聖なる文明の秘訣

聖なる文明の秘訣

アブドルバハ

情け深く,慈悲深き御方なる神の御名において

神が賛美され,感謝されんことを--神は創造物の中から人間の本質を選び、それに、両方の世界*における二つの最も輝かしい光りである知性と英知という栄誉を授けられた。この偉大なる賜物の力により、神はあらゆる時代に、新しくすばらしい星群を創造の鏡の上になげかけられた。もしわれわれが、生存の世界を客観的に見るならば、生存の殿堂は、時代が経ると共に、常に、新たな恩恵によりかざられ、常に変化する輝きによって際立たせられてきたことが明らかになるであろう。

この神の最高なる象徴は創造の秩序の中で第一に位置し、全創造物に先行するものである。その証言となるのが、「神はまず知性をつくられた」という聖なる伝承である。創造のはじめから、知性は人間の殿堂の中に明示されるようになされていたのである。

主は聖別されておられる--–主はこの、他のものとは異なる天なる力のまばゆい光線により、われわれの暗黒の世界を、(諸々の)光りの世界の羨望の的となさったのである。--「そして地球はその主の光りによって輝かん。(1コーラン 39:69)」主は神聖にして栄高なり----主は、人間の性質をこの限りなき恩恵の源となさったのである----「慈悲深き神はコーランを教え、人間を創造し、人間に明瞭な言葉を教えられた。(2コーラン 55:1-3)」

おお、知る力のある知性を持つあなた方よ!嘆願の手を唯一なる神の天の方へ向けて上げ、神の御前にて謙遜し、謙虚になり、この最高なる賜物に対して神に感謝せよ。そして、この時代に、こうごうしい推進力が人類の良心から発せられ、人間の心にゆだねられた神によりつけられたこの火が決して消え去ることがなくなるように、神に懇願せよ。

注意深く考えてみよーーこれらのまことに多様な現象、概念や知識、技術的な手順、哲学体系、科学や芸術、産業や発明は全て、人間の知性から発せられたものである。この岸辺のない海により深くもぐって行った人々は、他の人々より勝っていたのである。国家の幸せと誇りは、知識の高い点の太陽のごとく輝くということからなっている。「知識のある者らとないものらが同じように扱われるべきであろうか。」(1コーラン39:12)

そして、個人の栄誉と優れた点は、その個人が世界の大衆の中で社会的な善の源となることからなっている。ある個人が自らの内部に目を向け、自分が神の恵みにより同胞らの平和と安寧、幸福と利点のもとになっていると知ること、これよりすばらしい恩恵が有り得ようか。いや、唯一の真なる神にかけてーーそれよりすばらしい幸せや、完全なる喜びはないのである。

われわれはどれだけ、情欲と無駄な欲望の翼の上に押し流されるだろう。そしてどれだけ、無知と憎悪の底で野蛮人のように日々を送るのだろう。神は、われわれが、自分たちの周りの世界を見渡し、文明と生活を促進するあらゆるものをつかみとるようにと、われわれに目を授けて下さった。神は、われわれが学者や哲学者らの言葉を聞き、それから益を得、それを促進し実践しようと立ち上がれるように,耳を授けて下さった。感覚や機能は全体の益のための奉仕になるよう、われわれに授けられているーーそれによってわれわれが、その理解力と理性により他の生存物と異なり、常に、そしてあらゆる分野において、その機会が大なり小なり、非凡であれ、平凡であれ、全人類が知識の無敵の要塞に安全に集められるまで尽力するように。また、常に人類の幸せのために新しい土台を築き、この目的のために新しい手段をつくり、促進していなければならない。人が、自らの責任を果たすために立ち上がるなら、なんと栄誉あることであろうーーしかし、社会の安寧に目を閉じ、自分の利己的な利益や個人的利点のために貴重な人生を無駄にするなら、人は何とみじめで、また卑しむべきであろう。もし人が、文明と正義の舞台において高遠なる努力の道を進んでいくなら、最高の幸せを得、世界と人間の魂の中に、神のしるしを見るのである。「われは必ず、世界と彼ら自身の中に、わがしるしを示すであろう。」(4コーラン41:53)

活気なく不活発で無関心に生き、自らの低俗な欲望にのみ関心を持って生きることーーこれが、人の最もみじめな状態である。このような状態にあるとき、人は残忍な獣よりも卑しい状態に陥り、最もはなはだしい無知と野蛮の状態にあるのである。「彼らは獣のようである。いや、彼らは獣よりも邪道に陥っている…最も卑しい獣は、神の目からすると耳が聞こえず、口がきけず、理解することができないのだから。」(5 コーラン 7:178,8:22)

われわれは今、立ち上がり、全人類の平和と安寧と幸福,知識と教養と勤勉,威厳と価値と地位を促進するあらゆる手段を手にしなければならない。 こうして、純粋な意図と非利己的な努力の復活の水により、人間の潜在力の地は、われわれの祖先のものであったあの知識のバラの園に匹敵するようになるまでその潜在した優秀性をもって花を咲かせ、賞賛さるべき特質へと開花し、実を結び繁茂するであろう。そうしてこの聖なる地ペルシャはあらゆる意味で、人間の完璧性の焦点となり、あたかも鏡のように、世界文明の装飾全体を映しだすであろう。聖なる英知の源にして啓示の夜明けの地なる御方(ムハンマド)そしてその聖なる子孫に最高の誉れと栄誉あれ。なぜなら、彼の最高の英知と普遍的な知識の四方に放たれた光線により、ヤスリブ(メディナ)とバタ(メッカ)の住人らは奇跡的にそして短いあいだ、無知のどん底から引き出され、学識の頂点に達し、芸術や科学において中心となり、世界中の地平線上に輝く、真の文明と至上の幸福の星となったのだから。

ペルシャ国王は1875年、ペルシャの人々の発展と幸福と安全そしてペルシャの国の繁栄をもたらそうと決意なさった。陛下は精力と公平な態度を示し、正義の光りによってイランを東洋と西洋の羨望の的となすことを望み、自発的に国民のために援助の手をさしのべ、初期のペルシャを特徴づけていたあのすばらしい熱情が再び人々の(静)脈を流れるように努力された。認識力ある者には明らかで、著者はこれが理由で、神のために、そしてこの高遠なる尽力に敬意を表して、この緊急の事柄に関して簡潔な言明をしめさねばならないと感じた。著者の唯一の目的は、全体の安寧を促進することであることを示すため、著者は名前を出さないことにした。(1.1875年に書かれたペルシャ語の原文は)著者は、廉直であることに関して導くこと自体は廉直な行為であると信じるため、自国の子らに対して、これらの勧告の言葉をいくつか記すーーそれは神のためにのみ、そして忠実な友人の精神において発される言葉である。万物について知りたもうわれらの主は、この「僕」が正しく善きもののみを求めていることについて証言なさる。何故なら神の愛の砂漠にさ迷う者である彼は、否定や同意、賞賛や非難が自分にふれることのできない領域にやってきたのだから。「われわれは、神のためにのみ、あなた方の魂に糧を与えるーーわれわれはあなた方から償いや感謝を求めはしない。」(コーラン76:9)

「手はとばりによりさえぎられているが、ペンは命ぜられた通りに文字を記す。馬は前方へ向けて走っていくが、乗り手は隠されている。」

おおペルシャの人々よ!遠い過去の日のことを語る花咲く時期を振り返ってみよ、その日々の歴史について読み、驚き、その偉大なる光景を見よ。当時、ペルシャの力と栄光は世界中の地平線上に朝日のように輝き、ペルシャの学識の輝きは、東洋と西洋に光線を投げかけた。ペルシャの冠をかぶっていた者らの広大な帝国については北極圏に住む人々にまで知られ、その王の中の王の荘厳なる存在の名声は、ギリシャやローマの統治者らをヘリ下させたのである。世界中でもっとも偉大な哲学者らがペルシャの政府の英知に驚嘆し、その政治体系は、当時知られていた四大陸のあらゆる国王の模範となった。ペルシャは、その領土の広大さによりすべての民族の中で際立ち、その賞賛さるべき文化と文明により、全ての人々から尊敬されていた。ペルシャは、世界の主軸のようであり、科学や芸術の源と中心、偉大な発明と発見の源泉、そして人間の美徳や完全性に豊かな鉱山であった。この優れた国家の人民の知力と英知は他の民族を茫然とさせ、この崇高な民族の才気と非凡な理解力は全世界の羨望の的となった。

ペルシャの歴史書に記されていることの他には、旧約聖書の中に次のように記されている。――旧約聖書は、今日、ヨーロッパのあらゆる民族のあいだで聖典で認められた神聖な書として確立されているーーキュロス(1ペルシャの文書ではイシュファンディヤのバーマンの息子と呼ばれているが)の時代にはペルシャ帝国の360の分割地はインドと中国の内陸の境界線からイエメンやエチオピアのもっとも果てまでにわたっていたということである。(1歴代誌36:22-23;エズラ記1:2; エステル記 1;1,8:9; イザヤ書45:1;49:12)

ギリシャの文書もまた、この尊大な統治者がいかに無数の軍勢とともにギリシャ人に対抗してやってきて、彼は全ての政府の柱をゆり動かした。権威あるアラブの文書であるアブル・フィダの歴史書によれば、かれは当時しられていた世界全体を征服したということである。それから、この文書や他の文書には、ピシュダディヤン朝王であるフィライドウンが、当時知られていた世界全体を、息子3人のあいだに分割したと記されているーーこの国王は、まことに、その本来持ち合わせていた完全性や、判断力、知識の広さ、そして長いあいだ続けて収めた勝利により彼以前と以後のあらゆる統治者の中で独特な存在である。世界の最も著名な民族らによって詳言されているように、地上に初めて確立された政府であり、  の中で編成された最初の帝国はペルシャの玉座と王様であったのである。

おお、ペルシャの人々よ! 酔いしれた眠りから目を覚ませ!

無気力から身を起こして立ち上がれ!公平に判断せよーーかつては世界文明の源泉であり、全人類の栄光と喜びの源であり、東洋と西洋の羨望のまとであったこの聖なる地が、あらゆる国によって嘆き悲しまれ哀れみの的のままであることを栄誉(ほこり)が許すであろうか?ペルシャ人はかつて、あらゆる民族の中で最も高貴であった。――あなた方は、現代の歴史にその堕落した状態を記録させるというのか?ペルシャはかつて、全人類の望みの地であったというのに、あなた方は現在のペルシャの悲惨な状態を満足して受け入れるというのか?ペルシャは、このさげすむべき怠惰と努力の欠如と全くの無知のために最も退歩した国としてみなされなければならないのだろうか?

ペルシャの人とは遠い昔、知力と英知の先端に立ってはいかなかったろうか?ペルシャは、神の恩恵により、神の知識の地平線から太陽のように輝いてはいなかったろうか?どうしてわれわれは今日、このみじめな状態に満足し、芳純な情欲におぼれ、最高の幸せや神の目において好ましいものから自らを隠し、利己的な関心事や卑しい個人的な利点をもとめることに没頭してしまったのか?

この最も美しい国はかつて、聖なる知識や芸術と科学、高貴さと高遠なる業績、英知と勇気の光の放たれたランプであった。しかし今日、その人民の怠惰と無気力と不活発、規律のない生活様式とほこりの欠如、そして野望のなさにより、ペルシャの繁栄は全くか            げりを見せ、その光は暗夜に変わってしまった。「七つの天と七つの地は、強大な者が衰えさせられると、それについて泣き悲しむ。

ペルシャの人々は本来、知力に欠けている、あるいは本質的な洞察力、理解力、生まれつきの聡明さ、直感力、英知や生来の能力において他の民族よりも劣っているなどと思われるべきではない。それはとんでもない考えである!それどころか、ペルシャの人々は生来の才能において常に、他のあらゆる民族よりも優れていたのである。さらに、ペルシャは、その温暖な気候や自然の美、地理的に有利な条件や肥えた土といった見地からしても最高に祝福されているのである。しかし、ペルシャが今、緊急に必要としているのは、深い反省と決然とした行動と訓練、刺激と励ましである。ペルシャの人々は多大な努力をし、ほこりを呼びおこさなくてはならない

今日、地上の五大陸の中で、法律と秩序、政府と商業、芸術や勤勉、科学や哲学や教育において名声を博しているのはヨーロッパとアメリカの大部分の地域である。しかし、古代において、これらの地域の人々は、世界中の民族の中で最も野蛮であり、最も無知で残忍な民族だったのである。かれらは、野蛮人という汚名をきせられたりした— つまり全く野蛮で未開な人々であったということである。さらに、紀元後5世紀から15世紀にかけて、中世と定義されている時期、ヨーロッパのあいだでは非常な争いや騒乱、残忍で恐ろしい行為が通例として起こり、ヨーロッパ人は適切にもその10世紀を「暗黒時代」と呼んでいる。ヨーロッパの発展と文明の基盤は実際は、15世紀に築かれ、それ以降、現在明らかなヨーロッパの文化は全て、偉大な人々の刺激により、また知識の未開拓分野の拡大や熱心で精力的な努力の結果により、発展の過程にある。

今日、神の恵みにより、そして神の普遍的な顕示者の精神的な影響力により、ペルシャの公平な統治者はその人民を正義の避難所の下に集め、国王の目的の誠実さが威厳ある行為において示された。そして陛下はその支配力が栄光ある過去のそれに匹敵するように望んで、公平と正義を確立しこの崇高な国の至るところに教育と文明の過程を促進させ、国の発展を確実にさせるもの全てを潜在性から現実へ変えるように努力された。

今までわれわれは諸々の業務を有能にさばき、その高遠なる決意に全人民の安寧が依存し、寛大な父親のように人民の訓練と教育のために努力し、人民の幸福と心の安らぎを確保するように努め、人民の利益のために関心を示す君主――そのような君主を今まで見たことがなかった。それゆえに、この「僕」と彼と同じような人々は、黙っていたのである。しかし今、国王が自ら進んで、公正な政府を確立し、全人民の発展を確保しようと決意されたことは認識力がある者にとって明らかである。したがって、国王の尊重すべき意図により、(著者の)この言明が発されるよう呼び起こされたのである。

しかし、まことに奇妙なことに、ある者らは、感謝と熱意のうちに立ち上がり、これらの高貴な目的が日毎に増すよういのることにおいてこの恩恵(それはまことに、全能なる神の恵みから生じたものなのだが)に対して感謝する代わり、敵対の旗を掲げ、不平の声をますます大きくしたのである— それは、個人的な動機により理性が堕落させられ、利己的な利益とうぬぼれにより理解力がにぶり、自分の情欲を満たすために精力が使われ、ほこりが指導権への愛にゆがめられた人々である。今まで彼らは、国王が自ら進んで人民の幸せのために努力せず、人民の平和と幸福のために勤めなかったとして国王を非難したのである。しかし今や国王がこの偉大な計画を始められたので、彼らは口調を変えた—ある者らはこれらの計画は新奇の方法や外国主義であり、ペルシャの現在の必要事や古くからの慣習とは全く無関係の者であるという。またある者らは、無力な大衆— それは、宗教とその法律や根本的原則を知らず、したがって識別力のない人々である--を集めては、これらの現実的なやり方は異教徒である民族のやっていることで、真の信教の敬われた法令に反するものであると彼らに言い、さらに次のような格言をつけ加えるのであったーー「ある民族のまねをする者は、その民族の一人である。」あるグループは、そのような改革は急いで行うことは許されず、一歩一歩慎重にすすめられるべきであると主張している。またあるグループはペルシャ人ら自身が考え出した手段のみが採用されるべきで、ペルシャ人ら自身がその政治機構や教育制度や文化の状態を改革すべきで、他の国々から改善法を借りる必要はないと主張している。つまり、あらゆる党派がそれぞれの特定の幻想に従っているのである。

おお、ペルシャの人々よ!あなた方はどれだけさ迷い、その困惑はどれだけ続くのだろうか?この意見の衝突や無駄な対立や無知、そして考えることを拒む態度はどれだけ続くのであろう?他の民族は油断なく警戒しているというのに、われわれは夢も見ずに眠っている。他の国々はその状態を改善するためにできる限り努力しているのに、われわれは、自らの欲望とわがままにとらわれており、一歩ごとに新たなわなに陥っている。

私がこの話を進めるにあたって、別に何の思惑もないことについて神が私の証人であられる。私は、誰の機嫌をとるわけではなく誰を自分に引き付けようとするのでもなく、又、物質的な益を得ようとしているのでもない。私はただ、神のお望みにかなうことを熱心に願う者として語っているだけである---私は世界とそこの人々から目をそらし、主の御加護の下に避難所を求めたのだから。「私はこのことで、あなた方に報酬を求めてはいない・・私の報酬はただ神のみもとにある。」(1コーラン6:90;11:31)

これらの現代的な概念は他の国々にのみあてはまり、ペルシャには関連のないものであると主張し、それらはペルシャの必要としていることを満たしもしなければペルシャの生活様式にも適していないと主張する人々は、他の国々もかつては今のわれわれと同じような状態にあったという事実を無視している。これらの新しい制度や手順や改心的事業は、それらの国々の発展に貢献しなかったではなかろうか? ヨーロッパの人々は、それらの方策を採用することにより害をうけたであろうか?それとも彼らは、むしろ、それらの方策により最高の物質的発展を遂げただろうか?ペルシャの人々が、今も見られるように過去のやり方に従って何世紀も生きてきたことは真実ではなかろうか?(それにより)何か有益な結果が生じ、進歩が遂げられたであろうか?もしこれらのことが経験によって試されていなかったなら、生来の知性の光りが薄れている者らが無益に疑問としたであろう。しかし実際は、これらの進歩のための必要条件のあらゆる面は、他の国々で何度も試され、その有益な点は、最も愚鈍な人でさえも理解できるほどに明白に実証されたのである。

これについて公平に、また偏見なしに、考慮してみよう--- これらの根本原則や健全でしっかりと確立された手順のうち、どれが現在のわれわれの必要としていることを満たすことができず、またはペルシャの政治的な最高の利益にそわず、あるいはペルシャの人民全体の安寧に対して有害なものか、われわれ自身に問いかけてみよう。教育の拡張、有用な教養や科学の発展、工業や技術の促進といったことは、有害なことがらであろうか?そのような尽力は大衆の中の個人を引き出し、無知のどん底から最高の知識(人間的)優秀性の域へ引き上げるのだから。社会の幸福を保証し、全人類の権利を保護し、攻撃に対する難攻不落の証拠である神の法律に従って公正な法律を制定すること---社会のメンバーらの繁栄と成功を抑制するであろうか? または、自らの知覚的機能を用いることによって、人が現状から類推し、全体としての経験によって得られた結論を引き出し、今はただ潜在的である状況が現実として現れるものとして心に描くことができるなら、これまで述べてきたこれらの方策を、われわれの将来の安全を保証するものとして考えるのは非合理なことではなかろうか?もしわれわれが、近隣の国々との関係を強化し、強大国と条約を結び、好意的な政府との友好関係を促進し、東洋や西洋の国々との貿易の拡大を配慮し、自然資源を開発し、人民の富をますようにすることは、先見の明がなく、思慮がなく、不健全な事であろうか?またそれは、正しく適切なことからそれているだろうか?もし州や地域の知事が思うがままにしている絶対的権利を解除され、代わりに公平と真実のみに従って行動するよう制限され、死刑や投獄など処刑命令が、国王や首都の高等な法廷による確証を条件とするなら、法廷の役人らがまず、その事例を正式に調査し、犯罪の性質や重大さを決定し、公正な裁決を下し、統治者による命令の発布を受けるようになったら、人民を破滅させることになろうか?今日、贈り物や好意と都合よく解釈されている贈収賄が永遠になくなったら、それは正義の基盤を脅かすことになるだろうか?国家と人民のための生きた犠牲であり(機会が来るたびに)死に勇敢に立ち向かう兵士たちを現在の極端に悲惨な状態と貧困から解放し、かれらの食糧や衣服、住まいを十分に配慮し、将校らを軍学により教育する努力をし、最も開発された鉄砲や他の武器を供給することは、不健全な考え方であろうか?

もし、誰かが前述のような改革はいまだに施行されていないと異議を申したてるなら、その事柄について公平に考慮し、それらの不備は一般国民の統一された意見が全くなかったことと、国の指導者らに熱意と決意と献身さが欠けていたことを知るべきである。人民が教育され、国民の意見に正しく焦点があてられ、政府の役人ら--従属の者らも---が、ほんの少しの堕落もなくすまでは、国が正しく運営されないことは明らかである。たとえ個人が最大の努力を尽くしても毛髪一本程度でも公正さがそれないほどに規律と秩序と統制が達しないかぎり、望まれている改革が十分になしとげられたとは見なされないのである。

国王はまことに、その役目を果たされ、提起された有益な方策の施行は今や協議会で役目を果たしている人々の手中にある。もし彼らが清く、高遠な心を持っており、腐敗がなければ、決して途絶える事の無い神の恩恵が与えられる確証を得るであろう。神は彼らの口とペンにより人々を祝福される。---それによりこの崇高なるペルシャの国の隅々は彼らの正義と高潔性により明るく照らされ、その光線は地球全体を覆うであろう。「それは、神にとってなせないことではない。」(1コーラン14:28 ; 35:18)もしそうでなければ、好ましい結果とならないことは明らかである。

異国の国々では、国会が設立された後、それらが実際人民を苦しめ,困惑させ、善良な意図で行ったはずの改革が有害な結果を生じたことが直接目撃されている. 国会の設定や協議会の編成はまさに、統治政府の基盤や土台をなしているのだが、これらの機構が満たすべき根本的な必要条件がいくつかある。まず第一に、選出されたメンバーたちは高潔であり、神を恐れ、高遠な心を持ち、清廉でなければならない。第二に、彼らはあらゆる点で神の法律を十分に知り、法律の最高の原則を知り、国事業務の管理や外交関係を円滑にするための規則について精通し、文明の有用に優れた技能を持ち、自分たちの合法な報酬に満足していなければならない。このようなメンバーたちを見つけるのは不可能などと思ってはならない。神とその選ばれし者らの恵みにより、また献身的で聖別された者らの高遠なる尽力により、あらゆる困難は容易に解消され、あらゆる問題もいかに複雑であれ、瞬きをするより容易となるであろう。

しかし、もし協議会のメンバーが劣っており、統治政府や行政、法律について無知で、思慮がなく、目標が低く、無関心、怠惰、利己的であるなら、そのような機構を編成することからは何の益も生じないであろう。昔は、貧しい者が自分の権利が欲しかったならある一人の人物に贈り物をすればよかったのに対し、今は正義の望みを全て捨て去るか、さもなければそのメンバー全員を満足させなければならないのである。

綿密に調べてみると、虐待や不正、不義、不規則や無秩序の主な原因は、人々の宗教的信念のなさと無知にある。例えば、人々が真に宗教心があり、教育や教養があれば、問題が生じたなら、地方の当局者に相談することができる--もし、人々が公正に対処されず自分たちの権利を保護できないならば、そしてその地方政府の行為が神のお望みと国王の正義にそわないと思うなら、彼らはその事例をより高等な裁判所に持っていき、その地方の行政機構が精神的な法律からそれたことを説明することができる。そうすればそれらの高等裁判所はその事例に関する地方の記録を取り寄せることができ、このようにして、正義がなされるのである。しかしながら、現在のところ、不十分な教育のため、人民のほとんどは、自分の言わんとすることを表現するための言葉さえも欠けているのである。

国内または国外で、人々の指導者と考えられている者らについて---今はまだ新しい行政の最初の過程にすぎない為、彼らはまだ、正当性から得る喜びを感じたり、正義を促進することで歓喜を味わったり,明白な良心や誠実な意図の泉から飲んだりするほどに、教育において十分に進歩していない。彼らは,人の最高の栄誉や真の幸福が自己に対する尊敬や高貴な決意や崇高な目的、高潔性や道徳的特質、そして心の純潔性にあることを、まだ正しく理解していない。むしろ、彼らは自らの偉大さはあらゆる手段によってこの世の所有物を蓄積することだと思っている。

人は、しばらく立ち止まり黙考し、公平であらねばならない。--主は、計り知れない恩恵から人を人間としてお造りになり,「真に、われわれは人間をもっとも美しい姿に造られた。」(1 コーラン95:4)

という言葉を授けられた。そして神は、人が神の言葉の源となり、天国の神秘が降りてくる場所となり、創造の朝において完全性の得し津の光線と神の恵みによって覆われるようになるまで、一体性の夜明けから昇る神の御慈悲を人の上に輝くようになさった。人はどうして、この純潔な衣を利己的な欲望によって汚したり、この永遠の栄誉を不名誉と代えたりすることができようか? 宇宙が汝自身のうちに包みこまれているというのに、自らを小さなものにすぎないと考えているのか?」(1イマム・アリ)

われわれの目的がこの主題について話を進め、また簡潔であることでなかったなら、人間の本質とその高遠なる地位、そして人類の優れた価値について聖なる世界から主題のまとめをここに記すであろうが、これはまた、別の機会にすることにしよう。

目に見えるもの、見えざるもの、また、アルファとオメガにせよ創造において最高の地位であり、最高の領域で最も崇高で荘厳なる地位は神の預言者らのそれである---

預言者らの大部分は、外見的には自らの貧困さ以外何も所有していなかったということにもかかわらず。同じように、言語に絶する栄光は、「聖なる人物」たちや神の「敷居」に最も近い者らだけのものである---このような人々は決してほんの一瞬でも物質的な利益に関心を持ちはしなかったのだが。そして、人民を保護し神の裁きを行う者という名声が世界中を満たし、人民の権利を擁護する強力な者という名前が創造物の至るところにこだました公正な国王らの地位である。このような国王たちは、自分のために莫大な富を蓄積しようなどとは考えず、むしろ自らの富は臣民を豊かにすることにあると信じるのである。彼らにとっては、もしあらゆる市民が裕福であり安楽であるなら、その王室の金庫は一杯なのである。彼らは金や銀を誇りとはせず、全体の益を得るという啓発と決意を誇りとするのである。

次にくるのは髪の御意を自らの意志の上に置き、自らの役職の運営における行政的技能や英知が統治の科学を新たな完全性の息に引き上げるような優れた尊敬すべき、国の大臣や代表者たちである。彼らは学識の世界において知識のランプのように---かららの思考や態度や行動は、その愛国心や自国の発展への関心を示している。かれらは、その質素な俸給に満足し、重要な任務の施行と人民の発展を確実にする方法の考案に日夜を捧げる。彼らは、その賢明な勧告の効力や判断の健全さにより、常に、自国の政府が世界中のあらゆる政府が従う模範となるようになしてきた。彼らはその首都が世界の偉大なる事業の中心地となるようになし、最高の地位に達し最高の名声と人格に達して卓越性を示した。

それから、賞賛されるべき特質を有し、非常に博学で、神への?(れの強力な柄につかまり)、救いの道から離れない、著名ですぐれた、学識ある人々がいる。彼らの心の鏡には、超越した真理の姿が映しだされ、彼らの洞察力のランプは普遍的な知識の太陽から光りを得る。彼らは、人類に有益な学問に関する詳細な研究に日夜忙しく従事し、才能る生徒の教育に身を捧げる。彼らの識別力からすれば、国王から選定された宝物も知識の水の一滴とは比べものにならず、金銀の山も難問を解決することに勝りはしないのである。彼らにとって、仕事の外に存在する喜びは子供のおもちゃに過ぎず、不必要な所有物の邪魔な負担は無知で卑しい者らのために役立ったにすぎないのである。彼らは、鳥のように満足し、ひと握りの種に感謝し、彼らの英知の歌は世界の最も賢い者らの知性を驚嘆させるのである。

それから、人々の間の賢い指導者で、国の至るところにおける有力な人物がおり、彼らは国の柱をなしている。彼らの地位や成功は彼らが人民の幸福を願う者であることと、国を改善しその市民の富や安楽を増すような手段を求めることに依存している。

ある個人がその国の著名な人物で、熱心で賢く、心が清く、その生来の能力と知力と明敏さによって知られており、また、その国の重要なメンバーである場合について考えてみよ---そのような人物にとって、この世または次の世において、何が栄誉、永続する幸せ、そして地位であろうか?それは真実や公正に熱心に注意を向けることであろうか。それは神のお望みに対する献身と決意とであろうか。それは統治者の望ましい考慮を引きつけ、人民の同意に値することであるか?それともそれはむしろ、夜、饗宴や遊興にふけるために日中は自国を傷つけ、人民の心を悲しませ、神に自らを否定するようになし、統治者に自分を追放させ、人民に自ら己の名誉を毀損させ、人民に自分へ当然の侮辱を受けさせることにあるのだろうか?

神にかけて---墓場の朽ち果てる骨の方が,そのようなことよりもましである!真に人間らしい特質という天なる食物を味わったことがなく、人間の領域に属する恩恵の透明な水を飲んだことのない者らには何の価値があるというのだろうか?

国会を設立することの目的が正義と公正をもたらすことであるのは、疑う余地のないことであるが、すべては、選出された代表者らの努力にかかっている。もし彼らの意図が誠実なものであれば、望ましい結果や予期されない改善がやがて起こるであろう。しかしもしそうでなければ、すべては無意味で、国は行き詰まり、公の業務は常に衰退するであろう。「わたしは、ひとりの破壊者のも匹敵しない一千人の建設者が見える。それでは、一千人の破壊者に追われたひとりの建設者はどうなるというのだろう?」

前述の言明の目的は、少なくともこのことを示すためである--–つまり、個人の幸せや偉大さ、地位や喜びや平和は決して、個人的な富にあるのではなく、その人の優れた人格や高遠な決意、学識の広さ、そして困難な問題を解決する能力にあるということである。次の言葉はいかにすばらしく表現されていることか--–「私の背には衣があり、それは、もし一ペニーで売られたならその一ペニーはずっとそれ以上の価値に値するものである。しかし、その衣の内には魂があり、それは世界中のすべての魂に対して計られたなら、それらよりも偉大で崇高であることがわかるような魂である。」

この著者の見解からすれば、独立国家の協議会の悲永久的メンバーの選出は人民の意思を選択によるべきだと思われる・というのはその代表者らはこのようにしてえらばれるため、表弁が悪くなったり民衆の人気をなくしたりするといけないのは幾分正義を行使したい気になるのであるから。

前に述べられた著者の言葉が、富を否定し貧困を賞賛するようなものと主われてはならない。富はもし個人自身の努力と神の恵みにより、商業や農業や芸術、工業などにおいて得られ、博愛的な目的のために費やされたなら最高に賞賛されるべきものである。何よりも、思慮分別があり、機知に富む個人が大衆を普遍的に豊かにする方策を開始したなら、これよりすばらしい事業は」なく、それは神の眼からすると最高の業績に位置するであろう---なぜなら、そのような恩恵を施す人は、大衆の必要とするものを供給し、その安楽と幸福を確保するのだから。全人口が裕福であるなら、富は最も賞賛せるべきものである。しかし、いく人かが法外な富を有しながら残りの人口が貧乏であったなら、そのような富からは何の益も実りも生ぜず、その富は単に所有する人にとって不利なものにすぎないのである。しかし、それに対してその富が、学問の促進や小学校やその他の学校の設立、芸術や工業の奨励、孤児や貧困者の教育---つまり、社会の安寧のために捧げられたなら、富の所有者は、神と人々の前で地上に住むすべての人々の中で最も優れた者として際立ち、楽園の人々のひとりとして見なされるであろう。

改革を開始し、強力な機構を設定することは実は神の望みにそぐわないことで、「聖なる立法者」の法律を犯し、宗教的原則や預言者のやり方に反することであると主張する人々には、なぜそうなのかについて考えさせる改革は外国人から得られたもので、「ある民族のまねをする者はその民族のひとりである」というようにわれわれをその外国人のようにしてしまうから、宗教的法律を犯すことになるのだろうか?まず第一に、これらの事柄は文明の現世的、物質的機構、科学の道具、職業や技能の進歩を補助する者,そして政府の秩序立った運営に関する者であり,精神に関する事や、宗教的教義複雑な状態とは全く関係のないことである。もし、物質的な業務に関することでさえ外国からの輸入物は受け入れられないと反対されたとしても、そのような議論はただ、そのように定義する人々の無知と愚かさを立証するだけである---

彼らは、「知識を求めよ。中国までも」という賛美されたハディス(聖なる伝承)を忘れてしまったのだろうか?中国の人々は、神の眼からすると最も拒絶された人々の中に入ることは確かである---なぜなら彼らは、偶像を崇拝し、全知なる主に対して無頓着なのだから。ヨーロッパ人は少なくとも「経典の民」であり、神を信じ、「また汝は、信者に対して最も親しい愛情を抱いているのが「われわれはキリスト教徒です」と言う人々であることにも気がつくであろう」という聖なる節で明確に言及されている。従って、キリスト教の国々から知識を得ることは全く許される事で、真に、より適切なことである。どうして、異教徒から知識を求める事が神に受け入れられながら「経典の民」の間で知識を求めることが神にとって嫌われることでありえようか?

さらに、「同盟国の戦い」にて、アブ・スフィヤンはバニ・キナーとバニーカタン、ユダヤ人のバニ・クライズイの援助を得、ヤスリブ(メジナ)のランプに燃え立った「聖なる光」と消すために、クライシュ族の全ての部族とともに立ち上がった。当時、訓練と苦難の強風があらゆる方向から吹き荒れていた---ちょうど、こう書かれているように---「人々は、「われわれは信じます」というだけで、もはや試練を受けることもなく、放任されると思っているのだろうか。」(1.コーラン 29:2)

信者らの数は少なく、敵は虐待と残虐の塵により、新たに昇った「真理の太陽」を消し去ろうと大挙していた。そうしてサルマン(ペルシャ人)---啓示の夜明けの「点」であり恩恵の限りなき輝きの「焦点」である御方---の御前へやってきて、こう言った---ペルシャでは、侵略してくる軍勢から身を守るために、土地のまわりに堀や塹壕を作るのであり、これは、不意の攻撃に対して非常に能率的な』護衛となった、と。あの普遍的な英知の『源』であり、聖なる知識の「宝庫」である御方は、それは偶像や火を崇拝する「魔術師」らの間に』広まっている慣習であるゆえに一神教信者らが取り入れることはほとんどできないと答えられただろうか?それとも彼は直ちに、塹壕を掘るよう信奉者らに指示なさったであろうか?彼は自ら,道具を手に取って信奉者らとともに作業に取り組まれた。

世界の「光」がヒジャーズの上に昇り、全人類にその輝きを浴びせ、新しい聖なる法律の啓示により、新しい原則や機構をもたらし、世界中に根本的な変化をもたらした後、場合によっては「無知の日々」(1ジャヒリイ:ムハンマドの到来の前のアラビアでの異教思想の時期)の習慣に順応した聖なる法律が啓示された---このことは、様々なイスラム教の派の書物や指導者的神学者や歴史化らの文書の中に記録されていることである。

下された法律で、偶像崇拝者らにより保持されたものであると主張するであろう。これに関してそのような人々は、「純正信者アブラハムの宗教に従え」(1.コーラン4:45;  5:16)というコーランの節を唱えるであろう。しかしながら、休止の月や太陰暦や窃盗の罰として右手を切り落とすことがアブラハムの法律の部分を成していないことは,あらゆるイスラム教の宗派の文書により証言されていることである。いずれにせよ、モーゼの五書は今日現存して手に入れることができ、それはアブラハムの法律をおさめている。彼らに、その書を参照させるがよい。すると彼らはもちろん、モーゼの五書は不当に手を加えられていると主張し、証拠として「彼らは、神の言葉の原文を悪用する」というコーランの節を引用するであろう。しかし、どこにそのような歪曲が起きているかが知られており、またそれは、批評的な文書や解説書に記されていることである。(2.Cfバハオラの「ケタベ・イガン」もしこの主題についてこの簡潔な言及以上に話し始めたら、わたしは目下の目的を捨て去らなくてはならなくなる。

ある話によれば、人類は野生の動物から様々な良い特質ややり方を借りるように仕向けられてきたということである。口のきけない動物の美徳をまねすることが許されているのだから、外国の人々から物質的な科学や技術を借りることはもっともっと許されているはずである---彼らは少なくとも人類に属し、判断力と話す力という特異点があるのだから。そしてもし、そのような賞賛されるべき特質が動物に生まれつきであると主張されているのなら、彼らは、何を証拠として、他の民族に広まっているこれらの文明の根本的原則や知識や学問は生まれつきのものでないと主張できるのだろうか?神以外に創造主がおられるだろうか。言挙げよ---神に誉れあれ!

最も学識あり教養ある神学者ら、学者らは、アリストテレスやその他のギリシャの哲学者らに起源と根源のある学問の分野を熱心に研究し、医学や代数(1.もし『代数学』という言葉の意味するものが、X+5X=14といった方程式の解き方を教えるような数学の分野であるなら、この学問の始まりは17世紀である。もし、この方程式これほど便利ではない他の記号で表すとするなら、そのはじまれは少なくとも3世紀ごろあったと考えられる。そして、図形の助けを借りて簡単な正の根の問題を口頭で述べ解くとするなら、そのような学問は起源前300年ごろユークリッドや他のアレクサンドリア学派の人々に知られていた。さらに、解答をだすための幾分科学的な推測としての代数学は紀元前役2000年ころに知られていたと言え、おそらくそれよりずっと以前にも、知的な階級の人々の注目を引き付けていたであろう。。。『代数学』(algebra)という名前は全く偶然のものである。ムハンマド・イブン・ムサ・アル・コワリズミがバグダッドで(c825).書いたとき彼はその著作のひとつにAl-jebr wal-maqubalahという名をつけた。その第はどきどき『resto????』 と翻訳されているが、その意味は後のアラブ人の執筆家らにさえも明らかでなかった。)(ブリタニカ百貨辞典、1952年―Sv Algebra)や算数などの数学などのようなギリシャの学問の教科書から学ぶことを非常に貴重なことと見なしている。著名な神学者らはみな、倫理学について研究し、それを教えている――彼らはその学問を創始したのはシバ人であると考えているのだが。彼らのうちほとんどは、もしある学者が様々な学問に徹底的に熟達していても論理学において基礎が十分でなかったなら、その学者の意見や推論や結論は安全に信頼することはできないと主張している。

従って、文明の原則や手順を外国から輸入し、科学や技術を外国から学ぶこと、つまり全体の益に貢献するようなこと全てを学ぶことが全く許されることは、明白に、そして、反ばくの余地のないように示された.これは大衆の目を普遍的な有利な点にかんするそのような事柄にむけさせ、神が人々を助け、この聖なる国が短期間に国々の先頭に立つようになるまで、人々が全力を尽くしてその事柄を促進しようと立ち上がるようにという意図でなされたことである。

おお、賢明なるあなた方よ!これについて注意深く考えてみよ――普通の鉄砲はマーティニー・ヘンリー式銃やグループ銃と比べものになるだろうか?もし誰かが,われわれの昔からの鉄砲は十分であり、外国で発明された武器を輸入することは無駄であると主張したなら、子供でさえもその人の言う事に耳を傾けるであろうか?あるいは「われわれは常に動物の背に乗せて商品を国と国の間を輸送してきた。どうしてわれわれには蒸気機関が要ろうか?」と誰かが言ったなら、知性ある人はそのような発言を黙認することができようか?いや、唯一なる神にかけて!何か隠された企み敵意により、明らかな事柄を受け入れるのを拒否しない限り、そのようなことはありえない。

外国は科学や工業や技術において最も熟達しているにもかかわらず、お互いからアイデアを借りることをためらいはしない。どうして非常に困窮している国であるペルシャが、遅れを取り、なおざりにされ、見捨てられるべきであろうか?

一直線の道を歩き、聖なる英知の秘密に精通し、諸々の聖なる書の内なる真理について知っており、自らの心の中に、神への憬れの宝石をつけ、救いの光により顔を輝かしている神学者や学識者らは現在必要とされていることに注意を向けており、学問と文明の発展を奨励するために全精力を捧げている。「知識ある者とないものとは同じであろうか?。(1.39:12)また、暗黒と光とが同じであろうか?」(2コーラン13:17)

精神的に学識ある者らは、国々の中の導きのランプであり、人類の地平線から輝く幸運の星である。そのような者らは、無知と無意識の死に横たわる人々のための生命の泉であり、欠陥と誤りの荒地でのどが渇き、さ迷い歩く人々のための、明らかなる完全性の泉である。彼らは神の一体性のしるしの夜明けの地である、栄光あるコーランの神秘の伝授を受けた者らである。彼らは世界の病み苦しむ身体のための有能な医者であり、人間社会を腐敗させた毒の確実な解毒剤である。人類を守る強力なとりでであり、激しく苦

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しみ悩み、無知の被害者である人々のための難攻不落の避難所であるのは、彼らである。

「知識は、神が、望むもの全ての心に投げかける光である。」

しかし神は、あらゆるものに対してしるしを創られ、あらゆるものが主がしられるような基準を試しとなるものを確立された。精神的に学識ある者らは、内的な完全性と外的な完全性の両方にて特徴づけられていなければならない。彼らは、すばらしい人格や啓発された性質や純粋な目的を同時に知力や才気や識別力、直感力、思慮分別,先見の明,節制,敬意,神に対する心からの畏れなどの性質を持っていなければならない。何故なら、火のともされていないロウソクは、いかに太くまた長くとも実のならぬヤシの樹や枯れ木の山とかわらないからである。

「花のような顔をした者はすねたり恋愛遊戯にふけったりし、     残忍な美人はつんとしたり、こびをうったりするかもしれない。     しかし、醜い者の内等には歓迎されず、見えぬ目の苦病は痛く感じるのである」(1.ルミThe Mathnavi 1, 1906-7)

権威ある「伝承」にはこう述べてある――「学識ある者(2「知ること」というアラビアalimaから取られた ‘Ulama’(ウラマ)は学識ある者、科学者、宗教的権威者と翻訳できる。)のひとりになる者は自らを守り、自分の信念を擁護し、己の私情に対抗し、主の命令に従わねばならない。そうして、その者の後にならうことが人々のギブである。」その意味について簡潔に解説するのが適切である。これらの聖なる特質に欠け、避ける事のできない条件を自らの人生において示すことの無い者はみな、学識ある者として言及されるべきでなく、信者として役を果たすにふさわしくない。

これらの必要条件のうちまず最初のものは、自分自身を防護するということである。しかし、これが、災難や物質的試練から身を守ることを意味するのではないことは明らかである。なぜなr、預言者や聖者たちはみな、この世が及ぼす最も激しい苦しみの影響を受け、人間のあらゆる残酷行為や攻撃の的となったのだから。彼らは人々の安寧のために命を犠牲にし、完全に心を捧げて殉死の場へと急いで行った。そして彼らは、」その内的,外的に完全性により、人類を優れた特質の―習慣されたものと生来のものの両方―の新たな衣装で装ったのである。自らを防護することの主な意味は、精神的完全性と物質的完全性の属性を得るということである。

完全性の第一の属性は学識と教養である。そしてこの優れた地位は人が、神に関する複雑で超越した貧利とコーランの政治的・宗教的法律の根本的真理と、他の信教の聖典の内容とこの優れた国家の進歩と文明に貢献する規定や手順に関する徹底的な知識を持ち合わせる時に達成される。それに加えて人は、他の国々の政治を特徴づける法律や原則、慣習や状態や慣習そして物質的・道徳的美徳について知り、その時代の役に立つ学問の分野すべてに精通し、過ぎ去った時代の政府や民族の歴史的記録について勉強すべきである。というのは、もし学識ある者に聖典や神聖なる自然の科学や宗教的法律の分野、統治の状態やその時代の様々な学問、歴史上の偉大なる出来事についての知識がなかったなら、その人は緊急の事態に対処できず、これは、総括的な知識に必要な資格にそわないからである。

例えば、もし、ある精神的で学識あるイスラム教徒がキリスト教徒と討論しており、福音書の栄光ある施旋律について何もしらなかったならそのイスラム教徒は、コーランとその真理についてどれだけ伝えようと、そのキリスト教徒を納得させることはできず、彼の言葉は相手の耳に伝わらないであろう。しかしそのキリスト教徒がそのイスラム教徒はキリスト教徒の根本原則についてキリスト京の聖職者ら自身よりも精通しており、聖典の意味について彼らよりも理解していると感じたなら、そのキリスト教徒はそのイスラム教徒の論拠を喜んで受け入れ、他に頼る者はなくなるであろう。

「追放者らの長」(1.レシュ・ガルタで、バビロンの追放者の王子または統治者で、ユダヤ人はどこにいても、後に敬意で表した。)が、あの聖なる英知と救いと確信の「天体」である。イマム・リダにあった時に、もしあの知識の宝庫であるイマムがその会見において(ユダヤ人共同社会)世襲統治者にふさわしく、また関連した権威に関する論拠を基づかせることに失敗していたなら、後者は決して聖なるイマムの偉大さを認めることはなかったであろう。

さらに、国家は、立法と執行という二つの強力な力を基盤としている執行力の中心は政府であり、立法権の中心は学識ある者らである――そしてもし、この後者の偉大なる支えと柱が欠陥のあるものであったなら、どうして国家が立てると考えられよう?

現在、そのように完全に成長し総括的な学識のある者らを見つけるのは難しく、政府と人民は秩序と指図を非常に必要をしていることを考えると。前述した学者の機関を設けそれぞれのグループが前述した分野のうちのひとつを専門とするようになす。学問の分野のひとつを専門とするそれぞれの学者を進めた現在と未来のあらゆる必要に関して審議し、釣り合いと秩序をもたらすようにすべきである。

今までのところ、宗教的法律は、法廷において決定的な役目を与えられていなかった――というのは、ウラマーはそれぞれ、自分勝手な解決や個人的な意見に基づいて思うままに法令を申し渡してきたからである。例えば、あるふたりが基礎するとしたら、ウラマーのひとりは原告に被告につくのである。さらには、全く同じ事例において、同じムジコタヒードが最初は一方に刺激され、次には別の方向に刺激されたという根拠で二つの矛盾した裁判を申し渡したりすることさえある。このような業務状態があらゆる重要な問題を混乱させ、社会の基盤そのものを危うくさせることは疑う余地のないことである。原告も被告も、最終的に勝つ望みを決して失わず、お互い交代に前の評決を覆す新たな評決を確保することに人生を無駄にするのだから。このようにして、彼らの時間はすべて、訴訟に費やされ、結果としてその人生は有益な活動や必要な個人的業務に捧げられる代わり完全に、論争にまいこまれてしまっているのである。まことに、これらの訴訟関係者はふたりとも政府や共同体にほんの少しも奉仕とならないのだから、死んでいるほうがましである。しかし、もし明確で最終的な評決が出されたなら、正式に有罪と告げられた側は必ずや、事例を再会する望みをあきらめ、そのために安堵し、自分や他人の世話をすることに戻っていくであろう。

人々の平和と平穏を確保する主な手段で、身分の高い者や低い者両方の発展のための効果的なものは、この非常に重要な事柄なので、神の法律に徹底的に精通している、協議会の学識あるメンバーらは、訴訟を解決させるひとつの明白な手順を作り出されなければならない。そうして、このような手順は国王の命令により国の至るところで発行され、その規定は厳守されなくてはならない。この非常に重要な課題は最も緊急な配慮を必要としている。

完全性の第二の属性は正義と公平である。これは、自分自身の個人的利益や利己的な利点のことを考えず、神の法律以外のことに少しも配慮せず神の法律を実行することを意味する。それは、自分自身を全てを所有なさる御方、神の僕のひとりとしてのみ見なし精神的に優れることを熱望する以外には他人からえり抜かれようとはしないことを意味する。それは、共同体の幸福を、自分自身のものとして考えることである。つまり、それは人類をひとりの個人として見なし、自分自身をその身体の一部と見なし、もし苦痛やけがによりその身体のどこかの部分が苦しめられたなら

必然的に残りの部分すべてが苦しむことになるということを知ることである。

完全性の第三の属性は、大衆を教育するために全く誠実で純粋な目的に持って立ち上がるということであり、学識の様々な分野や有用な科学について大衆を教育するために最大の努力をし、現代的な進歩の促進を奨励し、商業や工業,芸術の範囲をひろめ、人々の富を増すような手段を促進することである。人口の大部分は、社会の慢性病を即座に治す薬であるこれらの重要な手段について知らされていないからである。

学者や精神的に学識ある者らが大衆に助言を勧告し、知識という目薬で大衆の目をはっきりとさせるために、不可欠なことである。何故なら、今日人々はその迷信のそこにいるため、次のように---つまり、神とそのしるし、預言者らと神の啓示や法律を信じ、敬けんで神を畏れる者は、神の目においてこの世とその虚栄を捨て去り、次の世に心をすえ、神により近づくために自らを人々から隔離した者として見なされるために、怠惰に日々を過ごさねば鳴らないのだ,と。この事については、この書の別のところでさらに述べるので、今はこの程度にしておこう。

さらに、完全性に関する他の属性は、神を畏れる事、神の僕らを愛することにより神を愛すること、温厚、寛容,平静であること、誠実で従順で情け深くまた慈悲深くあること、決意と勇気と精力と信頼性を持つこと、努力奮闘すること。寛大で忠実であり、悪意を持たぬこと。熱意や誇りを持つこと。高遠な気質を持ち、寛大であること。そして、他人の権利を尊重することなどである。これらの優れた特質に欠ける者はみな、不完全である。これらの属性の一つ一つのうちなる意味について説明するとしたら、『詩は70モーンド(重さの単位で、テヘランでは62/3ポンドにあたる)の紙を必要とするであろう。

知識を持つ者にあてはまるこれらの精神的基準として2番目にあげられるのは、人は、自分の信教を守る者であらねばならないということである。これらの聖なる言葉が、「法律」の意味を探り、崇拝の形式を守り、大なり小なりの罪を避け、宗教的法令を実践し、これら全ての方法によって信教を守るということだけを指しているのでないことは明らかである。それはむしろ全人口があらゆる面において守られること、神の言葉を広め、信者の数を増やし、神の信教を促進し、他の宗教を征するために可能な手段全てを結合させるためできる限りの努力をすることを意味する

まことに、もしイスラム興の宗教的権威者らがこれらのことについて義務どうりにやり通していたなら、今までには地上のあらゆる国が神の単一性の避難所のもとに集められ、「この宗教を全ての宗教の上に置かれよう」(1コーラン 9:33; 48:28; 61:9)という明るい火が、世界の中心で太陽のように燃え上がったであろう。

ルターはもともと、ローマ教皇政府の中心にあるカトリック教の機構の12人のメンバーの一人であり、後にプロテスタント派を創始した人物だが、彼は、キリストの時代から15世紀だったときに、ある教義についてローマ教皇に反対した――例えば、修道僧の結婚の禁止や12人の「使徒」達や過去のキリスト教指導者らの像をあがめてその前でお辞儀をすることや、福音書の法令に付加されたその他の様々な宗教的習慣や儀式などである。当時、ローマ教皇の権力はたいへんなもので、また、彼は非常な累敵でみられていたので、ヨーロッパの国王らは彼の前で震え、また彼はヨーロッパの主な業務をすべて、その強大な手中に治めていたのである――それにもかかわらず、宗教的指導者らが結婚することの自由や協会の偶像や絵画を崇拝したりその前でひれ伏したりすることを避けること、そして福音書につけ加えられた儀式を廃止することに関するルターの見解は明らかに正しいものだったので、また、彼の見解を広める適切な手段が用いられたので、過去400年と少しのあいだに、アメリカの人口の大部分ドイツやイギリスの人口5分の4、オーストリア人の大部分など合計約125,000,000人他のキリスト教宗派からプロテスタント教会に加入していったのである。この宗派の指導者らは」、それを促進するためにいまだに出来る限りの努力をし、今日、アフリカの東海岸では、一見スーダン人や様々な黒人民族を解放するため、学校や大学と設立し、全く野蛮なアフリカの部族らを教育し、文明化させようとしているが、彼らの本当の主な目的は、黒人のイスラム教徒の部族のいくつかをプロテスタント派に改宗させることである。あらゆる共同体は自らの民族の発展のために骨を折っているというのに、われわれ(つまりイスラム教徒ら)は眠り続けている!

この人物を動かした目的が何であり、彼がどこへ向かって進んでいたのか明らかでないが、プロテスタント派の指導者らの熱心な努力によりいかに、彼の教義が至るところに広まったか見よ。

さて、もし、神の確証を受け、神の聖なる援助の対象である。唯一にして真なる神の優れた民族が全力を出し切り、神を信頼し神以外のすべてから顔をそむけ、完全な献身を持って、信教を広めるやり方を採用し、その目的のために出来る限りの努力をしたなら、神の聖なる光が地球全体をおおいこむことは確かである。

いく人かの者は出来事の表面の下にある真理に気づかず、世界の脈をその指で感じることができず、また、この偽りという慢性の古い病気を癒すためにはどれだけ大量の真実という薬を投与しなくてはならないかを知らずに、信教は剣によってのみ広める事ができると信じ、「われは剣による預言者である」という「伝承」にてその意見を支持するのである。しかし、もしそのような人々がこの事柄について注意深く調べるならば、この日そしてこの時代、剣は信教を広めるために適切な手段でないことがわかるであろう――なぜなら、それはただ、人々の心を嫌悪と恐れでみたすだけだから。ムハンマドの聖なる法律によれば、(イスラムの)品教を認め受け入れさせようと「経典の民」を強制するのは許されていない。人類を真実へ導くことは、神の単一性を誠実に信じるすべてのものの神聖なる義務ではあるが、「われは剣を持つ預言者であるそして人々が『神の他には神はいまさぬ』というまで彼らの命を脅かすよう、われは命ぜられている」という「伝承」の言葉は、「無知の日々」の偶像崇拝者らのことを指すのである、彼らはその盲目せいと残忍性のために人間以下のレベルに落ち込んでしまったのである。剣の突さにより生じた信仰などはほとんど頼ることはできず、ささいなことで、誤りと不信に戻ってしまうのである。ムハンマドが昇天なさり、「強力なる王のみもとの真実の座」(1cf.コーラン54:55)にいかれた後、メジナ周辺の部族は信仰を捨て、異教時代の偶像崇拝に戻ってしまった。

神の霊(イエスキリスト)の聖なる域がその甘い香りをパレスチナやガラリヤ、ヨルダンの岸辺、エルサレム周辺の地域に放ち、福音書のすばらしい旋律が精神的に啓発された者らの耳に鳴り響いていたとき、アジアやヨーロッパ、アフリカ、アメリカそして(太平洋やインド洋のしまや群島を構成している)オセアニアの民族は火の崇拝者や異教徒である、「聖約の日」(2.コーラン7:171 神がアダムの子孫となるべき者らに「われは汝らの主ではないか」とおっしゃり、彼らが「そうです。私たちは証言します」と返事した日)に発言した「聖なる声」について知らなかったことを思い起こしてみよ。ただ、ユダヤ人だけ神の神性と唯一性を信じていた。イエスがその使命を宣言なさった後、彼の御口の生気を与える息は3年のあいだ、それらの地域の住民に永遠の生命を授け、そのとき、病み苦しむ世界の身体に不可欠な、治癒薬であったキリストの法律聖なる啓示により確立されたのである。イエスの日々には、ほんの幾人かが神の法へ顔を向けたのみであった――実際、12人の使徒といく人かの女性のみが真に信者となり、その使徒のひとりイスカリオテのユダは信仰を捨て残った使徒は11人となった。イエスが「栄光の領域」へ昇っていかれた後、これらのいく人の者らは精神的な特質と清く聖なる行動を持って立ち、地上のすべての民族を救うため神の力とメシヤの生命を与える息とにより立ち上がった。そうしてユダヤ人や偶像崇拝とするあらゆる国々は、エルサレムのランプにともされた神の火を消すために強力に立ち上がった。「彼らは自らの口をもって神のみ光をけそうとしている。しかし、たとえ背信者らが嫌っても、神は必ずみ光をまっとうしたまわずにはおかれない。」

(1.  コーラン9:33)そのもっとも激しい拷問により、彼らは、これらの聖なる者らをみな、死に追いやった――彼らは、肉屋の大包丁でその何人かの清く汚れのない身をずたずたに引き裂かれ、かまどで身体を焼き、また、何人かを拷問台に置いてそのまま生き埋めにした。このような苦悶の報いにもかかわらず、キリスト教徒らは神の大業を布教し続け、また、剣をさやから抜くことは決してなかったし,ほおにかすり傷を負わせる事もなかった。そうしてついにはキリストの信教は地球全体をおおい込み

そしてヨーロッパやアメリカには他の宗教のあとかたはなく、今日アジアやアフリカやオセアニアの大部分の人々は、四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の4書)の聖域の中で生活している。

以上のような反ばくできない証拠により、神の信教は人間の完全性により、優れていて好ましい特質や精神的に優れたふるまいにより広められねばならないことが十分にしめされた。もし人が自ら進んで神の方へ進んでいくならば、その人は、「単一性の敷居」においてうけいれられるであろう――なぜなら、そのような人は個人的な利害に関する考慮や貧欲、利己的な関心がなく、主のご加護の下に避難所を得たからである。そのような者は、信頼性があり、正直な者として、また温和で慎重で、高遠な心を持ち忠実な者として、清廉で神を畏れる者として、人々のあいだで知られるのであろう。このようにして、神の法律が啓示される主な目的――それは次の世において幸せをもたらし、この世において文明をもたらし人格を洗練することであるが―― が達成されるであろう。剣に関して、それは外見上は信者であるが内面的には裏切り者であり背信者である者をつくり出すだけてある。

ここで、すべての者に対して模範を示す話をしよう。アラビアの年代記にムハンマドの到来の前に、(ぬかします)の息子であるヌマンがワインを何度も口にしたため、知性が鈍り、理性を失ったことについて述べられている――この――は「無知の日々」のアラビアの国王であり、その統治の中心地はヒリイであった。このように酔いしれ、人事不肖」とも言える状態で彼は、非常に親密で気の合った自分の友人であるカリド(ムダリルの息子)とアムル(マスド・カルディの息子)を殺すように命じた。その浮かれ沢木から目を覚ました彼はそのふたりの友人のことを尋ねると、その悲しい知らせを告げられたのだった。彼は心から悲しみ、その友人たちへの強い愛と切望から、彼らの墓の上に二つの華麗な記念碑を建て、これらを「血によって染まったもの」と名づけた。

そうしてアマンはこのふたりの友達を記念して、一年のうち二日を選び一方を「邪悪の日」もう一方を「恵みの日」と呼んだ。毎年、この定められた二つの日に彼はものものしくまたはなやかに現われ出てこの二つの記念碑のあいだに座るのであった。もし「邪悪の日」に彼がある者を見かけたらその者は殺されるのだったが、「恵みの日」に(そこを)通りかかったものはみな、贈り物や恩恵により圧倒されるのであった。かれは、そのようなきまりを定めそのきまりは固い制約により封ぜられ。常に厳守されたのである。

ある日その国王はマフムドという名の馬に乗り、狩りをするために平原へ出かけて行った。突然彼は、野生のロバを遠くに見かけ、それに追いつこうと馬をせき立てたが、あまりにも早く疾駆させたため、彼は従者たちから離れてしまった。夜が近づいてくると、国王は絶望的にも満ちに迷ってしまった。そうして、彼は、砂漠のはるか遠くに天幕を見つけ、馬の向きを変え、そこへ向かって進んで行った。その天幕の入り口まで来ると、彼は「泊り客を受け入れてもらえないだろうか」と尋ねた。その天幕の主(アビ・ガフレイ・イ・タイの息子ハンザラであった)は「もちろんです」と答えて天幕から出てきてヌマンが馬から降りるのに手を貸した。そうしてハンザラは妻のところへ行き、こう言った――「この人物の態度には明らかに偉大さのしるしが現れている、この方にもてなしを示すために最善を尽くし、祝宴の」容易をしなさい。」妻はこう答えた――「雌羊がいるからそれをいけにえにしてください。それから私は、このような日のために小麦粉を少し取っておきました。」ハンザラはまず、その雌羊の乳をしぼり、わん一杯のミルクをヌマンのところへ持って行き、次に雌羊を殺して食事の用意をした。ヌマンはその夜、ハンザラのすばらしい有効と慈愛とにより平穏から安楽にすごしたのである。夜明けが訪れ出発する準備をしているとき、ヌマンはハンザラに言った――「あなたはわたしを接待し、ごちそうをしてくれ、最高の寛大さを示してくれた。わたしはムンディルの息子でヌマンである。わたしはあなたが宮廷に来るのをしきりに待っている。」

時が過ぎ、飢餓がタイの地を襲った。ハンザラはとても困窮し、それで国王の助けを求めた。奇妙な偶然で、彼は「邪悪の日」にやってきた。ヌマンは非常に困惑し、次のように言って、その友人をとがめ始めた――「あなたはなぜ、あらゆる日の中でこの日に、友人に会いにきたのか? この日は『邪悪の日』つまり『激怒の日』『心痛の日』である。この日、もしわたしが、わが唯一の息子であるカブスを見かけたとしても、彼は死から逃れることはできないのである。さあ、願いがあるなら何でも聞くがよい。」

ハンザラはこう答えた――「わたしは、あなたの『邪悪の日』について何も知りませんでした。この世の贈り物についてですが、それは、生きている人のためのものであり、わたしは今、死を味わわなくてはならないのですから、世界中のすべての倉庫の物が今、わたしに何の役に立つと言うのでしょう。」「このことには救いようがない」――とヌマンは答えた。そしてハンザラは言った-―「それではわたしが妻のところへ戻って遺言を載せるよう猶予を下さい。そして来年の『邪悪の日』にわたしは戻ってきましょう。」

そうしてヌマンは、保証人を求め、もしハンザラが約束を破ったならこの保証人が代わりに殺されるとした。無力で当惑したハンザラは、自分のまわりを見回した。そうして、ヌマンの従者のひとりでシェイバンのクイズの息子であるアムルの息子のシャリクに目がいき、ハンザラはシャリクに向かって、次のような言葉を唱えた―-「おお、わが仲間よ、おおアルムの息子よ!死を逃れる道があろうか?おお、あらゆる苦しめられた者の同朋よ!おお同胞なき者の同胞よ!おお、ヌマンの同胞よ、今、シェイクの保証はあなたの内にある、崇高なる者シェイバンはどこにいるのだ?――すべてに慈悲深き御方が彼に行為を示されんことを!」しかしシャリクその代わりにカラドを殺すことにより、アンザラのもてなしに報いることであった。そうして、日が沈みはじめると、カラドの服は剥ぎ取られ、首を切る準備がなされた。そのとき、最高速度で馬を駆けさせて来る者が遠くに現れた。ヌマンが剣士に「なぜまだ首を切らぬのか?」と尋ねると、大臣たちは「たぶん、今やってきているのはハンザラでしょう」と言った。そうして、その馬に乗った者が近づいてくると、彼らはそれがハンザラその人であることがわかった。

ヌマンは非常に腹を立てた――「この愚か者め!お前は一度、死の手から逃れたというのに、もう一度、死を挑発させねばならないのか?」

ハンザラはこう答えた――「誓約を果たすということを思えば、死の毒は口に甘く、舌にこころよいものであります。」

ヌマンは尋ねた――「このような信頼性を示し、その義務と誓いにこのように配慮するのは何故か?」ハンザラはこう答えた――「それは唯一なる神と、天から下されたもろもろの書に対するわたしの信念です。」「お前の告白する信仰は何か?」とヌマンが尋ねると、ハンザラは答えた――「それは、わたしにたったひとりの人物、砂漠に住む者である外見的には人に知られず地位もなかった彼が、心の清き者の特質の一つを示しだしたために、いかに、このうぬぼれた統治者やその他多くの者らを不信の暗き夜から救い出して救いの朝へ導くことができ、偶像崇拝の地獄から彼らを救い出して神の唯一性の岸辺へ連れていくことができ、社会全体で破滅させ人々を野蛮にするような習慣を終わらせることができたかについて教えてみるがよい。人は、これについて深く考え、その意味をつかみ取らねばならない。

わたしの心は痛んでいる――なぜなら、人々の注意は、この日とこの時代にふさわしいことの方へ向けられていないことが、わたしには非常に残念に思われるからである。「真理の太陽」は世界の上に昇ったのだが、われわれは、自らの想像のわなにかかってしまっている。「最大の海」の水はわれわれのまわりでうねりを上げているのだが、われわれはは、かわききり、のどの渇きで弱くなっている。聖なるパンは天から降りてきているのだが、われわれは、飢餓に襲われた土地で探し求め、よろめいている。「泣くことと話をすることで、わたしは日々をぐずぐずと過ごしている。

他の宗教の人々が神の信教を避け、それに改宗されなかった主な理由のひとつは、狂信と理性をわきまえない宗教的熱意である。たとえば、「救いの箱舟」にして「輝かしき御顔」であり「人類の主」であるムハンマドに話かけられた聖なる言葉、人々に対して優しくし辛抱強くあるよう彼に命じた言葉について考えてみよ――「もっとも優しいやり方で彼らと議論せよ。」(1.コーラン16:126)「東のものでもなく西のものでもない」(  2.コーラン24:35 )光を持ち図り知れない恵みの籠の影を地上のすべての民族の上に投げかけたあの「祝福された樹」はあらゆる人と接することを扱う時にも限りない優しさ

と辛抱強さをお示しになった。同じように、モーゼとアロンは、次のように、「くいの主」であるファラオに挑みかけるように命ぜられた――「彼に向かってものやわらかに話せ。」4コーラン20:46)

神の預言者らや、聖なる者らの高潔なふるまいは広く知られており、また、まことに、それは「時」が来るまで、生活のあらゆる面において全人類が従うべき優れた模範であるのだが、ある人々はこれらの、並はずれた同情心や慈愛の特質について怠り、それらから隔離

され、もろもろの聖なる書の内なる意味について知ることから妨げられているのである。彼らは、自分たちの宗教以外の宗教の信奉者用心深く避けるだけでなく、そのような信奉者らに普通の礼儀を示すことさえも自らに許しはしないのである。もし他人と交わることを自分に許さなかったら、どうやって「神は存在しない」といった否定の態度の暗く空しい夜から「神以外に」という信念と肯定の朝へその人を導くことができようか?そしてどうやって地獄と無知の底から抜け出して救いと知識の高所へ昇るよう、その人を励ますことができよう?公平に考えてみよ――もしハンザラがヌマンを、真の友情によって扱い、彼に親切ともてなしを示していなかったら、ハンザラはその「国王」と、その他数多くの偶像崇拝者らを、神の単一性を認めるようになすことができたであろうか?人々から遠ざかり、人々を避け、厳しい扱い方をするのは人々をしり込みさせるのに反し、愛情と思いやり、温厚さと辛抱は人々の心を神の方へと引き付ける。もし真の信者が、外国からのある人と会ったときに嫌悪感を示し、外国人との交わりを

禁じたり外国人を「汚れた」などとよんだりしてひどい言葉を発したなら、その見知らぬ人は非常に悲しみ、感情を害され、決して信教を受け入れはしないであろう――たとえ、まさにその目の前で月が裂けるという奇跡を見たとしても。その人を避けることによって生じる結果は次のとうりである。――つまり、もし心の中にわずかにも神へ向かう態度があれば、そのことについて悔やみ、信仰の海から忘却を不信の荒地へと逃げていくであろう。そうして自国の自分の家へ帰ると、これこれの国は文明化した人々の資格に全く欠けているという意の言明を報道記事にのせるであろう。

もしわれわれが、コーランの節や証明「神の単一性」の天の星である「聖なるイマム」たちから下された伝承の説明についてしばらく黙考するなら、次のことを確信するであろう――つまり、もし人が真の信仰の属性を授けられ、精神的な特質により特徴づけられているなら、全人類に対する、神の差し伸べられたご慈悲のしるしになるであろうという事実である。信念ある人々の属性は正義と公平な態度、辛抱と憐れみと寛大、他人への思いやり、正直と信頼性と忠誠愛と慈愛、献身と決然とした態度と人間性なのだから。それゆえに、もし人が真に高潔であるなら、人々の心を引けつけるこれらの手段の全てを役に立たせ、神の属性を通じて人々を信仰の一直線の道へと導き、人々に永遠の生命の川から取って飲むようにさせるであろう。

今日、われわれはあらゆる公正な行為に目を閉じ、社会の永続的な幸福を自分自身の一時的な利益のために犠牲にして

――つまり、もし人が真の信仰の属性を授けられ、精神的な特質により特徴づけられているなら、全人類に対する、神の差し伸べられたご慈悲のしるしになるであろうという事実である。信念ある人々の属性は正義と公平な態度、辛抱と憐れみと寛大、他人への思いやり、正直と信頼性と忠誠愛と慈愛、献身と決然とした態度と人間性なのだから。それゆえに、もし人が真に高潔であるなら、人々の心を引けつけるこれらの手段の全てを役に立たせ、神の属性を通じて人々を信仰の一直線の道へと導き、人々に永遠の生命の川から取って飲むようにさせるであろう。

今日、われわれはあらゆる公正な行為に目を閉じ、社会の永続的な幸福を自分自身の一時的な利益のために犠牲にしてしまっている。われわれは狂信や熱狂的行為を自らの名声や名誉を生じるものと見なし、また、これだけに満足せず、お互いを弾劾し、お互いの破滅を企み、堅さや学識、美徳や神こうしさを見せびらかしたいと思うときにはこの人やあの人をあざけったりののしったりするのである。われわれは、次のように言ったりする――「そのような人の考えは的からはずれており、だれそれの行動は遺憾な点が多い。ゼイドの宗教的儀式はほとんどなく、感覚がとても離れていて、アルムは信仰がしっかりしていない。だれそれの意見はヨーロッパくさいところがある。根本的に言って、ブランクは自分の名前と名声のことしか考えていない。昨夜、改宗が祈りの為に立ち上がったとき、列がはみ出していた。違った指導者を記念として、慈善のために何も捧げられていない。宗教の構造がぐらつき、信仰の基盤が風邪に吹き飛ばされてしまっている。信念のじゅうたんは巻きあげられ、確信のしるしは消し去られ。全世界は過ちに陥っており、残虐行為を消し去ることになるとみな、穏やかで無気力である。月日がたってもこれらの村や土地はまだ、去年と同じ所有者のものである。この町にはかつて七十もの異なる行政機構が秩序正しく機能していた。徐々にその数が減少し、今ではその思い出として二十五だけが残っているのみである。かつては同じムフティーによって一日に二百もの矛盾した判決が出されていた。今では五十にも満たないくらいである。当時は訴訟によって気が狂いそうな人たちが大勢いたが、今、その人々はやすらいでいる。また、今日、原告が負け被告が勝ったかと思えば明日は原告が勝ち被告が負けるといったようなすばらしい習慣も今では捨てさられている。この異教徒の宗

教、偶像崇拝的な過ちは一体何だ!『法律』と『信教』にとってまことに悲しむべきことであり、また、これらの惨事もすべて悲しむべきことである。おお、信教における同胞者たちよ!これはまことに世の終りある!『(最後の)審判』がやってきているのだ!』

このような言葉で、彼らは無力な大衆の頭を攻撃し、すでに当惑している貧しき者らの心をかき乱しているのである――そしてこれらの貧しき者らは振の状況やそのような話の真の基盤について何も知らず、ある人々の宗教的に雄弁な話といわれているものの背後には一千もの利己的な目的が隠されていることを全く知らずにいるのである。彼らは、このような話をする人々は高潔な熱意により動機づけられていると思っているが、実はそのような人々は大衆の幸福に自らの個人的な破滅を見出だし、もし人々の目が開けられたら自分たちの光が消え去ると信じているので(非難の)叫び声を上げ続けているのである。もっと鈍い洞察力を持った者だけが、もしこれらの人々の心が真に、神の正義を神への畏れにより動機づけられたなら、その芳香はジャコウのように至るところに広まるという事実に気付いているのである。この世で、言葉だけによって支えることのできるものは何もないのである――

しかしこれらの不吉なフクロウは過ちを犯し白いタカが鳴くような鳴き方を覚えてしまった。そして、サンカノゴイがタゲリの鳴き方を覚えたらタゲリが持ってくる。シバのメッセージはどうなのか?(cfコーラン 27:20)

限りない意義と英知を「神の啓示の書」から得、啓発された心が目に見えざる神の世ら霊感を得ている、精神的に学識ある者らは、あらゆる面において、そして全ての民族の上に、神の真の信奉者らの至高の地位をもたらすために努力し、進歩のためになるあらゆる手段を用いるよう努めるのである。もし誰でも、これらの高遠な目的をなおざりにするなら、そのような人は神の目において決して受け入れられはしないのである――そのような人は自分のすべての欠点とともに目立ち自分が完全であると完全性を主張し、また、貧困のために富を要求するのである。

不活発で目が見えず、気難しい者は惨めである――

足も翼もない肉の固まり」

知識や純潔性や献身、規律正しさや自主性は、外見的な見かけや服装とは全く関係のないものである。わたしは、旅をしている時一度、ある著名な人物が次ぎのようなすばらしい発言を耳にしたことがある――その言葉の機知と魅力は今も記憶に残っている――「あらゆる聖職者のターバンが必ずしも自制と知識の証拠があるわけではなく、あらゆる俗人の帽子が必ずしも無知と不道徳のしるしであるわけではない。いかに多くの帽子がほこり高く司式の旗を掲げ、いかに多くのターバンが神の法律を引き降ろしたことか」

今、話にあげている発言の第三の要素は、「己れの情欲に反対せよ」ということである。この、簡単なように思えるすべてを含む言葉の意味することは何とすばらしいものであることか。これが、人間のあらゆる賞賛されるべき特質の基盤である。まことに、このいくつかの言葉は世界の光と、人間のあらゆる精神的な特質を具現している。これが、あらゆる行動の平行論であり、人のすべての善良な特質を均衡に保っておくための手段である。

なぜなら欲望は、学識ある者らの生涯かけて集めた収穫を一度に灰にしてしまう炎であり、彼らの蓄積された司式の広大な海でさえも消すことのできない破壊的な火だからである。あらゆる人間らしい属性によって恵まれ、真の理解力の宝石を身につけていた人が己れの情欲に従ってしまい、ついにはその優れた特質が中庸を越してしまい、過度な方向へ強いられてしまったことが何度あったことであろう。その人の純粋な意図は邪悪なものに変わってしまい、その人の属性はもはや、それにふさわしい使い道に用いられず、その人の欲望の力はその人を廉直なことからそらしてしまい、その力の報酬を危険で暗い道へと向けてしまったのである。善良な人格は、神とその選ばれし者ら、そして洞察力ある者らの目においてすべてのものの中でもっとも優れ、賞賛さるべきものであるが、それは常に、その発散の中心が理性と知識であり、その基礎が真の中庸であるという条件に基づいている。もしこの主題の意味についてそれに値するように述べ始めたら長くなりすぎ、われわれの主な論題を見失ってしまうであろう。

ヨーロッパの民族はすべて、彼らが りとする文明にもかかわらず、恐ろしい情欲と欲望の海に沈み、おぼれてしまっており、それゆえに、彼らの文化の現象はすべて、無に帰しているのである。この言明に対して誰も驚いたりそれを嘆いたりすべきではない。強力な法律を規定し、文明のあらゆる面を取り扱う偉大な原則や機構を設定することの主な目的、基礎的な目標は、人類の幸福である。そして人類の幸福は、全能なる神の「敷居」により近づき、身分の高低にかかわらず人類のあらゆるメンバーの平安と幸福を確保することにのみあるのである。そして、この二つの目的を達成するための最高の手段となるのは、人類が授けられている優れた特質なのである。

洗練された道徳観により支えられていない浅薄な文化は、「もつれあった夢」(1.コーラン 12:44; 21:5)であり、内的な完全性のない外的な光沢は「渦く者が水かと思う砂漠の蜃気楼のよう」(2.コーラン24:39)である。なぜなら、神のお望みにかない人々の平安と幸福を確保するような結果は、単に外的な文明においては十分に得ることができないからである。

ヨーロッパの人々は、その意見や行動がはっきりと示しているように、より高遠な精神的文明の段階に達してはいない。たとえばヨ-ロッパのもろもろの政府や民族の最高の望みが今日、お互いを征服し押しつぶすことであり、また、密かにもっとも激しい嫌悪感をだきながら親しみある愛情や有効や調和の言葉を表現しているのを見るがよい。

(これに関して)ある統治者にまつわるよく知られた事例がある.――その統治者は、平和と平穏を促進しながら同時に、武器をたくわえ、より大きな軍隊を作ることに、戦争家よりも精力を捧げており、その根拠は平和と調和は武力によってのみもたらすことができるというものである。平和が口実となり、彼らは戦争の武器と積み上げるために日夜出来る限りを尽くしている。そしてこのために、みじめな人々はその汗と尽力によりかせぐんとのできるもののほとんどを犠牲にせねばならないのである。何千という人々が役に立つ事業での仕事をあきらめ、人間の血をこれまで以上に流させる新しくより恐ろしい武器を作るために日夜働いていることか。

彼らは、毎日、新しい爆弾や爆薬を発明する。そうして政府はその古い武器を捨て去り、新しい武器を作り始める。古い武器は新しい武器にかなわないからである。たとえば、今この書を記しているAH1292年、ドイツでは新しいライフル銃が発明され、オーストリアでは青銅の大砲が発明された――これらはMartin-Henry ライフル銃やクルップ砲よりも火力がり、効力をより速く発し、人類を絶滅させるのにより能率的なのである。そしてその圧倒的な費用はすべて不運な大衆によって負担されなくてはならないのである。

公平であれ――真の文明によって支えられていないこの名ばかりの文明は人々の平安と幸福をもたらしたり、神のお望みにそうことができるであろうか?それはむしろ、人の財産を破壊し幸福と平安の柱を引き倒すことを暗示してはいないだろうか?

キリスト教紀元の1870年に起きた普仏戦争では、60万の人々が戦争で打ちのめされ命を失ったと報告されている。いかに多くの家が根こそぎ破壊され、いかに多くの町が前の晩には栄えていたのが夜が明けたら押し倒されていたことか。いかに多くの子供が孤児となり、捨て去られ、いかに多くの年老いた父親や母親が自分たちの人生の若い実である息子たちが塵と血の中で身をひねりしんでいくのを見なければならなかったことか。(そして)いかに多くの女性が夫を失い助けてくれる者も守ってくれる者もなくなったことか。

それからフランスの図書館や壮麗な建物は燃え上がり、病人や負傷した人々でいっぱいの軍隊の病院は燃え、地面まで焼き尽くされてしまった。それから、対抗する派がパリのとおりでお互いを戦い殺し合ったときの革命政府の恐ろしい出来事や野蛮な行為や破滅や惨事があい続いた。カトリック教の宗教指導者らとドイツ政府の間には憎悪と敵視感があった。それから、共和国の党派とスペインのCarlats?のあいだには市民の争いや動乱、流血や打ちこわしがあった。

ヨーロッパが精神的に未開であることを示すそのような例は有り余るほどある。著者は、誰に対しても中傷したいとは思わないので、このいくつかの例だけにとどめた。理解力あり、情報に通じた者が誰も、そのような出来事を奨励することなどできないことは明かである。もっとも人間らしい行動とは正反対に、そのような残虐行為が自分たちのあいだで起こっている民族が、十分で真の文明をもっていると称することは正しく適切なことであろうか?特に、このことが一時的な勝利以外何の結果も望めないなら、そしてこの結果は決して持続するものではないゆえに、それは賢い者にとって、尽力に値しないのである。

何世紀にもわたってくり返し、ドイツはフランスを征してきた。そして何度もフランスの国王はドイツの地を統治した。われわれの時代に60万もの無力な人々がそのような名ばかりのそして一時的な利益と結果のために犠牲にされることがわかるくりである。しかし情欲の追求は一千のベールに人の目を包み込む――そしてそれらのベールは外なる目に肉なる目をさえげるために心の中からあらわれるのである。

いく人かの公園な心を持つ優れた統治者ら――献身と決意の輝かしい具現者たち――が全人類の利益と幸福のために、確固とした決意と明確な洞察力をもって国際平和の大業を確立しようと立ち上がるとき、真の文明は世界の中心にてその旗をひるがえすのである。そのような統治者らは平和の大業を全般的協議の目標とし、世界中の国々の結合を確立するためにできる限りを尽くさねばならない。また彼らは業務的な条約を結び誓約を交わせねばならず、それらの規定内容は健全で犯すことができず、明確なものでなければならない。彼ら輪それを全世界に宣布し、全人類の許可を得なくてはならない。全世界の平和と幸福の真の源であるこの最高にして崇高なる事業に地上に住む全ての人々により神聖なものとして見なされねばならない。人類の全軍事力はこの「最も偉大なる誓約」の安定と永久性を確保するために動員されねばならない。このすべてを包み込み「協定」においては、それぞれの国の境界線や国境が明確に定められ、政府同士の関係の根底となる原則が明瞭に規定され、すべての国際的な協定や義務が確認されねばならない。同じように、あらゆる政府の軍事力の規模は厳重に制限されねばならない。――なぜなら、どの国の軍備や軍事力が増すのが許されたとしても、他の国々の不審をかうからである。この厳粛なる『協定』の根本原則はしっかりと定められねばならず、もしある政府が後にその規定のうちどれかに違反したなら、地上のすべての政府が立ち上がってその政府を、屈服させる、いや、人類全体として、可能な限り手段を用いてその政府を減らそうと決意を固めるもどにならねばならないのである。もし、すべての治療薬のうち最高であるこの薬が世界の病める身体にあてがわれたなら、それは必ずその病から回復し、永久に安全の身となるであろう。

もしそのように幸福な状態がやってくるとしたなら、どの政府も断続的に平気をつみ

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著者は、誰にたいしても中傷したいとは思わないので、このいくつかの例だけにとどめた。理解力あり、情報に通じた者が誰も、そのような出来事を奨励することなどできないことは明らかである。もっとも人間らしい行動とは正反対に、そのような残虐行為が自分たちのあいだで起こっている民族が、十分で真の文明を持っていると称することは正しく適切なことであろうか?特に、このことが、一時的な勝利以外何の結果も望めないなら、そしてこの結果は決して持続するものではないゆえに、それは賢い者にとって、尽力に値しないのである。

何世紀にもわたって繰り返し、ドイツはフランスを征してきた。そして何度も」フランスの国王はドイツの地を統治した。われわれの時代に、60万もの無力な人々がそのような名ばかりのそして一時的な利益と結果のために犠牲にされることが許されようか?いや、主なる神にかけて!子供でさえもその邪悪なことがわかるくらいである。しかし情欲と欲望の追求は一千のべ-ルに人の目を包みこむ――そしてそれらのベールは外なる目に内なる目をさえぎるために心の中から現れるのである。

幾人かの高遠な心を持つ優れた統治者ら――献身と決意の輝かしい具現者たち――が全人類の利益と幸福のために、確固とした決意と明確な洞察力をもって国際平和の大業を確立しようと立ち上がるとき、真の文明は世界の中心にてその旗をひるがえすのである。そのような統治者らは平和の大業を全般的協議の目標とし、世界中の国々の結合を確立するために出来る限りを尽くさねばならない。また彼らは義務的な条約を結び誓約を交わさねばならず、それらの規定内容は健全で犯すことができず、明確なものでなければならない。彼らはそれを全世界に宣布し、全人類の認可を得なく当てならない。全世界の平和と幸福の真の源であるこの最高にして崇高なる事業に地上に住む全ての人々により神聖なものとして見なされねばならない。人類の全軍事力はこの「もっとも偉大なる誓約」の安定と永久性を確保するために動員されねばならない。このすべてを包み込む『協定』においては、それぞれの国の境界線や国境が明確に定められ、政府同士の関係の根底となる原則が明瞭に規定され、すべての国際的な協定や義務が確認されねばならない。同じように、あらゆる政府の軍事力の規模は厳重に制限されねばならない――なぜなら、どの国の軍備や軍事力が増すのが許されたとしても、他の国々の不審をかうからである。この厳粛なる『協定』の根本原則はしっかりと定められねばならず、もしある政府が後にその規定のうちどれかに違反したなら、地上のすべての政府が立ち上がってその政府を屈服させる、いや、人類全体として、可能な限りの手段を用いてその政府を屈服させる、いや、人類全体として、可能な限りの手段を用いてその政府を減らそうと決意を固めるほどにならねばならないのである。もし、すべての地廃業のうち、最高であるこの薬が世界の病める身体にあてがわれたなら、それは必ずその(もろもろの)病から回復し、永久に安全の身となるであろう。

もしそのように幸福な状態がやってくるとしたなら、どの政府も断続的に兵器をつみ上げようとする必要はなく、人類を征服するために常に新しい兵器を作らねばならないと感じる必要もなくなるということを考えよ。必要なのは国内の保全をもたらし、犯罪や公安妨害を正し地方の騒動を伏せ部ためのちいさな軍事力であり、それ以上は必要でない。このようにしてすべての人々はまず何よりも、現在軍事目的のために負わせられている多大な経費の負担から開放されるであろう。第二に大変多くの人々が生命の贈り物とは全く矛盾した食欲を流血のしるしと破壊のためのあたらしい武器を常に考案し続けることに時間を費やすのを止め、その代わりに、人間の生存と平和と幸福を促進するようなことすべてを生じることにできる限り努め、普遍的な発展と繁栄のもととなることであろう。

そうしてあらゆる国は誇り高く統治し、あらゆる民族は平穏と満足のうちに保護されるであろう。

幾人かのものらは、人間の努力の内に潜在する力について知らず、この事を非常に実行不可能を考え、いや人間の最大限の努力にも及ばないものとさえ考えている。しかし、そのようなことはない。それどころか、神の完全なる恵みや神に行為をもたれる者らの慈愛や賢く有能なものらの何者にも匹敵されぬ尽力そしてこの時代の比類なき指導者らの考えや思惑により、達成不可能とみなされるものは何もないのである。(そのためには)努力、たゆまない努力が必要なのである。それを達成させられるのは、不屈の決意に他ならない。過去の時代には多くの運動が全く幻想と見なされていたが、この日、それらはまことに容易で実行可能なものになった。それではどうして真の文明の天空の太陽であり全人類の栄光と発展と幸福と成功のもとである。このもっとも偉大にして高遠な大業が達成不可能とみなされるべきであろうか?いやその美しい光が、人類の会合を明るく照らす日が必ずやってくるであろう。

現在の調子で準備がすすめられていたなら、この争いのための装具は人類にとって戦争が  えされなくなるような段階に達するであろう。すでに述べてきたことにより、人間の栄光と偉大さは血を求め、つめを鋭くし、町を取り壊し破壊を広め軍隊や市民を惨殺することでないことは明らかである。人間にとって明るい未来を意味するのは、公正であることや身分の高低にもかかわらず全人民に対して親切であること。区域やむらや都市や国を建設し、同胞のために生活を楽にさせ平穏かつ幸せにさせること、そして全人口の(生活)水準を上げ富をますこと――これらのことによって名声を博すことなのである。

歴史を通して多くの国王が征服者としてその玉座に座してきたことについて考えてみよ。その中にあげられるのは広大なアジアの大陸を支配したフラグ・カーンやタマレーン、地上五大陸のうち三つの大陸上にその傲慢なこぶしをさし伸ばしたマケドニアのアレキサンダー王やナポレオン一世などである。彼らの強大な勝利によって得られたものは何だったのだろう?それによってどこかの国が繁栄したれ幸福がもたらされたり、だれかの王権が持続ひたりしただろうか?それともそれらの統治者の家系は権力を失っただろうか?  軍なるチンギス・フラグはアジアが多くの戦いにおいて燃え上がり灰にされた以外、そのすべての征服から何の実りも集めはしなかったのである。そしてタマレーンがそのすべての勝利により得たのは風に吹き飛ばされた人々と全体の破滅であった。そしてアレキサンダー王に自分の息子が玉座から振り落とされ、かつて自分が支配していた領土をフィリップとトレミーが征した以外、その広範囲にわたる勝利から示すものはなかったのである。それから、ナポレオン一世がヨーロッパの国王らを征することによって得たのは、繁栄していた国々の破壊とその住人らの滅亡とヨーロッパ中に恐怖と苦悶の声を広めたこと、そして自分の人生の終りころには、自分自身がとらわれの身となったことだけであった。征服者ら、彼らが残していくものについてはこれくらいにしておこう。

これと、「寛大にして公正なる者」アヌシヴァン(1.ササニアの国王で531-578年(AD)に統治した。)の賞賛さるべき特質や偉大さや崇高さを比較してみよ。この公正なる心を持った君主は、かつてはしっかりと確立されていたペルシャの玉座が崩れかけようとしていたときに権力をにぎった。彼はその聖なる贈り物である知性の力により、正義の基盤で築き、虐待と残虐を根こそぎ除去し、散乱していたペルシャの人々を自らの統治権の翼のしたに集めようとした。彼の断続的な努力による影響力により、衰え困窮していた。ペルシャは生命を取り戻し、すべての栄えていた国の中でもっともすばらしい国へと急速に変わっていった。彼は崩壊していた国内の権力を再建し、再強化し、その高潔性と正義の名声は七つの国中(2.I.e.世界中に)こだまし、ついには人々がその堕落とみじめさから出で、至上の幸福と栄誉の高所へと登っていったのである。彼はマギ僧であったが、創造の「中心」であり預言者の地位の「太陽」である。ムハンマドは彼に関してこうおっしゃった――「わたしは公正な国王の時代に生まれたそしてムハンマドは、その国王が、統治しているときにこの世にやってこられたことを喜ばれたのである。この著名なる人物は、その賞嘆すべき特質によって、それともちきゅうを征服し、その人々の血を流そうとすることによってその崇高な地位に達したのであろうか。彼がその偉大さが永遠に鳴り響いているほどに、世界の中心でそれほどすぐれた地位に達し、また、永遠の生命を得たことについて考えてみよ。もしわたしが、偉大なる者の継続する生命について述べるとしたら、この短い小論は角にながくなるであろう。また、それを塾説することによってペルシャの人民の意思が大いに影響を受けるかどうかは決して定かでないのでわたしは、このことを省略により好ましい結果が生じるなら、わたしは、もし神意がかなえば、現象的世界に冠する聖なる英知の根本的原則について十分かつ有効に取り扱った本を何冊か記そう。

正義の軍隊に対しては、地上のいかなる力も勝ることはできない。そしてあらゆるとりでも、その前に屈するのである。なぜなら人々はこの決定的な刀の勝ちほこ振りの前に喜んで倒れ、困窮し土地はこの軍勢も踏みつけられることにおいて栄え、繁栄するのだから。国王の往還に影を落としたときにその政府の影響力を敏速かつ容易に、全地球に貫通させる2つの強大な旗がある――ひとつは英知であり、もうひとつは正義である。

このふたつのもっとも強力な力にたいしては、鉄の岡も勝ることができず、アレキサンダー王の防壁もその前に崩れるのである。この敏速に消え去っていく世は朝の風のようにはかなくまた換わりゆくものであることは明らかであり、それゆえに、善良な名前を後に残し、また、神のお望みの道において過ごされた人生の思い出を残していく偉大な者らは何と幸いなことであろう。

征服することは賞賛さるべきことであり得るし、戦争が平和の強力な基盤となるときもあり、また、破壊が再建そのものの手段となるものもある。たとえばもし、高速な心を持った統治者が反乱者が攻撃者の攻撃を阻止するために軍隊を送るならまた、分裂した国家や人民を統治するために出陣し、名をあげるなら、又短く言って、公正な目的のために戦争を起こすなら、子の外見的には正義の本質そのものであり、この戦争は平和の柱医師である。今日、偉大な統治者らににつかわしい任務とは、国際平和を確立することである――なぜならそこに、全ての民族の自由があるかあである。

救いの道を指し示す前述の『発言』の四番目の段階は、「己の主の命令に従う事」である.人の最高の特異点が神の見前で謙虚であり又神に従順である事であるのは明らかである.又、人の最大の栄光と最も崇高な地位と栄誉が神の命令と禁止令を厳密に守ることに依存している事は明らかである。

神の宗教の根本について適切に調べた事が無く、宗教の基本として幾人かの宗教的な偽善者の行動を用い全ての宗教人をそのような尺度で判断し、それにより、宗教は進歩の妨げ隣、不和を生じる要因であり、人々の間の悪意と敵意感を引き起こす者であると結論を下す――そのような愚かな人々がいるのは事実である.そのような人々は、神の宗教の原則が神の宗教に従うと称している人々の行いによっては評価することができないということ、これだけでさえも理解していないのである.何故なら、あらゆる優れた者は

比類亡き者であっても、間違った目的のために使用されうるからである無知な子供あるいは目の見えない人が手に持つともされたランプは、まわりの暗闇を払いもし泣ければ家を明るくもしない――それは、ランプを持っている人と家を燃やしてしまうのである。そのような場合、われわれはランプを非難することができようか?いや、主なる神にかけて目の見えるものにとって、ランプは案内人であり、自分に道を示してくれるのである――宗教の原則が神の宗教に従うと称している人々の行いによっては評価することができないということ、これだけでさえも理解していないのである.何故なら、あらゆる優れた者は

比類亡き者であっても、間違った目的のために使用されうるからである無知な子供あるいは目の見えない人が手に持つともされたランプは、まわりの暗闇を払いもしなければ家を明るくもしない――それは、ランプを持っている人と家を燃やしてしまうのである。そのような場合、われわれはランプを非難することができようか?いや、主なる神にかけて目の見えるものにとって、ランプは案内人であり、自分に道を示してくれるのである――しかし、目の見えない者にとって、それは、惨事となる。

宗教を否定した人々の中にフランス人のボルテールがおり、彼は宗教を攻撃した多くの書物を書いた―-しかしそれらの書は子供のおもちゃも同然のようなものである。この人物は、ローマ・カトリック教の長であるオーマ法王の怠慢と過失の罪や、キリスト教世界の精神的指導者らの陰謀や争いを基準とし、発言し、神の霊(イエス)を非難したのである。彼はその不健全な論理のために、聖典の真の意味をつかむことができず、啓示された原文の一部に異議を申し立て、それに関した問題について長々と論じたのである。「われは、信者のためには治療となり恵みとなる。コーランを下してやるが、これは不義の徒に」対してはますます損失を与えるばかりである。」(1.コーラン 17:84)

「主はこのようなことで多くの者を迷わしまた多くの者を導きたもう。ただ迷わされるのは悪徳の者どものみ。」(2.コーラン 2:24)

人間の進歩と栄光に達するための最高の手段、世界の啓発と救いの最高の手段となるのが人類のすべてのメンバーのあいだの愛と友好と和合であることは明らかである。和合と一致がなければ、この世では何も達成できないし、また達成できるだろうと思うことさえできないのである。そして、友好と一致をもたらす完全な手段となるのは、真の宗教である。「たとえ地上にあるすべての富を費やしたとしても、汝は彼らの心を結合させることはできないであろう。しかし神はそれを結合させたもうた。。」(コーラン8:64)

神の預言者たちが到来すると、外的にもそして心においても(人々を)結び付けるといる真も結合をもたらす彼らの力が、お互いの血を渇望していた敵意に満ちた人々を、神の御言葉のひとつの避難所へと引き寄せるのである。そうして、十万もの魂がひとつの魂となり、数えきれないほどの人々がひとつの身体としてあらわれるのである。

かつて彼らは、風によって生じた、一つの海の波のようであった。

そうして神がその太陽の光を彼らに投げかけたもうた。

しかし神の太陽には誰とてもなることができない。

犬や狼の魂は別々に進むが、神のライオンたちの魂はひとつである。

(2cf。ムミ(The Mathnavi, Ⅱ 185 &189また、ハディス―「神はその創造物を暗夜の仲に創りたもうた。そして神はその『光』の一部とそれらの上に投げかけたもうた。その『光』が届いたものは正しい道へと進み、それが届かなかったものは」

過去の預言者たちが到来したときにおきた出来事や彼らのやり方や業績やその状況は、権限ある歴史書には十分に記されておらず、コーランや聖なる伝承やモーゼの五書にようやくされて言及されているだけである。しかし、モーゼの時代から現在までのすべての出来事は強大なるコーランや権限ある「伝承」モーゼの五書やその他の信頼できる原典に収められているので、わたしはここでは簡単に言及するだけにしておく。そしてその目的は、宗教が文化と文明の基盤と根本原則そのものであるか。それともボルテールや愛と同じような者らが仮定するようにあらゆる社会的な進歩と幸福と平和を挫折させるものかどうかを決定的にきめることである。

世界中のいかなる人々の反対をきっぱりと除外するために、わたしはすべての国々が同意する権限ある説明に従って話しを進めることにする。

イスラエル人の教えがエジプトで増え、国中にひろがっていたとき、エジプトのコプト人のファラオたちはそのコプト人のみを強化し、彼らに好意を示し、イスラエルの子らを卑しめ、彼らに屈辱を与えようと決めていた――そしてファラオたちは、そのイスラエルの子を異国人と見なしていた。分裂させられ、散らばらせられていたイスラエル人たちは、長いあいだにわたって、残虐なコプト人らの捕らわれの身となり、すべての人々によってさげすまれ、あざけられていた―それによって、もっとも卑しいコプト人らでさえもっとも高貴なイスラエル人を自由に迫害し、彼らに対していばれるように、ヘブライたちの奴隷状態やみじめさや武力さはたいへん悪化し、彼らは昼も夜も、身を守ることもできなければファラオの捕獲者らの残虐行為から妻や家族を守ることもできないほどになった。そして彼らの食べ物は自らの悲しみに打ちひしがれた心のかけらであり、飲み物はあふれ出る涙であった。彼らはこのような苦悶の日々を送り続けていたが、ついに、最高に美しい御方なるモーゼが突然、聖なる「谷間」―それは聖なる地であった―から「聖なる光」が流れ出てるのを見、「東のものでも西のものでもない」(1.コーラン24:35)

あの「樹」のともし火から神の声が発されるのをきいたのである。そうしてモーゼは、その普遍的な預言者の地位と甲冑一式を身につけて立ったのである。モーゼは、イスラエル人たちのあいだで、聖なる導きのランプのごとく輝き出で、救いの光により、その途方にくれた民族を無知の影から知識と完全性へ 導いていたのである。モーゼは、イスラエルの散らばった部族を普遍的で統合力ある神の御言葉へと集め、和合の高所の上に、調和の旗を掲げた―それにより、それらの未開だった者らは短いあいだに精神的に教育され、真理に無知であった者らは神の単一性のもとにあつまりそのみじめさとひんこんに理解力不足と束縛から救われ、最高の幸せと栄誉を得たのである。彼らはエジプトから移住し、イスラエルのもともとの故郷である土地へと向かいカナーンとペリシテにやってきた。彼らはまず、ヨルダン川とエリコを征服し、その地域に定着し、結局、フェニシアやエドムやアモンといった近隣の地域をすべて征したのである。ヨシュアの時代には、イスラエル人の支配化には31の政府があり、この民族は、人間のあらゆる崇高な属性において―(たとえば)学識や安定感や決意、勇気や栄誉や寛大さ―地上のすべての国々をしのぐようになったのである。そして当時、イスラエル人が集まりにやってくると、そのイスラエル人はすぐに、その数多くの美徳のために抜擢され、又、異国の人々を人をほめたときにはイスラエル人のようだと言うのであった。

さらに、ピタゴラスのようなギリシャの哲学者らが、その哲学―聖なる哲学と物質的な哲学―の大部分をソロモンの弟子たちからま何だということは、数多くの歴史書に記されていることである。そしてソクラテスは、イスラエルのもっとも著名な学者や神学者に会うために熱心に旅した後、ギリシャへ戻ってきてからは、神の唯一性の概念や、人間の魂がその塵でできた肉体を捨て去った後も生命を維持するという概念を確立したのである。しかし結局は、ギリシャ人の仲の無知な者らが、英知のもっとも内なる神秘を洞察したこの人物を否定し、かれの命を奪おうと立ち上がった。そうして、人々はその統治者の手を強制し、集められた会議においてソクラテスに、毒をもったコップから取って飲ませたのである。

イスラエル人は、文明のあらゆる段階において進歩を遂げ、最大限のしい工に達すると、少しずつ、モ^ゼの法律と心境の根本原則について忘れ始め、儀式などに忙しく従事し、につかわしくないふるまいを示すようになった。ソロモンの息子であるロホボームの時代には、彼らのあいだでひどい争いがあり、彼らの仲間のひとりであるジェロボームは、玉座を取ろうと企んだーそして偶像崇拝をもたらしたのも彼である。レホボームとジェロボームのあいだの争いはその子孫のあいだでの何世紀にもわたる戦争へとつながり、その結果、イスラエルの部族は散らばり、分裂したのである。端的に言うと、彼らは、神の法律の意味を忘れてしまったために、暴動や扇動といった無知な狂信やとがめられるべき慣習にかかわってしまったのである。そして彼らの聖職者たちは聖なる書にしるされている人間に不可欠な特質のすべては今や空文となったと結論を下し、自らの利己的な利益を促進する事のみを考え始め、人々が無頓着と無知のどん底に陥るのを許すことにより人々を苦しめてしまったのである。そうして、結果として彼の悪行により、それほど長いあいだ持続した栄光は堕落へと変わり、ペルシャやギリシャやローマの統治者らが彼らを支配するようになったのである。彼の主権の旗は裏返され、彼らの宗教指導者や学者らの無知と愚かさとひげと自我愛は、バビロンの王ネプカドネザル王の到来により明らかにされ、この王により彼らは破滅にいたったのである。全体的な大虐殺を行い彼らの家を略奪し破壊しさらにかれらの樹さえもひきぬいたりした後、ネプカドネザル王はその剣により確保されなかった残りの人々をすべて、捕らえバビロンへ連れて行った。それから70年後、これらの捕虜の子孫は解放され、エルサレムへ戻っていった。そうして、ヘゼキア(1預言者イザヤと同じころの王)とエズラ(2.ユダヤの預言者)が彼らのあいだに聖なる書の根本原則を再び確立した。そして日に日にイスラエル人たちは進歩を遂げ、以前の時代の朝の輝きが再び現れ始めたのである。しかしすぐに、信条やふるまいに関する意見の相違が新たに生じ、再び、ユダヤの学者らの唯一の関心事は自分の利己的な目的の促進となり、エズラの時代になされた改革は邪道と堕落にかわってしまったのである。状況は非常に悪化し、繰り返し、ローマの共和国の軍隊と、統治者たちはイスラエルのりょうどを征服した。そしてついに、ローマ軍の司令官である好戦的なティトウスがユダヤ人の母国を地に踏みつけ、あらゆる者を切り殺し、女性や子供を捕虜にし、家を平らに倒し、樹を切り倒し、本を破き、宝を略奪し、エルサレムと「神殿」を灰の山にしてしまったのである。この最大の惨事の後、イスラエルの領土の星は沈んで無に帰し今日に至るまで、その消え去った国の名残は、四方八方に散らばってしまっているのである。「(かくして)彼らは屈辱と貧困を負わされ。。」(3cf。コーラン2:58)ネプカドネザル王とティトウスによりもたらされたこの2つの最大の苦しみについては、栄光あるコーランにおいて言及されている―「われらは聖典の仲で(厳粛に)イスラエルの子らに告げた―『汝らは必ずや、地上において二度も害悪を及ぼし、はなはだしいうぬぼれに達するであろう』第一の約束が事実となった時、われらは汝らに、はげしい力を備えた僕らを使わした。彼らは戸別に侵入して家捜しした。こうしてこの約束は果たされたのである。。。第二の約束が事実となったとき、われらはかれらを通して汝らの顔を悲しみでおおわせ、最初のときと同様、神殿に侵入させ、手当たりしだいにはかいさせた。」(1コ-ラン17:4ff(or 17:4,5,7)

わたしの目的は真の宗教がかつてはみじめで奴隷の身とされ、無知であった民族の文明や栄誉、繁栄や信望、学識や進歩をいかに促進し、そうして愚かで狂信的な宗教指導者らの手に陥ると(今度は)間違った目的に使われるようになりついにはこの最大の輝きが最も暗い夜に変わるかということを示すことである。

イスラエルの崩壊と堕落とそして破滅の疑わざるべきしるしが2度目にして現れると、神の霊(イエス)の甘く聖なる息吹がヨルダンとガラリヤの地の上に放たれた―聖なる憐れみの雲がそれらの空をおおい、精神の豊富な雨を降らせ、そして最大の「海」から降ってきたその豊富な雨の後に、聖地はその香りを放ち、神の知識によって花咲いたのである。そうして厳粛なる福音書の歌は、天国の部屋の住人らの耳に鳴り響くまで歌われ、イエスの息がふれると、無知の墓に横たわっていた無頓着な死人らは、永遠の生命を受けるために頭を持ち上げたのである。そして3年のあいだ、あの完全性の「発光体」はパレスチナの野原とエルサレムの近隣を歩き回り、すべての人々を救済の夜明けと導き、神の目に好ましい精神的な特質と属性をどのようにして得られるかを教えたのである。もし、イスラエルの人々があの美しい「御顔」を信じていたなら、彼らは心魂こめて彼に仕え、従うように努め、彼の「精神」の、生気を与える芳香により、失われていた精力を取り戻し、新たな勝利へと向かって進んで行ったであろう。

しかし、悲しいかな―それは何の役にたったのであろう。彼らは、顔をそむけ、彼に対抗した。彼らは立ち上がり、啓示が下された「点」である。あの聖なる知識の「源」を苦しめた―神の方へ顔を向け、この世の汚れから清められ、場所のなき「領域」の高所への道を見出した。ほんの幾人かの者を除いて.彼らはあの恵みの「みなもと」にあらん限りの苦しみを降りかからせ、ついには彼は町の中に住むことができなくなった。しかし、彼はそれでも救いの旗を掲げ、真の文明の根本的基盤である人間の正義の根本原則を確立したのである。

マタイの第5章37節に始まる節で、彼はこのように韓国しておられる―「悪や害に対して似たようなものもて手向かうな。もしだれかがあなたの右の頬をを打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。」さらに43節では、次のように勧告しておられる―『隣人を愛すべきであり、敵を敵意感で悩ませてはならない。』といわれていたことは、あなたがたの聞いているところである。(1.NoteP81-82)しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、あなたがたに悪態をつく者らを祝福し、自分を憎む者らに親切にし、悪意もてあなたがたを用い、迫害するものらのために祈れ―こうして、あなたがたが、点にいます父の子となれるように。なぜなら父は、悪い者にも良いものの上にも太陽を昇らせ、公正なる者にも不正なる者にも、その慈悲の雨を降らして下さるからである。あなたがたが、自分を愛するものを愛したからとて、何の報いがあろうか?そのようなことは収税人でもするではないか?」

あの理なる英知の「夜明け」が発されたこのような勧告は多数ある。そして、そのような神聖の属性により特徴づけられた者等は、中質された創造のエキスであり、真の文明の源なのである。

こうしてイエスは、道徳的な性格と完全なる精神性の基礎の上に聖なる「法律」を確立し、ご自身を信じる者らのためには、地上における最高の行為を成す特別ないき方について描写なさった。そして、それらの救いのしるしは外見的には、それらを苦しめる者らの悪意と迫害に思うままにされていた。委ねられていたように見えたが、実は、ユダヤ人らで取り囲んでいた絶望の暗黒からすくい出され、その新しい日の夜明けに、永遠の栄光にて輝いたのである。

あの強大なるユダヤの国は倒れ、崩壊してしまったが「メシヤの樹」の下に加護を求めた幾人かの者らは、すべての人々の生命を買えたのである。当時、世界の人々は全く無知であり、狂信的で、偶像崇拝をしていた。ユダヤ人の仲でごく少数のグループのめが紙の単一性を信じると称していたが、彼らはみじめな追放者であった。これらの聖なるキリスト教徒らはそのとき、全人類の信じていた事柄と正反対で一致しない大業をひろめるために立ち上がった。世界の五大陸のうち四大陸の国王たちは、キリストの信奉者らを滅ぼしてしまおうと、情け容赦なく決意した。それにもかかわらず、結局、ほとんどの者らは、心のすべてもて、神の信教を広めることにとりかかったのである。そして、ヨーロッパのすべての国、アジアとアフリカの多くの民族や太平洋の島々の住人のうちの一部が神の単一性の避難所にあつめられたのである。

創造の名において、あらゆる点から見て宗教よりも協力な原則があるかどうか、様々な神の信教よりも浸透性のある力が考えられるかどうか、全能にしてすべてを知りたもう神を信じることのように、すべての人々の間に真の愛と友好と和合をもたらせる媒介があるかどうかそして、神の法律の他に、正義のあらゆる面において全人類を教育する手段のしるしがあったかどうか―これらのことについて考えて見よ。

哲学者たちが、英知の重点に達したときに得た特質や、完全性の最高点において哲学者らを特徴づけた崇高なる人間の属性は、信教を受け入れるややいなや、信者たちによって示されるのである。神の霊なるイエスの恵み深き手から救いの生きた水を飲み、福音書の加護の下にやってきたものらがいかに道徳的好意の高水準に達し、そのため高名なる医者であるガレンが自らはキリスト教徒ではなかったけれども、プラトンの「Republic」のまとめの中で彼ら(キリスト教徒ら)の行動をほめたたえておるかについて考えてみるがよい。彼の言葉の直訳は、次の通りである―

「人類の大部分は、論理的な議論の結果も理解することができず、そのため、来世いにおける報いと罰に関する話で象徴や寓話を必要とするのである。これの確証となる証拠は、今日、未来の状態における報いと罰を信心深く信じるキリスト教徒と呼ばれる人々である。このグループの人々は、心の哲学者なる人物の行動と似た優れた行動を示している。たとえば、彼らは死に対する恐れがないことはわれわれ自身の日に明らかであり、正義と公平な取り扱いに対する彼らの熱意は大いなるもので彼らは真の哲学者と見なされるべきであるほどである。」(1.cf。アブドルバハの「質疑応答集」第84章と「世界平和の宣布」(英)p.385また。Galen on Jews and Christians by Richard Walzer, p.15

著者によると、ここに言及されているガレンの要約は)

哲学者の地位は、その時代、そしてガレンの頭の中では世界中のいかなる地位よりも優越なものだった。それでは、(人々を)啓発し精神化する聖なる宗教の力が信者らをそれほどの完全性の高所へ押しやり、ガレンのような哲学者―、彼自身はキリスト教徒ではなかったけれども―がそのような証言をしたことについて考えるがよい。

当時のキリスト教徒らの優れた性格を示すひとつのものは、慈善と善行に対する彼らの献身と、彼らが病院や博愛的な機構を設立したという事実である。たとえば、貧乏人や負傷した者や無力な者が医療を受けた公共の診療所をローマ帝国の至るところに建てた最初の人物は、コンスタンチン帝であった。この偉大なる国王は、キリストの大業を擁護した最初のローマの支配者であった。彼は努力を惜しまず、福音書の原則の促進に人生を捧げ、たゆまざる虐待の組織に他ならなかったローマの政府を、中庸と正義の上にしっかりと確立したのである。彼の祝福された名は朝の星のように歴史の夜明けに輝き、世界中のもっとも高貴で最高に文明化された者の中の彼の地位と名声はいまだに、すべてのキリスト教派の人々によって語られているのである。

福音書の教えを広めるために立ち上がった聖なる人物らの教育のおかげて、当時、優れた性格の何というしっかりとした基盤が築かれたことか。いかに多くの小学校や大学や病院が建てられ、父がなく貧しい子供らが教育を受ける機関がもうけられたことが、個人的な利点を犠牲にし、「神に喜ばれる事を望んで」(1.コーラン4:114; 2:207などから)大衆を教育することに日々を捧げた者らがいかに多くいたことか。

しかし、ムハンマドの輝かしい美がこの世に現れるときが近づいてきたとき、キリスト教徒の諸事の統制は、無知な聖職者らの手に移ってしまった。聖なる恵みの地域から静かにながれてくるあの天なるそよ風はなくなり、世界の文明が置かれていた基盤である偉大な福音書の法律は成果をなくしてしまった―これも、外見的には美しく見えても実は内面的に汚れた人々による誤用と誤った行動によるのであった。

ヨーロッパの著名な歴史家らは、古代と中世と現代の状態や風習や政治や学問や文化とあらゆる面において描写するにあたってキリスト教紀元の6世紀から15世紀の終りまでにあたる中止の10世紀のあいだ、ヨーロッパがあらゆる点において、また最高に野蛮であり、陰鬱であったと全員が記録している。これに関する主な原因は、ヨーロッパ人らが精神的、宗教的指導者と呼んでいた修道僧らが、福音書の聖なる命令と天なる教えに従うことから来る永続的な栄光を放棄し、当時の世俗的政府の傲慢で残虐な支配者らに加わってしまったということである。彼らは、永遠の栄光から目をそむけ、お互いの現世的な利益や、はかない滅ぶべき利点を促進することに全精力を捧げていたのである。そしてついには、大衆がこれらの2つのグループの人々に支配される無力な囚人となるところまで達し、これらのことはすべてヨーロッパの人々の宗教と文化、安寧と文明を破壊するにいたらしめたのである。

(これらの)指導者らの不適切な行為や考えや不名誉な目的が神の霊(イエス)の甘い香りを沈め、その香りが世界に流れていくのが止まり無知やがん迷そして神のお気に召さない行動の暗闇が世界をおおいこむと、希望の夜明けの陽が差し始め、聖なる春がやってきた。慈悲の雲が世界をおおい、恵みの地域からは豊かな風が吹き始めた。「真理の太陽」なるムハンマドのしるしにおいて、ヤスリブ(メジナ)とヒシャズが現れ、宇宙に永久の栄光の光を放ったのである。そうして、人間の潜在力の地は変えられ、「大地は主のみ光で輝き」(1コーラン 39:69)という言葉が実現したのである。古い世界は再び新しくなり、その死体は裕福な生命を取り戻したのである。そうして残虐行為と無知は滅ぼされ、知識と正義の圧倒的な宮殿がその代わりに建てられた。啓発の海が大きな音をたて、科学がその光線を放った。ヒシャズの野蛮な人々は、あの最高の預言者の「炎」の前にてメッカのランプで火をつけられた前は、地上のすべての民族の中でもっとも残忍で未開な人々であった。彼らの腐敗した邪悪な慣習や、その残忍性や常に起きていた争いは、あらゆる歴史書にしるされている事である。当時、世界の文明化された民族は、メッカとメジナのアラブ部族を人間として考えさえもしなかったのである。しかし、「世界の光」が彼らの上に昇ってからは、その完全性の「宝庫」であり啓示の「中心点」なる存在により授けられた教育と神の法律により与えられた祝福とにより、短期間のあいだに神の単一性の原則の避難所に集められたのである。そうして、この残忍な人々は、非常に高程度な人間の完全性と文明に達し、同時代の人々はみな、彼らを見て驚いたのである。常にアラブ人をあざけり、判断力に欠けた種族として失いものにしていた人々自身がアラブ人の国々を訪れ、熱心にアラブ人たちを求めていたのである。

(その)夏の「教育者」によっておしえこまれた教育が物質的状態に及ぼした影響を見てみよ.これらの(アラブ)部族はジャーヒリーヤー時代には非常に未開で荒々しく、七歳の娘を生き埋めにしていたほどである.―これは人間はいうまでもなく動物でさえも、嫌い、しりごめするような好意であるのだが、彼らはその極端な堕落のために、その行為を栄誉と原則への献身空虚的に表現するものと考えていた。しかsh、この暗黒の人々は、あの偉大なる「人物」のあきらかなおしえのおかげで、非常な進歩を遂げ、エジプトやシリアとその首都ダマスカス、カルデア、メソポタミアとイランを征服した後は、地上の4つの主要地域に関する重要な事柄をすべて単独で管理するほどになったのである。

そうしてアラブ人たちは、科学や芸術、産業や発明、哲学、や政治、道徳的性格において世界中のあらゆる民族よりもすぐれるようになったのである。真に、この残忍で卑しむべき要素がそれほど短いあいだに人間の完全性の最高点まで昇っていたことは、主なるムハンマドの預言者の地位の正しさを実証する最高のものである。

イスラム教初期の時代、ヨーロッパの民族は、アンダルシアの住人だちが実践していたような文明の科学や芸術を、イスラムから習得していた。歴史的な記録を注意深くかつ徹底的に調べてみると、ヨーロッパの文明の大部分はイスラムから得られたものである事がわかる。イスラム教徒の学者や神学者や哲学者の著書はすべて、徐々にヨーロッパであつめられ学問的な集まりで学問のセンターで最高の尽力に考慮さ、討論され、その後、その評価された内容が使用されたのである。今日、イスラム教の国土では見られないイスラム教徒学者らの著書の数多くのコピーが、ヨーロッパの図書館で見ることができる。

さらに、あらゆるヨーロッパの国で現在使われている法律や原則は、かなりの程度、いや実際にそのすべてが、イスラム教徒の神学者らの法律学や法的採決に関する著書からに由来するものから得られた者である。本文が過度に長くなるという恐れがなければ、わたしは、これらの借用語をひとつひとつ引用したいのであるが。

ヨーロッパ文明の始まりは、イスラム起元の7世紀(1.つまりAD1204-1300)詳細は次の通りである。-- ヒジュラ紀の5世紀の終わりのにかけて、ローマ法王、またはキリスト教世界の長は、エルサしんやベスラハムやナザレといった、キリスト教徒にとって神聖な場所がイスラム教徒の支配下に陥ってしまったと言って(非難の)叫び声を上げ、ヨーロッパの国王たちや平民に自ら聖戦と考えたものを始めるよう奮起させた。かれの感動あふれた叫びはますます大きくなり、ついにヨーロッパのすべての国々がその叫び応え、無数の軍勢の先頭に立った十字軍の国王たちはマルモラ会を渡り、アジア大陸へと進んで行った。当時、ファーテマ朝のカリフたちがエジプトと西洋のいくつかの国を支配しており、シリアの王たち、つまりセルジュークもほとんどのあいだ、カリフの支配下にあった。端的に言うと、西洋の国王たちはシリアとエジプトに襲いかかり、シリアの統治者らとヨーロッパの統治者らのあいだには203年のあいだ(1096~1291)絶えず戦争があったのである。ヨーロッパからは常に増援隊がやってき、何度も、西洋の統治者らはシリアのあらゆる白を襲撃してはそれを占領したが、それと同じく、イスラムの王たちもそれらの城を西洋の統治者らの手から救い出したのである。そしてついにサラディンはAH693年に(1293~1294A.D.)にヨーロッパへ帰っていった。十字軍によるこれれの戦争のあいだには、何百万もの人々の命が奪われた。要約すると、490AHから693A.Hまでに、国王や司令官やその他のヨーロッパの指導者たちは継続的に、エジプトとシリアと西洋のあいだを行き来した。そして結局、西洋へ戻った時には、政府や社会的発展や学問、大学や学校や生活様式の優美さなど、200年と少しにわたってイスラム教の国々で見てきたものをヨーロッパに導入した。ヨーロッパの文明はそのときに始まったのである。

おお、ペルシャの人々よ!あなた方の麻痺と昏睡状態はどれだけ、続くのか?あなたたちは、かつては地球全体の君主であり、世界はあなたたちの意のままであった。どうして、あなたたちの栄光は退歩し、好意から落ちてしまい、忘却の偶に忍び込んでしまったのか?あなたたちは、学識の源であり、地球全体に必ず光を与える源泉であったのに、なぜ、今は衰え、消され、気力をなくしてしまったのか。かつては世界を明るく照らしたあなたたちが、なぜ、今はこっそりとし、ぼんやりとし、暗闇の中にいるのか?あなたたちの知性の目を開き、自らが現在の大いに必要としていることを見るがよい。立ち上がって奮闘し、教育や啓発を求めよ。異国の人々があなたたちの祖先からその文化や知識を受け取っていながら、その祖先の血筋にあり正当な相続人であるあなたたちがその文化や知識なしに行くということはふさわしいことであろうか?あなたたちの近隣の人々は日夜、一意専心してその発展と栄誉と繁栄のために供えているというのに、あなたたちはどうして、その無知な狂信のために、紛争と嫌悪、放縦と欲望と空しい夢に忙しく従事しているようにみえるのか?生来の権利であるすばらしい才気や生来の能力や生まれつきの理解力を無駄にし、浪費するのが賞賛されべきことであろうか?再び私は、本題から離れてしまった。ヨーロッパの過去の事実について精通し、正直と正義感によって特徴づけられたヨーロッパのえり抜きの知識人たちは、あらゆる点において自分たちの文明の基本要素がイスラムに由来することを全員一致して認めている。たとえば、フランスの著名なる権威家であり著作家(すべてのヨーロッパの学者がその正確さと能力と学識について証言している)であるドレーパーはそのもっともよく知られた著作のひとつ『The Intellectual Development of Europe』の中で、これに関してつまり、ヨーロッパの人々が、文明の根本と進歩や安寧の基盤をイスラムから得ている事に関して、詳細な解説としている。彼の解説は徹底的であり、ここにその翻訳をのせるのはこの書を過度に長くするし、わたしの目的とは無関連になってしまう。もしさらに詳細を知りたければ読者はその原文を参照されるとよい。

その著者は、ヨーロッパ文明全体、つまりその法律や原則や機構、科学や哲学や様々な学問、文明化された慣習や風習、文学や芸術や産業、組織や規律や行動、賞賛さるべき性格の特徴、さらにフランス語で使われている多くの言葉がアラブ人から得られたものであることを示している。彼は、これらの要素についてひとつひとつ詳細に調べ、さらにそれぞれがイスラムからもたらされた磁気がいつであったかさえも述べている。

ドレーパーはまた、アラブ人が西洋(今スペインとなっているところ)にやってきたときのことや、いかに短いあいだにアラブ人がそこに発達させられた文明を確立したか。そして彼らの行政組織や学述がいかに優れた程度までに達し、彼らの学校や大学がいかにしっかりと建てられ、しっかりと統制されていたか(そこでは科学や哲学、芸術や手工芸が教えられていた、また、文明の技能において彼らがいかに高程度の指導権を得、ヨーロッパの有力な家系からいかに多くの子供が文明化された生活の仕方や科学を学ぶためにコルドバやグラナダやトリードの学校へおくられた―これらのことについても描写している。また、彼はゲルバートという名のヨーロッパ人が西洋へやってきて、アラブ領地内にあるコルドバ大学に入学し、そこで芸術や科学を学び、ヨーロッパへ戻った後はたいへん著名傑出し、カトリック教会の指導者に昇格され、ローマ法王となったことさえも記録している。

これらのことに言及した、利用は、神の宗教が、人間の精神的、物質的完全性の真の源であり、全人類のための啓発と有用な知識の源泉であるという事を示すためである。人がもし、この事柄について公平に観察するなら、政治の法律はすべてこのいくつかの聖なる言葉の中に収められていることが分かるであろう.――

「彼らは正しい事を命じ、不正なことを禁じ、急いで善行に励んでいる。これらの者は廉直な人々である。」(1.コーラン3:110)また、「汝らのあいだに、(人々を)全に誘い、正しい事を命じまちがったことを禁ずる者らがいるよう。これらの人こそ幸いである。」(2コーラン3:100)さらに、「まことに、神は公正と善行を命じ、、、悪行と虐待を禁じたもう。汝らが注意を払うように、神は汝らに忠告なさるのである。」(3.コーラン16:92)さらに、人間の行動の教化に関して―「寛容に心がけ、善行を命ぜよ。そして無知な者らを避けよ。」(4.コーラン7:198)また、同じように―「..怒りを抑え、すすんで人を許してやる人々である。神は善をなす人を愛したもう。」また「ほんとうの敬虔とは、汝らが顔を東に西に向けることではなく、神と終末も火と天使と啓典と預言者たちを信じ、神への愛のために、親族、孤児、貧者、旅人、乞食にそして奴隷たちに自らの富を分け与え、祈りの務めを守り、義援金を払い、誓約をしたならその誓約を果たし、病や困難や苦難の下でも耐え忍ぶ者ことである。これらこそ公正なものであり、神を畏れるものである。」(1.コーラン2:1729)そしてさらに―「彼らは、たとえ自分らが貧しくとも、彼らを自分たちよりも大切にした。」(2.コーラン59:9)これらのいくつかの聖なる言葉がいかに、文明の最高レベルともっとも内なる意味を取り囲んでいるか。そして人間性のすべての優れた点を具現してるかを見よ。

主なる神にかけて、そして彼以外に神はいまさぬ―文明化された生活のもっとも詳細な事柄さえも、神の預言者たちの恵みに由来するものである。人間にとって価値あるもので、まず最初に、聖典によって直接にまだ間接的に暗示されて述べられずに現れたものがあろうか。

(しかし)悲しいかな、それは何の役に立つというのであろうか?武器が臆病者の手の中にあるときは、いかなるものの命も財産も安全ではなく、盗人はただ強くなるばかりである。同じように、完璧からはほど遠い聖職者が諸事の統制力を握ると彼らは人々と信教の光のあいだに、思い幕のように下りてくるのである。

誠実さが信仰の土台石である。つまり、信心深い人は自分の個人的な欲望を考慮せず、できる限りの方法で一意専心して公の利益のために仕えるよう努めねばならないのである。そして、真の宗教的信念を通して以外に人が自分自身の利己的な利点から顔をそむけて、共同体の利益のために自らの利益を犠牲にすることは不可能なのである。なぜなら、自己愛というものが人間の土そのものにこねいれられており、豊かな報いの望みがなければ現在の自分の物質的利益を無視うることなでできないのだから、しかし、神に対して信念を持ち、髪の御言葉を信ずる者は来世いでの豊富な報いを約束されており、またそのことを確信しているので、また、現世的な利益は未来の生存段階の永続的な喜びと栄光に比べればその人にとって無に等しいので、神のために自らの安らぎと利益を捨て、普遍的な利益のために惜しげなく心と魂を捧げるのである。「また人によっては、神に喜ばれることを願ってわが身を売る者がいる。」(1.コーラン 2:203)

幾人かの者は、人間の生来の威厳の心が悪行を犯すのを防ぎ、人の精神的、物質的完全性を確実にさせると想像している。つまり、自然の知力や高遠な決意や精力的な熱意に特徴づけられた者は、悪行の結果として受ける厳しい処罰や、正義のすばらしい報いに対する考慮なしに、本能的に、同胞を傷つけることを控え、善行をなすことをしきりに求めるというのである。しかしながら、歴史の教訓について黙考するなら、この誇りと威厳そのものも神の預言者らの指図に由来する恩恵のひとつであることがわれわれにはわかる。また、われわれは、攻撃的な態度や無法な態度のしるしを用事に見出し、もし子供に教師の指図がなかったら好ましくない特質が常に増えていくということがわかる。したがって、人間のこの自然な威厳と誇りの心が教育の結果であることは明らかである。第二に、たとえ、論議のために本能的な知力と生来の道徳的な特質が悪行を防ぐというどとを認めたとしても、そのような特徴を持つ人は賢者の石と同じようにまれであることは明らかである。このような推測はただ言葉だけでは正当性を確認できず、事実によって支持されなければならない。想像の中のどのような力が大衆を公正な目標と行為に向けて駆り立てるのか見てみよう!

このほかに、もし、そのような能力を示すそのまれな人物が神への畏れの権化となったら、正義へ向けてのその人の努力は大いに教化されるであろうことは確かである。

普遍的な益というものは、神の宗教の恵みから得られるものである。なぜなら、神の宗教は、その真の信奉者らを意図の誠実さや高遠な目的純潔性と汚れ無き栄誉、優れた親切と同情、誓約をなしたときにそれを果たす事に導くのだから。また神の宗教は彼らを、他人の権利の考慮や、寛大さ、生活のあらゆる面における公正、慈愛と博愛、勇気、そして人類への奉仕におけるひるまぬ努力へと導くからである。つまり、人間のすべての美徳をもたらすものは宗教であり、文明の明るいろうそくなのはこれらの美徳なのである。もし人が、(もろもろの)聖なる書の教えを投資手流れる声明の水の底しれない川の一滴ほども得なかったことは確かである。また、神の国から吹いてくる心地よい微風のほんの少しでさえ受けなかったことも確かである。なぜなら、地上のもののうち言葉だけで実証できるものはなく、生存のあらゆるレベルはそのしるしや象徴によって知られ、人間の発達のあらゆる程度はそれを示すしるしがあるからである。

これらの言明の目的は、神の宗教や聖なる訓戒や天なる教えが人間の幸福の難攻不落の基盤であること。そして世界の人々は、この唯一の偉大なる治療薬がなければ真の救済や救助を望めはしないということを十分明らかにするためである。しかし、この万能薬は、賢明で有能な医者により与えられなくてはならない。なぜなら、無能な者の手にあるなら、人々の主が人々の病を癒すために常にお創りになったすべての治療薬は健康をもたらすことができず、逆に、無力な者を破壊し、すでに苦しめられている者らの心に負担をかけるだけだからである。

聖なる英知の「源」である、あの「普遍的な預言者の顕現」(ムハンマド)は科学や芸術や似たような利点をいるよう人類に奨励し、これらのものを、中国の果てからさえも求めるよう、人類に命令なさった。しかし、無能でけちをつける学者たちはこれを禁じ、その弁明としてこう言うのである――「ある民族の模倣をする者は、そのうちのひとりである。」彼らは、そこに言及されている「模倣」の意味するところさえも理解しておらず、神の宗教が継続的な改善の役に立つような原則を取り入れ、他の民族から科学や芸術を習得するのを忠実な者らすべてにお命じになり、奨励なさったことを知ってもいないのである。その反対を述べるような者はすべて、知識の甘美な飲料を決して飲んだことはなく、己れの欲望の妄想を模索し、自らの無知の中でさ迷っているのである。

これについて正しく判断せよ―これらの現代的発達のうち、それ自体にせよあるいはその応用にせよ、どれが、神のご命令に反するものであろうか? もしそれが国会の確立を意味しているとしたら、それは、次の聖なる節の中で命ぜられている―「お互いの助言によってその諸事が導かれ。」(1.コーラン42:36)また、すべての知識の「根源」にして完全性の「源」なる御方(ムハンマド)―彼が普遍的な知識を有しているにもかかわらす―に語られた言葉は「そして諸事においてかれらと協議せよ」(2.コーラン 3:153)

というものである。このことを考慮したなら、どうして相互に協議することが宗教的な法律と矛盾しえようか?協議の偉大な利点は、論理的な論証によっても確立することができる。死刑をもっとも注意深い調査や数多くの機関の承認と法律的な証明や国王の命令を条件とする事は神の法律に反することである、とかれらは言えるだろうか?彼らは前の政府の下で起きたことがコーランに応じたものであると主張できようか?たとえば、ハジ・ミルザ・アカシが首相であったときに、多くの情報源から次のようなことが聞かれた―ガルペイガンの知事はその地方の13人の無防備の執行史を捕らえ―彼らはすべて聖なる系統の者でありすべて無罪だったのが―裁判もせず上からの承認もなく、一時間のあいだに彼らの首を切ってしまったのである。

あるとき、ペルシャの人口は5千万を超えていた。これは、部分的には内乱によって消散されてしまったのだが、主な理由は、十分な政府の制度の欠如や州土地法の知事らの独裁と放らつな権威であった。時がたつにつれこの人口のうち5分の1も生き残らなかった―何故なら、知事たちは思いのままに被害者を選び―そのものがいかに無ああ意であろうと―そのものに怒りを浴びせ、そのものを破滅させたのである。あるいは、きまぐれで、彼らは、証明済みの大衆殺害者をかわいがるのであった。知事が絶対的な支配をしていたので、誰一人として声を上げることはできなかった。われわれは、これらのことが神の正義と法律に応じたものであったと言えるだろうか?

われわれは役に立つ技術や一般的な知識を学ぶことや、人間に有益な物理化学の真理を自らに教え、産業の範囲を広げ商業製品を増加させ、国家の富の経路を増大っせることは品今日の根本圧制に反すると主張できようか?町に法律や秩序を確立し、そうだとしても、その偉大なる「審判の日」に、指導者たちは説明するように求められはしないだろうか?彼らは、次のように語りかけられないだろうか?―「おお、長や指導者たちよ!なぜ汝らは、この強大な国を、以前の栄光の頂点から没落させ、文明化された世界の中心から動かせてしまったのか?汝らは、この民族の高遠な栄誉へとつながる手段を十分に支配することができたのに、汝らは、これをなすことができず、すべての人々が得ている共通の益さえも、この民族から奪ってしまったのである。――この民族はかつて~天にて星のように輝きはしなかったろうか。汝らはどうして彼らの光を暗闇において消そうなどとしたのか!汝らは彼らのために現世的かつ永久の光のランプをともすことができたはずなのに、なぜこのことを全力を注いでなくそうと努めなかったのか?そうして神の恵みにより輝かしい『光』が燃え立ったとき、なぜ汝らは自らの勇気のガラスによってその『光』をそれに向かって吹いてくる風から守ることができなかったのか?汝らはなぜ、それを「消しさろうと全力で立ち上がったのか?」

「そしてわれは、あらゆる者の運命を、その首にしっかりとしばりつけた。そして復活の日にはわれはさらに、共通の益のための奉仕より崇高な行いが、この世におうてあるだろうか?人にとって、同胞の教育や発展や反映や栄誉のもととなることよりすばらしい祝福が考えられようか?いや、主なる神にかけて!すべての中で最高の正義なるものは、祝福された者らが、無力なものらの手を取り、彼らをその無知とひげと貧困から救い出し、純粋な動機を持ち、また神のためのみに立ち上がり熱心に大衆への奉仕に見を捧げ、自らの現世的な利益点を忘れ、全般の益のためにのみ尽くすよう努力することである。「彼らは、貧困が

人々のうちで最もすばらしいのは人に仕える者らであり、最悪なのは、人に害を及ぼす者らである。

神に栄光あれ!ある事柄が主張されるのを耳にして、その発言者の真の動機が何で、言葉のうらにどのような利己的目的が隠されていうのだろうと自分に問う事を誰もしないという、今の状態は何と異常なものであることか。たとえば、ある人が自分のたわいない個人的な関心を促進しようとして、全体の進歩をはばむのを見かけるかも知れない。自分の水車をまわすために、その人は、全ての人の農場や畑を干しあがらせ、衰えさすかもしれない。その人は、自らの指導権を維持するために、文明の基盤そのものをくつがえす偏見や狂信の方へ大衆を永久に向かわせようとするかもしれない。

そのような者は神の目において忌みきらわれすべての預言者や「聖なる人物たちにより忌み嫌われるような行いをなすのと同時に、もしちょうど食事を済ませたある人が石鹸(これはイスラム教徒であるアブドラ・ブニの発明によるものだが)で手を洗うのを見たなら、この不運な者は両手を衣の前をひげの上で上下にふかなかったからということで宗教的法律がくつがえされた。異教徒の国の風習や習慣が自分たちの慣習にもちこまれたと言って非難の超えを上げるのである。

自分自身のやり方の邪悪さを無視して、その者は、清潔と洗練ものととなるそのものを邪悪でおろかなものと見なすのである。

おお、ペルシャの人々よ! 目で開けよ!注意を払えよ!このように頑健な者を盲目的に従う事、無意味な模倣から見を解放せよ―この模倣が、人々が無知と  の道におちいる主な理由なのである。物事の真の状態を見よ。立ち上がれ、そして世界中のすべての国々においてあなた方に生命と幸せ、偉大さと栄光をもたらすような手段につかまれ。

真の春の風はあなたたちの上にかいている。香りある庭園の樹のように花で見を飾れよ。春の雲は流れている―それでは甘く永久なる野原のように自らを新鮮かつ緑で茂らせよ。夜明けの星は輝いている―自らの歩みを真の道にすえよ。強大の海は満ちている。―高遠なる決意と幸運の岸辺へと急げよ。生命の清い水はあふれている―なぜ渇望の砂漠で日々を浪費しているのか?目標を高く持ち、崇高な目的を持って―この不活発とこの怠惰はどれだけ続くのか?自己~からあなたたちが信じるものは、この世と来世において、絶望である。愚かな者や無頓着な者らを信じることや???? 信じられる者は~とみじめさだけである。神の確証はあなたたちを支えており、神の援助は真迫である―なぜ叫び、心の底から~し、全魂こめて努力しないのか?

徹底した改定と改革を必要とするもののひとつは、様々な学問の分野の研究法と学業課程の体制である。体制化の欠如のため、教育は混乱し、でたらめになってしまっている。解説のひつようもないようなつまらない科目が不当な注目を受けてしまい、生徒は長いあいだ、全くの推測にすぎず証拠もできないような内容に知力と精力を浪費してしまうほどで、そのような学業は、注意深い調査によれば、あまりありそうもなくむしろ全くの迷信であると示されるような言明や概念に深入りすることであり、無益な考えを調べ、愚かな事柄を追求することを示している.そのような幻想に関心を持ち、そのようにたわいない推測を調べ長々と討論することが時間の無駄であり、人生をだいなしにすることに他ならないのは明らかである。それだけでなく、これは、社会がたいへん必要としている芸術や科学を人が学ぶことの妨害となるのである。人は科目の勉学にとりかかろうとする前には、それがどのように使われ、それからどのような実りや成果が得られるかを問うべきである。もしそれが役に立つ分野であれば、つまり、社会がそれから重要な益を得るなら、人は全力こめてそれを追求すべきである。(しかし)もしそれが空しく益のない論議であり、辛らつさへとつながるだけのたわいない想像の連続であるなら、どうしてそのように無駄に祭事に拘泥することや討論に自分の人生を捧げるべきであろうか。

この事柄はさらに解説され、徹底的に審問される必要があるので、つまり、今日なおざいにされている科目のいくつかは非常に価値のあるということを、十分に確立し、また、国は、他の様々な無駄な勉学は全く必要でなく、--もし神意がかなえば、要点は別の書で述べることができるであろう。わたしの望みはこの最初の本を読むことにより、社会の考え方と行動に根本的な変化がおきるようにということである――なぜなら、わたしは、神のためにのみ、誠実の意図でこの仕事にとりかかったからである。この世では、誠実な意図と偽りの言葉を見分けられる人は、賢者の石ほどまれであるが、わたしは、種の限りなき恩恵に望みをすえている。

では再び話をすすめよう。これらの執拗とされる改革を施工するにあたって、われわれは慎重に進み、辛抱強くあり、一度にひとつの目標を達成しなければならないと主張スルグループについててあるが、かれらは一体、これによって何を言わんとしているのだろう?もし“慎重さ”によって彼らが指していることが統治の述が必要とする熟慮であるならば、彼らの考えはときを得ており、適切である。重要な事業が急いで成功へともたらされないこと、そしてそのような場合、急ぐ事は無駄足を踏むことになるだけであることは、明らかである。

政治の世界は人間の世界のようである。―人は初め、種であり、やがて徐々に胎児の状態へと進み、骨格を発達させ、筋肉をつけ、それ独自の姿をつくりながら、ついに「『造物者』の中でもっともすぐれた御方」(1.コーラン23:14)という言葉を実現するにふさわしい段階に達するのである。これが創造の必要条件であり普遍的な「英知」に基づいているものであるように、政治的世界も同じく、すぐに、欠陥のどん底から正しさと完全性の頂点へ進化することはできないのである。むしろ、資格ある者らが、政府と人民があらゆる分野において、日毎に、いや一刻一刻進歩するようになるまで、日夜、進歩のためになるすべての手段を用いながら努力しなければならないのである。

神の贈物を通して3つのものが地上に現れるとき、この塵の世界は生き返り、美しく飾られ、優美に満ちた姿で現れるであろう。この3つものとは―1)春の実り多き風 2)あふれんばかりに豊富な春のくも 3)輝かしい太陽の熱である。神の限りなき恩恵により、これらの3つのものが付与されたなら、ゆっくりと、神のお許しにより、乾ききった樹や枝は新鮮になり青々とし、多くの種の鼻や実でかざられることであろう。統治者の純粋な意図と正義、統治権を持つ権力者らの英知と最高の技能と政治的手腕、さらに人民の決意と惜しむことのない努力とがすべて結合されるとき、そのようなときも同じ事がおこるそうして日毎に、政府と人民の進歩や遠大な改革や誇りと繁栄の影響が明らかになってくるのである。

しかし、遅れや延期によって、次のようなことをかれらがいわんとするなら、つまり、ひとつの世代において、必要とされる改革のほんの些細なひとつの部分のみに注意を向けるということであるなら、これは不活発と緩慢に他ならず、そのようなやり方からは、たわいない言葉を限りなく繰り返す事意外、何の成果も生じないであろう。もし急ぐことが有害であるなら、不活発と怠惰はそれより千倍も??いことである。中道こそ最善である。ちょうど「汝は2つの悪の中間で善をなさねばならない」と記されているように――これは、両極端の中間を指していることばである。「手を首に縛り付けておいてはならない。しかし、それを広げるだけ広げてもならない。。。その中間を心がけよ。」(1.コーラン 17:31;110)

もっとも緊急にして主要な必用事は、教育の促進である。この最高にして根本的な事柄が推進されずして国が繁栄し成功するなど考えられない。人々の衰退と衰亡の主な原因は無知である。今日、大衆はごく日常の諸事についてさえ知らずにいる――それでは彼らはどれだけ時代の重要な問題や複雑な必要事の核心について理解していうことか。

したがって、今日人々が必要としていることが何か、そして社会の幸福と進歩のためになるものが何かを明確、明瞭に述べた有益な記事や本が書かれることが緊急に必要とされているのである。これらの文書は出版され、国中に広められるべきである――少なくとも人々のあいだの指導者たちがある程度目を覚まし、自らの栄誉につながるような分野で努力しようと立ち上がらんがために 高遠な思想を出版することは、生命の動脈の精力的な力である――それは世界の魂そのものである。考えは限りのない海であり、生存の効果や異なる状態は波のそれぞれ別の姿のようなものである。海が煮え立つまでは、波がうねり知識の真珠を生命の岸辺に投げ出すことはないのである。

同房よ、そなたはそなたの志向のみであり、残りは肉と

骨だけである。(1.ルミ2:277)

公の意見は、今日にふさわしいすべてのことにむけられねばならず、これは、十分な論議を用い、明確かつ総括的で、決定的な証拠をあげなければできないことである。なぜなら、無力な大衆は司会について何も知らず、また、彼らは、自らの幸せを求め、望んではいるけれども無知が思いベールのように彼らをそれから閉め出してしまっているのである。

教育の欠如がどれほど民族を弱らせ、卑しめる観察せよ。今日(1875年)、人口の見地からすると、世界で最大の国は中国であり、この国は4億以上の人口をかかえている。このために、その政府は地上でもっとも優れたものであるべきで、その人民はもっとも歓呼して迎えられるべきである。しかしそれとは逆に、中国は文化と物質的文明における教育の欠如のために、すべての弱き国々の中でもっとも弱くもっとも無力な国である。さほど舞えのことではないが、英国とフランスの軍隊の小さな分遺隊が中国との戦争にいき。その国を決定的に負かし、その首都、北京を占領したほどである。中国の政府と人民が、今日の進歩した科学に遅れをとらず、文明の術にすぐれていたならば、たとえ地上のすべての国々がそこへ進軍していったとしても、その攻撃は失敗に終り、攻撃者らは敗北し、やってきたところへ戻っていったのであろう。

このエピソードよりも奇妙なものは、次の事である――初め、日本は中国に支配され保護されていたが、ここ数年のあいだ、日本はその目を開き、現代の進歩と文明の技術を採用し、一般に役に立つ科学や産業を促進し、一般の人々の意見が改革に昇天をおかれるようになるまで、最大限の努力をつくしているということである。この国の人口は、中国の6分の1、いや10分の1くらいであるが、その政府は現在たいへん進歩をとげ、最近、中国に挑みかけ結局、中国は妥協せざるをえなかったのである。教育と文明の術がいかに、政府とその人民に栄誉と繁栄と独立性と自由をもたらすか、注意深く見てみよ。

さらに、ペルシャの至るところ、小さな田舎の町や村にさえにも学校を建て、可能な限りのやり方で、子供たちに詠み書きを学ばせるよう人々に奨励することは真に不可欠なことである。もし必要であれば、教育は義務的なものにされるべきである。国家の静脈と動脈が活気づけられるまでは、いかなる方策を試みても、無駄に終わるであろう.なぜなら、人々は人間の身体のようであり、奮闘しようという決意と意思はたましいのようであり、魂のない身体は動かないのだから。この精力的な力はペルシャ人の性質そのものに大いに存在しており、教育の普及がそれを放出するであろう。

文明の原則や物質世界における高レベルの社会的幸せへ進歩することに関する根本原則、さらに徹底的な企画を施行する法律、文化の範囲を広げる方法―これらのものを借りる必要もなければそうするのは不適当であると信じ、ペルシャとペルシャ人が状況について熟考し、進歩のための、自分自身の技術を作り出すのがずっと適していると信じている人々について――

もし国家の偉大な人々の強力な知性とすぐれた技能と、宮廷のもっとも卓越した者らの精力と決意、さらに知識と能力があり政治的生活の偉大なる法律に精読した人々の断固とした努力がすべて結合され、全ての人々ができる限りを尽くし、あらゆる詳細事や諸事の主な傾向について調べ、熟考したなら、彼らが立てる効果的な計画のために、ある(いくつかの)状況が十分に改革されることは非常にありえることである。しかし、大部分の場合においては、彼らは借りらざるをえないであろう――なぜなら、過去の何世紀にもわたって、何十万人もの人々がこれらの実質的な進歩をもたらせるようになるまでこれらの事柄を試すことに全人生を捧げてきたのだから。もしそれがすべて無視され、われわれ自身の国にわれわれ自身のやり方でそれらの手段を再びつくり出す努力がなされ望まれていた進歩がとげられるなら、数多くの年代がたっても目標は達成されないであろう。たとえば他の国々では長いあいだねばり強く努力がなされ、ついには蒸気力が発見され、その手段により、かつては人間の力が耐えられないたいへんな仕事を容易になすことが可能にされたのである。もしわれわれがこの力を使わず、その代わりのものを発明しようとできるだけの努力をしたなら、どれだけ時間がかかることか。それゆえに蒸気の使用を続けながら同時に、よりすぐれた力があるかという可能性を調べることが好ましいのである。人は、役に立つと証明された他の技術的進歩や科学や技術や政治的方法を考慮すべきである――つまり、時代を通して繰り返し試され、その使用法や利点が確実に国家の栄光と偉大さしょして人民の幸福と進歩を生み出した手順である。もし、何の妥当な理由もなしにこれらの事物がすべて捨て去られ他の改革方法が試みられたなら、そのような改革がおこり、それらの利点が証明されるころには、何年もの年が過ぎ、幾人もの人々の人生が過ぎ去るのであろう。そのあいだ、「われわれはまだ、道の最初の曲がり角にいるのである。」

過去に対して現在の優れた点は、次の通りである――つまり、現在は、そのすばらしい駅が過去に実証されてきた多くの事物を受け継ぎ、模範として採用し、また、現在はそれ自身の新しい発見なし、これらの発見によりその貴重な遺産を増すということである。それで、過去の業績と経験は現在に知られており、かつ現在手に入れることができているのに対し、現在に特有な発見が過去は知られていなかったことは明らかである.これは、後の世代が能力ある人々によって構成されることを予想するものである――さもなくば、いかに多くの後の世代がその祖先の又は、前提とする知識の限りなき大会の一滴をさえもかけたことか。

少し熟考してみよ――神の御力により、幾人かの人が地上におかれたと課程してみよう。明らかにこれらの人々は、その人間的威厳幸せと安楽を与えてくれる多くのものを必要とする。さて、これらの人々がこれらの事物と同時代の人々が借りることがより実用的であろうか。それとも彼らは何世代も何も借りずに、その代わり独立的に、人間の生存にひつような手段をそれぞれ作り出すべきであろうか? 十分に発展した社会の最高レベルにおける進歩の法律や原則や根本原理――これらは他の国具にで広まっているのだが――は、ペルシャ人の状態と伝統的な必要時に適しておらず、そのため、イラン国内で、国の計画者らがペルシャに適した改革をもたらすよう細大の努力を尽くす事が必要である――このようん、ある人たちが主張するなら、彼らにまず、そのように外国から取り入れられたものからどのような外が及ぼされるか説明させるがよい。

もし、国が建設され、道が修復され、様々な手段で多くの無力な人々が改善され、貧乏人が復興され、大衆が進歩の道に進められ、大衆の富の手段が増され教育の範囲が広げられ、しいフが適切に組織化され、個人の権利の自由な行使と個人の身や財産や威厳や声望されたたなら――これらのことはすべてペルシャ人の性質をこれらの手段と相反する矛盾するであろうか?これらの手段と相反するものはすべて、あらゆる国においてうでに有害であると証明されており、どの地域にも同じように関係することである。

これらの迷信はすべて、英知と理解の欠如、そして不十分な観察と分析から生じるものである。まことに、反動主義やぐずぐずとする人の大部分はたわいない言葉の阻塞の下に、自らの利己的な関心事を隠しており、うまく隠された目的とは何の関係もない一般的な言明により無力な大衆の頭を混乱さ

させているだけなのである。

おお、ペルシャの人々よ!心は聖なる信託物である――このすぐれた国の聖なる栄誉と永続する偉大さが吉兆の天に真の朝のごとく輝き出てるまで。それを自己愛の汚れから清め、純粋な意図の宝冠により飾れよ。地上におけるこの一握りの日々は影のように過ぎ去り、おわってしまうであろう。それでは、神がその御恵みをあなた方に放ってくださり、放って下さり、あなたがたが、その後に来る者らの心とくちびるに好ましい記憶を残すよう、努力せよ。「わたしが、子孫により誇りを持ってかたられるようになしたまえ。」(1.コーラン26:84)

自らの益をWすれ、神の選ばれ者らのように、全ての』人々の益のために奉仕において同胞らと争い、ついには神の祝福と永久的な確証により強められて、この強大な国をその古代の栄光の頂点に引き上げ、この衰えた土地を甘く新たな生命へと復帰させ、そして精神的な春のように、人々の生命である樹を、捧げられた喜びの新鮮な葉と花と実で飾る力を与えられた者――そのような者は幸いである。