万国正義院

201731

 

世界中のバハイへ

 

親愛なる友ら

 

1. 相互のつながりが一層進んだ世界では、あらゆる人々の社会的状況がよりはっきりと映し出され、彼らの境遇をもっとよく見ることができます。希望をもたらす発展がある一方で、人類の良心に重くのしかかるものも多々あります。不平等、差別、搾取が人類の生活を荒廃させ、どのような政治体制が適用する治療にも反応を示さないようです。それらの苦悩の経済的な影響は、社会に深刻な、構造的な欠陥をもたらし、多くの人に長期的な苦しみをもたらしました。祝福された美の教えに心を惹かれた者は、このような影響に対して平気ではいられません。バハオラは『ローへ・ドニヤ』で、「世界は大いに混乱しており、」「その人々の心は全くの混乱状態にある。われは、神がその正義の栄光で恵み深く彼らを照らし給い、彼らが常に、いかなる条件下においても自分たちを利するものを発見させ給うよう、全能者に懇願する。」と述べておられます。バハイ共同体が思考と行動のレベルで世界の改善のために貢献すべく励むなかで、大勢の住民が経験する不利な状況は、ますますその注目を必要とします。

 

2. あらゆる類の人々の福利は全体の福利に密着しています。特定の一団体が自分たちの福利を周辺の人々の生活と切り離して考える、あるいは全員に生計手段を供給する自然環境の影響がいかなるものかを考慮することなしに経済的収益を追求するとき、人類の集団としての生活は損なわれます。そして、頑固な障害は有意義な社会的発展の道に立ちふさがります;往々にして、共通の福利の犠牲のもとに強欲や私欲がはびこります。法外な量の富が蓄積され、それがつくり出す不安定は、収入や機会が国民の間と国家間にどれほど不均等に広げられるかによってさらに悪化させられます。しかし、そうである必要はありません。そのような条件がどれほど歴史的な成果であったとしても、それが将来を定義つける必要はないのです。たとえ現在の経済生活へのアプローチが人類の青年期の段階を充足させたとしても、成熟期を迎えるには不十分というのは確かです。万人の利益を推進することに明らかに失敗している構造や、ルール、システムを永存させる正当な理由はありません。豊かさと資源の創出、流通、利用には本質的な道徳的側面があるという信教の教えに疑いの余地はありません。

 

3. 分裂した世界から融和した世界への変転における長期的なプロセスからくる圧力は、大小の社会に影響を及ぼす深まり行く分断と同様に、国際関係にも感じられます。普及している考え方は十分ではないと判明したため、世界は、嵐をもたらす雲のように集積する危機に対処する確実な枠組みたる共通の倫理観を絶対的に必要としています。バハオラのビジョンは、現代の対話を形つくっている多くの前提に異議を唱えます。たとえば、私欲は抑制される必要はなく、むしろそれが繁栄を駆り立てるという前提、発展は絶え間ない競争をとおして表現されるという前提です。個人の価値を、主に、人が幾ら財産を蓄積し、他の者に比べてどれだけたくさんの物を消費できるかということで図ることは、バハイの考えとは完全に異なります。しかし、バハイの教えは、富を本質的に不快なもの、または不道徳なものとする包括的な否定的捉え方に共感はしないし、禁欲主義は禁じられています。富は人類に貢献しなければなりません。その使用は精神的な原則に合致しなければならず、システムはそれに照らして創られるべきです。バハオラの記憶に残る言葉のなかにこうあります: 「正義の光に比較しうる光はない。世界秩序の確立と国家の平穏はこれに依存している。」

 

4. バハオラは彼の啓示に詳細な経済システムを設定されてはいませんが、彼の教えの全文献の全体を流れる一定のテーマは人類社会の再編成です。このテーマについての考察は必然的に経済という問題を引き起こします。当然、バハオラの構想された将来の秩序は現世代の想像を超越しています。とは言え、その最終的な出現は、彼の従者たちが、今、彼の教えの実施に費やす精力的な努力にかかっています。このことを念頭に、私たちは以下のコメントが友らの思慮深い、継続的なリフレクションを鼓舞することを願っています。その目的は、社会の物質的な問題にどのように参加するかを学ぶことです。つまり、実践的に、いかにして聖なる指針と一致した方法で参加し、どのように正義と寛大さ、協働と互助を通して、集団的繁栄を促進することができるかについて学ぶことです。

 

5. 経済生活に対するバハオラの啓示の含意を探究するという呼びかけは、バハイの機構と共同体へ向けたものではありますが、特に個々の信者へ向けられています。教えに基づいた新しい共同体生活のモデルが出現するならば、忠実な人々の一団は自分たちの生活に、その最も際立った特徴たる行動の清廉さを表すべきではないでしょうか。バハイは自分が従業員や雇主、生産者や消費者、借り手や貸し手、付与者や受給者など、どの立場にあろうと、その選択はすべて足跡を残すのです。そして、一貫性のある人生を導く道徳的義務は、その人の経済的な決定が高尚な理想と一致し、その目的の純粋さはそれらの目的を達成するための行動の純粋さに適っていることが求められます。もちろん、友らは目指すべき基準を設定するため常に教えに目を向けます。しかし、共同体の社会的関わりの深まりは、社会生活の経済的な側面にもっと注目しなければならないことを意味します。共同体建設のプロセスが大勢の人たちを包み込みはじめているクラスターでは特に、バハイの書に示されている訓戒により、家族、隣人、国民の経済的な関係がもっと啓発されるべきです。各地の友らは彼らを取り囲む既存の秩序に流れる価値観で満足することなく、彼らの生活に教えを適用することを考え、各自の状況が与える機会を使い、個人、また集団として自らの経済的公正や居住地の社会的発展に貢献すべきです。そのような努力はこれに関する知識が蓄積される貯蔵庫に加わるでしょう。

 

6.この文脈で探究する基本的な概念は人間の精神的実体です。すべての人に内在する高貴さはバハオラの啓示に明確に証言されています;それはバハイの基本的な信条で、人類の未来に対する希望はこの上に建てられるのです。憐れみ深き御方、贈与者、恩寵深き御方なる神の御名や属性のすべてを顕わす魂の能力は、聖なる書で繰り返し断言されています。経済活動は正直、高潔、信頼性、寛大さ、その他の精神的資質を表す領域です。個人は、世界の物質的な資源のより多くの分け前を勝ち取るべく奮闘する単なる私利的な経済単位ではありません。バハオラは「人間の価値は奉仕や美徳にあるのであり、物質的財産の華美や富みにあるのではない。」と断言し、さらに「汝の貴重な人生の豊かさを邪悪で堕落した虚飾の追求に浪費することなく、また汝の努力を自分の個人的利益促進に費やすことなかれ。」と述べておられます。他者への奉仕に自らを捧げることによって、人は人生の意味と目的を見いだし、社会の興隆に貢献するのです。アブドル・バハはその著名な論文「聖なる文明の秘訣」の冒頭で述べておられます。

 

 そして、個人の栄誉と優れた点は、その個人が世界の大衆の中で社会的な善の源となることからなっている。ある個人が自らの内部に目を向け、神の確証を授ける御恵みによって自分が同胞らの平和と安寧、幸福と利点のもとになっていると知ること、これよりすばらしい恩恵があり得ようか。いや、唯一の真なる神にかけて、それよりすばらしい幸せや、完全なる喜びはないのである。

 

7. この視点からすれば、多くの、表面的にまともな経済活動は人類の福利と繁栄に加えられる潜在的な能力があるので、新しい意味をもちます。師は「他者の重荷になることがないよう、人は皆、職業、商売、工芸を持たねばならない。」と説明しておられます。バハオラは貧者に対し 「懸命に努力し、身を立てるよう努めるべき」と促し、一方、富を有する者らは 「貧者を最大限、思いやらねばならない」と促しておられます。アブドル・バハは「富は、もしそれが商業、農業、芸術と工業における個人の努力と神の恩寵で得られ、博愛的目的で使われるなら、最高の賞賛に値するものである。」と断言されました。同時に、「隠されたる言葉」には、富は信者と彼の崇拝の適切な目的たる御方の間の「強大な障壁」であると、その危険な魅力に対する警告に溢れています。したがって、豊かさによって永遠の王国に達することを妨げられない富有者の地位について、バハオラが、そのような魂の輝きは「地上の人々を啓発する太陽の如く、天上の住民たちを照らすであろう」と賞揚されたことは当然のことでしょう。アブドル・バハは述べておられます。「もし、賢明で才能ある者が大衆を普遍的に豊かにする対策に取りかかれば、それ以上に偉大な仕事はなく、それは神の目に最高の達成として評価されよう。」 なぜなら、「全住民が豊かであるとき」、富は最も賞賛されるからです。何が必要かを裁定するために自分の生活を見直し、ホゴゴラの法に関する自分の義務を喜んで果たすことは、自分の優先度にバランスを保ち、所有する財を浄化、神の権利である分け前がより多くの人の利益のために供給されるのを確実にするうえで不可欠の規律です。満足と中庸、博愛と仲間意識、犠牲と全能者への依存、これらは神を畏れる者にとって常に相応しい資質です。

 

 

8. 物質主義の勢力はこの考え方の真逆の方向を促進します。幸福は絶えず続く取得から来る、より多くをもつ方がもっと良い、環境の心配は後日で良い、など。これらの魅惑的なメッセージは、利己心を隠すため正義や権利という言葉を使って、個人の権利というますます定着した意識を煽っています。エンターテイメントや気を散らさせる娯楽が貪欲に人の心を奪うなかで他者が経験する困難に対する無関心は一般に広まっています。物質主義がもたらす精神力弱体化の影響はあらゆる文化に浸透し、全てのバハイはその影響を意識し続けるよう努力しない限り、自分たちは何らかの形で、無意識のうちに、物質主義が助長する世界観を取り入れるかも知れないと分かっています。両親は、子どもたちがまだ非常に若いときでも周囲の規範を吸収するということを鋭敏に認識すべきです。ジュニアユースの精神性強化プログラムは、物質主義の呼びかけが一層執拗になる年齢に対し思慮に富む識別力を促します。成人期が近づくとその世代みなは、世俗の追求が不公平や欠乏を無視するのを許さないという責任をもつ必要があります。時とともに、神の言葉の照射を通したトレーニング・インスティチュートのコースで育まれた資質や態度は、人生のあらゆる段階で、世間が奉仕から注意を引き離し、自己中心へ向かわせるために使う妄想を見透かす助けになります。そして、遂には、神の言葉の系統的な学習とその含意の探究は、自分の物質的なことがらを聖なる教えに従って管理する必要があるという意識を高めます。

 

9. 親愛なる友ら:世界に見られる極端な貧しさや富は、ますます擁護できないものとなっています。不公平が続くなかで、確立された秩序自体が信用できないものとみられ、その価値は疑問視されています。葛藤する世界が将来直面する試練が何であれ、我々は、神の愛し給う者らが自分たちの道におけるあらゆる障害を克服し、人類に奉仕するのを助けられるよう全能者に祈願いたします。全住民の中でのバハイ共同体の存在が大きければ大きいほど、その周辺の貧困の根源に対処する方法を見出すという責任は大きくなります。そのような仕事の学習や、関連する対話への寄与で友らは初期段階にありますが、五年計画の共同体建設プロセスは各地で経済的な活動のより高次元の目的についての知識や経験を、徐々に、かつ堅実に蓄積する理想的な環境をつくり出しています。聖なる文明を打ち立てるという長期間の仕事の背景に照らして、願わくは、今後何年かのうちに、共同体生活、機構の考え、個人の活動にこの探究がもっと顕著な特徴とならんことを。

 

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