世界の宗教的指導者へ(2002年)

万国正義院
バハイ世界センター

2002年4月

世界中の宗教的指導者の皆様たちへ

20世紀の大いなるが後世に伝える遺産とは、世界中の人々が自らを同じ人類の一員構成員と見なし、地球を人類共通の祖国として認識しはじめたことでするようにさせたことであります。紛争と暴力の暗雲はが、未だに地平線上に立ちこめてはいます。しかし、るものの、人類に本質的に備わっているとかつては思われていた多くの偏見は、現在至る所で崩壊しています崩されつつあります。同時に、長い間、人類家族をばらばらな様々な文化的・民族的・国家的な理由でアイデンテイテイーで分裂させてきた障害物も崩壊しています。20世紀はこれほどの短期間——それは、歴史全体という視点から見れば、一夜にしてと言っても過言ではありませんが、——に、それほど短期間の間に、これほどの根本的変化が起こり得たるということは、未来に託された可能性がいかに大きいかを如実に示唆するものです。

そもそも、組織化された宗教がの存在する理由は、の所以は同胞愛と平和という大義を推し進めることです。に奉仕することにこそあるのです。しかし、残念なことに悲しいことに、まさにその宗教が、同胞愛と平和の実現道をを阻む、最大の最も手ごわい障害物のひとつとなっているのですということがあまりにもしばしばあります。。その痛ましい例のひとつとしてが、宗教は長い間、狂信的であることを正当化してきたということです。私たちは一つひとつの世界宗教の執行機関[1]として、この問題が宗教指導者たちに課されたこの提示する課題について真剣に真剣に審議するようするよう強く促すく促す責責任任を感じます。そして、この問題と、およびそれがもたらす状況に鑑(かんが)み、率直に発言せざるを得ないと考えます。私たちは善意の精神をも持ってこの提言をいたします。が、このメッセージを受け取られた皆様におかれましても、同じく神聖なるものに仕えているという立場から、というお互いの立場により、同様の善意の精神をもってこれらの提言を受け入れていただけると確信するものでしております。

宗教の抱えるこの課題は、他の分野で人類が達成してきされたことを考えるとき、より一層はっきりと見えてきます。たとえば、過去の時代を通じて、極めて稀な例外を除いてき、女性は劣った存在と見なされ、女性の本質について関してはたくさんの迷信があり存在しました。また、女性には人間の精神が有するが有する潜在能力を表現する機会を奪われが否定され、男性のニーズを満たすために仕える存在として見下されて役回りに格下げされいました。明らかに、そのような状態が未だに存続し、それが狂信的に支持されている社会が数多くあります。しかし、グローバルな議論の段階では、男女平等の原則概念は、事実上、いまや普遍的なものとしてに受け入れられていますた原則となっています。この概念は、また、学問やメディアの世界の大半で同じように確立したものとなっていますような権威を誇っています。この意識変革はあまりにも決定的であったため、男性優位主義の提唱者は今や、良識ある世論には受け入れられなくなっていますの外に支持を求めなくてはならないほどです。

ナショナリズムも同じく苦境に立たされ、つ軍勢さながらに、同じような運命を辿ってに遭遇しています。世界情勢の危機が訪れ、過ぎ去るごとに、人々は今まで以上ににとって、生活を豊かにする健全な愛国心と、他他者へのの人々への憎悪とや恐怖を誘発するようなレトリック意図されたレトリック(話術)とを区別することがますます容易にできるようになってきました。過去の時代、人々は確信と熱意をもって国家主義的な行事の儀式や祭典に参加してきました。しかし。しかし今や、大衆は、慣れ親しんだこれらの行事儀式に参加することもが、たとえ都合のよいこと行動ではあっても、多くの場合、大衆は多くの場合、それに気後れを感じてさえいます。この傾向は、国際秩序の中に着実に起きている着実な再構成によって強化されています。現在の国際連合の短所が何であれ、また武力に対する集団的軍事行動の能力にどれだけの障害があろうとも、盲目的崇拝の対象として拝まれてきたの絶対的な国家主権が滅亡に向かって進んでいるということは誰も疑いを持ちません。

同様に、人種的・民族的偏見も持ちこたえられないでいま運命にありますす。歴史的過程の進行は最早もはや、このような偽りを容認できず、それによって、人種的・民族的偏見はナショナリズムと同様、冷たくあしらわれています。ここには特に過去に対する断固とした拒否が見られます。人種差別は20世紀に繰り広げられた惨劇と関連づけられ、病める精神と見なされるまでになりました。確かに人種差別は世界の多くの地域でいまだに社会的習慣として存続しており、多くの人々の生活を蝕み続けています。しかし、人種差別は原則として広く非難され、誰であれ人種差別を平然と唱えることはできなくなっています。

とは言え、暗い過去が抹消され、光に満ちた新しい世界が突然生まれ出たわけではありません。膨大な数の人々が、いまだに民族・性別・国籍・社会的地位・階級を理由にした根強い偏見の影響を受け続けています。人類が築きつつある機構や基準が人間関係にの新しい秩序をもたらし、抑圧されている人々を救済できるほどになるにはゆっくりしたプロセスが必要です。したがって、このような不正は今後も長く続くでしょうあろうということは否めません。むしろ、ここでの要点は、人類がもはや後戻りすることのできない地点を通過したということです。根本原則はすでに確認され、明確にされ、広められく知られています。そして、これらの原則は、それを社会の行動に適用する権限を有する機関によって徐々に具現化されています。この闘争がいかに長引き、苦痛を伴うものであろうとも、最終的には、あらゆる民族間の関係を草の根レベルで画期的に変えていくことでしょう。

20世紀を迎え、他のいかなる偏見よりもいち早く変化の勢力に屈すると思われたのは宗教的偏見でした。すでに西洋では、科学的進歩によって宗派的な排他主義の中心的支柱のいくつかが危うくなっていました。人類の自らに対する意識そのものに起こりつつあった変革に関して、最も有望視された新しい宗教的な発展は、宗教間の交流活動[2]でした。1893年に開催されたコロンビア万国博覧会は、かの有名な「世界宗教議会」[3]を産み出しすことで、その意欲的な主催者をも驚かせました。世界宗教議会は精神的・道徳的な合意を目差していました。、各大陸で大衆の注目の的となり、科学技術や商業における驚異的な発展を称えるの称揚という、博覧会が目指した目的を凌ぐほどの関心を集めました。

つかの間ですが、昔からあった壁が崩れたかのように見えました。この集まりは宗教の分野で有力な思想家たちにとって「世界史において前例のない」、ユニークなものでした。この会の開催にあたって中心的役割を果たした著名な人物は、この議会について「世界を頑迷から解放した」と述べました。人々は、創意に富んだ指導者たちがこの機会を捕え捕え、長い間対立してきた宗教間に同胞愛の精神を目覚めさせ、この精神が、繁栄と進歩に満ちた新しい世界の必要とする倫理的基盤を提供するであろうと自信をもって予測しました。このような支持のもとに、あらゆる種類の宗教間交流活動は根を張り、栄えました。数々の言語による膨大な文献を通して、あらゆる主要な宗教の教えが、信じる者と信じない者を問わず、世界中の人々に広く紹介されました。宗教に対するこの関心は徐々に、ラジオやテレビ、映画、そしてインターネットによっても取り上げられるようになりました。各地の高等教育機関では比較宗教学の学位を授与するプログラムが開設されました。そして、20世紀末までには、その20、30年前には考えられもしなかった宗教間の共同礼拝などが頻繁に行われるようになりました。

しかし、悲しいかな、これらの動きには論理的一貫性と精神的コミットメントが欠けているのも明らかです。統合のプロセスは、人類のあらゆる社会構造を変革させています。対照的に、世界の大宗教がその性質と起源において同等であるという概念は、頑固な凝り固まった宗派主義的思想によって頑固に拒絶されつづけています。人種間融和の進歩は単なる感傷的な考えや戦略によるものではありません。なく、むしろ、それを支えているのは、地球上のすべての人間がひとつの人類を構成するものでありり、、人種の多様性はそれ自体、誰かを有利な立場に立たせるものでも、あるいは劣勢に立たせるものでもないという認識です。同様に、女性解放は、男男性性と同等の権利を女性に与えないということ、あるいは、男子と同等の教育の機会を女子から奪うということを正当化する根拠はが、生物学的にも、社会的にも、道徳的にも存在しません。これないということを社会の機構や世論が認識したことによって、女性解放は前進しました。同じくこのことに関連して、発展する地球文明建設へのを築くことに対するある国々の貢献を評価するにあたり、ある国は大きな貢献をし、ことは、他の国は々がこれにほとんど、あるいはまったくしてないと主張するような貢献できないという、以前から受け継がれてきた幻想を支持するものでは決してありません。

宗教指導者たちは、多くの場合、これほど抜本的な方向転換に取り組むことができないように見えます。宗教他の以外社会の分野ではでは、人類の一体性はということを文明の発展における必然的な次の段階として受け入れているだけでなく、人類史におけるこのこの決定的な瞬間において、その他これまで人々が携えてきたあらゆる種類の小異の、比較的重要でないアイデンティティーを融合し完成させるものとして待望さに立場を与えるものとして受け入れているのですます。しかし、組織宗教の大部分は、未来への入り口に立った今て麻痺状態に陥り、人類を分裂させたる最も悲惨な争いのいくつかを引き起こしてきた教義、あるいは自分たちだけが真理を知ることができるに達する手立てを持っているとという主張することに囚われとらわれて、いるのです麻痺状態に陥っています。。

人類の福利の観点からすると、宗教ののこのような状況は破滅的な結果をもたらしました。宗教の名を辱めるような狂信がの噴出しが、今日、いかに多くの不運な人々が不運な状況にあり、を恐怖に追いやられて陥れているか、詳しく述べる必要もはありません。また、この現象は決して最近に限ったものではありません。数ある例の一つひとつをあげるととして、16世紀のヨーロッパにおける宗教戦争は、が同大陸の全人口のうち、約3割の命を奪いましたったということがあげられます。宗派主義的な教義に基づく盲目的な勢力は、そのような争いを引き起こした宗派主義的な教義による盲目的勢力、が人々の意識に種を植え付けました。しかし、た種は、それは一体、長期的には、どのような長期的な収穫をもたらしたというのでしょうか、それについて想いを巡らさずにはおれません。

この説明に含むまれるべき要素がもう一つひとつあります。それは宗教が知性に背を向けたということです。、これは、世界を動かすうえで決定的な役割を果たすという、本来、宗教に備わった能力を宗教から奪った最大の要因です。宗教機構は人間の活力を低下させ、その効力を奪うような活動行事に没頭し、そのためしばしばそれが、真理の探求や、人間を特徴づける知的な機能の行使を阻む主な要因になってしまうということが多々ありまいました。物質主義やテロリズムを弾劾する前に、まず、それに引き込まれていく人々がなぜ、これほど無防備にこれらの現象に影響されるかについて、その責任の所在とに率直に向き合わなければなりません。さもなくば、、現代の道徳的危機への対応としての役には立ちません。

このような反省がいかに苦痛であろうとも、それは宗教への非難ではありません。と言うよりは、むしろ、宗教が有する独特の力を思い起こさせるものです。周知のとおりように、宗教は動機づけの根本に関するものです及ぶものです。宗教が世界の偉大な信仰体系を樹立した、世俗超脱的なの『人物たち』の精神と模範に忠実であった時は、宗教は、許し、愛し、許し、創造し、勇敢に挑み、偏見を克服し、共通の善のために犠牲となり、動物的本能の衝動を規制する能力を信者の全員に呼び起こしました。人類人間の文明化を推し進める最大の力は、疑いもなく、有史の夜明けまで遡って継続して現れる「神聖なるもの」を顕示する者たちがのもたらす影響力です。

過去の時代に非常な影響力を及ぼしたこの力は、人間の意識にあるがもつ、消し去ることのできない徴しるしです。この力は、最も過酷な状況下で、また、誰からの援助実質的な支援がもほとんど得られない状態下で、何億もの人々の生存のための奮闘を支えつづけ、各地で英雄や聖人を生み出し続けています。彼らの人生は、各宗教の聖典に収められている原則を立証するものとして最も説得力あるものです。文明の辿った道が実証するように、宗教はまた、人間関係の構造にも深い影響を及ぼしてもいますすこともできます。実際、文明の実質的進歩において、でここの永続する源から道徳的推進力を得ていない例を思いつくことは困難なほどです。それでは、何千年にもわたる地球の組織化において、の過程における完成段階へ至るまでの過程がの移行が、精神的な真空状態の中で達成できると考えられるでしょうか?今過ぎた終わったばかりの20二十世紀の間に世界に放たれた放たれた、誤ったイデオロギーに何らかの貢献があったとすれば、それは、ここで人類が必要とするされるものは人間が考え出した代案では満たされないということを決定的に実証したということでしょう。

これらが今日に暗示するものは、100年以上前に書かれ、その後広く伝えられてきたバハオラの次の言葉に簡潔に述べられています。

世界の諸民族は、その人種や宗教の背景が何であろうとも、同じ天上の「源」から霊感を受け、唯一の神の民であるということには疑いの余地がない。彼らが従う掟の相違は、それらが啓示された時代の様々な必要条件や状況事態によるものと見なされるべきである。人々の頑迷により生じたいくつかのものを除いて、全ての掟は神が定めたものであり、神の意志と目的を反映するものである。立ち上がり、信仰の力で身を固め、汝らの空虚なる想像物という偶像を粉砕しなさいせよ。そして、汝らを互いに引き寄せ、一体化させるものにすがりなさいるがよい。

この訴えかけ求めは、世界の偉大な信仰体系の根本真理に対する信仰を捨てることを要求めするものではありません。いや、なく、それとはかけ離れたものです。信仰には独自の規範必然性があり、正当性があります化の必要がないものです。個人の良心は他者の信仰や信念に左右されるものではなく、もし左右されるのであれば、それぞれのそれは良心とという名に値しませする良心にとって基準となり得るものではありません。先に引用した言葉が訴えていることは、排他性や最終性[4]に関するあらゆる主張を放棄することです。この排他性と最終性の態度は、人間の精神の生命を損ないの回りき、和合への道を閉ざし動きを窒息させ、憎悪と暴力を助長する最大の要因となっているからで排他性や最終性に関するあらゆる主張を放棄するよう、断固として訴えています。

宗教指導者たちは、この歴史的挑戦に立ち上がるべきであると私たちは信じます。それは、20世紀の変革の中から出現しつつあるグローバル社会で、宗教的リーダーシップが有意義な機能を果たすためですに宗教の指導者たちはこの歴史的挑戦に応えるべきであると、私たちは信じます。明らかに、多くの人々は、すべての宗教の基礎を成すなす真理は本質的に同一のものであることに気づいています。これのような認識は、神学論争の決着結果によるものでって生じたのではありません。それはむしろ、人々の経験の範囲がからの常に拡大したことと、人類の一体性を受け入れ始めたこと、このふたつからから生じる、直感的な意識なのによるものです。滅び去った世界から受け継いだ引き継がれた多くの教義、儀式、法典の混乱状態の中から、新しい感覚が出現れてしようとしています。それは、多様な国籍、人種、文化の中に見られる一体性と同様、精神的生活は、分分割断できない一つひとつの真理であり、実態を構成し、誰だれもが平等にそれに達する接近ことができるという意識です。この今だあいまいな、いまだあやふやな見解が確固としたものとなり、平和な世界の建設構築に貢献できるするほどのものとようになるまにでには、今なおこの時期になっても、地上の大衆からが今なおも導きを求められている人々の全面的な承認がを必要とされるのでとします。

確かに、世界の主要な宗教的伝統の間には、社会的戒律掟や礼拝の形態に関して大きな差異があり存在します。継続的に出現した『神聖なるもの』の啓示が何千年もの間、常に進歩する文明の必要とすること変化するに応えてきたことを考えれば、このような差異の存在はむしろ当然と言えます。実際、ほとんどの主要な宗教の聖典に見られる内在する特徴のひとつとしては、宗教は進化するという性質が、を何らかの形で何らかの形で表現されてしていますることです。元来、精神的な経験を豊かにすることを目的とされていたした文化的遺産を操り、それを偏見や疎外感を助長呼び起こすする道具として悪用することは、道徳上、決して容認できません。魂にとって最も重要な課題は、常に、真理を探究することし、自身が納得し説得され、受け入れた真理に従って生きること、、そして、同じような努力をする他者他の人に対しても十分な敬意を払うということです。

さて、あらゆる偉大な宗教が同じ神聖なる起源に基づくを有すると認めた場合、それは、ある宗教から他の宗教への改宗を奨励促すするのではないか、あるいはもしくは、助長少なくともそれを容易にするのではないかという異論主張があるかも知れません。この異論主張の正否は別として、この地上の生活での生命を超越する世界を意識している人々に与えられた機会のすばらしさ、そしてこの意識により課された責任の度合いを考慮すれば、とってこの異論主張の意義は、歴史がようやく与えた機会や、また、この意識が課する責任に比べれば確かに末梢的なものです。すべての偉大な宗教にはがそれぞれに、道徳的人格を育むことにおける有効性を示すすばらしい、立派で、信じるに足りる証拠をあげることが列挙できます。同様に、いかなる人も、ある信教のに付随する教義はが他の信教のそれにに比べてより多くの較してより多くの、あるいはより少ない頑迷差別や迷信を生み出だしたという納得のいゆく議論をすることもはできません。統合に向かうって進む世界では、対応や関連のパターンが常に変化すを続けるというこことは当然ですしょう。むしろ、これらの変化展開をいかに、和合を推進するような方法でいかに管理し、和合の推進に資するかが、は社会のあらゆる機構に課せられた役割なのでであると言うことは確かです。その究極の結果が精神的、道徳的、社会的に健全なものになるかどうかはという保証は、意見を求められない地上の大衆[5]の永続する信念の中にあります。その信念とは、この宇宙がは、人間の気まぐれではなく、愛に満ち、決して裏切ることのない神の摂理により支配されているという信念ものです。

われわれは今、人類を隔てていた障壁の崩壊と平行して、もうひとつ壁が崩壊し、ある消滅するのを目のあたりにしていますを目撃しています。それは、かつては、天国での生活と地上での生活はを永遠に分離されたものであるとするであろうと信じられていた、克服しがたい壁のこと消滅です。あらゆる宗教の聖典は常に、信者たちに対し、他者への奉仕を道義的な義務としてだけでなく、自分の魂を神に近づける道として見なするよう、信者達に説いてきました。今日、社会の段階的再構成が進むことにより、む今日、このよく知られた教えには新たな意味合いが明らかにされました含まれるようになりました。世界は正義の原則によって支配されるという、太古からよりの約束が現実的な目標となるにつれて、魂の要求を満たすことと、と社会の要求を共に満たすことは、ますます、成熟した精神的生活を相互に補足しあう局面であるとにおいて両立させなければならない要素と見なされるようになるでしょう。

宗教の指導者たちがこの視点の示す挑戦に応えるのであれば、まず確認しておかなければならない点があります。つまり、宗教と科学は共に欠くことのできない知識体系であり、人間の意識は双方を通じてその潜在能力を発揮することができるということです。宗教と科学は対立するどころか、むしろ、人間の知性を通してが真理を探究するための根本的な形態を提供し、ための根本方法を提供するものであり、両者は相互依存する関係にあります。そして、両者がの相互に補足し合う補完的性質性格が認識され、両者の間に協力関係ができていた確立されていた時、宗教と科学は最も生産的でした。ただ、そのような幸福な時期は、歴史には稀でした。科学の進歩によって得られた洞察発見とや技術は、を正しく応用活用するためにはことを保証するためには、科学は常に精神的・道徳倫理的なコミットメントに導きが必要ですきを求めなければならないでしょう。一方、宗教的な信念もは、それがいかに尊ばれるものであれっても、進んで、また感謝の念を持ち、って進んで、科学的方法による公平な評価を受けなければなりません。

最後にやや慎重に取り扱うべき取り上げたい課題を取り上げます。これは、は良心に直接関係するものです、したがっていくらか慎重なアプローチが求められます。この世のさまざまな誘惑の中で、宗教的の指導者たちを最もを悩ませた試練は——、驚くこともないでしょうが——、信仰に関するして権力を行使のするという問題です。なんらかの偉大な宗教の聖典を真剣に研究し、熟考するそれについて瞑想することに年月を費やした人であれば、しばしば繰り返される公理格言を今さら思い起こすさせられる必要もはないでしょう。つまりその格言とは、権力は腐敗をもたらす可能性があり、権力が拡大するにつれてその可能性も増幅するというものものです。あらゆる時代に、この課題に直面し、それに権力の誘惑に打ち克った勝利したあらゆる時代の無数の僧侶たちの名もなき勝利は、疑いもなく、組織宗教の持つ創造的な力の主要な源泉源のひとつです。あり、また、宗教の最高の業績のひとつに数えられるべきものです。同様に、世俗的の権力と利益の誘惑に屈した他の宗教的指導者たちの行為は、それを目にする人々の間の冷笑、腐敗、失望を引き起こしてきたことも事実です。この点に関して、このことが歴史のこの時点において、宗教的指導者たちが果たすべきが社会的責任を果たす能力にどのようなという課題にどのような意味合いがあるかについてはをもつか、改めて述べる必要もありません。

宗教は人格を高め、人間関係を調和させることに関与してきたため、人生にの意味づけをすることに関してはで、いつの時代もを通して究極の権限を持ってきました。全ての時代において、宗教は善を培い、悪を戒めてきました。また、目を向ける用意のあるすべての人に対し、いまだ実現されていない可能性がいかなるものか、そのを含んだビジョンを提供してきました。理知的知性を有する魂は、この世界が課す負わす限界を克服するため、また自己実現をするのため、宗教の助言からの励ましを得てきました宗教に求めてきました。同時に、”religion”[6]RELIGIONという言葉名が暗示するように、宗教は多様な人々を、より拡大し大きく、、より複雑化したな社会の中で和合させるための主な力でした。また、こうして発揮された個人各人の能力可能性に表現の機会を与えてきました。この時代の大きな利点は、全人類がこの文明化のプロセスをひとつの現象として見ることができることです。、その現象は、われわれ人間の世界と、神の世界が繰り返しとの遭遇すは繰り返されるるという現象です。ことを見ることができるということです。

このような視点に刺激を受け、バハイ共同体はこの視点に霊感を受けて、宗教間活動が始まって以来、絶えずその熱心な促進促進者であり続けました。これらの活動によってもたらされる創造される貴重な絆に加えての他に、バハイは、多様な諸宗教同士が互いに接近づこうし合おうと努力奮闘すること自体、「神の意志」に対する返答であると考えます。その意志とは、成熟成熟の段階に入りつつある人類に対する神の意志です「神の意思」に対応する人類の反応を見ます。私たちバハイの共同体のメンバーは、今後もできる限りの援助を続けます。しかし、私たちはこの共通の活動努力で共に努力するにおける協同者皆様に対し、われわれの固く信ずる次のような事ことを明確に述べておく責任があると感じます。つまり、宗教間の対話が、絶望的にな満ちた人類を苦しめる諸々の疾病を癒すことに意義うえで意味ある貢献をするためには、この運動をもたらした根本的真理が元来の意味するところを合いについて、率直に、これ以上避けることなく、率直に語らなくてはなりませんらないということです。それは、神はひとつであるということ、そして、また、宗教もあらゆる文化的表現や人間的解釈の多様性を超えて、ひとつであるという真理です。

宗教的偏見の炎が世界的な大火を引き起こす危険性は日ごとに、ますます強くなっています。その大火のもたらす結果は、誰にも想像できません。各国政府の力だけでは、この危険を克服することもはできません。また、お互いに双方に寛容であろうとを呼びかけるだけで、敵対心を消し去れるという妄想を抱いてもなりません。それは、自分達は神の承認を受けているという神聖なるものによって正当化されていると主張する者同士の敵対心です。感を消し去ることができるという幻想を抱いてもなりません。この危機は、宗教的指導者たちに、過去との決別を要求しています。それは、人種・性別・国籍といったような、等しく有害な偏見をなくそうとに社会が対応できるよう心道を開いた時に示したと決別と同様のに、確固過去とのとした決別が求められるのです。良心の事柄に関しておいて、他者他人に影響力を行使することをすることの正当化できるのは性は、人類の安寧福利に奉仕仕えるすることにおいてのみ、見出せるのです。文明の歴史における、この最大の転換期において、このような奉仕が求められているということは、これ以上極めて明白ではありえませんす。バハオラは、こう促しています——「人類の安寧と平和と安全は、人類の和合がしっかりと確立されない限り、達成し得ない」。

万国正義院

________________________________________

[1] バハイ信教(The Baha’i Faith)の国際行政機関である万国正義院(The Universal House of Justice)はイスラエルのハイファに本部がある。

[2] interfaith movement

[3] Parliament of Religions

[4] 排他性は、自分の宗教のみが真実であり,他の宗教はそうでないと否定すること。最終性とは,自分の宗教が神による最後にして完全な啓示であるとすること。

[5] 宗教的指導者を含め、社会的主導者達は、これまで大衆の意見を求め、協議するという態度に欠けていた。

[6] religionは由来がラテン語で, re(再び、戻す)とligo(結びつける、和合させる)の合成語である。