日本にバハイを伝えた人
初期の日本人バハイ
昭和天皇への宣布
アブドル・バハ、荒川子爵と会見
アブドル・バハ、日本女子大学長成瀬氏と会見
日本でのバハイ共同体の発展
日本にバハイを伝えた人
1903年、アブドル・バハは米国のバハイに、日本に旅行してバハオラの教えをひろめるように奨励した。それに応えて、1909年、ふたりの米国バハイが日本を訪れ、東京神田の東京青年会館で講演を行った。そのとき、外国人もふくめて75名が出席した。
それ以来、この建物で多くのバハイの会合が開かれた。1923年の関東大震災で破壊したが、再建後もつづけてバハイの会合場所となった。 そのころ、数人のバハイが日本を訪れたり、短期滞在をしたりしたが、そのなかで日本にもっとも深い影響をあたえたのはアグネス・アレキザンダーであった。彼女は1914年に来日し、1967年日本を離れるまで、通算31年間を日本ですごし、バハイの発展に貢献した。
アレキザンダーは1875年にハワイのある裕福な家庭に生まれた。彼女の祖父はハワイにきた最初のキリスト教の宣教師のひとりであった。彼女自身も、 1900年にバハオラの教えを受け入れてバハイになるまでは、敬けんなキリスト教徒であった。
彼女は、そのころすでに日本に興味をもっていた。1900年のはじめのころ、ホノルルで津田梅子(津田塾大学の創設者)の講義に出席して以来、遠い日本を訪れてみたいと思うようになった。
そして、1914年、彼女はアブドル・バハに励まされて日本に向かった。そのころ、東京にはオーガーという米国人バハイがすでに来日していた。アレキザンダーとオーガーは協力して会合を開きはじめた。このふたりの尽力によって大きな影響をおよぼすことになる。
そのころバハイの会合に出席したのは、当時著名な執筆家であった秋田雨雀、後に最初の女性国会議員のひとりとなった神近市子、早稲田大学やほかの大学の学生などであった。
初期の日本人バハイ
そのなかで、最初にバハイになった人は福田菊太郎である。当時十八歳であったかれは、アレキサンダー女史の話を聞いて、即座にそれは真実であると感じた。そして、日本国内に住んでいる日本人のなかで最初にバハオラを受け入れた人となった。
日本人としてバハイになった最初の三人は米国への移住者であった。最初のバハイは山口県出身の山本寛一で、1902年ハワイでバハオラを受け入れた。かれの子孫は現在もアメリカでバハイとして活動している。 二番目にバハイになったのは藤田左弌郎で、1905年カリフォルニアに滞在していたときであった。かれは、1976年にこの世を去るまで、イスラエルのバハイ世界センターで働いた。
三番目のバハイは鳥飼建蔵で、1910年ころワシントン州でバハオラを受け入れた。かれは「世界新文明」と題した最初の日本語のパンフレットを書き、それは日本中にひろめられた。
女性で最初にバハイになった人は、望月百合子である。彼女は後に、フランスに留学し、最初の女性ジャーナリストのひとりとなって名が知られるようになった人である。彼女はアレキザンダーと共に「東の星」というバハイの刊行物を発行しはじめた。
また、盲人学校の生徒であった鳥居篤治郎も1915年ころバハイとなった。かれは後に、盲人会の会長となり、盲人への奉仕に対して、国民として最高の栄誉である勲三等瑞宝章を授けられた。かれはバハイのためにも大いに奉仕し、多くのバハイ書をブライユ点字に直した。
昭和天皇への宣布
ショーギ・エフェンディは、昭和天皇に書簡と電報をそれぞれ一通送った。この二回の通信が可能であったのは、増島緑一郎博士のおかげであった。 増島博士は著名な国際法律家であり、中央大学の創設者でもあった。かれはバハイの友人で、バハイのためにいろいろな面で援助を与えた人である。 昭和天皇への書簡には、つぎのようなことが書かれていた。 「このバハイの文献を熟読されることにより、陛下がバハオラの啓示の荘厳さと貫通力とを理解され、その世界的な認識と勝利のために、このめでたい機会に立ち上がられますように……」
この手紙はアメリカ人のバハイから送られた七冊のバハイの本と共に、 1929年増島博士により天皇陛下に献上された。増島博士は「バハイの文献は今や陛下の図書室の一部となっている」ことを伝えた。
そのころ、マーサ・ルートというアメリカ人のジャーナリストで、バハイの宣布のため、世界中を回っていた人がいた。彼女は、ルーマニアのマリー女王にバハオラの教えを伝えた人である。彼女ははヴィクトリア女王の孫娘で、バハイとなった最初の女王である。
1930年、マーサ・ルートは来日し、ショーギ・エフェンディからのメッセージと記念品を天皇陛下に献上するために会見を申し込んだ。宮内省は会見に対しては許可を与えなかったが、記念品とメッセージは受け取った。そのメッセージ(電報)はつぎの通りである。
「東京アメリカ大使館気付マーサ・ルート殿。わたし自身と世界中のバハイに代わって、天皇陛下のご幸福およびその古来からの領土の繁栄を心からお祈りしていること、そしてわたしからの深い敬愛を伝えてください」 日本は、第二次大戦の荒廃から回復して、ショーギ・エフェンディの祈り通りの繁栄が訪れてきただけでなく、天皇も在位期間が歴代の天皇のなかで、最長のものとなった。
アブドル・バハ、荒川子爵と会見
1912年、スペイン駐在の日本大使であった荒川子爵夫妻はパリのホテルに滞在中、アブドル・バハもパリに滞在していることを知った。夫人は、ぜひアブドル・バハに会う名誉にあづかりたいと切望した。「とても悲しいことですが、かぜがひどく、今晩は外出できません。それに朝早くスペインに発つことになっています。でもなんとかその方に会うことはできないでしょうか」と、夫人は願いを述べた。 この願いは、一日中長時間の活動で疲れ切ってもどってきたアブドル・バハに伝えられた。
「夫人がわたしのところに来られないならば、わたしの方から訪ねると、ご夫妻に伝えなさい」
こうして、アブドル・バハは、遅い時間に、寒さと雨のなかをわざわざ荒川夫妻に会うためにホテルに出かけて行った。そしてにこやかにしかも丁重に夫妻に応待した。
アブドル・バハは荒川夫妻に、日本の状態、その国の国際的な重要性、人類への大なる奉仕、戦争廃止のための努力、労働者の生活条件の改善、男女共に教育の機会を与える重要性などについて語った。 かれはまた、宗教の理想は、「人類に福祉をもたらす源泉であること」、「宗教はけっして党派的政治の道具に用いられてはならないこと」、「神の政策は強大であり人間の政策は微弱であること」を述べた。 さらに、宗教と科学は人間という鳥が飛び上がるための、ふたつの翼のようなものであることを説明し、つぎのようなおどろくべき予言をした。「科学的発見は物質的文明を増進させてきた。幸いに、いまだに人間より発見されていないが、恐るべき威力をもったものが存在している。精神文明が人間の心を支配するまでは、この威力あるものが科学によって発見されないように、敬愛する神に嘆願しよう。低俗な性格をもつ人間の手に入れば、この力は全地球を破壊するであろう」
このように、アブドル・バハは恐るべき威力をもったもの、すなわち原爆が、日本に投下される34年も前に、そのことを日本の指導者に語っていたのである。 アブドル・バハは、さらに1920年、日本のバハイに宛てて、つぎのようにも述べていた。
「日本においては、神の宣言は恐るべき爆発のように聞こえるであろう。そのため、用意のできた者たちは真理の太陽の光で高揚され、照らされるであろう」
アブドル・バハ、日本女子大学長成瀬氏と会見
1912年、著名な銀行家であった渋沢子爵は、日本で最初の女子大学の創立者成瀬仁蔵学長と東京大学の姉崎政春博士と共に、「コンコーディア」という運動の中核を作った。その目的は、あらゆる国民が和合し得る共通の基盤を探すことであった。
成瀬学長は、その運動のため世界一周の旅についた。かれは著名帳をたずさえ、訪問先の異なった国ぐにの著名人より善意のことばを集めた。帰国後、それは日本語に訳され、出版された。
1912年、成瀬学長はロンドン滞在中のアブドル・バハを訪れ、オリエンタル・レビューに掲載された日本でのコンコーディア運動についての記事を見せた。 アブドル・バハは、バハイの大業の原則について語り、それらの原則を実行するために、いかにわれわれが神の力を必要としているかを語った。そして、「ちょうど太陽が太陽系におけるすべての光の源であるように、今日ではバハオラが人類の和合と世界平和の中心である」と述べた。 かれは美しい祈りのことばをその著名帳に書き込み、日本に帰って、これらの崇高な理想をひろめるように熱心に懇請した。つぎに示すその祈りは現在、日本女子大学の成瀬氏の資料保管所に保管されている。「おお神よ!宗教間、国家間、および人びとの間の論争、不和、戦争の暗黒は真実の地平線を曇らせ、真理の天をおおいかくした。それゆえ、おお神よ、実在の太陽が東西両洋を照らすよう恩恵を授けたまえ」
日本でのバハイ共同体の発展
1914年、アレキサンダーの来日以来、バハオラの教えは神戸、京都、北海道と各地にひろがっていった。同時に韓国と中国にも伝えられた。そして1932年、日本で最初の地方行政会が東京に設立された。 アレキサンダーは1937年長年待ちのぞんできたイスラエルの世界センターを訪れるために日本を発った。しかし、世界情勢の悪化のため、彼女は日本にもどることができなくなった。
日本でも政治情勢が悪化し、国は軍国主義者に支配され、第二次世界大戦へと突入していった。小規模で、散在していたバハイ共同体はお互いに会うことすらできなくなった。活動は停止され、終戦まで待たなければならなかった。 アレキサンダーが聖地イスラエルでショーギ・エフェンディに会ったとき、かれはこう述べている。
「日本のごく近い将来は暗いものであり、日本は苦しむであろう。今は大きく前進するときではない。太平洋は近づいている戦争で大嵐の中心となり、はげしい苦難が訪れるであろう」
日本は派兵し、征服され、敗北した。それも二度にわたって原爆の惨事を経験しなければならなかった。戦後、ふたたびアメリカ人のバハイが来日してバハイ共同体も活気づき、1948年戦後はじめての地方行政会が東京に設立された。そして、アレキサンダーも1950年ふたたび日本にもどることができた。 その後、日本のバハイ共同体は徐々にそのメンバーが増え、1974年に日本全国行政会が設立され、バハイの活動もより充実したものとなってきている。 1997年現在、バハイは全国200ヵ所に居住し、全国行政会の指導のもとで、さまざまな活動に従事している。