万国正義院

201710

 

神の栄光を祝福するすべての人々へ

 

心より愛される友ら

 

1 我々はこのありがたい事実を断言します:地上の民は決して神に見捨てられることはありません。歴史の各時代に、不可知なる「実在」は、人間が協力し、前進するために必要な道徳的、および精神的刺激を提供する「使者」を送ることによって、世界に恵みの扉を開放しています。これら、人類のための偉大な「光」なる人物たちの名前の多くは残っていません。しかし、その一部は、思想を変革し、知識の宝庫の扉を開け、文明の興隆を駆り立てた存在として歴史上に輝き、いまだにその名が称えられ、称賛される人物もいます。これらの精神的、社会的先見者たちは、汚れなき美徳の鏡として、それぞれの時代の急務に答える教えや真理を解き明かしました。そして今、世界が依然最も緊急な課題に直面しているこの時代に、私たちは、200年前にお生まれになったバハオラをそのような「人物」として歓呼して迎え入れるのです。まさに、彼は全人類が平和と調和のうちに共存するという、太古より約束されてきた時代を到来させる人物なのです。

 

2 バハオラは、青年期初期の頃から、彼を知る人たちにより、運命の刻印を携えていると思われていました。聖なる性格と非凡な知恵に恵まれた彼は、天上の優しい光に触れられているようでした。しかし、彼は40年間の苦難を受けさせられました。それには、二人の独裁的な君主の命による連続する追放と監禁生活、彼の名をけなし、彼の信奉者らを糾弾する運動、彼に対する暴力、彼の命を奪おうとする恥ずべき試みが含まれます。これらをみな、バハオラは人類への無限の愛ゆえに、忍耐と輝きの精神をもって、また彼を苦しめる者らへの憐みをもって受け入れました。そして、世俗的所有物のすべてを押収されても、平静を失うことはありませんでした。観察者は、他の人々への愛がこれほど徹底した御方が何故そのような敵意の的にならねばならなかったのかと、不思議に思うでしょう。なぜならば、彼は、上記のような迫害を除けば、普遍的な称賛や感嘆の対象であり、慈悲心や高潔さで名高く、政治的権力を求めることも拒んだのですから。この事実を考えれば、歴史のパターンに精通している者なら誰でも、彼が苦難を強いられた理由は、当然、明白です。預言者がこの世にあらわれる時は必ず、権力者たちが猛烈に反対しました。しかし、真実の光は消されません。ですから、人は、これらの卓越した人物たちの人生に、犠牲と英雄的資質、また、何が起ころうとも、その言葉を具現する行いを見出すのです。同じことが、バハオラの人生の各段階で見られます。あらゆる苦難にもかかわらず、彼は決して沈黙させられることはなく、彼の言葉は人を動かさずにはおかない効力を持ち続けました。その言葉は、洞察力に満ちた声で発され、世界の病を診断し、治療法を処方します。また、正義の重みを抱え、王や統治者らをやがてその座から一掃する勢力について彼らに警告しています。さらに、人の魂を高揚させ、畏敬の念を持たせ、変革し、私欲の棘(とげ)や茨(いばら)から解放することを決意させます。それは明白で、注意を引き、断固たる次の言葉です。「これは我から来たものではなく、神からのものである」。そのような人生を考えるにあたり、もしこれらの言葉が神からでないとしたら、何をもって神からのものであるとするのか、と問うことはできないでしょうか。

 

3 歴史を通して、世界に光をもたらした完全な教育者たちは、聖なる言葉という遺産を残しました。バハオラのペンから川のように流れ出た言葉の中に、とてつもなく広範囲に及ぶ、荘厳な性質を帯びた贈り物があります。しばしば、彼の啓示に遭遇する人はまず、造物主を適切に礼拝したいという魂の切望を満足させる、卓越した美を有する祈りに反応します。彼の言葉の大海の深いところには、人間の精神をその真の使命にはふさわしくない、世俗的な本能の横暴から解放するための法や道徳的急務が見いだされます。ここにも、永続する理想が見いだされ、それに応じて、親は子どもをただ自分たちに似せてではなく、より崇高な人物になるよう育てます。さらに、部族や国家建設という段階を経ながら、さらなる統合へと人類が向かっていく曲がりくねった旅路の歴史に作用する神の手を示す説明もあります。世界の様々な宗教は、根底にあるひとつの真理の表現であることも示されています。それらは、共通の源、また人類の内的生命と外的状態を変革するという共通の目的により、互いに関連し合っています。バハオラの教えは人間の精神の崇高さを証言します。彼が構想する社会は、その崇高さに相応しく、それを擁護し強化する諸原則を基盤とします。彼は、人類家族の一体性を集団生活の中核に据え、男女の平等をきっぱりと断言します。彼は、我々の時代の一見相反すると見られる力を両立させます。たとえば、科学と宗教、統一性と多様性、自由と秩序、個人の権利と社会的責任です。そして、彼の最もすばらしい贈り物に正義があります。それは、すべての人々の進歩と発展を目的とする諸機構において顕現されています。また、彼自身の言葉によると、彼は「神の聖なる書のページから、 人の子らの間の争いや悪意や危害の原因となるすべてのことを抹消し」、同時に、「調和と理解や、完全で永続する和合に不可欠な前提条件を定め」ました。それでは、このような贈り物に相応しい反応とは何か、と問うことはできないでしょうか。
 
4 バハオラは述べておられます−「この大洋の岸辺に到達するよう精進、努力することは、探究者全員の義務である」、と。連続して現れた使者たちにより、時代を通じてもたらされた精神的教えは、宗教的な組織に表現されましたが、それらは時が経つにつれ、文化的な要素と融合し、人間が作り上げた教義の重みで押し下げられました。それはさておき、元々の教えが普遍的な価値の源泉であり、それを通して多様な人々が共通の大義を見出し、人類の道徳的意識が形成されたということは明白です。現代社会において、宗教の評判は非常に低下しましたが、それは無理もないことです。もし、宗教の名において、憎しみと争いが促進されるなら、宗教はない方が良いのですから。しかし、真の宗教はその果実によって知られます。つまり、鼓舞し、変革させ、和合させ、平和と繁栄を助長する力です。またそれは、理性的思考と調和します。さらに、社会の進歩にとって不可欠なものです。バハオラの信教は、個人と共同体のなかに、省察を通して行動する規律を育みます。そしてこの手段によって、より良い社会を築くための効果的な方法に関する洞察が徐々に蓄積されます。政治的策略、扇動、特定の集団に対する中傷、公然とした紛争などによる社会的変化の試みは、バハオラにより糾弾されています。なぜなら、それらは単に闘争のサイクルを永存させるだけで、永続的な解決策は見つからないままだからです。むしろバハオラは、全く異なるアプローチを取るよう、奨励なさいます。彼は良い行い、親切な言葉、正しい行動を取るよう呼びかけ、他者への奉仕や提携的な行動を命じます。そして、聖なる教えに基づいた世界文明を建設するという任務に、人類各員を召喚なさいます。バハオラのビジョンの広大さを熟考するなら、人類が現実的に将来へ希望を抱く根拠は、これ以外、どこにあるのだろうか、と問うことはできないでしょうか。
 
5 あらゆる土地で、バハオラのメッセージに惹きつけられ、そのビジョンに献身する人たちは、教えをどのように実践するかについて体系的に学んでいます。ユースの集団は、自分たちの精神的アイデンティティをこれまでにも増して意識しつつあり、エネルギーを社会の進歩のために注いでいます。異なる視点を持つ人々は、権威を振り回したり、闘争したりするのではなく、どうやったら共に解決策を探し、協議できるか、その方法を見出しています。人類はひとつの民族であり、地球はひとつの国であるというビジョンを中心に、あらゆる人種、宗教、国籍、階級から魂が集まってきています。長い間苦しんできた多くの人たちが、発言するようになり、自分たち自身の発展において、資源に富む強靭な主役となっています。村や近隣、町や都会から、機構と共同体と個人が立ち上がっています。彼らは、和合した繁栄する世界の出現のために共に働くことに献身的です。そのような世界こそ、まさに地上における神の御国と呼ばれるにふさわしいでしょう。バハオラが出現して200周年のこの記念の年、この事業に参画する多くの人々は、この機会を掴み、バハオラが誰であり、何を使命としているかを調べ、処方された治療薬を試すよう、ただ周りの人々に手を差し伸べて、招待しているのです。バハオラの到来は、数々の危難に脅かされている人類が、決して忘れ去られてはいないという確かな証拠を提供しています。世界中で善意を持つ非常に多くの人々が、共通の祖国なる地球で自分たちを悩ましている問題に対する答えを求めて長い間神に嘆願してきたのならば、神が彼らの祈りにすでに応えてくださったことは、それほど驚くべきことでしょうか。
 
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