注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。

Note: This is a provisional translation, not officially reviewed or approved by the National Spiritual Assembly. However it may be used for devotional gatherings and other similar purposes while indicating clearly these are provisional translations.

 

 

 

第一部

実証重範の持つ原動力

 

このペンの示したあらゆる聖句は

気高く信仰心深い生活と純粋にして

汚れなき行為の輝きを明らかに示す

燦々と光り輝く門戸である。

――バハオラ

 

 

 

 

 

模範と人類に対する神の御目的

 

 世界秩序を展開させて行くには、バハオラが今日明らかにされているように、人類に対する神の御目的を実現させようと自らを捧げる人々の数がどんどん増えて行くことが直接に必要である。[1]かような献身の特貭は、バハオラの教に献身して立上った信徒達の行動にどの程度反映されるか、その度合いによって測られる。バハイ生活の本質そのものを形成している態度や価値は、その者の行動の基礎となっている。この世で見るものを、どう判断するか、それによって、どう信じるか、また世の中のあらゆるものに、どう反応するかは、これらの態度と価値判断とによって、決まるのである。

バハオラによって高く掲げられた聖な基準に自分を従わせたいと望むならば、自分の意思や希望を、神の思召しに沿わせたい希望で一杯になるよう自分の態度や価値を変えて行かなければならない。こうする時にのみ神の「聖な思召しやお歓びが・・・その者の内部を支配し、神の永遠なる御心のペンが彼のために定め給うたことに従って彼の心の内を支配し導き給う。」[2]

かような態度は、信頼性、崇敬、清潔、謙遜、潔白、節制、品位及び清浄な心等、神の特性を反映するものを、残らず含んでいる。[3]それ故我々は、言葉、衣服及び芸術的研究、家庭、仕事場、学校、娯楽及び仲間との相互影響が、その者のもつ価値とそのものの生命を貢献した目的を宣言するように、これらの態度を本質的なものとしなければならない。バハイ共同体の発展の度合いと、質の良否は、神の人類に対する御目的の理解を、たゆみなく深めようとし、また人類に対する神の御計画の救世的機能を各人の実証垂範の強大な威力によって示そうとする各信徒の決意によって左右される。

バブ、バハオラ、アブドウル・バハ及びショーギ・エフェンデイは異口同音に、実証垂範による布教は、他の総ての布教方法中抜群であると断言しておられる。バブは、「生ける文字達(バブの使徒達)」に呼びかけて、こう言われた。

おお我が親愛なる友等よ!あなた方は、今日に於ける神の御名の担い手である・・・神の特性を明示し、あなた達の行動と言葉とによって、神の正義、神の威力と栄光の印を例証することは、あなた達一人一人の義務である。あなた達の身体の各器官は、あなた達の目的の高いこと、あなた達の信仰の本質、及びあなた達の献身の崇高な性格を立証しなければならない。・・・空虚な礼拝で十分だと思われた時代は終わっている。汚れのない純潔な行いによって指示された最も純粋な動機以外の何ものも最高の王座に登ることはできず、また神のご嘉納が得られない時代がきている。[4]

 おお我が友等よ!

汝等過誤の灯を消せ。そして汝等の心の中に聖なる導きの永遠に消えることなき灯火を燃やせ。やがて人類の試験者等は、崇拝さるる者の聖き面前において最も純潔なる美徳と汚れなき神聖なる行い以外は何も受け付けぬであろう。[5]

 泥沼に落ちて死にそうになっている人を救い出し、その者が昔ながらの神の道を信奉するよう援助することを、あなたの主要な関心事たらしめよ。隣人に対するあなたの態度は唯一なる真の神の御印を明らかに示すようでなければならない。と言うのも、あなた達は、神の精霊によって創造される人々の中の第一人者であり、神の前で礼拝し、膝まづく第一人者、神の栄光の玉座を取り巻く第一人者であるからである。[6]

 バハオラは、行為、振る舞い、及び品性を神の大業の勝利を保証する要素として選ばれている。唱えよ、おお神の人々よ!永遠に真理なる神、地上にある神の軍勢及び援助者達の勝利を保証し得ることが多くの聖典や聖書の中に書き記されており、太陽の如く判然と明白である。これらの軍勢とは、神の御前で御嘉納に預かる程正しい行動、行為及び品性のことである。よしんば今日誰が我々の大業を援助しようと立ち上がり、あっぱれな品性と正しい行為の軍勢を彼の援助に招こうとも、かような行動からほとばしり出るその影響は最も確実に世界に隈なく発散されるであろう。[7]

 おお神の人々よ!あなた自身の関心事に没頭するな。人類の運命を回復し、人々の心や魂を聖別することに、あなた達の考えを固定せよ。このことは純潔で気高い行為により、また徳の高い生活と立派な態度によって最も良く達成されることができる。勇敢な行動は、この大業の勝利を保証し、気高い品性は、その力を強化するであろう。おおバハの人々よ!正義を固守せよ。これぞ誠に、この虐げられた者が、あなた達に与えた命令であり、あなた達一人一人に対する神の拘束されない御意が第一に選択されるものである。[8]

 更に彼は御自身の使命の目的そのものと、よい行いを実証し垂範することは同一であるとされた。

 唯一なる真の神がご自身を現し給うたその御目的は、全人類を誠実と誠意に、敬虔と信頼性に、神の御意への従順と服従に、寛容と親切に、高潔と英知に招き奮起させることにある。神の御目的はあらゆる人に気高い○性の外套を着せ、気高い良い行いの装身具で着飾らせることである。[9]

 アブドル・バハもまた、行為の重要性を強調され、それらが聖約に忠実であることに如何に関連があるかを説明しておられる。

      おお神の軍隊よ!祝福された美(バハオラ)によって授けられた保護と援助によって――――私の生命が神の愛し給う者達の犠牲となれかし――――あなた達は他の人々の中の太陽のように際立って光り輝くよう振舞わなければならない。もしあなた達の中の誰かが町に入ろうとするなら、その者は、世の総ての人々に対し、その誠実さ、忠実さ、愛情、正直、忠誠、信頼性及び慈愛等によって、注目の的にならなければならない。そうすれば、その町の人々は叫んで「この人は疑いもなくバハイである。何となれば、彼の行動、態度、行為、徳性、性格及気質等は、バハイの特性を反映しているからである。あなた達が、この地位に達するまでは、聖約や神の聖典に忠実であったと言われることは出来ない。[10]

シヨーギ・エフェンディは、世に処する重要な役割を力説し、はっきりさせておられる。

真のバハイとしての生活を自ら送るまでは、我々の唱えている数の創造的性格転換の能力を示そうと望むことは不可能である。[11]

數の力によるのではなく、一組の新しい崇高な原則の単なる説明によるのではなく、布教の組織立った遊説によるのではなく―――たとえ、その性格が、よし、世界的に広く、また、どんなに苦心して作り上げられていようとも―――我々の信仰の堅固さ、或は我々の意気込みの昂揚によるのでもなく、我々は結局懐疑的時代に直面して、アブハの啓示の崇高な主張を辯護しようと望むことが出来る。それは一つのこと、たった一つのことが、この聖なる大業の疑のない勝利を只獨り確実に保証するであろう。それは即ち我々自身の内的生活及び個性が多くの面に於て、バハオラによって宣言されたあの数多くの不滅の原則の光輝を反映する度合に掛っているのである。[12]

万国正義院もまた世界の人びとにバハイ生活の感化、性格転換の効果を強調している。

我々の仕事は、バハオラの世界秩序の建設にある。政治的、経済的、社会的あるいは教育上の問題で、人間の生活を揺り動かす暴風雨を鎮めようとする人びとの捨て鉢な手段によって片寄らせられずに、純真な献身と我々の目標に向って全部の努力を集中してあの聖なる組織制度を高め、その堅固な砦の中に身を隠し、疑いの矢から身を守り、バハイとしての生き方を示そう。どこに、バハイ共同体があろうと、大きかろうと小さかろうと、安寧と信仰を守る精神、高水準の清廉さ、あらゆる型の偏見からの完全な離脱、その構成員間の愛の精神の点で他と識別させよ。これと現代社会との間の鋭い差異は比較的高度に啓蒙された人々の関心を必然的に高めるであろう。そして世界の暗黒が深まるにつれて、バハイ生活の光は、ますます明るく輝き遂には、その光輝は、幻滅を感じる大衆を引き付けて、彼らをバハオラの聖約の天に入らせるに違いない。バハオラその御方のみが彼等を平和と正義と秩序ある生活に入らせることができるのである。[13]

 上記の声明は、バハイであるということは、言葉上の信仰告白よりも、もっと著しく深い意味を持っていることを絶対的に明らかにしており、それが人類に対する神の御目的と一致する生活を送ることを意味しているのである。繰り返し繰り返し、バハオラは、この原則が第一位にあることを断言しておられる。

 信仰の精髄は言葉が少なく行動が多いことである。言葉が行動に優先する者は、誠に彼の死の方が生命よりまさっている・・・[14]

 

 

 

 

例証模範の原動力

 

 今日人類に対する神の御目的は、「水と粘土から創られた総ての物の上に聖なる御袖を投げかける」「比べるものもない程優れた品性を持つ一つの民族」[15]の住む世界秩序を建設することであるということと、また人類が、そういう世界文明に向って前進することが出来る最大の方法は、「純潔で聖らかな行為により、また高潔な生活と善良な態度」[16]によるということを一度悟るならば、我々の日常生活の中に模範を示そうとする原動力を発生させようとする要求に直面させられるのである。我々は、バハオラの教えの感化力を実証する生きた証明とならなければならない。

 世の中は退廃の暗黒に向って並々沈退しつつあるから、その悪化しつつある状態に対抗しようとする生活方法に対し、魅惑が感じられるであろう。バハイ信徒達が、その行動によって、世の中の行き方から自身を区別させる度合いは、人類が答を求めて、この信教に面を向ける程度を決定するであろう。バハイとしての生活を行うことの効果は磁石に似ている。力強く新しい生活法を示せば示すほど、ますます強く人類はその方に引き付けられるであろう。

 バハオラは純潔で善良な行動の中に備わっている力によって言及されて、こう述べておられる。

      一つの正しい行為には、人間を最高の天上まで届くほど高く引き上げることの出来るほどの力が備わっている。それは、あらゆる絆をずたずたに引き裂くことが出来、また使い果たして消滅した力をも回復させる能力を持っている・・・[17]

 正しい行為と善良な行動とは、人々を神の教えに引き付ける。それらは、神の創造的言

葉の威力の現れであるからである。バハオラやアブドル・バハの書かれたものの中で読ん

だことを実行に移す時、その者は、その威力が流れ出して、他の人々に影響を及ぼす回路

となる。このようにして、ある者の行為が、バハオラの示されたように、人類に対する神

の御目的と合致する時、その者は神の御目的を他の者達に、はっきり分からせる一つの道

具となるのである。ある人が人類に対する神の御目的が、他の人の行動の中に反映されているのを見る時、その霊化された行動によって放射された威力が、順を追ってその神から与えられた御目的に応えようと、あこがれる彼の真の自我と接触するようになる。かような行為は、その者の本質の根本的な持長即ち、その者の態度と価値とを納得できるように、はっきりと示すから有効なのである。神の特質を示す生活をすることは、その教えの感化力(性格転換能力)を自明なものとする。ところが、バハイの基準を著しく汚す行動は、信教によっての千もの雄弁な説教の信頼性を傷つけることができる。力強い模範となろうと努力する根強い頑張りは、そのものの信仰の誠実さを測る尺度であり、また神の大業の宣布者としての有効性の最終的な尺度でもある。

 個人の信徒に宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた書簡の以下の抜粋はバハイの範例を示すことの有効性を強調している。

 誠に、もし友人達が百パーセント、バハイになりきろうと望んで努力することができたとしたら、他の人々に対する自分達の影響がいかに大きく増大され、大業がいかに速やかに広まるかが分かるであろう。世の中は、妥協を求めているのではなく、高く輝かしい理想の具現を求めている。友人達が、その生活のあらゆる面で、家庭において、仕事において、社交関係において、我々の教えに従って生活すればするほど、ますます彼らが他の人々の心に及ぼす魅力は増大するであろう。[18]

 我々は皆が皆、同一の方法で奉仕することが出来るのではなく、各バハイ信徒が、この教えを広めることの出来る唯一の方法は、実証垂範によることである。このことは、言葉で出来るよりも、もっと深く我々が他の人に示す愛情、歓待、これらは信教の最良の宣伝である。彼らは、我々の生活の中にある、これらのことを見る時、信教によって聞きたいと希望するであろう。[19]

 バハイ信徒の行動によってある人がバハオラの教えを研究しようと動かされたことを知るより、バハイにとって、より大きな賛辞あるいは報酬はあり得ないのである。

 バハイ信徒の実証垂範の効果が直ちに明らかに現れるとは限らないであろうが、その背後にある原動力は、バハオラを通して我々に知らされた神の御心であるから、その影響力は持続するであろう。このようにして、人々の行う行為は、仲間達に対し「唯一の真の神の御印」となることが出来るのである。[20]

 神の特性を現し、あなた達の言行によって神の正義と威力と栄光の御印を実証することは、あなた達一人一人の義務である。[21]

 

 

 

実証垂範は個人を確固たら締める

 

 実証し模範を示す原動力は、人類に対する神の御目的を他の人々に觸れさせる働きを持つばかりでなく更に、その行動を行う個人の上にも影響を及ぼすものである。との雙方に及ぼす影響は、その者がバハイの教に従って行動する時に受けられるのである。徳の高い行動は人をますます神に接近させ、神の恩恵と偉大な御力に引き寄せることが出来、バハイの教に矛盾する行動を容易に避けさせる。人が神に接近するにつれて、その者の幸福は増大して来る。彼が仕合せであると、一層 びやすくなり歓 と愉快が一層しばしば起るようになる。人類に対する神の御目的を反映する行動に伴って幸福は、その者を一層愛されるようにする。愛されるようになることは、友人達との相互作用の質が改善され、友人達も代って一層容易に彼を愛するようになることを発見する。

 人の内面的生活が神の御目的に近く構成される時、またその者の態度がその御目的の統合された表現を示すとき、彼はまたバハイ共同体の和合に貢献する。要するに模範を示そうと努力することは、その者の信仰を強化することに役立ち、行動の背後にある信仰と原則とは、天上の領土からの確証と、仲間達からの援助によって一層しっかりと根付くようになる。その者は聖約を一層堅く守るようになり、彼の「純潔で気高い行い」は、ますます強くなって来る。

 

実証垂範が世界秩序を建設する

 

 人類に対する神の御目的に一致した態度は、他の人々に力強い影響を及ぼし、その者の信仰を、強固にするばかりでなく、またバハイ共同体をも強固にする。バハい生活を送るときは、バハイ共同体内のほかの人々に同様に行動するよう激励する。共通の目的に向って努力することは、それを一層たやすく達成させる。共同体内の各員は、互いに援助し合い全く潜在している力を引き出し、最大の御名の共同体にふさわしい特性を反映する社会生活を作り出す。

 バハイ共同体が、集団的にバハイ生活を示す能力が生長して来るにつれて、その共同体は、実証し垂範する原動力を社会的の水準で運用するようになる。そのバハイ共同体は、全体として社会に影響を及ぼし初める。そして新しい信徒の登録によって、バハイとしての生活をしようとする自分達の努力が一層強められる。万国正義院は、全員参加に関する書簡の中で友達が「互いに愛し合い、常に互いに励まし合い、共に働き」一つの身体の中の一つの魂のよう」である共同体は「その精神によって鼓舞され、明るくさせられた真に有機的な健康体となる。このような身体に於いては、万事は精神的な健康と活力とを有機体そのものから受けるであろう。そして最も完全な花と実が咲き、また実るであろう」かような共同体は、世界秩序へと人類を推進させる有力な力となる。

 

 

 各信徒は、バハイ共同体の強化及び世界秩序の建設に重要な役割をつとめる。生活上のそれぞれの勤め、即ち農夫、医師、芸術家、主婦、学生等には関係なく、各信徒は、各自の精神的な特質を高め、どんな状況下にあっても、そのものの能力の最高まで神の美徳を実行しようと努力することが出来る。全員参加の同一の書簡の中で、万国正義院は、次のように説明している。

 布教に加えて、各信徒は、祈ることが出来る。各信徒は「自身の内面的生活と、個々との特質を多くの面に於いて、バハオラにとって宣言された、あの数々の不滅の原則の光輝を映し出すよう努力することが出来る」―――その結果として、もし各信徒が銘々それらの聖な義務を実行するならば、その結果として全体に及ぼす力を生じ、それは順繰りに並々増大していき、我々総ての上に祝福の雨を降り注ぐほどの力となって、再び作りさせられるであろう。10

 

教えの宣布と実証垂範

 バハオラは大業を布教する義務とその教の生きた説明者となることの必要性との間の関係を述べて次のように言われた。

 神は、その大業を布教することの義務を各人に命じられた。その義務を果たそうと立ち上がるものは誰でも、神の伝言を宣布する前に正しく賞賛に価する品性の装身具で是非とも自らを飾らなければならない。そうすれば彼の呼びかけを受け入れようとする人の心を引き付けるであろう。それがなければ彼を支持する人に影響を与えようと望むことは決して出来ない。11

 

 主なる神の教えを宣布しようと、あなた達の中で立上がる者は誰でも、その説教が彼を支持する人々の心を引き付けるように、何をおいても先ず第一に自分自身に教えよ。自分自身に教えなければ、その者の口から出る言葉は、道を求める人の心に影響を与えないであろう。

おお人々よ、良い忠言を他の人たちに与えはするが、自らは、それに従うことを忘れるような者達にはならないよう注意せよ。このような言葉が、また、その言葉を越えて万物の本質が、また更にこれらの本質をこして神のお側にいる天使達が、彼らに対して、虚偽に対する告発を行う。12

 

ショーギ、エフェンディは、生活を実践して布教する威力と、言葉や議論による布教とを比較しておられる。

 それは先ず第一に気高い行為と品性の力によって、次で神の友達が、神によって約束されたことが起りつつあること、また神の福音が、はっきりと明瞭で完全であることを世に示すべき説明と証拠の力によるのである。実に誰か著名な人たちが奉仕の道場に足を踏み入れて、人々の集団の中で、きらきらと輝きだすのでなかったら、世の啓蒙された人々の前に、この大業の真理を立証する仕事は手ごわいものとなるであろう。しかし友人達が善良な品性の権化であるならは、言葉や議論は必要ではないであろう。彼等の行為そのものが、神の大業の保護、保全及び栄光を確保するであろう。13

我々の内面的(精神的)生活の転換に関するバブ、バハオラ、アブドル・バハ及びショーギ、エフェンディの所説の完全な意味を理解するには、その者のために例証された「立派な品性と特性の権化達」をぜひ見る必要がある。その者は一人の範例(一人の信頼すべき模範)を必要とする。 

 

 

 

 

アブドル・バハ

完全なる実証垂範者

 日常生活の中で、我々がこの教えを実行しようと努力するに当たって、主な手引きとも見本ともなるものは、アブドル・バハ其の御方である。世界の歴史上初めて我々は、ここに人間でありながら神の予言者の御意を言行一致して完全に反映されているお方を見ているのである。バハオラが、アブドル・バハを聖約の中心に任命された際、彼が御自分の令息に与え給うた絶対的に誤りのないものという堅い信頼度は言葉では言い尽くせないものがあった。「神の御言葉の解釈者」としての役割に加えて、アブドル・バハはまた「神の教えの完全な実証垂範者でもあった。―――あらゆるバハイとしての理想の権化、あらゆるバハイの特性の化身―――」このように、アブドル・バハの行動と、その反映した意志とは、人類のための神の御目的の誤りのない現れであった。

「バハオラの宗教性」の中で、この教えの中心人物であるかたがたや管理運営体制に関するある根本的な真実性の概略を示す書簡の中で、ショーギ・エフェンディは、アブドル・バハの地位について十分な記載を提供している。

 

 彼(アブドル・バハ)は、バハオラの比べ物のない万物を包容する聖訳の中心であり、中軸として第一位の主要なものであり、また常にそう見做さるべきものである。神の最も気高い作品、神の光の御言葉の正しい解釈者、あらゆるバハイの理想の権化、あらゆるバハイの特性の化身、古来の根から出た最も有力な技、神の掟の手足、総ての名称の取り巻く本体、人類統合の推進力、最大平和の旗手、この最も神聖な宗教性の中心天体の月、―――以上は、アブドル・バハという魅力ある名前の中に潜在的に含まれている最も真実であり、称号である。彼は、これらの名称を遥かに超越した「神の神秘」である。―――この名称は、バハオラが自らアブドル・バハを呼ぶために選ばれたものである。そして、それは彼をどうしても預言者の地位にあてがう正当な理由はないが、アブドル・バハという人物の中に人間としての性格とは相容れない超人的知識と完全さが、混ぜられており、完全に調和されている。

 

神が完全な実証垂範者という贈り物を人類に授け給うたことは、人類が到達するよう命じられている教の偉大さと、高度の完全さが証明している。アブドル・バハの身体の中に人間としての完全さが具現されていることは、人間として感謝の度合いがいかにも大きなものであるに相違ない。バハオラは、枝の書の中で、こう宣言しておられる。

おお人々よ、彼の出現に対して神に感謝せよ。何となれば、真に彼は、あなた達への最大の恩恵、最も完全な賜物であるからである。また彼によって、あらゆる朽ち果てる骨は生き返らせられる。彼に面を向けるものは誰でも神を仰いで来たものであり、彼から面を背けるものは、わが美から面を背けた者であり、我が証言を拒み我に違反した者である。彼は、あなた達の中で神の信頼を受けたものであり、あなた達の中の神の保護を司るものであり、あなた達への神の現れである、神の愛する僕たちの間の神の現れである―――我は彼を人体の寺院という形で遣わした。彼の冒しがたく誤りのない御心によって望み給う者は何でも創り給う神が賛美され崇められんことを。枝の影に身を入れないものは過誤の荒野でさまよい俗世の欲望の打撃によって消滅され確実に滅亡するであろう人々の中にいる。

マスターを如何に敬うべきか

ショーギ・エフェンディの言葉

 アブドル・バハが昇天された后、ショーギ・エフェンディは、繰り返し、バハイ信徒達に対して、アブドル・バハに目を向け、彼等の生活をマスターの例に倣って模範とするよう呼びかけられた。敬愛する守護者は、新しく就任した任務の重荷と圧力とが彼の若い層肩に重々しくかかったときに書かれた手紙の中で、バハイの友人達に対しアブドル・バハに注目するよう教えられた。

バハオラが選び給た者達であり、彼の伝言を世に伝える者達である我々にとって彼の大業の精神を、我々一人一人の生活の中で日夜先ず第一に深めようと努力し、次いでバハオラの愛し給うた令息アブドル・バハが彼の一生涯を通じて真に随一の解釈者であられたあの気高い精神を我々が仲間との交際の万般に亘って実証垂範しようと絶え間なく努力に努力を重ねなければならない時が、もしありとすれば、それはまさしく今である。

 

―――我々の敬愛するアブドル・バハの常に用心深い精神との深い無言の励行に参加し、また現在我々の責務に委ねられている仕事を遂行することが出来るよう、お導き下さらんことを嘆願しよう!

 

 我々の敬愛するマスターへの我々の愛情があらゆる面に相手、非常に熱烈に、しかも光平にこの今日を奉じる我々の兄弟姉妹に、総ての人類に対する愛情となって真に現れんことを。親愛なる友人達よ。このような事柄での進歩は限りなく果てしがないし、またこの線に沿った我々の業績の程度が、この世での我々の使命の成功に、結局関わりを持つことは確かである。

 

 どうな暴虐な行為の恐怖も、大麻ない虐待の嵐も屈辱の重圧も、バハオラの示された掟から毛ほども、それさせることが出来なかった我々の敬愛するマスターの模範を我々個人としての行動に相手、また団体生活に相手我々が勤勉に見習いさえするならば我々の大業にふさわしいものと自らを立証することが出来るのである。

これが献身的奉仕の道であり、これこそが彼の生涯のその終りまで歩もうと選ばれた聖なる道である。彼の輝かしい実証垂範を最も厳重に固守してゆかなかったらもにものもこの危険な時代の誘惑の落とし穴の中にある我々の進路を安全に操縦していくことも出来ないし、また我々の高い使命の成就に我々を導くことも出来ない。

 アブドル・バハに対して、我々が抱いている強力な愛情が我々の仲間達と総ての交わりに相手、よしそれがどんなに関係が薄かろうと、生まれがどんなに卑しかろうと、力強く純粋に十分反映されない限り利己的な世俗の眼で、神の総てに優る御愛情の純真さを賛美しようなどと望むことは到底出来ない。我々が、しんのバハイ生活を営まない限り我々が告白している信教の創造的変質能力を示そうなどと望むことは出来ない。我々の活動の豊富さ、我々の生活の純潔さ、我々の品位の高潔さ以外の何物もバハイ精神が今日まで長い間抱いてきた理想を永続的に成功させえる唯一も力であるとする我々の主張を確立することは到底出来ない。10

―――バハオラの信徒達の共同体は、一般世間の目の前で、また用心深い彼等のマスターの面前で、マスターが好んで抱いて来られ彼の生涯の最后の其の日まで辛抱強く守って来られたあの「真理の生きた証人達であるということに確信を持つべきである。もし、我々が、我々の目的に緩みを来し、もし我々の信仰に躓きを来し、もし我々が時々全治にして慈悲深いマスターによって与えられた種々の機会を無視するならば、我々は最も重要な著しい義務を単に怠るばかりでなく、神が努力し給う心境の活発で速やかな発展をまた、これのみが一人保証することの出来るあの活気あふれるエネルギーの流れを徐々に妨害しているのである。11

ショーギ・エフェンディは、アブドル・バハ昇天による壊滅的な打撃に悩まされた苦悩の中から、次のようなメッセージを送って、バハイ世界を鼓舞され、バハオラの管理運営機関を設立するという手続きによって、バハイ世界を指導された。その機関とは最高の管理運営機関である万国正義院であり「現代の人々が、よろめく文明の最高の救蔎所と見做すであろう機関」12であるとショーギ・エフェンディによって述べられた。

 

 

 

アブドル・バハに献身すること

 

 ショーギ・エフェンディは、バハイ信徒達に対し親交を深めるには、アブドル・バハの生涯を熟知し、彼に献身し、彼の零魂と交わり、彼を愛する必要があると教えられた。というようにして人はマスターの各動作を特徴づけているのと同様なバハイの美徳と理想を自身の生活の中に現すようになるであろう。

 人は神の預言者と自分とを同一視することは出来ない。というのは、預言者は人間の概念から計り知れない程かけ離れておられるからである。人間の本質とは全く異なった実態である生活との間の比較をするのは不適当である。しかしアブドル・バハは同一に見ることと模倣することを勧めておられる。人がアブドル・バハの生涯に就いて学ぼうとする時、あらゆる場合に師となってくださる何らかの愛情を、その者は理解し初めるであろう。その者は、またアブドル・バハが「人々の中に生きてはおられるが、人々の有限性を超越し、彼等の偏見からは遥かに抜きん出ておられる」13ということが分かり初める。

 実証垂範の威力は感化力によって影響を受けるものであるが、アブドル・バハから絶えず流出されている愛情に感応することが、その威力を大いに発揮させるのである。

 或人が誰かと一体化するときは、その者と誰かとの間に感情移入の絆を感じる。その絆は、理想と抱負、態度と価値、つまり、その者の品性を構成する要素が類似していることを意味する。もし或る人が神の「最も崇高な創造物」14であり、神の総ての御名の周りを廻る人物」15であるアブドル・バハと一体となる時、マスターとの間に感じる感情移入の絆が、アブドル・バハの生涯が示したように、バハオラの教を、その者の内なる、また外なる生活に反映させるように誘導するであろう。16

アブドル・バハに、まねることは、アブドル・バハの態度の基礎をなし、人類に対する神の御目的と完全に一致したバハイの態度や価値を実証するのを一層容易にする。アブドル・バハの態度と価値とを我がものにしようとする努力はその者を引き続く人格転換への道に送り出す。かのような努力は、人類に対する神の御目的と調和する内的外的両生活面に影響を及ぼすような方の態度を出現するのである。17

 

これが出現すると、潜勢力が、実現化に向う新しい道を発見するようになる。その者を取り巻く人々や天上の領土からの確証が高まってくる。それというのもその者は心境の種種の原則を動作に反映し始め、そうやって最も重要で有効な態度即ち例証することによって布教するようになるからである。アブドル・バハの実証され垂範される原動力を、同化する力によって、その者の生活の中に取り入れることで、その者は自分の真の自我を発見する手順を開始するようになる。

 アブドル・バハの模範は、バハイ信徒達に精神的な理想を融合させた実際の範例を提供するばかりでなく、腐敗した時代の重要でないとして拒否したか軽んじたバハイの特性を例証するのに必要な確証をも提供している。アブドル・バハに面を向ける人々に約束された確証と力とは、バハオラによって確言されている。18

 我は汝[アブドル・バハ]を、全人類のための避難所、天上地上にいる総ての者の保護者、無比で全知の神を信じている人達のための砦とした。神は汝によって彼等を保護し、豊かにし、指示するよう、また総ての人々への恩恵の大洋となり、総ての人々への慈悲の夜明けとなるよう汝を鼓舞するよう、お聞き入れになっている。

 

 神の栄光が汝と、汝に仕え汝をとりまく総ての者の上にとどまりますように。汝に反抗し汝を傷つけるものに災い、大いなる災いあれ。汝に忠誠を誓うものに幸あれ、汝の敵なる者を地獄の火が苦しめますように。19

自身の生活の模範として、アブドル・バハの生活を利用するためには、アブドル・バハがどんなお方であったか一層明瞭な様子を知らなければならない。誰もアブドル・バハを完全にしっていると主張することはできない。実に我々の人間性の限界は、アブドル・バハに就ての不完全な理解を必然的に与えている。このようにして自分の生活を彼にならって手本としようとするならば、絶えず自分を彼の御前の大海に沈めなければならない。このことは、彼の書かれたものや談話やバハオラやショーギ・エフェンディが彼に就いて書かれたものを研究することによって、伝記や彼に関する巡礼者の談話を読むことによって、力と導きを求めて彼に面を向けることによって、また彼を「神の神秘」にした霊的品性をよく考えて見ることによって、行うことができるのである。こうすれば、アブドル・バハを理解することも、彼との関係も、自分の生活を通じて増していくであろうし、また―――アブドル・バハの基準から、よしどんなに遠く離れていようとも―――彼の模範に、だんだん近づいて来るであろう。

 

我々の中の彼の存在

もはや我々の中に存在しておられないお方と関係を結ぶことは変であり難しいと考える人がいるかも知れない。しかし、アブドル・バハは、一巡礼者によると、生きていようが死んでいようが彼は彼等と共におられるということを信徒達に約束された。「----私は、あなた方といつも一緒にいます。生きていようが死のうが私は最後まであなた達と一緒にいます。」20

 マスターをどう仰ぎ見るかを我々に示されたショーギ・エフェンディの上記の著書から引用された文章は、また彼の人柄の遍在(どこにでも存在すること)を証言している。

 アブドル・バハが、我々の間に存在しておられるというもう一つのしるしは、訪問の書簡を詠唱するときに、へり下りと熱情とを持ってすれば、この僕(アブドル・バハ)の心に喜びと樂しみとを、もたらすであろう。それは正に彼と面と向ってお会いしているようであろうとは彼が彼が与えられた保証である。21

 

 

 

4

バハイの教に反する例

 バハイ信徒達は、今日バハイの一致しない世の中に生活していることに気付いている。信徒たちは、人間同士に対して品性と愛情とを示そうと努力しているのに、野蛮な状態と憎しみとが増長している。信教の四海同胞の教義が、バハイ共同体生活の中に一層しっかりと植えつけられて行くにつれ、国家主義や民族主義が尚も増大を続け、古い秩序の崩壊を早めている。

 

アブドル・バハを仰ぐこと

 バハイ信徒たちは嫌でも応でも此の世に住まなければならないと同時に、それを飲み込もうとする矛盾した激動に超越する必要がある。この斗爭の一面は、反対の例証の影響に打ち勝つことを意味している。バハイの理想に相反する行動に抵抗する能力は、世俗から進んで顔を反け、信教の中心人物の方々を仰ごうとする気持ちに掛っているのである。もし世俗から面をそらすことが出来なければ、破滅に導く基準や価値が内面生活に浸透して古い秩序と共に崩壊し始めるであろう。

 もし完全な具現者であり模範であるアブドル・バハに先ず同化するならば、その者は、注意を引いている音樂家、スポーツ選手、映画俳優、詩人、小説家、科学者等の軽重を計る秤となるであろう。そうすれば他の人達の中に見る健全な資質を評価し、彼らの反対の資質によって影響されずに済むことが出来る。

 アブドル・バハに同化することもまた、困難な状態に陥った時に導きを与えてくれる。何となれば、その者は「アブドル・バハだったら、どうなさるだろうか」ということを立止って瞑想することが出来るからである。多くの場合に於て、やってはいけないことが、非常にはっきりして来るであろう。また多くの場合に、なさねばならないことが非常に、はっきりして来るであろう。もし事態が重大であって、回答が直ぐに出そうもないなら、その事件は、いつでも精神行政会に付託されることが出来る。

 

バハイの基準を知りバハイの価値を押し進めること

 アブドル・バハを仰ぎ見ることは退廃した不信心な社会に対して身を守る有効な手段を提供してくれるが、他の方法も、また有効であり、同様に重要である。このような二つの方法は、バハイの基準が何であるかという知識を獲得すること、バハイの価値を発展させることである。

 これらの内の第一、即ちバハイ基準の知識を得ること―――は、バハオラの掟を学び、バハイの行為及びそれらを鼓舞する精神を学ぶことによって得られる。[22]

バハオラの掟とバハイ信教の管理の原則に関する知識は、バハオラ、アブドル・バハ及びショーギ・エフェンディに書かれたものを研究することによって得られる。バハイ信教に生気を与える霊性を感得するためには、信教の管理運営諸機関及びそれに奉仕しようとする献身さが必要である。[23]何となれば、バハイの精神が流れ出て、行動に表されるのは、バハオラの管理運営秩序によるからである。[24]バハイ管理運営と密接な連繋を保つことは、信教の諸機関に忠実に奉仕し、それらに服従し、バハイ共同体のあらゆる面に参加することを意味する。古い世界の有害な影響から身を守るこれら二つの方法の内の第二のものは、バハイの価値を進展させることである。[25]信仰を深める基本的な方法の一つは、バハイの徳性即ち神の特性に就ての積極的な感覚を得ることである。そして、それらの反対のものに対しては、消極的な感覚を持つことである。例えば正義に対しては愛情を持とうと努力すべきであり、不義に対しては、これを嫌うべきである。謙遜を好み、傲慢を嫌う。かような積極的、消極的感覚は心の中のレーダーとなる。その者の行為或は他人の行動がバハイの基準から外れている時、彼は自動的に嫌悪を示すようになる。一度彼が信教の教に反した価値や行動を見分けられるようになると、それらを転換させる方法を発達させることが出来るようになる。こういう新しい行動振舞を、順々に実行に移していくと、実証垂範の原動力が動員されて出てくる。もしこういうことが実現すると古い秩序のやり方を乗り越えて向上し、バハイの生活法を実践して見せることも出来るようになる。

 或ものが神の徳性に沿って心構えを形成していくにつれて、精神的習性が成長してくる。これらの習慣から各人の行動の中にこれらの徳性の一貫した出現が起こって来る。一つの習慣は、比較的永続する型に整理されたエネルギーが現れたものである。こういう型の行動は、その発生が第二の品性となるほど非常に、しっかりしたものとなり得るのである。習慣は良いか悪いかのどちらかにきまっている。悪い習慣は人の品性の高潔さを傷つけるが、良い習慣は、その人の本質を飾り立てて美しくする。霊的習慣を身につけることは、バハイの教と調和するような行動の模範にまで価値を高めることを意味する。これらの模範は更に深く霊的に発展して行く基礎を提供している。

 

祈り

 暗黒の力の猛襲に対して自らを守る他のもう一つの手段は、神に接近することである。これが祈りの目的である。

 祈りは神の掟である。「僕と真なる御方(神)との間の接触を生じるために欠くことの出来ない生活上の部分である。何となれば、そういう祈りの状態においては、人は全身全霊をもって面を高貴な全能者の方へ向け、神との交わりを求め、神の愛とあわれみを願うからである。[26]

 人が主に嘆願するときは、神を仰ぎ、神の大洋から恩恵を求める。この嘆願は、それ自身が彼の心への光であり、彼の視界への照明であり、彼の魂への生命であり、彼の本質への高揚である。[27]

 バブ、バハオラ及びアブドル・バハによって示された祈りや聖句を用いる時は、それらの方々のペンから流れ出た聖なる霊感に一層近く引き寄せられる。その方々の言葉は、彼の本質、目的及び必要性等の性格に応じて教えを垂れ給う。たとえば、長い必須の祈りからの次の聖句は創造主の御前に立っている卑しい創造物としての人間の本質を示している。

 おお我が主なる君よ。御慈悲の御扉を叩くこの哀れな人間を、御慈悲の御手からもれる永遠の生命の河を求める息たえだえのこの魂をみそなわせ給う。[28]

 短い必須の祈りは、人間の目的と、その本質を述べている。

 おお我が神よ、あなたが私を創りましたのは、あなたを知り、あなたを崇拝するためでありますことを証言いたします。いまこそ私の無力なことと、あなたの御力の大いなることを。また私の貧しさとあなたの御豊かさとを証言いたします。あなたの他に神はいまさず。あなたは危難の中のみ救いに在し御自力にて存在し給う御方に在します。[29]

 アブドル・バハによって示された次の聖句は、どうしたら真の探求者になれるかを教えている。

 私は私の総てを捧げて、あなたを仰ぎ祭り、全身全霊を捧げてあなたにあすがり申しております。どうぞ私が、あなたの聖なる大調和の輪からそれませぬよう、また私を御意にたがう道を行く総てのものから守り給え。そして澄み渡り汚れなき御恵みの木陰を捜し求める私の妨げになる総ての汚れから洗い清め給え。[30]

 人間存在の本質、目的及び真の必要性を教えることによって、創造主に人を一層近寄せるばかりでなく、神の御言葉は人間の魂に力強い影響を与える。

 自分の部屋で、ひそかに神の示された聖句を誰が詠唱しようとも、全能の神の放散を司る天使たちは、彼の口から唱えられた言葉の芳香を広く周囲に放散させるであろう。そして、あらゆる正しい人の心臓を高鳴らせるであろう。初めの内は、その効果に気がつかなくても、その者に捧げられた恩恵の功徳は、必ず早晩その影響を彼の魂の上に及ぼすであろう。このように神の啓示の神秘は、御力と英知の源である神の御意の功徳によって定められているのである。[31]

 祈りは、また日常生活の中で、人の心の内部に湧き出してくる否定的な力を取り除き、方向を転換させる一つの方法である。バハオラは、真の求道者に関した文書の中で「神の愛情のこもった御言葉の焔で、あらゆる気まぐれな考えを焼き捨てる・・・」[32]ようにと人々に助言しておられる。このように祈りによって、またバハオラから示された聖句によって瞑想することによって、これまで好ましくない考えに投じられていたエネルギーを、霊的な思考と態度へと換えることによって、別な回路に向かわせることができる。後になって、もっとひどい拡大された形で現れるようになるかもしれないこれらの考えを抑圧する代わりに、我々は自分の愛の対象に換えることができる。この行為は、好ましくない考えの有害な影響を弱め、そのエネルギーの回路を転換し、信心深い考えや行動に、それらを置換えることができる。神に面を向けることは、非常に重々しく突き当たってくる力を征服するのに役立つばかりでなく、ややもすれば緊急事態に際して示しがちな家族やバハイ共同体に対する関係を、そのままに保たせるであろう。祈りがたびたび、熱心に規則正しく用いられる場合には確かにその者の徳性を向上させるであろう。それによってバハイの教えを日常生活のあらゆる面に実行させるのである。[33]

 ショーギ・エフェンディは、祈りの必要性と絶対に不可欠であることを説いておられる。

 実に現世にはびこっている悪事の主な理由は霊性の欠乏にある。我々の時代の物質文明は、非常に多くのエネルギーや人類の利益を吸収しすぎたから人々は一般に彼らの日々の物質的生存の力や条件以上に自分たちを向上させようとする必要性をもはや感じていない。我々の肉体的生存に必要なもの及び要求するものとは違った精神的と呼ぶべきものに対する十分な要求がない。

 それゆえ人類に影響を及ぼす共通の危機は、その原因において、もともと精神的なものなのである。現代の精神は概して無宗教的である。人の人生観はあまりにも粗雑で物質的であるから高い霊界に自身を向上させることができない。

 社会が落ち込んでいる状態は、こんなにも痛ましく病的であるから、宗教は、これを改善し、その体質を改良することを望んでいる。何となれば宗教上の信仰の核心は、人間を神と結びつけるあの神秘的な感情であるからである。この霊的な交わりの状態は、瞑想と祈りによってもたらされ維持されることができる。そしてバハオラが大いに祈りの重要性を強調されたのもこの理由からである。単に教えを受け入れて、それを遵奉するだけでは信徒にとって不十分である。信徒たるものは、それに加えて、主として祈りによって得られる霊感を養なわなければならない。バハイ信教は、他の総ての宗教と同様に性格上このように全く根本的に神秘的なものである。その主な目的は、精神的な徳性と力を獲得することによる個人ならびに社会の進歩である。まず第一に養われなければならないのは人間の魂である。そして、この精神的栄養を祈りは最もよく供給することができる。バハオラによって考察されたように掟や制度は、我々の内部の霊的生活が完全となり、改善された時にのみ実際に効果を発揮することができるようになる。さもなければ、宗教は単なる組織に転落し、死物となるであろう。

 それゆえ信徒達、特に若い人達は、祈りの必要性を十分に悟らなければならない。何となれば、祈りは彼等の内的精神の発育にとって絶対に必要だからである。そしてこのことは既に述べられたように神の教えの基礎そのものであり、また目的でもある。[34]

 アブドル・バハは「近寄れば似て来る」[35]と言っておられる。人が神を仰ぎ、神の恩恵の天国に向かって嘆願するにつれ、その者は次第に引き寄せられていく。時がたち、引き続く奮闘と熱心な努力とによって、彼が到達してくる神への接近は、彼にだんだん影響を及ぼすようになるであろう。そして神の属性が次第に身についてくるようになり、次第に実証垂範の力強い原動力が動き始めるであろう。バハオラの教えの救いの意義に対する生きた証拠となることによって、彼は地上における神の王国の展開に一役買ってでることになるであろう。

 

 

 

 

 

 

第二部

 

神の属性とバハイ生活の特質

 

 おお汝等、御一方なる真の神の御寵愛を受けている者達よ!汝等の行為の芳香が全人類を神の不滅の栄光の大洋に導きえるよう、汝等の邪なる堕落した欲望の狭い隠れ家より抜け出し、神の王国の広大無限の域に突き進み、神聖にして超脱の草原に住め。

 

――バハオラ

 

 

 

 

 

神の属性や特質を習得すること

 

 一度バハオラを認めるようになると、その者は、人類に対する神の御目的を一層はっきり理解しようと終生努力するようになる。[36]

 ショーギ・エフェンディは、こう断言しておられる。「バハオラの素晴らしい啓示の重要性を、一層十分に理解し得るよう努力することが、忠実な信徒達各人の第一の義務であり、絶えざる努力の目標であることに変りはない。このことは、私の不変の確信である」37

 万国正義院は、各地のバハイ青年に宛てた書簡の中で、信仰を深める方法として「バハイの種々の教を研究すること」「それぞれの生活を浄化すること」及び「バハオラの模範に従って」各自の品性を「統冶すること」即ち「他の総ての教養の基礎」となることを指摘した。38

 このように各自の生活を調整しなおそうと意識的に献身することは、バハオラの啓示の威力に対する生きた証拠となる道に各人を乗出させることになる。そのことはまた、人々に御自身を知らせようとする神の御目的の一つが各人を高徳な品性の外套で飾ることであり、気高い良い行いの装身具で飾ることであることを人が理解するよう説明しておられる。39

 それは、また神の大業の勝利を確保し、地上に神の王国を招くための主要な方法は「神が御嘉納になるような正しい振舞、行動と品性」40であるということを理解するよう説明しておられる。

 有力な模範となることは即座には出来ない。寧ろ、それは、目的の深い意味、その目的への献身、多くの障害に直面しての忍耐を必要とする遅くて困難な過程である。バハイの教にあっては、精神的成長は徐々に起り、自己修練と、日々の用心を必要とする:

 あなた達の朝をして、夕べよりもより良いものとなせ。そして、あなた達の一日は、朝に改善させよ。41

 記載された文献、文章、雄弁なる舌、流暢なる演説において大いなる熟達を遂げ、神への奉仕に神の侍女と協力し、お一方にまします御方の敷居に侍る尊敬される僕となり、天の賜物の分け前に預かり、この人の世の優秀さの頂点に達するまで日々進歩し続けるよう望む。42

 マルジ・ゲールさんが彼女の母が、アブドル・バハから学んだ教訓に言及して、こう書いている。

     アブドル・バハ彼女に語った二つのことを、彼女はしばしば、ペルシャ語で引用した。その一つは、は彼女にこう言われた。が我慢しているように忍耐強くあれ。もう一つは、或人がアブドル・バハに向って、バハイ信徒達が持つように指示された総ての品性や徳性を、どうしても持てなかったと言って失望を表明したときであった。アブドル・バハは、少しずつ毎日毎日と答えられた。[37]

 有力な模範になろうと意識しつつ実行して行けば、霊化された人物を構成し、バハオラの基準に従った品性を形成させることの出来るあの根本的な価値と態度を少し宛獲得して行くことが出来る。これらの心構えの中には正義、正直、信頼性、敬虔、貞節、神聖さ、礼儀、純潔、清潔、温和、謙遜、品性、忍耐及び感謝等がある。これらの諸態度を意識して知ることは、神の御目的に従って自身の品性を形成する上に一層積極的な信頼出来る役割を果たすことになる。[38]

 バハイの態度とその価値とは、続に有徳な行いと信じられていることの単なる模倣とは遥に比べものにはならない。何となれば、模倣は、しばしば神聖ぶったり、或は不誠実であったりするからである。これに反しバハイの態度を身につけることは、神にその者の魂を向け、神の御意に従うことが要求されている。神の御意は代って聖霊を、その者の行動を通して、一層自発的に流出させることが出来る。バハイとしての態度を獲得することは、また過度の緊張や不安に対する最良の防護である。何となれば、それらは、バハオラが言われている保証と真の自由を見出させることが出来るからである。

 

     汝等は知るまいが、真の自由は、我が命令に人間が服従する中にある。啓示の天上から彼等に下し与えたことを守るならば、彼らは確に完全な自由に到達するであろう。[39]

    おお人の子よ!

    汝無限の空間を通り、広大な天空を横切ろうとも、汝は我が命令に服従し、我が顔の前にへり下る以外に安息は見出せないであろう。[40] 

 もし誰でも神の属性を例証しようとするならば、バハイとしての身構を、その態度、服装、娯楽、レクリエーション、言葉遣い、芸術的追求、歓待の方法、教育や日常生活の業務の遂行、資源の利用、環境の整備や美化等万事に亙りバハイ精神を反映し、バハオラの教を研究するよう仲間を引きつける程までに本質的なものとしなければならない。アブドル・バハはこう書いておられる。

     今日最も重要な責務は、あなた達の品性を浄化し、振舞いを正し、行状を改善することである。また慈悲深い御方に愛されている者達は、自分達の神聖の芳香が全世界に発散され、死者達をも蘇えらせるような品性と行動とを神の創造物達の間に示さなければならない。顕示者の目的と、目に見えない御方の限りない御光の曙が人々の魂を教育し、あらゆる人々の品性を浄化するからである。・・・[41]

 もしバハイとしての生活を営むことによって、力強い範例となるよう努力する意志がないなら、どうして自身をバハイ信徒と呼ぶことを正当化することが出来ようか。早晩登録されたバハイ信徒は自身にこのことを問い掛けなければならない。その者の答は、将来に於ける生活の性格を決定するであろう。もしその者が誠実であり、その答が、純粋に、バハオラを信じる心の底から出たものであれば、その者は、精神的転換の苦闘を初めるであろう。もし、その者が、不真面目であるか、自身に正直でないならば、その者は、偽りの假面をかぶって共同体内に止まり、不和を生じるであろう。その者は、世界秩序の展開を遅らせ、かのような虚偽に引續いて必然的にやって来る不幸に苦しむことであろう。

 

 

 

 

 

正義と公正

 統合性の眼をもって神の栄光ある創造物を識別し、探求の眼で万物を見るならば、我々が汝のために啓示した万のものの精髄は正義であり、空虚な幻想や、偽物から人間を免れさせることである。[42]

 「審判者、立法者、統合者及び全人類の救い主」[43] であるバハオラの出現は、審判の日についての神の昔ながらの御約束の成就を示している。――審判の日、それは正義が打ち立てられるであろう日、平和の御世を目の当たりに見るであろう日、また「水が海を満たすように、世界の主の栄光ある英知で去る満たさるべき日である。」[44]

その日が今や来ているのである。人類に対する正義と和合を保証する難攻不落の基礎が敷かれている。「同時に先駆者であり、彼の世界秩序の中核であり、模型であり」また思いもつかない栄光の黄金時代を迎え入れるよう予定されている組織が、世界中の人々が眠りから覚めるであろうその時代を見越して、世界を取巻いている。[45]「神の正義の時代に先立って、おお人々よ、汝自身を奮起させよ。何となれば約束された時代が今や来ているからである。その重要性が理解できず、また誤っている者達の中に数え入れられぬよう注意せよ。」[46]

正義――バハオラによって「総てのもののうち、わが目に最愛なる者」と呼ばれているもの――は見たところ今日世界に欠けているようである。[47]バハオラは、こう述べておられる。「正義は今日その苦境を嘆き悲しんでいる。そして公正は圧迫のくびきをかけられて苦悶している。暴虐の厚い雲が地球の表面を暗くし、そこにいる人々を包んでいる。」[48]しかし建設と崩壊の二つの過程を観察しているバハイ信徒達は、世の中がこの無上の特質を完全に現すために準備しつつあることを知っている。バハオラは、こう証言しておられる「汝真理に就て知れ、世界に降りかかったこれらの大苦難は、最も偉大な正義の出現を準備している」[49]「信仰深い者達が栄光の夜明けから正義の太陽が完全な光輝を放っているのを見るであろうその日が近づきつつあると、バハオラは約束されている。[50]

正義は要求、権利及び必要の片寄らない調整と、公正の御旗を掲げて権威と威力を行使することを意味する。バハオラが説明されるには「正義の目的は、人々の間に和合を出現させることである。」[51]

和合は正義なしには、また、総ての人々の権利の保護なしには達成されない。正義は、また、その規準が犯されるときには処罰の執行を、また、それが守られるときには褒章の施与を課している。バハオラは、次のように書いておられる。即ち正義は、世の中の調教師であり、「褒章と処罰」の二本の柱で支えられている。それらを彼は、「生存の源」と呼んでおられる。[52]人事に於ける和合、秩序及安全は、正義の運営に掛っている。それは人間を正しい方向に導き制限を設けているからである。

正義の基準は、神の聖なる顕示者によって各時代に啓示された掟によって設けられている:

   若し汝等が真理を認める者達であるならば、正義の真髄と、その源は、共に人々の間の神御自身の顕示者によって規定された布告の中に具現されている。顕示者は真に最高の、誤りのない正義の基準を総ての創造物に向って具現している。[53]

 

顕示者によって啓示された数々の掟は、正義の基準であるから、宗教――即ち、その基準に人類を結びつける力――は、世の中に秩序を打ち立て、「人々の間に、平穏をもたらすための最高の道具」である。[54]従って宗教の権威が弱められる時は、神の基準に人類を結びつける力が消され、無法状態と敗退とが増大する。バハオラは次のように警告しておられる。

 

    宗教は世界の秩序建設のため、また其処に住む総ての者の穏やかな安心立命のためのあらゆる手段中最大のものである。宗教の支柱を弱めることが、無知なもの達の手を強くし、彼等を大胆にし、また傲慢にした。誠に私は言うが、宗教の高い地位を低めたものは、邪まなものの強情さを増大した。そして結果は無秩序意外の何ものでもあり得ない。[55]

 

宗教は、輝く光であり、世界の人々の保護と福祉のための難攻不落の砦である。何となれば、神への畏敬が人を善なるものにしっかりと、とりすがらせ、総ての悪を避けさせるからである。宗教のあかりが曇らせられる無秩序と混乱が続いて起るであろう。そして公正や平穏や平和の光が輝かなくなるであろう。[56]

真に賢い人々は世の中を人体の寺院になぞらえていることを知るがよい。人間の身体は、それを覆うのに着物を必要とするように人類の身体は、正義と英知の外套で必ず飾られなければならない。その衣類は神によって、それに与えられた啓示である。[57]

現代社会を宗教の衰微の見透しから分析して、ショーギ・エフェンディは、その原因を説明し、世の中の陥った堕落の徴候を確認しておられる。

それ故、疑いもなく人間のひねくれの結果として宗教の灯は、人々の心の中で消され、人体の寺院を飾るよう立案された神の指定による衣装は故意に投げ捨てられ、かたくなな魂が現し得るあらゆる悪に引き続いて人類の運命に嘆かわしい衰微が直ちに起ってくる。人間性の悪用、人間としての行為の墜落、人間の諸制度の腐敗と消滅とは、かような状況下で、最悪の最も不快な見透しの下に出現してくる。人間の品性は低下され、信頼はゆすぶられ。鍛錬の神経はたるみ、人間の良心の声は止まり、礼儀や恥辱の感覚は鈍り、義務や団結や互恵や忠誠の念は、ゆがめられ、平和、歓喜、希望の感覚そのものは次第に消滅されている。[58]

 

正義の管理

 正義は、神の御手と社会制度の両者によって管理される。歴史は創造物に対する神の掟の影響と、その掟を犯した人々に何が起ったかを示している。幾時代もの間ずっと神の顕示者達の影響の生産力によって育てられてきた。バビ教およびバハイ信教は、天罰がそれらの信徒達の迫害者達を罰したと同じ威力と速度とをもった劇的実例を提供している。一つの例はバブの処刑に責任のあった人々に振りかかった運命である。ショーギ・エフェンディは、「神よぎり給う」という書物の中で、バブの殉教のその年の内に何が起ったかを述べておられる。

 250名をくだらない射撃部隊の兵士達は、彼等の将校達と共に、恐ろしい地震にあって死亡した。また一方残りの500名の兵士達も3年後に彼等の反乱の罰としてかれらの手がバブに与えたのと同じ運命に陥った。彼等の中に誰一人として生き残るものがないよう保証するため第二回目の一斉射撃を蒙って皆体中孔だらけにされた。その後彼等の死骸は槍で突き刺されタブリッツの人々に見えるように、さらしものにされた。バブを処刑した主な扇動者であった無慈悲なアミル・ネザムは、彼の兄弟、彼の主な共犯者と共に、あの野蛮な行為から二年以内に死亡するに到った。[59]

 天罰のもう一つの例は、バハオラの歴史的呼びかけを受けた王達や支配者達によって保持されている王朝、君主制および帝国等が倒れたその迅速さである。彼等の拒絶と軽蔑の反応とは彼等の運命を閉じた。そして、結局は彼らが蒙った不名誉な敗北と、完全な屈辱を確実なものとした。

 不服従の結果に関する同様になるほどと思われる例は、人々が神の掟を破り、神の道徳律を汚す時に各人に降りかかってくる責苦である。「全くの混乱状態」と絶望感とは現代人の特性であるが不注意な者、不服従な者が陥った深さを示している。[60]掟を破った人々の苦境と掟を大きな個人的犠牲を払って支持したあの男女の英雄達によって達成された優勢と栄光とが、比較される時、神が全能にましますことは間違いでないことが明白になる。

 正義が管理される第二の機関は社会制度である。処罰を行うのは社会の義務であって、個人ではないとアブドル・バハは説明しておられる。

 人には復讐する権利はない。然し共同体には罪を犯したものを罰する権利がある。そしてこの処罰は、他のどんな人も同様の罪を敢えて犯さないように戒め防ぐためである。この処罰は人権を保護するためであって、決して復讐のためではない。復讐は一つの罪悪が他の罪悪に反抗することによって、心の怒りをなだめるものである。こういうことは許されることではない。何となれば、人には復讐する権利がないからである。しかしもし犯罪者達が全く許されるとしたら、世の中の秩序は覆されるであろう。それ故刑罰は、共同体の安全のために本質的に必要なものの一つである。しかし違反者によって虐げられたものには復讐する権利はない。これに反し、その者は許し、大目に見てやるべきである。何となれば、こうすることは、人の世にふさわしいからである。[61]

 今日人類は、顕示者(バハオラ)によって定められ、彼の聖約の中心(アブドル・バハ)によって明瞭に示され、大業の守護者(ショーギ・エフェンディ)によって育てられた神の諸制度を授かり、祝福されている。行く行く、これらの諸機関は、人類に対する社会正義の唯一の源となるであろう。現在呼ばれているような正義院とか、精神政会とかは、

・・・輝くランプであり、天上の花園である。そこから聖らかな芳香が四方八方に発散され、英知の光が総ての創造物の上に遍く照らされている。それらから生命の霊気があらゆる方向に流れ出している。誠に、それらはいつでも、また、どんな状況の下にあっても人類進歩の有力な源である。[62]

 誤りのない万国正義院を最高機関とするこれらの神によって定められた諸機関は、神の御意や御目的が行われる場である。人間の作った制度から生じた不正行為は、人類がバハオラの諸制度の保護の下に入る時、社会を苦しめることを止めるであろう。

 歴史を通じて不正義の一つの源は「知識が優れているとうぬぼれていた。」[63]人々による気ままで独裁的な力の行使にあった。バハオラの神によって考え出された管理運営秩序の最も著明な点の一つは「学者」と「支配者」の間の差別である。――即ち社会を、この不正義の源から免れさせる特性である。万国正義院は次のように説明している。

 イスタンブールのバハイ精神行政会に宛てた1927年3月14日付書簡の中で守護者の秘書は、彼の代筆をして、多数決選挙による決議において、大業中の原則を説明した。過去において「自らを知識がすぐれ、地位が高い」と考えていた人間が、いかに不和を生じたことか、また自らを総ての者の内で最も優れているように装っている人間が「常に争いの源であった」かを指摘された。彼は、なおも続けて言われた「神にはまれあれ、栄光のペンは学問のある者達や賢い人々の断固として譲らない尊大な見解を排除し、よしんば彼らが人々の間で最も教養があり、学識あるもの達と認められていようとも、個々人の主張は、権威ある基準として排除し、万事権限を与えられた中央諸機関や明記された精神会に委任せれるものと定められている。否むしろ彼は、総ての精神会を、一つの神の任命された中央機関である正義院の傘下に集めた。そうすれば、只一つの中央機関に他の残りのものは皆単一体に統合され、それら総てを分派や分裂させずにすむ。」(ペルシヤ語からの翻訳)

 過去の多くの宗教制において、「学識ある者達」の諸機関に明らかに、もちまえの弊害を永久に除去された。1957年6月4日付の守護者の伝言をざっと読んでも判断できるように、バハオラは、それにも関わらず、その管理運営秩序の中に、かような諸制度の中に存在する情け深い要素、大業の進歩のために根本的に価値ある要素を具現された。

 かような気高い地位の諸機関、かような重要な役割を果たす個々人は、立法、行政および司法の権限を持っていないし、宣教師的機能あるいは権威ある解釈をする権限もないということは、過去の諸宗教にかつてなかったバハイの管理運営の特色である。この概念の新しさと唯一性とは、理解を困難にする。バハイ共同体が成長し、信徒達が過去の時代からの概念に影響されずに、管理運営の構成をだんだんに熟慮することが出来るようになるにつれて、信教中の「統治者達」と、「学識ある者達」との力強い相互依存が性格に理解され、彼等の相互作用の測り知れない価値が十分に認められるようになるであろう。[64]

 このように、バハオラは、個々人よりも選挙された諸機関に権威を与えられた。どんなバハイ信徒も、どんな立法上、行政上、司法上の権威をも主張することは出来ない。それにもかかわらず、バハオラは学識ある個々人の重要な地位を認め、彼等のために信教の生長と発展の道を用意された。統治者達と学識ある人達とを区別することによって、バハオラは幾世紀もの間圧迫と不正の源であったものを、正義の奉仕に知識を導入する支配と指導の統合された制度に転換された。

 バハオラの管理運営秩序は、その構想において完璧である。しかし、その特有な機能を果たすことはやはり、その機関に奉仕する人々の精神の円熟さと献身さとにかかっている。アブドル・バハとショーギ・エフェンディとは、精神行政会の機能達成に必要な雰囲気と手段において十分に記載されている。精神行政会の構成員たちは、全く和合、愛、調和、世俗離脱、礼儀、謙遜および服従の雰囲気の下に集合しなければならない。[65]

 効果ある協議に必要な手順は結論を考える前に、その案件においての当面の問題に関連した事実を確かめることである。このやり方によれば、事件に関連した精神的原則を決定するに当たり、バハイの聖典を参照することによって、その事件の不完全な理解から生じる不正な決定を防ぐことができる。

 バハイの諸機関を正義の管理運営に導く重要な原則は、個々の案件をそれ自身の真価によって考慮することである。現代の裁判の慣例に反して、バハイ信教においては、判決に対する勝手な上告はない。バハイの管理運営は、各案件が、それぞれ特異の面を持ち、決議は他と無関係に独立してなされなければならないことを認めている。同様な案件において、以前に行われた決議によって理由なしに精神行政会が左右されることはない。この方法は、正義を向上させる。何となれば、決議は公正に基づいているからである。「人間の諸徳の内で最も根本的なもので、この方法に「総てのものの評価が必ず掛っている。」[66]とバハオラによって言及されている。

 精神行政会の円熟さの指標は、正義の管理者としての神から授かった役割を、どの程度受け入れているかにある。ショーギ・エフェンディは、しばしば、こう指摘しておられる。バハイ信徒達は、個人の役割と精神行政会の役割とを、混同しがちである。個々人が寛大でも親切でもなくむしろ批判的で非難がましく、一方精神行政会の方は堅実でも、公正でもなくむしろ寛容で寛大である場合には、この混同がおこる。

   管理運営機関の諸機能を混同し、それを未熟な個人関係に適用しようとする傾向がある。何となれば、精神行政会は、初期の状態にある正義院であり、教や共同体の業務に従って管理するものと考えられている。然し個人個人は、相手に対して愛情、和合、寛容及び罪をかばい合う眼によって、お互いに管理される。一度教友達が、このことを把握するならば、彼等は益々良くやって行けるであろう。ところが彼等は精神行政会を、お互い同士のように運営し個人のように振舞うよう期待している。・・・[67]

 例えば、一個人の率直な偽りのない査定を提出するよう他の機関が要求しているときに、或る精神行政会が一機関というよりは寧ろ一個人のように振舞うかもしれない。或る全国精神行政会が或る地方精神行政会に或る人の能力と性格を評価するよう要求するかもしれない。もし或る精神行政会が陰口とある個人の資格に就ての合法的で必要な討議とを混同して、重要な報告を分担することをしないで、悪意に蔽われた眼を以て綴られた報告を提出するならば、全国精神行政会は真相をつかめないばかりでなく其の上、間違った印象を与えられることになる。地方精神行政会の側に於ての、かような責任の放棄は、個人と信教との双方に対し紛糾を来す結果に終わるだけである。

 もう一つの例は、もし信教の基準に従って生活していない人が、しっかりした手で指導され、それらの限界を超す時の結果に就て話される場合に、慈悲と寛大とを以て取扱われるならば起るであろう場合である。もしその者の属している精神行政会が彼の必要とする、しっかりした指導と指令を与えないなら、その者は、その生活を、きちんと整えず、きっと、また、ちんばな歩みを続けて行きそうである。精神行政会が教友達を、しっかりと導き激励しないときは、個人問題は悪化し、不和と不健全な精神的風潮を醸し出すであろう。共同体も、また精神行政会に対して尊敬の念を失うであろう。然し精神行政会が絶対的な正直さ」、礼儀、変らぬ愛情と正義によって鼓舞されるときには、共同体に必要な指導を与え、アブドル・バハによって深く希望された和合、信頼及び幸福によって特長づけられた共同体生活を育成するであろう。

 

公明正大(正義と対を成すもの)

 正義をもって管理運営することは、諸機関の義務である一方、正義には個人の行動に於て、その対をなすもの即ち公明正大がある。公明正大とは、先入観や偏見を持たないことである。このとらわれないことが個々人や諸事態を世俗を離れて客観的に評価出来るのである。それぞれの人、それぞれの関係、それぞれの立場は、獨自なものである。行政会も各々の案件を、それぞれの真価に基いて考慮しなければならないと同様に、個々人も事実に基いて評価をしなければならない。不正確或は不適当な情報に基く帰納よ常套手段は、先入観や偏見の形成をもたらすのである。一方に偏した偏見を持った決議は常に正しくない。それ等は、しばしば他の者に対する真理や利害関係よりも、私利私欲の方を優先させる。随って誠実、無私及び世俗を離脱することは、公正が頼りとする友なる特性である。

 公正の原則は、しばしば黄金率と呼ばれるが総ての宗教に共通である。バハオラは、この精神的掟を色々の方法で強調されている。

   そして、もし汝の眼が正義の方に向せられるなら、汝自身のために選ぶことを汝の隣人のために選べ。[68]

   自分自身にやって貰いたくないことを、他の人のために望んではならない。・・・[69]

   汝の上に置かれたくない荷を、他人に背負わせる勿れ。また汝が自身のために望まないことを、他人のために望んではならない。これ我が汝への最良の忠言である。汝等只これを守れ。[70]

   おお実在の子よ!

  汝が自身の責任にされたくないことを、他の何人の責任にもするな。また汝が言われたくないことを言うな。これわが汝への命令である。これを守れ。[71]

バハオラのこの「最高の忠言」は、自分自身の欲望から欲望や感情へ、その者の関心の焦点を転換することによって無私と公正を増進させる。

 世俗から離脱することは公正に寄与する。何となれば、それは他の者達による感情的圧力や小細工から守ってくれるからである。その精神的な意味合に於て世俗から離脱するということは冷淡とか、お高くとまるということを意味するものではない。それは誰か他のものによるか或は自分自身の私利私欲によって決定された感情や考えを持つことから比較的遠のいていることを意味する。アブドル・バハは次のように説明しておられる。

 

     ・・・真理の探究者はある特質を授けられなければならない。先ず第一にその者は公明正大でなければならない。そして神は外の総てのものから切り離されなければならない。その者の心は最高の地平線のほうに完全に向わせられなければならない。その者は悪徳や激情の絆から開放されなければならない。その訳は、これらのものは皆障害物であるからである。更にその者はあらゆる困難に耐え忍ぶことが出来なければならない。その者は絶対的に純潔であり聖別されなければならない。そして世人の愛や憎しみから離れなければならない。なぜか。その理由は、或る人または或るものに対する、その者の愛の実相が他のものの中にある真相を認めることを防げるであろうからである。また同じように或るものに対する憎しみが真理を認めることの邪魔になるだろうからである。[72]

 

世俗から離脱することは、愛情や感情を差し止めるどころか寧ろもっと十分に愛することを可能にする。それはその者の愛は、私利私欲からよりは寧ろ神に対する関係から由来しているからである。

 

   世俗離脱の精髄は、人が主の御前に参じるために、主の宮居に面を向け、神の御顔を秤し、主の御前に証人として立つことである。[73]

 世俗離脱は、また利己的な動機に基づくよりはむしろ真理に決定を基づかせることが出

来るから公正をもって自由に活動させる。それは自分自身の動機と他の者の動機とを査定

することによって、騙されやすさや無分別からそのものを守り、力と自主性と自覚とを与えてくれる。

 バハイ信徒達は、他の人々に対して公正であるよう訓戒されているがまた自分自身にも公正でなくてはならない。

 我々の忠実な僕達の間に、あなた達の行動によって正義の証拠が示されるよう、あなた自身及び他の人々に対して公正であれ。[74]

 無欲、慈悲及び寛大を装い不正な行為を大目に見ることによって、他の人々があざむくのを許すことは、自分自身に対しても不公正となり得るのである。人々に不正行為をやらせて知らぬ顔していることは、愛すことでも慈悲深いことでもない。それは彼等に、そのような行為の継続を奨励することとなるからである。アブドル・バハは、正義と慈悲との間が維持されなければならないと説明しておられる。

 神の王国の基盤は、あらゆる人間に対する正義、公正、慈悲、同情及び親切の上に置かれている。それ故あなた達は心魂を尽くして人類社会全般に愛と親切を行うよう努力せよ。但し、利己的で不誠実なものは除く。暴君、裏切り者あるいは盗人に対して親切を示すことは、勧められない。それは、親切がかえってその者をますます悪化させ目覚めさせないからである。うそをつく者に親切を示せば示すほど、その者は、ますますうそをつくようになる。それは、あなたが知っているのに、相手は知らないと思うからである。しかし極端な親切は、あなたの理解していることを示す妨げとなる。[75]

 要するに、この指導原理によると、不正直や残酷な行為を大目に見ることは、却って自分自身に対してばかりでなく、誤っている人に対しても不当であるということになる。かような振舞に直面した時、我々は、その状況を査定し、それを適切に処理する責任がある。もし個人関係が、からんでいるなら、直接その事態を処理するようにしなければならない。もし、その事件が、民事当局の調停を正当とするに十分なほど重大であるならば、民事当局に告訴しなければならない。もしその事件が、法廷に持ち出されなければならないなら、信教の名を保護するために、知恵と敏感さをもって処置すべきである。もしバハイ信徒達が、その事件に巻き込まれているなら、それは精神行政会によって、いつも処理されなければならない。ショーギ・エフェンディは代筆によって書かれた手紙の中で彼が望んでいることを説明された。

 バハイ信徒間の紛争事件、それがバハイでない人達の事件であっても、民事裁判への委託を避けることの重要であることを強調したい。かような紛争を友好的に処理するよう努力するのは行政会である。大業の公明正大な名前と威信を守るためと将来におけるその機能の拡大との双方のために。[76]

 ルヒヤ・カヌーンによって記載された次の事件は、アブドル・バハが不正事件をどう裁かれたかの一例である。

 ・・・ショーギ・エフェンディが話された。ある時、彼がマスターと一緒に馬車を雇ってアレキサンドリヤからラムレーへの帰途についていた。同行には客としてマスターの家に行くトルコの高官が乗っていた。彼等が目的地に到着して馬車を降り、背の高いがっちりした大柄な御者に料金を尋ねた時、御者は法外な多額の料金を請求した。アブドル・バハは支払うことを拒んだ。御者はその料金を強要して譲らず、遂には悪口をついて罵りだし、マスターの腰のまわりの飾り帯を掴んで荒々しく前後にゆさぶり、この料金をくれと言い張った。賢明な賓客の前でのこの場面はショーギ・エフェンディを恐ろしく当惑させたと後で話してくれた。彼は未だあまりにも小さな少年であったので、何もマスターを助けることができず只恐ろしくて小さくなっていた。アブドル・バハは、これに反し、全く泰然自若としておられ屈服することを拒んでおられた。遂にその男が掴んでいる手を放した時、マスターは請求された金額を、きちんと支払って彼に言われた。彼の行為は、マスターが与えようと考えていた十分なチップを失ったと。そしてショーギ・エフェンディとトルコの高官を伴ってここを立ち去られた!疑いもなく、この出来事は守護者の性格に終生消えない印象を残した。よしんば、こういうことが彼及び彼と共に働いていた人々を当惑させたり邪魔したりしようとも、そんなことに関係なく、彼は決して自ら威嚇されたり騙されたりすることを許されなかった。[77]

 「正義の軍勢の旗手」となるには、世俗を離れることと勇気と英知とを必要とする。[78]

正義の高い地位と、それが社会に平和と秩序とを確保する上に重要であるということが、正義をもって総てのバハイ信徒達の品性を飾り、総ての管理運営機関の運営を司どらなければならない必須の特質としている。ショーギ・エフェンディは、「神の正義の出現」の中で、北米のバハイ信徒達に正義の原則を示し、それを適用し、人事万端に秩序をもたらすために、その威力を示すよう呼び掛けられた。

 彼等の所持するものは先ず万国正義院の殿堂を支える最も有力な柱の一つを建設する者としての義務と特権とである。次には、正義院が神の正義と秩序の二つの必須の原則を教え、宣布し適用する中核であり、先導者となるべき新しい世界秩序においての一流建設者としての義務と特権とである。――これら正義と秩序の二つの原則に対して、彼等の所属している社会を、ますます汚している政治の腐敗や道徳の乱れは悲しむべき著しい対照をなしている。[79]

 

 

 

 

 

誠実(正直)

 

 アブドル・バハはこう説明しておられる。「誠実は、人類世界における総ての徳性の基礎である。誠実がなければ、神の世界の全般にわたる進歩も成果も人間に及ぼし難い。この聖なる特性が人間の中に確立されるとき、総ての神の特質もまた実現されるようになるであろう。」[80]

 アブドル・バハのこのような力強い言葉は、誠実さの気高い地位と根本的な役割とを示している。人がこの徳性を身につける時は、虚言も彼の品性に対して何等の要求をも抱くことは出来ない。その者の高潔さの基礎は動かすことができない。

 誠実は、その者の高潔さを傷つけ事態を混乱に陥れるような二重の基準を持っていない。二重の基準は、価値の二重の系統の上に立っている。―― 一つは精神的自我の大志に基づき、真実に関わり合う。もう一つは、物質的自我の欲望や示唆に基づいている。[81]一度人が神の御目的を知る時、現代のための顕示者によって示されたような精神的自我の基準に結びつける。

 これらの基準は、如何なる弁明も合理化も妥協も許さない。バハオラは、神の人々に言及して、こう宣言しておられる。「誠実さと好意とは、いつも総ての人々と、それとの間の関係を示してきた。彼等の外面的行動は、ただ彼等の内面的生命の反射にすぎない。そして彼等の内面的生命は外面的行動の鏡である。如何なるベールも、彼等の信仰がその上に建てられている真理を隠したり曇らせたりすることはできない。」[82]誠に、誠実は神の基準と神及びその顕示者への信仰とに、しっかり解け難く結びつけられているから、バハオラは、こう断言しておられる。「神を信じない者は誰も信頼できず、誠実でないということを、しっかり承知せよ。」[83]

 誠実さの必要性は問題ではなく、総てのほかの徳性の発達に尽くす役割も重要であるが誠実を忠実に守ることは、他の人々に向って、それらにおいて、どう思うかとか、どう感じるとか、詳しく告げなければならないという意味ではないことを悟らねばならない。誠実と言うことは免許証ではない。何となれば、不注意な、無分別な、責任のない行動においても人は誠実であり得るからである。このようにバハイ信徒達は誠実であるよう訓戒されている。しかし、彼らは、また賢く、気転がきき、慎重で親切であるよう命じられている。要するに、彼らは、あらゆる状況下にあって精神的反応を示すよう努めなければならない。消極的な考えや感情や正直、偏見のない評価は、常に丁重さをもって和らげられなければならない。「総ての徳性中の主よ。」[84]

 言って置くが誠実と礼儀をもって、あなた達の飾りとせよ。[85]

 おお人々よ、誠実をもってあなた達の舌を美化せよ、そしてあなた達の魂を正直の装飾品で飾れ。おお人々よ、あなた達は誰をも不誠実に取り扱うな。あなた達は神の創造物中神より信頼さるる者となれ。神の創り給うた人々の中で神の寛大さの象徴となれ。[86]

 消極的な考えや感情は、他の人達の短所というよりは寧ろ、その者自身の短所から生じる。それらの存在することは、感化の美徳を実行する能力のないことと他人の誤りを強調しようとする願望を暗に示している。

 

 ―――誰の欠点をも見るな。寛大の視力でものを見よ。不完全な眼は短所を見る。欠点を覆い隠す眼は、人々の造物主の方を見る。[87]

 誠実が「総ての徳性の基本」であると丁度同じように偽りは「品性の中で最悪のものであり、属性中最も憎むべきもの」であり「総ての邪悪の源である――これ以上に、もっと非難さるべき品性が存在すると想像することは出来ない。それは総ての人間の完全さを打ち壊すものであり、また無数の悪徳の素である。」[88]

 大抵の人々は何がうそを構成するものかを認めているけれども、大多数の人は愛着と虚栄心とを、重複した一型であると考えていない。愛着と虚栄心とは、誠実のない所に現れる。何となれば、それらは自分自身でもっている誤った概念の上に成長するからである。かような誤った概念が他の者達の上に投影された時、感情に現されることが出来る(その者ではない何かであるようなふりをして)また虚栄(自己価値の誇張された感覚を表す)ことが出来る。誠実は、これらの諸性質に対して人を守ってくれる。それは、その者を真の自己に接触させ続けるからである。その特性によって人は自分の力や弱さを認めて、それらを受け入れることが出来る。何となれば其の本質は気高く卓越していること、また彼の完成へ向っての努力は彼の生涯を豊かにし救い出す過程にあることを知っているからである。

 

 

 

 

 

信頼(信用)

 誠に我は汝に告ぐ、信頼と、汝の主にして、大いなる玉座の主なる神の御前に、それが占める位置とを。ある日、我は緑の島(アッカのレズワンの園)に叛いた。我その中に入りしとき、小川の流れと青々とした木々と木の間をもれる日の光とを見た。

 右に面を向けば、ペンも記載し難いもの、最も純潔にして最も気高く、最も祝福され、最も高貴なる其処に人類の主の御眼によって眺められたものを見た。

 それから我は左折して進んだ。そこで我は御光の柱の上に立ち大声で「おお汝等天地の群衆達よ、我が美、我が光、わが風采、わが光輝を見よ。真実なるものなる神によって我は信頼に値する者、その顕示者にして、また、その美である。そして我は、それを信仰している者、その等級と地位を知り、その裳裾にすがりついたものへの報賞である。我は、バハの人々への最大の装飾であり、また光輝漂う王国にいる総てのものへの栄誉の外套である。我は世界の豊かさの最大の根源であり、生存する人々への平安の地平線である」と最も声高く呼びかけているのを見る。人類を創造の主のほうへ近づけるものを汝に、このように知らせたのである! 

 おおバハの人々よ!信頼は汝の寺院の最良の衣装であり、汝らの頭の最も素晴らしい冠である。万能の支持者の号令によって、それを信奉せよ![89]

誠にこれは、世界中の総ての者達への平安の扉であり、慈悲深い御方の御前から発散される栄光の御印である。それに到達する者は富と富裕の倉庫に到達したのである。信頼は人類の安全と平和への最大の扉である。諸事万端の安定は常に信頼そのものに掛っており、栄誉、栄光及び豊かさの世界は、その光によって照らされている。[90] 

バハオラは、信頼は崇高なものであると証言しておられる。信頼は世間に稀にしか見られない高貴な特性である。随って事務、職業及芸術等に於ての人事問題は、実に不安定である。誠に近代生活のあらゆる面に於て不信頼の影響が暴露されている。

近代社会のやり方と直接相反するものが実にバハオラの教ということが出来よう。

或者は、彼等の隣人の資質の高潔さを破ることを合法的と見做し、また聖典に記されているような神の命令を軽んじた。彼等に災いあれ、お力強く、全能なる神の懲罰が、彼等を苦しめ給え!高潔の夜明けの上に輝く御方によって!よし全土が金銀に変えられようとも、誠に信仰や奉仕の天に昇ったと言われ得る。人は誰も、それを認めようとしないであろう。ましてや、それを掴んだり保持したりしないであろう。[91]

誠に我は告ぐ、あなたの耳を我が妙なる声に傾けよ。あなたの邪悪な感情と不正な欲望の汚れから汝自身を聖別せよ。神の神殿内に住み、永遠の栄光の座に据えられるほどの者達は、よし飢えて死のうとも、彼等は、もろ手を拡げて不法にも彼等の隣人の財産を、よしそれがどんなに貧弱で価値ないものであろうとも、奪ったりすることを拒否するであろう。[92]

あなたの隣人のものを侵略しないよう注意せよ。あなたは自身の内に、隣人の信用と信頼とのあることを証明せよ。神の恩恵があなた達に授けた贈り物を貧者達に与えることをさし控えてはならない

汝の隣人の信頼に値するものとなれ。輝やかしい優しい顔で彼を見よ。貧者に対しては重宝な人、金持に対しては勧告者、貧窮者の叫びに応じるもの、あなた達の誓の尊厳の保持者となれ・・・・高潔と正直をして総てのあなた達の活動を識別させよ・・・・真理の顔への飾り、忠誠への額への王冠、正義の寺院の柱となれ。・・・・

神の友達は、今日にあっては、世界の人々に影響を与えなければならない灯である。彼等は総ての人類が彼等の実証垂範によって利益が得られるような信頼性、信用及び忍耐、行動と品性を示さなければならない。[93]

 

忠誠

信頼があるものの道徳的生き方の組織内に浸透する時、忠誠や高潔は、彼の品性を、はっきりと引立たせる。これらの品性は、信教の統合を確保し、その成長に欠かせないものである。バブ・バハオラ、アブドル・バハ及びショーギ・エフェンディは皆、信教のためなら要求されたことは何でも犠牲となって行ったあの忠実な信徒たちの内に、またその結果として拡大された信教に非常な慰めを見出された。苦難や試練の嵐が大業を取り巻いた時はいつも、彼等の信仰に忠実であり、びくともしなかった人達は、和合を維持しつつ、それを取りまく幾多の困難を切り抜けて、大業に対し英雄的奉仕をすることが出来たのである。

ショーギ・エフェンディの信仰に対する定義は忠実が、非常に高い地位にあることを示している。

  信仰とは、最初は、どんなに込みいったように見えようとも、また暗い見解、無力な教義、未熟な理論、くだらない妄想、果かない乱世に流行する考えとは如何に相違していようとも、啓示され明白な神の御意であると信じるものへの絶対的服従、一意専心の忠誠、断固とした忠実さの別名に外ならないものではないであろうか。[94]

今日我々の忠誠の目標は、バハオラの誓約であり、それはバハオラに対し、バハオラの誓約の中心であるアブドル・バハに対し、大業の守護者であるショーギ・エフェンディに対し、また管理運営秩序に対する忠誠を意味している。管理運営秩序への忠誠は地方並に全国精神会及万国正義院への忠誠を要求している。バハオラによって制定され、アブドル・バハによって記述され、ショーギ・エフェンディによって、予期された最高機関である万国正義院は、二人の顕示者によって導かれ保護され、[95]神の顕示者の結合力の制度化を示している、歴史上初めて人類は、バハオラの次の顕示者[96]が出現する迄、神からの直接の絶対的確実な指導を保証されている。この神の指導と精神的支持は、バハオラの世界秩序の管理運営機関を通じて各信徒に伝えられる。

信教の管理運営諸機関への忠誠は、精神の健全さを保護し維持する。それは各人の信仰の度合いを示すものであり、それ自体確信に引きつける一因となる。反対に、掟や信教への不従順として、しばしば現わされる不誠実は、不忠実の現れであり、信仰の欠如である。バハオラはこう書いておられる「神の命令を破るものは、彼等の告白している信仰に対して信頼に値し、又誠実だと期待しては、いけないと。[97]「不誠実は大業の進展を妨げるが、それは、その進展を止めたり、最后の勝利を妨げることは出来ない。しかし個人に於ける不誠実の結果は、誓約を故意に破った人々の哀れな運命によって見られるように破壊的であり得る。

忠誠は、また人間関係に行き汲らなければならない。それは特に、信頼と誠実とが健全な愛の環境の創造に役立つ家庭に於ては重要である。信頼と忠誠が家庭内に現れる時、安定した人格の発展のための精神的基礎が置かれる。かような雰囲気は、葉倍の家庭、集会、学校及び共同体に特性を与えなければ、ならない人間の可能性を漸進的に放出さすのに必要である。

バハオラは、彼の信徒達に彼等の政府に対して忠実であるよう命じられた。

  各国民は主権の地位に対して高い尊敬を持たねばならない。それに従順でなければならない。それの命令を実行しなければならない。またそれの権威を維持しなければならない。地上の権威は、神の威力及尊厳の顕示者たちであったし又現在もそうである。この虐げられた者(バハオラ)は未だ嘗て誰をも欺いたことはない。誰でも、このことをよく知っている。そしてそのことを証言している。主権の地位を尊敬することは、神が定め給うたことであり、神の予言者達や神の選び給うた者達の言葉によってそれは明らかに証言されている。[98]

 この共同体のどれかが存在する国において彼等は、その国の政府に対して忠実、信頼および従順をもって行動しなければならない。[99]

 おお汝等、主に愛される者達よ!あらゆる正しい王に対して従順であれ、またあらゆる正しい王に対して忠誠を示すことは、汝等の義務である。汝等は、世の主権者達に誠実と忠節をもって奉仕せよ。彼等の許可や認可無しに政治上の事柄に干渉するな。それは正しい主権に対して不忠誠であることは、神御自身に不忠実であるからである。

 これが私の忠言であり、あなた達に対する私の命令である。これに従って行動することは、彼らにとって幸せである。[100]

 ショーギ・エフェンディの秘書が代筆して次のように書いている。

 (あなたの質問に関連して)われわれが従わねばならない主要な原則は、我々の住むどこかの国の勢力ある政府に対しても従順であるということである。・・・

 それ故我々は二つのこと即ち伝染病と同じように政治運動を避け、我々の住む場所の有力な政府に従順であれということを実行しなければならない。・・・例えば我々の信教を否定するとか言うような精神的原則に関すること以外の総ての場合において従順でなければならない。これらの精神的な原則のためには、我々は喜んで死ななければならない。我々バハイ信徒達が直面しなければならないことは、社会が非常に早い速度で崩壊しつつあるから、半世紀前には清潔であった徳義上の事柄が、今日では望みなく混乱され、そのうえ、斗争する政治上の利害関係と全くからみあっているという事実である。それ故バハイ信徒達は、全力をバハイ大業とその管理運営とを築き上げる回路の方に向けなければならない。彼等は現在どんな他の方法を講じても世界を変えたり助けたりすることは出来ない。もし彼等が世界の政府たちが争っている問題に捲き込まれるようになったら、彼等は取り返しがつかなくなるであろう。しかし、もし彼等が、バハイの方式を確立するならば、彼等は、他の総てのものが失望している時に、一つの救済策として、それを提供することが出来る。[101]

 誠実とか尊敬とかの意味合いである政府に忠誠であることは、その政府を公正であるとか不公正であるとかとして受け入れようとする条件とは違った反応である。ショーギ・エフェンディは、こう書いておられる。

   我々は個々のバハイ信徒として、我々の政府を正しいとか正しくないとか判断する者ではない――それというのも各信徒は確かに異なった見解を持っており、我々自身のバハイ信徒団の中に意見の相違の温床が発生し我々の和合を破壊するであろうからである。彼等自身の道を行こうとする世の中の過った組織を去らなければならない。彼等の中に捲き込まれて彼らを支えることはできない。反対に彼等は我々を破壊するであろう。[102]

 その支配の下にバハオラが住んでおられた政府に対する彼の行為は、この原則を説明している。彼の書かれたものが確言しているようによし彼がナサイレド・デン・シャーとかサルタン・アブドル・アゼズのようなあんな暴君たちによって無惨にも迫害されたとはいえ、祝福された美(バハオラ)は、決してこれらの政府に対してどんな行動も起こさなかった。バハオラは、ナサイレド・デン・シャーのことを「迫害者達の王子」と名づけた。それは彼がバブの死刑に同意し、バハオラのペルシヤからの追放に責任があり、ペルシヤにおけるバハイの総ての痕跡を粉砕し、正義と公正の町々の住民達を嘆き悲しめたからである。[103]トルコ国王アブドル・アジズは、バハオラが「最大の屈辱のもとに、この国に我々を追放した」「その者の目的は我々を破滅に追い込み、我々を卑しめることであった」また「なんらかの正当性や理由もなしに我々を圧迫しようと立ち上がり、我々をアツカの要塞に送った」[104]と言われた支配者であった。かような苦難にも拘わらず、バハオラはこう証言しておられる。「この虐げられたものが、いつも政府や人々の栄光の助けとなることを、何事によらず、しっかり固守して来たことを神はよく知り給い証言し給う。誠に神は、十分資格をもち給う証人におわします。」[105]

 バハオラが住んでおられた所を管轄していた政府に対するバハオラの態度を通観する時、政府への忠誠の原則は非常に重要な意味を持つ。忠誠のこの原則と服従についての、その関わり合いは、アメリカの政治上のイデオロギーとは全くその性質を異にしている。アメリカのイデオロギーでは、公民としての不服従の点まで、その者の良心に従うほど各市民の自由を尊重している。

 政府への忠誠の原則は、――バハイ信徒が彼の政府に従順であることを要求してはいるが、バハイ信徒達が政治組織を支持すべしという意味に誤解してはならない。その政治組織は、国民や政党や派閥を作ってたがいに争わせるものである。ショーギ・エフェンディは次のように書いておられる。

   このような論争において、彼等はいかなる非難もせず、どちらにも組せず、陰謀を助長すず、守り育てるのが彼等の目的であるあの世界的友情の最高の重要性に不利となるどんな組織にも提携すべきでない。彼等が不徳な政治家の道具になったり、同郷人間の陰謀者達や不誠実な者達の策略により、だまされないように注意せよ。どんな秘密主義の詐欺の収賄の脅迫の罪も。正当な理由がなくとも、彼らに対してもたらされないよう彼等の生活を整え、彼等の行動を調整せよ。彼等をして総ての排他心や党派心を乗り越え。空しい論争や狭量な打算、変りつつある世の中の表面を掻き乱し、注意をひきつけようとする一時的な果かない激情から超越して立ち上がらせよ。外交的および政治的であるような地位と機能とを、性格上純然たる行政的なもののそれらとを出来るだけ、はっきりと、もし必要なら彼等の選出された代議員の助けによって区別するよう努力することは彼等の義務である。そしてその地位や機能は、あらゆる国において政治活動や政党政治が必然的に捲き込むに違いない変化や機会によって決して影響されないものである。政治家のすることから分離できない紛糾や論争を避け、全人類に対する神の不変の御目的を実現させるあの神の御方針の価値ある代行者となるようバハオラの目指される道に向って彼等をしっかりと遠慮なく立ち上がろうとする断固とした決心を固めさせよ。[106]

 ショーギ・エフェンディが更に説明して言われるには、どちらにも偏らない公明正大の

態度は、決して政府への忠誠の原則に矛盾するものでないばかりか、市民が実際に政府に

対して示すことのできる奉仕の最高の表現であると。

 かような態度は大業に対し、また彼等自身の国の利害に対して全然無関心であるという

ことを示すものでもなく、また承認されて設立された政府の権威に対し、彼等の方として

何等不服従を示すものでないことを間違えないように明確にすべきである。また、それが

彼等の政府や人々の最高の利益を、最も有効な方法で増進させようとする彼等の聖な義務

の放棄となるものでもない。それは自分の属する国の最高の利益に対し、私心のない高ぶ

らない愛国的な方法で、また自分の信奉する信教の教えに伴う高潔と正直の高い標準から

少しも離脱しない方法で、奉仕しようとするバハオラの真実で忠誠なあらゆる信徒の懐く

希望をしめすものである。[107]

 多くの政治機構中には、不正行為が発見されることがあるから、バハイ信徒達はその腐

敗や不正手段に対する種々の弁明がどんなによく正当であるように見えようとも、これら

の論争のどの側にも加担しないよう特に注意しなければならない。ショーギ・エフェンデ

ィが忠告しておられるように「彼等は、どんな非難もせず、どちらにも組せず、どんな陰

謀も促進せず、自身を守ったり育てたりするのが彼等の目的であるあの世界的友情の最高

の利益不利となるどんな組織とも提携すべきではない。」[108]それどころかバハイの管理運営秩序を確立し、神の特性を実証し、範を垂れることによって、バハイ信徒達は、バハオラによって啓示された神の制度のみが、人類を混乱、腐敗及び分裂から救い、世界平和と真の安全を導くことができることを、一般大衆に示す無比の機会を掴むことができる。

 

高潔(清廉)

 高潔は、忠誠と同様に真のバハイ信徒の特色となる。高潔とは完全な損なわれていない健全な純潔の状態である。それは、いつも特に試練や苦難に直面した時に道徳的な清廉さを示す能力を意味する。人間の高潔さは誠実、信頼の二つの柱の上に置かれている。それは、原則と妥協して、もっと楽にすることを目的とするどんな利己的な利害関係や政略的な利益やあるいは巧妙な合理化に対し何らの譲歩もできない。ルヒヤ・カヌーンの日記からの記事は、ショーギ・エフェンディの絶対的な高潔さを示している。

 家族の一人が亡くなって、その未亡人が家にきて、ショーギ・エフェンディに亡夫の遺言の条項を受け入れて、大業のためにお金を受け取ってくれるようお願いした。またアブドル・バハが旅行で西洋に行かれた時に、彼女に保管を委託されたバハオラの非常に貴重な認印を彼女から受け取ってくれるようお願いした。彼女は、その家族の中の破門された人達と接触していたから、ショーギ・エフェンディはどちらも受け取らなかった。

 ・・・彼は百万の印鑑も、カルメン山全部も欲しくないと彼女に告げて言われた。彼は誠実と忠誠を望んだ、そして誰の家族から完全に彼女自身を・・・彼女の心の中で切り離したのでなければ、彼は彼女の為に何もしてやり、また印鑑も遺言も保管することはできなかった。・・・守護者は・・・資料館にとって・・・非常に貴重である・・・多くの印鑑を非常に欲しかったであろう。しかし彼が私に告げたように彼は快くその印鑑を受け取ることはできず、彼女を家から追い返した![109]

 

信頼性

 信頼性は忠誠や高潔の中に現されているが、それはまた各バハイ信徒が信頼性と几帳面さを現すことを求めている。それというのも、これらは各人が信頼されることのできる確実な証明であるからである。信頼性は、どんな企業においても円滑で効率のよい機能を果すのに必須である。総ての事業の中でも最大のものすなわちバハオラの世界秩序建設においては、信頼性は各人と信教の管理運営諸機関との間の関係および信徒仲間達との間の関係双方にとっていつも特になくてはならない徳性なのである。信頼性がないと、速やかに伝達を促進することを怠ろうとあるいは完全に手早く委託を最後まで進行しようと、神のお恵みの流れを妨げ、大業の進歩を遅らせ、その者の個人的および職業上の関係に面倒なことを持ち来すであろう。

 信頼性は、また個人の経済問題の運用に際して??を導く主要な原則でもある。総ての契約や協定が尊重され、負債が期限どうりに返済され、最も厳格な正確さが、金銭の受領、分散および使用の際に認められることを、それは要求している。金銭が貸される時、また、それが返済される時、経済上の取引が親しい友人間で行われる時でさえ受領証を発行することも、この中に含むことができる。かような習慣は、かかり合いになっている各人を保護するばかりでなく、正義と秩序が社会組織中に存在する必要がありとするなら総ての人々も、正直清廉の圧倒的力に従っていることを示している。ショーギ・エフェンディは、秘書を通じてこう書かれている。「我々の負債は・・・神聖なもので、またどんな他のものよりもまさるものと考えられねばならない。その訳は、この原則の上に我々の経済生活の基礎があるからである。」[110]

 

時間厳守(几帳面)

 信頼性の一つの面は几帳面である。能率や順序に貢献することも、また他の人々への関心を示す。遅刻することが容易に許されると感じている人は、(もし委員会や精神行政会が関係しているなら重大であるが)彼の遅刻が、他の人々から、彼の出席迄の時間や貢献を奪うばかりでなく、また彼の到着した時、その集まりを妨害することによって、またもしその会合が彼の遅刻によって遅くまでかかるなら、また仕事が終わらずに残る場合、別にまた会合を催させることによって他人に迷惑をかけるかもしれない。時間までに目的地に到着出来るよう家を出発するには、それまでに他の用事を整理し、また家庭においても家族が協力して、予定の時間に出発できるよう強調する必要がある。時間を守ることは、容易な業ではなく、訓練しようとする努力によって習慣づけることができる。

 時間においての態度は文化から文化へと変わっていくが、バハイの時間厳守の見解は、種々の文化的定義とは、とって代わっている。何となれば、それは総てのものが他人に不躾にならないよう彼等の仕事を準備することを要求しているからである。従って時間においての異なった見解を持つ人々が打ち合わせをする時は、彼等は、お互いに対し礼儀正しくあるために、何処にいるとか、仕事を仕上げるために時間が決められる時は、それどういう意味か同意しなければならない。

 

 

 

 

崇敬(尊敬・敬意)

 神の荘厳さ、優美さおよび威力に直面した時、人はしばしば深い謙遜卑下の心と崇敬の念を経験する。――心からの尊敬の念、しばしば畏敬、脅威、愛着あるいは恐怖を交えている。[111]神の荘厳さと優美とは総ての創造物中に見ることができる。しかし神の威力は、神の大業の不可抗力な進展の内に最も明白にあらわれている。神の御目的の堅実な実現の歴史と神の愛し給う者達の英雄的行動は、神の眼に見えない威力を立証し、脅威と驚嘆の念を呼び起こす。

神の威力は、また神の御目的を傷つけ、神の予言者達を迫害し、神の信徒たちを拷問にかける者達に降り掛かる悲惨な出来事となって示される。彼等の没落は、彼らが粉砕しようと謀っている大業の勝利と同じくらい確実である。恐らく他の何物にもまして、これらの神の天罰の証拠は人間の鼻を折って卑下させ、神の報復的怒りに対する、もっともな恐怖の念を起こさせる。この恐怖こそは、世の中の秩序の維持や人々の教育に重要な役割を果たすのである。

栄光のペンが天国の楽園の第一頁に示され記載された最初の言葉はこうである。「誠に我は告ぐ。神への畏敬は、世の総ての人々にとって確実な守りであり、安全な砦となっていた。それは人類の保護の最高の根源であり、その保存の無常の道具である。」[112]――人間を、内からも外からも悪い行いから防ぎ守るものは、神への畏敬である。神への畏敬は、真の保護者であり、理想の擁護者である。人々は、この大きな贈り物の出現を促す御方を支持し、それに帰依しなければならない。我が至高のペンが述べたことに耳傾け、古来の指揮者の側に立って、命じられた通り行動する者に祝福あれ。[113]

神への畏敬は、神の大業を守る盾である。神に従う人々が勝利に到達し得る盾である。それは、誰も品位を落とすことのできない基準である。いかなる力も対抗できない威力である。その助けによって、また万軍の主なる神の御許しによって、神のお側に引き寄せられた彼等は、人々の心の最後の拠所を征服し、打ち勝つことが出来たのである。[114]

神への畏敬は、神の創造物の教育における主要な要素であった。そこに到達した者達に祝福あれ![115]

神への畏敬は、崇敬という特性の発展に根本的な役割を演じている。それによって人は神に依存していることを認め、神の御目的を食い物とする人々の生命を荒廃させる神を、畏れと尊敬の念をもって見上げるからである。かような態度は、神を「王、保護者、無比なる御方、全能なる御方」[116]と認めさせるようになる。

現代人は神への畏怖を失って来ているから崇敬の念は恐らく世の中から著しく姿を消した素質となって来ている。「世の中の総ての人々のための確実な守りであり、安全な砦」である神のあの特性に対し背を向けるほど人間は自分自身の能力と力に自信を持つようになって来た。疑いもなく神の万能の御力に対するこの否定は、社会を悩ます暴行や混乱の主な原因である。

崇敬は、世の中が、バハオラとその教えに目覚めて来るにつれて、ますます人間の行動の中に現れて来るであろう態度である。バハイの教えでは崇敬の念の現し方について一定のきまった型はないから文化の違いによって異なった種々の型が生じるかもしれない。[117] そこで一人の信徒に涙を流させ、平身低頭させるものが他の者を沈黙させ、きちんとした姿勢をとらせることが出来る。この二つの反応が崇敬の表情であるということが出来る。一般に崇敬の表現は形式によって促進させる。形式がないと崇敬の念を損なう傾向がある。何となれば、無意識は一つの対象物への注意の商店を種々の事物へ分散させるからであり、随って崇敬に価するものから考えや感情を他にそらせることが出来る。[118]

バハイ信徒達は崇敬の念を表現するために共通の形式は持っていないが、彼等の信教と他の宗教とに属する寺院、機関、象徴、聖典、及び物件に対して崇敬を示すことでは一致している。彼等は先祖伝来のものを尊敬しているから、彼等がその生活を霊化しようと務めるにつれて、彼等が尊敬しないものとは区別して扱うようにさせられる。

聖地を訪問することに就て尋ねられた時、アブドル・バハは、次のように書かれた。

あなたは聖地を訪問すること及びこれらの輝かしい場所に向って著しい崇敬の念を捧げる事に就て尋ねられた。聖地は疑いもなく神の御恵の注ぎ出される中心である。それというのも殉教者達や聖人達と関連を持った輝やかしい場所に入って崇敬の念を捧げることによって、肉体的にも精神的にも非常に大きな感激を以て感動させられるからである。しかし次の三箇所即ち最大の聖廟、バグダッドの祝福された館及びシラーズのバブの敬慕される家以外の場所は各人にとって訪問する義務はない。これらを訪問することは、もし余裕があり、そうすることが出来るなら、これらの聖地を訪ねることは、やらなければならない義務である。詳細は書簡中に述べられている。これら三箇所の聖地は、巡礼の為に献げられている。しかし殉教者達や聖者達の他の墓所に就いては、もしそれらを訪ねて神に近づこうと望むならば、神の眼から御覧になれば んで御嘉納になることである。しかし、このことは拘束力のある義務ではない。[119]

信教の中心的御方々と関連のある聖所(複数)は、明らかに崇敬の念を起させるが、中心的御方々の精神の流れている信教の諸機関も、同様に崇敬に価する。万国正義院、全国精神行政会及地方精神行政会(バハオラの管理運営秩序を司る杖であり、バハイ啓示の精神と偉力が、それを回路として流れ出る機関と見做されている)この行政会は、地上に神の王国を建設する機関である。各人がこれらの諸機関に示す尊敬、卑下及従順は、その者自身の精神的健康を守るばかりでなく又諸機関を強化するであろう。神の大業の翼成者、大陸顧問団及び補佐等の諸機関は、バハオラの世界秩序の、もう一つの部分を構成している。これらの諸機関に奉仕している各個人は、信教を布教する友人達を激励し、内部の試練から信教を保護する責任が与えられている。彼等の献身的な奉仕もまた尊敬を集め愛着を引つける。

各人は、また自分の精神的生活の拠り所とする真理を代表する象徴(複数)に対し尊敬を払っている。結婚式のウェディング・ケーキの上に最大の御名を置いたり、祈りの本を、まるで雑誌か何かのように或人に向って投げつけたり、セーターや自動車のバンパー・ステッカーに、バハオラの名を印刷したり、商業上の目的で作曲された音響にバハオラの名を入れたり、信教においての抒情詩を入れたり、世俗のダンスと組合せた動作に最大の御名や聖なる文書の歌を伴奏させたり、お祈りの間に煙草を吸ったり、だらしない態度をしたり、編物をしたり、フィーストの時に海水着で出席したり、協議中に脚をテーブルの上に乗せたりすることは皆、崇敬の欠けている例である。

信教の聖典、最大の御名の象徴、アブドル・バハやショーギ・エフェンディの写真が大いなる崇敬と尊厳を以て取扱かわれ展示されることが特に重要である。更に礼拝堂内での服装や態度は、内部の献身が、外面に反映したものでなくてはならない。バハイの基金、結婚の制度及び、その者の家族に関連した態度もまた崇敬の念を反映させるべきである。要するにバハイの目指すところは、崇敬の態度を、しっかりと、その者の中にたたき込み、それが習い性となって、総ての考えや行動の中に、その態度が自然とにじみ出て来るようにすることである。

 

 

 

 

10

純潔と神聖

バハイ信徒達自身の共同体の人々との社交関係と、一般世間との接觸との双方に於て、各バハイ信徒は、自分の生活の中心として、ショーギ・エフェンディが、総てのbshシ信徒達の態度と行動の規制原則[120]と名づけられたことを実行に移さなければならない。バハイの行動にとっても、バハイ共同体の威力と活力にとっても重大な役割を演じるものとしての、この原則は、純潔で清らかな生活の原則である。ショーギ・エフェンディは、こんな風に書かれた。

純潔で聖らかな生活に関して、それはバハイ共同体の強化と活力付与に対する本来の役割を果さなければならない要因にも劣らないものと見做さるべきである。如何なるバハイの計画や企ての成功も、代る代る、その要因の如何に掛っているのである。近来無宗教の力が道徳的素質を弱めつつあり、また人としての道義の基礎を侵食しつつあるこの時に当り、純潔と霊的正常さの義務が、信徒達の注意の分け前の増大を主張しなければならない。彼等の個人能力に於ても、またバハオラの教の利害関係に責任ある管理者としても。彼等の国に於いて目下拡大しつつある過度の無気力的な物質主義から、もたらされる特別の事情のために非常な重要性を増してくる。かような義務の遂行に当たって彼らは著しく有力な役割を演じなければならない。彼等は皆男女を問わず、宗教の光が次第に消えつつあり、またその拘束力が一つ宛廃止されつつある時に、立ち止まって自分を内省し、彼等の行動を吟味し、特有な決意をもって彼等の共同体生活から非常に清らかで貴い信教の名前を汚し、高潔さを傷つける道義上のだらしなさのあらゆる痕跡を共同体から追放するために立ち止まらなければならない。

純潔で清浄な生活は、彼等自身の共同体の人々との間の交際に於ても又一般世間との接触に於いても支配的な原則とされなければならない。それはバハオラの教の神託を宣布したり、その業務に携わったりする羨ましい地位にある人々の絶え間ない骨折りと、賞賛に価する努力を飾り又援助して行かなければならない。それは、その信教の列に加わる人々のあらゆる生活の面、即ち家庭にあっても、旅行に於ても、クラブに於ても、社交に於ても、娯楽に於ても、学校に於ても、大学に於ても、その総ての高潔さ及びそういう類のもので支持されなければならない。各バハイ夏季学校の初回活動の指導やバハイ共同体生活が組織され育成される他のどんな機会にもそれは、特別の考慮が払われなければならない。それは、バハイ青年のバハイ共同生活の一要素として、又彼等自身の国の青年の未来の発展や方針決定の要素として、バハイ青年の使命と密接に間断なく提携されなければならない。

謙遜、純潔、節制、品位及心の清さと掛かり合いを持つ、かような高潔で清浄な生活は、衣服、言語、娯楽及び総ての芸術的、文学的仕事に関する万事に於いても同様な意味合いの適度さを持っている。それは、肉欲や堕落した好みの抑制に日々の用心を求めている。それは、ささいな、しばしば悪用された娯楽への過度の愛着を伴う浅薄な行動の放棄を要求している。それは総てのアルコール飲料、阿片、又同様な習慣性を表す薬剤から完全に禁欲することを要求している。それは、美術や文学の悪用、裸体主義や友愛結婚の実施、夫婦関係の不義、及び総ての男女の乱交、みだらな関係及び性的堕落行為を非難している。それは退廃時代の理論、基準、習慣及び不摂生とどんな妥協も黙許することは出来ない。否むしろ、それは実証垂範の威力によって、かような理論の邪悪な性格、かような基準の虚偽性、かような主張の空虚さ、かような習慣の邪悪さ及びかような行き過ぎのけしからぬ性格を実際に示そうと望んでいる。[121]

バハオラは、信徒達に次のように勧めておられる。「おお汝等我が愛する者達よ!我が聖なる衣服のへりが、この俗界のもので汚せれ、汚されることを許すな。そして、あなた達の邪悪な腐敗した欲望の扇動に従うな。」・・・彼の書かれた約束であるが、「人類は性格が無比である。彼は解脱の足をもって天上と地上にいる総てのものの下を歩み、聖なる袖を、水と粘土から創られた総てのものの上に投げかけるであろう。」・・・彼は宣言する「そもそも彼の世俗的な欲望に従うかあるいは心を世俗の事物に執着させる者は、バハの人々と共に数えれるべきではない。もし彼が純金の谷に来ても、雲のように遠ざかって、それを通り過ぎ、戻りもしなければ止まりもしない者は、我が真の信徒である。かような人は確かに我が者である。天上の群集は彼の衣から神聖な芳香を嗅ぐことができる。・・・そして、もし彼が最も美しい最も顔立ちのいい婦人に出会うとも、彼は彼女の美に対する情欲の最小限の蔭さえも彼の心は誘惑を感じないであろう。かようなものは実に汚れのない純潔な創造物である。あなた達の主、全能にして全く恩恵深い御方によって命じられたように、神のペンが、あなた達に教えているのである。」・・・「誠に我々は我が聖典中に邪悪の面をそむけ、純潔な信心深い生活を送るものには誰にも立派な沢山の褒美を定めておいた。誠に、彼は偉大なる与えた給う御方であり、全く慈悲深い御方に在します。」[122]とは、神の保証である。

しかし道義に適った行動の、かくも高い水準の維持は、どんな型の禁欲主義とも、または、行き過ぎた偏屈な清教主義とも提携したり、混同されてはならない。バハオラによって教え込まれた基準は、どんな状況の下にあっても、決して万物を愛し給う創造主によって世界が十分豊かに与えられてきた多くの楽しみ、美しいもの、歓楽から最も豊かな利益や恩恵を享楽する正当な権利や特権を誰に対しても否定することを求めてはいないのである。バハオラは御自身我々に保証しておられる。「もし地上の装飾品で身を飾り、衣装を着、それが与えることの出来る恩恵に浴したいと望むなら、そして自分と神との間に何ものも邪魔に入ることを許さないなら、どんな障害も彼にふりかかるはずがない。その訳は、神は僕の内で御自分を真に信仰するようなもののために天上で創られたものであろうと、地上で創られたものであろうと総て良いものをお授けになるようお定めになっておられるからである。おお人々よ、神があなた達に許し給うた良きものを食べよ、そして神の素晴らしい恩恵を拒むな。神に感謝と賛美を捧げよ。そして真に感謝するものとなれ。」[123]

神聖さ(霊的清浄さ)は、神の御意に従ったものの特性である。それによって健康と完全の状態を確保する。神聖はまた精神的傷害から侵されず保護され、随って清められていることを意味している。このように神聖であることは、目的のない禁欲主義や清教徒的なこちこちの頑固な信仰に変えることのできる物質主義から純潔を救うのである。[124]神聖さのない純潔は硬直、上品振り、独りよがりになる。純潔のない神聖さは名辞矛盾(例えば円い四角形とか、二辺の三角形)である。

バハイ共同体生活を発展させる上で、各人の精神的健康の維持及び結婚に対するしっかりした基盤の制定は如何に評価しても、評価しすぎることは出来ない。[125]バハイの教えは純潔と神聖(霊的清浄)の性格と重要さの意味を明瞭に示している。そして生活のあらゆる面での根本的な変化を求めている。

純潔で清らかな態度の模範が発展して、バハイ共同体を目立たせ始める時に、男性であることと女性であることとの概念は、再検討されるであろう。そして、もと健全な態度と価値とが現れるであろう。これらは、人間の実利主義的観念や両性の不平等に基づく性の役割に根ざす刑事犯や種々の型の感情的苦悩(心の悩み)の解消に著しく貢献するであろう。

純潔と心の聖さは男女の同権を増進させる。その訳は、人々の性は、同一の目的即ち神を知り、神を愛すという目的を分け合っている精神的な生物として各性は他を見ることを要求するからである。男女がお互いに共通の目的という観点から他を見る時、彼等が持っているかもしれない誤った憶測は、あばかれ、偏見や型にはまった態度は根絶させられるであろう。

バハイ共同体において、一層健全な態度と価値を増進することの他に、純潔な曇りのない視野をもって関連性を各人が評価するのを助ける。関連性の本質や基礎を認める能力は、結婚を考えている時特に重要である。肉体的接触は、調節し難い感情を引き起こすばかりか、人に彼あるいは彼女の感情においての偏見を与え、また一組の男女に彼等の間の関係の本質において誤った理解を与えるかもしれない。このことは、結婚が結ばれたことを誓う、もっとも根本的な精神的公約に先立って誤解された感情的公約をするようにさせるかもしれない。

生活を純潔で聖らかにするようにと要求することによって、人は、とてもかなわんと感じるかもしれないが、それでも尚日々の基盤の上に動作を移して行くよう努めなければならない。ショーギ・エフェンディは、秘書の代筆でこう書いておられる。「バハイの基準は非常に高い。現代の世の中の全く腐敗し切った道義に比べる時は特に一層高い水準にある。しかし我々のこの基準は、もっと健全な、もっと幸福な、もっと気高い人々を作るであろうし、また一層安定した結婚を産み出すであろう。」[126]純潔と神聖(清浄)が日常生活において調節する原則となると気づく時、世界秩序に対しても、また確実な基礎の存在することに気づくであろう。そして実証垂範の威力の影響を経験し始めるであろう。

 

 

 

12

礼儀(優遇、いんぎん、親切)

 

 純潔と神聖さが、バハイとしての行動を律する原則であるが、礼儀は社会の相互作用に反映される一組の態度である。それらの態度の中には、神によって創られた精神的なものとして各人に対する尊敬がある。礼儀は、それぞれの社会活動を調節し、人が活動する態度に表される。我々が得ようと努める他の特性、例えば誠実、正直、忍耐及び同情というようなものが動作に表される時には、いんぎんで飾らなければならない。礼儀がないと、それぞれの効果は減少されるからである。例えば、正直なんだが、粗野だということもあり得る。忍耐強いが陰気であり、役に立つが横柄であり、情け深いが、うるさいということもある。バハオラは、高級な礼儀を指して、「総ての美徳中の主」と名づけられた。

 おお神の人々よ!私は、あなたに礼儀を勧める。礼儀は、首位にあり総ての徳性の主である。礼儀の光で照らされ、正しさの外套で飾られている者は幸いなるかな!礼儀を授かっている者は、大きな地位を授かっているのである。この抑圧されている者達もそれに到達し、それを支持し、それを守ることを望まれている。これは最大の御名のペンから流れ出た、また示された反駁出来ない命令である。[127]

 礼儀は他の人々の人間性に対する根本的な尊敬と敬意に基づいている。それは、他の人々に対する行動を、彼等の人格に基づくよりは寧ろ神が創り給いしものとしての彼等の本質に基づかせるのである。何となれば、その表現は、他の人の態度や行動によるのではなく、礼儀は個人の好き嫌いが押し付け得る限界を越えて高められることが出来るからである。この見通しから見ると知らない人々にも、粗野で無礼な人々も含めて総ての人々に礼儀正しくあれというバハオラの訓戒のかげの理由は明白である。

 礼儀は家庭内におけるよりも、もっと重要な所はない。一緒に住んでいる人達には許されると思いがちであるから彼は家族を気にかけなかったり、無頓着や尊敬の念を欠くような無作法な方法で家族に話しかけたりする。礼儀は各家族の高潔さを増進し、家族の和合に重要な慈愛の精神の維持を助ける。

 礼儀はまた、どんな集合体の中の和合をも打ちたて、またそれの維持を助ける。その訳は、それは人間の高い地位に対する尊敬に基づいているからである。礼儀は、その者の真の自我と接触させる。一貫して実行される時は、潜在力の放出を促進し、また他の者の中にある最良のものを引き出す。総ての者が礼儀を示す時は、その集団は浄化され統合されるようになる。礼儀正しく行動することが出来なければ、この霊的な環境を崩壊してしまう。かような我欲の消極的な表現は、他の人々の前に自我をさらけだし、尊敬の念の欠如を示し、恐らく、でしゃばりとなり、押しが強くなるであろう。――これらは皆集団の和合を崩してしまう。

 次の出来事は、アブドル・バハが如何に礼儀を身をもって示したかを例証し、彼の行動の力強い効果を物語っている。メー・マックスウエル(ルヒヤ・カヌーンの母堂)が最初の巡礼の経過中病気になった。メー・マックスウエルは、次のように書き記した。

 

 日曜の朝我々は、カルメル山上の会合の喜びと希望で眼を覚ました。マスターは非常に早く到着され、私を見て、私の額に手をあてられ、脈を数えられ私の手をとったまま出席している信徒達に言われた。「今日は、カルメル山上の会合は止めましょう。神が思し召すなら数日して、どこかで会合しましょう。しかし我々は、神の愛し給う者達の内の一人を病気のまま独り置き去りにして置くことはできません。我々は、総ての愛されている者達が幸せでなければ、幸福ではあり得ません。」我々はびっくりさせられた。この祝福された場所での、この会合のような重要なものが、一人の者が病気で行くことが出来なかったために中止にされようとは、信じられないように思われた。それは、通常の習慣や行動と非常に相反しており、日々の出来事や物質的環境が最高に重要である俗世間の生活とは非常に違っているから、そのことは我々に全くの驚きのショックを与えた。そして、そのショックを受けて古い秩序の基礎は、よろめき倒れはじめた。マスターの言葉は、神の王国の扉を広く開けて、唯一の掟が愛であるあの無限の世界の様子を我々に見せて下さった。これは、アブドル・バハが、あらゆる人々に愛情、親切、同情及びあわれみを与えようと考えておられるのを幾度も見た内の只一例に過ぎなかった。[128]

 

 

 

 

12

清廉(潔白)

 

 清廉とは、一般に美点を損ない、汚しあるいは不潔にすることから遠ざかることをいう。このような汚れのない状態は、本質的価値が現され、目的が成就される。例えば、きれいな澄んだ川は、その美しさによって、人の精神を高め、生態学的平衡の維持に必要な酸素、窒素、水及び食物の循環に役立つ。しかし、工業廃棄物や土地の浸蝕によって汚された川は、これらの循環の流れを崩壊させ、汚くなる。同様にして、人間の清廉さも、神の属性の総てを反映する状態と定義されることができる。不潔は、その目的を達成するのに邪魔となる品性中の欠陥である。

 おお我が僕よ!

 汝はよく鍛え上げられ、暗い鞘に封じ込められた剣のごときものであり、その剣の価値

は、鑑定家に知られぬよう隠されている。それ故、自我と欲望の鞘より抜け出でよ。さ

らば汝の真価は輝き出で全世界に明らかとならん。[129]

この隠されたる言葉が示唆しているように、人間の価値を隠している二つのヴェールは、自我と欲望とである。―――これらは人間の二つの性質問の斗争に於ける競争相手である。これらの二つの性質に言及してアブドル・バハが言われるには、「人間の中には二つの性質がある。彼の精神的即ち比較的高尚な性質と彼の物質的即ち比較的下等な性質とがある。一つにあっては彼は神に近づき、他にあっては、彼は世俗のためのみに生きる。」[130]アブドル・バハは更にこう説明しておられる。人間の考えが「天上のものに向って憧れているときは、その者は気高くなる・・・・」これに反し人間の考が舞上らずこの世のことに自身を集中させようとして下方に向けられると、彼はだんだん仏頂的となり、遂には単なる動物よりは少しはましな状態に到達する。」[131]

人間の「精神的性質」と「物質的性質」との間のこの斗争においての重要な要素は決断力である。その者の意志を神の御意に従わせることによって、その者は、神の御意を自分の生活を支配する要素となるようにさせる。この服従の精神こそは神の特性を得るのに重要である。その訳は、服従は、その者の魂が神の方に向けられ、世俗から離れることを保証するからである。その時人は、バハオラが「総ての徳性の源」と記された態度を身につけることになる。

総ての善行の源は、神を信頼し、その御命令に服従し、神の思し召しやお喜びになることに満足することである。[132]

 バハオラは、自我から離脱し、神の御意に従うことは、浄化に進む過程として重要であると強調しておられる。

 それ、おお人々よ、汝の自我の束縛から救い出し、私以外の何ものかへの総ての愛着からそれを清めよ。もし汝らがただそのことに気づくことが出来さえすれば分かるとおり、私を忘れずにいることは、不浄から総てのものを清潔にすることになるのである。さて総ての創造物が、世俗的な虚栄や欲望のヴェールを、すっかり脱がせられたとしたら、神の御手は今日彼等全部に「神は創造の王国において望み給うことは何事によらずなし給う」という着物を着せ給うであろう。それによって、神の御主権の御印が万物の中に明らかに示されるように。その時神は崇高に在し、万物の支配主、全能者、至高の保護者、全く栄光ある御方、最も力強き御方に在します。[133]

 アブドル・バハもまた、解脱と純潔との間の関係を強調しておられる。「清らかな心は自我から完全に断ち切られているものである。」[134]

 自我や欲望によって人間の中に作られた属性中のあるものは、不正直、短気、ねたみ、そねみ、恨み、あらさがし、及び優越感等である。自我のもう一つの徴候は、バハイ共同体や自分の友人達の福祉よりも自分の個人的利害関係を優先させることである。尚もう一つの徴候は、現代社会に流行している過度の自己内省である。自分の時間の大部分を自我に向ける時は、神に面を向ける時間が残り少なくなる。もし人がそのエネルギーを自己に集中させるなら、その魂は不完全なものの方に向けられる。種々の問題を、整理するよりはむしろ、この種の内省はただ諸問題を並べ立て、強め、組み合わせるだけである。バハオラが「決算の日の来る迄は、日毎に汝自らを反省せよ」と人に命じられた時一度に何時間も自分の欠点や失敗を、くよくよ思えとは指示されなかった。この種の自己反省は、「あなたの弱点や短所を心にとめるな」[135]というバブの命令の見通しから眺めた方がよい。また「自己反省の秘訣は自己忘却にあり」という説は、アブドル・バハが言われたことである。[136]

 バハイ信徒達は、この世での生活と、それを越えて上昇するという二つの要求に直面している。この要求に対する鍵は、世俗から身を離脱させることと神に自身を愛着させることである。

 解脱の精髄は、人間としては、主の宮廷の方に面を向け、神の御前に進み、神の御顔を仰ぎ、神の御前に証人として立つことである。[137]

 解脱は太陽のようである。どんな心の中にあっても、それは輝き、貪欲や我欲の火を消す。その視力が理解の光で照らされているものは、確かに世俗やその虚栄から離脱するであろう。[138]

 人が意志の働きによって、神の御意に服従することを伴う離脱の生活に身を委ねる時、浄化への進行が始まる。

 純潔なれ、おお神の人々よ、純潔なれ。公正なれ、廉直なれ。[139]

 肉体の安楽を追い求めるな。そして、あなたの心を純潔に汚れなく保て。悪人は待ち伏せていて、あなたを、わなに掛けようとしている。彼の悪いたくらみに対して身構えをせよ。そしてお一方なる真の神の御名の御光に導かれて、あなたを取巻く暗黒から自身を救え。あなたの考えを自分自身によりは、むしろ大いに敬愛し奉る御方に集中させよ。[140]

 さておお人々よ、あなたに恥をもたらすか、あるいは人々の面前で神の大業の名誉を傷つけることをするな。また、人間の仲をさく者となるな。あなたの心が咎めることに近寄るな。総ての邪悪な振舞を慎め。何となれば、こういうことは、聖典の中で禁じられているからである。その聖典は、神があらゆる罪の汚れから清め給い、また清められた者達の中に数え給うた人々以外には誰もそれに触れられないものである。[141]

 さても我々は、あなた達が、あらゆる俗世間の汚濁から自身を清めるように、困難や苦悩によって試されることを受諾した。然らば何ゆえにあなた達は心の中で我々の目的をよく考えてみることを拒むや。神の正義によって!我々が受けた苦難を深く考えて見る者は誰しも、魂が確かに悲痛のあまり溶かされてしまうであろう。汝の主御自身我が言葉の真実なることを証言し給う。浮世の総ての腐敗からあなた達を清めようとして総ての災難の重みを我々は支えてきた。それなのにあなた達は尚も無関心でいる。

 さて天上の人々が嫌っている何事によっても汚されないように我が衣の裳裾にしっかりと、とりすがることは、あらゆる人々の義務である。神のこの明瞭な質問において、全く栄光に満ち給う汝の主によって、それはこのように定められている。そもそも汝等は、我が愛を退け、我が心を悲しませることをなすや。全知にして啓示されていることの理解を妨げるものは何であったか。

 誠に我はあなた達の動作を見ている。もし我が彼らから純潔と神聖さの香しい芳香を嗅ぎ取るなら、我は全く間違いなくあなた達を祝福するであろう。次いで楽園に住む人々の舌は、神に近づいた人々の間に、あなた達の名を褒め称えて語るであろう。[142]

 

 

 

 

 

13

清潔(きれい好き)

 

 清潔は内部のきれい好きな心が、外部に現れた印である。バハオラは、彼の所説の中で、精神の生長に対する清潔の関係を強調して、「ぬかるみで汚れた羽は舞い上がることが出来ない」と言っておられる。[143]バハオラは信徒達に、こう忠告しておられる。

 人類の中で清潔の真髄となれ、あらゆる事情の下に、あなた自身を、洗練された態度に順応させよ。・・・不清潔の痕跡も、あなたの衣類の上に示すな。・・・あなた方自身を、清らかな水中に沈めよ。一度使われた水は、よろしくない。・・・愛されている者達の心が、喜ぶようなものを、あなた達から発散できるよう、あなた達の中に地上の楽園が出現するのを実に見たかった。[144]

 アブドル・バハもまた清潔が霊性に及ぼす特別の影響について説明しておられる。

 清潔と高潔とは総ての情況下において純粋なものの特質であり、自由の魂に不可欠のものである。最高の極致は清潔と高潔であり、あらゆる欠陥からの清浄さである人があらゆる情況下にあって清潔で清浄である時、彼は明白な光の反射の中心になるであろう。総ての彼の活動や行動においては先ず第一に清廉潔白でなくてはならない。次いで優美と自主独立である。水路はそれがおいしい水で満たされる前に浄化されなければならない。・・・

 その意味は、あらゆる状況下において、清潔と高潔、純粋と優美とは、人間性を高め、それに付随的なものを進歩させる。物質的に適用された時でさえも優美は聖典中で立証されているように霊性の達成を来す。

 外面的な清浄さは、もしそれが物質的なものに過ぎなくても、霊性の上に非常な影響を持つ。・・・清潔で汚れのない身体を持つことは同様に人間の精神の上にも影響を来すのである。・・・

 それ故アブドル・バハの大きな希望である最大の清潔さと高潔さとは、バハイ信徒達の間に光り輝かされなければならない。そして神の友達は、あらゆる状況下にあっても完全さにおいても、他の人類に卓越しなければならない。彼等は身体的にも精神的にも他の者達よりすぐれ、清潔と清廉さ、教養と健康によって、賢い人達の頭になり、また彼等の欲望の追放、用心及び抑制によって彼等が純潔で自由で賢い者達の王子となれるよう努めよ。[145]

 アブドル・バハは、また信徒達の会合の時に起るかもしれない雰囲気において記載されている時に、清潔において、こう述べておられる。

 会議に出席する者は、会議場に入る前に最高の清潔さをもって身を装い、アブハの王国に面を向け、全く柔和さと謙遜さとをもって会合に入り、書簡が読まれている間は静粛にし沈黙を守らなければならない。そしてもし発言したいなら、出席者達の満足と許しを得て、全くいんぎんな態度で、しゃべらなければならない。そして雄弁に流暢に行わなくてはならない。[146]

 不潔な衣を着、汚い足、乱れ髪、取り乱した風采で、バハイの会合やフィーストに出席することは、バハイの教えに相反することになる。衣服は清潔で、こざっぱりしていなくてはならない。また見栄を張ったり、不適当でなく、出来るだけこざっぱりと美しく見えるようにしなければならない。彼等の風采が神の属性を反映させることによって、バハイ共同体生活の特質に重要な貢献をすることができるのである。

 

 

 

 

14

中庸(穏健、温和)

 神や、その選び給うた者達及び洞察力のある人々の眼から見れば、良い品性というものは、総てのものの内で最も優秀な賞賛に価するものである。しかし、それが放射される中心は理性と英知であり、その基礎は真の中庸にあるべきだという条件に常に基づいているのである。[147]

 中庸とは人間の行動や欲望を穏当な範囲内に保つ品性と定義されることが出来る。中庸は過度や極端を避けることを意味するが、決して平凡と混同されてはならない。中庸は我々のエネルギーを、能率、高潔及び健全の助けとなるようバランスのとれた方向に保つ導き手である。

 中庸の限界を示す範囲は、掟、法令及び神の顕示者の訓戒である。[148]これらの範囲を越す時は、罪(宗教または道徳上の罪)の深さに比例した故障を招くことになる。民法を破ると、しばしば民事当局の干渉に捲き込まれるように、顕示者によって設定された限界を踏み越えると、いつもバハイ諸機関の注意を引く。その諸機関は、」バハイ信教のよい名声保持と、信徒達の指導と教育に責任を持っている。中庸を欠いたり、不従順であったりすることが行政会の干渉の問題になろうとなるまいと、その者は自己の行動の精神的帰結を免れることはできない。

 中庸の限界を越すものは、何事によらず良い影響を及ぼさなくなるであろう。例えば自由とか文化とかいうものを考えてみよ。いかに物分りのいい人々が、それらを好意をもって見ようとも、もしやり過ぎるなら人々に有害な影響をもたらすであろう。[149]

 芸術や科学の学識ある解釈者達によって非常にしばしば吹聴される文化は、もし中庸の限度を越すならば、人々に大きな弊害をもたらすであろう。このように全知にまします神は、あなた方に忠言しておられる。もしやりすぎると文化は、それが中庸の制限内に保たれていた時に良好であったと同じように弊害の源も豊富であることを立証するであろう。・・・総ての他のことも中庸の同じ原則に従うのである。[150]

 汝等神を畏敬せよ。そして中庸の限界を乗り越えず、無茶な者達の中に数えられないよう注意せよ。[151]

 正義は中庸の限界のもう一つの決め手である。他の人達との関係において公正を実行することによって、また人が中庸の道に導かれて行く正義を管理するあの天授の制度に従うことによって。

 正義を固く守る者は、どんな状況下にあっても中庸の限界を逸脱することは出来ない。総てをお見通しになる神の御導きによって彼は万物中の真理を識別するのである。[152]

 節度ある生活を送るには管理が必要である。管理と自己修養とは、バハイ信教の掟と原則に従うことによって学ぶことが出来る。これらに熟練することは、その者の生活のあらゆる面の釣り合いを保たせ統合させることが出来、かくして中庸を実行させることが出来る。中庸の必要性は、それが欠けている時を考えると最もはっきりする。例えば、もし従順が自由とバランスがとれなければ卑屈となり、消極的となり、へつらうようになる。家族、仕事及び信教に対する責任が平衡を保たれなければ、一つあるいはそれ以上の面が無視され秩序のくるいを生じ個人的な困難が生じるであろう。

 中庸の原則は、また我々が選ぶ生活の基準に対して強い関わり合いを持っている。一方においては無節制、放縦と浪費、他方においては欲深と禁欲主義共に非難される。節約―中庸の経済的な表現―は身分相応に暮らす標準を示している。アブドル・バハは、経済的節約は必要であり、また友人達を強欲よりはむしろ満足されるように激励するものであると、説明されている。

 経済は人間繁栄の基礎である。金遣いの荒い人は、いつも問題を起す。どんな人の側における浪費も許し難い罪である。我々は宿り木(寄生植物)のように他人に頼って生活してはならない。各人は、もしそれが文筆的なものであろうと手細工であろうと職業を持たねばならない。そして、きれいな男らしい正直な生活をしなければならない。他の人にまねられるような純潔の見本とならなければならない。沢山の品数の豪華なご馳走を味わうよりは、その代金が他の人達のポケットから出るよりはむしろ日数のたった、かさかさのパンで満足しているほうが一層王者らしいのである。満足した人の心はいつも穏やかで落ち着いている。[153]

 アブドル。バハは一信徒に宛てた手紙の中でこう忠告された。

 汝の主、至高の御方以外の総ての欲望から自身を切り離すことは汝の義務である。宇宙の中の誰からも、汝の父や子供達からも救助や援助を予期しないことである。神に自身を委せよ!この世の、ほんの少しのもので汝自身を満足させよ!誠に経済は大きな宝である。[154]

 中庸は、経済面に適用される時、金銭を、その限度を逸脱して、無茶に費やすことは資源の浪費とみる。この資源の浪費は、非常に沢山のものが、ものすごく必要になる時、だらしないものとなる。それ故中庸は、金持ちであるなしに関係なく適用される原則である。もし人が多額の冨を得られたらこの富が、神の大業の進展と人類の向上に対する各人の義務を記憶し、用心と知恵をもって費やすことを中庸は指図している。

 

 

 

 

15

礼儀と謙遜(身だしなみの良さとしとやかさ)

 行儀の良いということは、道徳の基準に従い賞賛に価する多くの品性をもつことである。――簡単に言えば、バハオラによって明らかにされたような人間としての地位にふさわしい態度を示すことである。バハオラは次のように書かれている。

  

  おお汝等心霊の子等よ!

 汝等は、わが宝である。われ汝のうちに我が神秘の真珠と我が英知の宝石を秘蔵したれば。我が僕等のうちの異邦人と、わが人民のうちの邪悪なる者等から、それを守れ。[155]

  おお心霊の子よ!

 われ汝を豊かに創れるに、何故汝自ら貧しくするや。気高くわれ汝を造れるに、何故汝自ら卑しくするや。知識の精華もて、われ汝を生ぜしに、汝何故にわれより外の者に教化を求むるや。愛の粘土もて、われ汝を造りしに汝何故に他のものに没頭するや。汝のうちに威光に輝き力強く自存しつつあるわれを見出さん。[156]

  おお心霊の子よ!われ汝を気高く創った。しかるに汝は自らを卑しくした。さらば汝が創られたるところにまで汝を高めよ。[157]

 人には、その行為が、自分のために神が定め給うた気高い地位を保持していることを保持していることを保証する義務がある。バハイ信徒たちは更に自分たちが、祝福された完全(バハオラ)の御名を負い、また自分達の活動が、彼の大業の上に反映するから行儀正しい、あっぱれな態度を示す義務がある。

  おお汝等我が愛する者達よ!

 我が聖なる衣のへりが、この世のもので汚されることを許すな。またあなた達の邪悪で腐敗した欲望の扇動に従うな。・・・全創造物の崇敬の的である神に心を向ける人達は、必ず今日眼に見え、眼に見えない総ての創造物を乗り越えて必ずや聖別されるに違いない。[158]

 高きにある一群の天上人達が嫌うかもしれない如何なるものによっても汚されない我が衣のへりに、しっかりと、とりすがることは、あらゆる人々の義務である。[159]

 各人の地位の高潔さを守るには、信教の基準を深く理解し、神の属性を身につけ、それを反映させることによって、自分の行動を、これらの基準に一致させるよう努力する必要がある。この精神的転換を理解するには、神が人類に授け給うた地位に対して神に感謝を捧げることである。

 謙遜は正しい釣り合いで即ち神の御前にへりくだる感覚から生じる見透しによって、どういう態度が自分の地位に最もふさわしいかという意識が発達するのを助けるのである。神の僕としての自分の本質を絶えず知ろうとし続ける時は、その者の外面的行動は、内面的な謙遜や崇敬の念を反映するようになるであろう。

 謙遜な人は、へりくだり、ほこらしげな自己本意の態度で自分の能力や業績に注意を引くようなことは差し控えるものである。その者は褒賞も特別に認められることも予期しない。何となれば、奉仕の道で行った行為は、その者自身のものではなく寧ろ神のものであることを悟っているからである。その者は堅苦しさや独善的な所がなく、自然さの範囲や礼儀正しい感じを与える慎み深さを現わす。

 謙遜は、このように、私心のない印である。その訳は、自我や世俗的な業績から注意をそらすからである。謙遜は、その者の着ている衣類にも、求める娯楽にも、引き起こすユーモア感の中にも、異性の仲間に対して振舞う仕方の中にも示されることができる。

 謙遜さや上品さの感じを発展させて行くにつれて、人間の地位にふさわしくない態度に落ち込むことは恥として知られている特別な型の不快さを生じてくる。

 誠に人間には、下劣な見苦しい羞恥として知られているものに対して自分を引きとめ守ろうとする能力が備わっている。[160]

 羞恥は礼儀の限界を踏み越えた者に注意を与える一つの合図である。この自動制御は自分の行動を反省させ、その過ちを認め、必要な転換をさせるのである。このように羞恥は有用な調節者であり、神経症の一症状ではない。道徳律を破る時、恥ずかしさを感じることの出来ない者は、正しく社会の要求に合致していないのである。[161]羞恥の感覚がないと、自分がバハイの基準から、それていることを認知できないのである。この認識がないと精神的斗争の必要性が十分認められていないからである。

 上品さと謙遜とは、自分の周囲に対し鋭い敏感さを必要とする。特に付き合う人たちの価値や気質や習慣に対して鋭い感度を必要とする。礼儀正しさと謙遜とは万人共通の不変の品性ではあるが、それらの表現の仕方は文化から文化へと変わって行くものである。衣服の型、娯楽の種類、親交の度合いが、ある文化では、礼儀正しいと考えられたものが、他の文化によっては、神の僕等にとって、ふさわしくないものと見なされるかもしれない。それ故、バハイ信徒たるものは他の社会にいる時は、他の人達の感情をそこなうような態度を避けるために、そこの習慣になじまなければならない。

 しかし数々の相違点に対して敏感であれということは、バハイ信徒が神の教えに反した、他方の総ての習慣の指図に従うことを意味しているのではない。バハオラによって設けられた基準は総ての社会慣習や慣例が考察されなければならない均衡なのである。人間を高め、気高くするものは維持されて良いものであるが、反対にその地位を低下させるものは排除されなければならない。他方の習慣とバハイの行動基準との間の相違点に関して不快感を覚えたり、困惑を感じるパイオニア達や巡回布教者達は、注意深く優しさと如才なさをもって布教を続けて行かなくてはならない。もし必要あれば、彼等は地方あるいは全国精神行政会と相談するのもよろしかろう。

 各バハイ信徒は、その神から授けられた地位の崇高さを反映する行儀正しい謙遜な態度を悟り、それを示す必要性に直面させられる。神の一僕としての自身の将来の見通しや恥辱感の跳ね返り(フィードバック)によって、バハイの基準を示す上品さや謙遜の態度を実証垂範することができる。

 

 

 

 

 

16

忍耐

 忍耐は、我々の生命を神の御手の内に置き、総ての事態を平静と信頼を持って受け入れる能力である。それには苦痛や失望に耐え忍ぶこと、他人の欠点に対して愛情のこもった寛容さ、困難な仕事における忍耐、目的を達成するのに必要な時間中の平静さを含んでいる。

 もし誰かがあなたの悪口を言い、あるいは苦難が神の道において、あなたを苦しめるならば、忍耐して見たり聞いたりし給う神を信頼せよ。誠に神は見給い、認め給い、御主権の御力によって、御思召すままになし給う。[162]

 多くの人達は、試練に対し、克己とか、忍従の態度で対応するが、バハイ信徒達は各試練を精神的発展の小車と認め、忍耐強く試練の襲来の中にある意味を見出そうと努力する。この態度は人間が神を愛すること及び神の御意の慈悲深い御本質に対し信頼の情を示すものである。

  おお人の子よ!

 総てのものには標がある。愛の標は、わが掟のもとでは不屈不撓の精神となり、わが試練のもとでは堅忍不抜となる。[163]

 バハオラは彼の信徒達に「試練の最中にあっては堅忍不抜どころかむしろ感謝」[164]を示すよう忠言を与えておられる。この忠言はしばしば堅忍不抜を下に見下す次元を示唆している。総ての苦難は実は神の恩恵なのである。アブドル・バハはバハイの友達に次のように保証しておられる。

 もし汝の日々の生活が苦しくなるなら直ちに汝の主は、汝を満足させるものを授け給うであろう。困難や試練に陥っている時は、じっと忍耐せよ。またあらゆる難儀や困苦は、慈悲深いお方を念頭に浮かべ大きな心、魅力に引かれた精神と雄弁な舌とをもって耐え忍べ。誠にこれこそは満ち足りた生活、精神的な生存、天上の休息、神の祝福、天界のご馳走である!直ちに汝の主は、汝の苦しめられた境遇をこの世においてさえも軽減し給うであろう。[165]

 忍耐の重要なことは、更にバハオラがそれを実行する者達に約束し給うた報酬によって示されている。

 神は確かに忍耐をもって耐え忍び神に彼等の信頼を置くもの全員にお返しをするであろう。[166]

 しかし富を所有している者達は、貧者達に対して最高の関心をはらわなければならない。何となれば断固として忍耐しているあの貧者達のために神が定め給うた栄誉は大であるからである。我が生命に掛けて!神が喜んで与え給うもの以外にこれに匹敵し得る栄誉はない。忍耐強く耐え忍び彼等の困難を隠している貧者達を待ち受けている幸福は偉大である。また彼等の富を貧者達に与え、自身よりもむしろ彼等を選ぶ富者達も同様幸福である。[167]

・・・我が蒙った苦難を根気強い忍耐をもって耐え忍んできたことに対し神が我に追加し給うであろう。誠に神は忍耐をもって耐え忍んだ彼等への褒賞を増して下さるであろう。[168]

 忍耐は弱さあるいは無気力と混同されてはならない。外面上は柔和に見えているが、内面的には力のしるしである。バハオラは明らかに御自分の偉大な忍耐は、力をお与えくださった御方の精華であったことを指摘された。

 再び私は言う。我が美に振りかかり、我が栄光を顕示する者達の手中にあるものを汝に知らせるために、また我が威力にもかかわらず我が忍耐が如何に大であったか、我が権力にもかかわらず、我が辛抱が如何に莫大であったかを汝が認めるように、我が牢獄から呼びかける我が声に耳傾けよ。[169]

 ある者は忍耐することを陰気な嫌なものと思うかもしれないが、バハオラやアブドル・バハの書かれたこれらの文は、忍耐を示す人々はそれから確信と自信を引き出すことが出来ることを指摘しておられる。その訳は忍耐は活動から消極的に逃避することではなく、神への積極的な信頼であるからである。忍耐することは、その者を新しい力の源から引き出すことが出来る。何となれば、それはその者の背負うことの出来ない圧迫や重荷を肩から引き上げて、それらを神の御手の内に置くからである。しかし、忍耐は境遇を改善し、責任を遂行することのできる総てのことをなすことを要求している。それは、また彼が作り出す力以外の威力が最高の結果に貢献することが出来ることを悟るよう要求している。

 アブドル・バハの行動の次の例は、忍耐を実行した人々の褒賞である援助と確信とを示している。

 アッカに一人のキリスト教徒の商人がいた。この人は多くの仲間の市民と同様に、バハイ信徒をほとんど尊敬していなかった。アッカの外で(アッカの町中では彼等はかような購入は認められていなかった)バハイ信徒の中のある者が買うことを許されていた炭の積荷の所にたまたま来合わせた。その商人はその燃料が上質であるのを認めて自家用にした。彼にとってバハイは範囲外であった。そこで彼等の荷は押収することが出来た。アブドル・バハはこのことを聞いた時、彼はその商人が商売の取引をする所に行って、炭を返してくれるよう頼んだ。その事務所のまわりには多くの人がいて商売に専念していた。そして彼等は、アブドル・バハに気付かなかった。彼は腰掛けて待っていた。3時間たって、その商人は彼の方を向いて言った。「あなたはこの町の囚人の一人ですか。」と。アブドル・バハはそうだと言われた。すると、その商人は尋ねて言うには「あなたが牢に入られたのは、どんな罪でしたか」と。アブドル・バハは答えた。「キリストが起訴されたのと同じ罪です。」と。その商人は、あっけにとられた。彼はキリスト教徒であった。だからアブドル・バハの行動とキリストの行動との間の類似点を語り合うのには、おあつらい向きの人物であった。「あなたはキリストについて何かご存知ですか」とは彼の問い返しであった。アブドル・バハは静かに自分のことについて語り始められた。その商人の傲慢さは、アブドル・バハの忍耐によって対抗させられた。アブドル・バハが行こうと立ち上がられた時、その商人もまた立ち上がり、アブドル・バハと連れ立って町に歩いて行った。ひどく嫌われている囚人の一人であるこの人物に対し彼は尊敬の念を示しながら。その時から彼は友人となり、それどころかむしろ強い支持者となった。[170]

 しばしばある人の家族やバハイ共同体が多くの忍耐を要求する場合があるかもしれない。上述の双方の場合において、ある人は自分自身のとは全く違った種々の理解の仕方や発展の度合いを持っているに違いない他の人々と互いに交渉しあうことになる。もし彼の家族やバハイ共同体の双方に対して、彼の期待が高過ぎたりするならば、彼の望んでいる時間や方法では彼の予期に合致しない場合が生じ、容易に我慢が出来なくなるかもしれない。短気は色々の形をとって出現し得る。また不愉快な非建設的な態度になりかねない。それは不機嫌、皮肉、咎め立て、強制、悪意及び意地悪等の微妙な形となって現れることができる。[171]忍耐は、世俗離脱を伴い、祈りによって成就し得るのである。我々は仲間に対し短気を起す権利はない。何となれば、総てを裁き給う神は、最も忍耐つよい御方であるからである。

 忍耐強くあれ、汝の主は、忍耐強くましますが故に。[172]

 おお人々よ、言っておくが人々の間に不和の種子を蒔くな。また、あなた達の隣人と争うな。どんな場合にも我慢せよ。そして、あなた達の全幅の信頼と信用を神に置け。英知と言葉の剣もて、あなた達の主を手助けせよ。このことは実に人間の地位に全く似つかわしいものである。[173]

 自身に対して忍耐強くあることは、他人に対して忍耐強くあることよりも一層難しいであろう。精神転換の道に乗出した者は、彼の熱望の水準と達成の水準との間の幅広い相違を経験する時、特にそのことを辛いことだと感じるかもしれない。彼が自身の精神上の進歩の管理を一人でやったと悟る時、彼はまた自分自身に対して我慢ができなくなるかもしれない。神の属性を反映したいという大志を抱いており、彼等の達成した高さが、がっかりする程低いのを見出した総てのバハイにとっては、これらの感情はそう珍しいことではない。信仰と目標に向って働き続けようとする意志の欠乏の現れである落胆を人はまた経験するかもしれない。落胆は、それが実行できないことであったという言い訳を考えることによって目標をやめるか変更するようにさせるかもしれない。その上、人は目標に向って遅いか、またしばしば不十分な進歩を大目に見ようとする無力さによって挫折するようになるかもしれない。挫折は、しばしば、責任から身を引き、他のものに向って突進し、強制のもとに過度に作用する結果となる。忍耐を実行することは、消極的な傾向を中和してしまう。そうすれば人は、不十分な進歩の原因を分析することが出来、その人のエネルギーを手近な仕事の中で達成し得るものは何でも向き直すことが出来る。短気、落胆、及び挫折と忍耐をもって戦うことを学ぶことは、自分自身の精神的斗争を行う根本的要素の一つである。―総てのバハイにかかっている義務である。[174]

 

 

 

 

 

17

感謝

 受けた恩恵や奉仕に対して賞賛や感謝を表明することは、正義の要求するところである。それを各人は当然なすべきこととしている。感謝は正義の反映である。それは動機の誠実さによって、浅薄なお世辞と区別される。

 感謝するということは普通に認められていることよりも一層深い精神的な含蓄を持っている。感謝は、精神的品性と特質とを得る助けとなり得るのである。感謝することは、神の恩恵に対する感受性の度合いを高めると、アブドル・バハは説明しておられる。

 汝幸福にして歓喜に満てよ、そして感謝を捧げることが恩恵の増加に貢献するよう立ち上がって感謝し奉れ。[175]

 感謝の精神は、感謝の相手方に対し感動を起させる。人が神に対して感謝の念を抱く時、神に対するその者の愛の量は増加し、このことが代って神の愛を引き付ける。

 おお実在の子よ!

 我を愛せよ。さらばわれ汝を愛し得ん。もし汝、われを愛さずば、我が愛は決して汝に達するを得ず。これを知れ、おお僕よ。[176]

 神の祝福に対して神にどの位感謝せねばならないか、あなた達は悟っているか。各息毎に千回あなた達が神に感謝しても、それで十分ではないだろう。何となれば、神はあなた達を創り訓練し給うたからである。神はあなた達をあらゆる災厄から守り、あらゆる賜物や贈物を用意された。彼は何と親切な父であるか熟考せよ。・・・彼は親切な父と情け深い母を与え給うた。・・・さわやかな水、和やかな微風と、我々の頭上に輝く太陽を与え給うた。要するに神は、我々が、これらの偉大な贈物の内のどれも求めなかったのに、生命に必要な総てのものを授け給うた。・・・過去の時代に総ての聖別された人々によって、あこがれ期待されていた世紀、この輝かしい世紀に我々を創り給うた。・・・歴史上の哲学者達が、この時代は過去の百世紀にも匹敵すると同意している。このことは、あらゆる立場から真実である。・・・それ故あなた達は、この時代に生まれたことに対し、神に感謝と賛美を捧げなければならない。更にまたあなた達は、バハオラの呼びかけに耳を傾けている。・・・あなた達は眠っていた。あなた達は眼覚まされている。あなた達の耳は注意深い。あなた達の心は物を知っている。あなた達は神の愛を受けている。あなた達は、神の英知に到達している。これこそは、神の最大の恩恵である。・・・あなた達はこの賜物の価値を認めなければならないし、真実な御方に就いて語り、感謝を捧げることに従事しなければならない。あなた達は最高の内に生活しなければならない。もし何等かの心配事や波瀾が、あなた達の生活に起ったら、もしあなた達の心が健康や暮らし向きや職業のために消沈されようとも、これらのことが、あなた達に影響を及ぼさせるな。それらは不幸を生じるはずはない。何となれば、バハオラはあなた達に神の幸福をもたらされておられるからである。・・・神の確証が、あなた達全部を取り巻いてくださるよう神に絶えず感謝を捧げよ。[177]

 神の御前に、あなた達の面を伏せ、昼も夜も神に讃美を捧げよ。[178]

 感謝の念は人が見透しを失わないよう守ってくれる。人が感謝を捧げる時、悲しみや嘆きは悩ます余地がなくなる。「彼はもはや人生の不快なことにも、くよくよ考えません」[179]

感謝を捧げることは、内的洞察力を曇らせ、真理との接触を失わしめるあの空しい空想やおろかしい想像を消滅させる。バハオラは「神の愛情こもった御言葉の焔で、あらゆる気まぐれな考えを焼却するよう忠告されている。・・・」[180]

 感謝は、その者を一層近く触れさせることによって、恩恵が増加されるよう導いてくれるのである。人が神に感謝を捧げるとき、その者の精神的本質は優勢となってくる。彼の精神的本質が優勢となる時、神の御目的に向って世の中に起る総てのことを話すことが出来るようになる。人類を混乱させる条件や出来事は、神の御計画を知っているバハイを、うろたえさせることはない。[181]

 感謝はまたその者の精神的教育における試練や苦悩の役割を理解させることができる。即ち如何に「外面的には」それらは「火であり復讐」であろうとも「内面的には」それは「光であり慈悲」であることを理解することができるのである。[182]試練に直面して感謝の効果を理解することは、この見かけ上の逆説の意味が分かることになる。

 「おお人の子よ!わが災厄は我が配慮である。外見は火であり、復讐である。しかし、内面は光明と慈悲である。それに向って急げ。さらば汝永遠の老となり、不滅の精霊となるを得ん。これわが汝への命令である。これを守れ。

 汝(神)の道に於いて、私に触れた、あらゆる苦悩は、私の喜びを増し、私の嬉しさをふやした。神によって誓う。おお王者中の王にまします君よ!この世の如何なる王も、あなたを記憶し或はあなたの美徳を賞賛することから私を妨げる力は持っていない。[183]

 神に関する美徳と属性とは、全く明白に顕れている。そして総ての天上の書物に記載されている。それらの中に・・・忍耐が、いや苦難の真っ只中に於ける感謝がある・・・[184]

     ・・試練の火が燃え盛る時汝は喜んで祝い、溢れる程の感情をこめて小躍りし、幸福であれ・・・[185]

 感謝は、また人間関係に於ても重要な役割を演じる。感謝の意を示さないと、直ちに和合の意を傷つける悪感情を生じる。他の人達の奉仕が、しばしば当り前と思われる仕事に於ても、家庭に於ても感謝は特に重要である。賞賛、感謝、謝意の表明は、他の人の労力の価値を確認し、彼に満足を与え、賞賛された態度を繰り返すよう彼を励ますことになる。

 人が他の人に示す賞賛と感謝は、神が授け給うた限りない恩恵に対し神に貰っている賞賛と感謝の反映に他ならない。

 

  汝が感謝する人々の仲間入りをするように、我が方からの贈りものとして、また我が面前からの恵沢として、これらの恩恵を我に与えた。[186]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三部

神の美徳を例証すること

 人として努力の道に添って前進し、進展しようと晝となく夜となく励む者は、真のバハイである。その者の最も大切にしている希望は、世の中を豊かにし明るくするよう生活し行動することである。その者の霊感の源は神の美徳の精髄であり、その者の生存の目的は無限の進歩の源であるよう身を処することである。彼が、かような完全な贈り物に到達する時にのみ彼は真のバハイであると言われることが出来る。何となれば過ぎ去った時代及び周期の最后を飾る栄光であり真の宗教である。この聖なる宗教制に於ては単に神の和合を承認するばかりでなく、かような信仰の中に含まれた総ての完全さと美徳とを示す生活を送ることであるからである・・・・・

―――アブドル・バハ

 

 

 

 

18

精神を具体化すること

 バハオラの聖約に対する義務を履行しようとするなら、総ての前述の属性が、日常生活の中に実現させなければならない。「今日に於て最も重要な義務は、あなたの品性を浄化し、あなたの態度を正しくし、あなたの動作を改善することである」というアブドル・バハの訓戒をまじめに受け入れる総てのバハイは、彼等が、よしバハイになって一週間しかたたないものでも、七十年の経験あるものでも、神の属性が現されるよう、この教を引き続き研究し、彼等の態度を吟味し、彼等の品性、態度及び行為の転換を初めなければならない。[187] 神の忠言は、要するに行動に移さなければならない。[188]

  神の属性の獲得によって影響される領域は、態度、衣服、楽しみと教養、資源の利用及び環境の整備及び美化等を含む。[189] 各方面に、バハイの原則を示す数え切れないほどの機会を提供している。これらの原則を繰返し表現することは、バハイの基準を習慣的に例示する能力を増すと共に実証の威力によって大業に他の人達を引き付ける能力をも増加するのである。

 日常生活の中にバハイの原則を示そうという呼び掛けは、単に個人や信教を利するためになされた一般的な提案ではない。それは寧ろ神の御命令であり、神の僕の二つの義務の一つである。最も神聖なる書ケタビ、アクダスの中で、バハオラは、次のように述べられている。

 

   僕のために神によって命じられた第一の義務は、神の啓示の夜明けであり、神の掟の源泉であり、神の大業の王国と創造の世界の双方に於ける神を代表する彼を認めることである。この義務を遂行するものは誰も総ての善いことに到達しており、それを拒んだ者は、あらゆる正しい行為の張本人であろうとも、皆邪道に陥っているのである。この最も崇高な地位、この卓越した栄光の頂に到達するものは皆、この世の最も希望しまつっている神のあらゆる掟を守る義務がある。これ等二つの義務は分離することが出来ない。また他のものがなければ、どちらも受け入れられない。このようにかみの霊感の源である神によって、それは命じられているのである。[190]

 

 バハオラのこの重大な声明は、神の顕示者を認めることと神の掟や布告に服従することとを分離し難

いものとしている。このように人は神の掟に服従しようと心から努力するのでなければ、真のバハイで

あると主張することは出来ない。その者の服従の度合いはその信仰の質を反映する。

 バハオラの声明は、また、精神と形との間の関係を示している。それは精神――即ち承認と信仰から

生じる力は、神の掟への服従である特殊な形で道が開かれ、また現されなければならない。精神は神の

属性を反映する動作において示されなければならない。

 精神と形の分離できない関係は、明らかに管理運営秩序の内に示されている。ショーギ・エフェンデ

ィは、こう説明しておられる。

 

  バハオラによって世界に吹きかけられた精神は、神の御名を帯び、神の原則に完全に従って行動し、神の掟に従って機能を果す眼に見える秩序として具体的に現れるのでなければ、また現れるころには、決して人類に永続する影響を浸透させたり、影響を及ぼしたりすることは出来ないということを認められない人は稀であろう。[191]

  大業の形態あるいは、管理運営の原則を精神的な教えから引き離そうとする試みは「大業の組織体の切断に等しいであろう」ということを守護者は、また警告しておられる。「分離は、その構成分子の分解か、信教そのものの死滅に只終り得るだけである。」[192]

 

 宗教の及ぼす影響の崩壊に寄与した原因は、宗教(精神、霊性)も、あるいは行為(形態、形式)も、

それ自身だけで十分であるという態度である。単なる信仰の告白が、救いを保証するであろうという信

念は、自己満足と精神的怠惰に導いた。然るに神への信仰とは無関係の善行を承認しようとする倫理学

は、その善行が、ばらばらに起るようにした。最も賞賛に価する行為そのものでさえ、それを行おうと

する衝動は、指導的精神もなく、神が明確に示された目標もないために減少させられている。顕示者の

承認も信仰も、また服従も善行もその他のものがなければ満足なものではないというバハオラの声明は、

その論争に解決を与え、均衡を確立するものである。

 バハイの掟や教えのもつ創造的で性格転換の威力は、それが実行に移される時にのみ、発揮されるの

である。これらの原則や属性を日常生活の中に実現することは、顕示者を承認することから生じる霊性

を含んだ最適の方法である。信教の基本的原則に対する服従は、正しい心の中で行われる場合には、正

しい型の態度を生じる。精神と形との間の関係を、明確に理解することは威力ある例証となる方への道

に、感激と決断力とをもって乗出させることになる。かような理解と誘導とをもってすれば、新しい要

求を抱き、「汚れなき神聖なる行い」[193]を実行する道中で出会うあらゆる障害に打ち勝つことが出来るの

である。

 

[1] 全書 5頁

[1] バハオラ 隠されたる言葉(日)66頁 ペルシャ編35

 

 

 

 

19

態度

 

 礼儀は、社会の相互作用の中で反映される一連の態度であると定義された。[194]行儀作法は礼儀の精神が

示され、和合と調和が促進される形式である。態度は、人間関係の質に影響を及ぼすから道徳上の関心

事である。行儀の悪い人は、自分の考えや感情を自身や周囲の人々に、見苦しい不愉快な感じを起させ

ずに現すことの出来る表現方式を欠いているのである。他方礼儀作法の良い人は、例えば、他の人々に

対し、神によって創られた精神的な人間としての尊敬と、また彼等の地位の気高さに対する尊重を他の

人々に伝達することが出来るのである。

 礼儀正しい行動は、しばしば今日多くの人々に嫌がられている。特に若い人達に。礼儀の良さに対す

る否定的な反応は、しばしば、動機の誠実さが消滅し、それ故礼儀の正しい行為は偽善であるという印

象をしばしば起させる。態度がふまじめの時は、行儀はきどった偽善的に見える生命のない形となる。この反応が分かる間は、正しいとは認められない。よい態度の重要性が決められる基準は、バハオラの教えである。決して現下の見方でも慣習でもない。人類に対する神の御目的に照らして見る時、態度は個人的や集団的関係において秩序を促進し、機能を滑らかにする振舞のやり方となる。

 行儀は注意を散漫にせず、秩序をきちんとさせる範囲内に態度を保つのに役立つ。それによって目的の達成が容易になる。行儀は相互作用の目標と目的によって儀礼的なものから略式なものまで及ぶであろう。このように一つの場面にあてはまる態度が違った状況下では気を散らし不適当であることが分かる。ある型の行儀は、どんな事情の下にあっても、秩序を整えず、あるいは人や状態の精神的価値に対し理解を示さないから決して適当ではない。要するに行儀の形式(態度)は、常に行動の精神(目的)を補足するものでなければならない。

 与えられた場合、どんな態度が適するかを決定する一つの方法は、その場合の目的をはっきり認識し、人々を紛らすことなく、態度にどのような変化を持たせ得るかということである。例えば、ピクニックは、その目的は楽しみと気晴らしであるが、これは広範囲の態度を求める。赤児達は泣き、子供達は走りまわり、大人達は喋ったり歌ったり踊ったり、あるいはボール遊びをしたりして、総てのものはその会の目的にふさわしい態度を示す。十九日毎の祝祭日のある部分の目的は、これに反して注意が一つの課題、例えば神の言葉とかあるいは協議の項目に集中されることが要求される。したがって泣く赤児達は面倒を見てやらなければならない。大人達の談話はあとに伸ばして現在の題目に他の人々が集中するのを邪魔しないようにしなければならない。祝祭日の祈祷や協議の部門では、比較的短い間の態度を要求するが、祝祭日の社交的部門では、もっと長い時間寛大に扱われる。何となれば、この点では共同体の注意は、単一の話題から多くの話題に移っているからである。協議中話をすることは不適当であるのに反して各人は社交的となり、同時に話をすることができる。

 適当な態度を明白にする他の方法は、どの型の態度が、動作の精神に対しての考えや感情や尊敬を表すのに不適当であるかを決めることである。例えば祈りは、海岸においても、家庭にあってもあるいは公式の公開講演会においても人が常に神に到達する瞬間である。したがって祈りの間に祈りの本を友人に投げ渡したり、前かがみに腰掛けたり、床や地面に横たわったりすることは適当ではない。

 歓待もまた、好意や愛想のよさや尊敬が反射されることを保証する適切な態度を要求する。活動的な巡回教師の旅行する近頃では、多くのバハイは歓待を提供する特権を持つばかりでなく、またそれを受ける特権も持つであろう。主人公が歓待の手を差し伸べる時、客がどういう態度をとるべきか知っていることを正当に期待するかもしれない。種々な型の態度の簡単な試験でどの型の作法が歓待する場合いんぎんの精神を適当に表すことができるかを示すことが出来る。

 客は主人役の夫妻に、彼等が現れた時挨拶をし、その家を去る時に彼らに感謝をすることによって優遇の気前のよい提供に対し礼を述べる。彼は提供されるものを有難く頂き、いつも主人役の手助けをするように試みる(洗うべき皿がある。出すように準備された食事があり、なされるべき種々の雑用がある)もし、彼が泊りがけで招待されるか長期間招かれたなら、その家庭の毎日決まった仕事に支障を来さない時間に起床し、そして主人側の家庭を分裂させるような、どんな特別の取り決めもない時間に室に入るよう計らうべきである。

 礼儀の原則は負担になりそうな種々の動作を避けるよう客に求めている。客がやっていけないことは次の通りである。主人公あるいは女主人公が、あたかも客はいつももてなされていなければならないかのように感じさせること、煙草を吸うよう、勧められていないのに、他の人の家庭や自動車の中で煙草を吸うこと、資源の無駄遣いをすること(電燈をつけ放したり、長い間シャワーの湯を使うこと)、他人の資材を遠慮なく浪費すること(許可を受けずに電話を掛けること、自動車を勝手に使えると思うことあるいは冷蔵庫の内容物を許しなく勝手に食べること、他人の家庭で子供を監督することをしない(子供達を放置しておき彼等が他の人々の邪魔をさせておき、家具を傷めあるいは他の人達に彼等の世話をさせることは不適当である。)そうするよう言われていないのに、可愛がっている動物を連れてくること。彼等に対して支払おうとも申し出ずに長距離電話を掛けること、その者の客人なのだから、同じ歓待を受けるよう他の人々を招待することが出来ると考えること(かような提案は招待主又は女主人から出されるべきものである)、他の人々の働こうとする要求に鈍感であること、あるいは適当な期間より長く滞在するか、宿泊するよう招待された期間を超過して滞在すること等である。

 真の礼儀は、他の人の要求や希望を自分のより優先させることである。上述の客に対する適切な、または不適当な態度の側は、如何に人間の態度が、この作法を現し得るか得ないかを示している。

 今日不幸にして多くの人々は、行儀作法と礼儀とを、ひややかさと、こちこちさと連想している。他の者達は、友情と形式張らないやり方とを、また親交と束縛の欠乏とを混同している。どちらの極端も、バハイの教えによっては支持されていない。寧ろ中庸の原則と礼儀の特性とは、事態に適合した種々の作法によって温かみと誠実さの表現を促す幸福な環境を招いている。

 神の顕示者の御目的と眼に見えない御方の限りない御光の夜明は、人々の魂を教育し、あらゆる生ある人々の品性を洗練するから慈悲深い御方に愛されている者達は、彼等の神聖さの芳香が全世界に放たれ、死人を蘇らせるよう、あなた達の品性を聖くし、あなた達の態度を正しくし、あなた達の行動を改善することが、今日最も重要な義務である。・・・[195]

 

 

 

 

20

服装

 

 その保護する働きに加えて、衣服は、それを着用する者自身の姿を示す一種の装身具の役をしている。人間の動物的性質が食べ過ぎられているのに、一方その精神的性質に飢えている。この物質的時代において、人間自身の服装は、しばしばゆがめられて、バハオラの言われる人間としての高く尊い地位が遠く離されている。無作法な、不穏当なあるいは奇怪な様子はこの混乱した自己象徴と死にかかっている文化の誤った基準への執着とを反映している。身のこなし、挙動及び衣服の着方もまた、その者の内的感覚意識を現している。

 

  あなた方の身体の各部分は、あなた方の目的の気高さ、生活の完全さ、信仰の本質、献身の気高い特質を立証しなければならない。[196]

  私の身体の四肢は、あなたの唯一なることを証拠立て、私の毛髪は御主権とみいつを表現しております。[197]

 

姿勢は身のこなしが内部の感情を反映する仕方の一例である。意気揚々と真っ直ぐに立ち、元気一杯に行動する人は、前屈みの肩と、たるんだ背中をもって足を引摺って歩く人よりも明らかに違った印象を与える。前者は、自尊心、自信と生きるための強い欲求を示している。然るに後者は意気消沈、疲労と、黙りこくった絶望感を表している。一方はその者を見る人々を元気づけるが、他方は意気消沈させる。外観は、精神的反響を他の人々に呼び起す神の属性を反映することによって、人々の魂を反映させることが出来る。ホーレス・ホーリー氏が書いているところによると、アブドル・バハの外観から受ける影響は、このようであったという。

 

  私が男の人達の中で、これまでに見たことも考えたこともないような堂々たる背たけの美しさと態度や服装の必然的な調和とを示していた。[198]

 

 アブドル・バハの服装は、彼の人柄の美しさと威厳と荘厳さとを反映する簡素さと汚れのない清潔さと調和とを兼ね備えていた。

 服装と態度とは、身体的な事柄であるとはいえ霊性にも影響を持つことが出来る。服装の習慣によって神の属性を現すことは、神を讃美し環境を美化するばかりでなく、また人間にも作用して、その者を進歩させる。「・・・あらゆる条件の下に於て、清潔と神聖さ、純潔と優雅さとは、人類を高め、付随的なものを進歩させる。」[199]

 服装に対し、最も意義深く貢献する神の属性は、純潔、謙遜、清潔、優美及び温健である。純潔と謙遜とは、服装が不適当な反響を呼ぶことによって、或は過度に示されたうぬぼれを広告することによって過度の注意を引かないことを要求する。実にこれらは、外観が、その人の人柄を補足し、その人の内部の精神的本質を反映することを求めている。バハオラはこう指摘しておられる、清潔は純潔を反映し霊性に導くと。

   ・・・あなたの衣服に不潔の痕跡すら止めるな。誠に我は、恵まれている人々の心が ぶものを、あなた達から発散させるよう、あなた達の中に地上の楽園が出現するのを見たいと願っている。[200]

 

 美は秩序と調和とを必要とする。所が中庸は、或る場合に、どの型の衣服が適しているかの敏感さを必要とする。礼拝堂或は十九日毎の祝祭日に出席するために適した服装の型は、ピクニックやボーリングに行く時或は家にペンキを塗る時に適したものとは違っている。その基準は常に衣服が、どの場合の目的から削除されるかということにある。

 バハイの教は、衣服を着る方法に対して一定の密接な関係を持っているが、総てのものが従わなければならないという特別の規約は規定されていない。バハオラは、個人に対して一般的の教の特別の適用を残しておられる。「人々は服装の様式に於て鬚の苅込や、その手入れに於て選択するよう許されている。しかし、おお人々よ、汝自身を無知なもの達への、なぐさみものとしないように注意せよ。」[201] 近代の物質的社会は、「良い」化粧品を用い「良い」衣服をまとい、「良い」練り歯磨を用いて自身を愛らしくするという妙な心得違いの概念を作り出している。―――この「良い」とは商売上の利益の増進に寄与する人間の物質的性質に訴える流行や気まぐれによって定められるのである。この幻覚は、商売や広告によって作り出された価値体系に立脚し、人間としての真の目的を不明瞭にするものである。これとは反対に、バハイの教は、徳性を身につけ、人を愛すことによって自身を愛らしいものにすることだと証言している。愛の根源は神であるから、神の顕示者を通して神に接近することによって愛す方法を学ぶのである。

 

   愛の真髄は、人間のために、敬愛する御方に心を向けることである。そして神以外の総てのものから自分を切り離し、主が好み給うたもの以外何物もほしがらないことである。[202]

 

 バハイの基準に一致する服装は、時々現在の通俗的な型から遠く隔たっている。バハイの基準から、それようとする圧力に抵抗することはしばしば困難であるが、信教の原則を本質貸し、アブドル・バハと行動を共にし、バハイの価値に彼の行動の基礎を置こうと努力することによって他の者達とは異なるよう力と勇気を獲得することは出来る。自身を服装と態度によって識別させようとする要求が、確信と意気込と合体する時は、更に威力ある模範となるもう一つの機会である。

 

 

 

 

 

21

娯楽と気晴し(体養)

 娯楽とスポーツと気晴しの目的は、精神を新鮮にし、身体を強くすることである。予防医学は、きつい仕事をすることに相当する休養が重要であることを示している。そして身体の好調子を維持するために運動する必要のあることを説いている。十分な運動と休養なしには、肉体的、感情的、精神的生活面のバランスは覆えされ、結局は有効に作用する能力を減退させ、緊張と不安とを生じる。アブドル・バハは、こう言っておられる。「精神が現れるには、人体が健全でなければならない。健全な精神は健全な身体中にしか存在し得ない。」[203]

 バハイの書物は特定の娯楽やスポーツに参加することを禁じてもいないし邪魔にしてもいないが、純潔穏健及び品位の基準は、自分が携わろうと選ぶ活動に直接の関係を持っている。[204]

 純潔と神聖の原則は、人が楽しんだり創作したりする芸術の種類ならびに彼が求める娯楽の種類に対して意味を持つ。例えば映画の選択は個人の随意にまかされている。バハイの標準と矛盾する行動を示すような映画を常に見ていることは魂の中に不当な矛盾を生じるかもしれない。神の徳性の獲得に対して、その進歩を妨害する。バハイは現代の事情や傾向をよく知っている必要があると議論する人がいるかもしれない。あるいはまた、うぶ(純真)であることの危険を招き信教の布教に効果がないと言うかもしれない。議論を続けるなら彼等は、自身を物質主義、暴力、性欲、サディズム(加虐性色欲異常症)マゾヒズム(異常に虐待されて快感を持つ変態性欲)、テロリズム(テロ行為)及び堕落、これらはしばしば近代映画、ドラマ、小説、詩、テレビのプログラム及び歌のテーマであるが、以上のものに身をさらすに違いない。表面的に考えると彼等の議論は説得力があるように見えるかもしれないが、それは間違った仮定のうえに立っている。総ての知識は直接経験から来なければならないとし、また色々のことに関係し参加することも制限内で適当にやれば危険はないという間違った仮定の上に立っている。バハイ信徒達は、絶えず社会が邪道に導く影響下にさらされている。そして、その堕落を目撃したり経験したりする特別の機会を捜し出す必要はない。その上、ショーギ・エフェンディは、はっきりした力強い言葉で現在社会に現れている傾向を詳しく記載された。つぶれかかっている文明の価値を反映する活動に参加することは、精神的転換に必要な離脱を成し遂げるのを助けないであろう。バハオラは幸福にとって有害な総ての影響を避けるよう訓戒されている。

 

  おお塵埃の子よ!

  永遠不滅の敬愛さるる者(神)の比いなき酒より汝の眼をそらすな。そして不潔なる朽つべき酒粕に汝の眼を開くな。聖なる給仕人の手より不滅の生命の聖杯をとれ。されば総ての知恵が汝のものとならん。また見えざる国より不思議なる叫び声を聞くを得ん。大声に叫べ。汝等志の低き者等よ!汝等何故にわが聖なる不滅の酒より眼をそらせて、儚き水の方に向うや。[205]

  

  おお我が子よ!不信心なる者との交際は悲しみを増す。されど正しき者との親交は、心の錆を除く。神との親交を求むる者は、神の愛する者達との交わりにも専念せよ。また神の言葉に耳傾けんと欲する者は、神の選べる者等の言葉に耳を傾けよ。[206]

 

  おお塵埃の子よ!

  注意せよ!不信心なる者と共に歩むな。また彼と交わらんことを求むるな。かかる交際は、心の輝きを地獄の火に変えるものなれば。[207]

 

  おお友よ!

  汝の心の花園に愛のバラのみ植えよ。愛情と希望の鶯から汝の手を放すな。正しき者の友情を大切にせよ。されど邪なる者との総ての交わりを慎め。[208]

 

バハイの教えは、現代の映画、演劇、歌謡或は文学を禁止してはいない。しかし、教えの中に与えら

れている指導を適用して、どんな活動の精神的価値に対しても、知的な査定を要求している。「美術や文芸の悪用」に対するショーギ・エフェンディの非難は、どんな映画に出席しようか、どんな本を読むべきか、どんな音楽を聞くべきか、どんな絵画を買うべきかを決定する上の一つの手引きである。[209]

 音楽に関してバハオラはこう忠告しておられる。

 

  私は音楽を聞いたり、歌ったりすることを許している。かような傾聴が品位や威厳の範囲を逸脱しないよう注意せよ。我が最大の御名、これによって心がうっとりとさせられ、十分に恵まれている人の心が引き付けられるのだが、この最大の御名の喜びに浸って楽しめ。

  我は音楽を天国に昇る梯子とした。それを自我や情欲のための翼に変えるな。あなた達が無知なものにならないよう私は神に御庇護を乞う。[210]

 

 アブドル・バハは、また音楽の正しい用い方と楽しみ方とを、進めておられる。

 

  おお神の侍女よ!侍女たちの集会において、汝の崇高なる主を讃美して美しいメロディーをもって歌え。[211]

 

 これらの教節の文は、音楽が魂を高揚させるか、また堕落させることが出来ることを示している。そ

れ故人は自分の中に音楽が引き起こす感情を知ることによって、聞いている音楽を評価すべきである。

またしたがって四囲の状況によって音楽を管理すべきである。体面や威厳を逸脱するように誘う音楽は

避けなければならない。しかし、人を鼓舞する音楽は、その者の家庭を静穏、歓喜及び荘厳をもって満

たすであろう。

 身体の休養は健康体を発達させたり維持したりするのに重要な方法である。そして多くの徳性、殊に訓練、忍耐及び強力はスポーツを通じて学ぶことができる。強力と公明正大の精神で行われる競争は活気づける体験となり得る。しかし適度の範囲を越す時は、参加者達が何が何でも勝たねばならないという不当な圧力がかかる時は、スポーツ活動が有害となり得る。

 放縦の形をとって、適度が欠けることが日常である場合には、バハイ信徒達は甚しい束縛を自分の上に加えることによって他方の極端に走らないよう注意すべきである。世間の楽しみを享楽すること――芸術、種々の娯楽と慰安、良い食事や美しい着物――は、バハイの教えに従うばかりでなく、奨励される。ショーギ・エフェンディは、次のように書いておられる。

 

  バハオラによって教えられている基準は、この世が万物を愛し給う創造主によって豊富に授けられている多くの喜び、美しいもの、楽しみから最も十分に利益と恩恵を引き出す合法的な権利と特権とを誰にも拒むことを求めてはいない。バハオラは、御自身我々に保証しておられる「もしバハイ信徒

が、自分と神との間に干渉する何物も許さないならば、神は御自分を本当に信じるような僕等のために、天上と地上に創られたあらゆる良いものを、お授けになっておられるのだから、よし人が地上の飾りで自身を飾り、その服装を身につけ、或はその恩恵に預かろうと望もうとも、何の害もその者に振りかかる事はあり得ない。おお人々よ、神があなた達に許し給うた良いものを食べ、神の素晴らしい恩恵から自身を奪われてはならない。神に感謝と讃美を捧げよ。そして真から感謝している者達となれ。」[212]

 

 もし人が人類に対する神の御目的を心に留めているならば、何ものも彼と神との間を邪魔しないであろう。この焦点は、如何に自身の時間を娯楽或は他の活動に捧げているか決定するのを助けるであろう。暇な時間の活用目的が明らかに示されている時は、時間の消費に彼等を陥らせる可能性は減少される。巡礼者によって、賭け事の禁止が総ての種類の勝負事に適用されるかと尋ねられた時、アブドル・バハは時間の浪費について論じられた。

 

  いや或種のゲームは無害である。またもし時間つぶしのために追求するなら害はない。しかし娯楽が時間の浪費に堕落するなら危険がある。時間の浪費は神の大業には受け入れられない。しかし運動のような身体の力を上達させる娯楽は望ましい。[213]

 

 生活の総ての面において、人が清潔、中庸及び威厳の標準を傷つける時はいつも、その者は災いを自

身の上にもたらす。人がこれらの基準の定める制限範囲内にいる時は、楽しみも、落ち着きも進歩及び才能も十分に可能となる。

 

 

 

 

22

歓待(親切にもてなすこと)

 

 歓待、客を気前良く好意をもって寛大に誠心誠意維持することは、バハオラが掟の書(ケタビ・アクダス)の中で信徒達に実行するよう勧告された。もてなしの一つの型である。他の多くの奉仕の型のように歓待は現代社会の特質である乱雑と混乱とによって影響されてきた主客双方の態度に、染み渡らなければならない丁重さ、愛想の良さ、及び感謝の特性は、時代遅れのならわしと、レッテルを貼られてきたし、またその大部分は忘れられてしまった。主人と客との役割の定義もぼんやりしてきた。歓待は神の属性を非常に、まばゆいばかりに反映することが出来るから、バハイ信徒達は、その真の性質を再検討しなければならない。そして、この奉仕の型で自身を目立たせなければならない。

 歓待は歴史を通じて多くの社会によって大いに尊重されて来た習慣である。これまでの宗教は特別の強調を、この型の奉仕に置いてきた。そして多くの文化は彼等の歓待の特色ある性格に大きな誇りを持ってきた。真の歓待の誠心によって鼓舞された文化の最も顕著な例の一つは回数である。マホメットは、彼の信徒達に友人達、見知らぬ人々及び信徒ではない人達にも同様、歓待の手を差し伸べるように熱心に説かれた。回教徒達は、マホメットによって示された歓待の基準に対し、非常に忠実であったから、もし一信徒が彼の家の中に憎い敵を迎え入れなければならない場合でも、彼は非常にその客をてきぱきともてなすのを常とした。そして最大の思いやりをもって、その客に奉仕するのを常とした。誠に回教徒達が回教の初めの頃の時代に示した歓待はアラビヤの野蛮な仲の悪い種族達を一つの人々に和合させるのに大きな力があった。歓待のこの基準に対するこのような献身の痕跡が回教の世界の中に今日も残っている。

 バハイ信教の中心人物の方々は、また信徒達に親切なもてなしをするよう勧められた。そして彼等の態度に対して基準を与えられた。この歓待の性格は、バブが彼の使命を宣言した夜バブによって、モラ・ホセインに与えられた接待において明である。モラ・ホセインは次のことを物語った。

 

   シラーズの門の外で私に出会ったその青年は愛情と慈愛の表情を持って私を感動させた。彼が自分の家に来て、そこで私の旅行での疲れを癒すようにと、温かい招きの手を差し伸べた。やがて我々は質素に見える家の門の所に立っていた。彼はドアをノックした。その扉はまっすぐにエチオピアの下僕によって開かれた。「お気軽にお入り下さい。御心配なく。」〈コーラン 1546〉というのが入り口を閉めて、彼の後について来るようにと私を振り返った時の彼の言葉であった。・・・我々が越し掛けると直ぐに水差しを持ってくるよう命じた。そして私に、私の手や足から旅の汚れを洗い落すようにと言った。彼のいる所から引下って隣の部屋で手足を洗いたいと嘆願した。彼は私のこの要求を許すことを拒んだ。そして進み出て私の両手の上に水を注いだ。それから彼は飲むようにと爽やかな飲み物を下さった。それから彼はサモワール(ロシヤの茶用湯わかし)を下僕に持ってこさせ、茶を入れて私にすすめた。

   日没后三時間して私の主人役は私に提供するための夕食を命じた。あの同じエチオピヤ人の僕が再び現れて我々の前に最も選りすぐられた御馳走を拡げた。その神々しい食事は私の身も心も同様に活気づけた。その時私の主人役の面前で私は、あたかも楽園の果実を食べているかのような気がした。・・・・私の若い主人役は偉大さに対して、他には何らの主張もされなかった。―――彼は他のどんな人も恐らく示すことが出来なかったと確信されたあの歓待と慈悲の特性を以て私をもてなして下さった。これで十分であった。[214]

 

 バハオラも、また非常な歓待を示された。バヒヤ・カヌーン(バハオラの長女)は、バハオラの使命の宣言に先立ってバハオラとその夫人(ナボブ)は「貧者達や不幸な人達或は困っている人達の世話に従事していた」ということを示された。

   

   我々の戸口からは未だ嘗て誰も追い払われたことはなかった。手厚い食事が総ての来訪者のために拡げられていた。

   常時貧乏な婦人達が私の母の所に来た。その人達は母に種々悲痛な話しをした。彼女の愛情のこもった援助によって慰められ気を休められていた。

   人々は私の父を「貧乏人の父」と呼んでいたが、母も「慰安の母」として噂されていた」・・・[215]

 

 それがテヘランの彼等の家、バクダッドの最も聖なる家、アワカの最大の牢獄に於て或はバージの館であろうと、バハオラとこの聖なる家族の方々は、巡礼者達に、求道者達に、地方の高官達に、また貧乏人達に無限の恩恵と丁重さを以て彼等のあらゆる求めるものを雨のように注ぎ与え、また提供した。アブドル・バハもバハオラの昇天で多くの巡礼者達の報告が証明するように、この奉仕を続けておられた。歓待の模範としてのアブドル・バハの性格に就いては、マルジ・ゲールによって語られている。これは1906年聖地で催されたアブドル・バハの誕生日の祝賀に就て記載してあるゲール氏の母堂の日記から引用されている。

 米国に於ての誕生日の祝に於ては、祝賀が与えられる人は、主人役であろうと女主人役であろうと、その宴の中心人物で主賓であったことを思い出して私は問いただした「どうやってアブドル・バハは、彼の誕生日を行うのでしょうか。彼の家族や泊り客達が何か贈り物をしようと列をなして彼にお誕生日お目出度うを言おうと並んでいる間に、一度だけ朝ねぼうして朝遅くまでベッドに横たわっておられるのだろうかと・・・・アブドル・バハ我々の敬意を愛想よく受けておられるのを見るのは奇妙に見えないだろうか。心からの奉仕の偉大な模範・・・が奉仕されているのだろうか。私はその様子を心に描くことは出来なかった。しかし私は極く早朝から夜遅くまで常に奉仕をなさっておられたお方が休んで余暇を楽しみ、彼の愛する友人達や信徒達が彼等の微力な奉仕を彼に捧げることを私は尚望んでいる。

 ・・・翌朝私は遅くめざめた・・・朝の祈りに、いつものように呼ばれなかった。・・・カーン(彼女の夫アリクリカーン)が現れるや直ぐ言った。「早朝からマスターは忙しかった。・・・二百人以上の客が祝宴に参列するよう予期されていた。そしてマスターは、明け方から働いておられた」と。私は叫んだ「マスターは、自分の誕生日なのに働いておられるんですか」「おお、あなたに、彼が働いている様子を見せたかった!・・・彼等は私に話してくれた。マスターは焼くための生パンを御自分の手で、こねておられたと。彼は上機嫌で彼の手伝人達を激励し、意気を高揚させ、元気づけておられた」と。午前中我々が祝詩を申上げている間椅子により掛っておられるという、アブドル・バハに就ての私の心の中で描いていた像は、私の驚きの内に消えてしまった!あとでカーンは嬉しそうに熱狂して私の部屋に帰ってきて・・・彼は言った。アブドル・バハは大皿を廻すのを手伝った。・・・米飯・・・子羊、その地方の果物・・・、彼の二百名の客の間を移動しながら彼は、彼等に給仕しつつ、また話しかけながら、神々しい愛と精神的意味の言葉を述べられた」と。[216]

 

 ショーギ・エフェンディも彼の祖父の例にならった。そして彼の在任中聖地に来た巡礼者達に対し慈愛に満ちた主人役であった。彼等を東洋或は西洋巡礼者宿舎或は、バージの館の館に宿泊させ彼のテーブルで彼らと食事を共にされた。その食卓で御馳走になりながら巡礼者達は、大業の発展のニュースを知った。そして敬愛する守護者を推進させる精神力を感じた。大業の翼成者ユーゴー・ギアチェリー博士は、次のように書いている。

    ショーギ・エフェンディ存命中、巡礼に行ったあのバハイ信徒達は、夕食時に守護者の前に招き入れられたいという熱望がその瞬間まで終日支配していたあの予期の空気を覚えているであろう。・・・守護者は決してテーブルの上座に坐られなかった。この席は彼が特に敬意を表したい客人のために、とって置かれた。このような客が出席しない時は、大業の翼成者アメリア・E・コリンス夫人がそこに坐った。ショーギ・エフェンディは、いつも変わらずテーブルの北側の東の端に坐られた。大業の翼成者達、全国顧問団の方々と巡礼者達は守護者によって示された席にテーブルを囲んで坐った。・・・

    この部屋に入って守護者達が腰を掛けた后には、いつも参列者達は衷心からの喜びと確信とで満たされるようになった。彼の輝かしい微笑みは、いつも彼の歓待の心を示していた。毎夜ここで愛に就いて世界計画に就いて、理解及び活動に就いての談話会が行われるための最も完備した設備があった。気高い言葉の流れ、思想や意見や計画の流れは近い将来遠い未来をさぐる彼の遠大な洞察力と結合されて、刺激され極度に鼓舞された。毎年毎年彼の夕食のテーブルに坐った者は皆、あたかも魔法の杖に触れられたようにたちまちにまた完全に変化させられたと私は信じている。その者の内的生活も、また生命への接近も、どんな他の人も、これ程にかつて経験したことのないような方法で守護者の気高い愛によって新しくさせられ、疑いもなく変質させられたの

である。[217]

 

 バブ、バハオラ、アブドル・バハ及びショーギ・エフェンディのこれらの例が示しているように、歓

待はバハイが識別されるようになるに違いない奉仕の一つの型である。例えば歓待の提供は、常に主人役の特権である。誰にも歓待が差し伸べられることを要求する権利もないし、また、それを憶測することも出来ない。もてなしが提供された時は客の側にとってもそれに相応する応対が必要条件となる。主人役は彼の客の歓迎と気持ちよさを感じさせようとするから、客は愛想よく思いやりがなければならない。[218]アブドル・バハの態度は、バハイの基準を示している。アブドル・バハが旅行した時、彼と彼の側近者は彼等自身の宿泊施設を準備した。ただ、まれな場合に、個人個人が彼の家に泊まるように願った時は、アブドル・バハはもてなしを受けることを承諾した。[219]その時でさえも彼は連れの人達のため、どこか他所に宿泊設備を整えた。彼がもてなしを受けた時は、主人役の家族に贈りものをし、またしばしば、食事の準備や給仕をして手伝った。

 歓待を示そうとするには、一方において飲食物の用意をするため総ての人々が種種の仕事に従事しなければならないという「ならわし」がある。それなのに人々の中には、しばしば、宿泊や食事に関する仕事を他の人々に押し付けているものがいる。歓待を利己的に利用しようとするこの考えは、手伝いをするという「ならわし」の要求を満たそうとする努力が足りないことによる。かような場合には人の好意に付け込むことと、バハオラが禁じておられる物乞いとの間の差異は極僅かである。

 バハオラが彼の信徒達に守るよう申し付けた歓待の特質は、現代社会の気まぐれな習慣からは遥かに離れている。何となれば、この歓待の基準は近年衰微したから根本的な優遇の僅かな例だけが役に立つことを証明している。自分の家に客を受け入れる時、その者は客を戸口で喜び迎えなければならない。もし客がどれだけかの間留まるなら主人側は客に茶菓を供さねばならない。主人役は、また客人に家の他の者達を紹介しなければならない。もし客が一泊するか何日か泊まる時は、主人役は、彼の部屋を見せたり、彼に影響を与えるかもしれない家庭の行動を熟知させることによって、また客人が持ちたい特別に必要なものにも気を配ることによって、居心地よくするように努めなければならない。もし、その人が精神行政会か委員会の会合に主人役であるなら、その者は彼の家をきれいにし、茶葉を供し、客人を好意と世話をもって、歓迎しなければならない。主人役の態度を左右する基礎的原則は一度他の人が、彼の家の敷居を越して入るや主人は客の幸福に対して責任をとるべきである。この責務は客を品位をもって、もてなし彼に卑下(謙遜)と愛情をもって、もてなすよう要求している。

 歓待は多くの精神的特性の表現を含んでいるから、主人役は客達を受け入れるのに精神的ならびに物質的準備をしなければならない。アブドル・バハは客が迎え入れられねばならない雰囲気を記載され、主人が努めなければならない態度を示された。

 

    私の家庭は平和な家庭である。私の家庭は歓喜とうれしさの家庭である。この家庭の門を入るものは、誰でも楽しい心をもって出て行かねばならない。これは光明の家庭であり、ここに入る者は誰でも心が明るくならねばならない。[220]

 

 かような分陰気は、主人役の家庭の和合と調和によって、また他の人達の要求に対する敏感さや関心

によって作られる。

 歓待は、このように奉仕の重要な型であるから、バハオラは十九日毎の祝祭日の制度においてバハイ

共同体の集団生活に、その表現法を定められた。祈りと瞑想及び話し合いの時期を分けた后に、その共

同体は茶菓を共にする。もしそれが一杯の水であっても、互いに睦まじく食物を分け合う昔の習慣は共

同体生活の中で、卓越した場を与えている。

歓待はまたバハイのファイヤサイドや布教の催にも重要な役割を演じている。要するに心からの歓待は、教えに就ての議論よりも深い永続した効果を持つようである。それ故バハイの夕べに於て差しのべられる歓待の特性は、模範でなくてはならない。

歓待は物質的、精神的準備と歓迎の両方から成っているから、それは、気持ちのいい物質的な準備は必要としない。歓待の本当の精神は、バハオラと迎える主人役となる栄誉を持った一隠者(世捨て人)についての、アブドル・バハによってメー・マックスウェル夫人に語られた説語の中に例示されている。

     ・・・・・祝福された完全(バハオラ)が従者達を連れて、あちこち旅行された時、彼は寂しい田舎を通過した。道路から一寸離れた処に一人の隠者が洞窟に独り淋しく暮していた。彼は聖者であった。そして我々の主なるバハオラが、その道を通るだろうということを聞いて彼は、バハオラに近づく機会を熱心に見守っていた。顕示者(バハオラ)が、その場所に到着された時に、その隠者は跪いて彼の足元の地面にキッスした。そして彼に言った。『おお私の主よ、私はこの近くの洞穴に独りで住んでいる貧しい者です。しかし、もしあなたが、これから一寸の間私の洞穴にこられて、そこを祝福して下さるなら、死すべき者達(人間)の最高の幸福と思います』そこでバハオラは、その人に向って、ぢゃ伺いましょう。一寸の間ではなく、三日間おりましょうと答えられた。バハオラは従者達に自分達のテントを張り、彼が帰ってくるまで待つよう命じられた。その哀れな人は、喜びと感謝で胸が一杯になり何も言えず、つつましやかに無言のまま岩屋の中の彼のみすぼらしい住居への道を案内して行った。そこで栄光に満ち給う御方は、彼と共に坐って彼に語りかけ、彼に教を説いて聞かせられた。そして夕方近く、その人は、彼の素晴らしいお客様に、いくらかの乾燥した肉と少量の黒パンと、近くの泉から汲んで来た水以外には、差し上げるものがないことに気付いた。どうしてよいか分らず彼は彼の主の足元に身を投げ出し彼の窮地を告白した。バハオラは、彼を慰め、口頭で彼に、その肉とパンと水を持って来るよう命じられた。全人類の主は、この質素な食事を、あたかも、それが宴会であったかの如く喜び楽しそうに共に召し上がった。そして彼の訪問の三日間、この貧しい隠者にとっては、彼がこれ迄に食べたものの内で一番おいしいものと思われた。この同じ食事だけを二人は一緒に食べた。バハオラは、これ迄に、これ以上気高く、もてなされたこともなかったし、またこれ以上すばらしい歓待と愛情を受けたことはなかったと言明された。[221]

 今日バハイ信徒達は、丁重な愛情のこもった手厚いもてなしをすることによって彼等の仲間を和合させる早期の回教徒達と同様の機会を持っている。バハイ信徒達によって捧げられた心からのもてなしは、現代の慣習がますます対照となって存在しているから、その影響を受ける人々は、すらすらと此の信教に引きつけられるであろう。

 

 

 

 

 

23

言葉(言語)

 最も明白に人類を動物から区別する言語は人間の能力の一つである。それは知識の蓄積を容易にし、一世代から他の世代への知識の伝達に重要な役割を演じている。人間関係に於ての言語の役割に言及して、アブドル・バハは、「言語の機能は、人間の心の神秘と秘密とを描写することである。心は箱のようであり、言語は鍵である。」[222]と説明しておられる。

 バハオラもバブも、彼等の前の預言者達と同様に、誰も張り合うことが出来なかった言葉の力を現して彼等の辯論の雄弁さ、彼等の言葉の賢さ、彼等の表現の威力は迫害者を征服し、信心深い者達の心をうっとりとさせた。バハオラが示した言葉は、全能なる神の創造力としてのみ記載され得る潜在力を授けられている。

 

      そして汝の攻し難い信教が啓示されるべき時刻が打ち鳴らされた時、汝は汝のペンの仲に、汝の精霊の息吹を吹き込んだ。そして見よ、総ての創造物の所有者である神の宝庫の内に隠されていたような神秘が人類に示されたので、全創造物は、その土台まで、ゆれ動いた。[223]

 

 「この啓示の中の言葉の微風は、これ迄の時代のものと比べものにならない」[224]とバハオラが書かれたこの啓示の言葉は非常に強大である。

 アブドル・バハは、バブやバハオラと同じく彼の超人的英知と完全さから由来する雄弁さと威力とを示した。まばゆいばかりの外観と堂々たる態度と結合して、彼の話は、彼が示した霊性に他の人々を引きつける抗し難い磁力の一助となった。エドワード・グランビル・ブラウン氏は、アブドル・バハにお会いした折こう書いている。

 

    これ以上の雄弁さ、議論の上手さ、引例の適切さは・・・思うにほとんど何処にも見出すことは出来ない。・・・これらの特質は同時に堂々さと温和さとが一つになって、彼の受けられている信望と尊敬に対して驚嘆を禁じ得なかった。・・・このお方の偉大さと偉力さとにおいて、彼にお会いした人は誰も疑いを抱くことはできなかった。[225]

 

 ホワード・コルビー・アイブス氏は、こう記載した。「アブドル・バハの声は素晴しい音色のベル

の響きのようで、決して大きくはなかったが、部屋の壁がその妙音に共鳴するように見えるほど、し

み通る特色があった。」[226]しばしば調子のいい重々しい或は情熱的であったが、しかし、いつも落ち着

いて堂々としたところがあった。アブドル・バハの言葉は、彼の父上の教を広めるための完全な伝達

者であった。科学者達或は貧困者達、名士達や子ども達、集会や個人のどちらに呼びかける時も、ア

ブドル・バハは、父親の伝言を最高の威厳、優雅さと権威とをもって蔽い、彼の聴衆の能力に応じて

内容や、やり方を合わせられた。アブドル・バハは、バハイ信徒達に、彼の聴衆の要求に敏感さを伴

う言葉の素晴しい使い方の特色ある模範を示しておられる。この模範に従う時は、他の人々を神の大

業に引きつける能力を増すであろう。

 ショーギ・エフェンディも、また卓越した基準を支持され、英語、ペルシャ語及びアラビヤ語に素

晴しく精通していることを示された。実にショーギ・エフェンディの英語に対する貢献度は大したも

のであったから、それを新しいレベルに高めることで彼は将来の歴史家達に十分に信頼されるであろう。

 次の文章の中でバハオラ、アブドル・バハ及びショーギ・エフェンディは、神の大業に於ける雄弁な舌の高い地位と天上の威力とを記載され、バハイの喋ることと書くことに優秀さの最高の基準を維持するよう命じ給うた。

 

    おおバハの人々よ!

   人間の心の砦を、知恵と言葉の剣とをもって征服せよ。論争する彼等は、彼等の欲望によって鼓舞されたように実に明瞭なヴェールで包まれている。[227]

 

    汝等は誰の血も流さぬように注意せよ。汝の舌の剣を言葉の鞘から抜け。何となれば、人々の心の砦を征服することが出来るから。[228]

 

    おお僕等よ!そもそもこの大業の勝利は、聖なる魂の出現と、よい行為の展示と完成した知恵の言葉の啓示に依存するであろう。[229]

 

 今は喋るべき時代である。最大の忍耐と寛容とをもって世の中の人々を最大の地平線に導くよう努

力するのはバハの人々の義務である。各人は一つの魂に対して声高く呼びかける。天上の魂は、神の

御言葉の息吹をもって死んだ人々を新しい魂をもって励まさなければならない。あらゆる言葉の中に新しい精神が隠されている。そこに到達した人々及び永遠の王である神の大業を教えるために立ち上がった人は幸福である。[230]

 

誰とも争わないように注意せよ、いや親切な態度と最も説得力のある勧告とをもって真理を彼に知らせるよう努力せよ。[231]

 

あなたの舌を解放せよ。そして絶え間なく神の大業を宣布せよ。もし汝等が、この真理を理解する人々の中にいるならば、このことは過去及び未来の総ての宝より、あなたにとってよりよいことであろう。[232]

 

もし誰かが、彼の書物によって神の大業をその敵に対して守るよう立ち上がらなければならないなら、かような人は彼の分け前が、如何に取るに足らなかろうと、来るべき世に於いて非常に尊敬されるであろうから天上の群衆は彼の栄誉をうらやむであろう。[233]

 

汝が文学や作文を書くことにまた、舌の雄弁と、話の流暢さとに大いに熟達するよう望む。神の奉仕に当たり、神の侍女と共に協力して、お一方なる神の閾に於いて尊敬された僕となり、また天国の賜物の分け前のお相伴に預かること及び日々この人類世界の美徳の頂点に到達するまで進歩して大いに熟達することを望む。[234]

 

もし彼が夏期学校に出席するような場合には・・・かような機会を講義、研究及び討論によって彼の信仰の基礎知識を深め、一層大きな確信と効果とをもって、彼に任された伝言を伝えることが出来るよう、彼の信仰の基礎知識を豊かにする歓迎すべき貴重な機会であると考えさせよ。[235]

 

あなた方の次回の夏期学校で、公開講演や徹底的な討論を行う場合に、信教の早期の歴史や原則に於いて、正式にせよ非公式にせよ大業の種々の面に亙って徹底的に討論を集中する必要性のあることを力説したい。[236]

 

大業の奉仕に役立つ流暢な、雄弁な、まだ説得力のある話し方を発達させるよう奨励するからには、神の御名を広めるために立ち上がる人々を神は助けて下さるであろうという、はっきりした確証を伴っているのである。

 

もし彼が神の愛の火で点火されるなら、もし彼が総ての創造物の先頭に立つなら、彼が述べる言葉は彼の話を聞く彼等をも燃え上がらせるであろう。[237]

 

神の正義にかけて!今日唇を開いて彼の主の御名を語るものには誰しも、総てを知り給い、総てに賢い我の御名の天上から神の霊感の軍勢達が彼の上に下るであろう。また彼の上に天上の群集がそれぞれ清い御光の盃を高くかかげて、下るであろう。このように、そのことは、栄光に満ち最も力強くまします神の御命令によって神の啓示の領土に予め定められていたのである。[238] 

 

言葉は、また、それが神の属性即ち親切、誠実、正直、正義、思慮分別等を現わすことのできるもう一つの水路であるから重要である。

 

親切な舌は、人々の心の天然の磁石である。それは精神の糧である。それは言葉に意味をまとわせる。それは知恵と理解の光の源である。[239]

 

おお人々よ、あなた達の舌を真実をもって美しく、またあなた達の魂を正直の飾りで美しくせよ。[240]

 あなたの判断は公正であれ、そしてあなたの言葉で守らしめよ。[241]

 

人間の相互作用に於いて言葉は中心的な役割を持ち、神の特性を反映させ、また「死人を新鮮な魂で活気付ける」[242]ことが出来る可能性があるから陰口をして知られている言葉の悪用は、「神のお怒りの原因」また「最も悪い人間の性質、または最も大きな罪」[243]と呼ばれているのである。

 

その求道者は、また陰口を嘆かわしい誤りと見なすべきである。またその領土から超然としていなければならない。陰口は心の光を消し、魂の生命を絶やすからである。[244]

 

言葉の他の悪用は、無駄話である。

 

 彼は忍耐と断念にしがみつかねばならない。また無駄話を控えねばならない。何となれば、舌はくすぶっている火であり、談話が多すぎることは、致命的な毒である。物質的な火は、身体を消滅さす。舌の火は、心と魂の両方を滅ぼす。前者の力は、ほんの一時しか続かない。然るに後者の影響は一世紀も持続する。[245]

 

 彼の心の書き板から、あらゆる無駄な言葉の痕跡を消し去ることは各人の義務である。・・・[246]

 

 誰かを罵倒したり非難したりすることで舌を汚すな。そしてあなたの眼を価値のないものに対して守れ。[247]

 

 ・・・舌は良いことを喋るためにある。それを悪い言葉で汚すな。「神はあなた方の過去のやり方を許し給う」あなた達は今后価値のあることを喋らなければならない。悪口を言うこと、中傷することを避けよ。そしてあなた達の仲間を怒らせることは何事であれ避けよ。[248]

 

 バハイの書物の中で命じられており、その中心人物達、守護者、万国正義院の方々及び早期の男女の英雄達によって例証されている高い標準の言葉は、人を不和にしたり、混乱させたり或は不明瞭な意味をもつような類の言葉を削除するよう求めている。[249]

こういう類の言葉の例は、集団の内と外とを分離する障壁として役立つ俗語或は訳の分らない言葉である。言葉は和合を育てるために使われなければならない神の賜物である。人々のグループを故意に或は無意識に、言葉或は心理学的或は他の方法によって、締め出そうとする企ては、バハイ精神に反し、人類の統合に向っての進歩を妨げる。

 語学者達、文法学者達、及び作家達は、一般大衆によって喋られている言葉の盾が過去数十年以上もの間に著しく退歩し続けてきたと報告している。十分教育を受けた人々でさえ、しばしば、いい加減な言葉の習慣を示している。そして彼等の思想を明瞭に現わす事が出来ない。彼等の言葉は煮え切らない、支離滅裂で見当違いの表現で、とり散らされている。随って、その意味もぼんやりしているし、ゆがめられている。これらの貧弱な言葉の習慣は、必然的に人間間の相互の質に影響を及ぼす。しかし、それはバハイの協議が最も厳しく批判を蒙る特性である。はっきりした意見の言えない委員から成り立っているバハイの行政会や委員会は、いくらよく見えても無能である。そして辻づまの合わない多弁によって容易に麻痺させられるであろう。それからは何の合意も出現することは出来ない。

 バハイは、このようにして、彼等の弁論の質によって、自分達を目立たせる優れた機会を持っている。それによって彼等の仲間の注意を引きつけ、また「英知と言葉の剣をもって、人々の心の砦」を征服して、彼等の効果を増大している。

 

 

 

 

24

芸術の探求

 あらゆる神の顕示者が出現すると芸術界や科学界に革命的変化が起るものである。神の教育者達は、世の中に衝撃を与えるから人間が生存する上での肉体的、人道的及び精神的領域に変化を生じて来る。アブドル・バハは次のように書いておられる。

 

    今日は何と素晴しい世紀であろう!世界全般に改革が起る時代である。市政府、州政府の法律や法令も改変と転換の途上にある。科学と芸術は新しく創られている。思想も変換される。人類社会の基礎は変わり、強化されている。・・・・現代にふさわしくない不適当なものの総ての条件や要件は根本的に改変されつつある。・・・・人類の道徳も変えられなければならない。人道上の問題の新しい救済策、解決策も新しく採用されなければならない。人間の知そのものも改変され、全般的な改善を受けなければならない。[250]

 

 人事問題に於ける、かのような革命的変化は、人類に対する神の御目的によって芸術の定義にも変革を持ち来している。次の一節に於いてバハオラとアブドル・バハは、新しい見通しから芸術を眺め、その目的に新しい定義を下された。

 

    タジャリアットの書(光輝の書)の第三の光輝の中で我は述べた「芸術、工芸と科学は現実の世の中を向上させた。そしてその高揚に助けとなっている。知識は、人間生活にとって翼のようなものであり、その向上のための梯子である。それを習得することは各人に義務として掛っている。しかし、かような科学の知識は、地上の人々を利用することが出来るように獲得さるべきである。そして言葉で始まり言葉で終わるものではない。世の人々にとって科学者達と技術家達の要求は非常に大きい。この著名な地位にある原典が、このことを証明している。

    実際知識は、人間にとって真実の宝であり、また栄光、恩恵、喜び、讃美、歓喜、嬉しさの源である。それを固守する者は幸福であり、それに注意を向けない者には災いが起る。[251]

 

 それは芸術、商業等、或る一つの職業に従事するあなた方一人一人の義務である。これ即ちあなた

の職業を、唯一なる御方である神の礼拝と全く同一視した。おお人々よ、神の恵みを神の恩恵を反省

して朝な夕な神に感謝せよ。[252]

 

 科学の習得と芸術の完成とは礼拝の行為と考えられる。もし人が全力を捧げて科学の獲得に従事し、

芸術の完成に携わるならば、それは、あたかも其の者が教会や寺院で神を礼拝していたと同じである・・・科学が礼拝の動作と考えられ、芸術が神の天国への奉仕と考えられることより優る大きな恩恵が在り得ようか。[253]

 

 バハイの大業に於ては、芸術、科学及び総ての技能は礼拝と考えられている。・・・簡単にいうと、もし、それが最高の動機によって人類に奉仕しようという意志によって刺激されるならば、心の満腔の真情から捧げられた努力や骨折は礼拝である。人類に奉仕し、人々の要望に応じて仕えること、これが礼拝である。[254]

  教育の拡充、有要な芸術や科学の進展、工業や技能の振興は、有害なものであっただろうか。課のような努力は、群集の中の個人を向上させ、その者を無知の深淵から、知識や人間の美徳の最高の域まで高めるが故に。[255]

 

 それから芸術の目的は、神を讃美することであり、また人類を鼓舞することである。このような定義は、「芸術」の多くが現代社会によって建設の過程よりは寧ろ崩壊の過程によって作られたことを確認する。何となれば、それは世の中の無秩序、堕落、放縦、退廃を反映し、精神的価値をなくしたからである。

 芸術の目的と、その社会に於ける地位に就て明らかにすることに加えて、ハバオラとアブドル・バハの書物は芸術的な過程の性格を明らかにしている。

    

おおバハの人々よ!思慮深い才能は、技能、芸術及び科学の倉庫である。それ故英知と知恵の宝石は、この理想の鉱山から産出するよう努力せよ。そして世の中の種々異なった国家の安寧と和合に貢献せよ。[256]

    

    聖霊の御力によって彼の魂を通して働くことによって、人はものの神々しい本質を認めることが出来る。芸術と科学の総ての偉大な仕事は、この聖霊の力の証言である。[257]

 

    合理的な魂の力は物事の実質を発見することが出来る。実態の特質を理解し、実在の神秘を見通す。総ての科学、知識、芸術、奇跡、制度、発明発見及び企業等は合理的な魂が用いられた知能から生じる。[258]

 

 人類は、信教の教によって、ますます影響を受けるようになるから神の特質と属性を、尚不十分ではあるが、芸術もますます高度に反映してくるようになるであろう。バハオラの約束された世界を抱擁する社会が、世界文明の真の果実から成る芸術と科学を生じるようになるときまで、現在のバハイの芸術家達の努力は、彼等の感情と思想と見解を信教の教と一致するように表現しようとする。それぞれの試みとは秘書を通して「バハイの芸術」の発表に関し以下のことを書かれた。

 

     現在は、バハイ芸術のほんの初期であるとはいえ、かような事柄を授けられていると感じる友人達は、彼等の賜物を発展させ培養するよう努力しなければならない。そして反映すべき彼等の仕事を通して、如何に不十分であろうとも、バハオラが、世界に息を吹き込まれた神の精神を発展させなければならない。[259]

 

 芸術の一つとしての音楽は、自然的、文化的に発展するものであり、守護者は画を書いたり字を書い

たりするバハイ学校を我々が発達させようと試みているより以上に「バハイ音楽」の何らかの養成をしなければならないとは感じていない。信徒達は彼等の才能が導くままに、描くも書くも作曲するも自由である。もし音楽が聖典の文句を取り入れて作曲されても信徒達はそれを利用することは自由である。しかしそれはバハイの会合でかような音楽を用いるよう要求することは必ずしも考えられるべきではない。どういう形式からも友人達を遠ざければ遠ざけるほどよい。何となれば彼等は大業が絶対的に世界共通のものであることを悟らなければならないからである。また何かフィースト等を祝う形式として美しいお添えものと思われることも他の国の人々の耳には不愉快な響きと聞こえるであろう。逆の場合もまたそうである。それ自身のために彼等が音楽を持つ限りはそれでよろしい。しかし、それをバハイの音楽と考えてはならない。[260]

 バハイ音楽の本を作ることに関してこの時には、バハイと呼ばれることの出来る何等文化的表現がなかったというあなたの理解は正しい。(特殊な音楽、文学、芸術、建築など、文明の花であり、新しい啓示の初期にはまだなかった)しかし、それは我々がバハイの音楽を持っていなかったという意味ではない。言葉を変えて言えば、バハイを主題としたバハイ信徒達によって作曲された歌はなかった。[261]

 芸術は、人を動かし人を鼓舞する非常に大きな潜在力を持っているから、バハイの芸術家達は、時に彼等の仕事が自我の過剰或はその時代の道徳的退廃に集中し、それによって人を神の御目的から、そらせないよう注意しなければならない。バハイでない芸術家達は、文化の崩壊を記すことに忙しいが、バハイの信徒達は、新しい精神の最初の活動を反映することができる。

 このような純潔で聖なる生活は、・・・服装、言葉、娯楽及び総ての芸術的及び文学的気晴らしに関する総てに於いて適度に行うことも同じように取り入れている。・・・それは芸術や文学の堕落を非難する。・・・それは理論、基準、習慣、退廃的時代の行き過ぎとのどんな妥協も黙認することはできない。[262]

 芸術に於いても、あらゆる生活の他の場面に於けるが如く、バハイ信徒達は人類の魂を鼓舞し活気づけるための手段として役立つ機会がある。

 

 

 

25

仕事と教育

 

 バハイ宗教制の基本的掟は、仕事の戒律である。

 あなた達の銘々が、芸術や商業等何等かの仕事に従事することは、あなた達各人の義務とされている。・・・

 怠惰や不精によって、あなたの時間を浪費してはならない。そしてあなた自身及び自身以外の他の人々のためになることに従事せよ。このことは英知と神の言葉の太陽が輝いている地平線から書簡の中で、こう命じられているのである!神の御前にいる人々の中で最も軽蔑されるものは、只坐って物乞いする者である。大業の源にまします神に頼りつつ、手段の綱をしっかりとつかめ、芸術や商業に従事する各人――これは神の御前の礼拝の動作と考えられるであろう。誠にこれは神の偉大で豊富な恩恵に他ならぬものである![263]

 おおわが僕よ!

汝等は、わが花園の樹である。汝等自身と他のものの利益のために、立派なる素晴しき果実を結ばねばならぬ。かくて技術及び職業に従事することは万人の義務である。そこにこそ富の秘訣があるからである。おお理解力ある人々よ!結果は手段に依存し、神の恩恵は汝等に全く十分であろう。果実を結ばぬ樹は焼かれ、また永久に火にくべられるであろう。[264]

 おお我が僕よ!

 地上において、果実を結ばぬ人々こそ最も卑しいものである。またかような人々は、まことに死人の仲間とみなされている。否、神の眼には、これらの怠惰にして価値なき者よりも死者の方がましである。[265]

 おおわが僕よ!

 職業によって生計を得、全世界の主なる神の愛のために、自らとその同族のために、それを遣う者等こそ最も善き人々である。[266]

 この掟の随一の面は、仕事を礼拝の地位に高めたことである。

 我は、これ――あなた達の職業――を創った。真実なる御方にまします神の礼拝と一致させた。[267]

 バハイの大業に於いては、芸術、科学及び総ての技能は、礼拝と考えられている。自分の能力の最善を尽くして良心的にそれを完成しようと全力を集中して一枚のノートペーパーを作る人は、神に讃美を捧げているのである。簡単に言えば人類に奉仕しようとする最善の動機と意志によって刺激されるならば、全身全霊を込めて行った総ての努力と尽力とは礼拝である。人類に奉仕し、人々の要望に応じて用をたしてあげるのも礼拝である。奉仕は祈りである。病人に仕え、やさしく親切に偏見を去り、人類の一致団結を信じている医師は神に讃美を捧げているのである。[268]

 バハイの教は、自分の仕事をきちんとやることは、神から御覧になれば礼拝の中に数えられると告げている。人は二つの条件を満たさなければならない。一つは奉仕の精神で仕事を成し遂げなければならない。そして、もう一つは優秀さを目指して努力しなければならないということである。仕事を愛すことは、奉仕の精神でそれを遂行し、優秀なできばえに達する助けとなる。それはまた、エネルギーを有効に使用させる。何となれば、それは注意が散漫にならないからである。そして、このようにして彼の総てのエネルギーと手腕とを、仕事に注ぐことが出来るからである。こうすれば順番に遂行、満足及び優秀性をもたらすのである。このことを、アブドル・バハは、バハイ信徒達に望んでおられる。しかしもし人が自分の仕事を愛さなければ、その者の精神はだらけてきて、腕前は衰え、優秀さに向って努力しなくなり、只動作だけやり始めることになろう。ところが、自分の仕事に愛情を持つことは、職業を選ぶ時に熟考すべき重要な要素であるが、この愛は、しばしば仕事をして、ある期間を過ぎた后に、職業に進歩を来してから、やって来ることを知らなければならない。仕事がどんなようなものであるか、単に熟考するだけでは、自分がそのような型の仕事を楽しくやって行けるかどうかを決定する精密で十分詳細な見解を一般に与えてくれないであろう。

 職業を選ぶにあたって熟考すべきもう一つの要因は、人類のためになる度合いである。バハオラは、こうかいておられる。

 いつの世でも、それ自身の問題を抱えている。また各人には、それぞれ特別な抱負がある。・・・汝の生存している時代の要求に切に心を配れ。そしてあなた達の考えを、その急迫と要求に集中せよ。[269]

 形成時代のこの段階の必要に応じた最善の方法は、ショーギ・エフェンディの書かれたものを読むことである。それはこの時代の出来事の意味及び万国正義院の重要さを非常に明瞭に解き明かしている。それは現在信教のために必要であることを、はっきり示し、未来に向っての管理に備えている。ショーギ・エフェンディの伝言と万国正義院に就て研究することによって、どんな職業或は商売に従事すべきか決定するのに助けとなる将来の見通しを得るであろう。

 自分の仕事を愛することに加えて、その者が可能である能力の最高水準に到達する義務がある。個人の価値はその者の力量に関するその者の行為の価値によって測られなければならない。恐らく卑しい仕事であろうとも有用な仕事を能力の限界まで行っている人は、著名な科学者や芸術家になることの出来る人が、時間や労力を浪費するよう望んでいるのよりは、もっと社会に有用であり、神の眼から御覧になれば一層愛すべき人であるのである。

 もし人が、その能力に応じて人類に奉仕しようとするならば、まず自己を知ることが、必要である。

・・・人は自分自身を知らなければならない。そしてまた高貴へか、下品へか、恥辱へか、栄誉へか、豊かさへか欠乏へかに導くものを知らねばならない。[270]

 己を知ることの中には、自分の能力と力量とを知ることも含まれている。そして、その者の好きな職業を選ぶ上に重大な指導となる。自己の能力を知ることは、実際的な興味をそそる目標を定める上に重要である。自分の才能の限度を知らなければ、与えられた仕事をどの位多く、どの位よくすることが出来るか見積もる上で軽すぎたり過大すぎたりする可能性が起りうるのである。自己を知ることは又自分がどの位よく目標に向って進歩しつつあるか詳しく査定することができる。こういう評価の仕方は重要である。それは自分の行動を進歩させるのに必要な情報を供給してくれるからである。

 中庸(穏健)の原則は、我々の仕事に適用されなければならない。何となれば我々は仕事を生活のほかの面との釣り合い、特にその者の個人的生活と大業への奉仕との釣り合いを保たせなければならないからである。これらの部門の内の一つが無視されると、他の生活部門も恐らく同様に逆に影響を受けるであろう。このことが起るとその者の仕事の特色を減少させるような困難が現れて来るものである。

 

 

 

 

26

資源の利用

時間、才能及び資材は、我々の最も重要な資源である。それらを神への奉仕に賢く利用することは、神の属性を獲得し、そのものの潜勢力を発展させる助けとなる。またそれは、確信も招く。「神の教の宣布に、あなた達のエネルギーを集中せよ」とバハオラは従者達を励ましておられる。[271]この神を中心とした目的に自身を献げると、資源が重要な計画を達成し、価値ある目標に到達するには何を優先さすべきかを決める助けとなる。

資源を使用するに当たり、導きとなる二つの原則は寛容と節約とである。寛容は精神に於いても行動に於いても、自由に与えようとする温かい心の快諾である。節約は注意深い運営を示している。寛大と節約とが平衡を保つ時、神のためにも他の人々の利益のためにも資源の賢い利用を行うことが出来る。犠牲(ささげもの)も、また資力の利用になる。[272]犠牲は、何か貴重なものを捧げる動作である。自分の愛する好きなものを気前よく提供することは――その捧げものが物質的富であろうと、静かな日曜日の朝であろうと或は特殊な才能であろうと――人間から見ればあまり価値がないと思っているものを提供することでも、神の御眼から御覧になれば、遥かにもっと価値があり、もっとお喜びになるものである。従って犠牲(ささげもの)は単に量的なものばかりでなく同じく質的なものでもあるのである。

アブドル・バハは、犠牲のもう一つの面を説明しておられる。――人が自ら投資しているものの特質を取り上げて。

彼は火の燃え盛っている溶鉱炉の中に投げ込まれた鉄のようにならなければならない。黒くて冷たくて堅いというような大地に属する鉄の特質は消え失せて、赤々と燃え立ち灼熱する、王国に属する火の性質が現れて眼に見えるようになる。それ故鉄は、その性質の等級を火に犠牲として捧げ、その元素の美点を獲得するのである。[273]

この例に於ける鉄が、それ自身の特質を犠牲にして、火の特性をとるように、人も自分の資源を注入して、そのものの特質を身につけるのである。もし彼が自分の時間、才能及び物質的なものを、世の中の活動に投資するならば、彼は世俗的となる。もし彼が、それらを精神的な仕事に投資するならば、その者は精神的になる。

寛大、節約及び犠牲は、その者の資源を神の美徳の獲得と新しい世界秩序の建設に捧げることが出来る精神的な本質である。これに対比して浪費、贅沢及び欲深は、資源の誤った使い方であり、目的の遂行を遅らせ、神の確証の流れを、せき止めるものである。

 

時間

資源としての時間の概念は、「時間を費やす」という表現で表される。「時間を費やすこと」は、活動に於いて投資することを意味する。大きく投資すればするほど、ますます大きな報酬を予期することができる。このように時間を、祈りに、信仰を深めることに、布教に、またバハイ生活を送るよう意識して努力すればするほど、ますます精神的進歩は大きくなるであろう。反対に崩壊しつつある世界秩序を支持する活動により、多くの時間を捧げれば捧げるほど彼の精神的進歩は、ますます遅くなり、人類に対する神の御目的の一層はっきりした理解を得ることは恐らくますます少なくなるであろう。

時間というものは賢くも愚かにも費やすことの出来る資源であるから、時間を注意深く予定をたてて費やすようにしなければならない。時間の予定を立てるに当たっては、重要な計画や活動が、その目的を達成するのに十分な多くの注意がはらわれることを優先的に必要とする。節約と寛大の原則は、どの位の時間が費やされるかによって左右される。しかるに目的の意味は、どの活動が、時間と注意を受ける価値があるかを決定する。このように「単なる言葉に始まって単なる言葉に終わるような科学」を研究するのに沢山の時間を費やすことは例えて言えば、資源の愚かな使用が祈りや瞑想に時間を費やすことを怠るのと同様である。[274]しかし神の属性を得ること及び新しい世界秩序を建設することに時間を十分かけることは、この資源の賢い使用を示している。

アブドル・バハは、次のように言われたと報道されている「時間の浪費は、神の大業に於いては好ましくない。」[275]と。時間というものは建設的に必要でもなく、人類に対する神の御目的を果さない活動にまで投資されるということもあり得る。現在の地位を乗り越えて到達するのでなければ、より高い水準に移動することは出来ないのだから挑戦するということは、進歩にとって重要である。従って問題にされない活動に、大量の時間を費やすことは、進歩の停滞遅延に終わるであろう。また気分をさわやかにしたり、喜ばせたり励ましたりしないような方法で時間を費やすことは、人類に対する神の御目的と一致しない方法であり、時間の浪費となる。この損失は、その者のなし得る達成限度を、それだけ下げたことを意味するから不幸なことである。

 

才能(手腕)

才能、これには本来の才能と獲得された熟練を含むのだが、これもまた別の資源である。各バハイは、神の大業を促進するのに用いることが出来る才能を授かっている。万国正議院は、次のように言及している。「バハイ共同体は、多くの熟練と資格を持った男女を必要とするであろう。何となればその形が増大するにつれて、社会活動の範囲が増大し、多様化してくるからである。」[276]それ故その最高機は、バハイ信徒達、特にバハイ青年達に対して「人類や神の大業への奉仕の為に、彼等の持つ本来の能力をフルに使用し、発展さすことが出来る最良の方法を考える。」[277]ように促している。

才能それ自身はよくもなければ悪くもない資源である。それらが用いられる目的が、人類の栄誉か屈辱か恩恵か損失かのどちらに導かれるかを決定する。例えば、作家の才能は感激を与え教育的な作品を作るために用いられることもできるし、或は好色文学を書いたり、虚偽の宣伝をするために悪用されることも出来よう。前者は、人間の精神を気高くし高揚させる才能の表現であるが、後者は才能の悪用である。

寛大と節約の原則は、時間のそれと同様に才能の賢明な利用に相当する。これらの原則を知るには万国正議院によって与えられたこの目的に関する次の声明を熟慮することによって促進されることが出来る。その声明とは、バハイになることによって、その者の全生涯が神の大業の進展に捧げられ或は捧げるようになるべきであり、また、その者の持つ総ての才能或は能力が結局この主要な人生の目的に委ねられ或は委ねられるべきである。」[278]

 

物質的なもの

バハオラは、次のように書いておられる。「・・・神は、真に神を信じるような僕等のためにそれが天で作られようと、地で作られようと、あらゆる良いものを授け給うた」[279]彼は更に万物は神の属性を反映する能力を授けられていると説明し給う。「それぞれ各創造物中の内奥の本質に、神は御名のうちの一つの光を注ぎ給うた。そして神の属性の一つの栄光の受領者とした。」[280]それ故人間は、神の御目的の達成に物質的なものを捧げて、それらの賢い精神的な利用をする義務がある。誤った使用、特に浪費は神の創造の本質的な価値に対する尊崇の念の欠乏を示すものである。

資源が精神的利用と人間の楽しみのためにのみ創られた賜物と見放される時、大量の物質的なものを人間に貯蔵させた利己的な態度は消え始めるであろう。真の寛大さ――神のために及び他の者達のために物質的富を費やすこと――その時は、物質的なものを人間が利用することを特色付けるであろう。

おおわが僕よ!

職業によって生計を得、全世界の主なる神の愛のために、自らとその同族のために、それを遣う者達こそ最も善き人々である。[281]

 時間と才能との犠牲的奉献は、信教の拡大と強化に重要である一方物質的支持もまた重要である。その資金を増加さすために、自由に気前よく献金することは、神の大業の発展を見ようと望むバハオラの各誠実で信頼し得る僕の聖なる義務である。[282]

 基金は、人類に対する神の御目的を成就しようとする彼等の献身を示すもう一つの機会をバハイに供給している。[283]

 この基金への献金は・・・各信徒がその信仰の量と性格を試すことの出来る実際的で有効な方法であり、大業へのその者の献身と愛慕の強さを行動の中に証明するものである。信教の発展に対して人の資源――時間、才能及び材料――をうやうやしく捧げることは大業の進展に寄与するばかりでなく、また同様にその者の精神的発展にも寄与するのである。誠に人が生存の面に於いての生活の目的は来世のための準備であり、その者は、そこで神の大業の発展と同様に彼の資源の投資があり得たことを悟るのである。何となればこの大業のために身を捧げることによって彼は来世での生活に必要な属性や特質を獲得するからである。

 

 

 

27

環境の整頓と美化

 あらゆる種族の生物は、彼等の生存の助けとなる環境を探そうとする傾向がある。しかし人間は、しばしばその環境を無視し、汚し、また危険なものとする。このことは、彼の精神的本質とその目的に関する感覚の欠乏から来るのである。人類の集団生活に対する神の直接の御目的は、世の中に和合を作ることにある。ショーギ・エフェンディは次のように書いておられる。

 間違いがあってはならぬ。人類統合の原則――バハオラの総ての教が廻る回転軸――は、無知な感激或は漠然としたけなげな願いの単なる噴出ではない。その訴えは単に兄弟愛や人々の間の好意の精神の目覚めと同一視さるべきではないし、また個人の人々や国民間の仲のいい協力の育成を目当てにしているのでもない。その掛かり合いは一層深く、その主張は過去の予言者達が提案することを許されたどれよりも一層偉大である。・・・それは現代社会の構造に於ける有機的変化、世の中が未だ嘗て経験したこともないような変化を意味している。[284]

 「この現代社会の構造に於けるこの有機的な変化」を創造しようと助ける個々人の任務は、神の属性を反射することである。バハイが建設しようと努力している世界文明を特徴づけるであろう主要な属性中の一つは秩序である。それ故、各人の個人的生活はそれに関連する秩序及び特性(明快、美等)が、放散される中心とならなければならない。

 秩序とは、物事がお互いにまた、それらの目的に関連を持つそれらのあるべき場所に整頓される状態である。目的は如何に異なった成分が秩序正しい様式に整頓されるかを決定する要素である。目的がなければ、秩序はあり得ない。その訳はどんな統合する原則も物事がどう関連し合うか決定するためにあるのではないからである。目的によって作られた秩序、明快及び美の代わりに混乱、乱雑及び醜悪が現れる。人類に関する事柄が人類に対する神の御目的によって導かれる時は、秩序と調和は世界の現在の混沌から浮かび上がって来るであろう。

 明快というものは、或ものを他のことからそして各のものが何であるか、それが他のものと、どう関連し合うか知ることによって生じるから、目的がなければ明快さは達せられ難い。

 美は秩序の最高の表現である。恐らく生活は秩序に依存しているから環境の美は見る人の中に荘厳、壮大、清明及び畏敬の念を喚起する。不幸にして今日までは邪悪への意図がはっきりしている。多くの人々は醜い、取り散らされた環境に住むことを選ぶばかりでなく、或ものはしわくしゃの裂けた衣服を着て、手入れをしないか、ぼうぼうの髪をし、不潔な身体をして自身を人目をひかないようにわざとやっているようにさえ見える。こんな態度をすることは、祝福された美と呼ばれたバハオラの教と相容れない。美と霊性の内的生活は清潔、愛嬌及び美の外面的生活に反映されなければならない。

 バハオラ、アブドル・バハ及びショーギ・エフェンディは皆自然の美を愛好され、非常な困難にも拘わらず彼等の環境内に秩序と美とを常に取り入れようと努められた。バブを認める以前にバハオラは、森の中を歩き回ることに多くの時間を費やし、田園の美を楽しまれた。それ故アブドル・バハは長年にわたる投獄の間彼の父が経験したに違いない多くの剥奪の感が如何に大きなものであったかを理解した。アブドル・バハはこう語っておられる。

 バハオラは田園の美と木々の緑を愛された。或る日彼は次のような感想を陳べられた。「私は九年間も緑の草木を見なかった。田園は魂の世界である。町は肉体の世界である。」と。私がこの言葉を間接に聞いた時に、私は彼が田園に憧れていることを知った。そして彼の希望の実現に向って私がなすことの出来ることは何でも成功せるであろうことは確かであった。[285]

 アブドル・バハは、アッカの北方にあるマズラエの館を借りた。「そこは花園で囲まれた清らかな水のさらさら流れる小川のある、それは、それは美しい所であった」そして彼の父上のために、そこにある館や花園を補修し美化するために労働者を送って整備させた。[286]バハオラはバージの館へ移られるまで二ヵ年をマズラエで過ごされた。バハオラはそのバージの館を「堂々たる館」「人類の最も崇高な幻影として神が授け給うたもの」[287]と称されていた。

 アブドル・バハは、バハイの所有地を美化するために、どんなことでもなさった。土地を手に入れた後彼は、その改良工事を監督され、しばしば自らその土地を耕すために働かれ、道を作ったり、花や木を植えたりされた。アブドル・バハが改善された一片の土地は、ナマインの園であり、そこをバハオラは、彼の使命を宣言したバグダット郊外の花園の思い出として、レズワンと命名された。その土地はアッカ郊外の木も生えていない裸の平原を流れる小川に囲まれた中央に位置していたが、一変してバラや草木の茂る美しい緑したたる花園と化した。

 バハオラの昇天後、アブドル・バハは、自らの手で彼の父上の霊廟に隣り合った土地に花園を作るために、一生懸命に働かれた。信心深い人々に助けられて、自ら新しい土を担いだり水を運んだりされた。そして荒れ果てた土地を緑したたり美しい花の咲き乱れる園と化せられたのである。[288]

 世界本部に於ける花園と聖なる場所に対するよりも、もっとはっきりショーギ・エフェンディが美と整頓さを示した所は、恐らく他には何処にもあるまい。ショーギ・エフェンディが守護者の職につかれた初期にはこの土地は草木の生えない荒地であったが、彼は世界本部のありように対して輝かしい理想像を描いておられた。神の大業の翼成者のユーゴー・ギアチェリー博士はこう説明しておられる。「ショーギ・エフェンディは、美と壮麗と威厳を備えた着想並びに耐久性と効果性を示す方式を考案する能力を豊かに備えておられた。アッカとハイファの両市にある信教の世界本部を美化するための彼の巨大な記念すべき着想が目論まれる時に、彼のこの才能が、その偉大さを一層はっきり示すことであろう」[289]とショーギ・エフェンディは彼の組織的な整然とした方法で、霊廟(複数)の建設と修理と花園の造設の長期に亘る工程を始められた。彼の努力によって、バハイの資産は、整然さと美観が注入され、人々に物心両面の完全な統合を感じさせるほどまさに神の維持性を反映さすことが出来ている。

 バハオラ、アブドル・バハ及ショーギ・エフェンディの数々の模範は、各バハイをして、各自の生活の中に秩序と美とを取入れる義務のあることを示唆している。もし秩序、透明さ及美が欠けているなら、その者の環境が自身の目的と調和するようにしなければならない。かのような試みをしている内に、彼は、もっと、彼の目的が何であるか、またそれを達成する上に進歩を評価する必要があることが分って来るだろう。

 

 

 

 

28

活動の領域に踏み入ること

 バハイの教は実行への呼びかけである。実践がなければ信仰は萎縮して無感動なものとなる。行動が伴わなければ、神に対する忠順の証拠はあり得ない。それ故認める印がない。バハイの聖典は、バハオラの御名と行動を共にする人々に呼びかけられている実践への訓戒で満たされている。

   おおそれ兄弟達よ!言葉にあらずして行いをもちて汝の飾りとせよ。[290]

 これまで言葉のヴェールの下に隠されていた神秘的な実に素晴らしい花嫁が、今や神の栄光と、その聖なる御恩恵によって現わされ敬愛する御方の美によって放たれた輝かしい光のように明らかにされた。おお友等よ!御恩寵は完全であり、その論拠は満たされ、証拠は明らかとなり、証拠は立証されたことを私は証言する。世俗離脱の道に於けるあなた達の努力が示す所のものが、今や見られるようにせよ。このようにして神の恩恵は、あなた達并に天上地上に人々に十分与えられている。全世界の主なる神に総ての讃美を捧ぐ。[291]

 おお生物達の軍勢よ!東も西も消えかかった光の星を礼拝しようとして結合した。そして暗くなった地平線の方に向って祈って来た。両者共神の聖なる掟の広大な泉を全く無視してきた。そして神の宗教の美点や功徳に心を留めないようになって来た。彼等は、ある習慣や因習を、神の信教の不変の基礎と看做して来た。そして、それにしっかりと定着して来た。彼等は自らの成就と繁栄の輝かしい頂点に到達したと想像して来た。実際は、その時彼等は無思慮の深遠に達し神の慈悲深い賜を、全く失っていたのである。

 神の信教の礎石は、神の完全さの獲得と神の多くの恩恵の分け前に与ることである。信仰と信心の本質的目的は、高所よりの恩恵の降り注ぎで人間の内奥の本質を気高くすることである。もし、このことが達せられなければ、それは実にそれ自身惜しい損失である。それは地獄の火の責苦である。

 それ故総てのバハイは他の宗教とは異り、彼等が宗教の教義の雑音、喧騒、空虚に満足しないように、心の中で微妙に重要な事柄を、よく考えて見る義務がある。いや寧ろ彼等は、その生活のあらゆる面で、神から生じたあれらの属性や徳性を例証すべきであるし、また彼等の美しく立派な態度によって、目立たせるよう立上がるべきである。彼等は行動によって、名前によってではなく行動によってバハイであるという自分達の主張を正当化すべきである。人間としての努力の道に添って進歩発展するよう努力するものは、真のバハイである。その者の最も大切にする望みは、世界を豊にし、明るくするよう生き行動することである。その者の霊感の源は、神の美徳の精髄であり、その者の生涯の目的は、限りない進歩の原因となるよう身を処することである。このような完全な贈り物を得た時にのみ彼は真のバハイであると自身に関して言うことが出来る。何となれば、過去の時代や周期の最后を飾る栄冠であるこの聖なる宗教に於て真の信教は、神は、お一方に在すということを単に認めるばかりでなく、寧ろこのような信仰の内に含蓄されている総ての完全さと特性を現す生活を送ることが、この信仰の中に示されているからである。・・・・[292]

 しかし、これら総ての言説は、只言葉であって、我々は、それらの内の極く少数が行動の世界に導入されるのを見るのである。これに反して、人々は感情や利己主義によって運び去られるのを認める。各人は、よしそれが彼の兄弟の破滅を意味しようとも、何が自分を利するかということをのみ考える。彼等は皆自分達の財産を作ることに熱心で他人の幸福に対しては、あまり或は全然気に掛けない。彼等は、自身の無事や安楽についてのみ気を配っている。ところが仲間の状態は全然その者達を煩わさない。

不幸にして、これが最も多数の人々の歩む道である。

 しかしバハイは、このようであってはならない。彼等は、この状態を乗り越えて立上がらなければならない。実践することは、彼等にとって、言葉より優るものでなければならない。彼等は、単なる言葉によってではなく行動によって情け深くなくてはならない。彼等は総ての場合に於て行動によって言葉で宣言したことを実証しなければならない。彼等の行動は、神の光を明示しなければならない。あなたの行動をして、あなたが正しくバハイであることを、世界に向って声高らかに叫ばしめよ。何となれば、実践こそは、世界に話しかける行動であり、人類の進歩のもとであるからである。

 もし我々が真のバハイであるならば、言葉は必要ではない。一つの動作は世界に対する救済である。また文化も拡大するであろう。また科学の進歩を助けるであろう。また芸術を発展させるであろう。実践なくしては物質世界に於いて何事も達成し得ないであろう。また言葉は援助なしに人を霊界に前進させることは出来ない。神の選び給うた人々が神聖さに到達したのは単に舌の奉仕によるのではなくて、活動的な奉仕の辛抱強い生活によって世界に光をもたらしたのである。

 それ故あなた方の行動が日毎に美しい祈りになるよう努力せよ。神に面を向け常に気高く正しいことをするよう努めよ。貧しい人々を豊にし、堕落した人々を立ち上がらせ、悲しんでいる人々を慰め、病める人々を治癒させ、恐怖している人々を安心させ、抑圧されている人々を救い上げ、希望を失っている人々に希望を与え、捨てられた人々に隠れ家を与えよ!

 これが真のバハイのやるべき仕事である。また、これがバハイに期待されることでもある。もし我々が、こういうことを残らず行おうと努力するならば、その時こそ、我々は真のバハイである。しかし、もし我々がそれを怠るならば、我々は光に満ち給う御方の信徒でもなく、その名にふさわしい権利を持ってもいないのである。

 総ての心をお見通しになる神は、我々の生活がどの位まで我々の言葉を達成しているか御存知なのである。[293]

 バハオラの教の威力を照明する行動の世界に踏み入ることは、生活が与え得る最大の偉業にその者を乗出させることになる。

 「バハオラの啓示の崇高な宣言に対して、批判的であったり、疑い深かったりする時代の眼に対し、只獨り正しいと立証」し得るバハイ生活を営む努力を推進させようとする、このような行動の要求には限りがなく、またその報償にも限りがない。[294]

 万国正義院は、こう記している。「我々の仕事は、バハオラの世界秩序の建設にある。」と。[295]バハイ信徒達にとって、この仕事は「彼等自身の共同体の内面生活」を更正させることと、「彼等の国民生活の中で自ら侵した長期にわたる弊害」を論難することとの二重の戦を意味している。[296]

 ショーギ・エフェンディは、こう忠告しておられる。「或はまた、世界秩序は、その基礎を、彼等の同胞の未来のバハイ世代達の前衛部隊として今や建設しようと努力しつつあるのだが、彼等の所属している大部分の人々が、社会的にしろ、政治的にしろ種種の弊害から既に清められているのでなければ、また清められるまでは、決して建設出来ないという事実を見逃してはならない。」[297]

 前途に向って精神的聖戦に備えると同時に、バハイ信徒達は、彼等の兵器庫内の武器は、世界中の他の人々が放棄して来たあの諸原則そのものであることを忘れてはならない。これらの諸原則を適用することによって、バハイ信徒達は、国民の他の人達から自身を識別させることが出来るし、また彼等の信教の教の力強い活力を示すことも出来るのである。

 バハイ共同体は、その大きな精神的聖戦に乗り出しているから、各バハイに、アブドル・バハの範例を思い出させなければならない。アブドル・バハは、その生涯を通じて神の属性を比べものもないほど輝かしく反映しておられた。そして信教の聖典を通して、こだまする無数の勝利の展望を思い起こさせた。神の愛で身を固め、その掟に服従することによって、威力を身につけられ、各々をして常に増大する献身と最も清らかな徳性と、汚れのない行為とを生活の中に顕現しつつ活力に満ちあふれた模範となろうとする熱意を以て努力するよう励まし給う。」[298]

 



[1] 人類に対する神の御目的の完全な論考のために、ダニエル・C・ジョーダン.信仰を深めることの意義によって参照

[2] バハイの祈り 米国版

[3] ショーギ・エフェンデイ 神の正義の出現(英)25項

[4] 暁を告げる人びと 92−93項 ナザレアザム中に引用されたバブ

[5] 隠されたる言葉 ペルシヤ編35 66

[6] バハオラ 落穂集(英)31617

[7] 全書 387

[8] 全書 9394

[9] 全書 299

[10] 神の正義の出現(英)21

[11] シヨーギ・エフェンディ バハイ管理運営機構 68

[12] 全書 66

[13] 万国正義院 導きの泉 147

[14] バハオラ バハイ世界信教 141

[15] バハオラ 神の正義の出現(英)26

[16]

[17] 全書 287

[18] 19451.13付 個人の信徒に宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた書簡。バハイ生活(英)11

[19] 194310.14付 個人バハイに宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた書簡 同上 9

[20] バハオラ 落穂集

[21] バブ 夜明けを告げる人々 

 

 バハオラ 落穂集(英)94貢

万国正義院 導きの泉(英)39貢

 

10 全書 38貢

11 バハオラ 落穂集(英)335貢

12 全書 277貢

13 ショーギ、エフェンディ 1923年12月19日付東洋のバハイ達に宛てられた手紙から バハイ生活 1−2貢

1 アブドル・バハ バハオラの世界秩序(英)133貢

2 ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序(英)134貢

 全書 98−99貢

5 バハオラ 世界秩序(英)135貢

6 ショーギ・エフェンディ バハイ管理運営(英)35貢

7 全書(英) 44貢

全書 62貢

9  全書 132貢

10 全書 68貢

11 全書 130−131

12 ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序 89貢

13  カゼム・カゼムザデ 及び フィルズ・カゼムザデ

  「アブドル・バハに関する5冊の本「世界秩序」 6.No.1.1971 秋)78

14  ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序 134貢

15 同書 

16 バハイが、アブドル・バハの模範に従おうと努力しても、アブドル・バハが保持されているのと同じ地位に到達することは不可能であるということを、ショーギ・エフェンディは明白にしておられる。「彼は、バブやバハオラと共に、この初期の神の教の運命の上に高く聳えている。彼に習って、その必要事項に使える個人も団体も、その地位まで達しようと望むことは出来ない」と。

   同書 132貢

17 人格転換に就て詳しい論文を求めるならばダニエル・P・ジョーダンの知識、意志、動作を見よ。

18 ショーギ・エフェンディによって、バハオラの世界秩序 135−36貢に引用されたバハオラの記事

19 全書135貢

20 アブドル・バハ  早期の巡礼(英)40頁 メー・マックスウェル著

21 アブドル・バハ  バハイの祈り(英)137

[22] 「我々は、あなた達に単に掟の條項を示したものと考えてはならない。否寧ろ我々は力強い指で撰り抜きの葡萄酒の封を切ったのである。

 

[23] バハイの管理運営諸機関と密接に提携することは単に信教の基礎をなしている霊性に就いて学ぶための唯一の手段であるばかりでなく、信徒としての資格を構成する手段でもある。「私は極く簡単に又現状の許す限り適切に或人が真の信徒であるかどうかを考える前に考慮されなければならない主要な要素に就いて思い切って述べてみよう。アブドル・バハの遺訓に述べられているように、バハイの大葉の先駆者、創始者及び真の具現者の地位を完全に認識すること、彼らのペンによって示されたことは何でも率直に認め、それに従うこと、我々の敬愛するお方の聖なの一句一句を、しっかりと固守すること。世界中に現在行われているバハイ管理運営の精神并に形態と密接に関連を保つこと。―――これらは、力、ようは重大な決定に至り達する以前に、公正に慎重に、思慮深く確かめられねばならない。

バハイ管理運営90頁  ショーギ・エフェンディ

[24] バハイ管理運営の完全な論議は、ダニエル・C・ジョーダン氏(Daniel C, Jordan)の信仰を深めることの意義を見よ。

[25] バハイの真価に就いての完全な論議のためには

     全書 7072頁を見よ

 

[26] 聖き生活法27

[27] 同書26

[28] 長い日々の祈り 英語の祈り124

[29] 全書117

[30] バハイの祈り(米国版108貢)

[31] 落穂集 バハオラ(英)295

[32] バハオラ ケタビ・イガン(英)194

[33] 朝夕常に神の言葉を詠唱(或は吟唱)せよ。これを怠けるものは神の聖句と協定に忠実でなく、それから顔をそむける者は神から面をそむける者である。おお我が人々よ。神を畏敬せよ! バハオラ バハオラと新時代92貢(英文)

[34] 「守護者からの書簡」の中でショーギ・エフェンディが1935128日付けの手紙、個人バハイに宛てたもの バハイ・ニュース102号(19368月)3

[35] アブドル・バハ 世界平和の宣布143

[36] 人類に対する神の御目的によって一層十分に討論するためには、ダニエル・C・ジョーダン著 信仰を深めることの意義 を参照せよ

37 ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序 100貢

38 万国正義院 指導の泉 94貢

39 バハオラ 落穂集 299貢

40 バハオラ 落穂集 (英)287貢 及 書実証垂範の威力1を見よ

41 バハオラ ジョージ・タウンゼント「殉教者の叫び」バハイ・ニュース233号(1950.7)7貢

42  アブドル・バハの書簡 アッパスV501−02

[37] マルジ・ゲール「備忘録」バハイ世界12704

[38] バハイとしての価値を発展させることに関してもっと十分に論議するためには、ジョーダン氏の信仰を深める方法7071頁及本書(英文)の2830頁参照4を見よ。

[39] バハオラ 落穂集(英)116

[40] バハオラの隠されたる言葉 131

     (日)アラビヤ編40 30頁            

[41] アブドル・バハ ショーギ・エフェンディ著 神の正義の出現 2122頁に引用

[42] バハイ世界信教142頁 バハオラとアブドル・バハ中のバハオラ参照

[43] 万国正義院 万国正義院憲法 3頁(和訳2頁)

[44] ハバクク書(旧約聖書中の一書)2:14

[45] ショーギ・エフェンディ 神よぎり給う 15頁

[46] バハオラバハイ世界信教 12頁バハオラとアブドル・バハ

[47] バハオラ 隠されたる言葉(旧)アラビヤ編 2.23頁

 バハオラは、また、正義を「人々の光」とか「彼等の保護者」と言っておられる。「世界の公正と人類の安寧」が拠り所とする特性」といわれている。 ショーギ・エフェンディ 神よぎり給う218頁  

[48] バハオラ 落穂集(英)72頁

[49] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現(英)23頁

[50] 全書

[51] 全書

[52] 全書

[53] バハオラ、落穂集(英)175頁

[54] バハオラ、狼の子への書簡(英)28頁

[55] バハオラ、ショーギ・エフェンディのバハオラの世界秩序186頁中に引用さる

[56] 全書186187

[57] 全書187

[58] ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序187

[59] ショーギ・エフェンディ 神よぎり給う54

[60] バハオラ ショーギ・エフェンディ著 神の正義の出現(英)23貢に引用

[61] アブドル・バハ 質疑応答集(英)307

[62] アブドル・バハ ショーギ・エフェンディ著 神よぎり給う(英)332

[63] 万国正義院「大陸顧問制度の性格、万国正義院からの手紙」1972424日付手紙

 バハイニュース495号(19726月)2貢

[64] 全書2-3貢

[65] 精神行政会の機能発揮に関する一層十分な討議をするには バハオラ、アブドル・バハおよびショーギ・エフェンディ 管理運営秩序の一機関 地方精神行政会を見よ 万国正義院編 (米国イリノイ州ウイルメットバハイ出版局)11-28貢

[66] バハオラ 落穂集(英)203貢

[67] 個人の信徒に宛ててショーギ・エフェンディの代筆で書かれた1950105日付書簡から「最大の必要事項:守護者からの手紙」バハイニュース(英)241号(19513月、2頁)

[68] バハオラ 使徒書 30

[69] バハオラ ケタビイガン(確信の書)(英)194

[70] バハオラ 落穂集(英)128

[71] バハオラ 隠されたる言葉(英)10

             (日)ペルシャ編29

[72] アブドル・バハ 質疑応答集(英) 46

[73] バハオラ バハオラとアブドル・バハ、バハイ世界信教(英)141

[74] バハオラ ショーギ・エフェンディ著 神の正義の出現(英)20貢に引用される

[75] アブドル・バハ バハイ世界信教(英)412413

[76] 米国の全精会に当てられたショーギ・エフェンディの代筆による手紙、1936530日付けより。「守護者からの書簡1、米国精会宛て」バハイニュース102巻(19368月号)2貢

[77] ルヒヤ・カヌーン いとも貴き真珠23

[78] バハオラ 落穂集(英)285

[79] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現(英)16

[80] アブドル・バハ バハイ世界信教(英)384貢 バハオラとアブドル・バハの項

[81] 人には二つの性質がある。精神的一層高い性質と物質的により低級な性質とである。一方においては神に近づき、他方においては俗世だけのために生きている。これら双方性質の印は一人の人間の中に見出されるはずである。その者の物質的面においては彼は虚偽、残忍性、不誠実を示す。これら総ては、その者の低級な性質の結果である。彼の神々しい性格の属性は、愛情、親切、真実、正義として示される。全部高度の性格の現われである。あらゆる良い性質、気高い品性は人の精神的性格に属する。ところが彼の不完全さや罪深い活動は、物質的性質から生じる。もし人の聖なる性格が、彼の人間性を支配するなら我々は一人の聖人を持つことになる。アブドル・バハ パリでの講和集(英)60

[82] バハオラ 落穂集(英)271

[83] 全書232

[84] バハオラ バハイ世界信教175

[85] バハオラ 落穂集(英)305

[86] 全書 297

[87] アブドル・バハ 世界平和の宣布 89頁 寛大に就て討議を望むなら 

ダニエル・I・ジョーダン著 信仰を深めることの意義 64頁

[88] アブドル・バハ 質疑応答集 251頁

[89] バハオラ バハイ世界信教169−70頁

[90] 全書169頁

[91] バハオラ 落穂集(英)297-98

[92] 全書 298-99

[93] バハオラ ショーギ・エフェンディ著 神の正義の到来19

[94] ショーギ・エフェンディ バハイ管理運営62-63

[95] アブドル・バハ バハオラの世界秩序149

[96] 誓約に関する一層多くの知らせ 万国正議員とバハオラの世界秩序145-57

[97] バハオラ 落穂集 233

[98] バハオラ 使徒書89

[99] バハオラ エッセルモント著バハオラと新時代(英)139貢に引用される

[100] 全書259

[101] 個人信徒に宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた書簡より「バハイ世界を取巻いて」バハイニュース241号(19513月)14

[102] 中央アメリカの全国布教委員会に宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた194873日付け書簡からバハイニュース215号(19491月号)

[103] バハオラ ショーギ・エフェンディ著神よぎり給う197貢に引用

[104] 全書

[105]

[106] ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序 6465

[107] 全書 65

[108] 全書 64

[109] ルヒヤ・カヌーン 貴重な真珠 163164

[110] ショーギ・エフェンディ バハイ管理運営上の諸原則 20

[111] 「崇敬」(Reverence)という語は、ラテン語のre(再三再四、繰り返し繰り返し)とvereri(恐怖)からきている。

[112] バハオラ 娘の子への書簡 27

[113] バハオラ バハイ世界信教 179

[114]バハオラ 落穂集(英)272

[115] バハオラ 使徒書 27

[116] バハオラ・バブ・アブドル・バハ バハイの祈り130

[117] 例外は必須の祈りと礼拝堂に入る時の手の洗い方と靴の脱ぎ方に伴う動作である。

[118] 生活様式の役割についての討論に対して箱の所の態度の所を見よ

[119] アブドル・バハ バハオラ中、ケタビ・アクダスの大志と法典編集61頁 最大の聖廟とはアツカのバージに於けるバハオラの霊廟をさす。

[120] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現 25

[121] 全書(英)24-25頁 アブドル・バハに献身すること

[122] 全書26-27

[123] 全書28

[124] 「バハイ信教は、性的衝動の価値は認めるが、自由慈愛、友愛結婚その他のような、その不条理でみだらな表現を非難し咎める。それら総ては人類にとっても、その者の住む社会にとっても明確に有害であると考える。性的衝動の正しい使用は各個人の当然の権利である。そして結婚の制度が設けられたのは、まさにその目的そのもののためである。バハイは性衝動の抑制はよくないと思うが、その調整と管理が必要と信じている」

1938.9.5「性とその結婚への関係においてのバハイの教え」の中でショーギ・エフェンディの代筆で書かれた手紙から

全国バハイ評論 47号 (197111月)3頁

[125] 結婚における純潔の役割においての討論.福祉のための砦1519頁を見よ。

[126] 194710.19付ショーギ・エフェンディより代筆で一個人のバハイ信徒に宛てられた書簡から抜粋。「バハイの不謬性、投票及び純潔」バハイニュース202号(1947.12月)3

[127] バハオラ バハオラとアブドル・バハ中、バハイ世界信教(共)175

[128] メー・マックスウエル 初期の巡礼(英)1516

[129] バハオラ 隠されたる言葉(和文)83頁(72)ペルシヤ編

[130] アブドル・バハ パリでの講話集(英)60

[131] 全書 17-18

[132] バハオラ バハイ世界信教(英)140頁バハオラとアブドル・バハの項参照

 服従心や心の転換において更に討議したければDaniel C Jordan著 信仰を深めることの意義31-37頁を見よ。

[133] バハオラ 落穂集(英)194195

[134] アブドル・バハ バハイ生活の範範(英)中に引用される117

[135] バブ ナザレ・アザム著 「暁を告げる人々」中に引用される 94

[136] ルヒヤ・カヌーン 米国NSA 新しい生活の仕方中に引用される

[137] バハオラ バハイ世界信教141頁バハオラとアブドル・バハの項

[138] バハオラ 神々しく美しい生活の仕方71

[139] バハオラ 落穂集(英)287

[140] 全書 168

[141] 全書 277-278

[142] 全書 307-308

[143] バハオラ 狼の子への書簡 131

[144] バハオラ バハオラと新時代 103

[145] アブドル・バハ バハイ世界信教(英)333-334336

[146] アブドル・バハ バハオラと新時代(英)185-186

[147] アブドル・バハ 聖なる文明の秘訣(英)60

[148] バハオラによって定められた掟や法令は、全く明瞭であり、中庸の名の下に行われた合理化に対しては余地を残していない。例えばバハオラは医師によって処方された以外はアルコールの使用を禁じている。もし適度に飲むなら飲むことが許されると信じることを、この禁酒の掟は排除している。

[149] バハオラ 落穂集216

[150] 全書 242243

[151] 同書 251

[152] 全書 342

[153] アブドル・バハ バハオラと新時代(英)102

[154] アブドル・バハ バハイ世界信教374-375頁バハオラとアブドル・バハの項

[155] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編69 47

[156] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編13 27

[157] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編22 31

[158] バハオラ 落穂集(英)200201

[159] 五書 307

[160] バハオラ 狼の子への書簡(英)27

[161] それ故罪悪感や羞恥心のため激しく意気消沈させられた人達の精神的健康を回復させる手引きは罪悪や羞恥の無差別な償いの周囲に集中させることは出来ず、むしろ道徳的基準や、それらの保護作用の浄化の周囲に集中させなければならない。

[162] バハオラ 狼の子への書簡(英)24

[163] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編48 39

[164] バハオラ 落穂集(英)290

[165] アブドル・バハ バハイ世界信教 バハオラとアブドル・バハ(英)375

[166] バハオラ バハイ世界信教(英) バハオラとアブドル・バハ(英)47

[167] 全書 130131

[168] バハオラ 落穂集(英)189

[169] バハオラ 書簡58

[170] HM.バリウジ アブドル・バハ 3233

[171] 「おお我が主よ、あなたの道において、彼にふりかかる試練に堪えられない者は、誰しも、あなたの愛の盃から飲まなかったかあるいは、あなたの御記憶のおいしさを味わわなかったものである。」バハオラ ネケリと瞑想 136

[172] バハオラ 書簡(エピスル)134

[173] バハオラ バハオラとアブドル・バハ中 バハイ世界信教(英)123124

[174] 自身の精神的斗争を行うことに関するこれ以上の知識を得るためには、導きの泉 38頁 ダニエル.C.ジョーダンの知識、意志及び活動1316頁を見よ。

[175] アブドル・バハ アブドル・バハ アバスの書簡U483

[176] バハオラ 隠されたる言葉(日)アラビヤ編五 24

[177] アブドル・バハ 世界平和宣言(英)182183

[178] バハオラ 落穂集(英)38

[179] アブドル・バハの祈り(英)81

[180] バハオラ ケタビ・イガン(英)194

[181] 人類に対する神の計画を知ることが如何にバハイに世の中を揺り動かす程の試練に直面して自信を持たせうるのかにおいて尚一層の討論をするためには「アメリカのバハイへの要望」(英)4243頁を見よ

[182] バハオラ 隠されたる言葉 アラビヤ編51 40

[183] バハオラ 祈りと瞑想(英)105

[184] バハオラ 落穂集 290

[185] アブドル・バハ アブドル・バハ アワバスの書簡U 361

[186] バハオラ バハイの祈り(英)132

[187] アブドル・バハ 神の正義の出現(ショーギ・エフェンディ著)21

[188] 精神的転換に関する手段のもっと十分な討議は、ダニエル・C・ジョーダンの知識、決断力及動作を見よ。

[189] 次の註訳は、バハイとしての行動に関する一絸の規則ではない。寧ろ彼等が生活の特種な面に関わる場合バハイ信教の基本的原則に対する一般論である。生活の一面の結婚に就ては幸福のための要塞の中で詳しく論じられている。

[190] バハオラ ケタビ・アクタスの大意と法典編集 11

[191] ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序(英)19

[192] 全書 5頁

[193] バハオラ 隠されたる言葉(日)66頁 ペルシャ編35

35       おお我が友等よ!

汝等過誤の灯を消せ。そして汝等の心の中に聖なる導きの永遠に消えることなき灯火を燃やせ。やがて人類の試験者等は崇拝さるる者の聖き面前において、最も純潔なる美徳と汚れなき神聖なる行い以外は何も受け付けぬであろう。

[194] 本書の礼儀の討議の項を見よ

[195] アブドル・バハ ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現(英)2122

[196] バブ ナビル・アザム 暁を告げる人々 92

[197] バハイの祈り 布教についての祈り

[198] ホーレス・ホーリー 人類の宗教(英)232

[199] アブドル・バハ バハイ世界信教(英)333-34

[200] バハオラ エッセルモント バハオラと新時代(英)103

[201] バハオラ バハイ世界信教(英)193

[202] 全書(英) 140-41

[203] アブドル・バハ バハイ世界信教(英)337

[204] 「教えの中には、水泳やダンスに反対する箇條は何もない。人類は一層気高くなってくるであろう。このことを我々は知っている。それが、かような娯楽を含むか削除するか我々は現在では分からない」19481119日付け 行政会と個人信徒に宛てられたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた手紙からの抜粋 バハイニュース(英)21019458月発行3頁

[205] 隠されたる言葉(日)ペルシャ編62 7879

[206] 隠されたる言葉(日)ペルシャ編56 76

[207] 隠されたる言葉(日)ペルシャ編57 76

[208] 隠されたる言葉(日)ペルシャ編3 50

[209] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現(英)25

[210] バハオラ ケタビ、アクダスからの抜粋「生活すべき特性」アメリカのバハイ197243

[211] アブドル・バハ アバスの手紙T 65

[212] ショーギ。エフェンディ 神の正義の出現(英)28

[213] アブドル・バハ ルイスGグレゴリー 天上の見通し 9頁

[214] モラ・ホセイン ナビレ・アザム 夜明けを告げる人々52,53-55,62

[215] バビヤ・カヌーン 選ばれた本道(英)40頁 ブロムフィールド夫人中に引用さる

[216] フローレンス・ブリード・カーン かくまう枝 69-70

[217] ユーゴー・ギアチェリー ショーギ・エフェンディ 10 1213

[218] 客の適切な又は不適切な態度を論じるためには、本書「態度」の後の部分を見よ。

[219] バリウジ氏は次のように書いている。ワシントンDCでマスターと附添者の為に、一軒の家を借りるようきめた。しかし、パーソン夫人が、彼女が特に彼を受け入れるように建てた家に泊まらなければひどく失望するだろうということを聞いて、マスターは自分と附添者が今夫人の家に泊まるよう決心した。然し一行の他の人達は借りた家に泊まるようにした。HMバリウジ アブドル・バハ178-79

[220] アブドル・バハ アーマド・ソラブ 我が家は笑いと歓喜の家である 

         ミルザ・アーマド・ソラブの日記から19143.26西の星9NO.319184.2840

[221] メー・マックスウェル 早期の巡礼 23-24

[222] アブドル・バハ 世界平和の宣言 57

[223] バハオラ 落穂集(英)15

[224] バハオラ 狼の子への書簡(英)166

[225] エドワード・G・ブラウン 「アブドル・バハ」序文36頁一旅行者の物語

[226] ホワード・コルビー・アイブス 自由への入口 127

[227] バハオラ 書簡 55

[228] 全書 25

[229] バハオラ ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現 70

[230] バハオラ 神の正義の出現 6970

[231] バハオラ 落穂集 279

[232] 全書 330

[233] 全書

[234] アブドル・バハ アブドル・バハ、アバスの書簡V501502

[235] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現 45

[236] ショーギ・エフェンディ 個々の信徒達に送られた1932112日付けの書簡より。バハイニュース80号(1934.1)5頁

[237] バハオラ 落穂集(英)335

[238] 全書 230

[239] 全書 289

[240] 全書 297

[241] 全書 285

[242] バハオラ 神の正義の出現(英)19

[243] アブドル・バハ 米国及びカナダの全国精神行政会「最大の罪」バハイニュース46号(193011月)中に引用される

[244] 全書264265

[245] 全書 264265

[246] 全書 11

[247] バハオラ バハイ世界信教 196

[248] 全書 208

[249] ナビレ・アザムは其の著書「暁を告げる人々」の中でクオドス、モラ、ホセイン、タヘレ、ヴァヒド、及びホジャト等の男女の英雄達が如何に言葉の威力を持っていたかを物語っている。その威力は相手方を沈黙させ又何百という人々を大業に改宗させたかを告げている。故ルイスGグレゴリー氏(大業の翼成者)を知っている人々は、アブドル・バハの言葉を忍ばせる雄弁さを思い出させられる。

[250] アブドル・バハ バハイ世界信教 228-29

[251] バハオラ 狼の子への書簡 2627

[252] バハオラ バハイ世界新教 195

[253] アブドル・バハ バハイ世界信教 377378

[254] アブドル・バハ パリでの講話集 英176-77

[255] アブドル・バハ神の文化の秘訣 14

[256] バハオラ バハイ世界信教 185

[257] アブドル・バハ パリ講話集 85

[258] アブドル・バハ 質疑応答集 252-53

[259] ショーギ・エフェンディ 19354.7付け 個人のバハイに宛てられた未発表の手紙より

[260] 米国全国精神行政会に宛てた19466.20付け ショーギ・エフェンディの代筆で書かれた未発表の手紙

[261] 米国の全精会に宛てたショーギ・エフェンディの代筆で書かれた1957921付け未公開の手紙

[262] ショーギ・エフェンディ 神の正義の出現 25

[263] バハオラ バハイ世界信教 195

[264] バハオラ 隠されたる言葉 ペルシャ編80 8889

[265] バハオラ 隠されたる言葉 ペルシャ編81 89

[266] バハオラ 隠されたる言葉 ペルシャ編82 89

[267] バハオラ バハイ世界信教(英) 195

[268] アブドル・バハ パリの講話集(英)176177

[269] バハオラ 落穂集(英)213

[270] バハオラ バハイ世界信教(英)167

[271] バハオラ 落穂集(英)196

[272] 犠牲という語はラテン語の二文字から来ている。SacreSacred聖な)とFacereto make・・・にする)それ故それは或ものを神聖にするという意味となる。

[273] アブドル・バハ アブドル・アバスの書簡11 354

[274] バハオラ バハイ世界信教 189頁 バハオラとアブドル・バハより

[275] アブドル・バハ ルイスGグレゴリー 天上よりの展望9

[276] 万国正義院 指導の泉(英)95頁

[277] 全書

[278] 全書 153

[279] バハオラ 神の正義の出現(英)28

[280] バハオラ 落穂集(英)65

[281]バハオラ 隠されたる言葉(日)ペルシャ編82 89

[282] ショーギ・エフェンディ バハイ管理運営4142

[283] ショーギ・エフェンディの代筆で書かれた1934925日付け手紙から「ショーギ・エフェンディからの返信」中より。バハイニュース88193411月(193411月)12

[284] ショーギ・エフェンディ バハオラの世界秩序4243

[285] アブドル・バハ J/Eエッセルモント バハオラと新時代(英)85

[286] 全書

[287] バハオラ 神よぎり給う(英)193

[288] H.Mバリウジ アブドル・バハ 5859

[289] ユーゴー・ギアチェリー ショーギ・エフェンディ43

[290] バハオラ 隠されたる言葉 ペルシヤ編(日)51

[291] 全書 51-52

[292] アブドル・バハ 「おお生物達の軍勢よ」 バハイ世界T.12

[293] アブドル・バハ パリ講話集(英)8081

[294] ショーギ・エフェンディ バハイの管理運営(英)66

[295] 万国正義院 導きの泉(英)147

[296]

[297] 全書 17

[298] バハオラ 隠された言葉(英)34