注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。

Note: This is a provisional translation, not officially reviewed or approved by the National Spiritual Assembly. However it may be used for devotional gatherings and other similar purposes while indicating clearly these are provisional translations.

 

 

 

バハオラの書より

 

“友よ。今日という日、あなた方はそこから来る熱があなた方の全ての血流、骨髄及び前進に息づきの中に明らかに感じられる程に、又、全世界の人がその熱で日つけられて、「愛すべき者」の地平へ顔を向ける程に、神への愛の火で燃えあがっていなければならない。

 

 “繁みが燃え上がって、そこから、誠に神は我のみ全能にして、一人自立するものである。という呼びかけが燃え上がるほど激しい声で神の大業を教えよ。

 

 “即ち人間の声のみが、影響力を及ぼす3の本源であるから。その影響については、これは、その浄化作用に依存し、又この浄化作用は今度は、汚されることなき魂の純粋性によりどころを求める。又、中庸性について言わば聖書及び書簡集にすでに記されている如く、臨機応変の才と、知恵とに結びついていあんければならない。

 “中庸性は、誠に高く評価される。少しでも真理を求める全ての人は、後になって、自然と自分の探し求めているものの大部分を理解することが出来るであろう。しかしながら、最初からその人の受容力を超えた言葉が発せられると、その人は、それを聞くことすら拒否し、反対の声を挙げるであろう。”

 “正義とそして又、世俗の自我を捨て去ることは、神の教えを得る為に、最も偉大なる2つの光明である。この高みにまで到達する者は幸いでなり・・・”

 

 “汝らの中で、求むる真理に到達出来ない者があれば、その者との対話の中で、極めて親切な、そして善意ある精神をその者に示せ。少しでも高ぶることなく、自身をその者に優越することなく、又、その者以上に大なる才をあからさまにすることなく、彼をして目を開かせ、真理を会得せしめよ。”

 “現代に於ける人類の総体的義務は、神が人類に対してそそがれる恩寵を分ち得ることである。従って、誰も受け入れた恩寵の量の大小について気にすることはない。与えられた力の幾分かは、も人間の掌にあり、他の幾分かはコップ一杯であるかも知れないし、又、他の幾分かは、ガロン単位で分け与えられることもあろう。

 (バハオラの落穂集 P8)

 バハの子等よ!友情と仲間の精心で全ての人と交われ。もし、汝らが、その精心に達しているならば、又、もし、汝らが宝を持っているならば、そして他の者が宝を奪われている時には、最良の言葉と善でもって、彼らとそれを分ち合え。もし、それが受け取られたならば、最良の言葉と善意は報われたのであり、汝の目的は、達成せられたのである。誰かがそれを、拒否した時には、その人は捨てておいて良い。そして神がその人を、導いてくださるように希願せよ。その人に対して、不親切にならないように気をつけよ。親切な、思いやりの心は、人の心を強くひきつけるものである。それは、精神の糧であり、又、言葉の真の意味を覆う衣であり、智恵と理解と光の泉である。

 (落穂集 P288)

 “もし、汝が神の愛で燃えているものなら、又、全ての被創造物に優るものなら、汝の吐く言葉は、汝の耳を貸す全てに、火灯すことであろう。”

 (神聖なる正義の到来 P42

“即ち、神の民よ!永遠の真理である神の勝利を確信する者、地上に於ける神の軍勢であり、助力者である者達は、?聖なる書及び銘版に顕わされて来たし、又、それは、陽の輝けるごとく明らかなことである。これらの軍勢は、神の目にとまるほど多数の正しき行いであり、振る舞いであり、特質である。いやしくもこの日に、我々の大業を助ける為に立ち上がらんとし、又、大業への助力の為に、ほむべき行いを直実なる行いの軍勢を召集せんとするのが誰であろうと、この様に行動の影響は、疑いなく全世界に拡散し、広がってゆくものである。”

 (聖なる正義の到来 P20

 

U アブドウル・バハの書より

 

「今や、この現象の世界に対する愛着のガウンを剥ぐ時がきた。物質的世界から完全に断絶し、天使となりてこの広き精神的領土をくまなく飛んで教えを広めよ。」

 (聖なる計画の書 P11

 

「心が神の愛で満ち溢れ、神の言の葉を祝う舌を持ち、そして又、神の王国へ顔を向けて、汝らは、全ての人々に「大軍の主」の宣言としての福音をもたらさなければならない。どのような集いに入ろうとも、その上には聖霊が手招き、天上界が約束する御恵みの頂点が全ての人々を蓋っているということに疑いをいれてはならない。」

 (聖なる計画の書 P13

 

「求むる物はこれである―即ち、教え導く者の意図は純粋でなければならず、彼の心は何者にも頼らず、彼の霊はなぐさみ、彼の思いは平和にあり、彼の決意は固く、高貴にして寛大な心を持ち、そして又、神への愛につつまれれば、輝ける意識の光の如くであらねばならない。教え導く者がこの様になったならば、彼の清められた吐息は岩をも魅きつける。さもなくば、いかなる効果をももたらし得ない。魂が完全なものでない限り、どうして他人の欠点を正してやれようか。もし彼が、神以外のいかなるものへも顔をむけずにいるのでなければ、どうやって彼は他の者に厳しさを求められようか!」

 (聖なる計画の書 P20

 

「御恵み深き御方の約束と、最も位高き御方の助けを確信して、安らかであれ!この世界とその住人達から聖められ、純化されてあれ!全ての良き物に対する瞑想の方へ自身の注意力を好転せしめよ。地上のものや、その同類に対する愛着を切り捨て、自身の聖霊の本質が輝かしく喜びに満ち優雅なものになるようにせよ!そうして、固き決意、純粋なる心、喜びに満ちた精神、有弁なる舌を以て神の律令を宣布せよ。……」

 (神の計画の書 P3738

 

「神を信ずる者たちは、自己犠牲的であらねばならず、同様に神への愛に目覚めた者達への導きのろうそくとならねばならない。…」

「この様な神聖さを神の信者達が示せば、至るところで聖なるものの確信を得るであろうし、又天なる軍勢は、彼等に不断の筋金を入れるであろう。又最高の勝利を得るであろう。」

 (聖なる計画の書 P49

 

「おお、汝ら神を信ずる者達よ!自分達の数の少なさを嘆くな。五粒の麦が天上の恵みを得て実り、一方では数千トンの毒麦が実らず無に帰する。一本の実りある木が、社会の生命を息づかせ、一方では、数千もの野生の森の木が何の実ももたらさない。平地は小石で覆われているが、貴き石は少ない。一粒の真珠は数千の砂粒より貴い。特に、この一粒が偉大な値打ちをもたらし、神聖な慈しみに恵まれている時には。ほどなく、それより、数千の異なった真珠が生まれ出ずるときには。真珠が小石と交じり、小石の親しき友となるとき、その小石はこれまた真珠と変わってゆく。」

「心を安めるな。落ち着きを求むるな。束の間の世界の贅沢に身をゆだねるな。全ての愛着を断ち自由になれ。そして、全身全霊を挙げて神の王国に全体を以て立つ身となれ。天の宝物を得よ。日に日により一層輝かしく寺される者となれ。自身を契約のしきいにより一層近づけよ。精神的利益の、そして無数の光が夜明けを告げる場の宣言者となれ!

教え導く者達について言わば、彼等は、古きガウンを完全に脱ぎ去って、新しきガウンを着用せねばならない。キリストの言致を借りて言わば、彼等は再生の高みに到らねばならない。―即ち、最初に彼等は母の子宮より生まれ出でたのに対し、今度は、自身の自然の子宮より身を解き放ち、生まれ出でなければならない。ちょうど、彼等が胎児の世界の経験に今全く気づかずにいる如く、自身の現在の自然性の欠陥をも完全に忘れなければならない。彼等は、生命の水で、神への愛の火で、又、聖霊の吐息で洗礼されねばならない。少しの食物で満足せよ。そして、天上の卓上からは、自分の分前を多くとらなければならない。誘惑と強欲から自身を解き放たなければならない。そして精神に満ち溢れるようにせよ。精神の純粋なる吐息の力を借りて、彼等は石を輝けるルビーに、又、貝殻を真珠に変えねばならない。黒い雲が生々としたシャワーのような雨となる様に、彼等は黒き土壌をバラの園と果樹園に変えなければならない。彼等は盲しいた者に物を見せ、つんぼに言葉を聞かせ、又、輝きなき者に灯をともし輝かせ、死せる者を活きさせねばならない。」

(神聖なる計画の書 P52〜53)

 

 おお汝等神の召使よ!汝等が何かを話そうとするときはいつも、神の王国へ顔を向けよ!そして公平な心で話し始めよ!聖霊の吐息が汝等を助くる故に。

(アブドウル・バハの書簡集 P246)

 

 王国の主によって次のように言われる。もし誰かが神の愛で満ちあふれ、世俗から断絶した純粋な心をもって神の御言葉を宣布せんと立ち上がろうとすれば、大軍の主が、存在するものの核にまで通るような強い力で彼を助けるであろう。

(アブドウル・バハの書簡集 P348)

 

 凡ゆる条件の下で神のメッセージは伝えられてゆかねばならないが、分別をもって行われるべきである。公に行うことができなければ、隠密になされるべきである。信者達は魂を教育することにたずさわり、世界の人々が精神的な喜びを芳香を得ることが出来るような助けとならなければならない。例えば、もし信者達の各々が、それぞれ一人の怠慢に魂と友情及び正しい交際をもつようになり、全き親切心をもって彼等と付き合い、ともに生き、そしてその間、良き行いと道徳的な振る舞いで彼等を聖なる御教えと、天上の助言や教訓に導くならば、信者達は必ず徐々に怠慢の者をしてより高きに引き上げ、彼等の無知を知識に変えてしまうであろう。

 「魂は仲たがいをし易い。以上に述べられた様な方法はまず最初に仲たがいをとりのぞいた上で行われるべきであり、そうすれば世界に効果をもたらすであろう。」

 「もし信者の一人が、魂の怠慢な人々の一人に親切を行えば、又、完全な愛を持ってその者をして次第に、この者がどの様な方式で神への信仰が基礎付けられたか、そして又、その目的は何かということが理解出来るようなやり方で神の大業の現実を知らしむるならば、異常な、灰に帰せしむるような魂、又は、石のような、否、石よりも固くなな心の持ち主でなければ、疑いもなくこの者は変わってゆくであろう。

(アブドウル・バハの書簡集 P391)

 

 「もし汝が魂を導かんと欲すれば、凡ゆる状況に於いて堅固であること、善良であり、又、ほむべき属性と神的な特質を奥深く持っていることが義務づけられる。愛の御兆しとなれ、慈悲の冥布者となれ、優しさの泉となれ、親切な心を持て、凡ゆるものに対して善良で、神の召使達に寛容であれ、そして特に、汝とかかわりを持つ者に対して、男性であろうが女性であろうが、親切で寛大であれ。人々が汝にむける全ての試練を耐えよ。そして、それに対して親切心だけでなく大いなる愛と善意を以って立ち向かえ。

(アブドウル・バハの書簡集 P619〜620)

 

 「教え導く者は、教導に際して、彼の発言が炎に接するが如く、影響力を及ぼし、自我と情熱のヴェールを焼き尽くすように充分に燃えていなければならない。彼は、又、全く身を低くしていなければならない。そうすれば他の人々は善導され自我を押しつぶすであろう。又、彼は、細やかでなければならない。そうすれば、彼は気高き流れのメロディを以って教えることが出来るであろう。さもなければ何の効果もあらわさない。

 「信者達が神の戦況に努力しない時には、彼等は神の本質を忘れている。そして神の王国からの助言を確信の示唆を無視し、際なる不可思議を理解しようとしないのである。しかしながら、教導する者の舌が教えにたずさわっている時には、彼は自然に意気昂揚し王国の聖なる助力と贈り物をひきつける磁石となり、夜明けの鳥の如くになる。即ち、自分の歌声、さえずりやそのメロディに自身で、活気づくようになる。

 聖なる教えに従えば輝ける天の配列に於いて、誰をもみくびってはならないし、又、「お前は知らないが私は知っている」とか言って、誰をも無知扱いしてはならない。むしろ我々は、他人を尊敬しなければならない。そひて、説明や教示を行おうとするとき、我々は以下の如くに言って、真理を探究するかの如く話さなければならない。即ち、「これこれのことが我々の眼前にある。どこに、そしてどんな形態で真理が見出されるか、判っきりとしらべてみよう。」

 「教導する者は、自己を知識あるもの、他を無知なるものとしてはならない。この様な考えはうぬぼれを生み、うぬぼれは、感化に際して悪い影響を及ぼす。教導する者は、自分自身優越していると思ってはならない。即ち彼は、最上の親切、謙虚、そして卑下をもって話すべきである。なぜならば、この様な言到こそ強い影響力を持ち魂を導くのであるから。

 この様な現代に於いてこそ、神の信奉者がチャンスをつかみ、機会を得て素早く前進し、賞を得るのである。もし彼等が良き行いと助言だけを義務として行うならば、何事も成熟し得ない。彼等は全て判っきりと語らねばならむし、明確に証明し、穀然たる議論を行い、現実の太陽が啓示する真実も反論の余地なく結論しなければならない。

 

 

P31、32、33、34

 

 

等を助くるように。

 “神の友等は、他の者達と仲間のきずなを編みあげねばならない、そして彼等に対して絶対的な愛と慈悲を示さなければならない。この様な深いつながりの輪は人々に対して強い影響力を持ち、それ故に彼等は言うことを聞くのである。友等の各々が神の言葉に気が付く時には、彼等は、智恵を働かせて「メッセージ」を伝えるべきである。彼等はまずかれが教えている人々にいかなる偏見も取り除くようにやってみなければならない。事実、信者の各々は、教えの相手との間に何の懸念もないようにする様、毎年一人の人を選び彼との友好関係を打ち立てるように努力すべきである。こういう状態に於いてのみ、又少しずつ徐々にその選んだ人に教えなければならない。これが最大の方法である。”

 “汝等は天主の方法に従え、そして、聞くに耐えないような事を口にするな。なぜならば、この様な言辞は幼児に甘ったるい食べ物を与えるようなものである。いかに味が良くても、それは、乳飲時の消化器官に合わない。それ故、権利をもつ者の個人別に、彼に適した一定の尺度が与えられなければならない。

 “人の知る全てが明らかにされるべきではなく、又、彼の明らかに出来る全てが時宜を得たものと見なされることも出来ないし、又、全ての時宜を得た発言が、それを聞くものの受容力に合っていると見なされることもできない。汝の遂行する教導に於いてみられる完全な智恵とはかないような物である。汝がもしいかなる条件の下にでも活動的でありたいと欲するならば、このことを忘れてはならない。まず第一に病気を診断し、疾患を証明せよ。それから初めて、療法を指示せよ。名医の完璧な方法はかようなものだから。

“誰とも議論をするな。紛紏に際しては用心深くあれ。真理を明確に述べよ。汝に耳をかたむけている者が、真理を受け入れるならば、目的を達成出来たのである。もし彼が、頑固者であるならそのまま捨てておいて良い、そして神に信を置け。「契約」を固く信じる者の資質はかようなものである。”

“今日では、各々の信者が「信教」を教えることに周囲を集中しなければならない。おお神に愛されたものよ!我が友の一人一人が、少なくとも毎年一つの魂を導かねばならない。これこそ永久の光栄である。これこそ永久の徳である。”