確信の書 (第二部)

確信の書

第二部

誠に、真理の昼の星であり、崇高なる御方の啓示者たる彼は、たとえ地上に於いて、誰一人従う者がなかろうとも、永遠に、天地万物に対し絶対の主権を保持し給うものなり。たとえ彼が極貧に在し給うとも、誠に世俗のあらゆる支配力からは独立し給うものなり、かように我は神の大業の神秘を汝に示し、神の英知の宝石を汝に授ける。されば汝、自我放棄の翼に乗り、人々の眼には覆い隠されているあの諸々の高き所へ向かって舞い上がれるであろう。

これらの言葉の意義と、その本質的な目的は、次のことを、心の浄い、精神の清められた人々に示し、説明することにある。即ち、真理の発光体であり、神の統一性の光を反射する鏡である人々〔顕示者〕は、人々の魂を教育し、総ての創造物に恵みを与えるために、眼に見えぬ古来の栄光の彼等の住居より、この世に遣わされて来たその時代や周期には関わりなく、いつも万人を動かさずにはおかない力を与えられ、無敵の主権が授けられているということである。なんとなれば、これらの隠された宝石や、秘蔵され、眼に見えない財宝は、その中に、「誠に神は何事も御意のままになし給い、何事もお望み通りに定め給う」というこの聖なる御言葉の本質を現わし立証しているからである。

不可知な御本質に在し、神々しい御存在である神は、肉体的存在、上昇や下降や出現や退却などという、あらゆる人間的属性よりはるかに崇高であることが、総ての明敏で啓蒙された心の持ち主には、はっきりとしている。人間の舌が神の讃美を十分に述べ、人間の心が神の測り知れない神秘を理解することは、神の栄光からして到底できないことなのである。神は、古今を通じ、御自身の本質の古の永遠性の中に隠れておられ、神の実在は永久に人間の眼からは隠れたままにされるのである。「如何なる視力も彼を包含し給う。彼は鋭敏なる御方に在し総てを感知し給う御方に在します。」(コーラン6.103)直接の交わりの絆で、神と創造物とが結びつけられることは到底あり得ない。神は、あらゆる分離と統合、あらゆる近接と隔絶、をはるかに超越して存在し給う。神の臨席や不在を表示する徴候は何もない。それというのも、神の御命令の御言葉により、天地万物はこの世に存在するようになったのであり、また最初の御意そのものである神の御望みにより、万物は全くの無から、実在の領域、即ち眼に児える世界に出現するようになったからである。

恩寵深き神よ!神の御言葉と、それにより創造されたものとの間に何らかの関係なり、あるいは関連なりが存在するなどと、どうして想像できようか。聖句に「神は汝らが神に注意するよう諭されたのである」(コーラン3・28)とあるのは、我の論拠の真実性を明白に証言しているのである。そして「神は単独に在し、神をおいては何ものも存在しなかった」という言葉は、その真理の確かな証拠である。神の予言者達、彼らに選ばれた人達、聖職者達、賢人達、各世代の知者達は皆、あの総ての真理の精髄を理解するには、全く無力たることを、彼ら自身、異口同音に認めており、万物の最も深い本質である神を把握するには、全く無能たることを、自ら告白しているのである。

日の老いたる者〔神〕を知ることへの門戸は、このように生きとし生けるものの面前から閉ざされているので、「彼の恩恵は万物を超越しており、我が恩恵は、万物を余すところなくおおい包んでいる」という彼の御言葉通りに、無限なる恩恵の源泉は、あの輝かしい聖なる宝石達〔顕示者〕を霊界から人体という高貴な形で現わし、万人の前に明らかに示された。それによって彼等が不変の存在の神秘を世間に伝え、また神の不滅の真髄の不可思議について語るようにと。これらの聖別された鏡達、これらの古来の栄光の曙達は、皆、宇宙の中心天体であり、その真髄であり、究極の目である神についての地上での解説者達である。彼らの知識や力は神に由来し、彼らの主権は神に源を発している。彼らの御顔の美は、神の御姿の反射にすぎないし、また彼らの啓示は神の不滅の栄光の御兆にすぎない。彼らは、神の知識の宝庫であり、天の英知の貯蔵庫である。彼らを通して、限りない恩恵は伝えられ、決して衰えることのない光が彼らによって啓示されるのである。「汝と彼らとの間には、何等の差別はない。只違っているのは、彼らは汝の僕等であり汝によって創られたものである、ということだけである」と彼はいみじくも述べられた。これこそは、「我は彼自身である」という伝承の意味するところである。

我が今述べている問題に直接関係のある伝承や言いならわしは、色々と数も多く、多種多様であるが、我は、簡略にするためにそれらを一つ一つ引用することは控えて来た。いや、天上にあろうが、地上にあろうが、万物はみなその中に示されている神の属性や御名の直接の表れである。例えば、原子一つ一つの中には、あの最大の光の啓示を雄弁に立証する数々の御兆が秘められている。思うに、あの啓示の偉大なる力がなかったなら、総ての存在はあり得なかったのであろう。一つの原子の中に輝く知識の発光体は、何と輝かしく、一滴の雫に波打つ英知の大洋は何と広々としていることであろう。総ての創造物の間にあって、人類はこのような天賦の衣を与えられ、このように素晴しい栄光が得られるよう選び抜かれているのであるから、この原理の真実性は、人類に至って最高に実証されているのである。というのは、人類には他のどんな創造物も抜きんでることも、凌ぐこともできないほどの神の属性や御名が潜在的に示されているからである。これらの御名や属性は総て、人類が享受できるものである。まさしく彼はこう述べられている、「人は我が神秘であり、我は人の神秘である」と。この最も微妙で高遠な主題を表現する聖句は、総ての天来の書や聖典の中で数多く繰返し述べられている。まさしくこう述べられている、「我は、あのものどもに、我の徴を見せてやろうぞ、世の中にも、彼ら自身の中にも」と。(コーラン41.53)またこうも述べられている、「それからお前達自身の中にも。お前達、神の御徴が見えないのか」と。(コーラン51.21)さらにまたこう述べ給う、「神を忘れ、そのため神により自らを忘れるようにされた者らのようにはなるな」と。(コーラン59.19)この点に関して永遠の王にまします彼―願わくば神秘な礼拝堂の中に住む総てのものの魂が彼への犠牲とならんことを一はこう述べておられる、「己を知ったものは、神を知った者である」と。

神かけて誓う、おお尊敬する友よ!これらの言葉を、心の中でじっくりと噛みしめるならば、神の英知と無限の知識の扉が、面前に勢いよく開かれるのを必ずや見出すのであろう。

前述のことから、万物は、その奥底の本質の中で神の御名や属性の啓示を立証していることが明白となる。各人は、それぞれの能力に応じて、神の知識を示したり表したりする。この啓示は非常に力強く、普遍であるから、眼に見えるもの、見えないもの総てをおおい包んでいる。彼は次のように述べておられる、「神を出現させることができ、神でさえ所有されない啓示の威力を持つものが、神を置いて他にあろうか。神を認めないような眼は盲である」と。同様に、永遠の王はこう言われた、「我は何を見ようとも常に、その内部に、またその前後に神を見た」と。またコメイルの伝承の中にこう書かれている、「見よ、永遠の朝から、一条の光がさした。

そして見よ!その光の波は、総ての人々の奥底の本質を貫いた」と。総ての創造物の中で最も貴品高く、最も完全である人類は、この啓示の強さにおいて万物に卓越しており、その栄光をより完全に表現している。そして総ての人間の内で最も完成され、最も秀でて、最も卓越したものは、真理の太陽を顕示する者達である。それどころか、これらの顕示者達以外の総ての人々は、顕示者の意志の作用によって生き、そのあふれるような恩寵をうけて存在し、活動するのである。汝のためでなかったなら我は天空を創らなかったであろう」。いや、彼等の聖なる御前にあっては万物は全く無に等しくなり、忘れ去られたものとなる。人間の舌は、彼らの讃美をそれにふさわしく歌うことはできず、人間の言葉は、彼らの神秘を打ち明けることは決してできない。これらの聖なる神殿達、不滅の栄光の光を反射するこれらの主要な鏡達〔顕示者達〕は、見えないものの中の見えないものである御方の表現にしか過ぎない。これら聖なる徳性の宝石の啓示によって、知識や威力、主権や支配、慈悲や英知、栄光、恵沢や恩寵というような神の総ての御名や属性が顕示されるのである。

神のこれらの属性は、あらゆる予言者達にのみ特別に与えられ、他のものには差控えられるということは決してないのである。そうではなく、神の予言者達、神の寵愛を受ける者達、神の聖なる選ばれた使者達は皆、例外なく神の御名の保持者であり、また神の種々の属性を具現する権化である。彼らはただ、それぞれの啓示の威力が違い、各自の光の勢力を比較すると差があるだけなのである。まさしく次のように述べられている、「我は、使徒達の内の或るものを他の者達より卓越させておいた」と。(コーラン2・253)それ、故、これらの属性中のどれかの光が、たとえその輝かしい寺院から、人々の眼に外見上見えたり見えなかったりすることはあっても、予言者達や、神に選ばれたもの達の神殿の中には、神の無限の御名や、卓越した属性の光が反射されていたということは、明白になったであろう。神の或る一つの属性が、これら世俗超脱の精髄達によって外面的に現わされなかったとしても、神の属性の曙であり、神の聖なる御名の宝庫である彼等が、実際にそれを持ち合わせていなかったということを意味するものでは決してないのである。だからたとえ外見上では、俗界の総ての威厳を剥奪されているかのように見えたとしても、これらの輝かしい人達、これらの美しき御顔達には、一人残らず主権とか支配力とかいう総ての神の属性が賦与されていたのである。洞察力を持った眼には、このことは全く明白であり、何等の証明も証言も必要としない。

実に、世の中の人達は、神の知識の輝かしい、澄んだ泉から、神の聖なる御言葉の奥底の意味を汲みとることができなかったから、空しい空想や気まぐれの谷の中で、思い悩み、苦しみ、激しい渇に悩まされていたのである。彼らは、喉の渇きを癒す新鮮な水から遠ざかって迷い歩き、ひどく喉をひりひりさせる塩の周囲に集って行ったのである。その者達のことについて永遠の鳩はこう述べている、「たとえ正義の道を目のあたりに見てもそれを道とは思わず、却って迷いの道を見れば、それを道だと思うであろう。それも、もとはといえば、彼らが我の御兆を一々嘘呼ばわりして、あまりにも、ないがしろにして来たからである」と。(コーラン7.145)

この実に素晴らしい高遠な宗教制〔バブの宗教制〕の中で示されているものは、このことを証明しているのである。無数にある聖旬は、威力と恩寵の天上から下されたものであるが、誰も、それに顔を向けなかったばかりか依然として俗人達の言葉にしがみついて来たのである。しかも、俗人の言葉とは、それを語る者自身、その意味の一つをも理解していないのである。こういう訳で、人々はこのように議論の余地のない真理を疑い、神の知識のレズワンや、天上の英知の永遠の牧場を失うように、自らしむけたのである。

さて、この問題に関する我の説話を更に続けて行こう。記録に残されているいくつもの伝承の原文中に証言されており、回教の輝かしい星達によって後世に伝えられたガエム〔ここではバブを指す〕の主権が、これまでに少しも明らかにされなかったのは何故であろうか。いや、それどころかその反対のことが起っているのである。彼〔バブ〕の使徒達や仲間達は人々から苦しめられたではないか。その使徒達や仲間達は、今もって彼らの敵の鋭い反抗の犠牲になっているではないか。その人達は今日、卑しい無力な人間としての生活を送っているではないか。ガエムが有するとされており、聖典中でも述べられているその主権は事実であり、何人も疑う余地のない真理である。しかしながら、ここでいう主権とは、俗人達が心の中で誤って想像していたようなそんな主権とは違うのである。更に、昔の予言者達がそれぞれ当時の人達に向かって、まさに到来しようとしている啓示の出現について宣言する時は常に、また明確に、約束された顕示者に必ず賦与されている主権について言及している。この事実は過去の多くの聖典中の記録によって証明されている。この主権は、ひとりガエムだけに結びつけられていたのではない。いや寧ろ主権という属性や、神のその他の御名と属性は総て、ガエムの前に現われた者にも、また後に現われるであろう神の顕示者達にも、常に授けられて来たものであるし、また永遠にそうあるであろう。何となれば、これらの顕示者達は、既に説明されたように、眼に見えない御方である神の属性を具現するものであり、また神の神秘を啓示するものだからである。

さらにまた、ここでいう主権とは、ガエムがこの世に現われる時、世俗的支配力の威厳を身につけていると、否とに拘わらず、彼が先天的に行使させるところの、万物を包含し、万物に浸透する威力を意味するのである。これは全くガエム自身の意向によるものである。過去の聖典に述べられている主権、富、生命、死、審判や復活、という言葉は、この世代の人達が軽々しく考えたり、想像して来たものとは全く異っているということは容易に分かるであろう。いや、主権とは、各宗教制において真理の昼の星である顕示者の内に存在し、顕示者によって行使される主権のことをいうのである。その主権は、天地万物の上に、顕示者が十二分に行使するものであり、時が来れば、世の能力や精神的感受性に直接比例して世の中に現われて来る精神的な支配権である。神の使者であるマホメッドの主権は、まさしく今日、人々の間にはρきりと現われている。回教の初期において、マホメッドの信教に何が起こったかを汝はよく知っている。

邪な不信心者達や、当時の聖職者達とその仲間達の手によって、あの霊的真髄、あの最も浄らかな聖なる人は、何と痛ましい苦難を受けられたことであろうか。彼らはマホメッドの行く手に、何と多くの棘や茨をまき散らしたことであろうか。あの浅ましき世代の者達は、自らの邪で悪魔のような妄想の故に、あの不滅の人に対してあらゆる危害を加えることを、永遠に幸福を得る手段だと考えていたことは明白である。それというのも、当時、世に知られていた聖職者達、例えば、アブドーラーエ・オベイ58、隠者のアブーアメル59、力ーブ・エブンエ・アシュラフ60及びナズル・エブンエ・ハレス等は皆マホメッドを詐欺師としてあしらい、気違いとか、中傷者だと断言していたからである。マホメッドに対する彼等の非難はあまりに猛烈であったため、我がそれについて語る時、神は墨の流れを遮り、筆の動きを止め、紙片がそれを記録することを禁じ給う程である。これらの悪意に満ちた非難に扇動されて、人々は起ち上がり、彼を苦しめるようになった。もしその主な扇動者が時の聖職者達であり、その信徒達に彼のことを非難し、自分達の間から彼を追い出し、彼を異端者だと言いふらしたならば、その苦悩は如何に激しいものになるか想像がつくであろう。丁度そのことが、この聖なる僕の上に振り掛かったではないか。またそのことを総ての人達が実際に見たではないか。それ故マホメッドは、「いかなる神の予言者も、我が蒙ったこれ程の危害を受けはしなかった」と叫ばれた。またコーランの中には、彼に向かって吐かれた総ての中傷や非難、並びに彼が蒙った総ての苦難が記されている。汝は、それらの節を参照にして、彼の啓示に振りかかったことを知るがいい。彼の蒙った苦難は、あまりにも苛酷であったから、しばしの間総ての人々は、彼や彼の伸間達との交りを全く止めた程度であった。彼と交わるものは誰であろうと彼の敵の容赦ない残虐な行為の犠牲となったのである。

我は、この点に関して、あの聖典〔コーラン〕中のほんの一節をここに引用してみよう。もし汝が、識別力のある眼でその事実をよく観察してみるならば、終生、あの虐げられ、抑圧されて来た神の使者、マホメッドの受けた危害を、嘆き悲しむことであろう。この聖句は、マホメッドが人々の反抗や打ち続く責め苦の重圧下にあって、樵惇し悲嘆にくれていた時に現わされたものである。彼が苦悩の中にあった時、サドラトル、モンタハから呼びかけるガブリエルの声が、こう語っているのを聞いた、「だが、彼らの反抗が汝にとって苦痛なのであれば―できるものなら、地下に通じる抜け穴か、さもなければ、天に昇る梯子でも探し出すがいい」と。(コーラン6・35)この言葉の意義は の場合全く救済方法がないこと、彼が地下深く隠れるか、さもなければ天上高く舞い上がらない限り人々は彼から手を引かないであろうということである。

今日では、その変わりようがどんなに大きいかをよく考えてみよ。彼の名前の前にひれ伏す君主達が、いかに多いかを考えてみよ。彼の庇護を求め、彼の教えに忠誠を捧げ、またそうすることに誇りを持つ国家や王国の数が、何と多いことか。今日では、全く謙虚な態度で、彼の祝福された御名をほめたたえる讃美の言葉が、説教壇の上から立ちのぼり、また、彼を崇拝するようにと彼の信徒達の群れを招く声が、寺陰の高い尖塔から鳴り響いている。彼の教えを奉じることを拒み、不信仰の衣を脱ぐことを拒んだあの地上の王達でさえ、あの慈愛に満ちた昼の星の偉大さと圧倒的威厳を認め、承認しているのである。彼の地上での主権は、このように偉大であるから、その証拠を汝は、到る所に見ているのである。この主権は神のあらゆる顕示者達の一生の間に、または天上の領土の彼等の真の住居に昇天した後に、必ず現われ、確立されるに違いない。今日汝が見ているものは、この其理の確証に過ぎない。しかし、ここで本来意図されているものは、霊的な支配権であり、それは顕示者達の内に存在し、永遠の昔から未来永劫に至るまで、彼らの周囲をめぐっているのである。それは一瞬たりとも彼らから切り離されることはない。その支配権は、天地の万物をおおい包んでいるのである。

次のことは、真理の昼の星であるマホメッドが行使した主権の証拠である。たった一つの聖句をもって、彼が如何にして暗黒から光明を、邪悪から正義を、また不信心者達から信仰厚いもの達を分離したか、これ迄に聞いたことはなかったか。死者の蘇り、決算の日、最後の審判等のような、汝が聞き及んでいる審判の日についての総ての御兆や言及等は、あの聖匂の啓示によって明らかにされているのである。啓示されたこれらの言葉は、それを聞いて、「おお神よ、我らの主よ、我らは確かに聞きました。そしてそれに従いました」と叫んだ正しいもの達に対しては祝福であったが、それを聞いて「我らは聞き、背きました」と、きっぱり言い切った邪なもの達に対しては呪であった。神の御剣のように鋭いそれらの言葉は、信心深いものと、不信心なものとをはっきりと区別し、また父親と息子とを切り離しもした。彼を信じると告白した人達と、彼を拒んだ者達とが、どれだけ互いに相争い、互いの財産をねらっていたか、汝はその眼でしっかりと見て来た。如何に多くの父親達が、その息子らに背を向けたことか、如何に多くの愛する者達が、自分達の最愛なる者を忌避したことか。神のこの不思議な御剣は、あらゆる人間関係を引き裂いてしまうほどに冷酷で、鋭いものだったのである。しかしまた、神の御言葉の結合力についてもよく考えてみよ。長年の間、自我の悪魔によって彼等の中に敵意や憎悪の種子を蒔かれて来た人達が、この不思議な卓越した啓示に向かって忠誠を捧げるようになってからは、お互いに大いに融和し、交り合うようになり、彼らがあたかも同一の親から生れ出たかのように見えたその様子を、よくよく観察して見るがよい。神の御言葉の結合力は、このように偉大なものであり、それは神以外の総てのものを放棄し、御兆を信じ、栄光の御手より神の聖き恩恵のコウサルの水を飲みほした人々の心を一つに結ぶものである。更にまた、信仰も種々異なり、信条も相対立し、気質も相反している人達が、神のレズワンから漂って来る神々しい春の、再生の芳香により、神の和合の新しい衣に身を装い、神の唯一性の盃から聖なる飲物を授ったことの、何と多かったことであろう。

これこそが、「狼と子羊とが食物をともにする」(旧約聖書、イザヤ書65.25)という有名な言葉の意義である。一つの牧場でこれらの動物が、一緒に草を食むような咋代を見ようと、古い時代の民族のように、いまだに待ち望んでいる人達の無知や愚かさを見よ。彼らの愚劣さはこれ程である。彼らの唇は理解の盃には決して触れたことがなく、彼らの足は正義の道を少しも踏んではいなかったように思われる。それに、このようなことが起ったとしても世の中にとって一体何の役に立つであろうか。こういう人達について、彼はいみじくも言っておられる、「彼らは心を持ちながら、それでもの事を理解できず、目を持ちながら、それでもの事を見ることができない」と。(コーラン7・178)

神の御意の天上から下されたこの一聖句で、いかにして世の中と、そこにある万物とが、神との決算の場に立たされたかをよく考えてみよ。神の真理を認め、神の方に顔を向ける者は誰でも、その善行がその悪行にまさり、総てその者の罪は免除され許されたのである。それによって、神に関するこれらの言葉、即ち「神は速かに決算される」、の真理が明らかにされる。もし汝等が、神の知識の領土を探検し、神の英知の神秘を測り知るならば、神はこのようにして邪悪を正義に変え給うということが分かるであろう。同様に、愛の盃のお相伴に預かったものは誰でも、永遠の恩寵の大洋と、久遠の慈悲の雨とから、自分の分け前を受けて、信仰の生活、即ち天上の永遠の生命に入ったのである。しかしその盃から顔をそむけたものは、永遠の死を宣告されたのである。聖典の中で述べられている「生」とか「死」とかいう言葉は、信仰の生命と不信仰の死を意味している。これらの言葉の意味が把握できないため、大抵の人達は、顕示者を拒否したり軽蔑したりして、その聖なる御導きの光を受ける機会を逸し、あの永遠の美の模範に従うことを拒んだのである。

コーランの啓示の光が、マホメッドの聖なる心の室内に燈された時に、彼は最後の日の審判や、復活、判決、生、死、の審判の裁断を人々に下した。すると忽ち反旗が掲げられ、嘲笑の扉が開かれた。そこで、神の霊である彼は不信心者達が言った通りをこう記録された、「『汝等死後、必ず甦らされるであろう』と言うと、不信心者達はきっと、『それではまるで魔術ではないか』などと叫ぶであろう」。(コーラン11・7)再び彼は述べられ、「全くもって、不思議と言えば彼らのこの主張ほど不思議なことはない。「なんと?我々は一度土になった時、また創りなおされて生き返るというのか」」と。(コーラン13.5)他の一節で、彼は怒って次のように述べられた、「我〔神〕ともあろうものが、第一回の創造で疲れ果ててどうなろう。それなのに彼らは、新しい創造があることを疑っている」」と。(コーラン50・15)

コーランの註釈者達や、それを文字通りに解釈しようとする者達は、神の言葉の奥深い意味を誤解し、その本質的な目的を掴むことができなかったから、文法上の規則に従って、「エザ」、これは「もしもし」とか「……の時」とかいう意味だが、この言葉が過去の時制より先行する場合には、いつでも、それが未来の出来事に言及している、と説明しようとした。彼らは後になって、その言葉が実際に出てこない聖典中の聖句を説明するのに、ひどく困惑してしまった。まさしく次のように述べられている、「そしてラッパの吹鳴があった―見よ!それがあの恐ろしい約束の日だ!そして、総ての魂は一人の追っ手と、一人の証人に伴われ、決算を受けに呼び集められる」。(コーラン50・20)この聖句や、いくつかの同様な聖旬を説明するに当たり、彼らは「エザ」という語がそれらの句に暗に含まれていると論じた。また他の場合に、彼らは審判の日は避けられないものであるから、そのでき、ことを、未来のことではなく過去のこととして書かれているのだ母空々しい論争をした。彼らのこじつけは、何ととりとめのないものではないか。彼らの盲目は、何と嘆かわしいことではないか。マホメッドの啓示により、この原典中に判然と鳴り響いたラッパの音を認めることを彼らは拒んだのである。彼らは、ラッパに息を吹き込んだ新しい生命を与える神の霊魂から自らを遠ざけ、愚かにも神の僕の一人にすぎない熾天使の吹くラッパの音を聞こうとして待ち受けている。審判の日の天使である熾天使や、それらのような者は、マホメッド自身の言葉によって定められたものではなかったか。言挙げよ。何たることよ。汝らは、自分達のためになるものを邪なものと交換しようとするのか。汝等が誤った交換で得たものは実に卑しいものである。誠に汝等は邪悪で、重大な損失をしている者等である。

いや、「ラッパ」とは、天地万物の中心に響き渡ったマホメッドの啓示のラッパのことであり、「復活」とは神の大業を宣布するための彼自身の起ち上がりを意味するのである。マホメッドは、罪人や傲慢なる者達に対し、それぞれの肉体の墓場から起ち上がり、急ぎ出るように命じ、信仰の美しい衣で装わせ、新しく、素晴らしい生命の息吹きで蘇えらせた。あの神々しい美であるマホメッドが、「復活」とか「審判」とか「楽園」とか「地獄」とかいう象徴的な言葉の内に隠された神秘の一つを明かそうとされた時、霊感の声である30ガブリエルが次のように言っているのが聞こえた。「やがて彼らは、汝に向かって頭を振り『それはいつのことか』と言うであろう。言ってやるがいい『案外近いかも知れないぞ』と」。(コーラン17・51)この聖句の持つ意味だけで、世の総ての人々には充分足りるであろうに。もし彼等がそれを心の中でよくよく考えるならば。

恩寵深き神よ!どこまであの者等は、神の道からそれ、さまよい出たことであろうか。復活の日が、マホメッドの啓示によって到来し、彼の光と御兆が、この大地と、そこにある万物をおおい包んだにも拘わらず、なおその者達は、彼を廟り笑い、当時の聖職者達が、愚かで空しい妄想から考え出したあの偶像にすっかりとらわれて、天の恩恵の光や神の慈悲の雨から自らを遠ざけたのである。実に、卑屈な甲虫は、決して聖らかな芳香をかぐことはできないし、また暗黒のこうもりは、決して大陽の輝きに面を向けることはできないのである。

これと同じようなこみが、それぞれの神の顕示者の時代にも起こっているのである。イエスはまさしくこう述べられた、「汝ら新に生るべし」(新約聖書、ヨハネによる福音書3・7)と。更にまた「人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能わず。肉によりて生るるものは肉なり、霊によりて生るるものは霊なり」(新約聖書、ヨハネによる福音書3・516)と。これらの言葉で示されることは、どの宗教制においても、霊から生れ、聖なるものを顕示する者の息吹によって蘇ったものは誰でも、誠に「生命」と「復活」に到達し、神の愛の「楽園」に入ったものの仲間になる、ということである。そして、その仲間に入れなかったもの達は皆、「死」と「剥奪」、不信心の「火」、また神の「激怒」に責められる。総ての聖典や書物や羊代記の中で、その唇で真の英知の霊妙な盃を賞味せず、その時代の聖なる霊の恩恵を心に受けることを拒んだ人達に対しては、死、火、盲目、理解力や聴力の欠如、といった判決が言い渡されているのである。まさしく前述されている通りである。「彼らは心を持ちながら、それでもの事を理解できない」と。(コーラン7・178)

福音書の別の文中にこう記されている、「ある日、イエスの一使徒の父親が死んだ。その使徒は、父親の死をイエスに伝え、行って我が父を葬ることを許し給え、と暇を乞うた。すると、世俗超越の精髄であるイエスは『死にたるものに、その死にたるものを葬らせよ』と答え給う。」(新約聖書、ルカによる福音書9・60)

同様に、クーフェー61の二人の男が、回教の大教主であったアリのところに行った。一人の男は一軒の家を持っており、それを売りたいと思っていた。他の男は、その家を買いたいと思っていた。二人はアリの承諾の下にこの取引を成立させ、契約書を書くことにしていた。神の碇の解釈者であるアリは、代書人に呼びかけて言った、「『一人の死人が、他の死人から、一軒の家を買った。その家は四つの部分にしきられている。一つは墓場の方に通じ、二つ目は廟の方へ、三番目はセラト62の方へ、四番目は楽園か地獄のどちらかへ通じている』と書いてくれ」と。もしこの二人の魂が、アリのラッパの吹鳴により、蘇っていたなら、もし、彼の愛の力により、誤りの墓から起ち上がっていたなら、死の判決は、決して彼らに下されなかったであろうに。

各時代、各世紀の、神の予言者達や、彼等の選ばれた者達が目指すところは、「生命」、「復活」、「審判」という言葉の、霊的な意義をはっきり述べること以外の何ものでもなかったのである。もし人が、アリのこの言葉を、心の中で暫時、熟考してみるならば、「墓場」、「廟」、「セラト」、「楽園」、「地獄」、という語の中に隠されている神秘がきっと、総て分かるようになるであろう。ところが、何とも奇妙で、哀れなことに、よく見ると人々は皆、自我という墓場に閉じ込めえ、煩誉最も奥深きに埋められているではないか。もし汝が、神の知識の清澄なる水を・ほんの一滴でも飲めたなら、真の生命は、肉体の生命ではなく霊の生命であることを容易に悟ることができるように。というのは、肉体の生命は、人間にも動物にも共通なものであるが、霊の生命は、信仰の大洋の水を飲み、確信の果実を食べた、心の純潔なものだけが持つものだからであるこの生命は死を知らず、またこの存在は不滅の栄冠を頂いている。

まさしく次のように語られている、「真の信徒たるものは、現世と来世に共に生きる」と。もし「生命」という語が、この世での生命を意味するものであれば、死が必ずその生命に追いつくことは明白である。

総ての聖典中に記されている記事は、同様に、この高遠な真理と、この最も崇高な言葉を証言しているのである。更にまた「殉教の王子」(マホメッドの叔父の称号)ハムゼーと、アブー・ヂャール63について述べられているコーラン中の聖句は、我の言っていることが真理であることの輝かしい証拠であり、確かな証明である。即ち、「死んでいたものに、我は生命を授け、また光明を与えてやった。このようにして人々の間を往来できるようになった者と、暗黒の中にあって、そこから出られぬ者とが同じであろうか」と。(コーラン6・122)この聖句は、ハムゼーが既に信仰という聖衣を授けられ、アブー・ヂャールが反抗と不信心でその残虐性の極に達した時、最初の御意の天上から下されたのである。全能の泉と永遠の神聖さの源から、ハムゼーには永遠の生命を、そしてアブー・ヂャールには、永遠の天罰を与えるという宣言が、審判として下されたのである。これが不信心者達の心の中に、不信仰の灼熱の炎を燃え立たせ、彼の真理を公然と拒否するように駆り立てる契機となった。不信心者達は騒ぎたてて言った、「いつハムゼーは死んだのだ。いつ彼は復活したのか。いつ、かような生命が彼に与えられたのか」と。彼らには、これらの高貴な言葉の意味が理解できなかった。さりとて、これらの言葉から神の知識のコウサルの水が注がれるようにと、信教の公認された解釈者達に啓蒙を求めもしなかった。故に、かような災の炎が人々の間に燈されたのである。

神の知識の太陽が、さん然と輝いているにも拘わらず、総ての人達は、貴賎の別なく、あの暗黒の王子の卑屈な代弁者達の方法にしがみついているのを、汝は現在見ているのである。人々は絶えず、信教の難解な部分の解明にあたり彼らの助けを懇願しているのだが、知識の足りない彼等は、只自分達の名声や出世の支障にならないような返事ばかりしている。甲虫さながらに、下等で、あわれなこれら代弁者達が、じゃこうの芳香を帯びた永遠の微風にあたったこともなければ、また天束の歓喜のレズワンに、足を踏み入れたこともないことは明白である。なれば、如何にして彼等が聖い不滅の芳香を、他の者達に分け与えてやることができようか。

彼らの手段はこうであり、また永遠にそのままの状態にあるだろう。神の方に顔を向け、悪魔の代弁者達を拒否した人達だけが、神の御言葉の知識に到達出来るであろう。かように神は、彼の啓示の日の捷を再確認され、威力のペンで、天国の栄光の覆いの下に隠されている神秘の書簡に、そのことを記されたのである。もし汝が、これらの言葉を心に留め、その外面上や、内奥の意義をよくよく思いめぐらしてみるならば、今日、人々と審判の日の認識との間で、克服し難い障壁となっている総ての難問題の意味がはっきりと分かるようになり、それにより、汝にはもう、当惑するような問題はなくなるであろう。汝が神の慈悲の大洋の岸辺から、喉の渇きを癒さないままで帰って来るようなことのないように、また、汝の心の望みである不滅の聖所から、貧しい姿で帰ってくるようなことのないように、我は心より望んでいる。いまや、汝の探求と努力の結果は何であるかを拝見する時が来た。

要するに、これらの事実を明らかにしようとしている我の目的は、王中の王である彼の主権を示すことにあったのである。正しく判断せよ。たった一言述べるだけでかくも浸透して行く感化力や支配力や、畏るべき威厳、を示したこの主権の方がすぐれているか、それとも、臣民のために配慮し、貧民達を救済するにも拘わらず、外面的な東の間の忠誠しか得られず、人民達の心の中には感動も尊敬も起こさせない、これら地上の王達の、俗界の支配権の方がまさっているかを。彼の主権は、一言の威力によって全世界を制圧し、生き返らせ、活気づけたではないか。何と!卑しい塵と、主中の主である彼とを比較することが一体できるであろうか。どのような舌が、両者の間にある雲泥の相違を敢えて述べることができようか。いや、いかなる比較も彼の主権の神聖な聖所に至るには足りない。よくよく考えてみるならば、彼の閾に仕える僕でさえも、総ての創造物を統治していることに気付くであろう。このことは既に目撃されていることであり、また今後とも明らかにされるであろう。

これは、人々の能力や理解の程度に合わせて、我が説明した霊的主権の意味のほんの一部にしか過ぎない。というのは、万物の原動力であり、栄光に輝く御顔である神は、この虐げられしもの〔バハオラ〕が明らかにすることも、また、これら下劣な人達が理解もできないような権威の源だからである。人々が神の主権を讃美する以上に、はるかに神は崇高に在し、また人々が想像している以上に、神は栄光に満ち給う。

さてこのことについて心の中でよくよく考えてみよ。もしこの主権という語が、俗界での主権や世俗的な支配権を意味するものだとしたら、またもしそれが、地上の総ての人々や血族達の服従や外面的な忠誠を意味するものだとしたら―それによって神の愛し給うもの達は高められ、平和に暮らせるようになり、神に背くもの達は、卑しめられ、苦しめられねばならないのだが―かような形の主権は、総ての支配力の源であり、万物がその威厳と権威を証言するところの神御自身には当てはまらない。というのも、汝は、大半の人々が、いかに神の敵の支配下にあるかを見たではないか。彼らは皆、神の恩恵の道から顔をそむけていたではないか。

彼らは、神が禁じ給うたことをしているではないか、また神が命じ給うたいろいろのことを実行しないばかりか、却ってそれを拒絶したり、それに反対したりしたではないか。神の友人達は、常に神の敵の暴虐の犠牲になっていたではないか。これらの事実は、真昼の太陽の輝きよりも、なお明らかなのである。

故に、おお、疑問を解こうと探求している者よ、神やその選び給うた人達の眼から見れば、地上の主権などは無価値なものであり、また永久にそうであることを知るがいい。さらに、もし支配権や統治権が、俗界の権力とか世俗の威力を意味するものと解釈されるならば、次に述べる聖句を、汝が説明することは不可能となるであろう。その聖句はこうである「誠に我等の軍勢は、大勝利を得るであろう」。(コーラン37・173)「彼らは口に物を言わせて、神の光を消そうとする。しかし不信心な者共がそれをどんなに憎んでも、神の御意により神の光はますます完成されるのである」。(コーラン9.33)「神は万物を支配なさる御方である」。同様に、コーランの殆どの箇所では、これが真実であることを証明している。

もし、これらの愚かで卑しいもの達の、根拠のない論争が真実だとしたら、彼らは、これら総ての聖なる言葉や、天来の引喩を拒否する以外に、とり得る道はないであろう。例えば、アリの令息・ホセインよりもすぐれており、神に、より近い戦士がこの地上に見出せようか。それ程までにホセインは、比類ない人物であった。「世の中に、彼に匹敵し、彼の好敵手となれるものはなかった」。しかし、ホセインの身に降りかかったことは、汝も知っての通りである。「神の呪いが暴虐の民の上にあれ」。(コーラン11:18)

「誠に我等の軍勢は、大勝利を得るであろう」というこの聖句が、もし文字通りに解釈されたとしたら、それは神の選び給うた人達や神の軍勢には、決して当てはまらないということは明らかである。なぜなら、ホセインを見よ。彼の英雄的行為は、太陽のように明白であったが、粉砕され、征服されて、とうとうタフ64の地、カルベラ65で殉教の苦杯をなめたのであった。同様に、次の聖句「彼らは口にものを言わせて、神の光を消そうとする。しかし不信心者がそれをどんなに憎んでも、神の御意により、神の光は、ますます完成されるのである」を、もし文字通りに解釈するとしたら、それは決して事実とは一致しない。何故なら、いつの時代でも、神の光は、外見上は地上の人達によって消されていたし、また神の灯は彼らによって吹き消されたからである。なれば如何にして、これらの灯の主権が優勢であることを説明できようか。神の光は、ますます完成される」とする神の御意に備わった威力とは、どんな意味を持つのであろうか。既に目撃されているように、不信心者達の憎悪は誠に激しいものであったから、これらの神の発光体達〔顕示者達〕は、一人として、避難の場所を見出すことはなかったし、また安泰の盃を味わうこともなかったのである。顕示者達は、これ程痛ましく抑圧されていたから、実に卑しい者までが、思う存分の苦痛をこれら存在の精髄達に与えることができた。これらの苦難は人々によって目撃され、また評価されて来たことでもある。それ故、こういう人間達は、これらの神の御言葉を、また、永遠に栄光を放つこれらの聖句を、どうして、理解したり解釈したりすることが出来るであろうか。

しかし、これらの聖句の言わんとするところは、彼らが想像していたようなものではない。いや、それどころか、「支配権」、「威力」、「権威」、というような言葉は、全く異なった地位や意味を示しているのである。例えば、地上に注がれたホセインのあの血の滴の浸透力についてよく考えてみよ。その土でさえ、彼の血の神聖さと威力により、人々の肉体や魂の上にどれ程の権勢と感化を及ぼしたことか。治癒を求めるものは、あの聖地の土壌に手を触れることによいやって癒され、また自分の財産を守ろうとする者は誰でも、断固とした信仰と理解とをもって、あの聖なる土の少量を家の中に秘蔵し、自分の全財産を守った。その土の権勢と感化は、これ程、大であった。しかし、これらはその威力の外面的現われに過ぎない。もし我が、その隠されている功徳について詳しく述べたとしたら、人々はきっとこう言うであろう、「彼は実のところ、その土自体を主中の主と考えているのであって、神への信仰は、全く捨て去っているのだ」と。

更にまた、ホセインの殉教に伴って生じた恥ずべき事態について思い起こしてみよ。外見上は、誰一人として彼を助けようとはしなかったし、誰一人として彼の遺骸を引取って、それを葬ろうとはしなかった。彼の孤独はいかばかりだったかを、つくづく考えてみよ。ところが今日では、地球のさい果ての隅々から、巡礼の衣装を身にまとい、彼の社の敷居に額ずこうと、その殉教の地を求めてやって来る人々の如何に多いことか。これこそが神の権勢であり威力である。これこそが神の栄光に輝く主権であり尊厳なのである。

このようなことが、ホセインの殉教後に起こったからといって、この栄光が彼にとって全く無益なものであると考えてはならない。というのは、あの聖なる御魂は不滅であり、神のような生命を続け、天上の再会のサドレ〔枝〕にある、栄光に満ちた隠れ家に住んでいるからである。これらの存在の精髄達は、犠牲の輝かしい典型である。その人達は、自分の生命、財産、霊魂、その他一切を最も敬愛する御方の路上に捧げて来たし、また今後も、そうし続けて行くことであろう。いかに高貴な地位であろうとも、その人達にとって自らの地位より尊いものはないのである。何となれば、愛する者にとって最愛なる御方の喜びの他に望むものはなく、また彼との再会以外に目ざすものはないからである。

ここで我が、ホセインの殉教の神秘の微光を汝に話して、その成果を明らかにしようとしても、この頁数では十分でもないし、またその数々の神秘の意味を述べ尽くすことは不可能である。願わくば、神のお思召しにより、慈悲の微風が吹きわたり、神々しい春が新しい生命の衣裳で、存在の木を装わせんことを。それによって、我らは神の英知の神秘を見出し、神の摂理によって、万物の知識に囚われることもなくなるであろう。我は未だ、この地位に到達していた者をほんの数人しか見たことはないが、彼らには名声など全くなかった。未来という時が、神の審判の命令とはいかなるものであるか、また御神慮の神殿が啓示するものは何であるかを明らかにするであろう。こうして我は、汝に神の大業の不可思議を語り、汝の耳に天上の調べの曲節を聞かせている。それ故、恐らく汝は、真の英知の地位に到達でき、その果実の分け前に預かることができよう。従って、これら天来の威厳の発光体達〔顕示者達〕にとって、たとえその住む所は、塵の中であろうとも、真の住居は、天上の領土にある栄光の座である、ということを確信せよ。たとえ俗界の財産は総て奪われていても、尚彼らは、測り知れない富の領土に舞い上がっているのである。また、たとえ敵に捕えられ激しい責苦にあっている時でさえ、彼らは、権威と天上の主権の右手に鎮座しているのである。たとえ彼らが屈辱の暗黒の最中にあろうとも・不滅の栄光の光は彼らの上に輝き、たとえ彼らが無力の中にあろうとも、無敵の主権の御兆は彼らの上に雨と降り注がれているのである。

そこで、マリヤの子・イエスは或る日、腰を下ろしておられた時、聖霊の口調で次のように語られた、「おお人々よ!我が食物は野の草であり、我はそれで飢えを満たす。我が床は大地であり、我が夜の灯は月光であり、我が駿馬は、我自身の足である。見よ、地上の何ものが、我より富めるや」と。神の正義にかけて言う。多くの財宝が、この貧困を取りまき、無数の栄光の王国が、かような屈辱にあこがれている。もしも汝が、上述の言葉の内奥にある意味の大洋の一滴にでもありつけたなら、汝はきっと、この世と、そこにある総てを捨てて、38不死鳥のように、自身を不滅の火炎に投入し、焼き尽くしてしまうであろう。

また同じように、或る日のこと、サデグの仲間の一人が、彼の前で自分の貧困について不平をいったという話がある。そこで、あの不滅の美と呼ばれるサデグが答えて言うには「誠にお前は富んでおり、富の一飲みを飲みほしたのである」。貧困に打ちしおれていたその男は、その輝かしい顔が語った言葉を聞いて、当惑して言った、「私の財産は一体どこにあるのですか。私はただの一文もなくて困っているのに」と。するとサデグは「お前は、我が愛を持っているではないか」と言った。その男は「まさに、私はそれを持っております。おお神の予言者の子孫であるあなたよ」と答えたので、サデグが、その男に尋ねて言うには「お前はこの愛を金!貨千枚で交換するか」。その時、男は「いいえ、たとえこの世界と、そこにある全部が得られようと、私は決して、それを交換したくはありません」と答えたのであった。そこでサデグは言った。「このような財宝を持っているものを、どうして貧乏人と呼べようか」。

これら虚栄心の強い、愚かもの達の眼や心は、この貧困や富、この屈辱や栄光、この支配力や権力等というものに向けられているが、これらのものは総て、神の宮廷にあっては全く無に等しいものとなるのである。いみじくも、こう述べられている、「おお人々よ!汝らは神を必要とする貧民である。だが神は豊かにして、自ら満ち足り給う御方に在す」と。(コーラン35・15)故に、「富」とは、神以外の一切のものから独立していることを意味し、また「貧困」とは、神に由来するものに欠けることを意味するのである。

同じようなことだが、マリヤの子・イエスを取りまいていたユダヤ人達が、イエスを異端者と決めつけて、死刑を宣告するために迫った日のことを思い浮べてみよ。彼らはイエスに対して、自分は救世主であり、神の予言者であると主張した、と白状するよう迫り、神の啓示の天上に輝く昼の星であったイエスを、当時の指導的な聖職者であったピラトとカヤパ66の処へ連れて行った。祭司長達は、皆、宮邸に集まり、群衆は、イエスに嘲笑を浴びせ、害を加えようと、その受難の見物に集まった。彼らは、イエスに自分の主張を告白させようとして、繰り返し訊問したが、イエスは平静を保ち、一言も述べられなかった。そこで遂に、神に呪われた者が立ち上がり、イエスに近づきながら批難して言った。「お前は聖なる救世主だと言ったではないか。お前は『我は王中の王であり、我が言葉は神の言葉だ。我は安息日の碇を打ち破るものだ』と言ったではないか」と。そこでイエスは頭を挙げて、「お前には、威力と権威の右手に座している入の子が見えないのか」と言われた。これがイエスの御言葉であったが、神から授けられ、天地の万物を包容している内奥の威力の他には何の力も持たれないイエスが、外見上いかに無力に見えたかを考えてみよ。このことの後で、イエスの身に振り掛かったことの一部始終を、我はいかにすれば語ることができようか。イエスに対する彼らの残酷な仕打ちを、いかにすれば記すことができようか。結局彼らが、その祝福された人物にあまりにひどい苦痛を浴びせたため、彼は第四の天国へ逃れて行かれたのである。

聖ルカによる福音書の中に、またこういうことが記されている。或る日、イエスが、中風を病んで床に臥しているユダヤ人の側を通り掛かられた時、そのユダヤ人はイエスを見、それがイエスであると知り、お助け下さいと叫んだ。そこでイエスは彼に言われた、「床より起きよ、汝の罪は許されたり」と。傍に立っていたユダヤ人達の中の或るものが抗議して言うには、「神以外の何ものが、罪を許すことができようぞ」。そこでイエスは直ちに彼らの考えを見抜いて、「中風を病むものに、起きよ、床をとりて汝の家に帰れ、というのと、汝の罪は許された、と言うのと、どちらがたやすいか。人の子は地上にて、罪を許す権威のあることを汝らに知らせんためなり」(マルコによる福音書2・3‐12)と答えられた。これこそが、真の主権であり、神の選び給うた者達の権威とはかようなものである。我が、繰り返し述べているこれらのことや種々の資料から引用している事柄は、ただ、神の選び給うた者達の言葉の中で暗示されている意味を把握することにより、この言葉が汝の足をふらつかせたり、心をうろたえさせたりすることのないようにするためである。

このようにして、我らは確信の道を着実に踏みしめることができよう。そうすれば恐らく、神のお喜びの草原から吹き渡る微風が、神の承諾の香わしい薫りを我らの上に漂わせ、朽ち果つべき我らをして、久遠の栄光の王国へ到達せしめるであろう。その時こそ、汝は、多くの伝承や聖典中に述べられている主権等の、奥深い意味を理解できるようになるであろう。そしてまた、ユダヤ教徒やキリスト教徒の執着してきたこれらのことや、これら教徒達がマホメッドの美の上に加えた中傷と同じようなことを、今日コーランの民が受け継いでおり、「バヤンの点」〔バブ〕に対する彼らの批難が、このようなものであったということは既に明白で、汝も知っているであろう-神の啓示の王国に住む人達の魂が皆、彼の犠牲とされんことを。彼らの愚劣さを見るがよい。このコーランの民は、以前ユダヤ人達が言ったようなことを言いながら、なおそれに気付いていないのである。彼らについて述べられた彼の言葉のいかに適切、真理であることよ。即ち、「そのまま放置せよ。彼らをして、空論と戯れにふけらしめよ。」(コーラン6.91)、「おおマホメッドよ!汝の命にかけていう。彼らは自らの幻想に逆上し、とりつかれている」と。(コーラン15.72)

眼に見えぬ者、永遠なる者に在す神聖なる精髄が、マホメッドの昼の星を知識の地平線上に昇らしめ給いし時、ユダヤ教の聖職者達がマホメッドに逆って唱えた種々の異論中に、モーゼ、の後にはもはや神は予言者を遣わされる筈がない、というのがあった。まさに、聖典は、モーゼの宗教制墨法が地球の全体を取りまく程にモーゼの信教を広め、その民の福利高上させるために必ず出現する、その人物について言及している。遊離と誤ちの谷間をさまよう人々の語った言書ついて、永遠の栄光の王は、その聖典中に、「『神の御手は、鎖で縛られている』などとユダヤ人は言う。自分達の手こそ縛られており、そのようなことを言ったことによる祟りを受けている`やいや神の両手は、大きく拡がっている」(コーラン5.67(69))、「神の御手が、彼らの手の上に置かれている」(コーラン48・10)と、引用されている。

コーランの注釈者達は、この聖旬の啓示にまつわる情況を、いろいろと述べているが、その言わんとするところを、汝は、しっかりと理解するよう努力しなければならない。ユダヤ人達の考えたことがいかに間違っていたかを彼は説いておられる。全くの王であり、モーゼの御顔を顕示し給い、彼に予言者としての衣を授け給うた御方の御手、このような御手が、どうして鎖で縛られたり、手かせをはめられたりしようか。モーゼの後には、もはや、神には、使者を出現させる力がなくなったなどと、どうして考えられようか。彼らの言い分は、実に馬鹿げているということが分かるであろう。それは、知識や理性の道から、何と遠くそれていることか。今日においても尚、人々が、このように愚かで不合理なことに耽っているのを見よ。千年以上もの間、彼らは、この聖句を吟誦し続けて来たし、またユダヤ人達に対する非難を、無意識のうちに口にして来ながら、自分達が公然と、または秘かに口にしていることが、かのユダヤ人達の意見や信条と同一のものであるということに彼らは全く気付いていないのである。総ての啓示が終わり、神の慈悲の門は閉ざされ、永遠に神聖なる曙からは、二度と再び太陽は登らず久遠の恩恵の大洋は永久に鎮まりかえり、古来の栄光の神殿からは、もはや神の使者達の出現はなくなったという彼らの根拠のない言い分を、汝は確かに聞き、知っているであろう。これらの狭量で、卑劣な者達の理解はこの程度なのである。これらの人々は、万物をおおい包んで止まない神の恩寵や、豊かな慈悲の流れが止められていると想像している。その流れの停止などということは、及びもつかないことである。彼らは四方より起ち上がり、暴虐を行う準備を整え、自らの空虚な幻想の苦々しい水で、神の燃えさかる薮の火を消そうと懸命に努力しており、威力の天体が、自身の強大な砦の中で神の火を守るということを忘れているのである。この人々は、神の大業の本質的な目的を認めず、またその神秘や実質の知識に欠けていたため、全くの窮地に陥ったのも誠に当然なことである。何となれば、総ての人々に約束されており人類に授けられた最高で最もすぐれた恩寵は、「神の御前に参じ」、神を知ることだからである。これこそは、御恵み深き御方、日の老いたる者、が人類に授けられた最上の恩恵であり、創造物に与えられる完全な賜物の総体なのである。この人々は誰一人、この恩恵や賜物の分け前に与かることはできず、またこの最も崇高な栄誉にも授かれなかったのである。この最も重要な真理と、崇高な主題とを明白に証明する聖句は、誠に数多く啓示されている。それでも尚、彼らは、それを拒否して、欲望のおもむくままに、その意味を曲解したのである。まさしくこう述べられている、「神の御兆を信じようともせず、やがて神と対面することも信じない輩には、我が慈悲を頂く望みは絶たれる。ただ痛ましい懲罰が待ちかまえているだけである心と。(コーラン29.23)また、こうも述べられている、「やがて、神の御前に参じ、主の御元へ帰ると信じている者」。(コーラン2.46)また他の場合にこう述べられている、「やがては神に逢いまつる日の来ることを信じる人々は言った、『そも幾度少数の軍隊が、神の御意によって、大軍を撃破したことか』」。(コーラン2.249)また他の時にこう述べられている、「神の御前に参ずることを乞い願うものは、常に正しいことをするよう心掛けよ」と。(コーラン18・111(110))そしてまた言われている、「神は一切のものに命じ給う。神は、汝等が神の御前に参ずることを確信するようにと、自らの御兆を明らかにし給うた」と。(コーラン13.2)

「神の御前に参じる」ことが真実であることを明白に証言しているこれらの聖句を、この人々は、全部否認していた。多くの聖典中で、これほどまでに力強く断言されている主題は他にはない。にも拘わらず彼らは、この高遠で崇高極まりない身分や、この最高に栄誉ある地位を自ら遠ざけているのである。或る者達は、「神の御前に参じる」ということは、復活の日の神の「現われ」の意味である、と主張した。もし彼らが、神の「現われ」とは、「普遍的現われ」を意味するものであると主張するのならば、かような現われは既に万物の中に存在していることは明白である。万物は、あの理想の王の光輝を受け入れ、またそれを明示するものであり、総ての光輝の源であるあの太陽の現われの御兆が、創造物の鏡の中に存在し、現わされているということを証明することにより我は、上述のことが真実であることを立証した。いや、もし人が聖なる、霊的洞察力を持った眼で見るならば、理想の王である神の光輝の現われがなければ、何ものたりとも存在し得三ことが容易に分かるであろう。創造物は皆・それぞれ自身の中に、あの内なる光明が現わされているということを、実に雄弁に証言している。このことをよく考えてみよ。探求者達が、理解と英知の町に到達し、知識と威力の花園に入れるように、神のレズワンの門が万物の中に開かれている様子を、よく見てみよ。探求者達は、総ての花園において、最も優雅に盛装し、言葉の部屋にまつられた内的意味を持つ神秘的な花嫁を見ることであろう。コーランの聖句の大部分が、この霊的な主題を暗に示し、証言している。「いかなるものといえども、彼の栄光を讃美せぬはない」(コーラン17.44)というこの聖句は、そのことを雄弁に証明しているのである。また「我は、一切のことを書き記しておいた」(コーラン78.29)という聖句も、それを忠実に証言しているものである。さてそこで、もし「神の御前に参じる」ということが、かような現われを認識するようになるということを意味するのなら、人々は皆、あの比類のない王の、不変の御顔の御前に伺候しているということは明白である。ならば、なぜかような現われを、ただ復活の日だけに限定するのであろうか。

また、彼らが「神の御前」ということを、スーフィ教67徒達によって「最も神聖な流露」と表現されているような、「神の特定の現われ」の意味だと主張し、これが神の精髄そのものの現われであるならば、それは永久に神の知識の中に存在し続けるものであることは明白である。この仮定が真実であるとすると、この意味において「神の御前に参じる」ということは、明らかに誰にとっても不可能なことである。何故なら、この現われは奥深くにある神の精髄の中に限定されていて、そこには誰も到達し得ないからである。「その道は閉ざされており、いかなる探求も拒絶されるのである。」天上の寵愛をうけるもの達が、どんなに高く舞い上がっても、この地位に到達することはできない。ましてや暗愚な、偏狭な心の持主達には、到底理解することはできない。

また、もし彼らが、「神の御前」という言葉は、「聖な流露」として解釈されている「神の二次的現われ」を意味するものであると言うならば、これは創造の世界、即ち神の、最初にして、本来の出現の領土については、確かに適用できる。かような現われは、神の予言者達や選ばれた人達に限られている。何となれば、この実在の世界において彼らよりも強大な者は存在しないからである。この事実は、総てのものの認めるところであり、また証言するところである。これらの予言者達や神に選ばれたもの達は、神の不変な属性や御名を残らず受けているものであり、またそれを啓示するもの達でもある。彼らは神の光明を、正しく、忠実に反射する鏡である。彼らに適用し得るものは総て、眼に見えるもの、見えないものに在す神御自身にも完全に適用し得るのである。万物の起源に在す神を知り、神に到達するためには、真理の太陽から由来した、これらの光る実在〔顕示者〕を知り、そのもの達に到達する以外に道はない

のである。それ故、これらの聖なる発光体達の御前に参じることによって、「神の御前」そのものに参じられるのである。彼らを知ることにより、神の知識が啓示される。また彼らの顔の光によって、神の御顔の光輝が明らかにされるのである。最初のものであって、最後のものであり、眼に見えるものであって、また隠されているものであるこれらの世俗超脱の精髄の種々の属性により、真理の太陽に在す神は、「最初のものであってまた最後のものであり、眼に見えるものであってまた隠されているもの」(コーラン57・3)であることが明かにされる。神のその他の気高い御名や崇高な属性においても、同様のことがいえる。故に、どの宗教制においてもこれらの栄光に光り輝く、最もすぐれた発光体達を認めて、その御前に参ずるものは誰でも、誠に「神の御前」そのものに伺候し、永遠な不滅の生命の町に入るものである。このような御前に参ずることは、復活の日にのみ可能である。そして、復活の日とは神自らが、総てを包含する御自身の現われを通して起ち上がられる日なのである。

これが総ての聖典中に述べられており、総ての人達に宣言されている「復活の日」の意味である。考えてみるがいい、その貴重さ、強大さ、輝かしさにおいてこの日に勝る日が他に想像できようか。なれば人はいかにしてその恩寵を進んで捨て、慈悲の天上より総ての人類の上に降り注ぐ春雨Φようなその恵沢を拒むことができようか。この日よりも、更に偉大な日は他になく、この啓示よりも、更に素晴らしい啓示は他にないことを、極めて明確に説明したからには、また理解ある心の持主には疑う余地がなく、学識ある人には見逃すことのできない、これふけらの誤りのない有力な証拠を残らず示したからには、疑いと妄想に耽る者達の取りとめもない主張によって人々はどうして、慈悲に満ちた恩寵から自らを遠ざけることができようか。彼らは、かの有名な伝承、即ち「ガエムが立ち上がる時、その日こそは復活の日である」、をまだ聞いたことがないのであろうか。同様に、神の御導きの、消すことの出来ない光であるイマム達〔マホメッドの後継者達〕は、「あのもの共は、神が雲に力おわれて自分達の所に降りて来られる、ということ以外に何を期待できたであろう」(コーラン2・210)というこの聖旬を一彼らは疑いもなくこの御兆を、復活の日の特色の一つとみなしていた一ガエム自身とその出現のことを言っているものである、と解釈した。

従って、おぉ我が兄弟よ、「復活」の意味をしっかりと把み、これら拒絶されている者達の愚かな話から、汝の耳を洗い清めるよう努めよ。もしも汝が、完全なる世俗超脱の領土に入ったなら、この日ほど力強い日は他になく、この復活よりも更に荘厳な復活は、他に考えられないということを勧んで証言するであろう。この日に成し遂げられた一つの正しい行いは、測り知れない程の年月にわたって人々が行った総ての高潔な行いに匹敵するものである。否、むしろ、このような比較をしていることを我は神に申し訳けなく思っている。というのは誠に、このような立派な行いにふさわしい報酬というものは、人がいくら評価しても、し得るものではないからである。あの分別のない、みじめな者達は、「復活」や「神の御前に参じる」ということの、真の意味を掴み得なかったから、その恩寵を全く受けることができなかったのである。総ての学問や、それを学ぶ尽力や努力の、唯一なる、本来の目的は、このような地位に到達することであり、またこういう地位を認識することである。彼等は皆、寸暇を惜しんで世俗的研究に熱中しているにも拘わらず、総ての知識の精髄であり、彼らの探求の唯一の目標である御方を完全に無視しているのである。彼らの唇は、決して、聖なる知識の盃に触れたことはなく、また天上から降り注ぐ恩寵の雨の一滴さえも得たことはないようである。

考えてみよ、神の出現の日に、「神の御前」の恩寵に預かり、神の顕示者を認めることができない者が、たとえ知識の追求に永劫の時間を費やし、人間,の限られた物質的学問を残らず極めたとしても、その者を、どうして、まさしく博学と呼び得ようか。決して、そのような者を、真の知識の持ち主として認知できないことは明白である。ところがこれに反して、万人中最も無学なものでも、もしその者がこの至高の栄誉を与えられるならば、その者は誠に知識を神から授かった、あの聖なる学者達の一人として数えられるのである。何となれば、かような人物は知識の絶頂に到達し、学問の最高峯を極めているからである。

この地位はまた、出現の日の数ある御兆中の一つである。そのことが、こう述べられている、「お前達の中で、屈辱を受けているものを、神は誉められるであろう。そして身分の高いあの者達を、神は卑しめられるであろう」と。また同じく、彼はコーランの中でこう述べられている、「我ら、この地にあって虐げられている者どもに情をかけ、彼らを世の人々の精神的指導者となし、我々の後継者としたい」と。(コーラン28・5)真理を拒否したために、如何に多くしんえんの聖職者達が無知の深淵の底に突き落とされ、そこに住まわせられたことか、そして彼らの名前が、栄誉ある者や学識あるものの名簿から抹消されて了ったことか、その事実は今日万人の目撃しているところである。また何と多くの無学なもの達が、その教えを受け入れたために空高く舞い上がり、知識の最高峯に到達したことか。そして彼らの名は、聖なる知識の書簡に、威力のペンで書き記されて来たのである。即ち、「神は御意のままに破棄したり、確認したりなさる。お手許には啓示の原本をお持ちになっておられるから」。(コーラン13.41(37))それ故、「確証が得られた後に、なおも証拠を探し求めることは、見苦しい行為でしかないし、また総ての学問の目標に到達した後になおも、知識の追求に熱中することは、誠に非難されるべきことである」と言われている。地上の人々よ!精神の無限な深淵をいそぎ渡り、汝らに呼びかけるこの炎のような青年を見よ。彼は、「見よ、神の灯は輝いている」という福音を告げ、未だ古の光輝の覆いの中に隠されてはいるが、イラクの地で永遠なる神聖の地平線上に輝いている彼の大業に注目するよう汝らに呼びかけているのである。

おお我が友よ、もしも汝の心の鳥が、コーランの啓示の天空を探求するならば、またその中に展附されている聖なる知識の領土を熟視するならば、必ずや汝は、眼前に、知識の無数の扉が開かれているのを発見するであろう。今日の人々をして、永遠の恩寵の太洋の岸辺に到達することを妨げているこれら総てのことは、マホメッドの宗教制においても同様に、あの聖なる発光体〔マホメッド〕を認め、彼の真理を立証することから当時の人々を妨げていたのであるということを、汝は確かに認めるであろう。汝はまた、「再来」や「出現」の神秘を理解し、確信と保障の最も崇高な部屋に安住するであろう。

また或る日のこと、あの比類のない美〔マホメッド〕に反抗する幾人かの者である神の不滅の聖所から遠くさまよい出ていたもの達が、マホメッドに向かって軽蔑して言った、「誠に神は我らと約束し給うた。どんな使徒でも、彼の持って来る捧げ物が天上からの火炎で食い尽くされない限り、我らはその者を信じないようにと」。(コーラン3.183)この聖句の趣旨はこうである。即ち、神は彼らと約束された。それは、アベルとカイン68の奇跡一捧げ物をしたとき、天上からの火がそれを焼き尽くすーが起こらなければ、彼らはいかなる使者をも信じるべきではないというのである。まさに彼らは、色々の聖典中に述べられているアベルの物語を聞いて知っていたのである。このことに対してマホメッドが答えて一言われるには「我々以前にも、使者たちが明証と、お前達の求めるものとを携えて来たではないか。なぜお前達は、あの人達を殺したのか。もしお前達が誠実ならば答えてみよ」。(コーラン3.182(180))ここで冷静に考えてみるがいい。マホメッドの時代に生きていたあの者達が、何千年も前のアダムやその他の予言者達の時代にどうして生きていられたであろうか。あの真理の精髄であるマホメッドが、なぜその時代の人達を、アベルや他の予言者達を殺害したといって責めたのであろうか。この疑問に対する回答は二通りしかない。マホメッドをペテン師とか、愚者とみなすかー神よ、それを禁じ給え!ーそれとも、あの邪悪な者達を、各時代に予言者達や神の使者達に反抗し、異論を唱えて、遂には彼らを残らず殉教に追いやったその者達と同一の人物であるとみなすか、である。

このことを、汝の心によくよく考えよ。そうすれば、慈悲の草原から吹いて来る一陣のかぐわしい聖なる知識の微風が、最愛なる御方の御言葉の芳香を、汝の上に快く漂わせ、汝の魂を悟りのレズワンへ到達させるであろう。それぞれの時代の、傲慢なる者達は、これらの重要かつ含蓄ある御言葉の奥深い意味合いを推測することができず、自分達が尋ねた質問に対する神の予言者達の答えは的外れであると信じ、あの知識と理解の精髄〔予言者達〕を無知で愚かものであると考えたのである。

同様に、マホメッドは、他の聖句の中でその時代の人達に対して抗議を述べておられる。彼の言葉はこうである。「彼らは以前、信仰のない者達に打ち勝つことができるようにと神にお願いしたにも拘わらず、彼らがかねて知らされていた者が彼らの前に現われた時、その者を信じなかった。このような異教徒達の上に神の呪の降りかからんことを」。(コーラン2.89)よくよく考えてみるがいい。この聖句もまた同じことを示唆している。つまりマホメッドの時代に生存していた人達は、古代の予言者達の頃に、神の教えを広め、神の大業を布教するために争ったり戦ったりした人毒と同一の人物であるということを。しかし、イエスやモーゼの時代に居た幾世代の者達と、マホメッドの時代にいた人達が、どうして実際に、全く同一であったと考えられようか。それに、彼らがかねて知らされていた者達といえば、五書を著したモーゼと、福音書を示したイエスである。それなのに、なぜマホメッドは次のように言われたのであろうか「彼らが、かねて知らされていた者が、彼らの前に現われた時」ーそれはイエスかモーゼのことだがー彼らは「その者を信じなかった」と。マホメッドは外見上違った名で呼ばれていたのではないか。彼は、違う町から出現されたではないか。彼は違う言葉で語られ、異なった戒律を示されたではないか。それなら、どうして、この聖句の真実性が確証され、その意味をはっきりさせることができようか。

従って、コーランそのものの中に非常に明白に示されているにも拘わらず、いまだ誰も理解していない「再来」の意味を理解するよう努力するがいい。汝ならばどう言うか。もしも汝が、マホメッドは、この聖句で証明されているように、古代の予言者達の「再来」であったと言うとしたら、彼の仲間達も同様に、過去にいた仲間達の「再来」でなければならない。それはまさしく以前の人達の「再来」であるということが、前述の聖句の原典によって、はっきりと証明されているのである。ところが、もし、汝がこのことを否定するならば、人々にとって最も確実な神の証言であるコーランの真実性を、疑いもなく否定したことになるのである。同様に神聖な精髄の顕示者達の時代に見られたような、「再来」、「現われ」、「復活」の意味をしっかりと掴むよう努力せよ。そうすれば汝は自らの眼で、あの聖別され、輝いている多くの身体の中に聖者達の「再来」を見、聖なる知識の源から流れ出る慈悲の水で、無知の塵を洗い流し、暗き自己を清め、神の御神威と御導きの光によって、誤りの暗黒の夜と、永遠に光り輝く朝とをはっきり見分けられるようになるであろう。

その上、神の信託の持参者は、新しい大業の唱導者として、また新しい伝言の使者達として、世の人々の前に現わされるということは、汝には明白であろう。これら天上の王座の鳥達は皆、神の御意の天上から下し遣わされたものであり、否定し得ない神の教えを宣布するために起ち上がった者達であるから、彼らは皆、同一の魂を持ったものであり、同一の人物とみなされるのである。何故なら、彼らは皆、神の愛の同じ一つの盃から飲み、唯一性の木の果実を分け合っているからである。これら神の顕示者達にはそれぞれ二つの地位がある。その一つは、純粋な抽象と本質的統合の地位である。この点からして、もし汝が、彼らを皆同一の名で呼び、同じ属性を持つものであるとしても、汝は真理を語っており間違ってはいない。彼はまさしくこう述べられている、「神の使者達の間には、我ら〔神〕は差別をつけはせぬ!」と。(コーラン2・285)その理由は、彼らは皆、神の一体性を認めるように世の人々を呼び集め、無限の恩寵と恩恵のコウサルを告げるからである。彼らは、予言者としての衣を着せられ、栄光の外套を与えられている。それ故、コーランの点であるマホメッド甘次のことを著わしたのである、「我は予言者の全員である」と。同様に、また彼は、「我は最初のアダム、ノア、モーゼそしてイエスである」と述べておられる。同様な言葉がアリによっても語られている。唯一性の唱道者達は、本質的には一体であるということを示しているこのような言葉はまた、神の不朽の御言葉の水路や、聖なる知識の宝石の宝庫からも放出されたものであり、それは、多くの聖典中に記載されているのである。これらの御顔〔顕示者達〕は神の命令の受領者達であり、神の啓示の曙である。この啓示は複数制の覆いや、数値の必要性などをはるかに超越するものである。彼はこのように言われている、「我らの大業は唯一つである」と。(コーラン54.50)神の大業が唯一無二であるならば、それの唱道者達もまた、必然的に同一でなければならない。同様に、あの確信の灯である回教のイマム達はいった、「マホメッドは我らの最初であり、マホメッドは我らの最後であり、マホメッドは、我らの総てである」と。

総ての予言者達は、皆それぞれ異なった衣をまとって現われた神の大業の寺院であるということが、汝には明白であろう。もしも汝が、識別力のある眼で観察するならば、予言者達は皆同一の神殿に住み、同一の天空に舞い上がり、同一の玉座に座し、同一の事を語り、同一の教えを宣布しているのが分かるであろう。存在の本質であり、無限で計り知れない光輝を放つ発光体達である彼らの同一性とはこのようなものである。それ故、もし聖なるものの顕示者達の内の一人が、「我は総ての予言者達の再来である」と宣言したとしても、誠にそのものは真実を語っているのである。同様に、次々に現れる啓示が、それ以前の啓示の再来であることは事実であり、確証された真理である。神の予言者達の再来は、聖句や伝承によって立証されているように、決定的なものとして示されているからには、彼らの選ばれしもの達の再来もまた明確に立証されているのである。この再来は、それ自身あまりにも明瞭であるから、何らの証明も証拠も必要としない。例えば、予言者達の中にノアがいたことを、よく考えてみよ。彼が予言者としての衣を着せられ、起ち上がって神の大業を宣布するよう、神の霊により奮い立たされた時に、彼を信じ、彼の教えを受け入れたものは誰でも、新しい生命の恩寵が授けられたのである。彼らについて言えば、真に、彼らは生まれ変わり、よみがえったと言うことができよう。何故ならば神を信じ、神の顕示者を承認する以前には、彼らはこの世のものを愛して俗界の事物や、妻や子、飲食物などに執着し、彼らの関心事は、昼夜を問わず、ただ自らの富を積み上げ、自らの娯楽快楽の手段を得ることにあったからである。彼らは、信仰というよみがえりの水を飲む以前には、先祖の伝統に完全に固執し、祖先の習慣や掟を守ることに熱中していたから、自分達の間に流布されていたそれらの迷信的な形式や儀式に少しでも背く位なら、むしろ死を選んだであろう。人々はまさしくこう叫んでいる、「誠に我らの先祖が一つの宗教を持っていたのを我らは見る。そして誠に我らはその足跡を辿る」と。(コーラン43・22)

この同じ人々が、これら有限性の覆いに包まれ、かような習慣に束縛されていたにも拘わらず、一度栄光に満ち給う御方を顕示する者の御手にある確信の盃で、不滅の信仰の一飲みを飲むやいなやすっかり一変して、彼の為には自分達の血族、財産、生命、これ迄の信仰、いやそれどころか神以外の一切のものを放棄するほどまでになったのである。神に対する彼らの思慕は総てを圧倒し、我を忘れるほどの彼らの歓喜は彼らを高揚し、この世と、そこにある総てのものは、彼らの眼前にあっては総て無と化したほどであった。この人々は、「よみがえり」とか「再来」の神秘を示すよい例ではないか。この同じ人々が、新たな素晴らしい神の恩寵を授けられる以前には、自分達の生命を破滅から守るために、多くの方策を探し求める様子が、よく目撃されたではないか。一本のとげが彼らの心を恐怖で満たし、一匹の狐が彼らを逃げ出させたであろう。ところが、一度神の最上の栄誉を与えられ、その御恵深い恩寵を授けられると、彼らは、できるならば神の道に万という数の生命を犠牲として、惜しげなく捧げたのである。いや、彼らの祝福された魂は、肉体という艦にとらわれず、その外に解放されんことを切望するであろう。その軍勢中の各戦士が、それぞれ一騎当千の働きをするのであろう。ここでもし、彼らの生き方に何らかの転換が起こっていなければ、どうして一般の方法に反し、また世俗の欲望を相容れない、かような行動を示すことができたであろうか。

この神秘的転換がなかったなら、これ迄の習慣や振舞いとは完全に異なる、こういう精神や行動を世に出現させることはできなかったであろうことは明白である。かくして、彼らの動揺は平静に、疑いは確信に、臆病は勇気に換えられたのである。一瞬の内に、人々の魂を転換させる神の霊薬69の効力は、このようなものである。

例えば、銅という物質を考えてみよ。もしもそれが、鉱山中に、液体の状態のままで保たれたなら、それは七十年以内に金の状態に到達するであろう。しかしながら、銅そのものが金であり、固まることによって病的な状態となり、本来の状態に達しなかったと主張するものがいる。

それはそれとして、真の錬金薬は、たちまちにして、銅という物質を黄金の状態に変えるであろうし、また七十年という長い期間を一瞬の内に経過させるであろう。この金を銅と呼ぶことができようか。それを分析して銅と見分ける試金石が手元にある限り、それが金の状態になってはいないと主張することができようか。同様に、これらの人達は、神の糧薬の効力により、一瞬の内に塵の世を横断して、聖域に突入し、有限のこの世を一跨して、無限なる御方の領士に到達するのである。一息の間に、無知の西方を知識の東方に達せしめ、朝のまばゆい光で夜の暗黒を照らし、疑いの荒野をさまよう人々を神の御前の泉や確信の源泉に導き、朽ち果つべき人々が、不滅のレズワンに受け入れられる栄誉を授かるところの、この霊薬を得られるように、最大の努力をはらうことは、汝の義務である。さて、ここでもしこの金を銅だと考えるのなら、この人達もまた同様に、信仰を授けられる以前と同じ者だと見なすことができよう。おお兄弟よ、「よみがえり」とか「再来」とか、また「復活」とかいう語の内奥にある数々の神秘が、これらの十分で、全く反駁を許さない決定的な言葉によって、汝の眼前にその全貌をあらわし、すっかり解明されている、その様をよく見るがいい。恩寵深く、眼に見えない神の御援助により、汝が自らの肉体や魂から古い衣を脱ぎ棄てて、新しい不滅の衣で着飾ることを、神が許し給わんことを。

故に相次ぐ宗教制において、他の入々に抜きんじて神の教えを信奉し、神聖な美の御手にある知識の清らかな水を項いて飲み、信仰と確信の最高峯に到達した人達は、名においても、実質においても、行動においても、言葉においても、また地位においても、以前の宗教制においてと同じ様な栄誉の地位に到達した人達の「再来」と見なすことができるのである。何故ならば、以前の宗教制を信奉して.いた人達が顕示したことは、同じく後のこの世代の人達によっても示されているからである。バラについて考えてみよ。それが東洋で咲こうが、西洋で咲こうが、それはバラに変わりはない。と言うのは、この点に関して重要なのは、バラの外形や外観ではなく、ただ、それが漂わせる芳香にあるからである。

それ故、総ての世俗の限りあるものから、汝の眼をそらせるがいい。そうすれば、彼らは皆、一つの御名を持つもの、一つの大業の唱道者、一つの本質を顕示するもの、また一つの真理を明らかにするものとして見えるようになろうし、これらの言説により展開された神の御言葉の神秘的な「再来」を理解できるようになるであろう。ここで、しばらくマホメッドの宗教制における同胞達の振舞いについて考えてみよう。マホメッドの蘇生の息吹により彼らがいかにして世俗の虚栄のけがれから清められ、利己的欲望から解放され、また彼以外の総てのものから超脱させられたかをよく考えてみよ。いかにして彼らが、地上の総ての人々に抜きんでてマホメッドの聖なる御前一それは神御自身の御前であるに到達し、この世と、そこにある総てのものを投げ捨てて、栄光に満ち給う御方を顕示する者の足下に、自ら進んで、喜びを持ってその生命を犠牲にしたかを見てみよ。さて、1バヤンの点(バブ70)の同胞達が示したところに、これと全く同一の決断、節操、克己心の「再来」を見ることができよう。如何に、これらの同胞達が、主中の主に在す神の恩寵の不可思議な力により、到達し難い栄光の最高峯に、崇高な克己自制の旗を揚げたかは、汝がその眼で見ている通りである。これらの数々の光明は、只一つの源から発したものであり、またこれらの多くの果実は皆、一本の木に実ったものである。汝は、それぞれの間に、少しの相違も差別も認めることはできない。これは皆神の恩寵によるのである。神は自ら望み給うものに、その恩寵を授け給う。神もし許し給わば我々は、否認の地を避けて、容認の大洋に乗り出して行こう。そうすれば、総ての相反する要素から清められた眼をもって、統合性と多様性、変動性と単一性、有限性と超越、の種々の世を認めることができよう。そして神の御言葉の奥深い意味の最上にして、内奥なる聖所に向かって我々は羽ばたくことができよう。

従って、これらの説明から次のことが明白になって来た。即ち「始めのない始め」に、一人の人物〔顕示者〕が宣布し信奉した大業を、「終わりの知れない終わり」に、他の人物〔顕示者〕が宣布し信奉しようと出現して起ち上がったとしたら最初のものも最後のものも両者は同一の大業の唱道者であるため、彼らは全く同一であると真に言明することができるのである。このような理由で、バヤンの点は、彼以外の総てのものの生命が、彼への犠牲として捧げられんことを!一神の顕示者達を太陽にたとえられた。その太陽は「始めのない始め」から「終わりの知れない終わり」まで昇るのであるが、尚それは全く同一の太陽である。さてそこで、もし汝が、この太陽は、以前に昇った太陽であると言っても、汝は真実を語っているのである。またもし汝が、この太陽はあの太陽の「再来」であると言ったとしても、汝は真実を語っているのである。同様に、この説明から、「最初のもの」も「最後のもの」も、双方とも同一の教えを宣布するために起ち上がったのであるから、「最後」という語は、「最初のもの」に適用することができるし、「最初」という語もまた「最後の者」に適用できることは明白となる。

知識と確信の美酒を飲みほした人達の限から見れば、この論旨は全く明白なのであるが、「予言者達の打ち止め」〔マホメッドの称号の一つ〕という語の意味を理解し得なかったがためにこの語が自らの理解力を曇らせることを許してしまい、神の多様な恵沢の恩寵を自ら遠ざけた人が何と多くいることであろう。マホメッドは自ら、「我は総ての予言者達である」と言われたではないか。我が既に述べたように、マホメッドは、「我は、アダム、ノア、モーゼそしてイエスである」と宣言されたではないか。「我は最初のアタムでると言われた不滅の美であるマメッドは、何故また「我は、最初のアダムである。」とお述べになることはできぬと言えようか。同じく、彼は自らを「最初の予言者」つまり、アダムと見なされたが、同様に「予言者達の打ち止め」という語もあの聖なる美〔マホメッド〕に正しく適用できるのである。マホメッドが「最初の予言者」であれば同様に彼は、「予言者の打ち止め」でもあることは、疑いもなく明白である。

この宗教制〔バブの宗教制〕ではこの主題の神秘が、全人類に対する厳しい試練となったのである。見よ、これらの言葉に執着し、彼らの真の啓示者である彼〔バブ〕を、信じなかった人達が何と多数いることか。そこで我は尋ねるが、神について述べる時ー神の御名に栄光あれ!ー「最初」とか「最後」とかいう言葉が一体何を意味するとこれらの人達は考えているのであろうか。もし彼らが、これらの言葉は、この物質界に関係を持つものと主張するならば、事物の明白な秩序が未だはっきりと存在している以上、そのようなことは不可能であろう否、この場合では、「最初」とは「最後」以外の何ものも意味せず、また「最後」とは「最初」以外の何ものも意味していないのである。

「始めのない始め」に関しては、「最後」という語は、眼に見えるもの、見えないものの教育者に在す御方に誠に適切であり、同様に、「最初」とか「最後」とかいう語は、彼の顕示者達にもまた適切なのである。彼らは、同時に「最初」と「最後」の両方の唱道者達なのである。彼らは「最初」のものの座に着いている間に、また「最後」のものの玉座をも占めているのである。もし洞察力を持った眼があるとしたら、「最初」と「最後」、「顕示」と「隠ぺい」、「始まり」と「打ち止め」、の唱道者達とは、これらの聖なる人物達、これらの世俗超脱の精髄達、これらの聖人達に他ならないことを容易に悟るであろう。そしてもし汝が、「神は単独に在し、神をおいては何ものも存在しなかった」ところの聖域に舞い上がったとしたら、その宮廷においてはこれらの名前は皆、全く存在せず完全に忘れ去られていることを発見するであろう。その時、汝の眼はもはや、これらの覆いや、これらの言葉や引喩で曇らされることもなくなるであろう。この地位の何と霊妙で崇高なことよ。この地位には、天使ガブリエルでさえ導かれることなしに到達することはできないし、また天上の鳥でさえ援けなしには到着することはできないのである。

ここで、「独力で栄光の覆いを突破する」という、遵奉者達の指導者アリの言葉の意味を理解するよう努力せよ。神の顕示者の時代に生きる聖職者達や博士達は、「栄光を遮るもの」の一つとして数えられる。何故なら、彼らは洞察力に欠け、権力を愛し、権力を欲するあまり、神の大業に服することを怠ったからである。いや、それどころか、聖なる調べに耳を傾けることさえ拒んだのである。「彼らは、両の耳に指を突込んだ」(コーラン2・19)のである。そして一般大衆もまた完全に神を無視して、指導者達を自分達の主と考え、これらのもったいぶった偽善的な人達の支配下に無条件に身を任ねたのである。それというのも、彼らは真理と虚偽と見分ける眼も耳も心も自身には持ち合わせていなかったからである。

総ての予言者達、聖者達及び神に選ばれし人達が、神の霊感によって語った訓戒で、人々に対し、自身の眼で見、自身の耳で聞くよう申しつけているにも拘わらず、彼らはその忠告を横柄に拒否し、自分達の教えの指導者達に盲従して来たし、また今後もそうし続けるであろう。学者の装いもしていない一人の貧しい、名もない人物が、大衆に向かって「人々よ!神の使者達に従え」(コーラン36.20)と言ったなら、彼らはこの呼びかけに大いに驚き、「何と!これらの聖職者達や学問の解釈者達は、皆それぞれ権威や堂々たる風格を持っているにも拘わらず、誤りを冒し、真理と虚偽との見分けがつかなかったとでも言うのか。お前や、またお前と同じような人達は、彼らにも分からないことを、理解したような振りをするのか」と答えるであろう。もし数の多いことや、服装の美しいことが学問や真理の基準とみなされるとしたら、現代人は、数においても、また立派さや威力においても決して過去の人達より、まさっているとは言えないので、過去の人達の方が、よりすぐれ、一層価値ある人達だった、と見なされるべきではなかろうか。聖なるものの顕示者達が出現した時は、いつでも、その時の聖職者達は、人々が真理の道に到達することを妨害して来たということは明白である。このことに関しては、総ての聖典や聖書に記録された内容が証明している。神の予言者で、時の聖職者達の、容赦の無い憎悪、非難、拒否及び呪いの被害を蒙らなかったものは一人としていなかった。あの聖職者達の手が、これ迄に行った不法な行いに対して災いあれ!彼らが現在行っていることに対し、彼らに災いあれ!栄光を遮るものの中で、誤ちの権化たる彼ら以上に嘆かわしいものが他にあろうか。神の正義にかけて言う。このような遮蔽物を突き破ることは、あらゆる行いの内で最も強大なことであり、またかような遮蔽物を切れ切れに打ち砕くことは、最も賞賛に値する行為である。神が我らを助け給わんことを。また、汝を助け給わんことを。おお、聖霊の集合よ!神の顕示者の時代に、汝が、深き恩寵を得てかような行為ができるように、またその時代に、神の御前に参じることができるように。

更にまた、「栄光を遮るもの」の一つに数えられるものに「予言者達の打ち止め」等という言葉がある。それを取り除くことは、卑しく、罪深き者達の眼から見れば、最高の業績である。

人は皆、これらの神秘的な言葉、つまりこれら嘆かわしい「栄光を遮るもの」のため、真理の光を見ることを妨げられて来たのである。「我は、千人のファテメ71を娶ったが、彼女等は皆、アブドラ72の子息であり、『予言者の打止め』であるマホメッドの娘達であった」という神秘を告げている天上のあの鳥(イマム・アリ)の調べを彼らは聞いたことがなかったのであろうか。見てみよ。神の知識の神殿内に、今もって隠されたままになっている神秘が何と多々あることか。また、冒しがたい神の宝底の中にまだ隠されている神の英知の宝石が、何と数多くあることか。もし汝が、心の中でじっくりと考えてみるならば、神の御業には始めも終わりもないことを悟るであろう。御神慮の領域はあまりにも広く、滅び去る人間の舌はそれを描写することはできず、人間の心の鳥はそれを渡ることはできない。また神の摂理の配剤はあまりにも神秘的であり、到底人間の心が理解することはできないのである。神の創造に、終わりというものが追いついたことはなく、またそれは「始めのない始め」から常に存在し続けている。

始まりというものはまた、神の美の顕示者達を見たことがなく、彼らは「終わりの知れない終わり」まで続くであろう。この言説を、汝は心の中でよくよく考えてみよ。そしてまた、これらの聖なる人物総てについて、このことが如何に適切であるかを熟考してみよ。

同様に、汝は、アリの子息で、永遠の美といわれたホセインの、あの調べの意味を理解するよう努めよ。そのホセインは、サルマンに話しかけてこう言った、「私は千人のアダムと一緒にいた。それぞれのアダムの間隔は五万年であった。これらのアダム達の一人一人に向って私は、父に授けられている後継者としての職を宣言した」と。それから彼は、いくつかのことを詳しく述べてからこう言った、「私は神の道で千度も戦をしたが、その内で最も小さく、最もとるに足りないものが、我が父が異端者と戦いを交えたカイバルの戦のようなものであった」と。今、これら二つの伝承から、「終わり」とか「再来」とか「始めも終わりもない創造」の神秘を理解するよう努めよ。

おお我が愛する者よ!天上の調べは、それを聞き取ろうとする人間の耳や、その神秘を掴もうとする人間の心の努力からは測り知れないほどに崇高なのである。無力な蟻が、どうして栄光に満ち給う御方の宮廷に入ることができようか。にも拘わらず、これら微力な者達は理解力の不足の故に、このような種々難解な言葉を拒否し、かような伝承の真実性を疑うのである。

否、理解力のある人達以外は誰も、伝承を理解することはできないのである。言挙げよ、彼こそは、全宇宙をもってしてもその終わりを想像することのできない終わりの者であり、また創造の世界をもってしてもその始まりを考えることのできないものである。見よ、おお地上の群衆共よ、終わりの者の光輝が始まりを顕示する者の内に啓示されていることを。

実に奇妙なことよ!人々は一方では、自らの好みや私心に一致する、コーラン中のあの種々の聖句や、確信の人々の伝承にすがりついているかと思うと、また他方では、自らの利己的な欲望に反する聖句や伝承は総て拒否してしまうとは。「それでは、お前達は、聖典の或る部分だけ信奉して、他の部分は信じないというのか」。(コーラン2・85)人は、理解できないことについてどうして判断できようか。存在の主はまさしく、その誤りのない聖典の中で、神の崇高な言葉、即ち「マホメッドは神の使徒であり、予言者の打ち止めである」(コーラン33・40)の中にある「打ち止め」という語について述べられて後、総ての人々に「神の御前に参じる」ことについての約束を述べられた。不滅の王の御前に参じるというこのことに関して、聖典中の数々の聖句が証言している。その聖句中のあるものは、既に我が述べて来た。唯一真の神こそは我が証人に在す。「神の御前に参じる」ことよりも、より崇高で、より明白なものは、コーラン中に何も示されていない。汝も見ての通り、今日、大部分の人はそれから顔をそむけている。この時代にそこに到達できたものは幸いなり。

「復活の日」に「神の御前に参じる」ということが、聖典中に明白に述べられているにも拘わらず、前述の聖句の神秘の故に、彼らは、後述の聖句によって約束されている恩寵から顔をそむけたのである。多くの明白な証拠によると、「復活」とは神の顕示者が、神の大業を宣布するために立ち上がることを意味し、また「神の御前に参じる」ということは、神の顕示者という人となって現われる神の美の御前に参じることを意味するということが、明示され確証されているのである。何となれば、誠に、「如何なる視力も彼を包含し得ないが、彼は総ての視力を包含し給う」(コーラン6・103)からである。これほど確実な事実と明快な記事にも拘らず、彼らは、愚かにも「打ち止め」という言葉に執着し、神の臨場の日に、「打ち止め」と、「始まり」とを共に啓示する御方を認める機会を完全に逸したのである。「もしも神が、人間をその不義の故に罰し給うならば、この地上には、生き物一匹残るまい。神はただ、ある定められた時まで猶予し給うのである」。(コーラン16・61)しかし、こういうことは別としても、彼らが、「神は意のままにし給い、欲するがままに定め給う」という言葉から流れ出る、清澄なる流れの一滴でも得ていたならば、彼らは神の啓示の中心点に対して、このように醜い揚げ足取りはしなかったであろう。神の大業や総ての言行は、神の御神威の手中に収められている。

「万物は神の強力な掌中に収められている。いかなることでも神にとっては容易であり、また可能である心神は、意のままに成し遂げ給い、総てを欲するがままになし給う。「『なぜ』とか『如何なる訳で』、と問うものは、冒とくを吐くものである。」彼らが、怠慢の眠りを振り払い、自らがもたらしたことに気付いたとしたら、必ずや彼らは死滅し、彼らの行きつくべき真の住居である火の中に自ら進んで身を投げ込むであろう。「神のなし給うことについて何人も咎め立てできはしない」(コーラン21・23)と啓示し給うたことを、彼らは聞いたことがなかったのであろうか。これらの言葉を念頭に置いた時、どうして人はおこがましく神を疑ったり、空しいことを語ったりすることに熱中していられようか。

恩寵深き神よ!人間はその愚かさと強情のあまり、自身の考えや欲望にばかり顔を向け、知識や神の御意へは、背を向けて来たのである。II神の聖なる御名にほまれあれ!

公明正大なれ。もし彼らが、これら光り輝く,口葉と聖なる引喩の真実性を認め、また、神を「欲するがままになし給う御方」と認めるならば、彼らはどうして、これらの明らかなる不合理性に執着し続けることができようか。否、寧ろ、全魂全霊を打ち込んで、神の述べ給うことを総て受け入れ、これに服従するであろう。神かけて誓う。御神慮や摂理の計り知れぬ配剤がなかったなら、大地はそれ自身、彼らを残らず滅亡させτいたであろう。「しかし神は、既に知られている日の約束された時刻まで、彼らを猶予し給うであろう。」

回教が創始されて以来、1280年が経過している。毎日夜明けと共に、これらの盲目の卑しい者達は、彼らの経典コーランを朗唱したが、その聖典の一文字の意味も理解してはいない。

これらの聖なる主題の真実性を明快に立証し、永遠なる栄光の顕示者達の実相を証言するあの数々の聖句を、繰り返し繰り返し読んだにも拘わらず彼らはなおも、それらの聖句の意図するところが把握できない。いつの世でも、聖典や聖書を読むことの唯一の目的は、それが一体何を意味しているかを理解し、その奥に秘められている神秘を解明することにあるということすら、彼らは全く分かっていなかったのである。理解せずに只読むだけならば、人間にとって何の足しにもなりはしない。

或る日のこと、天の心貧しき者が、この者の英知の大洋に浴したいと熱望し、訪ねて来た。その男と話をしている内に、話は、審判の日、復活、よみがえり、決算等の御兆のことに及んだ。その男は、この素晴らしい宗教制では、どのようにして世界中の入々を、誰も気付かぬ内に裁きに掛けたのかを説明するよう、我を駆りたてた。そこで我は、その男の能力や理解力の程度に合わせて、科学や古来の知恵のいくつかの真理について話して聞かせた。それから我は、その男に尋ねて言った、「汝は、コーランを読んだことがあるだろうに『その日には人間も霊も、犯した罪について訊ねられたりすることはないであろう』(コーラン55・39)という聖句を知らないことはなかろう。『まさしくその聖句そのものが示し、証明しているように、訊ねるとは舌や、言葉で問いただすことではない』ということを、汝は悟っていないのではなかろうか。

つまり、その後で、『罪人は、表情で見分けられ、皆、前髪と両足を補えられる』(コーラン55・41)と述べられているのであるが」と。

このように地上の人々は、その表情により裁かれるのである。人の不信や信仰、不義はみな、その表情に表される。今日において、邪な者達がその表情で、神のお導きに服従している人と区別されることが明自であるのとこれは同様である。もしこの人達が、神の歓び給うこと以外の欲望を捨て、専ら神の御ために、心の中で聖典中の聖句をじっくりと考えてみるならば、彼らが探し求めているものは総て、必ず発見できるであろう。彼らには、数々の聖句中に、この宗教制〔バブの宗教制〕において起こった出来事が大小漏れなく、はっきり示されているのが分かるであろう。更に彼らは、それらの聖句の中で、神の御名や属性の顕示者達が自らの生まれ故郷を立ち去ること、また政府や大衆の反対と軽蔑に値する傲慢ぶり、そして普通の顕示者の確立と、その顕示者が定住するように指定され、特に指名された地、についても言及されているのを認知できよう。しかし悟性豊かな心の持ち主でなければ、誰もそれを理解できないのである。

昔、マホメッドに啓示された言葉をもって、ここで我の主題に封をするが、願わくばこの封が、不朽の光り輝くレズワンに人々を誘う、あの浄らかな麝香の香を放たんこと。彼はこう述べておられる。そしてその言葉は真実である。即ち「神は平安の宿〔バグダッド〕に誘い給う。神は、御意にかなう者を正しき道に導き給う」(コーラン10・25)、「彼らには、主のお側の平安の宿がある。そして、彼らの行いの故に、神は彼らの保護者となられるであろう」と。(コーラン6.127)これこそは、神の恩寵が世界を蔽いつつまんがために現わされた言葉である。神に讃美あれ、万物の主よ!

我が、これ迄に、あらゆる主題の意味について種々繰り返し述べて来たのは、各人が、上下貴賎の別なく、銘々の程度や能力に応じて分け前や分配に与れるようにするためである。たとえある主題の意味は分からなくとも、このようにして他の説を参照することにより、自分の目的を果たすことができよう。「いかなる者にも、その渇をいやす場所が見いだせるように。」

神かけて誓う!この天上の鳥は、現在は塵の世に住んではいるが、これらの調べの他にも無数の歌曲を歌うごとができ、これらΦ調べ以外にも、数え切れない程多くの神秘を解き明かすことができるのである。そのまだ歌われていない歌曲の旋律は、今までに示された総てのものに比し、計り知れない程崇高なものでこり、この笹が既に表わしたものより遥かに素晴しく、栄光に満ちているのである。奥深い意味を持つ花嫁達が、神の御意の命ずるままに、それぞれの神秘に満ちた邸宅から姿を表わし、急ぎ出て、実存の古の領土に現われる時期を、時が知らしめよう。彼のお許しがなければ何ごとも不可能であり、いかなる力も彼の威力によってのみ持続し得るのである。彼の他には神はいまさず、創造の世界は彼のものであり、神の大業は、彼のものである。総ては彼の啓示を宣布しており、総ては彼の聖霊の神秘を解き明かす。

我は既に本書の先の頁で、永遠に神聖な曙から出現する発光体達〔顕示者達〕のそれぞれに、二つの地位を割り当てた。これら二つの地位の一つ、即ち質的な統合の地位に就いては、我は既に説明した。「我らは彼らの問いのいずれにも差別はつけぬ」。(コーラン2・136)もう一つの地位は特異性の地位であり、創造の世界とその有限性に属するものである。この第二の地位について、神の顕示者達は、それぞれ独自の個性と明確に規定された使命、予定された啓示、及び特定の制限とを持っている。各顕示者は、夫々異なった名で知られ、特種な属性で特徴づけられ、一定の使命を果たし、特別の啓示を託されている。まさしくこう言われている、「我は、使徒達の内の或るものを他の者達より卓越させておいた。ある者には、神は自ら言葉をかけ給い、或るものを起こし、高め給うた。そして我らは、マリヤの子、イエスにも数々の明らかな御兆を与え、聖霊をもって彼を強化した」と。(コーラン2.253)

聖なる知識のこれらの源泉からほとばしり出る種々の言葉や発言に相違があったり、異なっているように見えるのは、彼らの地位や使命に、このような差があるからである。しかし、聖なる英知の神秘を伝授された人達の眼には顕示者達の言葉は総て一つの真理を表現するものなのである。大抵の人は、我が述べて来たこれら二つの地位を認識することができなかったため、本質的には同一である顕示者達が述べた種々異なった発言に、困惑したり、とまどったりしたのである。

このように、顕示者の述べる言説にみられる差異は、地位の相違によるものであるということは常に明白であった。従って、彼らの同一性と崇高な超脱という観点からすれば、神性、神格、最高の単一性、及び内奥の本質という様な属性は、実在の精髄達〔顕示者達〕に当てはまるのである。というのも彼らは円、聖なる啓示の王座にとどまり、神聖なる隠蔽の席に掘えられているからである。彼らの出現により、神の啓示は明らかにされ、彼らの顔により、神の美は現わされる。従って、神聖なる実在の顕示者達の語るところに、神御自身の口調を聞きとれるのである。

顕示者達の第二の地位、即ちそれぞれの特異性、差異、此世での有限性、特質及び規準という観点から見ると、彼らは絶対的隷属、全き窮乏、完全な自己滅却を現わしている。このことを、まさしく彼は語られている、「我は神の僕である。我はお前達と同様の人間に過ぎない」と。

論争の余地のない程明白に、また十分に説き明かされた上述の説明から、汝が尋ねていた質問の意味を理解するよう努めよ。されば汝は、神の信教に不動であることができ、神の予言者達や選ばれし人達の、種々の言説中の相違に迷わされることはなくなるであろう。

万物を蔽い包む神の顕示者達の中の誰かがもし、「我は神なり!」と宣言したとしたら、彼は誠に真実を述べておられるのであり、そこには疑いの余地はない。なぜなら彼らの啓示や属性や御名を通して、神の啓示、神の御名、その属性が世の中に明らかにされる、ということは、これまでに繰り返し立証して来たところであるからである。このように述べられている、「あの槍は神の槍であって汝のものではなかった!」と。(コーラン8.17)こうも述べられている、「まこと汝に忠誠を誓うものは、即ち神に忠誠を誓うことになる」と。(コーラン48・10)また予言者達の内の誰かが「我は神の使者である」と言われたとしても、彼はまた、疑う余地のない真実を語っておられるのである。まさにこう言われている、「マホメッドは、お前達の中の誰の父親でもなく、彼は神の使者である」と。(コーラン33・40)こういう観点から見れば、顕示者達は皆、あの理想の王、あの絶対に変わることのない本質、の使者に外ならないのである。

またもし彼らが皆、「我は総ての予言者の打ち止めである」と宣言されたとしても、彼らは、誠に疑いの微塵の蔭さえない真実そのものを語っておられるのである。何となれば、彼らは皆、只一人の人物、只一つ魂、只一つの霊魂、只一つの本質、只一つの啓示であるからである。彼らは皆「始め」と「終わり」、「最初」と「最後」、「顕」と「隠」の現われであり、それらは総て、聖皿中妓も深奥にあるΨ皿に花し、木資の村髄に在す神に属するものである。また、もし彼らが「我々は神の惟なり」と。言われたなら、これもまた明白で争う余地のない”実である。何故ならば彼らは、なに人も到底達し得ない極度の隷属の状態にて現わされたからである。故に、これら本質の精髄達〔顕示者達〕は、古来永劫の神聖さの大海原に底深く沈んでいた時に、或いはまた彼らが、神聖なる神秘の最高峯の絶頂に舞い上がった時に、自らの言葉が神の御声であり神自身の呼び声であると公言されたのである。もし慧眼が開かれたならば、顕示者達はこういう地位にあったにも拘わらず、万物に浸透し給い、永遠に不朽に在す神の御前にあっては、完全に自らを滅却し、全く存在しないものと考えていたことが分かるであろう。思うに、顕示者達は、完全に自らを無とみなし、神の宮廷において自らの名があげられることは、神を冒とくする行為とみなすのである。何となれば、神の宮廷では、自己のいささかな囁きさえも、自己主張や独立自存の証拠とされるからである。神の宮廷に到達した彼らの眼から見れば、かようなことを連想すること自体が既に重大な罪悪なのである。もしも、神の御前で、何か他のことが語られるとしたら、またもし人間の心や舌や精神や魂が、最愛なる御方以外のものに夢中になるとしたら、鼠七人間の眼が、神の美以外の何者かの顔を見つめるとしたら、人間の耳が、神の御声以外の他の調べを傾聴するとしたら、また人間の足が、神の道以外の別な道を歩むとしたら、これ以上に嘆かわしいことがあり得ようか。

今日では、神の微風が吹きわたり、聖霊は万物に充満している。神の恩寵がかくも豊かに降り注がれているから、筆は静止し、舌は沈黙する。

この地位故に顕示者達は、自らを神の御声、等であると公言し、また同時に、使者の地位故に、自らを神の使者と宣言したのである。いつの場合でも彼らは、その折々の必要に応じた言葉を述べ、またこれらの発言を総て、自らに帰した。その発言たるや実に、神の啓示の領域から創造の領域にまで、また神性の領域から地上の存在の領域にまで及んでいる。従って顕示者達の言葉は、それが神性の領域、主の領域、予言者の領域、使者の領域、守護者の領域、使徒の領域、或いは隷属の領域、のいかなる領域に属するものであろうとも、それは総て、疑う余地のない真実なのである。であるから、眼に見えぬ者の顕示者達、神聖さの曙達が述べた種々異なった言葉が、以後、決して人々の魂を騒がせたり、心を惑わせたりすることのないよう、我がこれまでに説明の裏づけとして引用して来たことをよく注意して考えてみるがよい。

真理の発光体達が述べたあの多くの言葉を熟考する必要がある。もし、それらの言葉の意味が掴めないなら、知識の宝庫の信託者達から啓蒙を求めなければならない。そうすれば、これらの信託者達は、その意味を説明してくれ、その神秘を解明してくれるであろう。であるから、何人も、自身の不完全な理解力でもって聖なる言葉を解釈したり、または、それが自らの嗜好や欲求に反していることを知り、聖なる言葉の真理を拒否したり、否認したりしてはならない。

しかしながら現在では、これが聖職者達や博士達のとる態度であり、知識と学問の座を占める彼らは、無知を知識と呼び、抑圧を正義と呼ぶのである。もし、彼らが、自分達の愚かな妄想で作り上げた多くの偶像について、真理の光に尋ねた時、その答が、聖典に対する彼ら自身の観念や理解と一致しないことを発見したならば、彼らは、総ての知識の宝庫であり源泉でもある彼を、きっと、理解力皆無として罵るであろう。かようなことが各時代に現実に起こったのである。

例えば、実存の主であるマホメッドが、新月について尋ねられた時、彼は神に命ぜられた通りにこう答えられた、「それらは、人間のために設けられた時の区切りである」(コーラン2・189)と。マホメッドのこういう答を聞いた者達は彼を愚者として非難した。

同様に、彼は「霊」についての聖句中で、「みなが霊について質問するであろう。こう答えるがいい、『霊は、我が主の指令により生じるものだ』と」(コーラン17:85)と述べられている。マホメッドがこう答えられるや否や、彼らは騒ぎ立てて異論を唱えた。「見よ!霊が何であるか知らない無知な男が、自らを聖なる知識の啓示者だと呼んでいる!」と。さて、今日の聖職者達を見よ。彼らはマホメッドの名により名誉を授ったがために、また彼らの祖先が、マホメッドの啓示を認めていたがために、盲目的に彼の真理に服従しているのである。よく考えてみるがよい。もし今日、この人々が、かような質疑に対し同様の回答を得たとしたら、彼らは直ちにその答を拒否して非難するであろうということを。いや、彼らは再び全く同じ異議を申し立てるであろう。丁度、今日彼らがそう言っているように。これらの本質の精髄達〔顕示者達〕は、かような空想的偶像を超越した極めて崇高な存在であり、これら総ての空理空論を超越し、いかなる分別の心にも理解し難いほど限りない栄光に輝いているにも拘わらず、万事がかくの如き状態にあるとは。彼らのいわゆる学識も、かの知識に比べれば全くの雌偽であり、彼らの理解なるものも、全くはなはだしい錯誤以外の何物でもないのである。ところが、これらの神知の富源や永却の知識の宝庫から由来するものは何ごとによらず真実であり、真理以外の何物でもないのである。「知識はただ一つの点であるが、愚か者達は、それを無数に複製する」という言葉は、我の論旨を証明するものであり、また「知識とは、神が望み給うものの心の中に投げ入れ給う光である」という伝承は、我の説に確証を与えるものである。

彼らは、知識なるものの意味を理解できず、自らの空想で作り上げ、無知の権化より奔出した偶像を、知識という名で呼んで来たため、汝がこれ迄に見聞して来たような危害を、知識の源泉たる者に加えたのである。

例えば、その学識才能をもってて名声を博し、人々の優れた指導者の一人と自負しているある人(ハジ・ミルザ・カリム・カーン73)は、彼の著書の中で、真の学問の解説者達を残らず非難し、誹謗している。このことは{彼の著書を通じての明白な記述や引喩から十分に明らかにされている。我は彼の噂をしばしば聞いていたから、彼の著書を、いくつか読んでみようと思った。我は、他の人達の書いたものを熟読する気はないのであるが、人々が彼のことについて我に尋ねて来たので、彼の著書を知り、会得した上で質問者達に答えるために、彼の著書のいくつかを参照する必要を感じた。アラビヤ語で書かれた彼の著書は中々手に入らなかったが、或る日のこと、或る人が「エルシャドール・アワム」(「無知なものへの手引」)という題名の彼の著書の一つが、此の町にもあることを我に知らせてくれた。我は、この著書の表題から自負と虚栄の悪臭を感じた。それというのも、彼は自身を学者だと考え、自分以外の者は皆、無学な者と見放していたからである。実際、彼の価値は、彼がその著書につけた表題そのものによって露呈されたのである。その著者が私利私欲の道をたどっており、無知と愚劣の荒野をさまよっていることは明白となった。恐らく、彼は次のような有名な伝承を忘れていたものと思われる。それは「知識とはおよそ知り得るものの全体であり、力や威力は、創造の総てである」というのである。だが我は、その本を取り寄せて、数日間我の手許に置いておいた。たぶん二度ばかり目を通したと思う。二度目の時、我はたまたま「汝のためでなければ、我は天体を創らなかったであろう」と言われるマホメッドの「メーラジュ74」(上昇)の話に及んだ。我は、彼が凡そ二十以上もの学問を列挙しているのに気付いた。それらを知っていることが、「メーラジュ」の神秘を理解する上にぜひとも必要だと彼は考えていた。彼は、上述の学問全部に精通していなければ、この超越した、崇高な主題を正しく理解することはできないと主張していることが分かった。彼が列挙している学問の中には空想的な抽象論や錬金術や自然力応用の魔術等があった。このような取るに足りない、廃棄された学問を、この男は、聖なる知識の、神聖で永遠の神秘を理解するために欠くことのできないものと見放していたのである。

恩寵深き神よ!彼の理解は、この程度でしかなかった。にも拘わらず、この男が神の無限の知識の権化である者達に浴びせた中傷やあら探しの程を見よ。「お一方に在す真の神により、神の第七の領域の財宝を託されたる者達の顔に、お前は中傷を投げかけようとするのか」という言葉の、何と適切であり、真実であることよ。分別のある心や、知性の持主も、また賢く博学の人達も、一人として、これら途方もない説に気付いた者はいない。しかも、このいわゆる学問なるものが、唯一の真の神により、いつの世にも常に、拒否されるものであるということは、明敏な心の持ち主なら実に明白に分かることである。これらの学問は、真に博学なものの眼から見れば極く卑しいものであり、また一方、「メーラジュ」の主御自身は、これら狭量で不明瞭な学問の一文字にも縛られたことはなく、また彼の輝かしい心は、これらの気まぐれな幻想によっていささか仁汚されることはなかったのである。ならばどうして、これらの学問の習得が「メーラジュ」の神秘を理解するのに、必要不可欠のものであると言えようか。誠に、いみじくも彼はこう言われている、「人間のあらゆる学識は、僅かに不具の騒馬に乗って移動するだけだが、真理は風に乗って宇宙を突進する」と。神の正義にかけて言う!「メーラジュ」の神秘を測り知ろうとし、この大洋からの一滴の水を切望するものは、もしその者の心の鏡が上述の学問の塵で既に曇っているならば、この神秘の光明が反射出来るようになるまで、心の鏡を必ず拭い清めなければならない。

今日では、古の知識の大洋の底深く沈められ、聖なる英知の箱舟に住む彼らは、人々がかような空しい追求をすることを禁じている。有難いことに、彼らの燦然と輝く心は、かような学問の総ての痕跡から聖別され、このような嘆かわしい覆いを突き破り、遥かに高速である。我は、最愛なる御方の愛の炎で、総ての覆いの中で最も厚いこの覆いを焼き尽くした。その覆いとは、「最も嘆かわしい覆いなるものは、知識である」という諺に引用されているものである。その灰の上に、我は聖なる知識の神殿を建てた。神に讃美あれ。我は「栄光を遮る覆い」を最愛なる御方の美の炎で焼き捨てたのである。また我は、人の心から、世界の願望の的なる御方以外の総てを追放したのである。これぞ我が誇りである。我は、彼の知識以外のいかなる知識にも執着せず、また彼の光のまばゆいばかりの光輝以外の何ものにも、心を向けてはいない。

彼の唯一の目的は、自分が、これらの学識を総て持っているということを人々に誇示することにあると知り、我は非常に驚かされた。聖なる知識の牧場から吹き渡る一陣の風さえも、これまでに、彼の魂に及んだことはなく、古来の知恵の只一つの神秘さえ、彼はこれまでに解いたことがないということを、我は神かけて誓う。いやそれどころか、知識なるものの意味が、もしこれまでに、彼に対して説明されたならば、きっと彼の心は困惑で満たされ、彼の存在は根底から揺り動かされたことであろう。彼は、唱える説の卑しさと愚かさにも拘わらず、何と法外なことを自称するのであろうか。

恩寵深き神よ!どうして人々が彼の周囲に集まり、彼に対して忠誠を抱いたのか、我は全く驚き、あきれてしまった。儚い塵に満足して、この人達は顔をその方に向け、主中の主である神に背を向けたのである。烏の鳴き声に満足し、ワタリガラスの姿に魅せられて、彼らは、夜暗鶯の調べとバラの魅力を放棄したのである。この虚飾に満ちた書物をよく読んでみると、そこにある、言語を絶する多くの虚偽が明らかにされた。それらは、筆で描写する程の価値もなく、また一瞬の注目にも値しない程に下劣である。しかしもし、試金石が発見されれば、それは真実と虚偽を、暗黒と光明を、また大陽と日陰とを、直ちに見分けてしまうであろう。

この偽学者が、自分はこれらの学問に精通していると吹聴しているものの中に錬金術がある。国王か、または権力者かが、この学問を、空想から現実の領域に、また単なる見せかけから実践の次元にまで移すよう彼に要求して欲しいものである。このようなことを何ら自負したことはなく、またそれらを真の知識の基準とも認めていない此の無学で卑しい下僕〔バハオラ〕も、真実が明白になり、誤りが見分けられるならば同じ術を試みたいものである。しかし何の役に立つであろう。現代の人々が我に与えることのできたものは、彼らの投げ矢が負わせた負傷でしかなく、また彼らが我の唇に差し出した唯一の盃は、彼らの毒々しい悪意に満ちたものであった。我の首のまわりには、未だに鎖の傷痕が残っており、我の身体には、今もって残虐な仕打ちの跡が数多く刻み込まれたままになっている。

またこの男の学識、無知、理解力の度合、その信仰に関しては、万物を蔽い包んでいる聖典が述べていることをよく見てみよ、即ち「誠に、ザッグームの木(地獄の木)はアシム(罪深い者)の食物となろう」。(コーラン44.431仏)そのあと、聖旬がいくつか続いてから、彼はこう述べておられる、「とくと味わうがいい。全くお前は、偉大なヵリム(尊敬すべき者)なのである」と。(コーラン44・49)神の不滅の聖典中に、彼のことが、いかにはっきりと明快に記載されているか熟考してみよ。しかもこの男は、謙遜を装って自分の著書の中で自身を「罪深き下僕」と呼んでいる。神の書中にあっては「アシム」、一般大衆の中にあっては偉大な者、しかるに、「カリム」とは名ばかりのことなのである。

「青々としたものも、朽ち枯れたものも、一切は誤りのない天書に書きつけてある」

(コーラン6.59)という言葉の意味が、汝の心の紙片に書き記されるよう、この祝福された聖句を熟考してみよ。ところが、大勢の人々がその男に対して忠誠を抱いている。彼らは、知識と正義のモーゼを拒否し、無知サメレ75に縋りついているのである。彼らは神聖で永遠なる天上に輝く真理の昼の星から眼をそむけ、そのまばゆいばかりの輝きを全く無視しているのである。

おお我が兄弟よ!神聖なる鉱山のみが聖なる知識の宝石を放出することができ、神秘な花の芳香は、理想の花園においてのみ嗅ぐことができ、古来の英知の百合の花は、汚れのない心の町以外の所では咲くことができない。「良い土地では、主のお許しで、草木もよく伸びようが、悪い土地では、ほんの僅かしか芽を出すまい」。(コーラン7・57)

神の神秘を伝授された人達だけが、天上の鳥の奏でる調べを理解できるということを、はっきりと示されたのであるから、神の教えの難解な点や、神聖さの曙達〔顕示者達〕の言葉の中にあるむずかしい引喩について、啓発された心の持ち主や、神の神秘の宝庫達に啓蒙を求めることは各人の義務である。こうすれば、後天的に得た学問の助けによるのではなく、只偏に神の御加護と御恩恵の発露により、これらの神秘を解き明かすことができるのである。「それ故お前達、もし知らないことがあれば、聖典の保管を託された人達に尋ねるがいい」。(コーラン16.43)

しかし、おお我が兄弟よ、真に道を求めようとするものが、日の老いたる者の知識に通じる道に足を踏み入れようと決心するなら、先ず最初に、神の内奥の神秘の啓示の場である自身の心を清浄にし、後天的に得た総ての知識という光をさえぎる塵や、悪魔のような幻想の化身どもの暗示を払い除けなければならない。真に道を求めんとするものは、敬愛する御方の永続的な愛の聖所である自分の胸中を、あらゆる不浄なものから聖別し、自らの魂を、水と粘土に属するあらゆるものや、総ての影のような儚い愛着から清めなければならない一愛が人をして盲目的に過ちに傾かせ、或は憎みが、その者を真理から追払わないように、愛憎いずれの残滓も残らないように、求道者は己れの心を大いに浄めなければならない。まさしく汝は今日、如何に多くの人達が、このような愛や憎しみのために不滅の御顔を見失い、神の神秘の権化達から遠く離れてさまよい歩き、導きもなく、忘却と錯誤の荒野をあてどなくさまよい歩いているかを、まざまざと眼のあたりに見ている。求道者たるものは、常に神を信頼し、俗界の人々と断交し、塵の世から自身を引き離し、主中の主に在す御方におすがりしなければならない。道を求めるものは、決して自己を他の人より高位に置こうとしてはならず、自分の心の紙片から、傲慢や虚栄の総ての痕跡を洗い流し、忍耐と甘受を固守し、沈黙を守り、無益な無駄話を慎まなければならない。何となれば、舌は、くすぶっている火で、過度の饒舌は致命的な毒となるのである。物質的な火は、肉体を焼き尽くすが、舌の火は心も魂も共に焼き滅してしまう。前者は、ほんの一時しか燃えていないが、後者の影響は、一世紀も持続する。

求道者たるものは、また、陰口を重大な罪と心得なければならない。陰口は、心の灯を消し、魂の生命を亡すものであるから、その支配より自らを遠ざけなければならない。求道者は、僅かのもので満足し、あらゆる法外な欲望を棄てなければならない。世俗を棄てた人達との交わりを大切にし、高慢な俗人達から遠ざかることを、得がたい恩恵と号えなければならない。道を志すものは、毎日夜明けに神と親しく語り合い、全魂を傾けて、験愛する御方を、不屈に求め続けて行かなければならない。求道者は、神の御名を切に唱えるその炎により、一あらゆる気まぐれな考えを焼却し、稲妻の如き速さで神以外の総てのものを通り光ざなければならない。探求者たるものは、追い立てられているもの達を救い貧しい人への親切を差控えるようなことがあってはならない。道を求めるものは、動物に耕切にしてやらねばならない。ならば、言語を与えられている人類には尚一層親切でなければならない。求道者は、敬愛する御方のために自らの生命を捧げることを蹟踏してはならない。また人々の非難に左右され、真理から顔をそむけるようなことがあってはならない。求道者は、自分の欲せざることを他人に望んではならず、また、自分が守れないことを約束してはならない。悪事を行うもの達と交わることを心して避け、その人達の罪が許されるよう祈らなければならない。道を求めるものは、罪深い人達を許し、彼らの地位の低さを決して軽蔑してはならない。何故ならば、誰も、自分の最期を知る者はいないからである。罪深いものが、臨終の際に、信仰の本質に到達し、不滅の盃を飲み干し、天上の群衆の方へと舞い上がって行ったという例が、何としばしばあったことか。また、実に信心深かった人が、霊魂の昇天に際し、あまりもの変わりように、地獄の火の中に落ち込んでしまうということも何と度々あったことか。我が今ここで、これらの得心のいく重要な話をした目的は、神以外心号のは終て、束の間の傍いものであり、全幅の崇敬の的である神以外のものは皆、全くの無であることを、求道者に痛感させたいがためである。

これらのことは、崇高な人、の属性の一部であり、霊的な心の持ち主であることを証するものである。これらの属性については、既に、確実な知識の道を歩む旅人として必要条件に関する記事の中で述べてある。超越した旅人や、誠実な求道者が、これらの必須の条件を満たした時、初めて、真の求道者と呼ばれることができるのである。人が、「我らのため奮斗する人々」(コーラン29.69)という聖句中に含まれる条件満たした時はいつでも、「我ら自らその手を引いて、正しい道を歩ませようぞ」(コーラン29.69)という言葉によって与えられる祝福が受けられるであろう。

求道心、真剣な努力、燃えさかる願望、情熱的な献身、熱烈な愛、歓喜と忘我、の灯が求道者の心の中に点され、また神の慈愛の微風が、その者の魂の上に漂う時・初めて・過誤の暗黒は追い払われ、疑いや不安の霧は晴らされ、知識と確信の光はその者を蔽い包むようになるであろう。その時にこそ、神秘の先駆者が、聖霊の喜ばしい音信を持って、神の町から朝の光のように輝き出し、知識のラッパの吹奏、により、心や魂や精神を怠慢の眠りから覚醒させるであろう。ここに至り、神聖な不滅の聖霊の豊かな恩寵の発露によりその求道者はかくも新しい生命を与えられ、彼は、新しい眼、新しい耳、新しい心、新しい意志が授けられたことを発見するであろう。その者は、この宇宙の明らかな御兆を熟視し、魂の、隠されたる神秘を児通すであろう。神の眼で凝視すれば、彼は、絶対的確信の地位への門戸が、総ての原子の中にあることを感知するであろう。その者は、万物の中に、神の啓示の神秘と永遠なる顕示の証拠を発見するであろう。

神かけて誓う!教導の道を歩み、正義の極点に登りつめようと努力する者がこの栄光ある最高の地位に到達したならば、その者は、三千里も離れた所からでも、神の芳香を嗅ぎつけ、万物の曙に登る神の御導きの燦然たる旭を認めるであろう。凡そあらゆるものは、例えそれがいかに小さなものであろうとも、道を求めるものにとっては、それぞれ、探求の目的である敬愛する御方の方へ導く教示となるであろう。この探求者の洞察力は非常に鋭くなるため、あたかも太陽と影とを区別する如くにはっきりと、真理と虚偽を見分けるであろう。東方遥か彼方の偶々で、神の香わしい芳香が漂うならば、たとえ身は西方の遥か果てに住んでいようとも、必ずやその芳香を感知し嗅ぐことであろう。同様に、探求者は、神のあらゆる御兆即ち、神の不可思議な御言葉、偉大なる業、力強い偉業と、人間の行動や言葉や手段とを明白に見分けるであろう。それは丁度、宝石と石ころの違いを知っている宝石商のように、或はまた、春と秋、寒冷と温熱とを見分ける人のように。人間の魂の水路が、流れを妨げるあらゆる世俗的執着から浄められた時、果てしない遠方からでも、必ずや敬愛する御方の息吹を感知することができ、またその芳香に導かれ、確信の町に到達し、その中に入るであろう。その町の中で、探求者は、神の古来の英知の不可思議を理解し、その町に繁茂する木のさわさわ揺らぐ葉から、隠された教えの総てを感知するであろう。その求道者は、内なる耳と外なる耳とをもって、栄光と讃美の聖歌が、その土魂から、主中の主の方へと鳴り響いて行くのを聞くであろう。また彼は、自分の内奥の眼で「再来と「復活」の神秘を発見するであろう。御名と属性の王にまします神が、あの町のために定め給うた御兆、証、啓示、光輝は、何とも言い現しようのないほど素晴しいものである。この町に到達すると、水がなくとも喉の乾きは消え去り、火がなくとも神の愛が燃えあがる。草の葉一枚一枚の中に、測り知れない知恵の神秘が秘められ、あらゆるバラの茂みで、数知れぬ夜啼鳥が、無上の歓喜に心ひかれて、美しい調べを奏でている。そこに咲き乱れる色麗しいチューリップの花は、燃えさかる薮の神秘を現わし、その香わしい聖らかな香りは、救世主の御霊の芳香を漂わせている。それは黄金なくして富を与え、死のない不朽性を授ける。その一枚一枚の葉の中に、言い現わせない程の歓喜が貯えられており、その一つ一つの部屋の中に、数知れぬ神秘が秘蔵されている。

神の御意を探し求めて雄々しく精進する人達が、一度、神以外のものを総て捨て去った時、あの町に強く心をひかれ愛着を感じ、一瞬の離別すら考えられないものとなるであろう。彼らは、その集合に咲くヒヤシンスの花から語られる過ちのない証拠に耳を傾け、またそこのバラの美や、そこで囀る夜啼鳥の調べから、最も確かな証言を得るであろう。およそ一千年に一度、この町は更新され、改装されるのである。

おお我が友よ、それ故、力の限りを尽くしてその町に到着し、神の恩寵と慈愛により、「栄光を蔽い隠すもの」を引き裂き、確固たる不動の精神をもって、新たな敬愛する御方の道に、消沈せる自らの魂を捧げることは我々の義務である。我々は、紅涙を絞り、繰り返し、熱烈に、あの恩寵を賜るようその御方に懇願しなければならない。その町は、あらゆる時代に、またあらゆる宗教制において、啓示された神の言葉に他ならない。それは、モーゼの時代にあってはモーゼの五書であり、イエスの時代にあっては福音書であり、神の使者マホメッドの時代にあってはコーランであり、今日ではバヤンであり、また、神が現わし給うであろう者の宗教制においては、その彼の聖典がそれに当たる。そしてその聖典は、それまでの宗教制の総ての聖典中で特に卓越し最高のものであり、これ以前にあった諸々の聖典は総て、この書に照会されなければならない。これらの町々には、精神の糧が豊富に用意されており、清廉な歓喜が定められている。これらの町々の授ける糧は天上のパンであり、賦与する精神は、神の不滅の祝福である。世俗を超脱した人達には、和合という贈り物が授けられ、貧困者は富を与えられ、無知の荒野をさまよっている者達には、知識の盃が提供される。天地万物に賦与される教導や祝福、学識、理解、信仰、確信等は総て、この町々に隠され、秘蔵されているのである。

例えば、コーランは、マホメッドの民にとっては、難攻不落の砦であった。その時代に、その中に入っているものは皆、敵の悪魔のような襲撃からも、襲いかかって来る投槍からも、魂を滅ぼす疑惑の念からも、神を冒涜するささやきからも、安全に守られていたのである。その信徒はまた、永久に不朽の甘美なる果実、即ち聖なる木に実った英知の実の分け前に与ることができたのである。その信徒は、知識の川の清らかな水を飲み、神聖なる和合の神秘の美酒を味わうことができたのである。

マホメッドの啓示や彼の掟に関連して、人々が必要とした総てのものは、あの輝かしい栄光のレズワンの中に啓示され、明示されていたのである。その掟は明白であり、その約束は確かであるため、あの聖典〔コーラン〕は、マホメッド亡き後の信徒達にとり、常に変わることのない証言となっているのである。六十年(マホメッド紀元一二六十年)、即ち神の素晴しい顕示者バブ〕出現の年まで、総ての者達は、その聖典(コーラン)の戒律に従うよう申しつけられていたのである。その聖典は、神の在すレズワンヘ求道者を確実に導き、自身の祖国を捨て、求道者としての道を歩む者を、永遠なる再会の神殿に導き入れる書である。その書の教導には決して誤りはなく、その証言は、他のいかなるものよりも卓越している。種々の伝承や、それを語った人達は総て、コーランの原文によってのみ確認され立証されるものであるため、この書以外の全ての伝承や書物や記録は、かような特異性を欠くものである。その上、多くの伝承そのものは、甚しく相異なっており、また不明な点も多い。

マホメッド御自身も、その使命の終わりが近づいた時に、こう述べられた、「誠に我は、汝等の間に我が二つの重要な証言を残して行く。即ち神の書と我が一族とである」と。予言者の源、神聖な導きの宝庫〔マホメッド〕は、多くの伝承を表わされたにも拘わらず、只一つコーランの名のみを挙げられたのである。それにより、マホメッドは、コーランを求道者達にとって最強の手段とし、最も確実な証言として定められたのである。そしてそれを、復活の日に至るまで仰ぐべき、人々の指針となされた。

身分の上下にかかわりなく、総ての人が真正なるものと認める神の聖典中で、神を信ずる人々を指導する証言として神は何を定められたかを、確固たる洞察力、清い心、聖別された精神をもって注意深く考えてみよ。その証言の光により、真実と虚偽、教導と錯誤を知り、それを見分けることができるように、我や汝ばもとより、世の総ての入はこの証言に縋らなければならない。マホメッドは、彼の証言を、御自身の聖典と彼の一族とに限定されていたのであるが、後者は既に消滅したため、彼の聖典だけが、人々の間に残る唯一の証言となる。

彼の聖典〔コーラン〕の初めの所で彼はこう述べられている。「アリフ・ラフ・ミム76。これこそは、疑念の余地なき経典、神を畏れかしこむ人々の導きの書」と。(コーラン2・1)コーランのこの断片的な文字〔アリフ・ラム・ミム他〕の中に、聖なζ本質の神秘が秘められており、それらの貝の中に神の和合の真珠が秘蔵されている。余白ないから、今はそのことについて詳しく述べることは止める。それらは外見上はマホメッド御自身を示している。その彼に神は呼びかけてこう言われている、「おおマホメッドよ、神聖な和合の天上から下し遣わされたこの聖典については、いささかの疑問もなく確信に満ちている。その中には、神を畏敬する人々への導きがある」と。この聖典、即ちコーランを、天上と地上にある総てのもの達への指導書として、いかに神が定め給うたかを、よくよく考えてみよ。不可知の本質に在し、聖なる実在に在す神は自ら、この聖典が復活の日に至るまで、全人類にとって、疑問の余地なき確信の指導書であることを証言されているのである。さてここで我は尋ねるが、神が、その起源の神聖なることを宣言され、それを真理の具現であると言明された。この最も重要な証言〔コーラン〕を、疑惑や疑念をもって見ることは、正しいことであろうか。知識の最高峯に到達するための最良の指導書と、神が定め給うたものに顔をそむけて、あの聖典以外の他のものを探し求めようとすることは、一体正しいことであろうか。人々の、不合理で愚かな放談が、彼らの心に疑惑の種子を蒔くことを、彼らはどうして許すことができようか。ある人が、こう言ったとか、ああ言ったとか、或いはまた、あることが実現しなかったとかいうことを、これ以上無益に論争することが、どうしてできようか。人類にとって、神の書以上に有力な手段、確実な指導が他にあるとすれば、神があの聖句の中で、それを明示することに怠慢であられたであろうか。

前述の聖句中に述べられているように、神の抵抗し難い命令や不動の掟からそれないようにすることは、我々の義務である。我々は聖なる素晴らしい数々の聖典を承認しなければならない。これを怠るのは、あの神聖な聖旬の真理を認めることを怠ったことに等しいのである。コーランの真理を認めることを怠った者は、真に、それ以前の聖典の真理を認めることを怠ったものであるということは明白である。これこそ、あの聖句が明らかに意味したところである。もし我が、その内に秘められた多くの意味を解明し、その隠された無数の神秘を打ち明けようとするならば、永遠の日時を費やしても、それらの趣旨を余すところなく述べるに十分でなく、また天地万物は、それを聞くことに耐えられない。誠に神は、我の言葉の真理を立証し給う。

他の一節で同様のことが言われている。即ち、「もし汝らが、我が僕〔マホメッド〕に下した啓示に関して疑念を抱いているなら、まず、それに類する一章を作ってみよ。神以外の汝等の証人をここに呼び出して見るがいい。もし、汝らが真実ならば」と。(コーラン2・23)神が、御自身の最も確実な証言、全く誤りのない証拠、総てを制御し給う御力の証、また神意の権威の現われ、と宣言されたこれらの聖旬の地位がいかに高遠なものであり、その功徳がいかに素晴らしいものであるかを、よくよく見るがいい。天上の王なる神は、御自身の真理を証言する総ゆるものの中で、神の書の聖旬こそが、比類なき最高位にあるもの、ということを宣言されたのである。何となれば、他の総ての証拠やしるしに比し、神の啓示し給うた聖句は太陽の如くに照り輝いているが、一方、それ以外のものは皆星の如きものだからである。世界中の人々にとって、それらはいつも変わらない証言であり、論争の余地のない証拠であり、理想の王の輝く光なのである。それら聖句の卓越性は無類であり、その功徳は、何ものも凌ぐことはできない。それらは神々しい真珠の宝庫であり、聖なる神秘の貯蔵庫でもある。それらは、確固たる絆であり、強靭な綱であり、オルワトル・ウォスガであり、消すことのできない光である。それらの聖句を通して、聖なる知識の川は流れ、古来至上なる神の英知の火は燃え上がって行く。これは、信心深いもの達の胸中には愛の炎を燃え上がらせ、同時に、敵の心中には無思慮の悪寒を引き起す火である。

おお友よ!神の御命令を放棄せず、寧ろ、神が御自分の神聖な証言として定め給うたことを黙認し服従するのは我々の義務である。この聖句は、この悩み苦しんでいるものが説明したり、解釈したりするには余りにも重要で、意味深い言葉である。神は真理を語り、正しい道に導き給う。神は、誠に、神の総ての民を治め給う者なり。神は強大なる御方にして、慈悲深き御方に在します。同様に、こう述べられている、「これは我ら〔神〕が、汝〔マホメッド〕に、ありのままに語り聞かせる神の聖旬の数々である。もし彼らが、神と神の聖句を拒むとしたら、一体彼らは、どのような他の啓示を信じるというのか」と。(コーラン45・5)もし汝が、この聖句の含蓄を十分に理解するならば、次の事実を悟るであろう。即ち、神の予言者達に優る出現は決してなく、また、この予言者達の啓示された聖旬より力強い証言は、決して地上に表わされたことはないと。いや実に、汝の主なる神が意図されることの証言以上に卓越した証言は他にあり得ないのである。

また、他の行でこう言われている、「ああ罪深い虚言者に禍いあれ。神の聖句が読唱されるのを聞いても尚、傲慢不遜でまるで耳に入らぬようである。そのような者には苦しい天罰の福音を伝えてやるがいい」と。(コーラン45・6)もし人々が彼らの主の聖句を熟考するならば、この聖句中に含まれている意味だけでも、天上地上に住む総てのものを満たすに十分である。いかに、今日、多くの人達が、神から下された聖句の数々を、あたかも総てのものの内で最も下等なものであるかのように、軽蔑し、無視しているということを、汝は耳にしているであろう。しかも、これらの聖句以上に素晴らしいものは、これまでに何一つとして現われたことはなかったし、今後も決してこの世に現われるようなことはあるまい。彼らに言うがいい、「おお無思慮な者達よ。汝等は、昔、祖先達が語ったことを、そのまま繰り返し復唱している。汝等の祖先が収穫したのは、彼らの不信仰の木に実った果実である。汝等も、同じ果実を収穫するであろう。やがて汝等は祖先の下に集合し、共に地獄の火の中に住むことになろう。それは邪悪の住家、圧制者の住いである」と。

尚また、他の行ではこう述べられている、「そのようなものは、我が聖句の一端を知ると、すぐにそれを笑いものにしてしまう。彼らを待っているものは、恥ずべき刑罰である」と。(コーラン45・8)彼らが潮笑して言うには、「さあ今、別の奇跡を行って見せよ。また別の御兆を与えて見よ」と。あるものはこんなことも言った、「今、わしらの頭上に、天の一角を落として見よ」と。(コーラン26・187)そうかと思うと他の者は、「もし、これ〔コーラン〕が誠に汝の下し給うた真理なら、我らの頭上に、天から石の雨を降らせ給え」(コーラン8・32)と言った。モーゼの時代に、イスラエルの民が地上の下劣なものと引き換えに天上の糧を手放したのと丁度同じように、この人々も、自らのけがらわしい、下品な、愚かな欲望と、神から啓示された聖句とを交換することを望んだのである。同じように、精神の糧が、神聖な慈悲の天上から下され、神の慈愛の雲から雨と降り注がれているにも拘わらず、また、生命の太洋が、万物の主の命令により、心のレズワンの中で波打っているにも拘わらず、人々は飢えた犬の如く、腐肉の周りに集まり、塩水湖の淀んだ水に満足している。汝は今日この様子を眼のあたりに見ている。恩寵深き神よ!これらの人々の行動の、何と奇妙なことであろう。万物を導き給う彼の御旗が、既に高く掲揚されているのに、人々は指導を求めて騒ぎたてている。あらゆる知識の的である者が、太陽のように輝いているにも拘わらず、彼らは、知識の不明瞭で複雑なところにばかり執着している。彼らは、自身の眼で太陽を見ていながら、あの輝く天体に、光の証をたてるように求めている。彼らは、自分達の上に降り注ぐ春雨を見ていながら尚、その恩恵の証拠を要求している。太陽たる証拠は、燦然と輝いて万物を蔽い包むその光にある。雨たる証拠は、生命の外套でこの世界を蔽い、甦らせるその恩恵にある。真に、盲目は、太陽から、その熱以外の何物も感知し得ない、また、乾き切った土は、慈雨の恩恵には預からないのである。「信仰なき者が、コーランの中に文字の羅列しか感知しないのを驚くことはない。何故なら、盲目は大陽の中に、ただその熱しか見出し得ないからである。

他の節でこう述べられている、「我らの明快な聖句が読唱されるとき、彼らの論法はただ、『もしそれが真実ならば、わしらの先祖達を連れ戻してみよ』というばかり」(コーラン45・24)。これら万物を蔽い包む慈悲の権化達〔顕示者〕に対し、何と愚かな証拠を彼らが要求したかを見よ。彼らはそれらの聖句を潮笑したのである。それら聖句中の一文字は、天地の創造よりも素晴らしいものであり、それは、自我と我欲の谷にいる死者達を信仰の霊魂でよみがえらせるのである。ところが彼らは、騒ぎ立ててこう言う、「我らの先祖達を墓から急ぎ出させろ」と。人々の強情さや傲慢さはこのようである。これらの聖句の一つ一つは、世界中の人達にとって、神の真理の確固たる証言であり、輝かしい証拠である。もし汝が、神の聖句を熟考してみるならば、その一つ一つが、実に、全人類を満たすに十分であるということを理解するであろう。前述の聖句そのものの中にも、神秘の真珠が秘蔵されている。いかなる疾病でも、それが与える医薬で利かないものはあり得ない。

大衆は、聖句の意味を掴めず、またその価値を正しく評価できないから、聖典や、その中の多くの聖旬は、大衆にとっては何の証言にもなり得ない、と主張する者がいるが、そのような愚かな議論に心を留める必要はない。コーランこそは、東西両洋に向けての神の確かな証言である。もしそれが、人間に理解できないようなものであったとしたら、一体どうして、それが総ての人達への普通の証言だと宣言されたのであろうか。もし彼らの言うことが真実であるとしたら、誰も神を知るよう要求されることもないし、また神を知る必要もないであろう。何故ならば神聖なる実在を知ることは、神の聖典を知ることよりも遥かに上の段階にあり、大衆は到底それを理解し得ないであろうから。

かような論争は全く誤ったものであり、許し難いものである。それは全く、傲慢や思い上がりからくるものである。その目指すところは、人々を神の善意のレズワンから邪道に迷い込ませ、彼らに対する支配の手綱を一層引き締めることにある。それでも尚、神の眼には、大衆の方が、唯一の真の神から顔をそむけた宗教の指導者達よりも遥かに優れて高尚なのである。神の御言葉の理解や、天上の鳥達の言葉の会得は、決して人間の学問によるのではなく、それはひとえに、心の純潔、魂の清純、霊の自由によるのである。今日このことは、学問の規準とされている一文字さえも知らぬ者が知識の最高の座を占め、その心の庭が、聖なる恩寵の雨により、英知のバラや理解のチューリップで美しく飾られているということにより、証明されているのである。偉大なる日の光を分け与えられる誠実な心の持ち主に幸あれ!

また同様にこう述べられている、「神の御兆を信じょうともせず、やがて神と対面することをも信じない輩には、我が慈悲を頂く望みは絶たれる。ただ痛ましい懲罪が待ち構えているだけである」と。(コーラン29・23)また,「彼らは言う、『狂った詩人のために、我らの神々を捨てられようか』」と。(コーラン37.36)この聖句の意味するところは明白である。これらの聖句が啓示された後、人々が何と言ったかを注意して見てみよ。彼らは、マホメッドを詩人と呼び、神の聖句を潮笑し、叫んでこう言った。「彼の言葉は、昔の人達が語った物語でしかない。」と。彼らはまさに、マホメッドが昔の人の語ったことを編纂し、それを神の御言葉と呼んだと言いたいのである。同様に今日汝は、人々が、この〔バブの〕啓示を同じように責めたてて、「彼は、古米の話を取り入れてこういう言葉を語った」とか、或は「これらの言葉は、にせものである」等と言っているのを聞いている。彼らの言葉は空しく、横柄であり、彼らの身分や地位は下等なものである。

我は既に言及しておいたが、彼らは否認や非難を述べた後に抗議してこう言った。「我々の聖典によれば、モーゼやイエスの後には、神の啓示の掟を廃止する独立した予言者が現われることは決してあり得ない。寧ろ、出現するはずの者は、必ずや神の掟を成就するものでなければならない」と。すると、神聖なる主題をことごとく明示し、また、慈悲深き御方の恩恵の流れは決して止まることはないという真理を立証する次の聖旬が啓示されたのである、「以前、ヨセフ77が、明証をもたらしてきたときも、汝らは、彼の持って来たものを、どこまでも疑い続け、彼が死んだとなると、『彼の後、神は使者を遣わされまい』と言った。このようにして神は、無法者、疑念を抱く者を迷いの道に引き入れ給う」と。(コーラン40.34)それ故、この聖句を通じて、各時代の人々は聖典中の一旬に執着し、かくも空しい、愚かな言葉を語り、もはや予言者は二度とこの世に出現しはしないであろうと主張したということを理解し、その事実を確信せよ。丁度、キリスト教の聖職者達がその例である。彼らは、我が既に引用したことのある福音書中の聖句に固執し、福音書の掟は決して無効とされることはなく、また福音書の掟を確認する以外には、独立の予言者はもう二度と出現することはないと釈明しようとした。大抵の人達も、同様な霊的病いにかかってしまったのである,

まさしく、汝が現に見ているように、コーランの民も、昔の人達と同様に、「予言者達の打ち止め」という言葉を何と自らの眼を蔽う暗幕とならしめたことか。だが依然として彼らは、「その真の意味を知る者は、神と、知識の基礎の堅固なる者のみである。」コーラン3.7)という聖句の真実性を自ら証言している。そして、知識の基礎の堅固なるもの、知識の母体であり、その核心であり、秘密であり、またその本質である御方が、人々の願望に少しでも反することを啓示したとすると、彼らは、痛烈に彼に反対し、恥もなく彼を拒絶した。かようなことを汝は既に見たり聞いたりして来た。かような言動は、ただ宗教の指導者達の扇動によってのみもたらされるのである。彼らはただ、我欲という神を拝し、黄金のみに忠誠を捧げ、また、学問の厚い暗幕に蔽われ、学問の難解な点にのみとらわれ、錯誤の荒野に迷い込んでいるのである。まさしく、存在の主はこのことを明らかに言明しておられる、「これをどう思う、己れの欲望を神に祭り上げてしまった者のことを。神が思うところあって邪道に迷い込ませ、耳と心に封印し、眼をも蔽いたもう者のことを。神に見放されてしまったら誰が一体彼を導こう。

さればこれが、汝への訓戒とはなるまいか」と。(コーラン45.22)

「神が思うところあって邪道に迷い込ませたもう者」という聖句の外面上の意味は示されている通りであるがそれ以外に、神の美から顔をそむけ、自らの妄想や欲望に従って築いた学問に固執し、神の聖なる伝言や啓示を非難する、時の聖職者達のことを意味すると、我は読み取ることが出来る。「言挙げよ。誠に重大な伝言に汝等は背を向けたのである!」(コーラン38.67)また、彼が言われるには、「明白な我の聖句が彼らに読唱されても、彼らは言う、『これは一人の男が、汝らを祖先の崇拝していた神々から背かせようとするに過ぎない』と。また言う、『これはただねつ造した、つくりごとに過ぎない』と。」(コーラン34.43)

神の聖なる御声に耳を傾けよ。そして神の甘美な不滅の調べに心を留めよ。神の聖句をことごとく拒絶した者達を、神は、どのように厳粛に戒められたか、また神の聖なる御言葉を否定した者は、いかに勘当されたかを、よく注意して見てみよ。神の御前のコウサルから人々は何と遠く離れ、さまよい歩いていたか、またあの聖別された美に面して、精神の貧困な者達が示した不誠実や傲慢が、如何に嘆かわしいものであったか、よくよく考えてみよ。慈愛と恩恵の本質に在す御方が、あの束の間の存在たる者達を不滅の領土に入らしめ、あの貧困な魂の持ち主達を富の聖なる流れに導いたにも拘わらず、或る者達は彼を「総ての創造物の主である神を中傷するものだ」と非難し、また他の者達は、彼を「信心の道や真の信仰から入々を引き止めるもの」と責め、また更に他のもの達は、彼を「狂人」呼ばわりしたのである。

同様に、不滅の宝石に対して、彼らが、如何に下劣な非難を浴せかけたか、また純潔の源である彼に対して、如何に言語に絶した罪を積み重ねて来たかを、汝は今日、その眼で見ているのである。神がその聖典を通して、また聖なる不滅の書簡の中で、啓示された聖句を否認したり、拒否したりした者達には警告を発し給い、聖旬を信じた者達には、御自身の恩寵を伝え給うたにも拘らず、それでも尚彼らは、神の永遠なる神聖さの新しい天空から下されたあの聖句に反対し、無数のあらさがしをやっている、その有様をよくよく注意して見るがいい。かつてこれ程までに素晴らしい恩恵が注がれるのを、いかなる眼も見たことはなく、これ程までに慈愛のこもった啓示を、いかなる耳も聞いたことはなかった。にも拘わらず、この有様である。そこに明示された恩寵と啓示のあまりもの素晴らしさに、天啓の聖句はあたかも、全てに慈悲深き御方の恵みの雲より降り注ぐ春雨のように思えた。「節操を授けられている」予言者達は、その崇高さと栄光とにおいて太陽の如く輝き、それぞれ万人が見ているような聖典を授けられた。そしてその中の聖旬は十分に確認されている。しかるに、この聖なる慈悲の雲から降り注がれた聖旬の数は、非常に多数であるため、いまだかって誰も、その数を概算することはできなかった。今では二十巻が入手できよう。未だ、どれほど多くのものが我々の手の届かないところにあるであろう。どれほど多くのものが略奪され、敵の手中に陥っていることであろうか。誰もその運命を知るものはない。

おお兄弟よ、聖典の正しい忠言に戒められ、聖なる書簡に記されている訓戒に心を留め、聖旬の啓示者を中傷せず、彼の大業に完全に身を委ね、誠心誠意、彼の碇を遵奉し、彼の慈悲の宮廷に入り、彼の恩寵の岸辺に住むよう、我々は眼を見開き、彼の御言葉を沈思黙想し、神の顕示者達の庇護を求めなければならない。誠に彼は慈悲深く、その僕らを許し給う。

また同様に、こう述べられている、「言挙げよ。経典の民よ、汝らが我らを非難するのは、ただ我らが神を信じ、また我らに下されたもの、および、先に下されたものを信ずる故であるか、または汝らの多くが違反者だからではないか」。(コーラン5.62)この聖句は、何と明快に我の主旨を示し、また何と明白に神の聖句の証言の真実性を示しているではないか。この聖句が啓示されたのは、回教が、異教徒達に攻撃され、その信徒達が間違った信仰に陥っていると責め立てられ、マホメッドの同僚達が、神の否認者、虚言を語る魔術師の手先きなどと非難されていた時である。回教が、まだ外見上権威や権力を欠いていた初期の頃、自らの面を神に向けていたマホメッドの友らは到る処で苦しめられ、迫害され、投石され、中傷された。このような時代に、この聖句が、神の啓示の天上より下されたのである。これこそは、実に反駁し難い証言を示すものであり、確かな導きの光をもたらすものであった。それは、異教徒や偶像崇拝者に向かって、「汝らは、我々を抑圧したり、迫害したりしているが、神を信じ、マホメッドの舌を通して下された聖句を信じ、また昔の予言者達に下された聖句を信じた以外に、一体我々が何をしたというのか」と宣言するように、マホメッドの同僚達に対して命じた。このことの意味するところはこうである。即ち、マホメッドに下された神の新しく素晴らしい聖句、及び古代の予言者達に啓示された聖旬は全て、神に由来するものであると認め、それら聖句を承認しその真実を奉じたというのが、マホメッドの同僚達の唯一の罪であると。これは聖なる王がその僕らに教え給うた証言である。

この観点からすれば、東西を包含するこれら新しく啓示された聖句を拒否していながら、自らを真の信仰の支持者と見なすことは、彼らにとって正当なことであろうか。これらの聖句を啓示された彼を彼らは寧ろ信じるべきではなかろうか。神御自身が定め給うた証言を考える時、どうして、その証言の真実性を立証する者達を、真の信徒と考えずにおられようか。聖句に面を向けて、その真実性を信奉した人達を、神は、その慈悲の門から追い払ったり、彼の確かな証言を固守した人達を脅かされるであろうか。誠に神は、御自分の聖句により真理を確立し、御自分の言葉により自らの啓示を確証し給うのである。誠に神は力に満ち給い、危急の場の救助者にましまし、全能なるお方に在します。

また同様にこう述べ給う「たとえ我が、立派に、羊皮紙に、したためた聖典を汝に下し、それを彼らの手に触れさせたとしても、信仰なき彼らは、きっと『これらは明らかに妖術だ』などと言うだけであろう」と。(コーラン6.7)コーランの聖句の大部分は、こういう主題を示している。我は、簡潔にするために、ただこれらの聖句を述べるだけにした。聖典全域にわたり確立されているあの数々の聖旬以外に、神の美を顕示する者達を認知する規準、人々が固守したり、神の顕示者達を拒否したりする規準、が他に定められていようか、よくよく考えてみよ。実際、それぞれの事例において既に示したように、聖句に反対したり、それを嘲笑したりする者達を、神は火の脅威にさらされるのである。

だから、もし一人の人物が起ち上がって、無数の聖句や講話や書簡や祈りをこの世にもたらしたとしたら、そしてそれらのどの一つも、単に学問によって得られたものでなかったとしたら、それらを拒否し、その言葉に備わる恩恵の威力から自らを遠ざけた人々の行為を、一体いかなる口実が正当化することができようか。一たび彼らの魂が天上に舞い上がり、その陰うつな肉体から抜け出した時に、彼らは一体何と答えることができるであろうか。彼らは「我々は、ある伝承を固く信じて来たが、それが文字通り実現しだのを見たことがなかった。だから我々は、聖なる啓示の権化達に対して、こういうあら探しをし、神の戒律から遠ざかっていたのである」と言って自らを正当化することが一体できるであろうか。予言者達の幾人かが、「節操を授けられている」予言者として命名された理由の一つに、彼らへの聖典の啓示があったことを、汝は聞いたことがあるであろう。にも拘わらず、多数にのぼる聖句の啓示者であり、著者である御方を、彼らが拒否することを正当化し、愚かにも人々の心の中に疑惑の種子を蒔き、破滅や罪悪の道に人々を引き入れようと立ち上がった、悪魔のようなものの言うことに、どうして従うことができようか。これが原因して自らを神聖なる恩恵の太陽の光から遠ざけることを、彼らはどうして許すことができようか。これらのことはさて置き、もしこの人達が、このような聖霊やかような聖い息吹を、避けたり拒否したりするなら、一体彼らは誰にすがり、彼の御仏顔以外に誰の顔の方に向くことができようか。実に、「人々は、それぞれに天空の決まった一角を向くのである」。(コーラン2・蜘)我は、汝にこれらの二つの道を示した。汝の選ぶ道を行け。これこそが誠に真理であり、真理の後には、只虚偽のみが残るのである。

この啓示〔バブの啓示〕が真実であることを示す証拠の中に、次のようなものがある。即ち、あらゆる時代、あらゆる宗教制において、不可視の精髄が、その顕示者達を通して啓示される時には、いつも名も知れず、俗界のあらゆる紛糾を超越した人達が、予言者たる太陽からのまた、聖なる月からの啓蒙を求めて、神の御前に参ずる。それ故、当時の聖職者達や富裕な人々は、しきりに彼らを軽蔑し、嘲笑した。まさしく彼は、誤ちを犯した者達についてこう述べられている、「すると、彼の民のうち不信心な首領達は言った、『汝を見るに、我らと同じ人間にすぎない、また、我らの中でも、思慮の未熟な最も卑しい者のほかには、汝に従う者は見うけない。また汝には、我らよりまさる長所も認められない。いや、我らは、実際汝を嘘つきだと考える』」と。(コーラン11・27)彼らは、あの聖なる顕示者達の揚げ足をとり、異議を申し立てて言うには、「我々の中で卑しい者や、取るに足りないもの以外は、誰一人として、汝に従う者はいなかった」と。彼らの書わんとするところは、学者達や富裕な者達や名声を博した者達の中には、一人として彼ら〔顕示者達〕を信じたものはないということであった。このような証拠を挙げることにより、彼らは、真実以外には語らない者を、嘘言者であると証明しようとしたのである。

しかしながら、最強の主権たるこの最も輝かしい宗教制においては、多くの啓蒙された聖職者達、至高の学識者達、博学円熟の博士達が、ことごとく彼の宮廷に到達し、彼の聖な御前の盃を頂いて飲み、彼の最も素晴らしい恩寵に預かる栄誉を授けられたのである。彼らは皆、敬愛するお方のために、この俗世とそこにある総てを放棄した。我はここに、それらの人達の中から数名の名を挙げてみよう。そうすれば、これにより、小胆な者達を元気づけ、臆病な者達を勇気づけることができよう。

その人達の中には、モラ・ホセイン78がいた。彼は、神の啓示の太陽の輝かしい栄光の受領者となった。彼の存在なくしては、神はその慈悲の座に就かれることもなければ、永遠の栄光の王座に即位されることもなかったであろう。また彼らの中には、セイェド.ヤーヤ79がいた。彼は、その時代の唯一無比の人物であった。

モラ・モハメッド・アリー工・ザンジャニ80

モラ・アリー工・バスターミ81

モラ・サイーデ・バルフルーシ

モラ.ネーマトウッラエ・マーザンダラー二82

モラ・ユーソフェ・アルデビリ83

モラ・メーディイェ・コーイ84

セイェド・ホセインエ・トルシジ85

モラ・メーディイェ・カンディ

モラ・バゲル86

モラ.アブドゥル・カレグェ・ヤズディ87

モラ・アリエ・、バラガニ88

その他・およそ四百名の数に達する。その人達の名は全部、神の「守護された書簡」に記されている。

これらの人達は皆、神の啓示のあの太陽の光に導かれ、神の真理を告白し、またそれを承認したのである。その信仰のあまり、彼らの中の大部分の者達は、自らの財産や血族縁者を捨て、栄光に満ち給う御方の御思召を忠実に守った。彼らは、敬愛する御方のために、己れの生命を投げ出し、その総てを彼の道に捧げたのである。彼らの胸は、敵の投げ矢の的とされ、彼らの頭は、不信心者達の槍を飾るに至った。これら世俗超脱の権化の血潮に塗られなかった地はなく、また剣という剣は、彼らの首を突き刺したのである。彼らの行動のみが、その言葉の真実であることを明らかに証明している。これらの聖なる人達が、敬愛する御方のために、自らの生命をも犠牲として捧げようと、雄々しく立ち上がったため、その犠牲の様相に、全世界が驚嘆させられたのである。ならば、彼らの行った証言は、今日の人々に充分納得のいくものではなかろうか。この証言は、些細なことのために己れの信仰を裏切り、不朽性を朽ち果つるものと交換し、塩泉を求めて神の御前のコウサルを放棄し、また他人の財産を奪うことが、人生の唯一の目的であるような者達の不誠実さを、十分に立証するものではなかろうか。汝は、まさしくその眼で、世の人々が、世間の空しい俗事に追われ、我らの主であり最高の御方に在す彼から遠くさまよい出ている様子を見ている。

言動が一致し、外面的行動と内面的生活とが完全に一致する者の証言は、充分なるものであり、注目に価するものではなかろうか、公正によく考えてみよ。人の心は、彼らの行動で衝撃をうけ、魂は、彼らの堅忍不抜の精神と肉体の忍耐力に驚嘆させられるのである。それとも、自らの空虚な幻想の艦の中に幽閉され、我欲の空気のみを吸うあの不信心者達の証言が受け入れられるのであろうか。暗黒のこうもりの如く、不信心者達は、世俗の束の間の事物を追いまわす時以外は、床から頭を持ち上げようともせず、また自らの強欲な生活の目的を遂行するために働く時以外は、夜も落ちついていられない。彼らは自己本位の策謀に熱中し、神の命令を完全に忘れている。昼間は世俗的な利益に全魂を傾け、夜間は、只々自分達の肉欲を満足させることだけに従事するのである。あの狭量な者達の拒否に執着し、神のお思召に従って己れの生命、財産、名声、評判、名誉の一切を投げ打った人達の信仰を無視するのを、一体いかなる掟や規準が正当化することができようか。

「殉教者中の王子」(イマム・ホセイン)の生涯に起こったことが、総てのでき事中最大のものであり、彼の真実を示す最高の証拠だと考えられていたではないか。昔の人々は、これらのでき事を、前代未聞だと証明していたではないか。真理のいかなる顕示者も、これ程の節操や顕著な栄光を示したものはかつてなかったと、彼らは主張したではないか。しかも尚、ホセインの生涯のあの出来事は、朝始まり、その日の昼頃迄には終わっていた。ところが、これらの聖なる光明達は十八年もの間、四方より降り注いだ苦難の雨に堂々と堪え忍んで来た。何という愛の心、何という献身、何という歓喜と聖なる喜悦をもって、彼らは己れの生命を、栄光に満ち給うお方の道に捧げたことであろう。この事実を総ての者が立証している。なのに人々は、どうしてこの啓示を軽んじることができようか。かつてどの時代が、このように重大なでき事を目撃しただろうか。もし、これらの同僚達が、真に神を求めて努力するものでなかったならば、他に誰がこの名で呼ばれることができようか。これらの同僚達は、権威や栄光を求めたであろうか。彼らは財宝にあこがれたであろうか。彼らは、神のお思召以外に一体どんな欲望を抱いたであろうか。もしこれらの同僚達が』その素晴らしい証言や驚くばかりの事業にも拘わらず、偽り者だとしたら、一体誰が自らを真実と主張する価値があろうか。我は神にかけて誓う。もし人々が、自分の心の中で神聖なる啓示の神秘を熟考してみるならば、彼らの行動そのものが十分な証言であり、地上の総ての人々への反駁できない証拠である、ということが分かるであろう。「不義なす徒輩はいまに必ず思い知ることであろう。いかなる運命が我が身にふりかかるかを」。(コーラン26.227)

更に真理と虚偽とのしるしは、その聖典〔コーラン〕中に明確に示され、はっきりと定められている。真実なものが、偽りあざむくものからはっきり区別され見分けられるように、総ての人々の主張や自負は、神によって定められたこの試金石により、必ず評価されねばならない。この試金石は、結局次の聖句に尽きる。即ち、「汝ら、もし真実なる者ならば、死を嘆願してみよ」と。(コーラン2.94)非の打ちどころがない程に誠実なこれら殉教者違のことを、よく考えてみよ。その人々の誠実さについて、その聖典〔コーラン〕中の明白な原文が証明している。この人々は皆、汝が現に見たように、自らの生命、財産、妻や子、其の他総てのものを犠牲にして、天上の楽園の最も崇高な部屋へと登って行ったのである。この優れた、光栄ある啓示の真実性に対するこれら世俗超脱の気高い人々の証言を拒否し、黄金のために自らの信仰を投げ棄て、指導権を得るために全人類への指導者の第一人者たる者、{顕示者}拒否した不誠実な者達が、この燦爛と輝く光に反対して述べた非難を是認し、受け入れることは、一体正しいと、占えようか。自らの生命や財産等はもとより、神の聖なる御教えのために、自らの持つ世俗の権力の一片さえも、決して放棄しようとはしないという彼らの正体は暴露され、総ての人々はそれを認めているにも拘わらず、なお、彼らの述べる非難を受け入れるとは。

聖典にはっきりと示された原文に従い、その聖なる試金石が、如何に真実なものと虚偽なものとを分離し、区別したかをよく見るがいい。にも拘わらず、彼らはまだこの真実に気付かず、無頓着の眠りにあり、この世の空しいものを追い求め、空塩で世俗的な指導権への欲望で一杯である。

「おお人の子よ!汝が汝の気まぐれと、とりとめのない妄想に没頭せし間に長き歳月は過ぎ去った。汝、寝所にていつまで眠る気ぞ。眠りより醒めて汝の頭を上げよ。太陽は中天に上り、恐らく美しき光もて汝の上を照らしおれば」〔隠されたる言葉、アラビヤ編六十二〕。

しかし、我が言及したこれらの博士達や聖職者達は、一人として、指導者としての地位も威厳も授かっていなかったということを知れ。何となれば、汝の王の御意により例外とされた者の他には、権威の座を占め、指導的機能を遂行している、名高く、有力な宗教上の指導者は、真理の啓示者に決して忠誠を抱くことができないからである。極く少数のものを除いては、忠誠を抱くということは決してない。「だが、我の僕のうち感謝する者はわずかである。」(コーラン34・13)まさに、この宗教制〔バブの宗教制〕に於いても、人々を統治する権力を握っていた高名な聖職者達の間には、一人もこの教えを受け入れたものはなかった。いやそれどころか、彼らは、かつていかなる耳も聞いたことがなく、いかなる眼も見たことがなかったほどの悪意と決断とをもって、教えに反抗してきたのである。

主に在し、最も高貴な御方であるバブーそのお方のために総ての人々の生命が犠牲とならんことをーは、あらゆる町の聖職者達に対して特に書簡を著され、その中で、彼らの唱えていた拒否や否認の実態を残らず明記された。「こういうことがあるから、汝ら用心するが肝要である、力お汝ら、見る目があるならば心(コーラン59・2)「モスタガス89」(「懇願の的」)の出現の日、即ち後の復活の日において、バヤンの民が、バヤンの宗教制においては糧人かの聖職者がその教えを受け入れたけれど、後の啓示においては、聖職者は一人も彼〔「懇願の的」〕の主張を認めていないではないかと言って、異議を申したてるのを無効にするために、バブは聖職者達の反抗について言及されたのである。彼の目指す処は、かような愚かな考えに執着し、自らを神の美より遠ざけることのないように、人々の注意を喚気することにあったのである。断じてそのようなことのないように。誠に、我が前に名を上げた聖職者達は、大抵無名であった。そして神の恩恵により、皆、俗世の空しさから清められ、指導者の地位の虚飾からは解き放たれていた。「神の御恵とは、こういうものである。神は、御心に適うものにそれを授け給う。」

この啓示の真実性を立証する総ての証拠の中で、太陽の如く輝くもう一つの証は、永遠の美〔バブ〕が神の信教を宣布するに際して示された志操堅固の精神である。未だ若年である上にその啓示された大業は地位の上下、貴賎、貧富、君民の別を問わず、地上のあらゆる人々の望むものに反していたにも拘わらず、尚も彼は敢然と立ち上がり、断固としてその大業を宣布されたのである。人は皆このことを聞き知っている。彼は何人も恐れず、ことの成否にも気を留めはされなかったのである。神の啓示の威勢によるのではなければ、果してこのようなことが起こり得るであろうか。神の正義にかけて言う。もし人が自分の心の内にこれ程までに偉大な啓示を抱くとしたら、それを宣言する事を考えただけで狼狙してしまうであろう。たとえ万人の心臓が、彼の心中に寄せ集められたとしても、なお彼は、このように荘厳な大業に乗り出すことをためらうに違いない。この事を成し遂げるには、彼の心の水路が、神の恩寵の源と通じていなければならず、その魂が、全能な御方の確かな支持を保証されていなければならず、そして、神のお許しを得ていなければならない。そうでなければ、決して可能ではないのである。これ程までに偉大な大胆不敵さを人々は一体どう説明するであろうか。果たして彼らは昔の予言者達を責めたように、バブをも愚者と呼び、責めるであろうか。それとも、バブの目指されたところは、権力と俗世の富みの取得にほかならなかったとでも主張するのであろうか。

御恵み深き神よ!バブが著わされた聖典、「ガユーモーウル・アスマ」90一総ての書籍中で最上にして最大、最強のものーの中で、彼は御自身の殉教を予言されていた。その中にこういう一節がある、「おお汝、神の面影よ!我は、汝に我自身の総てを奉献した。我は汝のために多くの呪を受けた。しかも汝の愛の道において、殉教以外の何ものをも切望しなかった。我にとって十分な証人とは、崇高にして、加護者に在し、日の老いたる者であらせられる神である!」と。

同様に、彼が91「ハー」という字の説明の中で殉教を切望して言われるには「思うに、我が心の奥底で呼びかける声を我は聞いた、『お前は、丁度ホセインー彼の上に平安あれーが我がために自らの生命を捧げたと同様に、神の道において汝が最も愛するものを犠牲として献げるか』と。その御手のうちに我が生命を握り給う神にかけて、もし我が、この避け難い神秘に服するのでなければ、たとえ地上の総ての王達が連合したとしても、彼らは我から只の一文字をも奪うことはできなかったであろう。いわんや、注意を払う価値もなく、誠に賎民に属するこれら僕達には尚のこと不可能である。……神の道においける我が忍耐、我が服従及び献身のほどを、総ての人々に知らしめん」と。

こういう言葉の啓示者が、神の道以外のどのような道を歩み、神のお思召し以外のどのようなものに憧憬されたと考えられようか。この一節の聖旬そのものの中に、世俗超脱の息吹が隠されている。もしその息吹の総てが吹き渡ることがあれば総ての人間は、その生命を投げ出し、その魂をも捧げるであろう。現世代の下劣な振舞いをよく反省し、彼らの驚くべき妄恩をその眼でよく見るがいい。彼らが、この総て栄光に対して如何に眼を閉じてしまったか、また如何に卑屈に、あの悪臭を放つ死骸を追い求めているかを、注意深く観察せよ。それらの死骸の腹の中から、信心深い人々の飲み込まれた財貨の叫び声が高らかに聞えるではないか。しかも尚彼らは聖なるものの曙達に対して、何という見苦しい中傷を浴びせかけて来たことか。こうして我は、不信心者達が引き起こした悪業を汝に語るのである。彼らは復活の日に、神の御前から顔をそむけ、神は、彼らを彼ら自身の不信仰の業火で苦められた。そして神は、来世において彼らの肉体と魂を共に滅する懲罰を準備されたのである。何となればこれらの者は「神の無力であり、その慈悲の御手は縛られている」と言ったからである。

信教において堅固であるということは、確かな証言であり、また真理の輝かしい証拠でもある。まさしく「予言者達の打ち止め」は、「二つの聖句が、我を老いたる者とした」と述べておられる。この聖句は双方とも、神の大業における節操を指摘するものである。まさしくこう述べられている、「されば汝、命じられた通り堅固であれ。」と。(コーラン11・113)

さて、神のレズワンにあるこの技〔バブ〕が、血気盛んな青春期に、神の大業を宣布するために、いかにして立ち上がられたかを熟考せよ。あの神の美〔バブ〕が、いかに断固とした堅固さを示されたかをよく見るがいい。全世界は、彼を妨害するために立ち上がった。しかし、それは全く失敗に終わった。彼らが、あの至福の枝〔バブ〕に迫害を加えれば加えるほど、彼の熱情はますます高まって行き、彼の愛の炎は一層あかあかと燃えさかって行った。このことは全く明白な事実であり、一人として、その真実に異議を唱えるものはない。遂に彼は御自身の霊魂を投げ棄てて、天上の領土に飛び去って行かれたのである。

バブの顕示の真実性を証明する証の中には、実存の啓示者であり、崇拝される御方の顕示者である彼が、助力も受けず、単独で全世界に示された権勢や、卓越した威力、また最高の主権などがあった。六十年〔イスラム暦千二百六十年〕に、あの永遠の美がシラズ92に姿を現わし、隠匿の覆を引き裂くや否や、本質中の本質、大海中の大海から放射される権勢及び、権力、主権、威力の数々の兆が各地に現わされた。その出現のあまりの偉大さに、その神聖な発光体の多くの兆や立証、及び証拠、証明等が、各町から現われて来た。あの永遠の太陽の光を忠実に反射する、純潔で優しい心の持ち主達の何と多かったことか、また万物を包容する英知の大洋から発散された知識は何と多種多様であったことか!各町では、聖職者達や高官等が総て起ち上がり、純潔な人達の妨害をしたり、抑圧をしたりした。そして彼らを鎮圧するために悪意、ねたみ、暴虐のあらゆる手段を講じた。暴虐という濡衣を着せられ、死刑に処せられたあの聖者達、あの正義の精髄達の数は、どんなに多数に及んだことか!また真の知識と、汚れのない行為の他には、何も示さなかった純潔の権化ともいうべき人達が、何と多数苦しみ悶えて死んで行ったことか!このような事態にも拘わらず、これらの聖な人達は、最後の瞬間まで神の御名を唱え服従と忍従の領土に飛翔していたのである。バブが彼らの上に及ぽされた威力と感化力の程を見よ。彼らは彼の望むこと以外のどんな欲望も振り捨てて、ひたすら自らの魂を、彼を思い起こすことに向けたのである。

じっくりと考えてみよ。この世の中で、このように卓絶した権威と、かように惨透力の強い感化力とを、一体誰が現わすことができようか。汚れのない心と、聖別された魂を持つこれらの人達は皆、絶対的服従の精神を持って彼の定められたことに応じた。彼らは、不平を言うどころか神に感謝を捧げ、苦悩の暗黒の中にあっては、神の御意に対し輝かしい黙従以外の何ものも示さなかった。地上の民全般がこれら同志達に対して抱いていた憎悪の何と冷酷なものであったか、また、その悪意と敵意がどんなに残酷なものであったかは明白である。彼等は、この心清らかな霊的人物達の上に惨い迫害や苦痛を加えることが、救い、幸福、永遠の勝利への手段であると考えていたのである。アダムの時代以来、このような騒動、このような激しい動揺を、この世は見たことがあったであろうか。彼らは、あらゆる拷問に苦しめられ、限りない苦悩を堪え忍んだにも拘わらず、万人の非難と呪の対象とされたのである。思うに、忍耐とは彼らの不屈の精神力によって初めて現わされたものであり、誠実さもまた彼らの行動によって初めて産み出されたものである。

この啓示の崇高さを感知し、その栄光の素晴しさが認められるよう、汝は心の中でこれら地を揺がす出来事を、じっくりと考えてみるがいい。そうすれば、慈悲深いお方の恩寵によって、信仰心は汝の心の髄まで深く吹き込まれ、汝は確信の座に据えられ、そこに止まるようになるであろう。唯一の神こそが、我が証人に在します!汝が、しばし思いを廻らしてみるならば、これらの確立された総ての真理や上述の証拠はさることながら、世俗の人達の吐く拒否や、ののしりや、呪い等は、それ自体が、忍従と世俗超脱の境地にいるこれらの英雄達の誠実さを示す最も有力な証拠であり、最も確かな証言でもあるということに気付くであろう。それが聖職者であろうと、学者であろうと或は無知なものであろうと、総ての人々が語った中傷について熟考するならば、そうする度ごとに汝の信仰はより堅固となり、また一層不動のものとなって行くのであろう。何とならば、今までに起こった事は、ことごとく、聖なる知識の宝庫であり、神の不滅の戒律の受領者である者等〔顕示者達〕によって予言されていた事であったからである。

我は過ぎし時代の伝承について述べるつもりはないが、汝を愛するが故に、我の述べようとする問題に通用するいくつかを引用してみることにする。しかし、我が既に述べて来たことで、森羅万象を満たすには十分であるから、その必要を感じている訳ではない。実の処、諸々の聖典と、そこにある神秘の総ては、この短い記述の中に要約されている。従って、自分の胸に手を当てて、しばしの間、この記述について熟考するならば、人は誰でも以上で述べて来た総ての事柄から神の御言葉の神秘を発見し、あの理想の王によって顕示された事の意味を総て理解できるであろう。人々はその理解力や地位においてそれぞれ異なっているため、それに応じて我は動揺している魂にゆるぎない安定を与え、不安に陥っている心に平静を与えるために、いくつかの伝承について述べてみることにしよう。そうすれば、地位の上下を問わず、総ての人々に対する神の証言が完成され、完全なものとなろう。

数ある伝承の中に、「真理の御旗が明示される時、東西両洋の人々はそれを罵る」というのがある。人々は、自らは真理を敬愛し、熱望していると自負するが、一度真理が啓示されると、彼らは真理を信奉する者達を罵り始めるのである。この人々のあさましい振舞の原因を発見する為には、必ずや、放棄の美酒を飲み干し、超脱の高峯を極めなければならず、更に「一時間の黙想は、七十年間の敬虔な礼手よりも優る」という言葉にある瞑想を、必ず遵守しなければならない。この事実を、上述の伝承は、まさしく証言しているのである。彼らのこのような行動は、彼らがこれまで心服して来た碇や慣習、習性が破棄された事に起因することは明白である。これとは反対に、もし慈悲深い御方の美が、現在人々の間に適用しているものと同一の掟や習慣に従い、また顕示者が、彼らの儀礼を是認していたとしたら、このような争いや危害は決してこの世に起こらなかったであろう。この崇高な伝承は、彼の述べられた「召喚者が、厳しい勤めに、召集を命ずる日」(コーラン54・6)によっても証明され実証されているのである。

栄光の覆いの彼方から、人類に対して、その団守している総てのものを残らず断念するよう呼びかける天上の使者の神々しい呼び声は、およそ彼らの欲望とは相容れないものである。これが、これまでに起こったあの痛ましい苦難や激しい騒動の原因なのである。人々の流儀をよく考えてみよ。彼らは既に総て達成されている正当なこれらの伝承を無視して、確実性の疑わしいものに執着している。そしてこれらの伝承が、どうして未だ成就されないのかと尋ねている。ところが、彼らの想像も及ばなかったことが明らかになって来た。真理のしるしや証拠が真昼の太陽のように輝いているのに、尚もあの人々は、無知と愚劣の荒野の中を、当てもなく途方にくれてさまよい歩いている。新しい信教、新しい掟、新しい啓示を暗示しているコーランの総ての聖句や、承認されている多くの伝承があるにも拘わらず、この世代の人達は今以って回教の戒律を奉持する約束された御方の出現を期待し、待望している。ユダヤ教徒もキリスト教徒も同様に同じ主張を支持している。

新しい戒律や新しい啓示を示唆している言葉の中に「ノドベーの祈り」の一節がある。「法令や戒律を更新するために保護されたお方は何処に在しますや、信教とその信徒達を一変させる権威を持った御方は、何処に在すや」と。彼はまた同様に、ジャラト(イマム・アリの著した訪問の書)の中でこう述べている、「更新された真理の上に平安あれ」と。アブ・アブデーラ93が、メーディ〔救世主の意、バブを指す〕の性格について問われた時、答えて言うには、「彼は、神の使者マホメッドがなされたことを、なされるであろう。神の使者が、それ以前の人達の様式をくつがえしたと全く同じように、彼は以前よりあるものは一切破壊するであろう」。

これらや、また、これに似たような伝承が数々あるにも拘わらず、彼らは、以前に啓示された戒律は、どうあっても変更してはならないと空虚な主張をしている。その様を見てみよ。しかも、人類の性格を根本から一変させるのが、それぞれの啓示の目的ではなかったのか。その性格の転換は、外面的にも内面的にも現われ、また人類の精神生活にも外的環境にも影響を及ぼすものなのである。それ故、もし人類の性格が変えられなかったとしたら、神の普遍の顕示者達の空しさが判然たるものとなろう。あの権威ある有名な書物、アワレムの書〔シー工派の伝承を編集した書物〕の中に、こう記されている「バニ・ハシェム族〔マホメッドの属していた家族〕から一人の青年が現われるであろう。その者は、新しい聖典を啓示し、新しい戒律を公布するであろう」と。その次に、こういう言葉が続いている「彼の敵となるものの大部分は聖職者であろう」と。また他の節で、マホメッドの令息・サデグの述べた言葉が次のように記されている、「バニ・ハシェム族から一人の青年が現われるであろう。その者は、人々に、彼への忠誠を誓うように命じるであろう。彼の書は新しい聖典となるであろう。その聖典に対し人々が忠誠を誓うように呼び掛けるであろう。彼の啓示は、アラブの民にとってきびしいものとなろう。もし汝らが彼について耳にしたら、彼のもとへ急いで行け」と。人々は何と見事に回教のイマム達〔マホメッドの後継者〕、即ち、確信の灯の指図にそむいたことか。「もし汝らが、バニ・ハシェム族出身の一青年が現われ、人々を新たな聖典と、新しい神の戒律の方へ招いていることを耳にしたら、急いで彼のもとへ馳せ参ぜよ」と、はっきりと述べられているにも拘わらず、尚も彼らは、あの実存の主は異教徒であると主張し、また異端者だ、と公言した。彼らは剣を抜き、心に敵意を抱いて近づくことはあっても、あのハシェム族の光、あの神々しい顕示者のもとに馳せ参じようとするものはなかったのである。その上、聖職者達の敵意が、いかにはっきりとこれらの書物の中で述べられているかを見よ。これらの明白で意義深い伝承があり、間違いようもない、反駁し難い引喩があるにも拘わらず、人々は、知識と神聖な言葉の、汚れのない精髄を拒否し、反抗と虚偽の解説者達の方へ顔を向けたのである。これらの記録された伝承や啓示された言葉があるにも拘わらず、彼らは自身の利己的欲望を満足させることだけを語る。そして真理の精髄が、彼らの嗜好や欲望に反することを啓示すると、彼らは、その顕示者を直ちに異端者だと非難し、反抗して、「これは、信教のイマム達やさんらんと輝く光り達の言っていることに反している。即ち、我々の神聖にして侵し難い戒律によって規定されたものではない」と言うであろう。今日においても尚、このような無益な説がこの哀れな人間によって述べられて来たし、また現在も流布されている。

さて次に、また別な伝承を考え、それによって、これらのことがどう予言されているかを観察せよ。「アルバーエン」の中にこう記されている、「バニ・ハシェム族から一青年が現われるであろう。その者は、新しい戒律を啓示するであろう。彼は、人々を自分の下に呼び集めようとするだろうが、誰も彼の呼び掛けには心を止めないであろう。彼の敵の大部分は聖職者達であろう。彼らは、彼の命令に服従せず、こう言って異議を申し立てるであろう『これは、信教のイマム達が我々に手渡したものと相反している』」と。今日においても総ての人々は、同じように、こういう言葉を繰り返している。つまり「彼は総てを望み通りになし給う」のところの王座に着いており、「彼は意のままに制定し給う」地位に在すということに全く気付いていないのである。

いかなる理解力をもってしても、彼の啓示の性格を掴むことはできず、どんな知識をもってしても、彼の信教の全貌を理解することはできない。総ての言葉は彼の裁可に掛かっており、総ての事物は彼の大業を必要としている。彼以外の万物は、彼の命令によって創造され、活動し、彼の戒律によって、その生存を維持しているのである。彼は、聖なる神秘の啓示者であり隠された、古よりの知識の解説者である。マホメッドの令息サデグ、の著書、「ベハロール・アンワル」、「アワレム」及び「ヤンブ」〔以上三書は、シーア派の伝承集である〕の中で彼はこう述べたと言われている。即ち、「知識は二十七文字である。今までに予言者達が啓示したのは全部で、その内の二文字にしか過ぎない。今や、誰一人としてこれらの二文字以上に知る者はない。しかし51ガエムが現われる時、彼は残りの二十五文字を、明らかにするであろう」と。彼は、知識は二十七文字から成っていると言明し、アダムから「予言者の打ち止め」までの総ての予言者達は、この二十七文字ある知識の内の僅かに二文字だけの解説者達であり、これら二文字を持って神から遣わされて来たものと見ている。このことについてよく考えてみよ。彼はまた、ガエムは残りの二十五文字を残らず啓示するであろうと述べている。この言葉から、彼の地位がいかに偉大であり崇高なものであるかを、よく注意してみるがいい!彼の地位は、総ての予言者達の地位より優っており、彼の啓示は、彼らに選ばれた者達総ての会得や理解の、はるかに及ばないものである。この啓示は、神の予言者達や神の聖者達や選ばれた者達にも明らかにされていなかったもの、或は、知っていながらも、神の不思議な神慮により現わされなかったものなのである。かような啓示を、これらの卑しく下劣な人々は、自身の不完全な心や、

不十分な学問や理解力をもって押し測ろうとしたのである。もしそれが彼らの規準に合わなければ、彼らは直ぐにそれを拒否してしまうのである。「それとも、汝は、彼らの多くが耳を傾け、納得すると考えているのか。彼らは家畜のようなものである。いや、彼らはその家畜よりも道を踏み迷っている。」(コーラン25.44)

51ガエムの時代には不可思議なことが啓示され、驚くべき新奇な出来事が起こる、ということを前述の伝承は全く明白な言葉で予告しているのであるが、人々はこれを一体どう説明すると言うのであろうか。斯様な、数々の不思議な出来事は、人々の間に非常な不和を燃え上がらせるものであり、そのため聖職者や博士達は皆、彼〔ガエム〕とその仲間を死刑に処し、地上の総ての人々は彼に反抗して起ち上がるのである。まさしく、ガエムの性質について、「カフィ」〔シーア派の伝承集〕の中にあるジャベルの伝承中の「ファテメーの書簡」にこう記されている「彼はモーゼの完壁さ、イエスの光輝、ヨブの忍耐を示すであろう。彼に選ばれた人々は、彼の出現の時代には卑しめられるであろう。彼等の首は、丁度トルコ人達やデーラム人達の首のように、贈り物として捧げられるであろう。彼等は殺害され、焼かれるであろう。恐怖が彼等を捕え、狼狙や驚きが彼等の心を縮み上がらせるであろう。大地は彼等の血湖で染められ、彼等一族の女達は嘆き悲しみ、声をあげてこの泣くであろう。これらの人々は誠に我が知己なのである!」と。伝承の一文字たりとも、実現されなかったものはなかったということを、よくよく考えてみよ。殆どの土地で彼等の聖なる血が流されたのである。あらゆる町々で、彼等は捕われの身となり、諸国を引きずり廻され、ある者は火あぶりにされたのである。それでも尚、人々は、もし約束されたガエムが、これまでの宗教制の戒律や掟を、そのまま啓示しなければならないのなら、何故こういう伝承が記録される必要があるのかということを、立ち止まって考えてみようとはしないのである。また、これらの同志達を殺すことを、自分達に課せられた責務と考えたり、これらの聖なる人達を迫害することを、最高の恩恵に到達する手段だと人々に思わせるような争いや衝突が、何故起こらなければならなかったか、ということを考えてみようともしないのである。

その上、実際に起こったこれらの出来事や、現に犯されたこれらの犯罪的行為が、過去の伝承中に残らず述べられずいたという点を、よく考えてみよ。まさしく、「ロウゼイ・工・カフエ」の中で、「ズオウラ」に関して記されている。この中で、ワーハブの子息のモーアウェイエの述べたことが、次のように記されている。即ち、アブ・アブデーラが「お前はズオウラを知っているか」と聞いたので、我は「我の生命が汝への犠牲とならんことを!人は、それがバグダツドだと言っている」と言った。すると彼は「いや、そうではない」と答え、尚も続けて「お前はライの町(テヘランが建設された所の近くにあった昔の町)に入ったことがあるか」と言った。我は「ありますとも。我はその町に入ったことがある」と答えた。そこで彼が「家蓄の市を見に行ったか」と尋ねたので「ある」と答えると、「道路の右側に真黒な山を見たか。そのものがズオスラだ。其処である人達の子孫等八十名が殺されるであろう。その者達は皆カリフ94と呼ばれるに相応しい人達だ」と彼は言った。そこで「一体誰がその者等を殺すのか」と我が尋ねると、彼は答えて「ペルシャの民の子孫だ!」と言った。

これが、昔予言された彼の同志達の境遇であり、運命なのである。さて、この伝承によれば、ズオウラとはライの地に他ならないのであり、彼の同志違は、この地において非常な苦しみを受けて殺された。そして、これらの聖なる人達は、伝承に記されている通り、ペルシャ人の手によって殉教した。この事実について、汝は既に聞き知っているであろう。また総ての者がこの事実を証言している。なのに、何故これら這いまわる蛆虫のような人々は、天空の絶項に光り輝く大陽の如く明白であるこれらの伝承について立ち止まって考えてみないのであろうか。

何のために彼等は真理を受け入れることを拒むのであろうか。また彼等は、何故その意義を把握し損った伝承のために、神や、神の美の啓示を認めることから引き止められ、地獄のどん底に住まわされる原因となることを許すのであろうか。かようなことは総て、その時代の聖職者や学者達の不誠実さのみによるものである。この者等について、マホメッドの令息、サデグはこう述べている「その時代の神学者達は、史上無類の邪悪な聖職者となろう。害毒は彼等から発生し、また再び彼等に戻るであろう」と。

我はバヤンの博学なる者等に懇願する。89モスタガスの時代が来た時、神聖な精髄であり、天空の光明であり、絶対の永遠であり、眼に見えない御方の顕示者の始めであり、また終わりである彼に対しては、このような仕打ちをせず、また、今日見られるような苦しみを彼に負わせることのないようにふと。自己の知力や理解力、学識などに頼ることなく、また、天上の無限の知識を持つところのその啓示者と争うことのないよう我は彼らにお願いする。にも拘わらず、人々の首領である、或る片目の男が、我に対し極度の悪意を抱いて起ち上がりつつあることに、我は気付いている。各町において、祝福された美を抑えつけようとする人々が起ち上がり、人類の主であり、万人の終局の願望である御方と行動を共にする者達は、その抑圧者の面前から逃れて荒野に避難所を求め、また一方、他の人達はあきらめて、完全な世俗超脱の精神をもって、彼の道に自らの生命を犠牲にするだろうということを、我は予知している。この者に服従することを義務と思い、この者の命令には従わねばならないと、人々が考える程に信心深く、敬虔なことで名の知られているその者が、聖木の根そのものまで襲おうと起ち上がり、彼に抵抗し反対するために全力を尽くすであろうことが、我には見えるようである。人の道とは斯様なものである。

バヤンの民が啓蒙され霊界に舞い上がり、そこに定住し、真理を識別し、洞察力のある眼で虚偽を見抜くよう、心から希望する。ところが今日では、嫉妬の甚だしい臭気が拡まってきているので―我は、眼に見える在存、見えぬ在存、全在存の教育者に誓って言う―この世の創造の始めから―それには始めはないのだが―現代に至るまで、これ程までの敵意、嫉み、憎しみは、決して現われもしなかったし、将来も決して見られないであろう。というのも、正義の芳香を臭いだことのない数人の人達が、扇動の旗を揚げ、団結して我に反抗したからである。我は四面を、彼等の槍の威嚇にさらされ、八方から彼等の矢のほこ先が我に向けられたことを認める。我はいままで、何事によらず自らを誇ることはなく、他を差しおいて優位に立つことを求めたことがないにも拘わらず、このような有様となった。誰に対しても我は、最も思いやりのある仲間であり、最も寛容で優しい友であった。貧しき人々といる時は、彼等に親交と友情を求め、また高貴な人々や学識者達に対しては、常に素直で、従順であった。唯一の神、真の神にかけて誓う!我の敵と、聖典を手にした者等が与えた苦痛や苦悩は堪え難いものではあったが、これらの苦悩は、我の友人だと称する人達の手で我に加えられた苦悩に比べれば、無に等しいものであった。

これ以上に何をか言わんや。宇宙がもし正義の眼をもって物事を見るならば、我の発する言葉の重みに堪えることは不可能であろう。我がこの地〔バグダッド〕に到着した最初の頃、差し

迫った出来事の兆を認めたのでそれが起こる前に身を引こうと決心した。我は荒野に逃れて世間から遠ざかり、寂しく二年間、全く孤独の生活を送った。我の両眼からは苦悩の涙が雨と降り、血の滲み出るような我の心には苦痛の大波が押し寄せていた。食物のない夜も多く、この身が全く休まることのない日も多かった。我が存在を御手に持ち給う御方にかけて誓う。斯様な苦悩の嵐や、打ち続く災厄にも拘わらず、我の魂は歓喜に包まれ、我が全存在は言いようのない喜びを示すのであった。というのも、我が独居においては、人の害とか利益とか、健康、疾病というようなことに気付かなかったからである。我は、世間やその一切を忘れて、ただ一人我が霊と問答していたのである。しかし我は、神聖なる運命の網目は人間の最大の観念を超越するものであり、神の命令の投げ矢は最も大胆な人間の意図をも凌駕するものであるということを知らなかった。誰も神の仕掛け給うた罠から逃れることはできないし、また誰も神の御意に服従することによる以外には、放免されることはできない。神の正義にかけて誓う!我の引退は、還ることを思わぬものであったし、我の離別は、再会を望まぬものであった。我の引退の唯一の目的は、信徒達の間の不和の原因になったり、仲間に迷惑をかけたり、誰かを傷つけることとなったり、或はまた、どんな人の心をも悲しませるもとになったりするようなことを避けたいがためであった。その他には何等の意図も目的も抱いてはいなかった。しかし各白は皆、それぞれ自身の欲望に従って計画を立てており、自身の空しい幻想を追い求めていた。

そしてそれは遂に、神秘な源泉からの召喚により、我が来た所へ帰るよう命ぜられる時まで続いた。そして神の御意に従い、我はその命令に服従した。

我が帰って来た時見た有様は、実に筆紙に尽くし難いものであった。敵が、全力を傾けて、我を根絶しようと休みなき努力を始めてからいまやニカ年の歳月が経過していた。このことは万人が認めるところである。にも拘わらず、信徒達は一人として我を援助しようともせず、また我が救済に力を借そうと言う気さえ起こさないのである。いや援助どころか、彼等の言動によって我の魂の上に降り注がれた悲痛の雨は、全く止めどなく続いているのである。」

この現わされた明白な文字〔バハオラ〕は、神の慈愛と恩恵とによって、自らの生命を最も崇高な言葉、最初の点〔バプ〕の道に犠牲として捧げんと、神の御意に完全に身を委ね、生命をかけて彼等一同の中に起ち上がったのである。聖霊に語ることを命じ給うた御方に誓って、もし我が魂のこの思慕の念がなかったなら、我は一瞬たりとも、もはやこの町に止ってはいなかっただろう。「我々にとって、神こそが充分な証人である。」次の言葉をもって我はここでの話を終わることにする。「権威と威力は、神の内のみにある。」「我等神のものにして、我等神に帰すべきものなり。」

理解力のある心を持ち、愛の美酒を飲み干し、自らの我欲を一瞬たりとも満たしたことのない者ならば、この素晴らしい啓示、この卓越した聖なる教えの真実性を証明する、輝きの絶頂にある太陽の如くさん然と光りを放つ数々の御兆、証拠、証言を認めることができよう。人々が如何に神の美を拒否し、自らのどん欲な欲望にしがみついていたか、よくよく考えてみよ。

人類に対する神の信託である「最も重要な啓示」の中で示された多くの至上の聖句や、明白な引喩にも拘わらず、また誤解の余地のない多くの伝承があり、そのどれ一つをとっても、最も明快な言葉よりも遥かに明白であるにも拘わらず、人々は尚、それらの真実性を無視したり、拒否したりして、ある伝承の文字そのものにこだわっているのである。その伝承を彼等は自らの理解力を持って推し量り、その真の意味を掴むことができず、自分達の期待に添わないものであると判断した。このようにして、望みは全く絶たれた。また人々は、栄光に輝く御方の清らかな美酒や、不滅の美の清浄無垢な清水を頂くことから自らを遠ざけたのである。

あの光明の真髄が出現する年についても、いくつかの伝承の中に明確に紀録されているのに、彼等は未だにそのことを心に留めておらず、ただ自分達の我欲ばかりを追い求めて一瞬も止まるところを知らない。このことをよく考えて見るがいい。伝承によると、モファザッル95がサデグに尋ねて言うには「師よ、彼の出現の御兆は何でありましょう」と。すると「六十年に彼の大業が出現し、彼の御名が宣言されるであろう」と彼は答えた。

何と奇妙なことではないか。これらのはっきりした言及がなされているにも拘わらず、これらの人々は真理を避けて、受け付けなかったのである。例えば、あの聖なる美徳の精髄の上に加えられた悲痛、投獄、苦悩については、昔の伝承の中に明らかに述べられているのである。「ベハル」の史に、「我等のガエムには、モーゼ、イエス、ヨセフ、及びマホメッドの四人の予言者に属する四つの御兆があろう。モーゼからの御兆は恐怖と期待、イエスからのは、彼について語られたもの、ヨセフからのは投獄と偽り、マホメッドからのは、コーランのような聖典の啓示である」と記されている。斯くも誤解の余地のない言葉で、今日の出来事を予示するこれほどまでに決定的な伝承があるにも拘わらず、一人としてその予言に注目する者はない。思うに、将来においても、汝の主が意図し給もうた者をおいては、誰一人としてこれに注目する者はなかろう。「誠に神は、意図し給う者に聴力を与え給う。だが我は墓場にいる者等を聴こえるようにはしない。」

天上の鳥や永遠の鳩が、二つの言葉を喋ることは汝にとっては明白なことである。その一つの言葉は、外面的な言葉である。旅人が神聖な高所に到達することができ、求道者が永遠の再会の領土に向かって進むことができるように、彼等を導く灯となり、標識灯となるようにと。

この言葉には引喩がなく、隠されたり、蔽われたりしたところはない。既に述べた、覆いの除去されている伝承や、明白な聖句はこれに属する。もう一つの言葉は、悪意ある者達の心中に隠されているものをことごとく露き、その心の奥底に秘むものを残らず暴露するために、蔽われ、隠匿された言葉である。マホメッドの令息、サデグはこう述べている「誠に神は、彼等を試し、ふるいに掛け給う」と。これは神の基準であり、また神が僕等を試す試金石でもある。

心に確信を持ち、その魂が神の愛顧を受け、その精神が神以外の総てのものから超脱している者以外には、一人としてこれらの言葉の意味を理解できないのである。こういう言葉の場合には、一般に人々が理解しているような、文字通りの意味を表現しようとしているのではない。

次のようなことが記録されている「およそ知り得るものには、それぞれ七十通りの意味が含まれている。そのうちの只一つだけが、人々の間に知られているに過ぎない。そしてガエムが出現する時、残りの総てを人々に明らかにするであろう」と。彼はまたこう述べられている「我々が一つの言葉を述べる時、それには七十一通りの意味が含まれている。これらの意味を、我々は一つ一つ説明することができる」と。

我がこのようなことを述べるのは、人々がある伝承や言葉の内容が、まだ文字通りに実現していないと言って驚き、うろたえることのないようにするためである。また彼等が、自らの当惑の原因を、伝承にある約束が成就されないためではなく、寧ろ自分達の理解が足りないためだということを分からせる為に、我はこれらのことに言及するのである。何となれば、回教のイマム達が意図していた所は、この人々には全く知られていないからである。伝承そのもの

がその事を明示している。それ故人々は、このような言葉が彼等を、神の恩恵から遠ざけることを許してはならない。ごいや寧ろ、隠されている神秘が解明され、明白になるように、承認されている解釈者達に啓蒙を求めねばならない。

しかし、地上の人々の中には、本当に心から真理を熱望し、自分の信奉している教えの難解な事柄について、神の顕示者達の教導を求めているものは一人として見当たらない。人は皆、忘却の領土の住民であり、邪悪と反逆の民の従者である。神はまさに、彼等自身が行っている通りに彼等に対してなさるであろうし、また彼等が神の日に、神の御存在を無視してきたと同様に、彼等を忘れ去って了われるであろう。これこそが、神を拒否してきた者達への神の審判であり、またこれこそが、神の御兆を否認してきた者達への報いでもあろう。

我は、神の御言葉を述べてこの説話を終わろうと思う。―神は崇高な御方―「慈悲深き神を思い起こすことから身を引いた者を、我々は鎖をもって悪魔につなぎ、悪魔が彼の、固く結ばれた友となろう」。(コーラン43・36)「そして、我を思い起こすことに背を向ける者は、

誠にみじめな一生を送るであろう」。(コーラン20・124)

斯様に、以前に啓示されていたのである。汝等、このことを理解するならば。

「バ」と「ハ」〔バハォラ〕によって啓示されたもの。

サドラトル・モンタハから呼びかけている神秘の鳥のメロディに、耳傾ける者の上に平安あ

れ!

最も崇高な御方にまします我等の主に栄光あれ!


58 マホメッドの執拗な反対者で「偽善者達の帝王」と呼ばれた。

59 アブーアメルとナズル・エブンエ・ハレス  両者ともマホメッドの反対者。

60 マホメッドの最大の敵であったアブーソーヤンと共謀してマホメッドの殺害を企てた

61古代メソポタミヤの街。ユーフラテス川西岸にあったが、現在ではその跡も残っていない

62 アラビヤ語で橋の意。神の宗教をさす

63 マホメッドの執拗な敵の一人。回教徒は彼を「アブー・ヂャール」、即ち「愚かさの父」と名付けた。

64 カルベラの街があるイラク中部の地方。イマム・ホセインはここで殉教した。

65 ユーフラテス河畔にあるイラク中部の街。

66 キリストと同時代のユダヤ教の高僧。キリストの死刑を判決した法廷の裁判官であった。新約聖書、マタイ伝第二六章を参照。

67回教の一宗派。禁欲を強調する神秘主義派である。

68 アダムとイブの二人の息子。旧約聖書、創造記第四章及び、コーラン、第五章を参照。

69人の心を改めさせるもの。「霊薬」とは、地金を純金に変える錬金術師の錬金薬液になぞらえた言葉である。

70神の顕示者。西暦一八一九年に生まれ、一八四四年に自らの使命を宣言し、一八五〇年に処刑された。彼は回教徒が待ち望む「ガエム」であり、バハオラの先駆者である。「バハオラの新時代」第二章を参照。

71マホメッドの娘。マホメッドの後継者となったアリと結婚し、二人の息子を設けた。息子達はいずれもイマムの地位につき、いずれも殉教した。彼等の直系は「セイェド」の称号を与えられ、バブもその子孫で、本名をセイェド・アリ・モハメッドと言った。

72マホメッドの父。

73 ハジ・ミルザ・カリム・カーン  バハォラと同時代の街学者。現在ではこの人物や彼の著書「無知なるものへの手引」は完全に忘れられている。

74 マホメッドが天使・ガブリエルと共にした夜間の旅の事。

75 モーゼと同時代、エジプト王に仕えた魔術師。ユダヤの民をエジプトから救出する際、モーゼは奴隷の釈放を拒むエジプト王を説得するために、幾つかの奇跡を行なった。

答えてエジプト王は魔術師を呼び、同じ奇跡をやらせ、モーゼに対抗した。旧約聖書、出エジプト記第七章を参照。

76 コーランの幾つかの章の冒頭にある関連性のないアラビヤ文字。「アリフ・ラム・ミム」以外にも幾つかの組合せがある。

77旧約聖書やコーランに登場する人物。コーランでは、ヨセフは神の予言者とされている。旧約聖書、創造記第三〇章及び、コーラン、第四〇章を参照。

78 バブの最初の信者。西暦一八一三年に生れ、セイェド・カゼムの弟子となり師の死後、回教の「約束された者」を捜しに出た旅でバブに会った。「生ける者の文字」と呼ばれたバブの十八人の弟子の一人となり、一八四九年に殉教した。「モラ」とは回教の神学者に与えられる称号である。「最初の炎」、二四から三九ぺージを参照。

79 バブの卓越した信徒。当時のイランの有数の神学者で、王室の代表としてバブを取調べた際、バブを認め信者となった。後にイラン南部のネイリズの虐殺で殉教した。「最初の炎」、七五から八六ぺージを参照。

80 ホッジャト」と呼ばれたバブのすぐれた信徒。ザンジャンの大虐殺で一八○○人の信者と共に殉教した。「最初の炎」、六六から七四ぺージを参照。

81 「生ける者の文字」の一人で、バブの信徒達の中の最初の殉教者となった。

82 バブの信徒で、モラ・ホセインなどと共にタバラシの砦で殉教した。

83生ける者の文字」の一人で、タバラシの砦で殉教した。

84 バハオラの親しい同僚で、タバラシの砦で殉教した。

85回教の神学博士からバブの信者となった有名な「テヘランの七人の殉教者」の一人。

86 バブの信徒で、タバラシの砦で殉教した。

87ユダヤ教から改宗したバブの信佐。本来、ユダヤ教の司祭であったが、珂教に改宗しシェイキ学派に加わり、後にモラ・ホセインの布教によりバブを認めた。

88シェイキ学派から改宗したバブの信徒。シェイキ学派の最も有名な学者の1人であったが、バブの教えを認めその布教に専念した。

89 アラビヤ語で「懇願の的」の意味。バハオラを指す。

90バブの著わされた経典の題名。この書物は「ヨセフの章」と呼ばれるコーランの第十二章の解説であり、その最初の章はバブが宣言の際、「約束された者」である事の証としてモラ・ホセインの疑問に答えて書かれた事である。

91 アラビヤ語の一文字。

92 イラン南部の街。一八四四年に、初めてバブが御自身の使命を宣言なされた場所であり、彼の生誕地でもある。

93回教シーア派の第六代イマムであったジャーファルエ・サデグの名称。西暦七六五年にアバッス朝のヵリフの手によって毒殺された。

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94 アラビヤ語で「後継者」の意味。回教ソンニー派が正当とみなすマホメッドの後継者の称号。十六世紀に入ってからは、トルコ皇帝がこの称号を名乗った。

89

95回教シーア派の伝承に登場するイマム、サデグ(第十六代イマム)と同時代の人物。