くが地球規模である時代に、権力は人類の一部のグループに有利な条件を意味するという考えに固執することは、理論的にも大きく誤っているし、地球の社会経済発展と言う実用的な意味でも役立たずである。いまだそれに固執する人々は、過去の時代には自信を持っていたかも知れないが、今や、フラストレーションと障害物の連続に悩まされている。権力は、その伝統的な競争的表現においては、将来の人類のニーズに応えるという意味ではもう無関連である。ちょうど、鉄道の技術が、宇宙衛星を地球の軌道に乗せるのには不十分であるのと同じように。

 

人類は、その成熟による要求により、受け継いできた権力に関する理解やその使用法から解放されなければならない。人類がそうできることは、これまで常に権力を必要に応じて他の形態において考えることができたことで実証されている。あらゆる時代において、またあらゆる民族が、広範囲な創造的資源を自分達の中から引き出してきたことは、歴史により豊富に示されている。おそらく、最も明らかな例は、真理の力そのものであり、これは、人類の宗教的・哲学的・芸術的・科学的変革の媒介であった。個人にせよ、社会にせよ、性格や人格と言った力は、模範という意味で、人間の反応を多大に流動させる手段となる。そして、ほとんど認識を受けていないのが、「統合」により達成される力であるが、バハオラは、統合の力は偉大で、地球全体をも照らすことができる」と述べているくらいである。

 

社会機構が世界中の人々の意識内に潜在する力をどれだけ引き出し活用できるかは、権限の行使が、急速に成熟する人類の進化するニーズ調和している原則によりどれだけ統括されているかにかかっている。そのような原則には、権限を有する人々が統括しようとする人々の信頼と敬意と真のサポートを勝ち取る義務、意志決定により影響を受ける人々全員とオープンにかつできる限り、協議をすること、奉仕をする共同体の真のニーズと熱望とを客観的に査定すること、共同体の資源(そのメンバーのエネルギーを含む)を適切に使用するために、科学的進歩や道徳的進歩を活用すること、などが含まれる。社会内のメンバーと行政機構内のメンバーらの間に統合の精神を確立し維持することに優先権を与えることほど、効果的権限の原則はない。これと密接に関連する、全ての事柄において正義を求めることについては、すでに言及した。

 

明らかに、そのような原則は、精神と方法とにおいて本質的に民主的な文化内においてのみ作動することができる。しかしこれは、至るところで「民主主義」の名を大胆にも装っている派閥制のイデオロギーを是認するものではない。そのような「民主主義」は確かに、過去には進歩の元になったかも知れないが、現在では、皮肉的非難・無関心・腐敗の泥沼にはまってしまっているのである。社会は、その代表者を選ぶに当たって、立候補指名・選挙活動・投票確保の勧誘活動などの政治的劇場を必要としないし、またそれにより益も得ていないのである。人々は、教養をますますと得、意志決定機関の選出を洗練する選挙法を採用するプログラムによって、彼らの利益が最善に満たされると確信するにつれ、自分達の中に能力のあることを知るであろう。

 

人類の統合が進むにつれ、選出される人々は、自分達の活動をますますと、地球的視野で見るようになるであろう。国家レベルだけでなく、地方のレベルにおいても、人間業務の選ばれし管理者たちは−−バハオラが述べているように−−自らが、全人類の安寧に対して責任を担っていると見なすべきなのである。

 

 

VII

 

人類の成熟を加速させる地球規模の発展方法論の開発は、社会のあらゆる機構を根本的に再編成するという課題を成す。この課題が対象とするのは、地上の全ての住民達である。それは、人類全般であり、あらゆるレベルでの統治機関のメンバーであり、国際調整機関で働く人々であり、科学者や社会思想家であり、芸術的才能を与えられた人々やコミュニケーションのメデイアを活用する人々であり、非政府機関の指導者達である。要求されている反応は、人類の一体性を無条件に認めること、正義の確立を社会の原則として遵守すること、宗教と科学の主導者たちが体系的に対話することにより人間の才能の開発に貢献できることを最大限探ろうと現在社会経済生活を支配している決意することなどを基盤としなければならない。このようなプロジェクトには、現在、社会経済生活を支配している概念や前提条件のほとんどを根本的に考え直すことが必要である。これは、プロセスがどれだけ長かろうと、また妨げがいかなるものであれ、人間業務の統治は、人類の真のニーズを満たす線に添っておいて実施できるという確信と結合されなければならない。

 

人類全体の青少年期が終わりを告げ、成人期が始まりを告げて初めて、そのような展望は理想郷的幻想の域を脱するのである。ここで描かれている規模の努力が、互いに敵対する諸民族や諸国により集められると考えることは、英知に反することである。もし−−これは、バハオラ自身がそうであると述べているのであるが−−社会的進化が現在、人類の発展の決定的岐路に立っているとすると、そうして初めてこのような可能性を考えることができるのである。そのような大いなる人間意識の変革が起こりつつあると言う強い確信が、この文書に述べられているような考えを刺激したのである。この文書の中に自分の心から起きてくる似たような衝動を認める人は全て、神が、この比類なき日において人類に、次のような挑戦と十分に匹敵できる精神的資源を授けたもうたことを、ババホラの言葉により確証されるであろう。

 

諸天国と地上に住む汝らよ!今、かつて現れることのなかったものが現れた。

これこそは、神の最も優れた好意が人々の上に注がれた「日」であり、神の最も強大なる恵みが全創造物に吹き込まれた「日」なのである。

 

現在人間業務を混乱させている騒乱は、先例を見ないものであり、それが引き起こしている状態の多くは非常に破壊的である。今だ想像もできなかったような危険が、悩む人類を取り囲んでいる。世界の指導者たちが、この段階で犯しうる最大の過ちは、この危機故に、現在起きているプロセズの結末に疑いを抱くことである。これまでの歴史を通して蓄積されてきた習慣・態度・機構は、人類の発展に必要かつ必然的な試練を受けている。世界の人々に必要なものは、「創造者」が、この人類の春季に万物に授けた膨大なエネルギーに匹敵する信念と決意である。バハオラは、次のように訴えている−−

 

協議においては統合し、思考においてひとつであれ。毎朝が前の晩よりも優れ、次の日は前の日よりも豊かであらんことを。人の価値は、奉仕や美徳にあるのであり、富や財産にあるのではない。自らの言葉が空しい空想や現世的欲望から清められ、行いが巧かつや疑惑から洗い清められるよう、注意せよ。汝らの貴重な人生の富を邪悪で腐敗した愛着のために浪費するなかれ。また、努力を個人的利益のために費やすなかれ。豊かなときには寛大であり、損失のときには辛抱強くあれ。逆境の後には成功が来て、喜びの後には悲哀が続く。怠惰や怠慢から身を守り、老若や身分の高低に関わりなく人類の利益となることにしっかりとつかまるがよい。人々の間に闘争の毒麦を蒔いたり、清く輝かしい心に疑惑のとげを刺したりせぬよう汝ら、注意せよ。