御恵みある

この地、この家、この場所

この町、この心、この山

この隠れ家、この洞穴

この谷、この大地

この海、この島、この草原

 

神の名を称え

神の賛美が(うた)われる地

祝福されん

 

 

おお神よ、わが神よ、

わが最愛なる御方、

わが心の熱望する御方よ。

バブ


 

祈りと瞑想に関する抜粋集

 

日々の祈り、日々の必須の祈り

毎日夜明けに神と親しく語り合い、全魂を傾けて、敬愛する御方を、絶えず求めなければならない。求道者は、神の御名を切に唱えるその炎により、あらゆる気まぐれな考えを焼却し、稲妻の如き速さで神以外の総てのものを通り過ぎなければならない。(バハオラ)

 

毎朝、毎夕、神の聖句を唱えよ。それを唱えぬものは、まことに、神の聖約に忠実でなかったことになる。今日それより顔をそむけたる者は、まことに、太古からの神より顔をそむけたる者なり。神を畏れよ、おお、わがしもべらの群衆よ。(バハオラ)

 

必須の祈りのあらゆる言葉と動作には、人間が理解できず、また文字や書簡が含むことのできない、暗示や神秘や英知があることを知りなさい。(アブドル・バハ)

 

必須の祈りは、謙虚と従順のもとになり、神の方へ顔を向け神にその献身を表現することになるので、怠ってはならないのである。(アブドル・バハ)

 

日々必須の祈りは、各々一人で唱えるべきです。声に出すか出さないかは問題ではありません。「故人のための祈り」以外には会衆の祈りはありません。わたしたちは、会合で治癒の祈りやその他の祈りを唱えますが、日々の必須の祈りは各個人の義務であり、誰か別の人が唱えることは、自分で唱えることの代用にはなりません…..(ショーギ・エフェンディの代理から手紙より)

 

祈りの意味

舌はこれらを叙述し得ず。言葉もまたこれにはとても達し得ない。筆はこの宮廷にその用をなさず、墨もまた黒点を止むるに過ぎないただ心だけが、心に知者の状態を知らせうる。これは使者がなし得ることではなく、また文字に含み得ることでもない。 (バハオラ)

 

われわれは天の言葉、精神の言葉で話すべきである。それは、精神と心の言葉が存在するからである。われわれの言葉が鳴き声と音だけで自らを表現する動物のそれと違うように、心の言葉もまた、われわれの言葉とは異なっている。

 神へ話しかけるのは精神の言葉による。祈る時に外界から一切離れ、神に向かうと、あたかも心中に神の声を聞くようである。言葉なしでわれわれは神と語り、気持ちを伝え、会話を交わし、そして神の答えを聞く.....われわれは皆、真に精神的状態に達した時、神の声を聞くことができるのである。 (アブドル・バハ)

 

人がもしその友に愛を感じるなら、それを告げたいと望むであろう。たとえその友が、その愛に気づいていると知ってはいても、その人はこれを告げようと願うであろう.....神はあらゆる人の心の願いを知っておられるが、祈りの衝動は自然のものであって、人から神へ対する愛より湧き出るものである。

 .....祈りは必ずしも言葉に表す必要はなく、むしろ思考と行動に現れ得るものである。しかし、もしこの愛と望みがなかったなら、祈りを強いようとするのは無駄である。愛なき言葉は何の意味もない.....(アブドル・バハ)

 

祈りの時間

朝夕、神に嘆願することは、心を喜ばせる。祈りは精神性を高め、芳香を生じる。汝は当然、それを続けるべきである。(アブドル・バハ)

 

汝の主の恵沢を信頼せよ。困窮し、捕らわれたる者が懇願するごとく、真夜中も早朝も、神に嘆願し懇願せよ。汝は常に、神の王国に向い、祈り、嘆願し、祈願すべきである。これは、汝の魂が神の贈物のある頂点へ昇っていくための手段である。 (アブドル・バハ)

 

特に、一人で祈りを捧げる時や、真夜中のように日々の諸事から解放されている時、祈りはまことに生命を与えてくれる。(アブドル・バハ)

 

正午の時刻はもちろん、地方の標準時刻によってではなく、太陽の位置に応じて決めるべきです。短い必須の祈りは、正午と日の入りの間、いつでも唱えることができます。 (万国正義院) 

 

 

祈りの対象と祈りへの返事

おお心霊の子よ。われが汝のために欲せざることを、われに求むるな。われ汝のために定めたるものにて汝、満足せよ。もし汝それにて満足せば、そは汝を利するものなれば。 (バハオラ)

 

最も高潔なる祈りは、神や地獄を恐れるためでもなく、恵みや天国を望むためでもなく、ただ神を愛するためにのみ捧げられるものである....人がある人を愛するとき、その愛する者の名を口にせざるをえない。従って神を愛するようになると、その御名を口にしないことはいかに困難なことか.....精神的なる者は神を賛美すること以外には何事にも喜びを見い出しはしない。 (アブドル・バハ)

 

あなたがこの世界で天使のようになり、理解ある心の持ち主らに王国の神秘を明かすための燈台のようであるよう、神が聖なる美徳にてあなたを強くして下さるよう、神に祈りなさい。(アブドル・バハ)

 

祈りは精神のようなものであり、物質的手段は人間の手のようなものである。精神は手の媒介を通して動作する。唯一の真なる神がすべての供給者であられるが、生命に必要なものを供給する手段となるのは地球である。『天は汝らの生命に必要なものを保有する。』[1]しかし、生存に必要なものが与えられるよう命ぜられると、いかなる手段であれ、入手可能となる。人が物質的手段を拒絶するとき、これは、まるで喉の渇きを水やその他の液体以外で癒そうとしているようなものである。全能なる神は水の供給者、その造物主であり、水が、喉の渇きをいやすために使われるよう、お定めになった。しかし、それ使用できるか否かは、神の意志次第である。もしそれが神の意志に応じるものではないなら、人は、大海でも癒すことのできない喉の渇きで苦しめられるのである。 (アブドル・バハ)

 

しかし、われわれは、神の英知によりわれわれ望ましくないものを求めると、祈りはかなえられない…..われわれは祈る――『おお、神よ。われわれを裕福になし給え』と。もしこの祈りが全ての人にかなえられたら、人間の諸業務は停止するであろう。通りで働く者は誰もいなくなり、土を耕す者はなくなり、建設をする者もなく、列車を走らせる者もいなくなるであろう.....世界の業務は支障をきたし、活力は損なわれ、進歩は妨げられるであろう。しかし、われわれが何を求めるにせよ、神の英知にかなっているものは全て、神がかなえて下さるのである。

 例えば、とても貧弱な患者が、命や様態に合わない危険な食べ物をくれるよう医者に頼むかもしれない。彼は肉料理を懇願するかもしれない。医者は優しく、賢明である。医者は、それが患者にとって危険であることを知っているので、与えるのを拒む。その医者は慈悲深いが、患者は無知である。医者の親切のおかげで、患者は回復する。彼の生命は救われたのである。しかし、その患者は、医者が自分の嘆願に応えるのを拒んだから、医者は不親切で良くない、と抗議するかもしれない。

 神は慈悲深い御方である。神の最高の英知に照らし合わせて必要とされるなら、神はその慈悲により、全ての僕の祈りをかなえて下さるのである。(アブドル・バハ)

 

導きのために熱心に祈るだけでは十分ではありません。この祈りの後には、行動の方法について瞑想せねばならず、そして行動そのものが伴わねばなりません。行動が即座に結果をもたらさなくとも、あるいはそれが完全に正しくはなくとも、それほど問題ではありません。なぜなら、祈りは行動を通してのみかなえられるからであり、もし行動が間違っていたら、神がその間違いを通して正しい道を示すことができるからです。(ショーギ・エフェンディの代理の手紙より)

 

瞑想

一時間の黙想は、七十年間の敬虔(けいけん)な崇拝に(まさ)る。 (バハオラ)

 

バハオラは、あらゆる現象には神からのしるしがあるとおっしゃる。知性の徴は黙想であり、黙想の徴は沈黙である。人は二つのことを同時にすることはできないからである。人間は話すことと瞑想を同時にすることはできないのである。

 瞑想が自分自身の精神との会話であることは、明らかである。瞑想する心の状態になり、ある問題を精神に投げかけ、そして精神は答える。光が輝き出で、真実が明かされる。

 こうした瞑想の能力が欠けた生存物に対して『人間』の名称を用いることはできない。瞑想の能力のない者は単なる動物にすぎず、(けもの)よりも卑劣なのである。

 瞑想能力を通して人は永遠の生命を得る。それを通して、人は聖霊の息を受け取るのである...聖霊は、黙想と瞑想のうちに与えられる。

 人の精神は、瞑想中に自然にものを知らされ、力を捧げられる。今まで知らなかったことが明かされ、神の霊感を受け、天の食物をいただくのである。

 瞑想とは、神秘の扉を開く鍵である。その状態に入ると、人は己を忘れ、あらゆる外部の事物から絶縁する。その主観的な状態の中で、人は精神的生命の海に浸り、物事自体のうちにある秘密を明かすことができるのである。これを説明するために、人には二種類の視力が与えられていると考えてみよ。内的な視力が働いているとき、外的な視力は物を見ない。

 こうした瞑想力は人間をその動物的性質から解放して物事の実相を認識し、神との交信を可能にする。

 この瞑想能力は、目に見えない世界から、様々な科学や技術や芸術をもたらす。瞑想の力により発明は可能となり、巨大なる企画は実行され、政府が円滑に執行される。この力を通して、人は神の王国そのものに入るのである。

 それにもかかわらず、人間にとって全く無益な想念もある。それらは大海をあてもなく漂う波のようなものである。しかし、もしも瞑想の力が内なる光に包まれ、神の属性によって特徴づけられたら、必ず、すばらしい結果を生み出すであろう。

 瞑想の力は鏡のようである。もしも世俗的な事物について瞑想するならば、それを反映する。従って、人間の精神が世俗の事柄について瞑想するなら、そうした世俗のことだけが知らされる。

 しかし、もし精神の鏡を天の方へ向けるならば、天なる星座や真理の太陽の光が心に映し出され、神の国の美徳が得られる。

それゆえ、瞑想の力を正しい方向に向けておくべきである。世俗的なものの方へではなく、『天の太陽』の方へ向けるべきである。そうすれば、神の国の秘密を発見し、聖書の寓話の意味や精神の神秘を理解できるであろう。

 われわれが、まことに天の真実の姿を映し出す鏡となり、また天の星を映し出すほど純粋にならんことを。(アブドル・バハ)

 

 

読書と瞑想

 

毎朝、毎夕、神の節を唱えよ。それを唱えぬものは皆、誠に神の聖約と彼の遺訓への誓いを果たしそこねたことになり、この日、それらより顔を背けるものは皆、誠に、太古の神から顔を背けなるなり。神を畏れよ、おお、わが僕らの群衆よ。

 日中と夜間の過度な読書と敬虔なる行為により、うぬぼれたりせぬように注意せよ。もし、人が喜びと輝きの精神で神聖なる書よりたった一節を唱えたとしたら、それは、人にとって、危難の中の救い主、御自力にて存在し給う御方なる神の全ての聖典を全て、物憂げに読むよりもましである。疲労や倦怠に襲われぬ程度に神の節を唱えよ。極度の疲労をきたしたり、魂をまいらせたりするほど、汝らの魂に重荷を負わせてはならない。むしろ、啓示されたる節の翼に乗って、神のしるしの夜明けの地へと舞い上がれるように、その荷を軽くするように努めよ。これは、神へ向かう、より近い道になる、もし汝、理解するならば。(バハオラ)

 

おお、わが僕らよ、汝の旋律の美が汝自身の魂を輝かせ、全ての者の心を引きつけることが出来るように、神に近づいた者らによって受け取られた神の節を詠唱せよ。私室で他人から邪魔されず、神によって啓示されたる節をいかなる者が唱えようと、全能なる御方の散在する天使達は彼の口によって発された言葉を四方にまき散らし、あらゆる廉直なる者の心臓を鼓動させるであろう。初め、その効果に気づかないままでいるかもしれないが、与えられたる恵みの効力は遅かれ早かれ、その影響を魂に及ぼさねばならない。この様に、力と英知の根源なる神の意志によって神の啓示の神秘は定められたのである。(バハオラ)

 

その秘密を明かし、その奥に隠されたる英知の全ての宝を発見できるように、汝、われの言葉の大洋に汝自身を浸せ。この大業――神の力の潜在力が明かされ、神の統治権が確立された大業――の真実性を受け入れる決心にためらわぬよう注意せよ。 (バハオラ)

 

おお、わが僕らよ。わが神聖なる、わが神の力によって定められた啓示は、高価で、卓越した輝きのある無数の真珠がその底に隠された大洋のようなものである。捜し求める者の探求の熱望と彼が払った努力に比例して、神の変更不可能なる、隠されたる書簡に前もって定められたる恩恵を授かることが出来るよう、奮起し、この大洋の岸辺に到達しようと努めるのは、あらゆる探求者の義務である.....この偉大なる、底知れぬ、波打つ大洋は、汝に近い、驚く程近いのである。それは汝の生命の血管よりも汝に近いことを見よ.....(バハオラ)

 

 


問題解決のための祈りの力学

 

第一段階

問題について祈り、瞑想(めいそう)しなさい。顕示者によって著わされた祈りは最も偉大な力を持っているのでそれを使いなさい。祈りの後、数分間、沈思(ちんし)黙考(もっこう)しなさい。

 

第二段階

決定し、それを守りなさい。この決定は通常、黙考(もっこう)している内に生まれる。それを達成することはほとんどできないかのように見えても、それが祈りに対する答えであるか、問題解決の方法であると思われるなら、直ちに次の段階に進みなさい。

 

第三段階

決定したことを成し遂げる決意を固めなさい。多くの者がここで落後する。決意を固めることなく、逆に決定は枯れて、願望やあいまいなあこがれに変ってしまう。決意したなら直ちに次のステップに移りなさい。

 

第四段階

あなたに力が流れ込み、正しい道が明らかになり、扉は開かれ、正しい考え、正しいメッセージ、正しい方針、適切な本、あなたの必要を満たすための正しいものがあなたに与えられたという信念を持ち、それを確信しなさい。それからあなたが祈りを終って起ち上がる時、第五段階に進みなさい。

 

第五段階

すべては答えられたものとして行動せよ。そして、疲れることなく、絶えることのないエネルギーをもって行動しなさい。あなたが行動する時、あなたはより大きな力を引きつける磁石となり、ついにはあなたを通して神の力が流れる障害のない水路となる。

 

多くの人は祈るが、最初の段階の後半にさえ達する者は少ない。瞑想(めいそう)する者のいくらかは、決意はするがそれを持続することに欠ける。ごくわずかの者は決意を実行に移すし、更に少数の者が彼らの必要とするものを授けられるという信念を持つ。しかし、どれほどの人が、それは既に答えられたかのように行動するまでになるだろうか。「祈りより偉大なものは、それが発せられる精神」であり、これが発せられる方法より偉大なものは、それが実践される精神である。この言葉のいかに真実なることか。

 

以上の五つの段階は、親愛なる守護者、ショーギ・エフェンディが、祈りによる解決の見いだし方について、ある信者に示されたものです。この発言は、いわゆる巡礼者ノートと言われるものに属するもので、正式の発言ではないが、非常に明確で有益なものであるため、信者たちとわかちあうべきであろうと思われる。

 

 



[1] コーラン 51:22を参照せよ。