第7章 比較宗教

 

1. 累進的啓示

 

1神の啓示は、太陽のようなものである。太陽の昇る地点がいかに多くとも、太陽そのものはひとつであり、全てのものの生命はそれに依存している。神の使徒なるムハンマド以前のあらゆる宗教制の目的が、ムハンマド到来のための道を敷くことであったことは明白である。さらに、ムハンマドの時代を含めて、これらの宗教制はすべて、 カイムが宣言する啓示を目的としていた。同じように、この啓示とそれ以前のあらゆる啓示は、『神が顕現なし給う御方』の信教の到来を告げることを、根本的な目的としていたのである。

そして、『神が顕現なし給う御方』の信教と、それ以前のあらゆる啓示は、その次に来るよう定められている顕示者の到来について告げることを目的としているのである。さらに、 この顕示者とそれ以前の顕示者は全て、その次に来る啓示のための準備をすることを目的としているのである。このように、『真理の太陽』の出没は永遠に続くのであり、それは始めと終わりのない過程なのである。

 あらゆる宗教制において、その時代の神の目的を認め、過去の事物に目を向けることによってその目的を見失わないものは幸いである。(バブ:Selections from the Writings of the Bábpp.105106

 

2.あらゆる神の預言者の精髄はひとつであり、同じだということは確かなことと知るべきである。彼らの一体性は絶対的である。創造主なる神は言い給う―我がメッセージの伝達者らの間には何らの区別もない。彼らの目的はただひとつである。彼らの秘密は同じ秘密である

 しかしながら、この世における神の預言者らは、その啓示の程度が異ならねばならない。各々全ては、 別個のメッセージの伝達者であり、特定の行為により自らを明かすように委任された者である。この理由により、彼らの偉大さの程度が異なるように見えるのである。(バハオラ:「落穂集:その1」、pp.3233

 

3.         地上の多様な宗教団体や信仰のさまざまな体系が、 人々の間に敵対感情を起こしてならないことは、今日、神の信教と宗教の精髄である。これらの原則や法律、又、これらの確固として確立された強力な体系は、同一の根源から生じたもので、同一の光源の光線である。お互いに異なることは、これらが広められた時代のさまざまな要求によるものとみなされねばならない。(バハオラ:Gleanings from the Writings of Bahá’u’lláhXXIV pp. 287288

 

 

2.比較宗教史

 

アブラハム

4.この力を持ち、それに援助された人物のひとりが、アブラハムであった。その証拠は、彼がメソポタミアに生まれ、神の単一性について知らない家に育ったことであった。

 彼は、彼自身の国や人々や家族にさえ対抗し、彼らが信じていた様々な神の全てを否定した。誰からの助けもなくただひとり、彼は有力な部族に対抗したが、それは、容易なことではなかった。それはまるで、今日、聖書に執着するキリスト教徒のところへ行ってキリストを否定するようなものである。あるいは―どうかそのようなことのないように!―ローマ教皇の宮廷で、キリストに対する不敬の言葉を発し、人々に対抗するようなものであった。

 これらの人々は、唯一神を信じず、多数の神がいると信じた。そして、 これらの神々が奇跡をなしたのだと考えた。それで彼らは、アブラハムに対抗して立ち上がった。彼に助けの手を差し伸べたのは、彼の兄弟の息子であるロトと、あと1人か2人のあまり重要でない者であった。ついに彼は、敵の反撃により最大の苦難に陥り、故国から強制的に追い出されたのである。まことに彼らは、アブラハムが破滅し、滅び、跡形もなくなることを望んで、彼を追放したのである。

 そしてアブラハムは、聖地のある地域へやってきた。彼の敵は、追放されることが、彼の破滅につながると思っていた。たとえ、その者が国王であったとしても、権利を奪われ、周りのもの全てから迫害を受け、自国から追放されたなら、破滅を逃れることはありえないのだから。 

 しかし、アブラハムは、動揺せず、驚くべき確固不動の精神を示し、ついには多神教を信ずる世代の間で、神の単一性を確立した。そして神は、アブラハムの追放をその永遠の栄誉となされた。この追放は、 アブラハムの子孫を発展させることになり、聖地は彼らに与えられたのである。

 そうして、アブラハムの教えは、至る所に広まり、その子孫の中にヤコブが現れ、エジプトの統治者となったヨセフも現れた。彼の追放の結果、その子孫の中に、モーゼやキリストが現れ、イシュマエルの親であるヘイガーも現れた。ムハンマドもその子孫の1人であった。さらに、バブもその子孫であり、イスラエルの預言者らもアブラハムの子孫にあたるのである。これは永久に続くことであろう。そして、アブラハムの追放の結果として、全ヨーロッパとアジアの大部分は、イスラエルの神の加護の下にもたらされた。国を追われた難民なる者が、そのような家系を築き、信教を設立し、教えを広めることを可能にした力はいかに偉大なものか考えてみよ。これは全て、偶然の出来事などと言えようか?われわれはこの人物は、大教育者であったかどうかについて、公平に判断せねばならない。

 アブラハムが、 ウルからシリアのアレッポへ追放されたことは、このような結果を招いた。ゆえに、バハオラがテヘランからバグダッドへ、そしてコンスタンチノープルからルメリアへ、さらに聖地へと追放されたことが、いかなる影響を及ぼすか考えてみるべきである。

 アブラハムが、いかに完全なる教育者であったか考えてみよ。(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp.1213) 

 

クリシュナ

5.インドにあるこの宗教やその他の多くの宗教の起源については、 よく知られていません。東洋学者や宗教研究家でさえも、この分野における研究の結果は、完全に一致してはいません。バハイの文書でも、インドで広まっているこれらの宗教のいずれにも、特定の言及はなされていません。それで、それについて、あなたに明確で詳しい情報を与えることはできないと守護者は思っておられます。それに関する研究は、圧倒的に膨大ではありますが、バハオラのメッセージをヒンズー教徒らに伝えるという目的を持って、あなたがその分野の研究を続けることを、彼はお勧めになります。(ショーギ・エフェンディの代理から:LBp371

 

6.私たちは、仏陀とクリシュナの経典がどれだけ正確なものかどうかについて確信することができません。それで、それらの中に記されている処女受胎については、何も、結論を下すことができません。教えの中には、この主題に関する言及がないので、守護者は意見を述べることができません。

 アブラハムとクリシュナは別の人物で、私たちの知る限り何の関係もありません。(ショーギ・エフェンディの代理から:11/25/50Lights of Guidancepp381382

 

7.梵天とクリシュナに関するあなたの質問について―そのような事柄については、教えの中で言及されていないので、歴史や宗教の研究生が解決し、明確にするよう任せられています。(ショーギ・エフェンディの信者からある信者へ 4/14/41Lights of Guidancep382

 

モーゼ

8.モーゼは長い間、荒野の羊飼いであった。外見上、彼は残虐な家に育ち、殺人を犯し、羊飼いとなったものとして、人々の間で知られていた。ファラオの政府や人々から彼は大変嫌われ、憎まれていた。

そのような人物が、その偉大な国を束縛の鎖から放ち、人々を満足させ、エジプトから連れ出して聖地へと導いたのである。

この民族は、下劣の底から栄光の絶頂へもたらされた。束縛されていた彼らは自由になり、諸々の民族の中で最も無知だった彼らは、最も賢くなった。モーゼによって与えられた制度の結果、彼らは、あらゆる国の間の栄誉という地位に達し、その名声はあらゆる国に広まり、周りの国々は人を誉める時には、 『確かにその人はイスラエル人だ』というほどまでになったのである。モーゼが法律や法令を打ちたて、イスラエルの人々に生命を与え、その時代に彼らを最高の文明へと導いたのである。

 イスラエル人は非常な進歩を遂げたため、ギリシャの哲学者たちは、イスラエルの学識あるものらを訪れ、知識を得たのであった。その1人は、ソクラテスであり、彼はシリアを訪れ、イスラエルの子らより、神の単一性と魂の不滅について学んだ。ギリシャへ戻った後、彼はこれらの教えを広めた。やがて、 ギリシャの人々は彼に対抗して立ち上がり、彼を不信な者としてとがめ、アレオパガスの前で罪を問い、毒による死刑を宣言したのである。

 さて、どもりの人であり、ファラオの家に育ち、人々の間で人殺しとして知られ、恐れのために長い間身を隠し、羊飼いとなったものがどうして、これほど偉大なる大業を築くことができたのであろうか?地上の最も賢い哲学者たちでさえ、その影響力の千分の一も示すことができないというのに。これはまことに驚くべき事である。

 どもりで、正しく話をすることもできなかったものが、この偉大なる大業を支えることができたのである。もし彼が、神の力による援助を受けなかったら、この偉大なる仕事を果たすことはできなかったであろう。これらのことは、否定できない事実である。唯物主義的哲学者やギリシャの思想家やローマの偉人たちは、あるひとつの学問の分野のみを専門とし、この世で有名になった。たとえば、ガレンやヒポクラテスは医学において名声を博し、アリストテレスは論法や推論において名声を得、プラトンは倫理と神学において有名になった。羊飼いがこのような知識の全てをどうして得ることができたのであろう?彼が全能なる力によって援助されていたことは、 疑いの余地はないのである。

 また、人々には、いかなる試練や困難が降りかかるかについて考えてみよ。モーゼは、残虐行為を防ぐために、あるエジプト人をたたき倒し、人々の間で人殺しとして知られるようになった。それは特に、彼が殺した人物が有力な人物であったがためであった。そうして彼は逃亡した。彼が預言者の地位に上げられたのは、そのような出来事の後であったのである!

 そのような黒い評判にもかかわらず、偉大な制度と法律を確立するために、彼は超自然の力によって、 いかにすばらしい導きを授けられたことか!(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp. 1415

 

ゾロアスター

9.ゾロアスターの信奉者の聖なる書では、後の時代、3つの宗教制において太陽は静止すると記されていることを汝は記した。それによれば、最初の宗教制には、 太陽は10日間静止状態にあり、次の宗教制ではその2倍、そして3番目の宗教制ではまるひと月の間、静止すると予言されている。この予言の解釈は、次の通りである。ここで言及されている最初の宗教制は、ムハンマドの宗教制のことで、『真理の太陽』は10日間静止した。それぞれの日は、1世紀と見なされ、従って、ムハンマドの宗教制は、1千年年続いたことになる。それはちょうど、イマムの星が没下[1]してから、バブが宣言なさった宗教制の到来[2]までの期間にあたるのである。

 この予言の2番目の宗教制は、バブ御自身が創始なさった時代で、それは、1260A.H.に始まり、1280 A.H.[3]に終わった。3番目の宗教制は、バハオラが宣言された啓示のことである。『真理の太陽』はその状態に達すると、最高の輝きを発するため、その持続期間はまるひと月と定められている。そしてこれは、太陽が黄道帯の宮を通りすぎるのにかかる最長の時間なのである。これによって、バハイ周期の規模について想像できよう。それは、少なくとも五十万年にわたる周期なのである。(アブドル・バハ:The World Order of Bahá’u’lláhpp.101102

 

10. アジアの預言者についてそれ以上の言及がない理由は、その名前は古い歴史の霧の中に見失われてしまっているからであると思われます。仏陀とゾロアスターは、バハイの聖典の中で言及されており、両者ともセム族、 又はユダヤ人の預言者ではありませんでした。私たちは、神の顕示者は常に存在してきたと教えられていますが、その全ての名前の記録はありません。(ショーギ・エフェンディの代理から 10/4/50Lights of Guidancep.381

 

 

仏陀

11. 仏陀もまた新しい宗教を設立し、孔子は、古来の美徳を新たに示した。 しかし、彼らの制度は完全に破壊されてしまった。仏教徒や儒者の信条や儀式は、その根本的な教えにそって続くことはなかったのである。 仏教の設立者は、すばらしい人物であった。彼は、神の単一性を確立した。

 やがて、 彼の教えの本来の原則は徐々に姿を消し、無知な慣習や儀式が次々と生まれ、ついには、彫像や偶像の崇拝になってしまったのである。

(アブドル・バハ Some Answered Questionsp.165

 

12. 仏陀の真の教えは、イエス・キリストの教えと同じものである。あらゆる預言者の教えは、その性質上、同じなのである。しかし、人がその教えを変えてしまった。現在の仏教を見てみれば、そこにはほとんど『真理』が残されていないことがわかるであろう。教えによって禁ぜられているにもかかわらず、多くのものは偶像を崇拝している。(アブドル・バハ、‘Abdu’l-Bahá in Londonpp. 63

 

13. 仏陀の教えは、幼く美しい子供のようなものであった。しかし、 今やそれは、年老い、衰えてしまったのである。老人のように、それは見ることも聞くこともできず、何も思い出せないのである。(アブドル・バハ、 ‘Abdu’l-Bahá in Londonpp. 64

 

14. 仏教の書の中では、 この顕示者(バハオラ)に関する予言があるが、それは、象徴や隠喩によって表現されている。又、それらの書では、精神的な状態について言及されているのだが、宗教の指導者たちは、それについて理解していない。 

 彼らは、これらの予言は、物質的な事柄であると思っている。いや、それらの徴(しるし)は、精神的な出来事について予示するものなのである。(アブドル・バハ Tablets of ‘Abdu’l-Bahávol.V、p.565 or Lights of Guidancep.356) 

 

15. 仏陀は、キリストと同じように、神の顕示者です(ショーギ・エフェンディの代理から オーストラリアとニュージーランドNSAへ 12/26/41Lights of Guidancep.369

 

16. 万国正義院あてに書かれた、19801110日のあなたの手紙への返事として、私たちは次のように伝えるよう指示を受けました。

 あなたは、バブやバハオラが、その文書の中で、仏陀の顕現について言及されておられるかどうか、もしそうでなかったら、アブドル・バハ、 又は守護者はそれについて理由を述べておられるかどうか、とお尋ねになりました。バブやバハオラの文書の中では、仏陀に関する特別な言及は見つかっておりません。

 しかし、疑いなくあなたもご存知のように、アブドル・バハも守護者も、仏陀は、神によって啓示された宗教の設立者であると見なされています。(万国正義院の代理から ユングスック・ロード夫人へ、11/30/80Lights of Guidancep361

 

キリスト

17. そうして、 キリストが到来し、彼はこう語った―『私は、聖霊にて生まれたものである。』[4]今、キリスト教徒がこの主張を信じることは容易であるが、当時は、大変困難なことであった。福音書によれば、パリサイ派の人々はこう言ったということである―『この男は、われわれの知っているナザレのヨセフの息子ではないか。それではどうして彼は、自分が天からやってきたなどといえるのか?』

 端的に言うと、あらゆる者の目にとってみすぼらしく見えたこの人物は、非常に偉大な力を持って立ち上がり、1500年も続いた宗教を廃止したのである。それもその宗教からほんの少しでもそれることは、その違反者を危険や死にさらすことを意味した時代のことであった。さらに、キリストの時代には、全世界の道徳やイスラエル人の状態は全く堕落し、乱れてしまっており、イスラエルは、全くの卑劣と悲惨と束縛の状態に陥っていたのである。ある時、イスラエル人は、カルデア人やペルシャ人の捕虜とされ、ある時は、アッシリア人の奴隷にされたりした。さらに彼らはギリシャ人に支配され、その隷属者にされ、遂には、ローマ人によって統治され、さげすまされていたのである。

 この『若者』キリストは、超自然の力の助けにより、古来のモーゼの法律を廃止し、道徳全般を改善し、イスラエル人の栄光の基盤を再び築いたのである。さらに彼は、世界平和の喜ぶべき知らせを人類に告げ、イスラエルだけでなく、全人類の幸福のためになる教えを至る所に広めたのである。

 彼を最初に絶滅しようとしたのは、彼自身の親族なるイスラエル人たちであった。外見的には彼らはキリストを打ち負かし、最も悲惨な状態に追いやった。

 結局、 彼らは、キリストにとげの冠をかぶせ、はりつけにしてしまった。しかし、 キリストは外見上、最も惨めで苦しい状態にありながら、こう宣言した―「この『太陽』はまばゆく、この『光』は明るく輝き、私の恵みは世界を取り囲み、私の敵は全て、卑しめられるであろう」——そして、 彼が言ったとおりのことが起きたのである。地上のあらゆる国王は、彼に抵抗することができず、むしろ、 彼らの旗は全てひっくり返され、圧迫を受けた『人物』の旗が最高に掲げられたのである。

 このようなことは、人間の理性のあらゆる原則に反することである。それで、 この栄光に満ちた『人物』が人類の真の『教育者』であり、聖なる力によって援助され、確証を受けていたことは全く明らかである。(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp.1617) 

  

ムハンマド

18. さて、われわれはムハンマドの話をすることになった。アメリカ人やヨーロッパ人は、この預言者について多くの話を聞き、それを真実と思っているが、その話を伝えた人々は、無知であったり、又は敵意を持っていたりした。ほとんどの者は聖職者であり、他は、無知なイスラム教徒であった。そのようなイスラム教徒らは、そうとは知らず、 ムハンマドを賛美するものと信じて、彼に関する根拠のない伝承を繰り返し述べたのであった。

 それで、ある愚かなイスラム教徒たちは、彼の一夫多妻を賛美の中心となし、それを奇跡と見なし、驚くべきことと考えたのである。そして、 ヨーロッパの歴史家たちは、ほとんどの場合、この無知な人々の話を信頼しているのである。

 たとえば、ある愚かな者は、聖職者にこう話した――偉大であることの真の証拠は勇敢であることと、 血を流すことであり、ムハンマドのある信奉者は、1日に戦場で、百人の首を切り落とした、と。このため、その聖職者は、人を殺すことは、ムハンマドに対する信仰を証明する方法と考えられていると推測するに至った。

 しかし、これは単なる想像に過ぎない。いや、 実際は、ムハンマドの軍隊は、常に防衛のためだけに送られたのである。その証拠として、メッカでの13年間、ムハンマドとその信奉者は、最も激しい迫害に耐えた。この間、 彼らは憎悪の的とされ、その同伴者のうち何人かは、殺され、財産は押収され、ある者らは他国へ逃亡した。クレイシトは、 遂にムハンマドを殺す決意を固め、その最も過酷な迫害の後、ムハンマド自身も、真夜中にメディナへ逃亡したのである。しかし、 それからも敵の迫害は絶えず、敵はメディナまで、ムハンマドを追いかけ、彼の信奉者らはアビシニアまで追いかけられた。

 これらのアラブ部族は、 野蛮と残忍のどん底にあり、彼らに比べればアフリカの野蛮人やアメリカの野蛮なインディアンはプラトンのように進化していたと言えよう。アメリカの野蛮人は、これらのアラブ人のように娘を生きたまま埋めてしまうようなことはしなかった。しかし、 アラブ人はそれを栄誉ある行為として誇りにしていたのである[5]。 

それで、男性の多くはこう言って、妻を脅かすのであった――もし、 女が生まれたら、お前を殺すぞ。アラブ人は、今でさえも女の子が生まれることを恐れている。さらに、1人の男性は1000人の女性を持つことが許されており、ほとんどの男性は家に10人以上の妻を持っていた。これらの部族が戦争をすると、勝った方は、負けた方の女性と子供らを捕虜として奪い、奴隷として扱ったのである。

 10人の妻を持っていた男が死ぬと、これらの女性の息子たちはお互いの母親のところへ急いでかけつけた。そして、 もしある息子がその衣を父親の妻の頭上にかけ、「この女は私の合法的財産である」と叫ぶと、その不運な女性は、その囚人になり、 奴隷になったのである。その息子は、その女性に対して、何でも望む通りのことができたのである。彼女を殺すこともできれば、井戸の中に閉じ込めたり、死ぬことにより解放されるまで殴ったり、悪態をついたり、苦しませたりすることもできたのである。アラブ人の慣習としきたりによれば、その男性はその女性の主であるのだった。家の中で、妻たちと子供たちの間に恨みやねたみ、憎悪や敵意があったに違いないことは明らかである。それで、そのことについて詳しく述べる必要はなかろう。 

 また、これらの圧迫を受けた女性の状態と人生がいかなるものであったことか!

 さらに、これらのアラブ部族の生存手段は略奪と窃盗であった。それで、彼らは常に争いや戦争をし、お互いを殺し合い、財産を略奪し荒らし、他人に売るために女性や子供を捕らえるのであった。安楽と贅沢のうちに日を過ごしていた王子の娘や息子たちは、一夜にして恥辱と貧困と束縛に追いやられたことがいかに何度もあったことか。昨日、王子であったかというと今日、彼らは捕虜になっており、昨日は偉大な淑女であったが、今日は奴隷にされるといった具合なのであった。

 ムハンマドは、このような部族の中にいる間、神の啓示を受けた。そして、 彼らによる迫害を13年間受けた後、逃亡した[6]

 しかし、この人々は圧迫を止めず、団結して、彼とその信奉者を滅ぼそうとしたのである。そのような境遇に追いやられた時に、彼は仕方なく、 武器を取るようにさせられたのである。これが真実である。われわれは、かたくなに彼を弁護しようとは思わないが、われわれは公正であり、公正なことを言うのみである。それに対して、公正に見てみよ。もし、キリスト自身が、このように残虐で野蛮な部族の中で、そのような境遇に置かれたなら、そして13年間、信奉者らとともにこのような試練を全て辛抱強く耐え、自国から逃亡するはめになり、さらにこれにもかかわらず、これらの無法な部族が彼を追いかけ続け、人々を殺し続け、財産を奪い、女性や子供たちを捕え続けたなら、キリストは彼らに対していかなる行動を取ったであろうか。もし、 このような圧迫が彼の身のみに振りかかったなら、彼は、彼らを許したであろうし、そのような行為は、まことに賞賛に値する。しかし、 もし、この残酷で血に飢えた人殺したちがこの虐げられた人々を殺し、財産を奪い、傷つけ、女性や子供を捕虜にしようとするのを目にしたなら、彼がこの虐げられた人々を守り、残虐者らに抵抗したことであろう。それでは、どうして、ムハンマドの行動に対する異議を申し立てることができよう?彼はその信奉者や女性や子供たちとともに、これらの野蛮な部族に服従しなかったということではないだろうか?これらの部族をその血に飢えた状態から解放することが、最大の親切であり、彼らを威圧し、制御することは、真の慈悲であった。彼らは、手に毒の入ったコップを持った人のようなもので、それを飲もうとするときに友人がそのコップを割り、命を救ってくれるようなものであった。もし、 キリストが同じような境遇に置かれたなら、征服力によってそれらの男性や女性や子供を、この血に飢えた狼たちの爪から救い出したであろう。

 また、ムハンマドは決して、キリスト教徒らと戦うことはなかった。それどころか、彼はキリスト教徒らを優しく扱い、彼らに完全な自由を与えた。キリスト教の共同体はナジュランに住み、ムハンマドの保護の下にあった。そして、 彼はこう言った――「もし誰かが彼らの権利を侵害するなら、われ自身、 その者の敵となり、神の御前にてその罪を訴えん」。彼の布告によれば、キリスト教徒とユダヤ教徒らの命と財産と名誉は、神の保護の下にあると明白に述べてある。さらに、もしイスラム教徒の男性がキリスト教徒の女性と結婚しても、その夫は妻が教会へ行くことを妨げてはならないし、妻にヴェールをかぶるよう強制してもならない。また、もしその妻が亡くなったら、夫はその遺体をキリスト教の聖職者の管理に任せねばならない、とされている。もし、 キリスト教徒らが教会を建てたいと望むなら、イスラム教は彼らを援助すべきであるし、イスラム教徒とその敵が戦争する場合、キリスト教徒は、イスラム教の保護下にあるので、自らの意志でイスラム教徒を擁護したいと思わない限り、戦いに参加する義務はないということである。しかし、その免除の変わりに彼らは、毎年、小額の金を払うようにされていた。これらの事柄に関しては、7つの詳細な報告があり、その写しのいくつかは、今でもエルサレムに残っている。これは確立された事実で、私がどうこう言う必要はない。2代目のカリフ[7]の布告は、 今もなお、エルサレムの正教総主教によって保管されており、これについては、疑いの余地はない[8]

 しかし、それにもかかわらず、やがて、イスラム教徒とキリスト教徒の両方が法を破ることにより、憎悪感と敵意が生じてきた。この事実以外は、イスラム教徒やキリスト教徒やその他の人々の話は偽りに過ぎず、狂言や無知や激しい敵意などによって生じたものである。

 たとえば、イスラム教徒は、ムハンマドが月を割り、それはメッカの山の上に落ちてきたという。彼らは、月は小さな天体で、ムハンマドはそれをふたつに割り、ひとつをこの山に、もうひとつは別の山に投げたのだ、と思っている。

 そのような話は全くの狂信である。また、聖職者が引用する伝承や、彼らが文句をつける出来事は、全く根拠がないわけではないとしても、全て誇張されている。

 ムハンマドはアラビア半島のヒジャーズの砂漠に現れた。そこは荒れ果てた不毛の荒地で、人が住めない砂地であった。メッカやメディナのように、ある所は極端に暑い所であった。人々は、砂漠に住む人々の生活様式と慣習を持った遊牧民であり、教育や学問を全く受けていない人々であった。ムハンマド自身も読み書きができず、コーランはもともと羊の骨やヤシの歯の上に記されたのであった。これらのことは、ムハンマドが遣わされた人々の様態を示している。ムハンマドが人々に尋ねた最初の質問はこうであった――なぜ、 あなた達はモーゼの五書や福音書を信じないのか?なぜ、 モーゼやキリストを信じないのか?これによって人々は異議を申し立て、こう議論した――われらの祖先は、 モーゼの五書を信じなかったのは、どういう訳だ?ムハンマドはこう答えた――彼らは誤った方向に導かれたのだ。あなた達は、モーゼの五書や福音書を信じない人々は拒否すべきである。たとえ、 それが父親や先祖であっても。

 そのような国のそのように野蛮な部族の中で、読み書きのできないある人物が完璧かつ雄弁な文体で書を作り出し、聖なる属性や完全性について、神の使者の預言者としての地位や、聖なる法律やいくつかの科学的事実について説明したのである。

 あなたも知っているように、近代の観測がなされるまで、つまり、キリスト教の初期から十五世紀に至るまで、世界中のあらゆる数学者は、地球が宇宙の中心であり、太陽が動くということに同意していた。しかし、新しい理論を唱えた有名な天文学者が、地球が動いていることと、太陽が静止していることを発見した[9]

 彼が現れるまでは、世界中の天文学者や哲学者は、天動説を信じていたのであり、それに対して異議を唱える者はみな、無知な者であると見なされた。プラトンはその人生の後半に、そしてピタゴラスも、毎年、 黄道帯の周りを太陽が動くことは太陽そのものの動きから来るのではなく、地球が太陽の周りを回ることによるものであるという理論を受け入れていたが、この理論は全く忘れ去られてしまい、数学者らはみな、天動説を受け入れていた。しかし、コーランには、天動説に反する節がいくつか見られる。そのひとつは、 太陽は固定された地点で動くといもので、太陽が固定され、それは軸の周りを回ることを示している[10]

もうひとつは、そしてそれぞれの星はそれ自体の天空にて動く[11]というものである。

 このように、太陽や月や地球や他の天体の動きについて説明されているのである。コーランが現された時、数学者はみな、これらの言明をあざけり、その理論を無理なものと考えた。イスラム教の学者らでさえ、これらの節が当時、受け入れられていた天動説に反するものであることがわかると、それについて適当に弁明するよう強いられたのである。

 ムハンマドの時代から約九百年たった。キリスト教時代の15世紀になって初めて、ある有名な天文学者[12]が、自らが発明した望遠鏡の助けにより新しい観測と発見をなしたのである。

 こうして、地球の自転や太陽が固定していることやそれが軸の周りを回っていることが発見されたのである。コーランの節は実存する事実と一致し、天動説こそ架空のものであることが明らかになったのである。

 東洋の人々は、13世紀間、ムハンマドの宗教の下に育てられてきた。中世の時代の間、ヨーロッパは野蛮な状態のどん底にあったのに反し、アラブ人たちは、学識や芸術や語学、文明や政治や他の学問において、地上の他の国々よりも優れていたのである。これらのアラブ部族の『啓発者』にして『教育者』であり、これらの異なる人種の間での人類の文明と完全性の『設立者』となったのは、読み書きのできない『人物』、 ムハンマドであった。この著名なる『人物』は、完全な『教育者』であったろうか、それともそうではなかったのだろうか?これについて、公正な判断をする必要がある。(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp.1824

 

19. 一般的に言って西洋には、イスラム教に関して、あなたが拭い去るべき多くの誤解があります。あなたの仕事は非常に困難で、多大な学識を必要とします。あなたの主な仕事は、コーランに記されている通りに、その預言者の純粋な教えを友人達[13]に伝えることで、また、これらの教えがいかに、後に続いた時代の人類の発展と影響を及ぼしたか、いや、いかに導いてくれたかを指摘することです。

 その主題に関するバハイの見解は、こうです。つまり、ムハンマドの宗教制は、他のあらゆる神の宗教制と同じように前もって定められ、人類の精神的、道徳的、そして社会的発展のための神の計画に不可欠な一部であるということです。それは隔離された宗教的現象ではなく、キリストやバブやバハオラの律法と密接に、また、 歴史的に関連しているのです。それは、キリスト教の後に来るよう神が意図されました。従って、キリスト教徒が自らの宗教を固守したように、今度はイスラム教を堅固に受け入れることが、彼らの義務だったのです。

 あなたはまた、次の事についても、強調すべきです。つまり、イスラム教は、歴史的に後に現れ、教えがより進歩したものであるという特徴により、人類に対する神の目的のより完全な啓示であるという心理です。ルネサンスはキリスト教文明の最も顕著な現れですが、それは本質的には、起源と基盤がイスラム教にあるのです。中世のヨーロッパが最も野蛮な状態に陥っていたとき、ムハンマドの宗教によって放散された精神のために新しく生まれ変わり、変化したアラブ人たちは、同時代のヨーロッパのキリスト教徒らが、かつて見たこともないような文明を築き上げるのに休まず従事していましたが、その文明は結局、 アラブ人を通して、西洋にもたらされました。昔のギリシャ人たちが発展させた哲学や科学や教養は、アラブ人を通してヨーロッパにもたらされました。アラブ人は、最も優れた翻訳者であり、外国語に精通しており、ソクラテスやプラトン、 そしてアリストテレスといった著名な思想家の書物は、アラブ人によって、西洋人の手に入るようになりました。

ルネサンス期にヨーロッパ文明が開花したのは、キリスト教の影響であると考えるのは不公平であります。それは主に、ムハンマドの宗教制によって放たれた力によるものでした。制度尊重主義の立場から見ると、 イスラム教は、福音書で知られているようなキリスト教をはるかにしのぐものです。コーランには、福音書に比べて、非常により多くの王立や制度が見出せます。福音書は、完全にとは言わずとも主に、個人的な振る舞いに関して強調していますが、コーランは社会の重要性について強調しています。この社会の重要性は、バハイの啓示において、 さらに重要で意義深いものとされています。注意深く、また、公平に比較してみると、コーランは、精神的、博愛的見地からして、福音書に比べて明らかに進歩が見られます。

 真実は、西洋の歴史家達は、彼らの宗教的偏見や先祖伝来の偏見のために何世紀もの間、事実をゆがめてきた、ということです。

 バハイは、歴史を新たに研究し、その研究の基礎をまず、イスラム教やキリスト教の成文の経典に置くべきです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 4/27/36Lights of Guidancepp.371372

 

20. イスラム教は、非常に高遠な精神的状態に達しましたが、西洋の学者達は、それをキリスト教の標準で判断しがちです。人は、あるひとつの世界信教を取って、それが他の世界信教より優れているということはできません。それらは全て、神から下されるものなのですから。それぞれは、各時代の要求に応じるもので、累進的なものなのです。(ショーギ・エフェンディの秘書からある信者へ 11/19/45Lights of Guidancep.371

 

21. キリスト教会の組織の基盤には確かに、真実性がいくぶんあります。たとえば、ペテロの最高の地位やキリストの後を継ぐ権利は、キリストによって確立されたものです。しかし、それは口頭によるもので、明確な言葉によって表現されたものではありません。キリストがなぜ自らの後継者に関して明確に述べておられなかったのかは知られておりませんし、又、知ることもできません。私達、 不完全な人間は、神の知性と目的の神秘を明かし、神意の計り知れない摂理について理解できるなどと言うことはできないからです。せいぜい、いくらかの説明をできるくらいですが、これでは、私達が答えを見つけようとする疑問についての根本的な理由は得られないでしょう。

  宗教改革の真の貢献は、教会の聖職者らが築き上げた、組織に対して挑み、ある意味ではそれを弱め、また、彼らが考え出した精巧な教義や儀式や制度の人間的な起源を見捨て、それを立証することでした。宗教改革は、教会の、人間によって作り出された制度に対する正しい挑戦でしたし、それはまた、進歩としてのひとつの段階でした。その起源において、宗教改革は、イスラム教が放った新しい精神の反映であり、イスラム教の真実性を受け入れるのを拒んだ人々に対する神から送られた罰であったのです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 12/28/36Lights of Guidance 、p.373

 

22. コーランの最も優れた英訳に関する. . .質問について―守護者は、セール[14]の翻訳を推薦なさいます。それは現在ある訳のうちで最も正確で、最も普及しているものです。(ショーギ・エフェンディの代理より米国とカナダのNSAへ 4/14/38Lights of Guidancep.373) 

 

23. コーランのスーラ[15]を全て、徹底的に理解することは、確かに、非常に困難なことです。なぜなら、それには、その預言者が現れたときのアラビアの社会的、宗教的、歴史的背景に関する詳しい知識が必要とされるからです。従って、 信者は、スーラを一度か二度、あるいは三度読んでも理解できないかもしれません。信者は、たとえば、セールのすばらしい翻訳に見られるような注解や注釈の助けを借りながら、それらのスーラを何度も繰り返し勉強し、その意味について熟考し、その意味や趣旨についてできる限り、 明確かつ正確に理解できるよう、努めねばなりません。これはもちろん、時間のかかる過程ですが、将来の世代の信者たちはきっと、それについて理解できるようになるでしょう。今のところは、その書の節をひとつひとつ勉強するより、むしろ、 トピックごとに勉強し、また、コーラン全体に豊富に光明を投じるバブやバハオラやアブドル・バハの解釈と照らし合わせて勉強することがより容易で、より役に立つことに、守護者も同意なさっています。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ 8/22/39Lights of Guidancepp.373374

 

バブ

24. バブについて――わが魂が彼の犠牲とならんことを!彼は若くして、つまりその聖なる人生において25歳のとき、その大業を宣言するために立ち上がった[16]

彼が決して学校で勉強したこともなければ、いかなる教師からも学問を学んだ

ことがないこと[17]は、シーア派の人々が全て認めていることである。

シラーズの人々はみな、このことについて証言している。それにもかかわらず、バブは、最高の知識を授けられて、人々の前に突然現れたのである。彼は、商人にすぎなかったのだが、ペルシャのウラマー[18]を全て狼狽させたのである。

ただ一人、思いもつかないようなやり方で、バブは、宗教的狂信で知られていたペルシャ人たちの間で、大業を支持したのである。この著名なる人物は、偉大なる力とともに立ち上がり、ペルシャの宗教や道徳や階級、慣習やしきたりの支柱を揺り動かし、新しい法律と規則と宗教を設立したのである。その国の身分の高い人々やほとんど全ての聖職者や民衆が立ち上がって、 彼を滅ぼそうとしたにもかかわらず、彼はただ一人それに耐え、ペルシャ全体を動かしたのである。

 そしてたくさんのウラマーや民衆やその他の人々は、彼の大業において自らの命を喜んで犠牲にし、殉教の場へと急いでいったのである。

 政府も国も、神学者も地位の高い人々も、バブの光を消そうとしたが、そうすることはできなかった。結局、 彼の月が昇り、星が輝き、基盤はしっかりと確立され、夜明けの地が光り輝いた。彼は、啓発されていない多くの人々に聖なる教育をなし、ペルシャ人の思想や道徳や慣習や境遇にすばらしい影響を及ぼしたのである。彼は、バハの太陽の顕現という喜ばしい知らせについて信奉者らに告げ、彼らが信じることができるよう準備させたのである。

 若い商人によってそのようにすばらしい徴(しるし)が現れ、偉大な成果が生じたこと、人々の心や当時広まっていた考えに及ぼした影響、進歩の基盤が築かれたこと、そして、 成功と繁栄の原則がまとめられたこと―これらのことは、彼が完全なる教育者であったことの最高の証明である。公正な人は、これを信じることを決してためらわないであろう。(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp2526

  

25. 『神が顕現なし給う御方』が現れたなら、受け入れるよう、バブはおっしゃいました。千年が経過するまで受け入れてはならない[19]とは決しておっしゃいませんでした。また、バハオラは、バブの宗教制の9年目[20]において、『神が顕現なし給う御方』の啓示の時が熟していたとおっしゃいます。

バブは、顕示者であっただけでなく、バハイ信教の先駆者でもありましたので、バブの啓示とバハオラの啓示の期間は短いものでした。バブの宗教制は、ある意味では、バハオラの宗教制が続く限り、続きます。(ショーギ・エフェンディの代理からインドNSAへ 12/27/41Lights of Guidancep.349

 

26. バブは、バヤンの中で、以前のあらゆる宗教は普遍的(世界的)になるのにふさわしかったと述べておられます。それらの宗教がその域に達することができなかった唯一の理由は、その信奉者らが不完全であったからです。バブはさらに、『神が顕現なし給う御方』の啓示はそのようになることはなく、普遍的となり、世界のあらゆる人々を包み込むであろうという確実な約束をしておられます。これは、私達が最終的には成功することを示しています。しかし、私達の欠点や犠牲の欠如、そして大業を広めることに努力を集中させることをためらうことは、その理想を実現させるのを遅らせることになるでしょう。これはどういうことを意味するかというと、私達は神の前にて責任を問われ、人類の片意地な状態が長引き、戦争を防ぐことが遅れ、人々の苦しみがより長く続くことを意味するのです。(ショーギ・エフェンディの代理から米国とカナダNSAへ 2/20/32Lights of Guidancepp.349350

 

27. バブが啓示なさった厳しい法律や命令は、その宗教制の性質や目的や特徴に関する彼自身の言明を考慮して解釈するときにのみ、正しく認識し、理解することができます。これらの言明によって明白に示されているように、バブの宗教制は、本質的には、宗教的、そして、 まことに社会的な革命を性質としており、従って、その持続期間は短いものであらねばなりませんでした。しかし、それは悲惨な出来事と、全面的で徹底的な改革に満ちていました。バブとその信奉者らが執行したこれらの徹底的な手段は、シーア派の基盤そのものを弱め、 バハオラの到来のための道を敷くことを目的として用いられました。その新しい宗教制の独立性を主張し、また、近づきつつあるバハオラの啓示のために準備するため、バブは、まことに厳しい法律を啓示せねばなりませんでしたが、その大部分は、執行されることはありませんでした。しかし、バブがそれらの法律を啓示したという事実自体、その宗教制の独立的な性質の証拠なのであり、またそれは広範囲にわたる社会的動揺を引き起こし、聖職者らの反撃をもたらすに十分であり、結局彼は殉教させられたのであります。 (ショーギ・エフェンディの代理からインドNSAへ 2/17/39Lights of Guidancep.350

 

28. 『バヤン』は未完成で、『神が顕現なし給う御方』(バハオラ)がそれを完成なさるであろう、とバブははっきりと記されました。それは実際の形においてではなく、別の書において精神的にそうされる、ということなのですが。その続きは、 『イガン』[21]であると信じられています。(ショーギ・エフェンディの代理からインドNSAへ 2/17/39Lights of Guidancep.350

 

バハオラ

29. ペルシャ帝国がはなはだしい暗黒と無知に浸り、最悪の盲目的狂信にさ迷っているときに、バハオラ[22]は現れた。

 ヨーロッパの歴史書の中で、過去数世紀間のペルシャの道徳や慣習や考え方についての詳しい解説を、あなたは疑いなく、読んだであろう。それについて繰り返し詳しく述べる必要はない。端的に言って、ペルシャは非常に堕落してしまい、かつては非常に栄光に満ち文明化されていたこの国が、今はこれほど衰え、落ちぶれてしまい、その人民がその威厳を失ってしまったことを外国からの旅行者がみな、残念に思っていることである。

 バハオラは、そのような時代に現れた。彼の父上はウラマーではなく、大臣であった。ペルシャの人全てが知っているように、バハオラは、学校で勉学をされたことはなかったし、ウラマーや学者達と付き合っておられたわけでもない。若い頃、彼は、最高の幸せのうちに日々を過ごされた。彼の同僚や仲間は、ペルシャの最も地位の高い人々であったが、学者達ではなかった。

 バブが顕現されるとすぐに、バハオラはこうおっしゃった――『この偉大なる『人物』は廉直な者らの主であられ、全てのものは彼を信じるべきである。』国の宗教のウラマー達は、 彼に対抗し抵抗するようペルシャ政府に強制し、さらに、その信奉者らを虐殺し、迫害し、(財産を)略奪し、追放する命令を発した。それにもかかわらず、バハオラは、バブを援助するために立ち上がり、バブの真実性に関する多くの証拠や明確な証明を示された。あらゆる州でウラマーたちは、 改宗者達を殺し始め、焼き、財産を奪い始め、女性や子供達をさえも攻撃し始めた。それにもかかわらずバハオラは、最も堅固な態度と最大の精力にて、バブの言葉を広めるために立ち上がられた。彼は、一刻たりとも隠れることなく、敵と公然と交わられた。彼は証拠や証明を示すことに従事なさり、神の言葉の『布告者』として認められていた。多くの異変や移り変わりの中で、 彼は最悪の不幸に耐えられ、常に殉教する危険にさらされておられた。

 彼は鎖につながれ、地下牢に閉じ込められた。彼の膨大な財産や遺産は略奪され、没収された。彼はある地から別の地へと4回追放され、『最も過酷なる牢獄』[23]で終身刑を受けられた。

 このようなことにもかかわらず、彼は、一刻たりとも神の大業の偉大さを宣言することを止められることはなかった。彼は、ペルシャのあらゆる人の驚異となるほどの美徳と知識と才能を顕現なさった。それゆえ、テヘランやバグダッド、コンスタンチノープルやルメリア、そしてアッカにおいてさえも、 彼と会った学識ある科学に優れた人は全て、それが友人であれ敵であれ、提出した質問に対して最も納得がいく十分な答えを得たのであった。あらゆる者はよく、全ての才能や技能において無比無類であることを認めた。

 バグダッドにはよく、何人かのウラマーやユダヤ教の学者やキリスト教徒らが、親睦の集会で、何人かのヨーロッパの学者達と会った。それぞれ、質問を用意しており、その教養の程度は様々であったが、みな十分で納得のいく答えを聞き、満足して帰っていくのだった。カービラやナジャフにいたペルシャ人のウラマー達でさえも、ある賢明な者を選んで、バハオラのところへ使者として遣わした。その者の名は、ムラ・ハサン・アムといった。彼は、バハオラの聖なる前面に達し、ウラマーに代わっていくつかの質問をし、バハオラはそれにお答えになった。ハサン・アムはこう言った――『ウラマー達はためらうことなく、バハオラの知識と美徳について認め、バハオラがあらゆる学識において比類のないことを、 みな認めている。そして、彼がこれらのことを勉強したり習得したりしたのではないことも明らかである。しかしそれでもなお、ウラマー達は言っている――『われわれはこれだけでは満足できない。われわれは、その英知と正義によって彼の使命の真実性を認めはしない。それゆえに、われわれは、自らの心を満足させ、なだめるために、奇跡を見せてくれるよう、彼に頼む。』

 バハオラは次のようにお答えになった――『神が、その創造物を試すのであり、創造物は神を試すべきではない。ゆえに、汝らは、そのようなことを尋ねる権利はないのだが、それでもわれはこの依頼を許し、受け入れよう。しかし、神の大業は常に演じられ、毎日新しい何かを求められるような、劇の見世物ではない。もしそうだとしたら、神の大業は単なる子供の遊びになってしまうであろう』。

 『よってウラマーは集まり、みな同意して一つの奇跡を選び、次のことを書き記さねばならない。つまり、この奇跡がなされた後は、もうわれに対して疑惑を持ったりせず、全ての者はわが大業の真実性について認める、ということである。そう記した文書に封をし、われのところに持ってこさせよ。みなが受け入れるべき基準は、次の通りである――もし奇跡がなされたなら、彼らには疑いの念は残らず、もしなされなかったら、われわれは詐欺師として有罪を宣告されるということである』。学識ある者ハサン・アムは立ち上がってこう答えた――『今はもう、 これ以上言うことはございません』。彼は信者ではなかったが、聖なる御方のひざにキスをして、立ち去った。そして、 彼はウラマーを集め、聖なる伝言を伝えた。彼らは話し合い、 こう言った―『この人物は魔法使いである。おそらく、 彼は奇跡をなすであろう。そうしたら、われわれは何も言うことができない。』この信念に基づいて、彼らはこのことについて突き詰めようとはしなかったのである[24]。 

ハサン・アムは、このことを多くの集会で語った。カービラを発った後、 彼はカーマンシャンとテヘランに行き、それについての詳しい話をあらゆる所に広め、ウラマーの恐れと彼らが退いたことを強調したのであった。

 端的に言って、東洋の彼の敵はみな、彼の偉大さと威厳と知識と美徳について認めた。そして、敵ではあったけれども彼らは常に、彼について『著名なるバハオラ』として語るのだった。

 この偉大なる『光』が突然、ペルシャの地平線上に昇った時、あらゆる人々、大臣やウラマーや他の階級の人々は、 彼に対抗して立ち上がり、最大の悪意を持って彼を追いまわし、こう宣言した――『この男は宗教と法律と国と帝国を押さえつけ、滅ぼそうとしている。』キリストに対しても同じようなことが言われたのである。しかし、 バハオラはただひとり、誰からも助けられることなく、また決して少しの弱みも見せずに、彼ら全ての攻撃に耐えられたのである。遂に、彼らはこう言った――『この人物がペルシャにいる限り、平和と平穏はありえない。ペルシャをもとの平穏な状態に戻すために、 彼を追放せねば。』

 彼らは暴力を用いて、彼がペルシャから去る許しを請うよう強制させようとし始めた。そうすることによって彼の真実性の光が消されると思ったのだが、結果は全く逆であった。バハオラの大業は拡大し、その炎はさらに激しくなったのである。それは最初、ペルシャだけに広まっていたが、バハオラが追放されることにより、他の国々にも広まっていった。そうして、彼の敵は言った――『イラキ・アラブ[25]ではペルシャに近すぎる。もっと遠くの国へ送らねば。』

そこでペルシャ政府は、 バハオラをイラクからコンスタンチノープルへ送ることに決めたのである。再び、これは大業を少しも弱めることにはならなかったのである。今度も、彼らはこう言った――『コンスタンチノープルは様々な人種や民族が通過し、滞在する所であり、ペルシャ人もその中にたくさんいる。』それで、そのペルシャ人たちは次に、バハオラをルメリアに追放した。しかしそこでも、その炎はさらに強烈になり、大業はさらに向上したのである。そして遂に、 そのペルシャ人たちはこう言った――『これらの土地のどこへやっても、彼の影響力から免れることができない。彼が全く無力に追いやられ、その家族と信奉者が最悪の苦しみを強いられるような所に追放せねばならない。』それで、彼らはアッカの牢獄を選んだのである。そこは特に、殺人犯や盗人や追いはぎらのための牢獄であり、まことに、彼らは、バハオラをそのような罪人らの部類に入れたのである。しかし、神の力は顕現され、その言葉は広められ、 バハオラの偉大さは明らかになった。バハオラはこの牢獄から、そしてそのように屈辱的な境遇に置かれながら、ペルシャを全く別の状態に進歩させたのである。彼は、あらゆる敵を打ち負かし、彼らが大業に逆らうことができないことを証明したのである。彼の聖なる教えは至るところに広まり、その大業が確立されたのである。 

 まことにペルシャのあらゆる所で、敵は彼に対抗して、最大の憎しみを持って立ち上がり、改宗者らを殺し、殴り、何千もの家を焼き、破壊し、大業を滅し、破壊するためにあらゆる手段を尽くしたのである。このようなことにもかかわらず、殺人犯や追いはぎや盗人の入れられた牢獄から、大業は高められたのである。バハオラの教えは四方に広まり、その勧告は、まことに憎しみに満ちていた多くの人々に影響を及ぼし、彼らを堅固な信者に変えた。そして、 ペルシャ政府そのものも目を覚まし、ウラマーの誤りによって起きたことについて後悔したのである。

 バハオラが聖地にあるこの牢獄へやって来られた時、賢者達は、23千年前に神が預言者らの言葉を通して告げられた喜ばしい知らせが再び顕示され、神は約束に忠実であられたことを知った。神は、何人かの預言者らに『万軍の主は聖地に現れるであろう』という、 うれしい知らせを啓示なさり、告げられたのである。そして、これらの約束は全て果たされたのである。バハオラの敵による迫害や、彼の追放がなかったら、バハオラがいかにしてペルシャから追放させられ、聖地にテントを張るようにさせられたかは理解しがたいことである。彼の敵は彼を投獄することによって、聖なる大業を完全に破滅させ、消滅させようとしたのだが、実際は、この牢獄は、その発展のために最大の助けとなり、手段となった。バハオラの聖なる名声は東洋と西洋に広まり、『真理の太陽』の光線は世界中を照らしたのである。神に誉れあれ!

 囚人であったにもかかわらず、彼のテントはカルメル山の上に張られ、彼は最高の威厳をもって至る所に行かれたのである。彼の面前に達した者は、 全て友人も見知らぬ人も、こう言ったのである――『この方は囚人ではなく、王子である』。

 牢獄[26]に着いた時、彼は、ナポレオン[27]にあてて書簡を記され、フランスの大使を通してそれをお送りになった。その大体の内容は、『われわれの罪が何であり、なぜわれわれがこの牢獄、この土牢に閉じ込められているのか尋ねよ』ということであった。しかし、ナポレオンからの返事はなかった。そうして、もうひとつ書簡が記された。それは『スーリ・ヘイカル』[28]の中に収められており、そのあらましは次のようなものであった―――『おおナポレオンよ。汝はわが宣言に耳を傾けず、返事をしなかった故に、やがて汝の統治権は奪い取られ、汝は完全に破滅されるであろう。』

彼の追放生活の同伴者達全てに知られているように、この書簡は、シーザー・ケタフク[29]を通して、郵便でナポレオンに送られた。

この警告の書はペルシャ全体に知らされた。というのは、そのころ、『ケタベ・ヘイカル』はペルシャに広められており、この書簡はその一部だったのである。これは1869年のことで、『スーリ・ヘイカル』はペルシャやインドに広められ、あらゆる信者の手にあったので、彼らは何が起こることかと待っていたのであった。やがて、1870年に、 ドイツとフランスの間で戦争が起こった。誰もドイツが勝利を収めるとは予期していなかったが、ナポレオンは敗北し、辱められた。彼は敵に降伏し、その栄光は屈辱へと変えられたのである。

 また、他の国王達にも、書簡が送られた。その中には、ナセル・ディン・シャーへ宛てられたものがあり、その中でバハオラはこうおっしゃった――『われを呼び出し、ウラマーを集め、証拠や論拠について尋ねさせよ。そうすれば、真実と偽りが、はっきりとさせられるであろう。』ナセル・ディン・シャーは、その聖なる書簡をウラマーに送り、この使命を遂行するよう提案した。しかし、彼らはそうしようとしないのであった。そこで、 シャーは、彼らの中で最も著名な者七名にその挑戦に対する返事を書くよう頼んだ。しばらくして、 彼らは聖なる手紙を返し、『この人物は宗教に反対するもので、シャーの敵であります』と言うのであった。ペルシャの陛下、 シャーは非常に苛立ち、こう言った――『これは証拠と論拠、 そして偽りかどうかに関する問題である。政府に対する敵意と何の関係があるというのだ?ああ、 何ということだ!この書簡に対する返事もできないようなこれらのウラマーを、われわれはどれだけ尊敬してきたことか。』

 端的に言って、国王達への書簡の中に記されていたことは全て実現されているのである。もし1870年以降に起きた出来事について調べてみれば、全ては予告された通りに起きたことがわかるであろう。ほんのいくつかがまだ実現されてないままであるだけで、それらも後に明らかになるであろう。

 また、異国の民族や、信者でない他の宗派の人々も、バハオラが多くの素晴らしいことを成したと考えていた。ある人々は彼が聖者であると信じ、ある人々は彼に関する論文を書いたりさえもした。そのうちのひとりであるスィイード・ダヴディはバグダッドのスンナ派の大学者で、短い論文を書き、その中で彼は、バハオラのある超自然的行いについて記した。今でも、東洋のあらゆる所では、バハオラの顕現について信じはしないけれども、彼が聖者であり、彼が成したと考えられている奇跡について語る人々が何人かいるのである。

 まとめると、彼の敵も支持者も、聖なる場所で迎え入れられた人々もみな、バハオラの偉大さについて認め、証言したのである。彼を信じはしなかったけれども、彼らは彼の偉大さを認めた。そして、彼らが聖なる場所へ入るとすぐに、バハオラの存在はほとんどの者に非常な影響を及ぼし、彼らは一言も発せないほどであった。次のようなことが何度あったことであろう。つまり、バハオラに最も激しい敵意を持った者ひとりが『自分は彼に会ったら、 こう言って彼にこう反駁し、議論するのだ』と決心するのだけれども、聖なる面前に達すると肝をつぶし、 狼狽し、物が言えないでいるのであった。

 バハオラは、アラビア語を習われたこともなければ、家庭教師や先生がいたわけでもなく、学校へ行かれたわけでもない。それにもかかわらず、アラビア語によるその聖なる解説の雄弁さと優美、そして、 そのアラビア語の文書は、最も優れたアラビア語の学者らをも驚嘆させ、仰天させるのであった。そして、 全ての者が、彼は比類なく匹敵するものがいないことを認め、宣言するのであった。

 モーゼの五書の原文を注意深く調べてみれば、その聖なる顕示者が自分を否定する者らに対して『あなた方が見たいと思う奇跡は何でも、 私は喜んでなそう。そしてあなた方が提出する試しに全て答えよう。』とは決して言っていないことがわかるであろう。しかし、シャーへの書簡の中で、 バハオラははっきりとおっしゃった――『ウラマーを集め、われを呼び出しなさい。そうすれば証拠と証明を示すことができるであろう。』[30]

 50年の間、バハオラは、山のような態度で敵に直面なさった。全てのものは、 彼の絶滅を望み、彼を滅ぼそうとしたのである。彼らは1000回も彼をはりつけにし、滅ぼそうと企み、50年間、彼は常に危機に瀕しておられた。

 今日、ペルシャは非常な退廃と崩壊にあり、真の状況がいかなるものか理解している理知的に優れた人々はペルシャ人であれ外国人であれ、その進歩と文明化と再建は、この偉大なる『人物』が唱えた教えが広められ、その原則が発展させられることに依存していることを認めている。

 キリストは、その聖なる日に、実際には11人だけを教育なさった。そのうち最も偉大なペテロも、試練を受けた時、3回キリストを否定した。これにもかかわらず、キリストの大業は世界中に広まった。そしてこの日、バハオラは何千人もの人々を教育なさり、彼らは、剣によって脅かされると、 『ヤー・バハオル・アブハ』[31]という叫びを最高の天国へ向けてあげ、試練の火の中では、彼らの顔は黄金のように輝いたのである。

それでは、将来どのようなことが起こるか考えてみよ。

 最後にわれわれは、公正であらねばならず、また、この『栄光に満ちた人物』がいかに優れた『教育者』で、いかに素晴らしい徴(しるし)が彼によって顕現され、いかなる力が彼によって世界に現されたかについて認識せねばならない。(アブドル・バハ:Some Answered Questionspp.2735

 

30.  汝の質問について――マラキ書の第3章の第161718節は、神の友人達[32]について指しており、マタイによる福音書の第25章、 第313233節は、『祝福されたる美』[33]を対象としている。ミカ書の第5章第4節はキリストに関する言及である。

ゼパニヤ書の第1章第14151617、 そして18節、 それから、 ゼカリヤ書の第2章第10111213節、 さらにルカの福音書、 第21章の第20節から終わりまでは全て、『祝福された美』の世紀に関する言及である。(アブドル・バハ:Star of the WestVol.]、No12p.232 or Lights of Guidancep.378

 

31. 以前の預言者らが迫害され、その使命が嘲(あざけ)られたように、バハオラのメッセージも単なる非現実的な理想主義として嘲られました。かなり若い時から、彼は鎖につながれ、国外に追放され、迫害を受けました。しかし、 今日(こんにち)、私達は何を目撃しているでしょう?彼が唱えられた原則は、実用的な政治に対する唯一の解決策であり、彼が発した精神的真理は、人々が緊急に必要とするもので、まさに人間の道徳的、精神的な発達に必要なものです。

 バハオラは、盲目的に従うことを私達に求めてはおられません。バハオラがある書簡の中でおっしゃるように、たいまつの明かりとして作用し、人を真理へと導くために、神は知性を人に授けられました。バハオラの言葉を読み、その教えについて考え、現代の問題と照らし合わせて、 その価値について評価してみてください。そうすれば、真実は必ずあなたに明かされるでしょう。『イガン』[34]や『質疑応答集』や『ナビルの話』[35]などの本を読んでみてください。

そうすればあなたは、バハオラの使命の真実性について理解でき、また、彼の道を歩む者、 みなに彼が創りたまう真の精神についてもわかるようになるでしょう。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ:2/26/33Lights of Guidancep.355

 

32.  ユダヤ人の預言者の中で最も偉大なイザヤは、バハオラについて、『主の栄光』、 『永遠なる父』、 『平和の子』、 『素晴らしい御方』、 『顧問』として言及した

 ダビデは、聖歌の中でバハオラを歓呼し、『万軍の主』、 そして『栄光の主』として認め、歌った。バハオラについて、ハガイは、 『全ての国の望み』として、ゼカリヤは、 『彼の地から成長し』、 『主の礼拝堂を築くであろう』、 『枝』として言及した。エゼキエルは、『全地球を治める王となるべき』、 『主』としてほめたたえ、また、ヨエルとゼパニアは、 彼の日について『エホバの日』として言及した

 バハオラこそは、時が熟すと『メイトリヤ』[36]という名の仏陀で、 『普遍的友好の仏陀』が現れ、『彼の限りない栄光』を示すという、ゴータマ自身のものと考えられている予言の意味する人物なのである。ヒンズー教徒の『バガヴァド・ギタ』では、彼が『最も偉大なる霊』、 『10番目の権化』、 『汚れなきクリシュナの現れ』として言及されているのである。(ショーギ・エフェンディ:God Passes Bypp.9495

 

 

 

 

3.その他の宗教・思想

 

33. ジョセフ・スミスとモルモン経に関するあなたの質問について――バハイの教えによれば、預言者は、キリストの後、ムハンマド、バブ、そして、 バハオラへと受け継がれており、ジョセフ・スミス[37]が神の顕示者でないことは明らかです。

 しかし、 バハイは、あらゆる宗教の信者らに寛容、 かつ友好的に交わるべきで、この偉大なる『日』にバハオラの啓示が世界に対して持つ重要性について彼らに示してあげるよう努めるべきです。もし、あるモルモン教徒に感受性があると感じるならば、彼らにも、他の人々と同じようにバハイ信教について教えるように守護者は助言されます。モルモン教には多くの素晴らしい教えがあり、飲酒や喫煙を禁止するという純潔性に関する教えは、私たちバハイの教えと非常によく似ていますし、それは共通点を示しています。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ  2/21/42Lights of Guidancepp.379380

 

34. モルモン教徒は、高遠なる理想や原則を持っていて、バハオラの大業の中に精神的に歩んでいくことは、モルモン教徒ほどの信念や献身さを持たない他の多くの人々と比べたら、 難しくありません。しかし、彼ら自身の宗教に仕える、 その熱心さ自体が、バハイの神聖なる大業について理解することを妨げてしまっています。(ショーギ・エフェンディの代理よりある信者へ――万国正義院の代理からある信者への手紙の中に引用  2/16/76Lights of Guidancep.380

 

35. モルモン教設立者のジョセフ・スミスが占める地位についてですが、バハイの教えによると、彼は、大預言者(または独立預言者)または小預言者(または依存預言者)であったとは考えられていません。しかし、 もちろん、 彼は、19世紀初期のバブとバハオラの出現や、そのメッセージと神の啓示から直接生じた精神的な風潮に敏感であった宗教的教育者です。この点において、大業の翼成者であった故ジョージ・タウンゼンド氏の書、 『キリストとバハオラ』の第10章は、興味をそそるものであると思われます。(万国正義院の代理からある信者へ  2/7/77Lights of Guidancepp.380

 

36. 聖書とコーランとバハイの聖典の中で言及されている他に、 小預言者の名前をあげることはできないでしょう。なぜなら、これらの書のみが信憑性(しんぴょうせい)のある書としてみなされているのですから。従って、ジョセフ・スミスは私たちバハイにとって、預言者としてはみなされていません。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ、 3/13/50Lights of Guidancep.380

 

37. エホバの証人に布教することに関するあなたの問いについて――守護者は、あなたと地方行政会が協議し、その地方の状況を考慮し、最善の布教方法を決めるべきである、と思っておられます。(ショーギ・エフェンディの代理よりある信者へ  11/22/52Lights of Guidancep.381

 

38. バブとバハオラの時代に、その信奉者の中には、極東の宗教を信仰していた者が誰もいませんでした。それでバブとバハオラは、極東の人々に直接宛てた書簡を記されなかったのかもしれません。また、あらゆる宗教は、その根源となる宗教があることを忘れてはなりません。つまり、キリスト教は、ユダヤ教を基にして次に啓示されているように、私たちのバハイ信教も、イスラム教を基にし、啓示されたものです。それで、 バハイの多くの教えの証明がイスラム教から引き出されているのです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ  3/5/57Lights of Guidancep.382

 

39. 近東と極東の預言者らの家系関係[38]については、バハイの教えの中で述べられていません。 (ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ  3/31/41Lights of Guidancep.382

 

40. 老子について――バハイでは、老子は、仏陀やゾロアスターのように神から選ばれ、完全に独立した神の顕示者とは異なるものと見なし、また、(大)預言者や小預言者や使者であったとは考えられていません。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ、 11/10/39Lights of Guidancep.382

 

41. 孔子は預言者ではありませんでした。彼が道徳的な体系を設立した偉大な改革者であるとするのは正しいことです。(ショーギ・エフェンディの代理からオーストラリア・ニュージーランドNSA  12/26/41Lights of Guidancep.369

 

 

4.神の顕示者・預言者の性質

 

42. (預言者には何種類あるのですか?)

 預言者には2種類ある。ひとつは大預言者(または独立預言者)である。信奉される立場にあり、もうひとつは、独立しておらず、彼ら自身(独立的預言者の)信奉者なのである。

 大預言者は法律を定め、新しい周期をもたらす。その出現により、世界は新しい衣で装われ、宗教の基盤が確立され、新しい書が啓示される。仲介なしに、 その預言者は神から恩恵を受ける。その輝きは本質的な輝きなのである。それは、自ら他のものを明るく照らす太陽のようである。その光は本質的なものであり、他のいかなる星からも光を受けることはない。これらの和合の朝の夜明けの地とも言うべき人物は恩恵の源であり、真理の本質の鏡なのである。

 もうひとつの部類に属する預言者[39]は、大預言者の信奉者であり、促進者である。彼らは枝であり、独立していないのである。彼らは、大預言者の恩恵にあずかり、普遍的な預言者の導きの光によって益を得る。彼らは月の様であり、自ら輝いたり他を照らしたりしない。むしろ太陽から、その光を受けるのである。

 独立に出現した普遍的預言者として挙げられるのは、アブラハム、モーゼ、キリスト、ムハンマド、バブ、 そしてバハオラなどである。自ら信奉者、促進者である預言者として挙げられるのは、ソロモン、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどである。大預言者らは創設者であるので、新しい宗教を設立し、新しい人間を創り出す。彼らは、道徳全般を変え、新しい習慣や規則を促進し、新たな周期と法律をもたらす。その出現は春のようであり、地上のあらゆる生き物を新しい衣で装わせ、新しい生命を授ける。

 2番目の部類に属す預言者はその信奉者であり、神の法律を促進し、神の宗教について人々に知らせ、神の言葉を宣言する。これらの預言者は、大預言者から授かるもの以外には何の権力も勢力もないのである。

 (仏陀や孔子はどちらの部類に属すのですか?)

 仏陀もまた、新しい宗教を設立し、孔子は道徳や古来の美徳を更新したが、彼らの制度は(今や)完全に破壊されてしまった。仏教徒や儒者たちの信条や儀式は、仏陀や孔子の根本的な教えにそって続きはしなかった。仏教の設立者は、素晴らしい人物であった。彼は神の単一性を確立したけれども、その教えの本来の原則はやがて徐々に消え去り、無知な慣習や儀式が生じて増え続け、ついには彫刻や偶像を崇拝するようになってしまった。

  次のことについて考えてみよう。キリストは、モーゼの五書にある十戒は守られるべきであると繰り返し言われ、その十戒を維持すべきであると主張された。十戒のひとつに『絵や偶像を崇拝してはならない』[40]というのがある。

現在、キリスト教のある教会には、多数の絵や偶像がある。神の宗教の原則が人々の間で維持されず、むしろ徐々に変えられ、遂には完全に破壊されたことは全く明らかである。それで顕示者が新たに現れ、新しい宗教が設立されるのである。もし宗教が変わることがないなら、更新する必要はないであろう。

 樹は初め、 とても美しく、花や果実でいっぱいであったが、やがて年月がすぎるにつれ、実を結ばなくなり、枯れてしまい、朽ち果てる。それで、真の庭師が再び、同じ種の若木を植え付ける。そしてその若木は毎日、 成長し、発達し、神の庭に大きく育ち、見事な実を結ぶようになる。宗教についても同じである。時がたつにつれて宗教は、その初めの状態から変わってしまい、真実性が去ってしまい、精神がなくなってしまう。異端派が現れ、神の宗教は魂なき肉体となる。それで、宗教は更新されるのである。

 つまり、仏教や儒者は、今では偶像や彫像を崇拝するようになったということである。彼らは、神の単一性を忘れてしまい、古代のギリシャのように様々な創造上の神を信じているのである。しかし、最初はそうではなく、今とは異なる原則や他の法令があったのである。(アブドル・バハ: Some Answered Questionspp.164166

 

43. 預言者は先在します。それに対して(普通の)個人の魂、 又は霊は、肉体の妊娠のときに現れます。しかし、預言者は私たちと異なり、先在するのです。キリストの魂は、この世に生まれる前から、精神的世界に存在していました。その世界がいかなるものか、私たちには想像できませんし、キリストの存在の状態について説明するのは言葉では不十分であります。私たちは、神を直接知ることはできず、預言者を通してのみ、知ることができます。私たちは、神の預言者を通して神の完全性を知ることができます。時間と空間は、この物質世界に属するものです。創造主である神は、私たちが物質的な意味で考えるような『場所』に存在するわけではありません。神は無限なる存在で、創造主であります。私たちは、神やその状態を心の中に描くことはできないのです。もしそうするなら、神と同等のものとなり、神の創造物ではなくなってしまいます。神は肉体的な存在ではなく、預言者らの属性において映し出されているのです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ、10/9/47Lights of Guidancep.375

  

 

44. 顕示者たちは疑いなく、自らの地位について何らかの意識がありました。しかし、どのように意識していたか、私たちにはわかりません。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ  11/19/45Lights of Guidancep.376

 

45. 私たちがこれらの不幸な出来事により苦しむように、神の預言者たちも人間の苦しみの影響を免れはしなかったことを忘れてはなりません。預言者らは、その精神によって、その苦しみから超越したレベルに上がりました。それは、私たちも苦しんでいるときにせねばならないことです。この世の困難は、やがて過ぎ去り、私たちに残るものは、自分が魂の内に創り出したものです。それで、私たちは、次のことに目を向けねばなりません――それは、心や肉体がいかなることを経験しようと、より精神的に優れるようになり、より神に近づけるようになることです。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ  8/5/49Lights of Guidancepp.218219

 

46. 『同一の人物として見なされる』預言者たちは、 『書』をもたらす預言者[41](つまり大預言者)に限られるのではなく、小預言者(つまり依存する預言者)も含みます。その地位こそ違いますが、彼らも預言者であるのです。従って、彼らは、私たちとは違った性質を持っています。(ショーギ・エフェンディの代理からある信者へ、2/8/49Lights of Guidancepp.368369

 

 



[1] 12番目のイマムの消失のことで、260A.H.又は、873A.D

[2] 1260A.H.又は1844A.D.

[3] 1844A.D.1863A.D.

[4] cf.ヨハネG42

[5] 最も野蛮なアラブ族のひとつ、 バス・タミンは、この忌まわしい風習を行っていた。

[6] メディナへ

[7] ウマル(1世)(634644

[8] Jurji ZaydanUmayyads and Abbasids (D.S.Margoliouth)を参照のこと。

[9] コペルニクス

[10] cf.コーラン3637

[11] cf.コーラン3638

[12] ガリレオ

 

[13] i.e. バハイの信者たち

[14] Sale

[15] コーランの章節

[16] ここでバブは、最高なる御方(ハドラティ・アラ)という称号で呼ばれているのだが、読者のためにバブという名前で用いることにする。ヨーロッパでは、彼はバブとして知られているのである。(L.B.

[17] 彼は子供の時、ほんの初歩の教育を受けたのみである。

[18] イスラム教の学者、宗教指導者層

[19] バハオラは、自らの啓示から少なくとも千年経過するまでは、次の顕示者が現れることがないことを断言なさっている(cf.落穂集、p.99)。この手紙の内容は、信者がこの言葉とバブの言葉を混同したり、誤解したことについて書かれたものであろう―訳者注(N.S.)。

[20] 1853年―バハオラがテヘランのシア・チャールの土牢の中で、啓示を受けた年

 

[21] 確信の書

[22] ここでバハオラに与えられている称号はジャマリ・ムバラク(祝福されたる美)であるが、彼はまた、ジャマリ・キダム(先在なさる御方)、または、 古来の美とも呼ばれている。ここでは、彼をバハオラと呼ぶことにする。西洋ではこの称号で知られている。

[23]最初の追放はバグダッドへ、次にコンスタンチノープルへ、次にアドリアノープルへ追放され、1868年に最も過酷なる牢獄アッカに投獄された。

[24] この時のバハオラの鋭い判断力は、敵の悪意を負かしたのである。彼らが決してどの奇跡にするか決めはしないことは確実だったのである。

[25] イラクのこと。当時イラキ・アザムとして知られていたイランのある地域(今はアラクとして知られる)とは区別して、 こう呼んだ。

[26] アドリアノープル

[27] ナポレオン3

[28] バハオラが使命を宣言した後に記されたもののひとつ

[29] バハオラが友好的な関係を持っておられたシリアのフランス領事の息子

 

[30] このようなバハオラの判断力の鋭さを強調することにより、アブドル・バハは、奇跡というものは、神の顕示者の真実性を証明するには役に立たないことを強調なさっているのである。

[31] 文字通りには、 おお、栄光の中の栄光なるあなたよ!の意で、バハイが信念を宣言する(発する)時に叫ぶ言葉。

[32] バハイ

[33] バハオラ

[34]  確信の書

[35] 夜明けを告げる人々

[36] 弥勒菩薩

[37] モルモン教会の組織は1830年に設立

[38] たとえば、 イスラエルの預言者らはアブラハムの子孫であり、モーゼやキリストやムハンマドやバブやバハオラもその子孫であった。この手紙は恐らく、仏陀やクリシュナとアブラハム(又はその子孫)との血縁関係に関するものと思われる。

[39] 訳注:つまり「小預言者」。

[40] cf. 出エジプト2045、申命記589

 

[41] つまり、独立的預言者