バハオラの律法時代

 

バハオラ

 

 西洋の神に愛されし人々と慈悲深き御方の侍女へ

 

 この好運にめぐまれた年の五月二十三日に、バハオラの信教設立の九十周年記念を祝います。バハイ時代の第一世紀の最後の十年の敷居に立つ私たちが、それほど尊くそれほど重要な啓示の神秘的な律法時代について黙想するために立ち止まるのは、もっともなことです。九十年間の革命が私たちの目の前にくり広げられる全景はなんと広大で、魅力的なことでしょう!その高くそびえる壮大さは、私たちをほとんど圧倒してしまうほどです。この独特な壮景について単に熟考し、又、いかにわずかであろうと、この最高なる神の顕現を誕生そして徐々に展開することに伴う状況を目に浮かべること、そしてその発生と加速的な進歩を宣言した悲惨な奮闘のあらましを少しでも思い出すことは、この真理を観察する偏見のない全ての人々を納得させるのに十分でしょう。その真理は、必ずや人生を刺激し、運命づけられた優越性に達するまで前進させようと駆き立てる永遠なる真理です。

 この魅惑的な全壮景にそびえ立っているのは、バハオラの姿であります。バハオラはその威厳において超越し、静穏で、畏敬の念を起こさせる、近寄りがたいほどの栄光があります。そして心の中に浮かび出るのは、バブの若々しい姿です。バブはその地位においてはバハオラの下に来ますが、バハオラと団結し、この最高の律法時代の運命をバハオラと共に支配しているのです。バブの優しさは限りなく、その魅力はとてもすばらしく、勇敢さにおいては他に類を見ません。そして最後に現れるのが、活気に満ち威厳あるアブドル・バハです。彼は、自分自身のレベルにあり、その前に現れた二人の人物が入る部類とは全く違った部類に属します。そしていかに崇高であっても他の人間が匹敵できる望みもない栄光と権威−−−神の顕示者たちのみが与えられた栄光と権威−−−をアブドル・バハは映しだされました。

 

 アブドル・バハの昇天とともに、そしてとりわけ、アブドル・バハの最愛なる著名な妹である「もっとも高貴なる葉」−−−栄光あり英雄的な時代の最後の生存者−−−が亡くなられるとともに、バハイの歴史の最初で、最も感動的な章の終わりが近づきます。それは、バハオラの信教の初期の時代、そして使徒の時代の終わりの目印であります。重要な「遺訓」の規定を通して、ちょうど今過ぎ去った時代と私たちが今住んでいる時代−−−過渡の期間、そして初期形成の期間−−−を常に結びつけねばならない重要なつなぎ目を作って下さったのは、アブドル・バハでありました。それは、時が経て花が咲き、バハオラの啓示の黄金時代の到来を告げるべき偉業と勝利に於て実を結ばねばならない段階であります。

 

 最愛なる友人たちよ!二人の独立した、迅速に連続する顕示者たちの作用によってとても奇跡的に放散された、あふれんばかりの力は今や私たちの面前にあり、広範囲に渡る信教の選ばれたる管理人の管理によって徐々に集められ、訓練されております。それらは、私たちが設立し、行動によって不滅になすように要求されている時代の証拠と栄光と見なされるようになる制度へと、ゆっくり具体化されております。なぜなら、私たちが今築いている手段の効果は、私たちの現在の努力と、そして何よりも私たちより以前に生きた人々の崇高なる英雄的行為の模範に従って人生を形成し直そうとする努力の程度に依存するのです−−−その手段とは、私たちの信教の黄金時代を示す、幸福に満ちた国家の構造を設立させなければならないものであります。

 

 勇敢な行動に富んだこの年月を振り返りながら、1844年から現在に至るまでに起きた強力な出来事を簡単に回顧しようと試みるのは私の意図ではありません。又、それらを突然引き起こした力について分析する意図もなければ、地球のほとんどあらゆる所の民族や機構に対するそれらの影響を評価する意図もありません。私たちの信教の初期の、最初の信者たちの真正なる記録は、有能なるバハイの歴史家たちが将来行うであろう熱心な研究とともに、私自身の努力では決して到達できようもないようなその時代の説明を子孫に伝えようとするでしょう。バハイの歴史のこの挑戦的時期における勝利の建築者たちとなるように定められた人々の注意を、あるいくつかの根本的な真理の方へ向けようとすることです。そしてこれらの真理の説明は、彼らの強力な事業を彼らが効果的に遂行するのを多大に援助するにちがいありません。

 

 さらに、この神の宗教がこれまでに到達した国際的な地位は、その根本原則が今、明確に明らかにされることを必然的に要求します。アメリカの信者たちの顕著な行為が信教の前進のために与えた前例のない推進力、西洋の最初のマシュリゴウル・アズカーが様々な人種や国々の間に呼び起こしつつある強い関心、世界の最も進歩した40もの国々におけるバハイ機構の誕生と着実な強化、最もひんぱんに使われている25もの言語におけるバハイ文献の普及、ペルシャの信者たちがその母国の首都の郊外においてバハイ世界第3番目のマシュリゴウル・アズカーの設立のためにとった予備の処置における彼らの全国的な努力の結果最近達成した成功、バハイの信奉者らの圧倒的大多数の関心を代表する彼らの最初の全国精神行政会を即座に成立するために今とられている手段、南半球においてその種類の最初のものである、万国正義院のもうひとつ別の柱を建てる計画、奮闘する信教が「王族」や政府の機関や国際裁判所や聖職の高僧たちから得た口述と記述の証言、慈悲なき新しい敵と古い敵がこの信教に対して浴びせた罪によってそれが受けた評判、イスラム教の国々の中でも最も啓発された国として見ることのできる国におけるイスラム教の正統派の拘束からの信者の一部の正式な解散−−−これらは全て、「最大名」の不屈の共同体が究極的勝利に向けて前進している勢力の豊富な証拠を与えてくれます。

 

 親愛なる友人たちよ!私が果たす責任のあるバハオラの信教の守護者の任務と責任のために、世間の話題の光が私たちにますます集中している時に、私たちの信教の基盤にある真理を私たちの第一の義務として保護すべき全体性について特別に強調するのは私の義務であると思います。これらの真理は、勇敢に支持され、正しく理解されたなら、私たちの精神的生活の精力を力強く強化し、容赦なく油断のない敵の陰謀を消し去るのに大いに助けになる、と私は確信しています。バハオラの驚異的な「啓示」の重要性についてより深く理解するよう努めることは、その忠実な信奉者ひとりひとりの第一の義務、そして絶え間ない努力の目的であらねばならないこと、これは私の断固とした確信であります。それ程広大な組織、そしてそれ程荘厳なる啓示について正確かつ徹底的に理解することは、明らかに私たちの限られた知性には全く及びのつかないことです。しかし、バハオラの信教が秘める真理とその基盤である原則についてよりはっきりと理解することを通して信教の普及のために力を尽くすにつれて私たちは、新しい霊感と生命維持物をさらに得るよう努めることができます。又そうすることは私たちの本当の任務であります。

 

 アメリカの信者たちへの通信で、バブの地位について説明するにあたり、私は、バブが彼自身を、その謙尊なる「先駆者」であるとお考えになった「啓示」の類なき偉大さについて、一時的に言及しました。バブは全ての予言者たちが啓示するように定められた27の文字のうち25の文字をも顕示したあの約束されたカイムである、とバハオラはキタビ・イガンの中で宣言なさりました。で、とても偉大な啓示者であるそのバブ自身が、彼自身の啓示に取って代わるべきあのより秀れた「啓示」の卓越について証言なさっておられます。バブは、ペルシャ語のバヤンの中でこう断言なさります。「来るべき啓示の潜在力を内部に持つ胚種は、われに従う全ての者らの力を合わせたものよりも秀れた力を与えられている。」再びバブはこう断言なさります。「われの後に来るべき方に対してわれが払った敬意のうちで最高のものはわが書き記した告白である次のことである。つまり、わが言葉は彼を十分に描写することはできもしなければ、わが書なるバヤンにおけるいかなる言及も彼の大業について十分理解することもできないのである。」同じ「書」の中でバブは断固としてこう宣言なさります。「ちょうどアリフ(福音書)とそこに記されたあらゆる者は神の使徒なるモハメッドの発言の回りを巡ったように、バヤンとそこに記されたあらゆる者は『神が顕し給う御方』の回りを巡るのである。」さらにかれはこう述べられます。「バヤンの書を千回熟読することは、『神が顕し給う御方』によって啓示されるたった一つの節を熟読することには比べものにならないのである.....今日、バヤンは種の段階にある。『神が顕し給う御方』の顕の初めにおいてその究極的完璧は明らかになるであろう.....バヤンとその信者たちは、いかなる愛人がその愛する者を慕うよりももっと熱烈に彼を慕うであろう.....バヤンは『神が顕し給う御方』からその全ての栄光を得るのである。彼を信ずる者に全ての祝福あれ、そして彼の真実性を拒むものはあわれなるかな。」

 

 バブの信奉者の間で最も学識あり、最も雄弁で最も感化力のあったシイード・ヤフェイ・ダラビ(姓名・ヴァヒード)に対して、バブは次のような忠告の言葉を発されました。「その力が種を成長させ、あらゆるものに生命の精神を吹き込む御方の正義にかけて言う。もし彼の顕示の日に汝が彼を否定するとわれが納得させられたら、われはためらうことなく汝を否認し汝の信仰を否定するであろう.....これに反して、もしわが信教に忠誠を誓わないキリスト教徒が彼を信じると知らされたら、われはその者を非常に大切にするであろう。」

 

 バブは祈りのひとつでバハオラと次のように語られます。「おお全能なるわが主よ、あなたは高貴なる御方でございます!私の言葉と私に関する全てのことは、あなたの偉大なる栄光に関するものでなかったらいかに弱々しく卑劣なものに見えることでしょう。あなたの恩恵の援助を通して、私に関する全てのことがあなたの目において受け入れられることをかなえ給え。」

 

 カムユル・アスマ(ヨセフの節に関するバブの解説)−−−それはイガンの書の「著者」によってバブが啓示された本の中で「最初の、そして最も偉大で最強な」書として特徴づけられていますが−−−の中にはバハオラに関する次のような言及があります。」おお偉大で全能なる師よ、あなたは、あなたの天の力によって私を全くの無から生じさせ、この『啓示』を宣言するために私を育てて下さいました。私はあなた以外の者を頼みにはせず、あなたの意志以外には固守いたしませんでした.....おお、神の面影なるあなたよ!私はあなたのためにのみ自らを犠牲にしました。私はあなたのために悪態を受け入れ、あなたの愛の道において殉死のみを熱望してきました。高貴にして保護なり、そして日の老いたる御方なる神が私の十分な証人であります。」同じ解説の中でバブは再びバハオラにこう話しかけられます。「そして約束された時が来ると、『シナイの光輝』の輝きを認めた人々があなたの啓示を取り巻くすさまじい深紅の『光』を一見するにつれて気絶し滅んでしまうように、賢き御方なる神の許しによって『最も高く神秘的な山』からあなたの奥底知れぬ『神秘』のかすかな、ごくわずかをお示しになり給え。」

 

 バハオラと同一視される「啓示」の偉大さについてさらに証言するものとして、アブドル・バハから著名なゾロアスター教出身の(バハイの)信者にあてて書かれた「書簡」から抜粋された次の言葉を引用することができます。「ゾロアスターの信奉者の神聖な書の中で、後の日々に三つの異なる律法時代において、太陽は静止の状態に来なければならないことが記されている、と汝は書いた。最初の律法時代では、太陽は十日間静止すると予言され、二番目の律法時代ではその二倍、そして三番目にはまるひと月もの間静止すると予言されている。この予言の解釈とは次の通りである。それが言及する最初の律法時代とはモハメッドの律法時代のことであり、その間『真理の太陽』は十日間照り続けた。一日は一世紀として数えられるので、モハメッドの律法時代は千年もの間続いたことになる。そしてこれはちょうど『イマムの星』が沈んでからバブによって宣言された律法時代の到来までの期間にあたるのである。この予言で言及されている二番目の律法時代はバブ自身によって創始されたもので、それはA.H.1260年に終った。三番目の律法時代−−−それはバハオラによって宣言された啓示のことであるが−−−に関してであるが、『真理の太陽』はその地位にまるひと月に定められたのである。このひと月とは、黄道十二宮のひとつを太陽が通過するのにかかる最大の時間なのである。これによって、バハイ周期の規模を汝は想像することができるであろう−−−それは、少なくとも五十万年にもわたる周期なのである。」

 

 それ程古い予言に関するこの明白で権威ある解釈の原文によって、[ バハイ]信教のあらゆる忠実な信奉者が、モハメッドの律法時代の起源が神にあることを受け入れ、その独立的地位を支持することがいかに必要であるかが明らかとなります。さらに、イマムの地位の妥当性もこれらの文の中に暗示的に認めることができます。イマムは神によって指名された制度であり、その最も著名なるメンバーであるバブ自身はその直系の子孫でありました。又それは260年もの間続き、「全能なる御方」の導きを受け取る選ばれし人となり、又、イスラム教の最も貴重な二つの遺産のひとつの保管所となったのでありました。

 

 さらに、この同じ予言はバブの律法時代の独立的性質を証言することを、私たちは認めねばなりません。又、累進的啓示の原則に従って、神のあらゆる顕示者は、その前の時代、そしてより感受性の小さな時代の人々が受け入れ理解できたことよりももっと豊富な神の導きをその顕示者の日の人々に与えなければならないという真理をこの予言が確証することも、私たちは認識しなければなりません。バハイ信教が本来備え持っていると言われるかもしれない優越な価値ではなく、今述べたこの理由によって、この予言は、バハオラの律法時代に与えられた比類なき力と栄光を証言するのであります。そしてバハオラの律法時代の潜在力については、私たちはやっと気づき始めたばかりであり、その全領域については決して決定することができないのです。

 

 私たちが、バハオラの信教のメッセージの重大な意味に忠実でありたいと望むなら、バハオラの信教は、まことに、連続する、予備の、そして累進的な啓示の最後の段階である周期の絶頂として見なされるべきです。アダムに始まりバブに終るこれらの啓示は、あらゆる時代の約束されたる御方が顕現さるべき、日々の中の「日」の到来をますます強調させ、その道を開きそれを予期していたのであります。

 

  この真理については、バハオラの発言が十分に証言します。熱心な詩を説得力でバハオラ自身くり返し述べられた主張について単に言及するだけでも、彼が選ばれたる使者である啓示の性質を十分に実証せずにはおられません。したがって、その真理の重要性と意味をよりはっきりと理解したいと望むなら、私たちは、それ程猛烈な啓示の源である、バハオラのペンから流れ出でた言葉に注意を向けるべきであります。バハオラが発された前例のない主張を述べること、彼が放った神秘的な力に関する言及、又は長い間待ちこがれた彼の日の栄光を賛美する文章やその隠された美徳を認識した人々が達成するであろう地位をほめたたえる文章、これらのいずれにおいてにせよ、バハオラと(そしてバハオラとほとんど同等な程に)バブやアブドル・バハは、この世代に生きる私たちの誰もが正しく評価することのできない、計り知れぬ程貴重な富の宝庫を子孫に残してくださったのであり、今の世代に属している私たちにはその真価を正確に評価することはできないのです。バハオラの啓示の性格をテーマにしている証言には、原本の言語に精通する者でなければ十分認識できないほどの美しさや威力が吹き込まれています。このような証言の数はあまりに多く、最も著名なものだけでも編纂しようと思えば一冊の本になるでしょう。現時点でせいぜい私にできることは、バハオラの数多い文書の中から抜粋したいくつかの文章だけを皆さんに提供することです。

 

 バハオラはこのように宣言しておられます「この啓示の偉大さ、その想像を絶するほどの偉大さについて神の御前にて証言する。人類が無関心に陥っている。目覚めさせるために、われは多くの書簡に何度も繰り返しこの真実を証言した。」彼は次のようにはっきりと断言しておられます。この最も強力な啓示において、過去の宗教はそれぞれの最高で最終的な完成に到達したのである。」「この卓越した、この最も崇高な啓示において現わされたことは前代未聞である。それは将来でも決して類を児ないものである。」ご自分のことを指して、バハオラはさらに宣言しておられます。「彼こそが旧約聖書においてエホバと名づけられた。福音書において彼は真理の精神と呼ばれ、コーランには大宣言として賛えられたのである」。「神が使者たちに予言の衣を着せ、それぞれの経典を啓示されたのは、ひたすら彼を顕わすためであった。全ての創造物はこれを証言する。」「唯一真実の神が今日発言される言葉には、その言葉が例え全くありふれた一般的な言葉であっても、崇高で独特な卓越性が備えられているのである。」「人類の大半はまだ未熟である。十分な能力を発揮していたならば、我が知識の中からもっと豊富な分け前を天と地に住む者らに与えたであろう。我がペンから流れ出ずる慈悲によって、彼らはすでに永続する平安を確立し、その玉座にしっかりと落ち着いていたことであろう。皆は神の知識以外のいかなる知識からも解放されていたのであろう。」「神の御前にて慎んで証言いたします。我が真っ白な額に、神の神聖なるペンが燦然と輝く栄光の字をもって、次のような神聖で光輝く、じゃ香を漂わすような言葉を書き込んだ。『見よ、おお地上に住む人びとよ。彼はまことにあなたの最愛なる御方である。天の住民もそれを証言せよ。創造界は正しく彼に並ぶものを見たことがない。彼の美しさに魂が奪われてしまうほどである。その美はすべてを定め給う、全能で無比なる神の眼をも楽しませたのである!』

 

 バハオラはキリスト教の世界に向かって次のように宣言されています。「福音書に従う者らよ、見よ!天の門は大きく開いている。天に昇っていた御方が今再来している。陸へも大洋へも、彼は全人類に向かって、声高らかにこの啓示の到来を宣言している。それに耳を傾けよ。この啓示を通じて神の荘厳なる舌は次のように発表しておられる。『見よ!神の約束が果たされた!彼、約束された御方が顕われた!』」「人の子(イエス)の声は神聖なる谷から呼びかけている。『おお神よ、わが神よ!ここにわれあり!ここにわれあり!』と…そして燃え盛る薮の中からは次の叫び声が聞こえてくる。『見よ!全世界の希望の的は、超絶的な栄光に包まれて顕わされているのである!』これは天の父の到来である。神の王国において約束されたことはすべて実現されている。息子(イエス)が周りの者らに「皆はまだそのみことばを聞くに耐えられない」とおっしゃったのは正にわれを暗示していたのである…まことに「真理の聖霊」は汝らをあらゆる真理へ導くために出現している…息子に栄光を与えた、息子の大業を高めたのは実に彼にほかならない」「助け主が現われた。彼の到来はすべての経典に約束された。彼はすべての知識や英知を汝らに打ち明けるために来た。地球の全表面にて彼を探し求めるがよい。願わくは、彼を探し出せんことを。」

バハオラは次のように書かれます。「おおカーメルよ、シオンに呼びかけよ、そして喜ぶべき知らせを告げよ−−−『人間の目から隠されたる方がやって来た!彼の全てを征服する主権は明かである。彼の全てを取り包む光輝は明らかにされた.....天より降りてきた神の市へと急ぎ、取り囲め−−−その神の市とは、神に気に入られたる人々、心の清き人々、最も高貴なる天使らの集まりが崇敬のためにその回りを巡ったカーバである。」彼はまた別の事に関して次のように断言なさります。「われは、イザヤの舌が誉めたたえた者、その名でトラと福音書が飾られた者である。」「シナイの栄光はこの啓示の夜明けの回りを巡ろうと急いだ。そして、王国の高地からは『神の子』の声が次のように宣言するのが聞こえる。『地上の高慢なる者なる汝らよ、身を奮起し、彼の方へと急げ。』カーメRは、この日において彼の宮廷に達したいという熱烈な思いで急ぎ、シオンの心からは次のような叫びがあげられる。『あらゆる時代の約束は今や、実現した。最愛にして、最も高貴なる御方である神の聖なる書の中で告げられたことは明らかにされた。』」「ヒジャーズは喜びの再会の知らせを告げるそよ風によって動いている。彼女が次のように叫ぶのが聞こえる。『あなたに誉れあれ、おおわが主、最も高尚なる御方よ。私はあなたからの隔離のために死んだようでありました。あなたの存在の芳香を乗せたそよ風が私に生命を取り戻してくれました。あなたに向かう者は幸いで、過ちを犯すものはあわれなものです。』」「唯一の、真なる神によってエリヤはわが宮廷へと急ぎ、昼夜、わが栄光の玉座の回りを巡った。」「ソロモンはその全威厳において、またこの日に、次のような最も高貴なる言葉を発しながらわれの回りを崇敬を持って巡った。『おお、世界の全能なる統治者であるあなたよ、私はあなたの顔へと私の顔を向けました!私は己に関するあらゆることから完全に離脱し、あなたが持っておられることを思い焦がれるのであります。」バハオラは、流刑植民地なるアッカに追放される前の晩に書かれた『書簡』の中で次のように書いておられます。「神の使徒なるモハメッドがこの日に達したなら、彼もまた、地にひれ伏しながら、また汝の神なる主の前で最もうやうやしい態度でこう叫んだであろう。『おお、天と地のあらゆる者の主なるあなたよ、私の心は安らぎで満たされております!あなたが、私の目の前にあなたの力の栄光の全てとあなたの法律の威厳の全てを明かしてくださったことを私は証言致します!』.....モーゼ自身がこの日に達したなら、彼も同様に声をあげてこう言ったであろう。『あなたの御顔の光を私の上に浴びせ、あなたの御顔を見る特権を与えられたる者のひとりに私をなさって下さったあなたに誉れあれ!』」「北と南の両方は、わが『啓示』の到来を告げる叫びのために震動する。メッカの声が次のように叫んでいるのが聞こえる。『おお、栄光に満ちたわが神なる主よ、あなたの存在の芳香に満ちた息を私に吹きよせて下さったあなたに誉れあれ!』エルサレムも同様に次のように声高く叫んでいる。『おお、天と地の最愛なる御方よ、私の、あなたからの隔離の苦悶を、生命を与える再会の喜びへと変えて下さったあなたに誉れあれ!』」

 

 バハオラは御自身の無敵の権力の最大の力を明示するのを望まれ、こう断言なさります。「神の正義にかけて誓う。もし人がたったひとりで、バハの名において立ち上がり、バハの愛のよろいをつけるなら、たとえ天と地の勢力が彼に対して戦闘体形をとったとしても、全能なる御方が彼に勝利を与えて下さるであろう。」「唯一なる神にかけて誓う!もしわが大業の勝利のためにいかなる者が立ち上がろうと、たとえ何万もの敵が同盟して彼に対抗したとしても、神が彼に勝利を与えてくださるであろう。そしてもし彼の、われへの愛がますます強くなるなら、神は、彼を天と地の全ての権力よりも優勢にして下さるであろう。このようにわれは、権力の精神を全ての地域に吹きこんだ。」

 

 バハオラは、自らの啓示の到来を目撃した時代を賛美してこうおっしゃいます。「これは『日々の王』であり、常に『世界の望み』として認められてきた最愛なる御方の到来を見た日である。」「生存の世界はこの日に、この神の啓示の輝きをもって輝く。あらゆる創造物はその救いの恩恵をほめたたえ、その賛美を歌う。宇宙は歓喜の極みに包まれている。これまでの律法時代の聖典はこの最も偉大なる神の日を迎えるべき偉大なる記念日を祝っている。この日をみるために生き、その地位を認識した者は幸いである。」「もし人類がそのような賛美のたったひと言に、適切な態度で注意を払うなら、圧倒され驚きにとまどってしまう程の喜びで満たされるであろう。」

 

 バハオラは次のように、人類に訴えられます。「汝ら、世界の人々よ、公平であR。その存在を『神と会話を交わしたる者』(モーゼ)が達したいと切望し、その御顔の美を『神の最愛なる者』(モハメッド)が見たいと望み、その愛の力によって『神の霊』(イエス)が天に昇り、そのために『最初の点』(バブ)が生命を捧げた者の権威を疑うのは汝らにふさわしいことであろうか?」バハオラは信奉者たちにこう勧告なさいます。「汝らの機会を逃すな。なぜなら、この日のほんの一瞬は過ぎ去った時代の何世紀よりも勝るのであるから.....太陽も月も、このような日をかつて見たことがなかった.....神の顕示者が生きたあらゆる時代は神によって定められ、それはある意味では神の約束された日であることは明かである。しかし、この日は独得であり、それまでの日々とは異なるべきなのである。『予言者の打ち止め』という称号はその高い地位を十分に明示し実証する。」

 

 自らの啓示に潜在する力について詳しく述べながら、バハオラは次のように啓示なさいます。「栄光のわが『ペン』の動きを通して、また、全能なる『命令者』の命令によって、われは、あらゆる人間の身体に新しい生命を吹き込み、あらゆる言葉に新鮮な力を付与した。あらゆる創造物は、この全世界的再生の証拠を宣言する。」彼はまた、こうつけ加えられます。「これが、この虐げられた者のペンが人類に告げた最も偉大で最も喜ぶべき知らせである。」彼は又別の節でこうお叫びになります。「この大業は何と偉大であることか!これが、次のように語られてきた日のことである。『おおわが息子よ!たとえその重みがカラシの種の一粒にすぎなくとも、又、それが岩や天や地に隠されていようと、まことに、神は全てを明るみにお出しになるであろう。なぜなら、神は鋭敏で全てに精通なさっておられるから。』「唯一で真なる神にかけて誓う!たとえ小さな宝石が失くなり、岩の多い山の中に埋められ、七つの海を越えた所に隠されたとしても、全能なる御方の手はこの日、必ず、それをかすから洗い清め、明るみにお出しになるであろう。」「わが啓示の水を取って飲む者は、初めのなき初めから終わりのなき終わりまで神によって定められた全ての清廉なる喜びを味わうであろう。」「わが口から出るあらゆる文字は、新しい創造を生じさせることのできる新生の力を授けられている。そしてその創造の規模は神以外の誰にも計り知れぬものである。神はまことに、全てのことを御存知でおられる。」「もしわれがそう望むなら、浮動する小さなちりが、またたく間に、想像できぬ程の無限の輝きを放ついくつもの太陽を生じさせ、一滴の露を広大な無限の海になし、過去と未来の全ての知識を明かすような力を、あらゆる文字に吹き込むことは、われに可能なことである。

 

 真の信者の地位を評価して、バハオラは次のように述べられます。「栄光にみちた御方の美を苦しめた悲しみにかけて誓う!真の信者の地位は非常に高いため、もしほんの少し、ごくわずかでもその地位の栄光が人類に明かされたら、それを見るあらゆる者は、それを得たいという切望のために焼き尽くされてしまうであろう。それ故に、この地球上の生活で自らの地位の栄光の全てはそのような信者の目から隠されるよう命ぜられているのである。」バハオラは又、同じ様にこう断言なさいます。「もしベールが上げられ、完全に神の方へ向い、神への愛のために世界を捨て去った人々の地位の栄光の全てが明らかにされたら、全創造物は物も言えぬ程あ然とするであろう。」

 

 これまでの律法時代に比べて、自らの啓示の優越な性質を強調して、バハオラは次のように断言なさいます。「もし世界の全ての人々が、バブの選ばれし信奉者たちである『生ける文字』たち−−−その地位は過去のあらゆる使徒たちが達した地位に比べて一万倍以上栄光あるものであるが−−−に定められたわが力と属性を与えられ、しかし、一瞬でもわが啓示の光を認めるのをためらったなら、彼らの信仰は無駄となり、彼らは不信心者として見なされるであろう。」「この律法時代の神の恩恵は大変豊富なので、もし人間の手が十分に敏速に書き記せるなら、ペルシャ語のバヤン全てに等しい数の節が流れ出でるであろう。」

 

 バハオラは自国の人々に対して次のように話しかけられます。「ペルシャの人々よ。わが忠告を注意して聞け。もし汝らの手によってわれが殺されたとしても、わが死によって空かされた役目を果たす者を、神が必ず生じさせてくださるであろう。なぜなら、神の昔からの効果的なやり方とはそのようなものであったし、神の処置の方法に変化を見いだすことはできないのだから。」「もし彼らが、その大陸への彼の光を隠そうとしても、彼は必ず海の真ん中にその頭を上げ、声を上げてこう宣言するであろう。『われは世界に生命を与える者なり!』.....そしてもし彼らが彼を暗黒の穴に投げ込んだとしても、彼が地球の最も高い頂に座って人類にこう呼びかけるのを彼らは見るであろう。『見よ!世界の『望み』は彼の威厳と主権と超越的統治権においてやって来たのである!』そしてたとえ彼が地球の奥深く埋められたとしても、彼の精神は天の最高点に舞い上がり次のような呼び声をとどろかせるであろう。『汝らよ、『栄光』の到来を見よ。最も神聖で慈悲深く、力に満ち給う神の王国を目撃せよ!』」次の言葉は又、驚くべき発言であります。「この『若者』の喉の中には次のような言葉が秘められている。それは、ほんの一瞬でも明かされたら、あらゆる山を崩し、木の葉の色をあせさせ、その実を落とし、崇拝と尊敬のためにこの全能なる『統治者』にあらゆる頭を下げさせ、その『統治者』の方へあらゆる顔を向けさせるのに十分なのである。そしてこの『統治者』は、様々な時に、様々なやり方で、焼き尽くすような火として、大きくうねる海として、輝かしい光として、そして神聖の土に根ざしその技を持ち上げ不滅の栄光の玉座までその枝を伸ばしそれを越えてその枝を広げる樹として、現れるのである。」

 

自らの法律の抵抗できない力が後の時代に展開するよう定められている組織を予期して、バハオラは次のように書かれます。「世界の均衡は、この最も偉大な、この新しい『世界秩序』の揺り動かす影響によって狂わされた。人類の整頓された生活はこの独特な、この驚くべき『組織』によって大革命をもたらされた。そしてこの『組織』は、その類を人間の目が未だかって見たこともないものである」「全能なる御方の手は、その啓示を、難攻不落の永続する基盤の上に確立なさった。人間の争いの嵐はその基礎を弱める力もなければ、人間のたわいない理論はその構造に危害を加えることもできない。」

 

 バハオラの最も意欲的な著作のひとつであるスラトゥル・ヘイカルの中には、次のような節が記されています。そしてその節のひとつひとつは、その「著作」によって宣言された啓示に吹き込まれた抵抗できない力について証言するのです。「わが聖堂には神の『聖堂』のみが見い出され、わが美には神の『美』のみが、わが存在には神の『存在』が、そしてわれ自身には神『御自身』のみが、見い出される。また、わが動作には神の『動作』のみが、わが黙従には神の『黙従』のみが、そしてわがペンには神の強力でほめたたえられた『ペン』のみが見い出されるのである。わが魂には『真理』の他は何もなかったし、われ自身の内には神のみを見い出すことができたのである。」「『聖霊』自身、この『最も偉大な精神』によって啓示された一文字によって生じさせられたのである−−−もし汝ら、理解できる人々であるなら。」.....[わが『英知』の宝庫の中には、啓示されていない知識があり、この知識のうちのひとつの言葉は、もしわれがそれを人類に明かそうと決めたなら、あらゆる人間が神の顕示者を認め、神の全知について認めさせられ、あらゆる者が全ての知識の秘密を発見し、過去と未来の全ての学識から完全に独立する程、高い地位に達するのを可能にするであろう。その他の知識をわれは同じ様に持っているが、そのたった一文字でもわれは明かすことはできないし、また人類は、その意味に関するわずかな言及を聞くこともできないのである。われはかく、全知で全てに賢明なる神の知識について汝に知らせた。」「その性質については神以外の誰も知ることのできない種の人々を、力に満ち、自力で生存し給う御方である神が、御自身の意志によって育てられる(生じさせられる?)日が近づきつつある。」「神はやがて、『力の奥底』から優越と勢力の『翼成者』たちを引き出されるであろう。そしてその『翼成者』たちはこの『若者』のために勝利を勝ち得んがために立ち上がり、追放者と不信心な人々の汚れから人類を清めるであろう。これらの『翼成者』たちは、神の信教を擁護するために困難に備え、自力に満ち強力なるわが名において地球の民族と親族たちを征服するであろう。彼らは諸々の都市へ生き、畏れをもってその住民全てを震いたたすであろう。それが、神の力の証拠である。神の勢力は何と恐ろしく、何と猛烈であることか!」

 

 親愛なる友人たちよ、バハオラの啓示についての彼自身の書き記された証言とはそのようなものです。バブの言明のひとつひとつは、これらの注目すべき言明の強さを強化し、その真実性を確証するのですが、それら、それの言明は私はすでに述べました。これに関して私が考慮すべき残されたものは、この魅惑的なテーマの様々な特徴にさらに光明を投じ拡大させるアブドル・バハ(アブドル・バハは、これらの同じ発言に関する、指名された「解説者」であります。)の文書の中にある節であります。アブドル・バハはの語調は、バハオラやバブの語調と同じように断固としておりますし、彼の賞賛の言葉もまた劣ることなく燃えるようであります。

 

 アブドル・バハは、初期のある「書簡」の中で次のように断言なさいます。『真理の太陽』が再びその真夏の輝きで輝くまで、又はその春の栄光の輝きにてもう一度現れるまでには、何世紀、いや、いくつもの時代が経過しなければならない.....この日、それ程圧倒的な恩恵を受け取る者にして下さったことに対してわれわれはどれだけ感謝しなければならないことか!それ程まれな特権、それ程高遠なる達成、それ程貴重な恩恵に感謝するために捧げるための一万の人生がわれわれにあったなら!」彼は又、こうつけ加えられます。「『祝福されたる美』によって始められた律法時代について熟考するだけでも、過去の時代の聖人たち−−−その律法時代の栄光の一瞬をともにあずかりたいと切望した聖人たち−−−を圧倒するのに十分であったであろう。」「過ぎ去った時代と世紀の聖人たちは全て、涙ぐんで、ほんの一瞬でもいいから、神の日に生きることを熱望したのである。その熱望は満足されずに、彼らは『偉大なるかなた(の王国)』と去って行った。われわれが全く値しないにもかかわらず、恩恵と慈悲によって、神が啓発なさったこの世紀に、われわれに生命の精神を吹き込み、世界の最愛なる御方の旗のもとにわれわれを集め、過去の時代の強力な人々が空しくも欲しがった恩恵をわれわれに授けようとして下さった『アブハの美』の恩恵はいかに大きなものであることか!アブドル・バハは同じようにこう断言なさいます。「天上の群衆の間の恵まれた人々や最も崇高なる『楽園』の聖なる住人たちは、この日に、『アブハの美』の敷居においてできる限りの奉仕をするために、この世へ戻りたいという燃えるような望みで一杯である。」

 

 アブドル・バハは「信教」の成長と将来の発展について言及する節の中で次のように宣言なさいます。「神の輝かしい慈悲の輝きは、地球の民族や親族をおおいこみ、全世界はその輝く栄光に浸されている.....神の唯一性の光は東西に広くゆき渡るため、誰ももはやそれを無視しようなど思わなくなる日がすぐにやって来るであろう。」「今や生存の世界において、神の力の『手』は、この最高の恩恵とこの驚くべき贈物の基盤をしっかりと確立させた。この聖なる周期の最も奥底に潜在するものは全て、徐々に現れ、明らかになるであろう。なぜなら、今はその成長の始まりであり、その印の啓示の夜明けにすぎないのだから。この世紀とこの時代が終る前に、その春がいかにすばらしく、その贈物がいかに神々しいものであったかが明白かつ明らかにされるであろう!」

 

 バハオラが言及なさった、真の信者の高い地位を確証するにあたって、バハオラは次のように啓示なさいます。「この啓示を真に認めた者が達する地位は、『不変性を与えられた』顕示者たちとしては見なされていないイスラエルの家系の予言者たちに定められた地位と同じである。

 

 バハオラの啓示の後に来るように定められた顕示者たちについて、アブドル・バハは次のように明確かつ重要な宣言をなさいます。「『雲の影において』将来やって来る顕示者質について。まことに、彼らの霊感の源に関する限りは、彼らは『古来の美』の加護のもとにあることを知れ。しかしながら、彼らが現れる時代に関しては、そのひとりひとりは『御自身の望むことを全てなさる』のである。

 

 アブドル・バハは、ある認められた権威と地位を持つ者にあてられた「書簡」の中で次のように語られます。「王国の主が、聖なる『樹』の真ん中で火をおつけになった不滅の『火』は、世界のいちばん奥底の心で激しく燃えている。その燃えさかる炎は地球の民族や親族を照らすであろう。全ての印は啓示され、あらゆる予言的言及は顕現された。過去のあらゆる経典に秘められていたことは全て明らかにされた。疑ったりためらったりすることはもうできない.....時は差し迫っている。『神の軍馬』はもどかしがり、もうこれ以上とどまることができない。突進し、時間のあるうちに勝利を得ることは、われわれの任務である。」そして最後に、心が高揚し、感動して、彼の使命の初期にその最も信用された著名な信奉者のひとりに語られたのが、次のような最も感動的な言葉であります。「これ以上、われはなんと言うべきであろう?わがペンはこの他に何を記すことができよう?『アブハ王国』から震動し伝わってくる叫びはとても大きく、人間の耳はその震動でほとんど聞こえなくなりそうである。全創造は、栄光の玉座から発された神の叫び声の衝撃的な影響によって崩壊され、粋々にされているように思われる。もうこれ以上、われは何も書くことができない。」

 

 親愛なる友人たちよ!世界の宗教の歴史上この独特な周期の崇高さについて、誠実な読者を納得させるのに十分なことが述べられ、また、バブとバハオラとアブドル・バハの書からも十分な数と種類の抜粋が引用されました。この周期の重要性を誇張し、それが及ぼした影響や、その偉大な組織が、崩壊する文明の混乱の最中に展開するにつれて及ぼすであろう影響について過度に評価することは全く不可能でありましょう。

 

 しかし、私の議論をさらに展開させる前に、これらの文を読む全ての人々に忠告の言葉を加えるのがよいように思われます。以前に引用した節に照らし合わせて、バハオラの啓示の性質について瞑想する人は、その性質やその「設立者」の意図を誤解したりしてはなりません。それ程偉大な「存在」にあると考えられる神性や、それ程高貴な「人物」に現れた神の名前や属性の完全なる顕現について、いかなることがあっても、思い違いをしたり誤って解釈したりすべきではありません。それ程圧倒的な「啓示」の乗り物となされた人間の聖堂である肉体は、もし私たちが信教の信条に忠実であるのならば、あの「最も内なる『霊』の『霊』や「永遠なる『本質』の『本質』とは常に全く異なるものであらねばなりません。その『霊』または『本質』とは、あの目にみえぬ、しかし理知的な神であります。そして、神は、私たちがいかに地球上における神の顕示者たちを賛美しようと、神の無限で不可知、かつ清廉で、全てを包み込む「本質」を滅ぶべき生存物の有形で限られた構造において化身として現れることはできないのです。まことに、自らの実在性に肉体の姿を与えることのできるような神は、バハオラの教えから考慮すれば、ただちに神ではなくなってしまうでしょう。非常に未熟で空想的な、神の人間化の理論は、それと同様に承認し難い多神教敵、擬人観的な神についての概念と同じように、バハイの信条の本質とはかけ離れ、矛盾しているのであります。この二つの考え方はバハオラの発言によって断固として拒否され、その誤りは暴露されています。

 

 数えきれぬ程の節において自らの発言を「神性の声、神御自身の声」であると主張なさったバハオラは、キタビ・イガンの中で厳粛に次のように断言なさります。「知ることのできない『本質』にして、『神性の存在』なる神は、肉体的存在、上昇や下降、前進や後退といったあらゆる人間的属性からは計り知れぬ程はるかに崇高であられることは、あらゆる認識力ある、啓発された心の持ち主には明らかである.....神はその『本質』の古来の永続性にこれまで常に隠されておられた。また、神はその『実在性』において人間の目からこれから永遠に隠されたままであられる....神はあらゆる分裂や結合、あらゆる近接や隔離といったことから超越した高い地位におられる....『神はおひとりであった。そして神の他にはだれもいなかった。』という言葉はこの真理の確実な証言である。」

 

 バハオラは神について次のように説明なさります。「太古から、『神性の存在』なる神は、その崇高なる御自身の言語に絶する神聖に隠されてこられたのであり、また、永遠に、その不可知の『本質』の不可解な神秘に包まれたままであり続ける....一方の予言者たちのひとりひとりがモーゼだとしても、彼らは探究のシナイ山の上で、神のお禁じになるお声『汝は決してわれを見る(ことができる?)まい!』という言葉に愕然とするのである。そして、無数の使者たちの各々がイエスのように偉大であるとしても、彼らはその天の玉座の上で、『汝はわが『本質』を理解することは決してできない!』という禁断の言葉にろうばいするのである。」バハオラは、神との会話のなかで次のように断言なさいます。「私のように取るに足らぬ者にとって、あなたの知識の聖なる深みを知ろうと試みることは何と圧倒的なことでしょう!あなたがお造りになるもの−−−あなたの創造的な力の啓示−−−に本来備わっている力の規模を私が心に描こうと努めるのは何と空しいことでしょう!」バハオラは自らの筆で啓示なさった別の祈りの中で次のように証言なさいます。「おお神よ、私をあなたに結びつける関係について熟考する時、私は、全創造物に対して『まことにわれは神である!』と宣言する気にさせられます。しかし、私自身について考える時、ああ、私は土よりも下卑たものであると思います!」

 

 バハオラはキタビ・イガンの中でさらにこう述べられます。「日の老いたる御方の知識の扉はかくのごとくあらゆるものの前で閉ざされているので、限りなき恩恵の『源』なる神は、それらの輝かしい『神聖の宝石』が人間の聖堂の高貴なる姿において精神の王国から現れ出で、全ての者に顕現され、彼らが不変の『存在』の神秘について世界に知らせ、その不滅の『本質』の神秘について語るようになさった....あらゆる神の予言者や神の好意を受けた人々、神の聖なる選ばれし使者たちは、例外なく、神の名の持参者であり神の属性の権化である....これらの『神聖の大礼拝堂』、不滅の栄光の『光』を映し出すこれらの最初の『鏡』は、『目に見えぬもののうちの目に見えぬもの』である御方の印にすぎないのである。」

 

 バハオラは、自らの啓示の圧倒的な強烈さにもかかわらず、本質的には、「神性の本質」自体であるあの目に見えぬ「本質」とは決して同一視されるべきではないこの神の顕示者たちのひとりとして見なされるべきであるということ、これは、私たちの信教の主な信条のひとつであります。この信条は、決してあいまいにされるべきではなく、その清廉性(全体性?)について信奉者の誰とても妥協することは許されるべきではありません。

 

 また、バハイ啓示は、予言的周期の最高点にあり全ての時代の約束の実現であると主張します。しかしいかなることがあっても、それ以前に現れた宗教の生命の原動力であり基礎となる第一の、そして永遠の原則を無効にすることはありません。それらの宗教のひとつひとつに神から与えられた権威を、バハイ啓示は、その最も堅後かつ究極的な基礎として認め、確立するのです。それは、これらの宗教と、神性で分割できないひとつの宗教の、永遠に続く歴史と不断の進歩の異なる段階としてのみ見なすのであります。そして、バハイ啓示はこれの必要な一部分を成しているのにすぎません。バハイ啓示はこれらの宗教の起源が神にあることをあいまいにしようとするのでもなければ、またその巨大な業績の認められた重要性を低く見せようとするわけでもありません。バハイ啓示は、これらの宗教の特徴をゆがめたり、それらが教える真理を無意味にする試みを奨励することもできません。バハイの教えは、他の宗教が内に秘める真理からほんの少しでもそれることはありません。また、そのメッセージの重要性は、他の宗教が及ぼす影響やそれらが呼び起こす忠誠をほんのわずかでも減じることもありません。世界の宗教組織の精神的基盤を破壊するのを目標とするどころか、バハイ啓示の公言された不変の目的とは、それらの宗教の基礎をより広くし、それらの根本原則を再び述べ、それらの目標を調和させ、それらの生命を再び活気づけ、それらの一体性を実証し、それらの教えの始めの純粋性を取り戻し、それらの役目を調整し、それらの最高の望みを実現するのを援助することなのです。神によって啓示されたこれらの宗教は、ある綿密な観察者が生き生きと表現したように、「滅びるのではなく生まれ変わる運命にあるのであります....『子供は(時代?)は青年(時代?)に屈し、青年(時代?)は大人(の時代)?に屈しはしませんか?それでいて子供も青年も滅びることはないではありませんか?』

 

 バハオラはキタビ・イガンの中で次のように説明なさります。「『真理の発光体』であり神の単一性を反映する『鏡』である人々は、人々の魂を教育し、全ての創造物に恩恵を授けるために古来の栄光の目に見えぬ住み家から、この世に送られて来た。彼らが送られて来た時代と周期には、彼らは常に、最強の力を授けられ無敵の主権を与えられている....これらの聖なる『鏡』、これらの古来の栄光の『夜明け』は全て、宇宙の中心的『天体』にしてその本質と究極的目的である御方の、地上における解説者なのである。彼らの知識や力は神から来るのであり、彼らの主権は神から生じたものである。彼らの容貌の美しさは神の姿の反映に他ならず、彼らの啓示は神の不滅の栄光の印に他ならない....彼らを通して、無限なる恵みが伝えられ、彼らによって、決して衰えることのない光が啓示される....人間の舌は決して彼らの賛美を適切に歌うことはできず、人間の発言は決して彼らの神秘を明かすことはできない。」バハオラはまたこうつけ加えられます。「これらの天の『玉座』の『鳥』は全て、神の意志の天から送られ、神の抵抗できぬ信教を宣言するために立ち上がるのである。それ故に彼らは、ひとつの魂、同一の人物として見なされるのである....彼らはみな同じ大礼拝堂(神殿?)に住み、同じ天に舞い上がり、同じ玉座に座り、同じ言葉を話、同じ信教を宣言するのである....彼らはその啓示の程度とその光の比較的な強さにおいて違うのみである....これらの『離脱の真髄』によって神のある属性が外見的に顕現されなかったということは、神の属性の『夜明け』であり神の聖なる名称の『宝庫』である彼らが、それを実際には持っていなかったと意味することは決してない。」

 

 この啓示によって顕現された力が大きく、その『設立者』が創始した律法時代の範囲がいかに広大であっても、バハイ啓示が、人間に対する神の意志と目的の最後の啓示として見なされるということ−−−バハイ信教はそのような主張を否定するということもまた、心に留めておくべきです。バハイ啓示の性質と役目についてそのような考えをもつことは、その原因を裏切りその真実性を否定することになります。そのような考えは、バハイの信条の基盤を成す根本的原則と必ずや衝突することになります。その根本的原則とは、つまり宗教的真理は絶対的ではなく相対的であり、神の啓示は断続的または最終的ではなく、秩序正しく継続的かつ累進的であるという原則です。まことに、過去の予言者たちによって創始された宗教組織が発する(宗教の)最終性の主張に対してバハオラの信教の信奉者が断言的に否定することは、彼ら自身の啓示が最終であると主張することを自ら否定することと同様に明白かつ断固としております。「全ての啓示は終わり、神の慈悲の門は閉じ、永遠の神聖の夜明けから太陽はもう再び昇らず、永遠の恩恵の海は永久に静まり、古来の栄光の大礼拝堂(神殿?)から神の使者たちは顕現されなくなったと信ずること」は、この信教のあらゆる信奉者の見地からすれば、その最も大事にされた根本的原則のひとつから、重大で許しがたくもそれてしまうことです。

 

 すでに引用しましたバハオラとアブドル・バハの発言を参照することは、全く疑いの余地なく、この基本的原則の真理を確立するのに全く十分であります。同様に、「隠されたる言葉」の次の節は、神の啓示の累進性に関する寓意的な言及として、解釈できないでしょうか?またそれは、その「著者」が託された「メッセージ」は全能なる御方の意志と導きの最終的で究極的な表現ではないという「著者」自身の承認として解釈することはできないでしょうか?「おお正義の子よ!不滅の『存在』は夜、忠誠の新緑色の頂点から1サドラトゥル・モンタハへ行き、さめざめと泣いた。彼の悲しむ様を見て天上の群衆や天の王国の住人も嘆き悲しんだ程であった。そして何故にかくも嘆き悲しむのかと問われ、彼は次のように答えた−−−命じられた如くわれは忠誠の丘の上で期待して待っていた。しかし地上に住む人々からは忠誠の香りを吸いこむことはなかった。そうして帰るように呼び出され、われは見た。見よ!ある神聖の鳩たちは、地上の犬どものつめに傷つけられ苦しめられていた。そこで天の『侍女?』は彼女の神秘の邸宅からベールを脱ぎ捨て輝きを放ちつつ急ぎ出で、彼らの名前を尋ねた。するとひとつを除く全ての名前が告げられた。催促されて残りのひとりの名前の最初の文字を語った。すると天の館に住む住人たちがその栄光の住居から急いで出てきた。そして二番目の文字が述べられた時、彼らはひとり残らず、ちりの上にひれ伏した。その時、最も奥の聖堂から声が聞こえてきた。『それまでにせよ。もうこれ以上は断じて。』まことに、彼らがなしてきたこと、そして今だにしていることについて、われは証言す。」

1.?                                   

 アドリアノープルで啓示されたある「書簡」の中で、バハオラはさらに明白な言葉で、この真理について証言なさいます。「わが顔を隠しているベールは完全に上げられていないことを、まことに知れ。われは、われの時代の人々の能力に応じて、われ自身を明かした。もし『古来の美』がその栄光の全てにおいて明かされたら、人間の目は彼の啓示の輝かしい強烈さのために盲目にされてしまうであろう。」

 

 遠くさかのぼっては1863年、リズワンの園に到着したその最初の日に啓示されたスリ・サブルの中で、バハオラは次のように断言なさります。「神は、モーゼとイエスの後を継ぐよう使者を送って来られたし、これからも『終わりのなき終わり』までそうし続けられる。そうして、神の慈悲はその恩恵の天から断えることなく与えられるであろう。」

 

 バハオラはさらに、こうはっきりと宣言なさります。「われは自らのことを心配しはしない。わが懸念は、われの後に汝らに送られて来るものに関するものである。その者は偉大な主権と強力な統治権を与えられたものである。」そして再び、バハオラはスラトゥル・ヘイカルの中でこう書かれます。「われが啓示した言葉の意図することはわれ自身のことではなく、むしろわれの後に来る者のことである。それについては、全知なる御方なる神が証人であられる。」そしてバハオラはこうつけ加えられます。「われに与えたような仕打ちを彼に与えることなかれ。」(「われを扱ったように彼を扱うな。」)

 

 バブは、その文書のより詳細な節の中で、この同じ真理を支持なさいます。バブはペルシャ語のバヤンで次のように書かれます。「これ以前の全ての律法時代の目的は、神の使徒なるモハメッドの到来のための道を開くことであったことは明白かつ明らかである。さらに、モハメッドの律法時代も含めて、これらの律法時代は、カイムによって宣言された啓示を目的としたのである。同じ様に、この啓示の基礎となる目的は、これ以前の啓示と同じく、神が顕現し給う御方の信教の到来を告げることであった。さらに、神が顕現し給う御方の信教なるこの信教は、それ以前の全ての啓示とともに、その後に来るよう定められた顕示者を目的とするのである。そしてそれ以前の全ての啓示に他ならないこの顕示者の啓示も、その後に来る啓示のための道を開くのである。『真理の太陽』の出没の過程はこのように永遠に続くであろう。これは初めがなく終わりのない過程である。」

 

 バハオラはこれに関して次のように説明なさいます。「あらゆる律法時代において、神の啓示の光は人々の精神的能力に直接比例して送られてきたことを確信せよ。太陽を取って考えて見よ。地平線上に現れた時、その光線はいかに弱いことか。それが最高点に近ずくに連れて光線の熱と強さはいかに徐々に増して行くことか。その間、太陽はあらゆる創造物が、ますます強くなるその光に順応するのを可能にする。そして太陽は、その日没の地点に達するまでいかに着実に傾いてゆくことか。もし太陽がその内部に潜在するエネルギーを突然現したら、疑いなく、全創造物に害を与えるであろう.....同じ様に、もし「真理の太陽」が、その顕現の最初の段階に全能なる御方の摂理が授けた力の全てを突然啓示したら、人間の理解という地球は消耗し、焼き尽くされてしまうであろう。なぜなら、人々の心は、その啓示の強烈さに耐えることもできず、その光の輝きを映し出すこともできないであろうから。ろうばいし、圧倒され、人間は存在を停止するであろう。

 これらの明白かつ決定的な言明を考慮して、あらゆる真理の探求者に対して次のことを間違いなく明瞭にするのは、私たちの明らかな任務であります。つまり、唯一で不可知なる神の予言者たちは、バハオラ自身も含めて全て、「初めのなき初めから」神の恵みの経路として、神の単一性の解説者として、又、神の光の鏡や神の目的の啓示者として、神の真理と計り知れぬ意志そして神の導きを常にその程度を増加させながら人類に明かす任務を与えられているのです。そして彼らは、「終わりのなき終わり」まで、神の無限の力と栄光の啓示をより十分に、より強力に与え続けるのです。なぜなら、それは、バハオラから人類への「メツセージ」の核心にある偉大かつ本質的な真理の真実性を著しく確証し、またその真実性そのものひとつ別の証拠であるからです。バハオラがなさった祈りの次の節について私たちが心の中で熟考するのは、もっともなことで不可知なる命令の驚くべき啓示と、あなたが私に定め給うた悲しみや試練に対して、あなたに賛れあれ。ある時、あなたは私をニムロデの手に渡されました。またある時は、ファラオのむちに私を迫害させられました。あなたの全てを包み込む知識とあなたの意志によって、あなたのみが、私が彼らの手によって苦しめられた数え切れぬ苦難を見積ることがおできになります。そして再び、あなたの王国野恵まれた住人たちの耳に、先見の暗示ーーーその先見にてあなたは、あなたの知識によって私に霊感を与え、あなたの力によってその意味を私に明かされたのですがーーーを私がささやくようにされたという理由だけで、あなたは私を、不信心な人々の牢獄の独房に投げ込まれました。そして再び、私の首が不信心な者らの剣によって切られるようあなたは命じられました。再び、私は、人々の目にあなたの栄光ある単一性の隠された宝石を明かし、あなたの主権と永遠の権力の驚くべき印を示したという理由で十字架にかけられました。さらに次の時代に、カービラの平原で私に浴びせられた屈辱は何と激しいものだったでしょう!あなたの人々の間で私はいかに寂しい思いをし、その地において私はいかに無力な状態に追いやられたことでしょう!そのような私の屈辱に満足せず、迫害者たちは私の首を切り、それを高くかかげある地から別のある地へといき、不信心な大衆がじっと見つめる前で見せびらかし、強情で不信心な人々の座の上に置いたのです。後の時代に、私はつり下げられ、私の胸は、敵の悪意ある残虐行為の投げ矢の的にされました。私の手足はあ弾丸で穴だらけにされ、私の身体はばらばらに引き裂かれました。そして遂に、この日、私の裏切り者なる敵がいかに私に対して団結し、あなたのしもべたちの魂に憎しみと悪意の毒をもろうと常に企んでいるかごらn下さい。彼らは力の限り、その目的を達成することをもくろんでいるのです.....私の境遇は悲痛なものです。しかし、おお神よ、わが最愛なる御方よ、私はあなたに感謝致します。そして私の精神は、あなの御意向の道において私に降りかかった全ての事に対して感謝しております。私は、あなたが私にお定めになった事に非常に満足しております。そして私が苦しまされた苦痛と悲しみがいかに不幸なるものであっても私はそれを喜んで受け入れるものであります。」