バブの書簡及び話しからの抜粋

「わ れこそ、われこそ、われこそは、『約束された者』なのである!われこそは、その名を汝らが一千年の間呼びかけた者である。そして汝らは、われの名を述べる 時、立ち上がり、その到来を早く見たいと切望し、その啓示の時が早く来るように、神に祈ったのである。まことにわれは言う。わが言葉に従い、われに忠誠を 誓うことは、東洋と西洋の人々の義務である。」(God Passes By, p.52)

「…神 の啓示は、太陽のようなものである。太陽の昇る地点がいかに様々であれ、太陽そのものはひとつであり、全てのものの生命はそれに依存している。神の使徒な るムハンマド以前のあらゆる律法時代の目的が、ムハンマドの到来のための道を敷くことであったことは明らかである。さらに、ムハンマドの時代を含めて、こ れらの律法時代は全て、『ガエム』(バブ)が宣言する啓示を目的としていた。同じように、この啓示とそれ以前のあらゆる啓示は、『神が顕現し給う御 方』(バハオラ)の信教の到来を告げる乙とを根本的目的としていたのである。そして、『神が顕現し給う御方』の信教とそれ以前のあらゆる啓示は、その次に 来るよう定められている顕示者の到来について告げることを目的としているのである。さらにこの顕示者とそれ以前のあらゆる啓示は全て、その次に来る啓示の ための準備をすることを目的としている。このように、『真理の太陽』の出没は永遠に続くのであり、それは、始めと終わりのない過程なのである。あらゆる律 法時代において、その時代の神の目的を認め、過去の事物に目を向けることによりその目的を見失わない者は幸いである。」(Selections from the Writings of the Bab, pp. 105-106)

「われは『最初の点』であり、そこから、全創造物が生じたのである。われは神の御顔であり、その光輝は薄れることがなく、また、われは神の光であり、その輝きは決して衰えることがない…神は、天国のあらゆる鍵をわが右手に置き、地獄のあらゆる鍵をわが左手に置くよう定められた…われは、神の『最初の言葉』を支える柱のひとつである。われを認めた者は皆、全ての真実にして正しいことを知り、全ての善良でふさわしいものを得たことになる…神がわれを創るために用いられたものは、他の者が造られるのに用いられた土ではない。神は、世才ある者らが理解できず、忠実な者らが見つけることのできないものをわれに授け給うた。」(「バハオラの時代」、63段落)

「この日、ごく小さな蟻がコーランの深遠な、最も謎めいた文章を解く能力を身につけようと望めば、その願いは必ずや叶えられるであろう。なぜなら、不滅の力の神秘はいかなる創造物の内奥にも振動しているからである」(「バハオラの時代」、63段落)

「全 創造物は、その定められた最高の完全性において現れるまでは、その楽園に達することはできない。たとえば、この水晶は、その構成物である鉱物の楽園ともい うべき状態を示している。同じように、水晶そのものにとっても、その楽園の状態における様々な段階がある...それがただの石である間は何の価値もなかっ たが、その内部に潜在する力であるルビーの性質を得たら、それは何カラットに値するであろうか。同様に、あらゆる創造物についても考えてみよ。

人 間の最高の地位は、学識を通してではなく、あらゆる律法時代において神を信じ、神が啓示なさったことを受け入れることによって達せられるのである。あらゆ る国には、様々な学問に精通した学者がいるのだから。また、その地位は、富によって得られるものではない。なぜなら、あらゆる国の様々な階級には富を有す る者がいるのは明らかだから。他のはかない事柄についても同じである。

ゆ えに、真の知識とは神の知識であり、これは、各律法時代において神の顕示者を認めることに他ならない。また、神以外の全てにおいて貧しく、神以外の全てか ら清められていること以外に富はなく、それは、神の啓示の『夜明け』なる御方に対して示された時にのみ実現できる状態である。しかし、これは、それ以前の 啓示を賛美すべきでないという意味ではない。いかなることがあれ、そのような行為は受けいれられない。なぜなら、十九の歳に達した時、人は、自分が胎児と なった受胎の日に感謝することが似つかわしいことなのだから。つまり、胎児として存在していなかったら、人は、今の状態に達することはありえないからであ る。同じように、もし、アダムが説いた宗教がなかったら、この『信教』は、現在の段階に達することはなかったであろう。このように、終わりのなき終わ”まで、神の『信教』について考えよ。(Persian Bayan, V-4)

「わ れの後に来るべき御方(バハオラ)に対してわれが述べた敬意の言葉の中で最高のものは、わが書き記された告白なる、次の言葉である。つまり、わが言葉は彼 について十分に描写することはできず、また、わが書なる『バヤン』におけるいかなる言及も、彼の大業について十分に評価できないのである。」(「バハオラの時代」、9段落)

「『バヤン』の書を千回熟読しても、それは、『神が顕現なし給う御方』が啓示なさるたったひとつの節を読むことに勝りはしない…今日、『バヤン』は種の状態にあり、『神が顕現なし給う御方』の顕現の最初に、その究極の完全性が明らかになるであろう…『バヤン』はその栄光の全てを、『神が顕現なし給う御方』から得るのである。彼を信ずる者に全ての祝福あれ、そして彼の真実性を否定する者に災いあれ。」(「バハオラの時代」、9段落)

おおクラットル・エインよ!汝こそは『偉大なる宜言』に他ならない。天の群勢が声高らかにこの宣言をしている。栄光の玉座を巡る者たちは、古えより常に、この名により、汝を知ったことを我は証言する。 (Qayyumu’l-Asma, LXXIX)

『神 の面影』の到来とその『日』について、われは、これまでに顕わした預言者たちひとりひとりと聖約を結んだ。栄光の国土において、また真理の力により、『神 の面影』とその『日』は顕わされているのである。神の慈悲の王座を巡る天使はそれを目のあたりにしているのである。(Qayyumu’l-Asma, XCI)

われがそれを望みさえすれば、我が啓示のたった一文字をもって、世界とそこにある全てのものに、一瞬にして我が大業の真理を認めさせる力がある。(Qayyumu’l-Asma, LXXXVII)

(Asma)

我は全能者の御手が建て給うた「神秘的な神殿」である。我は神の「指」がその置き場に火をつけ、消えることのない輝きを引き起こし給うた「ランプ」である。我は歓喜の「地点」にてシナイ山の上に輝き、「燃える芝」の真ん中に隠されていた最高の「光」の「炎」である。(Qayyumu’l-Asma, XCIV)

お お、わが愛する友らよ。皆はこの偉大な時代に神の御名を伝える者たちである。皆は神の神秘を受け入れる宝庫として選ばれたのだ。各人神の特性を表わし、行 動と言葉で神の正義と威力と栄光のしるしを示さなければならない。身体の器官のすべてが、崇高な目的、高潔な生き方、固い信念、高尚な献身を証言しなけれ ばならないのだ。なぜなら、はっきり述べるが、この時代こそは、神が聖典(コーラン)の中で予言された日であるからである。『その日、われは、かれらの口 を封じるであろう。しかも、かれらの手はわれに話しかけ、足はその行動を証言するであろう。』

イ エスが、弟子たちを、神の大業の普及に送り出したときにあたえた言葉を熟考せよ。イエスはつぎのように、弟子たちに立ち上がり、その使命を果たすように命 じられた。『皆は真っ暗な夜、山頂にともされた火のようなものだ。人びとの眼前でその光を輝かせよ。地上の人びとが皆を通して、天の御父を認め、御父に近 づきたいと思うほどに、清らかな性格をもち、世俗のものへの愛着を絶っていなければならない。天の御父こそは、清純と恩恵の源である御方であるが、だれも 天の御父を見たことがないのだ。ゆえに、神の精神的な子供である皆は、その行動で神の美徳を示し、その栄光を証言しなければならない。皆は地の塩である が、もし、塩のききめがなくなれば、何によってその味が取りもどされようか。神の大業を教え広めるために、どの町を訪れても、その町の人びとから肉や報酬 を一切期待してはならない。それほどにも世俗への愛着を絶っていなければならないのだ。いやそれどころか、町を出るとき足からさえもちりを払い落とすべき なのである。その町に清らかで汚れない姿で入り、そこから出るときも同様でなければならない。はっきりと告げるが、天の御父はつねに皆と共にあり、また、 皆を見守っておられるのだ。もし、神に忠実であれば、神はかならず地上のすべての宝物を皆の手に渡し、皆を世界中の王や支配者をはるかに超えるほど高めて 下さるであろう。』

お お、わが生ける者の文字たちよ。まことに、われは誓うが、今日はいにしえの使徒たちの時代をはるかにしのぐ崇高な時代である。それどころか、その違いは計 り知れないのだ。皆は約束された神の日の夜明けを目撃する証人であり、神の啓示の神秘の杯にあずかる者なのである。気を引きしめて準備し、神の書に著わさ れた言葉を心に銘記せよ。『見よ、主なる神が到来された。その面前に天使の一団が整列している。』 世俗的な欲望から心を清め、天使の美徳で飾らなければならない。行動をもって、神の言葉の真理を実証するように努力せよ。そして『後を振り返る』ことをし ないように気をつけよ。振り返れば神は『皆を他の人びとと取り替えられるであろう』からである。かれらは、『皆と異なる人たちで』、神の王国を皆の手から 取り上げるであろう。無為な崇拝で十分であった時代はもう終わった。純粋な動機としみ一つない清らかな行動だけが、最も高遠なる御方の王座に昇り、受け入 れられる時が到来したのだ。『立派な言葉は神にまでとどき、正義ある行為は神の面前に引き上げられるであろう。』皆の身分は低いが、神は聖典でこのように 述べられている。『われは、その地で低い身分で育った者に好意を示し、かれらを人びとの精神的指導者となし、わが継承者となそう。』

皆 はこの地位に達するように召されたのである。もし、皆が立ちあがり、この世のあらゆる欲望を足で踏みつけ、『神が語られるまで語らず、その命にしたがう栄 誉あるしもべ』となるように努力するならば、その地位に達することができよう。皆はこの原点(バブの称号の一つ)、この啓示の源泉から湧き出た最初の泉か ら生み出された最初の文字である。世俗のもつれ、この世の愛情、はかない現世の営みが、皆の心に流れる恩寵の清らかさを汚さず、甘さを苦みに変えないよう に神にたん願せよ。われは皆を偉大なる日の到来のために準備しているのである。今ここで指示をあたえているわれが、来世、神の座の面前で皆の行為に満足 し、その成果を称えることができるように、最善をつくして努力せよ。今後出現する偉大な日の秘密は、今かくされている。その秘密をここで明かすことも、計 り知ることもできない。その日に生まれた赤子は、今の世でもっとも賢く、もっとも尊敬されている人物をはるかにしのぐ能力をもち、その日のもっとも身分が 低く、無学な者も、現在最高の学識をそなえた聖職者よりも、はるかにすぐれた理解力をもつであろう。

こ の地の果てから果てまで隈なく散り、不動の足取りと、清められた心をもって、その御方の到来の準備をせよ。自分の弱さやもろさを気にかけることなく、不屈 なる全能者、主なる神の力に目を据えなければならない。神はその昔、アブラハムをして、その無力さにもかかわらずニムロデの軍勢に勝利を得させたではない か。また、つえ一本しかなかったモーゼに、ファラオとその軍勢に打ち勝つ力をあたえられたではないか。神はまた、人の目に貧しく、身分が低く映ったイエス に、ユダヤ人の全勢力をしのぐ力をもたされたではないか。さらに、野蛮で戦闘的なアラビアの部族を、預言者モハメッドの聖なる規律に従う者らに変えられた ではないか。神の御名のもとに立

ち上がり、神に全信頼を置き、最終的な勝利を確信せよ。(バブから生ける文字たちへの別れの言葉、「夜明けを告げる人々」、第3章、pp.77-79)

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