隠されたる言葉(ジョージ・タウンゼント氏による後書き)

ジョージ・タウンゼント氏によるあとがき

「かくされたる言葉」は、バハオラがバグダッドに滞在中の一八五八年に著わされたものです。守護者ショーギ・エフェンディはこの書について「人々の心を再教育し、その魂を啓発し、その行いを矯正するために、人の世に投げ入れられた強力な精神的酵母」であると解説され、バハオラの聖典で倫理的テーマを扱ったものの中では特に卓越したものであると評しておられます。守護者はまたその著書「神よぎり給う」の中で、「かくされたる言葉」の書中に納められている「宝石のような言葉」は、バハオラがチグリス川のほとりを瞑想に耽りながらそぞろ歩きをしている時に、神から授けられたものであり、ファテメの「かくされたる書」と深く関係するものであると説明しておられます。ファテメの「かくされたる書」は、マホメットの娘ファテメがマホメットの昇天を悲しみ、打ちひしがれていたときに、彼女を慰めるために、天使ガブリエルがイマム・アリを通じて示したものと伝えられています。ファテメにそのとき贈られた言葉は長い間世の人々の目に隠されたままになっていましたが、その内容が、今はじめて明かされたというのです。

「かくされたる言葉」には過去のすべての啓示の本質が残らず含まれており、しかも、それらの真意が非常に簡潔な形で示されています。古より続く予言は成就し、ガエムに至る神のすべての使者や預言者たちは、約束された御方が掲げられた聖なる御旗の下に集合したのです。同様に、彼らの教えの本質もここに結集されているのです。「かくされたる言葉」は、要約でも、理路整然と書き記された声明でもありません。それはまったく新しい形の創造です。それは多くの聖なる芳香から蒸留された精髄なのです。

それは過去にあったすべての偉大な光明が一つの光に統合され、神のすべての過去が今のこの時代に凝縮された焦点なのです。

「かくされたる言葉」は精神的原動力として人類に提供されたものであり、そこには過去に顕れた神の啓示の君主たちの存在が満ちあふれています。この原動力は生命力にあふれ、無限の広がりをもち、何ものによっても妨げられません。いまやそれは、人類に運命づけられている再生をもたらすために人類の魂の奥深く注入されたのです。

この書は二つの部分で構成されています。第一部の原文はアラビア語で書かれており、第二部はペルシャ語で書かれています。これら二つの部分の主題および題材が配列されている様式は同じですが、読者はすぐに、言語の違いよりも別の差異があることに気付くことでしょう。アラビア編はペルシャ編よりも短く、頁数も、二十六頁に対して四十二頁です。また、ペルシャ編よりも簡潔で、率直で、限定的で、倫理的内容に満ちています。ペルシャ編はより個人的で、人の心を動かすような神秘的、詩的なところがあります。アラビア編はすべて「…の子よ」と呼びかけているのに対し、ペルシャ編の呼びかけは非常に変化に富んでいます。たとえば「おお儚き影よ」「おお汝ら最も高き楽園の住人たちよ」「おお欲望の真髄よ」「おおわが玉座の伴侶よ」「おお汝ら地上の富者よ」「おお汝ら世界の人々よ」「おお地上の圧制者らよ」「おお移住者らよ」「おお塵埃に芽ぐむ雑草よ」
のように、対比的な呼びかけが多く見られます。アラビア編の呼びかけは六六、六八、六九を除き、「…の子よ」というように個人に向けられています。ペルシャ編では三三の集団に向けられています。これらの二編においては、著者バハオラの態度や語調はそれぞれ異なります。アラビア編では愛情のこもった教師であり、ペルシャ編では教えを説く愛する者としての立場です。さらに、ペルシャ編では、たとえば十五、十六、十七、二三、二四、二九、三四、三五、四五、四六、五二にあるように、しばしば顕示者に言及しています。

また、一九、六三、七一のように今日までの時の流れの中のできごとに言及するものもあります。また、アラビア編にある序言はこの書の性格を記述しています。すなわち「この書は、栄光の国土より降り、権威と威信の舌によって語られ、また、古の神の使者たちに啓示されたところのものである…」は同じくペルシャ編にも適用されます。そしてペルシャ編の結びの言葉は同様にアラビア編にも適用されます。この書を構成する一五三編の文はすべて、それらの意味や本質においてきわめて密接に織りまぜられ、互いに依存し合っているため、それらは一つの完全な統合体を形成しています。

「かくされたる言葉」は個人として、また、社会としての体験を通してのみ理解できる書です。我々はまさに夜明けの時代に生きており、いまだ黎明の時刻の暗闇に包まれているのです。こうして我々は疑いと拝金主義の伝統を受け継いでいるため、「かくされたる言葉」のより深い意味を洞察することも、この書が要求する生命や宇宙に対する展望に到達することも容易にできないのです。人間が自分の魂を縛りあげている束縛をふりはらい、長い間使われずにいたことによって失った洞察の鋭さを取り戻すまでには、長い年月と多くの世代が経過するに違いありません。

「かくされたる言葉」の最初の一編は地上における人生の真の最高の目標を述べ、それを実現するための方法を明らかにしています。それはすなわち意志と感情の正しい鍛練です。キリストは同じような目標や結果についてタレント(古代ヘブライの貨幣)のたとえ話の中で説明しています。すなわち、主人が彼の忠実な召使に「汝は僅かなるものに忠なりき。我、汝に多くのものを司らせん」と。「かくされたる言葉」の他の部分で、人間の目的や希望は「永遠なる領土に達し、目に見えぬ神の贈与を受ける資格のあるものとなること」「神が人間のために創り給うた聖なる統合と永遠性とをもって魂を装い、従って永久に神の永遠なる本質を顕わす者となること」「人は神のために創られたことと、従ってその舌は神を語るために、その心はそこに神が降臨し給うために、その霊は神の啓示の場所になるために創られたことを認めること」「神の愛が人に到達するように、また神が彼の名を呼び、彼の魂が生気に満たされるように神を愛すこと」「そしてためらうことなく神
の愛の楽園、神との融和の天上の住処に入ること」であると述べています。これらの目標はすべて本質的、精神的なものであり、神との特別な関係から成り立っています。そしてひとたびこれらの目標に到達すると、その達成は確固としたものであり、確実なものであり、永遠なるものであり、決して奪われることのないものです。このようにして人が到達し得る所は「古より続くもの」、すなわち神の道です。それは宇宙の体系の一部であり、人間の創造の内に最初から暗示されていたものです。人は努力によってついに自分自身の本来あるべき所に到達したのです。その達成は決して物質的なものではなく、そのため、分解し消滅してしまうことはありません。この到達点はバハオラの教えておられるところの真実であり、従ってそれは永遠なるものです。逆に、永遠でないもので聡明なる人間の探求に値するものは一つとして存在しません。これこそが「かくされたる言葉」の教える
ところです。

人間の目指すべき到達点について「かくされたる言葉」は比喩的な表現を用いて説明していますが、そのために明確さを欠くようなことはまったくありません。アブドル・バハは、神の使者たちはどうして比喩やたとえ話をこうも頻繁に用いるのかと問われた時、こう答えられました。「我々の言葉の貧しさと不完全さゆえに、預言者の啓示は適切な表現に言い換え難いのである。預言者たちの考えは非常に高遠であるため、人間の心はそれを容易につかむことができない。それ故、たとえ話を用いるのである。たとえ話を用いると、人々はその中に隠されている意味を理解しようと深く考えたり、啓発と悟りを求めたりして祈るのである。真理の探究は人間の理解力を深め、知的な己惚れを生じることなく洞察力を洗練するのである」。「かくされたる言葉」は、たとえばアラビア編三、四、九、十、十一、十二、十三、十九、三二、六四、六五およびペルシャ編二三、二七、二八、二九、三十、三四のように主権、融和、統合および生命が、神の最初の創造計画の重要部分であったということを非常に力強く、また無数の最も美しい表現を用いて示しています。
人間とは何か、また、どうして創られたのかを述べるに当たって、この書は次のように説いています。神はその太古よりの存在と、その本質の普遍の永遠性に包まれ、人間がまだ隠された宝石でしかなかった頃に人間に対する愛を知って人間を創造し給うたのです。神に創造の仕事をさせたのは、直接神の愛ではなく、むしろその愛を神が知り給うたがためです。この深い神秘的な真理を次の訓話の中に見出すことができます。「わが愛は汝のうちにある。それを知れ」。また、この真理は、天使たちを九つの位をもって順位付ける伝統にも微かに反映されています。つまり、その伝統によれば、最高位の天使は愛の天使ではなく、知識と叡智の天使なのです。

この愛は人間の砦です。それを知りその中に入る時、人間は過ちと死滅から守られて永久に安泰です。人は神御自身の光を放射するように創造され、愛の粘土で造られ、知識の精華から生じたものです。人は神の領土であり、神の領土は決して消滅することはありません。また、人間は決して消えることのない神の光なのです。神は無の荒野から人間を生ぜしめ、人間を訓練するために存在するあらゆる原子と、あらゆる創造物の本質を定め給いました。神の前に従順である以外に人間にとって平和も安息もありません。神より遠く離れていること以外に悲しむことはありません。また、神に近づいていること以外に喜ぶべきことはありません。人は神を愛するまでは、神からも楽園からも遠く引き離されたままでいます。神の愛は届かず、満足も得られず、不安は増すばかりです。なぜなら、神の住処は忠実な信者の心にあり、人間の住まいは神との融和にあるからです。

バハオラは人間に付与された能力と機会について語り、人間に対して奮起するよう求めておられます。神は人間を豊かに気高く創り給いました。神は人間が選り抜きの果実を食べられるよう、栄光の木にそれを実らせ給いました。神は光明と融和の吉報をもって人に呼びかけ、威力ある精霊をもって力づけ、神の御顔の光で導き、永遠なるものに招き給います。神が人間にその偉大さを現わし、地上の人々が勝利を得られるよう、神の大業を広めよと命じておられます。人間に与えられた心は花園です。その花園には憧れの小夜鳥が歓喜の歌を口ずさむ愛のバラのほかに何も植えてはならないと忠告しておられます。バハオラは「死」は喜びの使者であることを示し、正義の名において最愛なる御方のためならば幾百千の生命も躊躇なく投げ出せるようになるよう求めておられます。

神との融和に至る魂の道は愛の中にあり、そこで求められるのは一切を投げ捨てて顧みないほど完全な愛であり、神の他のすべてを嫌うほどの愛です。それは世俗超越、解脱、統一を意味します。キリストは心の清いものは神を見る幸せが得られると教えられました。「かくされたる言葉」の第一の忠言は、純粋な心を持つことです。神を愛するためには自分自身から顔をそむけ、神の喜びを求めるためには自分自身の喜びに重きをおいてはならないのです。人は自分自身の名を誇りとするのではなく、神の御名を誇りとし、自分自身を信頼するのではなく、神を信頼しなければならないのです。自己を放棄して神に帰依する以外に、人は平安を見出すことはできないでしょう。神以外のすべてを放棄し、顔を神の御顔の方に向けなければならないのです。また、神以外のすべてのものを忘れ、神と霊
的に交わらなければなりません。人は神以外に救助者を求めるべきではありません。他のいかなるものも人間を満足させることはできません。あるいはまた、宇宙や天国の無限の空間を探し求めても、神の前にへりくだり、従順を示す以外には安息を見出すことはできません。真実の愛のしるしは不屈の精神と忍耐です。そして真に愛する者は、反逆者が許しを請い、罪深い者が慈悲を願うように、苦難と試練を切望するのです。誠にすべてを放棄して殉教者の死を求める程までに神の御意に満足し、神が命じ給うことは何ごとによらず感謝するようにならなければなりません。

なぜなら、人は生来その中に我欲すなわち下等な利己心を持っており、天使と同時に悪魔を内に宿しているからです。別の所でバハオラは人間を評して「誤りの精」であると述べておられます。この「かくされたる言葉」でバハオラは人に対して、一方では「おお怠慢の真髄よ」「おおこの世の奴隷よ」「おお激情の真髄よ」「おお塵埃に芽ぐむ雑草よ」と呼びかけ、他方では「おおわが兄弟よ」「おおわが玉座の伴侶よ」と呼びかけておられます。自我は、火と水のように、高次元の自己とは相容れないものです。自我は神の敵と手を結んでいます。そのために人は道に踏み迷い、遠方を彷徨い、神から遠ざかってしまうのです。なぜなら、自我は人を無思慮の眠りに引き入れるか、人を神と対等の者に仕上げようとする虚しい探求に招き寄せるからです。

バハオラはこれまでに過ぎ去った預言者の周期を展望し、人間が自分自身の選択と行動によって自らを貧しくし、卑しくし、自分の空しい幻想と無益な空想に没頭し、神を信じず、神に反抗し、このようにして自らの期待を裏切り、限りない恥辱を選び、自分自身をこの世の足かせや自我の牢獄の中に縛りつけ、朽ち果てる浮世の塵の山を楽園と交換している様を見ておられますが、それほどまでに人間の中にある悪の本質は善なるものに打ち勝ってきました。

バハオラはこの書全体を通じて人間に内在する下等な自我の巧妙な破壊力を明らかにされ、人はあらゆる形の自我に対抗し、妥協を許さない不断の戦いを挑まなければならないと警告しておられます。また、バハオラは次のように命じておられます。「汝の自我に背を向けよ」「汝自らを放棄し、われに汝の目を向けるより他に、汝の安息はなし。汝の信頼を汝自らにではなく、われに置くことは、汝の務めである」「汝の顔を、わが顔に向けよ。そしてわれより他のすべてを放棄せよ」「われより他のすべてを忘れよ」。神を信じようとする者は決して神以外のものを求めてはなりません。神の美を見つめようと思う者は世俗のすべてのものに目を閉じなければなりません。神の御意と他のものの意志とが一つの心の中に同居することはできないのです。心が欲望と情欲で汚れている限り、誰も神と霊の交わりをすることはできません。世俗超脱の泉から永遠の命の美酒を飲もうと欲する者は、富の汚れから自身を清めなければなりません。自分の中に神の叡知の種を芽生えさせ、それを成長させようとするなら、その種が植えられる心の土壌は浄めら
れ、確信の水が注がれなければなりません。バハオラは次のように忠告しておられます。これは正義の時代であり、真に信仰深い者は過去に例がなかったほどの褒賞を手にすることができます。ただしこの時代においては、信仰の審査の基準も同様に高められています。信者たる者は自分の行動が我欲や偽善の塵から清められ、栄光の宮居で恩恵を受けるに値するよう努力しなければなりません。なぜなら、今や人類の「試験者たち」は、最愛なる御方の聖き面前において最も純粋な美徳と汚れなき神聖なる行い以外は何も受けつけないからです。

自我を抑えることと我欲から断絶することは、向上心に燃える人の直面する実に重要な務めです。「今や世俗超脱の道における汝らの努力は何を示さんとするかを見よう」とは、バハオラがこの書を結ばれるに当って忠実な信者に宛てられた最後の要望です。創造主は人間の本質の中に自我という不完全さを残し、人間が自身の努力によって神に向かい、神の美を反映するに相応しいものとなるために自我と葛藤し続ける意志の自由を人間に与え給いました。もしかりに自我が存在しなかったならば、人間は自分の不断の努力を通じて賞賛や褒賞を得る機会を失うことになったでしょう。人間は試練や労苦を免れるかも知れませんが、その状態では人は機械的に行動する単なる機械仕掛けの人形となってしまうでしょう。この不断の努力への要求とこの自由選択の特権は、この世を苦悩の場とするものかも知れませんが、反面、この世の生涯を勝利の場となす機会を提供しているのです。同様にそれは、正義という慈悲に満ちた原理のもとで人間にすばらしい機会を与えているのです。すなわち、精神的達成を、我々自身の知識、決断、行動によって勝ち取り、それを真に自分の功績とする貴重な機会を提供しているのです。「次の世」においては、自らの努力を通じて価値あることを達成するような機会は与えられません。そこでの進歩は自身の努力や正義によるのではなく、ひとえに神の御慈悲にかかっています。それ故バハオラは、今この世でこの機会をつかむようにと忠告しておられます。なぜならば、その機会は二度と訪れないからです。他の所で説明されているように、地獄の火とは、投げ捨てら
れて今ではもう永久に失われてしまった多くの機会の意味なのです。

「かくされたる言葉」は神の勝利のしるしであり、人類に対する神の古より続く目的成就の象徴でもあります。このような強烈な光を放つ書がかつて人類に与えられたことはなく、また今までは人類はこのような書を受け取るに足る能力すら持っていなかったのです。この書はすべての啓示を完全に統一した総和であり、啓示の威力はこの書を通じてさらに一新され、最後を飾るバハオラの言葉によってその統合が完成されたのです。「かくされたる言葉」は世界の初めから今日に至る東西すべての預言者たちが一つであることの象徴であり、最大平和を築こうとするバハイ世界信教のしるしでもあるのです。

ジョージ・タウンゼント