注:この文書は校閲を受けていない非正式の訳です。暫定版としてお使いください。ただし、暫定版と明記してお祈りの会や学習等に使用できます。Note: This is a provisional translation, not officially reviewed or approved by the National Spiritual Assembly. However it may be used for devotional gatherings and other similar purposes while indicating clearly these are provisional translations.

 

スリイ・ヴァファ[1]

ヴァファへの書簡

 

彼は全知の御方なり

 ヴァファよ!汝の主に感謝を捧げよ。主の御援助を戴いたおかげで、汝が神の大業を受け止められたことに。また、神ご自身を顕示する者を認めることできたことに。さらに、栄光に充ちたこの宣告をなすに際して、最大の面影なるわれに力を加えんがため、汝を高みへと挙げたもうたことに。

 祝福されたるかな、汝、ヴァファよ。それというのも、われが、紛うことなき主権を纏って啓示の地平線に明け初め、あらゆる証言に支持されて現れたにもかかわらず、人は皆、かつて一度は信じた者を否定し、神の聖約とその遺訓に背いたが、そんな時に、汝は、それらを誠実に守っているではないか。

 しかれど、汝、忠誠の中の忠誠に身を置くために、できるかぎりの努力をするがよい。その意味するところは、神が自らのために証言されたこと、すなわち「まことにわれは、栄光の領土に自存するものなり。」と宣言されたこのことを、汝が心奥に確信し、自らの言葉で証言することである。今日、この真理を厳粛に確信することができた者は、誰も高徳の人となり、昼の季節となく夜の季節となく聖天の神髄がその身に降り、主の御名の栄光を称えるのを優しく援け、慈にして悲なる主の大業を自からの言葉で称えることができるよう、慈悲深く舌を解いてくださる。ここに達する者は、天地の間にある創造物すべてを心中から追い払い、慈悲深く、全能にして全権を持つ主、神につき、その他の全てのものから完全に離脱し終えた者のみである。

 汝、この大業に仕えんがために立ち上がれ。そして、神の正義は真正なり!と発言せよ。まことにわれは、神の新たな衣装に身を飾り、神の栄光ある御名のもとに顕現した原点である。今や、神はわれという地平線から万象を見ておられる。実に神は万物を超越し給う。われは、天上の群勢には最も偉大な告知として知られ、永遠の領域では太古の美として知られ、さらに、かの玉座の前では、理解力を授かったはずの者たちの足を掬うもととなってきたわが名[2]によって知られる。

 言挙げよ、神かけて断言する。わが啓示においては、その最初の一句が神聖かつ完全の領域から下されるより前に、天と地の住民に対する神の至高の聖約は成就していたことを。さらに、バヤンの宗教制において下し与えられたものは、その全てについて対応するものをわれが啓示したことを。神を恐れよ、汝の行動をむだに空費するな、無関心の徒となるな。わが光り輝く地位に寄って立ち、そこから太古の美を拝するため、目を開け。

 言挙げよ、神こそはわが証人なり!かの約束された人、その人が天から降臨したのだ。右に啓示の軍勢を、左に霊感の天使を従え、深紅の雲に乗って。かくして、何事も可能な全能の神の命じられるままに、かの定めは実現した。その時、誰もが足を掬われた。掬われなかったのは、神が、慈悲深くもお守りになり、御自身で神を認めた者の中にお入れになり、かくてこの世に関するすべてのものへの依存を断ち切った者である。

 されば、汝の主の語る言葉に耳傾けよ。そして、主の面影の溢れる光が差し込むように、心の窓から一切の幻想を拭い去れ。それにより汝の心が到達するところこそ、確信である。

汝の手紙はわが居所に届き、われの精読するところとなったことを知るがよい。そこに見た汝の質問にここで答えよう。わが時代には、人々が望むままに神に質問するのは正当なことである。主は、絶妙にして否むべからざる御言葉で、その請願に応じられる。

 復帰の問題について、汝の質問があった。終わりは、始まりの如くであることを知りなさい。汝が始まりということを考えるとき、終わりということも考えるべきである。それにより汝は正しい気づきの人となる。いやむしろ、よリ明確な概念を持つためには、始まりは終りそのものであり、終わりは始まりそのものであると考えるがよい。これについても知るがよい、すなわち、御力に溢れ強力な神は、その御命令により、あらゆる創造物を休みなく前進させ、ついに復帰させ給うことを。

 復帰については、神は、至高にして聖なる書簡のなかで、これを僕らに知らしめんと意図された。すなわち、復活の日に全ての創造物は復帰することを。汝が神ご自身の日々に目撃した通り、これぞまさしく復帰の神髄であり、汝はこの真理を証言する者である。

 神は、実にあらゆる名前を一つの名前の中に表し、また全ての魂を一つの魂の中に表すことがおできになる。しかり、神は何事も可能な全能の御方である。したがって、わが復帰ということも、神はお望みのままに命じてどんな形にでも実現される。まことに神は全てを定め、命じ給う御方である。この復帰の成就と復活を、全知全能の主の言葉以外によって理解するようなことがあってはならない。例えば、神が一握りの土をとって、汝が過去に従っていた御方はこれだと宣言したとしたら、それはまさにその通り、神ご自身が正しいように正しい。そこに疑問の余地はない。彼の権威を疑うなどという権利は、誰にも与えられていない。神は、何でもお望みのままになさり、喜びとすることは何でも命じ給う。さらに、汝、わが陣営にあって、制約だとか暗示だとかに目を向けることなく、この啓示を成就せしめたもの、それを目を凝らして見つめなさい。それでこそ見きわめる者となれる。以上、この太古の主に汝が乞い求めたものを把握できるよう、明快かつ平明な言葉で説明した。

 復活の日について考えてみよ。神が、最初にバヤンを信じた者は、信じる者の中でも最低の存在であると述べられたとしても、汝は、これに一片の疑問も持つべきではなく、真の信者でいなければならない。わが地位の中に、人間なるが故の制約やあれこれの名称を見るのではなく、最初の信徒たる地位を証明するものをこそ見るべきである。それは、神への信仰であり、神の存在への確信であり、抗すべからざる神の厳命を必ずや実現せんとする信念である。

汝、バヤンの点彼の栄光は至高なりがもたらした啓示について考えよ。その中で彼は、彼の最初の信徒[3]を神の使者、ムハンマドと呼んだ。あのお方はアラビア人だったがお前はペルシャ人だとか、あのお方はムハンマドという名をお持ちだがお前はフセインというではないか、などと彼に向って言いつのるなど、すべきであろうか。最高最大にして聖なる存在、神に懸けて、否、である。知力と洞察力のある人々は、名称や制約について問題にしたことがなく、ムハンマドが与えられた使命、すなわち神の大業の方に、しかと注目してきた。そうした人々は、フセインについても、また全能にして高貴、全知にして聡明な神の大業の中に占めるフセインの地位についても、同様に理解してきた。バヤンの宗教制にあって神の最初の信徒に課せられた使命は、神の使者、ムハンマドに課せられたものと同等である。それ故、バブは、最初の信徒を名指すにムハンマドをもってしたのである。すなわち彼は、ムハンマドの復帰であり復活なのである。その地位は、いかなる名称も制約も超越して神聖である。そこにはただ、全知にして並ぶ者無き唯一の御方、神を見るのみである。

 また汝、これを知れ。すなわち。啓示の日に彼が一枚の葉をとって、これが彼の崇高な称号全てを表すものだと宣言したとしても、なぜだとか何ゆえにとか言う権利は誰にもない。そんなことを言う者は、神を信じない者とみなされ、神の真実を拒否する者に数えられる。

 汝、バヤンの民のような行動をしないよう、用心の上にも用心せよ。なぜなら、彼らは大きな過ちを犯し、庶民を間違ったほうに導き、神の聖約と福音を無視し、仲間たちを、比類なく全知にして唯一の御方、神に結びつけたではないか。なんと、彼等はバヤンの原点を認め得なかった。もし認め得たのであれば、わが燦然たる存在に宿る神の啓示を拒否するはずはなかった。彼らの目は名称だけにくぎ付けになり、その為に、彼がその名「最も崇高なる者」を「最も栄光ある者」に代えた途端に、彼らの目は曇ったのであった。わが日々にあって彼らは、彼を認めることができず、滅びる者に数えられた。もし、彼そのものを見て、あるいは彼が啓示したことによって彼を知ることができたなら、彼がこの比類なき栄光の名を持って現れた時、拒否することはなかったであろう。その名は、天と地の間に振るうべき彼の啓示の刀であると神が定め給うた名であり、その名によって、現在から、人類が世界の主の御前に立つ時まで、真理と誤謬は切り分けられるのである。

 汝、これを知れ。すなわち、彼の顕示の日には、神以外の全てが引き出され、その地位の貴賤に拘わらず、平等に並べられることを。復活の日は、聖なる啓示が成就するまでは、何人にも認知不能である。まことに、神はお望みのままに定め給う御方である。神が、創造物すべての前に御言葉を開示されたとき、その呼び声に耳傾ける者は、たとえ無一物であっても、まさしく称えられるべき魂の持ち主である。一方、背を向ける者は、たとえ人の上に君臨し、天と地にある全ての書物の持ち主であっても、神の僕として最低の者に数えられる。

 ここまで啓示し汝に送ったものを聖眼をもって見、一般大衆とその現状には目を向けないがよい。今彼らは、陽光の降り注ぐ中を歩きながら「太陽はどこだ?輝いているのか?」と追い求めている一介の盲人になぞらえられる。彼は真理をけなし否定するばかりで、一片の感性ももたない。太陽を見分ける能力もなければ、自らとの間で太陽を遮っているものを知る能力もない。内に反発心を燃やし、違うと声高に叫んでは反抗ばかりしている。わが民はそんな状態にある。「あなたたちにはあなたたちの望むものが、私たちには私たちの望むものがあらんことを」と言って、彼らをそのままにしておきなさい。この罪深き者の惨状は、哀れといわずしてなんであろうか。

 更に汝、かつて顕示者が、復活の日に引き上げられ復帰するのは死者の霊であると断言したが、正しくは、全ての創造物に復帰と復活があることを知りなさい。われはしかし、邪悪な者たちが激しい抗議行動にでることを避けるため、バヤンに示されたこと以外に言及しようとは思わない。我は願うのみである、人の子とその創造者の間に介在するものが払拭され、彼らが、抗すべからざる神の主権と王国を拝観できるようになり、天上の神の泉に湧く水を心ゆくまで飲み、正しい理解の大波によって洗われ、神を知らぬ懐疑の徒に染められた穢れが浄められんことを。

 神の世界についての汝の質問に移ろう。まず、神の世界は、その数は無数にして、その範囲は無限であるという真理を知るがよい。それらの世界を理解できる者は、聡明にして全知なる神を措いていない。汝が眠っている状態を考えてみよ。よく聴け、この状態は、人間にあるいくつかの神の御印の中で、最も神秘的なものである。これは、誰でも心中に熟考すればわかるだろう。夢の中で見たことが、かなりの時を経てそのまま実現するではないか。夢の中で汝がいたその世界が、現に生きている世界そのものだとすれば、夢の中で起きたことは、その瞬間に現実に起きなければならない。事実そうであったのなら、汝は、おのずからそのことを証言したであろう。しかし、そうではないのだから、汝が現に住む世界は、必然的に夢の中で経験した世界からは隔たった別の世界でなければならない。夢の中の世界には、始まりも終わりもない。栄光に満ち全能の神の定めに従い、この世と同じ世界が自分の内にあって自分にだけ拘わっているのだと汝が主張するとしたら、それは間違いではない。汝の魂が眠りの制約を超え、この世で身に着けたものから抜け出し、神の御業により、かたとき移された先が、この世界の最奥に隠れてはいるが実体ある領域だというふうに考えるとしたら、これも同様に正しい。まことに、私が語るべきは、神の創造された中には、この世とは別にあまたの世界が、またこの世の被造物とは別のいくつもの被造物があるということ、これである。神が、それらの世界にそれぞれにお定めになった事物をくまなく精査することは、全てをお調べになる聡明なる御方、神以外の者にはなしえない。汝、われの開示したことを熟考せよ。されば、汝の主にして全ての世界の主、神の御目的を知るであろう。これらの言葉には、聖なる智恵が秘められている。われがこの主題について多く語ることを控えてきたのは、われの語る言葉を捉えて起こす彼らの行動を悲しみ、その悲しみがわれを包み込んでいたからである。汝、わが声を傾聴する者であれ。

 こうした信義なき者の剣を遮り、われを援け得る者はいずこにありや?地上の民が唱える意見、主張を振り払い、自らの目で神の言葉を見つめる洞察力ある者はどこにいるのか?

おお、僕よ!自分がよく理解できないことを排斥するべきではないと、神の僕らに警告せよ。言挙げよ、汝の心に真の理解への門を開いて下さるよう神に嘆願するがよい。さらば、汝は、誰も聞かされなかったことを聞くであろう。まことに彼は、与え給い、許し給い、哀れみ深い御方である。

 汝は、さらに神の命令に関しても問うてきた。まず一つの真理を知りなさい。すなわち、聖なる書に定められたことは正に真理であり、これに一点の疑いもないことを、そして、全知にして開示なさる御方、神の下し給うたことは、これを守るのが万人の義務であることを。それらを知りながら排斥するものがあれば、神はまさにこれを退け給う。我もまた退けるであろう。神の定めが聖なる木の果実を成している以上、無関心な者か無軌道な者でないかぎり、その定めの道から反れる者はいないはずだからである。

 楽園について:楽園は現実にある。これに疑問の余地はない。今この世においては、われへの愛とわが好意によって実現する。これを達成した者は、この下界にあっては神が援け給い、死後は、天地を合わせたほど広大な天国に入る許しを与え給う。そこでは、神聖と栄光の侍女たちが、昼夜を問わず彼に仕え、真昼の星、すなわち消えることなき美、主の発し給う光輝が、絶えず彼の上に注がれ、照り輝く彼の眩しさは、誰も見つめえぬほどであろう。神の摂理はかくの如くであるが、人々は、なお重いベールの外に閉め出されている。同じく、地獄の火とはいかなるものか、汝これを把握して、真に信じる者となるがよい。楽園での行いは全て皆、神の見積もられた報酬をともなう。これについては、全能者の定められた規則と禁側が十分に証明している。もし行為が果実を生まず報われないとしたなら、崇高なる神の大業もやがて無益に終わるのは必然ではないか。神は、かかる冒涜を去ること無限に高く賛美を捧げられる!しかして、あらゆるしがらみを振り払った者にとっては、行為の一つ一つがそれ自体、実に報酬そのものである。これについてさらに広く論じるとすれば、多くの書簡を書く必要がある。

 唯一真なる神にかけて!このペンは、それを持つものに降りかかった事態のゆえに動くことができない。それゆえ激しく泣いている。我も又激しく泣いている。諸々の御名の幕屋に隠れ、栄光ある御名の玉座にいます、壮大の心髄なる御方、神の目もまたおなじである。

 汝、心を浄めよ。それにより、われは智恵と発言の泉を溢れさせ、汝は万人の中で声を揚げることができるであろう。汝、舌を動かせ。それにより、真実を広め、汝の慈悲深き主の記憶を残すことができよう。何人も恐れてはならぬ。全能にして全知の神を信じ抜くことだ。おお人々よ、言挙げよ。ペルシャのバヤンの中で知り得たことは、なべて実現せよ。知り得ぬことは、この誤りなき神の面影に尋ねるがよい。この聖書によって神が意図し給うたことを、明瞭に解説するであろう。彼がバヤンに納められたものを知悉しているのは、力強く全能の御方のご意志によるところである。

 汝は、われがイラクを発つときに人々に与えた、太陽が姿を隠す時、闇の鳥が動き、サミリ[4]の基準が高まるであろうという趣旨の警告について問うた。神かけて断言する!近時、その鳥は乱れ飛び、サミリの声はますます高い。認知でき、理解力ある者に数えられる者はさいわいなり。われはまた、仔牛の出現に対する警戒を彼らに呼びかけた。神はわが証人なり!わが警告は全て現実となるに至った。それが栄光と御力の手より生まれ出た以上、確実に現実となるべきものなのだ。彼らの攻撃から汝をお守りくださるよう、またひねくれ者が仕掛ける汝の悪評を払拭してくださるよう、神に懇願するがよい。そして、この大業の推進の為に力を蓄えよ、バヤンの民の発する言葉に気を取られてはいけない、彼らは、わが壮大にして最大の宣告が開示したこの大業の心髄を全く理解できす、会得しえなかったのだから。以上、われは、汝を鼓吹し、ひとの雑言に捕われないようにするものを汝の心に届けた。

汝の主、神への愛によって語る汝の言葉に耳傾け、神の大業を堅持する者らの上に、そして汝の上に、神の栄光があらんことを。諸々の世界の主、神に賛美あれ。



[1] ムハンマド・ホセイン、シラズの初期の信徒の一人、バハオラからVafa(忠誠)という姓を与えられた。

[2] 最大名

[3] モラ・ホセイン

[4] 金の仔牛の製作者。コーラン20:87-98参照