神にほまれあれ、汝は日本に神の言葉を広めるための手助けを得た。やがて日本に於けるこのサークルは拡大され天国の祝福を得るであろう。

神は栄光あるコーランの中で、述べ給う。「一つの種子より七つの穂が出、その各々の穂は百粒の穀粒を実らせる。そして、神は望み給う者には誰であろうとそれを二倍にすることがおできになる。」この聖句は次のような意味を持つ。真理の言葉が宣言される時、それは、純粋な土地に植えられて、七つの穂を出し、その各々の穂から百粒の穀粒を生じる一粒の種にたとえられる。そして、神は、彼の望む者には誰でもこの数を二倍にすると言い給う。即ち、これは七百粒の穀粒を一千四百粒にするという意味である。汝の日本に於ける呼びかけが、この一粒の種のようになり、天国の祝福と恵沢を得んことを。そうすれば、人々の魂は教育され、神の唯一性と予言者の真実性、また神の教えの有効性を教えられるであろう。(アブドル・バハ、「燎原の火:日本」、p.15)

 

「信仰の人々とは、雲より降る雨から、新鮮さと新緑を受け、豊富な結実に達し、王国の祝福を見い出す畑のようである。それは疑いもなく、日毎に成育し、遂には束穂が、神の恵沢で満たされて百倍になるであろう。」(p.16)

 

「人類の一人一人は全て農夫である。各々の魂は何らかの種子をまくが、収穫の季節になっても、神を信じる者によってまかれた種子以外からは何ものも採取されないであろう。神を信ずる者が種をまいた時のみ天国の祝福を受けるであろう。聖なるキリストと聖なるモハメッドはあれだけの聖なる種子をまかれたので、今日に至ってもなお、その果実は採取されて来たが、他の全ての農夫は、結局は後晦と失望を味わうように運命づけられていたということを熟考せよ。」(p.16)

 

神に讃美あれ、日本で汝は勝れた貢献を成し遂げるために援助を得て来た。汝は神の王国の呼びかけを高く掲げ、人々を輝かしい世界と聖なる大業に導いて来た。汝は啓発の源泉となり、人々の魂の教育を願う者となった。それらの地方は神の教えを絶対的に必要としており、又、十分な能力を備えている。それらの魂は盲目的模倣の暗黒から解放され、天国の教訓の光で照らされなければならない。このような仕事のために起ち上がる者は、誰であろうと神の確認により援助を受け、王国の力が明示されるであろう。東洋と西洋が和解し、偏狭な信念の暗黒を消し去り、人類の一体性を明らかにし、東西両洋が二人の熱望し合う町のように、最高の愛をもって抱擁し合うために努力しなければならない。

何故なら、総ての人々は神の羊であり、神は真の羊飼いであり、あらゆる者に親切であるからである。

(pp.16-17)

 

汝が日本へ旅立ったことは幸いである。何故なら、汝がまいた種子は水を必要としているからである。日本に於いては有能な魂が見い出される。しかし、彼等を目覚めさせ、生き返らせて精神的生命を与えるには、慈悲深いものの息吹きが必要である。一人の盲目の魂がそこに住み、非常に燃え立っている。同様にすぐれた能力を備えた僧侶が一人住んでいる。汝が、扉の大きく開かれていることを発見し、魂の教化の源泉となるよう望む。

(p.17)

 

おお汝ら、人々よ、真実の太陽があらわれ、その輝かしい光があらゆる地域を満たした。それは、人間世界の統合の旗をかかげ、全人類を輝ける真理に召喚した。慈悲の雲は雨を降らせ、摂理の微風は吹き寄せ、人間世界はめざめさせられ、揺り動かされた。聖霊は永遠の生命を与え、天国の光は心を照らし、王国の糧の食卓は用意され、あらゆる種類の食物で飾られている。おお汝ら、群衆よ!覚醒せよ!覚醒せよ!注意深くなれ!注意深くなれ!観るべき眼をあけよ!聴くべき耳を持て!聴け、聴け!天国の音楽の甘い調べは流れ出し、精神的洞察力を備えた人々の耳をうっとりさせている。やがてこの超絶の光は東洋と西洋を完全に明るくするであろう。」(p.22)

 

 

想像されたものは限定されており、燗の心意は無限であるにも拘らず、あらゆる人々は思考の世界で神を作りあげ、その彼ら自身の想像が案出したものを辮しているのである確かに無限なるものは有限なるものより優れている。何故なら想像は偶然のもの(あるいは非本質的)であるが、他方心意は本質的なものであるからである。疑いもなく本質的なものは偶然的なものより偉大である。

それ故に熟考せよ、あらゆる宗派と人々は彼等自身の思考を崇拝している。彼らは彼ら自身の頭の中で神を創造し、その形が迷信にしか過ぎないにも拘らず、全存在物の創造主である、と認めている一このように人々は想像(叉は幻想)を敬慕し、崇拝しているのである。

 

     ヒヤシンス―知識の花。

     バハオラの命令に背いたバハオラに身近な者等と、この書簡の受取人―日本人―との比較。

     想像に関しては無限であるというのは、心意のない想像は存在しないから。

 

神の本質、見えざるもののうちの見えざるものは、想像をはるかに越えて神聖であり、思考の及ばないものである。意識はそれに到達しない。創作された(又は創造された)実在の理解力には、古の実在を包含することはできない。それは異った世界である。それからはいかなる情報も得られず、そこに到達することは不可能である。そこに到ることは禁止されており、それには近づき得ない。それは存在し、その存在は確実であり証明されているが、その状態は未知である。

あらゆる哲学者や博士達は、それが存在することを知っていたが、その存在を理解するのにとまどい、遂に落胆し、非常な絶望のままこの世を去った。というのは、実在のうちの実在、及び神秘のうちの神秘の状態と神秘を理解するには別の能力と別の感覚が必要だからである。人類はその能力及び感覚を持ち合わせていない。それ故に彼らは何らの情報も得ることができないのである。例えばもし、ある人が聴、力、味覚力、嗅覚力、触覚力を持っていても視力がなければ見ることはできない。従って人間に存在する能力や五感では、疑いの余地のない、純粋で神聖な、見えざる実在の認識は不可能である。別の能力と別の感覚が必要である。もしそれらの能力及び感覚が得られれば、情報を得ることができるであろう。そうでなければ得られない。

(pp.26-27)

 

 

この国では、神の大業が根を下し始めの頃には、少しの困難に遭遇するであろうが、後は非常に容易になるであろう。何故なら日本の国民は聡明で、素早い同化力を備えているからである。現在では汝のような完全な青年が王国の恩恵に恵まれ、王国の主の英知を得るのである。科学と芸術の習得と研究とに必要なことを完了するよう努力し、それから最上の集合の頂点にひるがえる真理の旗をかかげるために、日本に旅行せよ。汝自身の能力を見てはならない。見えざる神の確認は強大であり、アブハの美の保護と摂理は助力であり、援助である。一滴の水が大洋より援助を得た時、それ自身が大洋そのものであり、小さな種は降り注ぐ雨と、太陽の恩恵と、魂を活気づける微風とによって、非常に生々とした葉と花と果実とをいっぱいにつけた木となるであろう。それ故に汝の能力と真価などを気にせずに、ひたすら無限の恩恵に頼り、掌高なる万能の神を信頼せよ。遅延しないように。直ちに汝の意図するものに着手せよ。

(p.31-32)

 

 

アブドル・バハに宛てられた第二の嘆願は、盲目の若い日本青年によってエスペラント語で書かれ、1916年の9目に送付されました。ここに印刷されている第二番目の書簡を、アブドル・バハより返事として受け取った後、彼は再び、英語で嘆願書を書きました。次に続く言葉はその一部であります。『おお我がアブドル・バハよ!夢に見たあなたの姿はとても平静で温和であり、決して心より消し去ることはできません旦その名は私のしおれた心を活気づけ、強くし、あなたのことを思う時はいつも、愛と光の泉が私の心の奥底に湧き出されてきます。私の心が常に生命の泉を渇望するようにして下さい。あなたの愛のたいまつをしっかりと、高く、常に持ち続けることができるように私を強くして下さい。私の心は時折夏の日の花のようにしおれ、力を全く失ってしまうことをあなたに告白致します。とは言え、私の敬愛する主よ、私の心よりあらゆる偏見と無知を捨て去ることができるように力を与えて下さい。私の心を春の牧場の緑草のように清らかで新鮮にし、私の魂をあなたの慈悲の雨でますます成長させて下さい!』(p.34)

 

 

日本の人々は、何周期、何世代もの間、雨を奪われ、降りそそぐ雨、いや露の分け前にさえも与からな.かった土壌のようである。彼らは確かに渇き切っている。吟、汝は聖なる庭師となり、神の教えの水で乾いた土壌を潤さなければならない。そうしてこそ天の恩恵が注ぎ、真実の花、人間完成の香わしい草本が萌えだし、その国はエデンの園となるであろう。(p.37)

 

聖なるバハオラの教えは太陽の光のように東西両洋を同様に照らし、死人をよみがえらせ、種々の宗教を統合した。それは、世界のあらゆる共同体を人類世界の一体性のあずまやの下に集めるので、神の唯一性を証明する。

 

      

 

世界がいかに動揺し、世界の人々がいかなる激動の中に居るかを熟慮せよ。この動揺と激動を静めるためには天国の力が必要である。そうでなければ、この偉大なる大業は人間の力では実現できないであろう。人間の力はいかに強くても、ともされたランプのように、限られた空間のみを照らし、少徴の魂を教育するのみである。総ての地方を照らすものは太陽であり、あらゆる宗派及び社会を一点に集めるのは天上の力である。それ故に、汝はこの驚くべき力に奉しし、有益で遠大な結果を得るために努力せよ。

(pp.39-40)

 

 


日本独立教会でのアブドル・バハの

講和

(1912年10月7日、カリフォルニア州オークランドにて)

 

今晩、ここに出席できて非常に幸せに思う。特にこの協会のメンバーが東洋の地域より来た人達だからである。長い間、我は日本の友等に逢いたいと言う望みを抱いていた。かの国は短期間に異常な進歩を遂げた。その進歩と発展は世界を驚かせた。彼等が物質的文明に於いて進歩したので精神的発達を遂げる能力も確かに所有しているに違いない。それ故、我は、彼等に会いたいという非需に深い切望を持っていたのである。神にほまれあれ、この喜びは今や我に与えられた。というのは、この市に於いて立派な日本人の方々と顔を合せているからである。日本の国の人々は偏見がないという報告を聞いた。彼等は事実を調べ、真理を見い出せばその愛好者になる。彼等は古来の信仰や教義を盲目的に模倣することに固執していない。それ故に、東西両洋の国民の統合と融合が促進され、完遂されるための演題について講話するのが我の大なる望みである。それによって宗教的、人種的、政治的偏見、愛国的偏執及び宗派心は人々の間より追払われるであろう。あらゆる偏見は国家.に有害である。

人類存在の初期より我々の住んでいる現在迄の歴史をふり返ってみると、全ての戦争、闘争、流血、戦闘及びあらゆる種類の動乱は、何らかの形の偏見、宗教的、人種的、国家的、党派的、又は何らかの種類の利己的偏見に依って生じたと言うことは明らかである。今日でもバルカンに於ける動乱、宗教的偏見による戦争を目撃している。何年か前、我がルーメリヤに住んでいた時、信心深い人達の間で戦争が始まった。彼らは少しも正義や公正を心掛けていなかった。彼等はお互いの財産を略奪し合い、お互いの家や住宅を燃やし、男女、子供を殺りくし、そのような戦争や流血が神に近づく手段であると想像したのである。このことは、宗教が親交と和合の原因となるべきものであるのに対し、偏見は人間世界の基礎を破壊するものであるということことを明らかに証明している。宗教は愛の源となるべきである。宗教は正義の源泉とならなければならない。何故なら、神の顕示者達の英知は不変の愛の絆を確立することに向けられているからである。国家を糾合する絆は十分ではない。次に絆をいくつか述べてみよう。例えば愛国主義の絆である。これは明らかに十分な絆とは言えない。何故なら、余りにもしばしば同じ国の人々の間に内乱が起こっているからである。友情の絆は人種的なものであるかもしれないが、これも十分に強いものとは言えないことは歴史が証明している。非常に恐ろしい戦争がひんぴん同人種に属する人々の間で起こっているからである。又、人々を結び合わせている絆は政治的なものであるかも知れない。しかし、由家の外交が、ある日平和条約を取り交わしたかと思うと、次の日にはもう宣戦を布告するという事態が幾度か起こっている。これらの絆はそれのみでは十分でないことは歴史的に見て明瞭である。

完全無欠の真の絆は宗教的性格を持つ。何故なら、宗教は人間世界の単一性を教えているからである。宗教は道徳の領域に奉仕している。宗教は心を清純にする。宗教は称讃に値する行為を成就させる。宗教は人間の心の中で愛の源となる。何故なら、宗教は神聖なる基礎であり、この基礎は常に生命をを助成する。神の教えは世界の人々の啓蒙の源泉である。宗教は営に建設的であり決して破壊的ではない。

あらゆる神の宗教の基礎は一つである。全ては真理に基づいている。真理は複数を容認しないのであるが、人間の間では神の顕示者達について意見の相違が起こった。或る者はゾロアスター教徒であり、ある者は仏教徒であり、ある者はユダヤ教徒、キリスト教徒、回教徒、等々である。これが分派の原因となった。が、一方神の宗教を創立した聖なる魂の教えは、本質と実体に於いてもともと一つなのである。全てこれらは人間の世界に奉仕した。全ては魂を平和と和合に招いた。全ては人道上の徳を宣布した。全てこれらは魂を完全性の達成に導いたが、国家間にあっては先祖伝来の礼拝の模範が起こった。これらの模倣は神の宗教の基礎でも本質でもない。そこれらは神の顕示者の実体及び本質的な教えと異っているから不和が生じ偏見があらわれた。このようにして宗教的偏見が戦争や闘争の原因となったのである。

もし我々が、これらの古びた盲目的模倣を捨てて真実を探求すれば、我々は全て統合されるであろう。不和は存続せず、敵対心は消え去るであろう。あらゆる人々は友情の暖い絆の恩恵を昧わうであろ。その時、創造の世界は平静を得るであろう。盲目的模倣と独断的な意見の相違との暗く陰惨な雲は分散され、追い払われて真実の太陽が最も壮麗に輝くであろう。

まことに我々は、神の予言者達を媒介者と見なすべきであるが、人類は彼等を不和の原因、戦争と紛争の口実として利用した。実際、彼等は愛と調和,をもたらした媒介者であった。もし彼等が人々の間の愛と友情の源泉でなかったとしたら、彼等は疑いもなく本物ではないのである。何故なら、予言者達を遣わす神の英知と目的とは、人間の心の中に愛を出現させることにあるからである。それ故、我々は真実を探求しなければならない。単に伝統的証明を弓用するのではなく、先ず最初に合理的な証明と卓越した議論をもって、これらの予言者達が正当であるかどうかを決めることにしよう。何故なら伝統は種々雑多であり、不和のもととなるからである。

聖なる神の顕示者達の中に聖なるモーゼがいた。予言者が遺わされるのは、常に人問を教育するためである。彼等は第一の啓蒙者であり、教育者である。もしモーゼが国民を発展させたならば、彼は真の教師であり、教育者であったということに疑いはない。これが彼の予言者であったことの証明であり、証拠となるのである。イスラエルの民が絶望の深淵・無知と無思慮の最低段階に輪し、奴款の状態にあった時、いかに聖なる人が遣わされたかを考慮してみよう。聖なるモーゼは、堕落したイスラエルの民を囚われの状態より解放した。彼は彼等を無知の状態より引き上げ、野蛮より救い、聖地へと導いた。彼は彼等を教育し、明敏な才能を与え、立派な、尊敬される人々となした。彼は彼等を開化し一層高度の存在へと引き上げ、遂に主権国家、ソロモンの偉大なる王国を樹立した。これは聖なるモーゼが教師であり、教育者であったことを証明するものである。彼は車隊も領土も富も持っていなかった。ただ観念の力を通してのみ彼は彼等を堅く結びつけ、彼が神の予言者であり、教育者であり、啓蒙者であることを証明したのである。

同様に、他の聖なる教育者達を考慮する時にも偏見を取り除き、真実を探求しなければならない。

聖なるキリストの事を例にとってみよう。彼はモーゼよりも偉大な成果を成し遂げた。彼は国民を教育して強大な国へと養成した。彼が予言者であったことには疑いの余地がない叱なぜなら、予言者の使命は教育であり、これらすばらしい魂が、人類を啓蒙し、教育.するのである。

聖なるキリストは無比の人物であり、彼には助力する者も援助する者もいなかった。唯一人で単独に、偉大で強力な国家を教育するために立ち上がった。即ち、ローマ人、ギリシャ人、エジプト人・シリヤムカルデァ人・アッシリヤ人等は彼の影響を受けた。彼は数多くの国民を結合させ融合させ、一つの鋳型に流し込み、敵意を愛に、戦争を平和に変えることができた。彼の影響の下に、悪魔のような魂は真の天使となり、圧制者は公正となり、人間の道徳の基準は高められた。以上のことが、聖なるキリストが国民達の教育者であり、教師であり、啓蒙者であったということを証明するのである。もし我々がこのことを否定するとすれば、それは不正以外の何ものでもない。

モーゼ、仏陀、孔子、ゾロアスターのような祝福された人物は人間世界に於ける啓蒙の源泉であった。如何にして、そのような反ばくのできない証拠を否定し得ようか?そのような光に如何にして盲目であり得ようか?聖なるキリストの正当性に、どんな議論の余地があろうか?それは不正義である。それは事実を否定するものである。人は公正でなければならない。我々は偏執や偏見を除かなければならない。我々は先祖の模倣を放棄しなければならない。我々自身で事実を調査し、公平な判断をしなければならない。

以前のペルシャの国民はこのような事実を全て否定し、彼等自身以外の宗教信仰に対して、最大の憎悪と敵意を抱いた。我々は事実を調査し、これらの聖なる人物は全て、神より遣わされた事を発見した。彼等は皆、我々を教育するために生命を犠牲にし、試練と苦難を耐え忍んだ。如何にしてそのような愛を忘れ得ようか?キリストの光は明らかである。仏陀のローソクは輝いている。モーゼの星はきらめいている。ゾロアスターによって点された炎はいまだに燃えている。如何にして彼らを否定し得るであろいうか?そうすることは不正である。それは完全な証拠の否定である。もし我々が模範を放棄すれば全ての人々は統合され、我々を隔てる差異は消え去るであろう。

我々はモハメッドに対して何らの偏見も抱いていない。外見上、アラビア国民はパルシー(ゾロアスター教徒)の領土、ペルシャのセ権をくつがえす手段となった。この故に、以前のパルシー国民はアラビァ人に対して最大の軽蔑を示したのである。しかし我々は、公正に振舞い公平の基準を決して放棄することはないであろう。アラビァ人は最低の堕落状態に陥っていた。彼等は血に飢え、野蛮で、アラビァ人の父親はしばしば自分の娘を生き埋めにした程残忍で堕落していた。どんな野蛮人が一体、これ以上に低級であり得るか考えてみよ。その国民は広大なアラビア半島に住む、好戦的な、散意に満ちた部族より成り、お互いに戦い、略奪し合い、女子供を捕虜にし、お互いに殺し合うことが仕事であった。このような人々の間にモハメッドが現われたのである。彼はこれらの野蛮な部族を教育し、統合し、彼等の流血に終わりをもたらした。彼の教育により、彼等は大陸及び国々を征服し、統治するほどの文明に到達したのである。回教徒達によりなんという偉大な文明がスペインに築かれたことであろうか!ムーア人によりなんと驚くべき文明がモロッコに起こされたことであろうか!バグダッドになんという強力なカリフ統治、または継承統治が打ち建てられたことであろうか!回教はどれ程科学の進歩に役立ち、それを促進させたことであろう!ではどういう理由で我々はモハメットを否定しなければならないのであろう!もし我々が彼を否定すれば敵意と憎悪がよみがえって来る。我々の偏見は、戦争と流血の原因となる。というのは、1300年の間、人間の歴史を通して吹きまくった凄まじい嵐の門となったのは偏見である。それは今もって続いているのである。現在でもこれを反映した激動がバルカン地方で起こっている。

キリスト教徒は殆んど3億を数え、回教徒もそれとおよそ同数である。それ程の数を処分するのはたやすいことではない。その上、何故に彼等は抹殺されなければならないのであろうか?これらの人々は皆、唯一の神の下僕ではないか。キリスト教徒と回教徒間に平和を打ち建てる努力をしよう。その方が良いではないであろうか?戦争はどんな利益をもたらすのかその結実は何であろうか。1300年もの間戦争と憎悪が存在して来た。このような良い結果が生み出されたというのであろう妬それは愚かなことではないであろうか。神はそれを喜び給うであろうか?聖なるキリストは喜ばれるというのであろうか?モハメットはどうであろうか?彼等が喜ばれないということは明自である。予言者達はお互いに非常に称揚し合って来た書なるモハメッドはキリストを神の聖霊であると宣言している一の句はコーランに明白に記されている。彼は、キリストは神の御言葉である、と宣言しているのである。彼はキリストの弟子達を非常に称讃した。彼は聖なるマリヤ、キリストの聖母に最高の讃辞を与えた。同様に、キリストはモーゼを称揚した。彼は旧約聖書、トーラ(モーゼの五書)を広め、モーゼの名を東西にとどろかせしめた。この目的は即ち、予言者等自身は旭いに最高の愛を示し合ったが、彼等を信じて彼等に従った国民同志は互いに敵対し合い、相入れなかったのである。

聖なるバハオラがペルシャの地平線上に現われた時、世界は暗黒の状態にあった。彼は人間世界の一体性の旗標を高くあげた。彼は世界平和を宣言した。彼はペルシャ国民に事実を探求するように勧告し、宗教は統合と愛のもとであり、心と心を結び合わせる手段であり、生命と啓蒙のもととならなければならない、と宣言した。もし宗教が憎悪と流血の原因になるくらいなら宗教はむしろない方がよい。何故なら、宗教はあらゆる疾病の療法であり、もしその療法が疾病及び苦痛の原因となるようなら、それを捨てた方がましである。今白ペルシャに於いて、回教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、仏教徒が、お互いに最高の愛と調和をもってバハオラの教えに従って生活し、同じ会合に集合するのが見られる。うらみ、憎悪、敵対心、暴力等は消え失せた。彼等は一家族のように生活している。

汝等、東洋一常に光明のあけぼのの場所であらた東洋の人達よ。そこより真実の太陽は常に輝き出し、西洋にその光輝を投げかけて来た。それ故に、汝等はその光を顕す者とならなければならない。汝等は輝くランプとならなければならない。汝等は愛の光を全人類に向かって放射する星のようにならなければならない。願わくば汝等が国民間に於ける愛のもととならんことを!そうしてこそ東洋が常に光明のあけぼのの場所であり、愛と和解のみなもとであると云うことを世界一は目のあたりに見るであろう。全世界を和睦させよ。あらゆる人々を愛し、あらゆる人々に奉仕せよ。すべての者は神の下僕である。神はすべてを創造し給うた。彼はすべてを養い給う。彼はあらゆる人々に親切である。それ故、我々はあらゆる人々に親切でなければならない。我はこの会合を非常に喜んでいる。我は喜びに満ち幸福である。何故なら、これ等の西洋の地域で教育を求め、偏見を持たない東洋人達を見い出したからである。願わくば神が汝等を援助されんことを!

これは、アブドル・バハが日本人の聴衆を前にして行った唯一の講演であるので、そのすべてを引用した。これは、イラン語から英語に訳され、それが日本語に翻訳された。ここにあるのは「国際平和の公布」の中に載せられている英語訳を日本語に訳したものである。

 

 

 


アブドル・バハ、日本女子大学総長成瀬氏と逢う

アグネス・B・アレキザンダー嬢著

 

1912年春、東京に於いて名誉ある銀行家であり資本家である渋沢子爵は、日本で最初の女子大学の創立者、成瀬仁蔵学長と東京大学の姉崎政春博士と共に「コンコーディヤ」という運動の中核を造りました。その目的は、あらゆる国民が和合し得る共通の地盤を探し出そうと努めることです。それから成瀬学長は、その運動のために、世界一周の旅につきました。彼は署名帳を携え、訪問先の異った国々の署名人より善意の言葉を集めました。日本に帰周後これ等は日本語に訳され出版されました。

1912年、ロンドンに於いて、アブトル・ハハの秘書は次のように記録しています。「数ケ目間アメリカに滞在していた著名な日本人、東京にある女子挙の学長はアブトル・バハの所に来て、オリエンタル・レウユーに載せられた日本に於けるコンコーディヤ運動についての記事を見せた。アブドル・バハはバハイの大業の原則について語られ、これ等の原則を実行するために、いかに我々が神の力を必要としているかを語られた。彼は『丁度太陽が太陽系に於けるあらゆる光の源であるように、今日では、バハオラが人類の統合と世界平和の中心である。』と述べられた。アブドル・バハは美しい祈りをそめ署名帳に書き込まれ、日本に帰ってこれらの崇高な理想を広めるように熱心に彼に懇請された。」
 次に続くのがその祈りです。「おお神よ!宗教間、国家間、及び人々の間、の論争、不和、戦争の暗黒は真実の地平線を曇らせ、真理の天をおおい隠した。世界は教導の光を必要としている。それ故、おお神よ、実在の太陽が東西両洋を照らすよう汝の恩恵を授けたまえ。」

 


ブルームフィールド夫人著「選ばれた道」よりの抜粋

アブドル・バハと日本人外交官に関する節(1912年)

 

ヨーロッパの或る首都に駐在の日本の大使(荒川子爵一マドリッド)はドゥジュネホテルに滞在していました。この紳士と夫人はパリにアブドル・バハが滞在されていることを知らされ夫人は彼に逢う名誉にあづかりたいと切望しました。

「とても悲しいことですが、風がひどく、今晩は外出できません。それに明朝早くスペインに発つことになっています。でもどうにかしてその方に逢われないでしょうか。」と夫人は言いました。

このことは一日中長時問の活動で疲れ切って丁度帰って来られた師に話されました。

「彼女が私の所に来られないから私の方から訪ねると夫人と御主人に伝えなさい。」そうして、時間は遅かったけれども、彼は寒さと雨の中をわざわざ来訪され、ドゥジュネホテルのタピストリィ室(つづれ織の間)で彼を待っていた私達にほほえみを浮かべた丁重な態度で応待され、私達皆を喜ばしてくださいました。

アブドル・バハは大使やその夫人と日本の状態、その国の大なる国際的な重要性、人類への大なる奉仕、戦争廃止のための事業、労働者の生活条件の改良の必要性及び男女間の教育の均等の必要性について語られました。

「宗教の理想は人類の福祉のためのあらゆる計画の精髄をなす。宗教は決して党派的政治の道具に用いられてはならない。神の政策は強大であり、人間の政策は微弱である。」

宗教と科学に就いていえば、両者は人間という鳥が飛び上がることのできる二つの翼のようなものであるが、それらについて彼は次のように言われました。「科学的発見は物質的文明を増進させて来た。幸いに、今だに人間により発見されていない驚くべき力が存在している。精神文明が人間の心を支配する迄は、この力が科学によって発見されないよう敬愛する神に嘆願しよう。低俗な性格を持つ人間の手に入れば、この力は全地球を破壊し得るであろう。」

     外務省のリストには荒川みのじ子爵は当時、駐・スペイと記録されている。

 

 


初期の頃(1922年一1931年)

日本のバハイに宛てられた手紙及び電報

 

アブドル・バハのもとにいる私の深く愛する兄弟姉妹よ。

この暗い日々、私は意気消沈し、悲嘆にくれてはいますが、今私達が逝去された師の、かの極東のバハイの友らの上にあれ程の確信をもって置かれた希望を思い起こせば、私の内部に希望がよみがえり、彼を失った陰うつさが追い払われるのであります。大戦の終末後、ほとんど2年間彼の付添人又は秘書として、あなた方や、アグネス・アレキザンダー嬢の嘆願書を彼の面前で開いた時はいつでも彼の顔がいかに輝かしい喜びに変わったかを、ありありと思い起こすのです。私が彼に読み上げたほとんどすべての嘆願の終わりに、彼はかの国に於ける大業の将来について何という約束を私達一同に与えられたことでありましょう。今ここで、それらの中で最も強調され、最も霊感に満ちた言葉を述べてみます。これらは、私の耳に今だに鳴りひびいている彼の言葉そのものであります。一「日本は瞭原の火のように燃えたつであろう。日本は神の大業を広げるのに、最も驚くべき能力に恵まれている。日本は他の国(彼はその国の名を述べられたが現在は秘しておくようにと命じられた)と共に、世界がやがて目撃するであろう人類と国々の精神的目覚めに、先駆者としての役割を演じるであろう。」

又、他の機会に何と鮮かに私はこれを思い出すことでありましょう一一彼は体力の疲れから目をとじ、椅子にもたれかかりながらも、手を振り友らの前で力強く朗らかに、こう言われました一「ここで我々は平穏に、静かに、じっと座っているが、眼に見えない御方の御手は種々の国々で、常に活発に活躍し勝利を得つつある。日本のように遠い国に於いてでさえも。」と。

私の親愛な確固たる友等よ!今こそ、あなた方と私達は、和合、奉仕、確固不動さ、勇敢さによって、師が生涯を通してあれ程までに苦心され、あれ程たゆまず、私達の心に燃やしっけられた精神を示す時であります。今こそ私達は、彼の私達への愛、信頼、希望にこたえるため、身をもって証明する時であります。日本は燎原の火のように燃え立つであろうと言われました。彼の約束の実現を遅らせるようないかなる行為も、我々は避けなければなりません。いや、私達の奉仕、協力、努力によって、この栄光の日の実現を早めようではありませんか。

〔アブドル・バハに〕先立たれた聖家の婦人達にとっては、かのすばらしい遠隔の地より届く知らせはどんなものであれ、安らぎと壮快な喜びをもたらすものであります。彼女らは皆、師がかの国に於ける大業の未来について話されたことを知っております。彼女らは皆、その国に急速な変化、つまり、その物質的進歩発展よりも、もっと急激な驚くべき精神的進展が起こることを期待しております。と言うのは、神の力は日本人の才気ある心よりも、もっと偉大な驚異を成し遂げ得るからであります。彼女らはこの事を確信しております。何故なら、師は一度ならず、これ等の能力ある人々の性格に隠されている精神的潜在能力について、話しておられるからであります。彼女らは皆、将来、あなた方の手紙がもたらすであろう喜ばしい知らせを、熱望をもって待っております。

私達は皆、あなた方について、あなた方の少さいが発展しつつあるバハイ共同体について、人数、会合、活動、困難、計画、日本中及び近隣の島々に於ける信徒の分布状態について、もっと知りたいと深く望んでおります。私達は三つの聖なる社で最も熱烈に、特別の態度で、あなた方のために祈り、私達全員を庇護される師が、彼のために行われるあなた方の仕事を指導し、支持されるように懇願しましょう。

私達の兄弟、アブドル・バハの愛する者らが彼のなきあと、成し遂げている、また成し遂げるであろう努力と勝利について、あなた方が知ることができるように、バハイ世界の異なる地方より受け取るあらゆるニュースを怠ることなく必ずあなた方に送りましょう。

今日バハイ世界の先頭にある国、ペルシャはその中心地テヘランを通じてあなた方全員と通信をかわすであろうと私は確信しています。それにより、私達の敬愛する御方が、あれ程望んでおられた、東西両洋が一体になることが可能となるでありましょう。

私達の愛する姉妹、アグネス・アレキザンダー嬢が、藤田氏に書かれた手紙は、私達に大変な喜びを与え、毎夜アブドル・バハが生前友等と接見面談された同じ室で、彼の友等の悲しい集りの席で読まれました。

常にあなた方の喜ばしい便りを待ちつつ、

彼の愛と奉仕に身を捧げるあなた方の忠実な兄弟

ショーギ(1922年1用26日)