パリ講和集

パリ講話集

アブドル・バハの講演 一九一一年

まえがき

アブドル・バハ(本名アッバス・エフェンディ)のヨーロッパ訪問について書かれたものはすでにたくさんあります。彼は、パリのカムワンス四番地に滞在中、彼の教えを聞こうと熱心に集まって来る人びとに、毎朝簡単な「講話」を行われました。

こうした聴衆は、国籍を異にする人々、学識者や学のない人、各種宗派の信徒たち、神知学者や不可知論者、唯物論者や唯心論者など、種々雑多でした。

アブドル・バハはペルシャ語で話されましたが、それはフランス語に飜訳されました。

私は二人の娘と私の友人とで、それぞれ交代でこれらの講話をノートにとりました。

多くの友がこのノートを英語に飜訳して出版してほしいと言ってきたのですが、私はためらっていました。しかし、アブドル・バハご自身からそれを出版するよう依頼されるに至って、私達は勿論これを承諾いたしました。もっとも、承諾はしたものの「こうした素晴しい、高貴な言葉を再現するとなると私達の筆はあまりにも貧弱である」という感情をおさえ得なかったのですが。

フランス語の飜訳は優れた訳者を得て、無理のない、すんなりとした平易な文体にすることができましたが、英語の飜訳表現はつたないものです。ただ、原文に盛られた味わいを損なうことがないように努力いたしました。

サラ・ルーザ・ブロムフィールド

メリー・エセル・ブロムフィールド

ローズ・エリナー・セシリヤ・ブロムフィールド

ベァトリス・マリオン・プラット

一九一二年一月 ヴヴェーモンペルランにて

目次

第一編

第一   見知らぬ人や外国の人たちに思いやり深く、親切でなければならない  七ページ

第二   正しい思想の力と価値はそれが行動に反映されるかどうかで決まる   十ページ

第三   神こそ真の治癒を施す唯一の偉大なる思いやり深い医師である       一一ページ

第四   東洋人と西洋人との融合の必要性                         一三ページ

第五   神はすべてを包容し、何ものにも包容されない               一五ページ

第六   戦争の悲しむべき原因と平和を追求するすべての人の義務          二〇ページ

第七   真理の太陽                                     二三ページ

第八   理の光は今や東洋と西洋を照らしている                        二五ページ

第九   普遍の愛                                      二七ページ

第十   アブドル・バハの入獄                                 三一ページ

第十一  神の与え給うた人間への最大の賜物                          三三ページ

第十二  真理の太陽を曇らすもの                               三五ページ

第十三  宗教上の偏見                                    三八ページ

第十四  神の人間への恩恵                                  四二ページ

第十五  多様性の中の美と調和                                四四ページ

第十六  キリスト出現に関する予言の真の意義                        四七ページ

第十七  神と人間との間の媒介力としての聖霊                        四九ページ

第十八  人間における二つの性質                              五一ページ

第十九  物質的発展と精神的発展                              五三ページ

第二十  物質の進化と魂の発展                               五五ページ

第二十一 パリの心霊集会                                  五八ページ

第二十二 光りの二つの種類                                 五九ページ

第二十三 西洋における精神的抱負                              六一ページ

第二十四 パリのバハイ公会堂での講演                            六三ページ

第二十五 バハオラ                                      六五ページ

第二十六 よい思想、観念は実行に移さなければならない                     七〇ページ

第二十七 水の洗礼と火の洗礼の真の意義                            七二ページ

第二十八 心霊同盟における講演                                七四ページ

第二十九 霊の進化                                      七九ページ

第三十  アブドル・バハの念願と祈り                              八五ページ

第三十一 肉体と霊魂と精神とについて                             八六ページ

第三十二  バハイ信徒は世界によりよき状態をもたらすために心をつくして働かなければならない

八九ページ

第三十三 中傷について                                    九二ページ

第三十四霊性なくして真の幸福と進歩はあり得ない                        九六ページ

第三十五 苦しみと悲しみ                                   九九ページ

第三十六 完全な人間感情と美徳                                一〇二ページ

第三十七 外国人の苦難に対する冷淡な無関心ついて                       一〇四ページ

第三十八  バハイ信徒の数の少ないことに落胆してはならない                 一〇六ページ

第三十九 パリのパスター・ワグナー教会でのアブドル・バハの言葉           一〇八ページ

第二編

第四十  パリにおける神知学会                                          一一六ページ

第四十一 第一原理-真理の探求                               一二三ページ

第四十二 第二原理-人類の一致和合                             一二六ページ

第四十三 第三原理                                     一二九ページ

第四十四 第四原理-宗教と科学の関係の承認                         一三〇ページ

第四十五 第五原理-偏見の廃棄                               一三四ページ

第四十六 第六原理-生活の手段                               一三九ページ

第四十七 第七原理-人間の平等                               一四二ページ

第四十八 第八原理-世界平和                                一四三ページ

第四十九 第九原理-宗教は政治に干渉せず                           一四五ページ

第五十   第十原理-両性の平等                                 一四八ページ

第五十一  第十一原理-聖霊の力                                一五一ページ

第五十二 偉大で、栄光ある大業                                一五四ページ

第五十三 最後の集会                                                      一五五ページ

第三篇

第五十四 ロンドンの聖マルチン小路の友の会でのアブドル・バハの演説    一六一ページ

第五十五 祈り                              一六二ページ

第五十六. 悪                               一六三ページ

第五十七  魂の進歩                             一六四ページ

第五十八  愛の四つの種類                          一六七ページ

第五十九 アブドル・バハの示した書簡                              一七〇ページ

第一編

第一 見知らぬ人や外国の人たちに思いやり深く、親切でなければならない

(一九一二年十月十六日、十七日)

人は、神へ心をむけるとき、到るところ、万物が太陽の光で輝いているのに気づきます。すべての人が自分の兄弟です。皆さんは、外国から来た、見知らぬ人に出会うとき、昔ながらのかたくな心で思いやりのない冷たい態度をとるようなことがないようにしましょう。まるで彼らが悪事をはたらく者か盗人か、または不作法者なのではなかろうかといった疑いの視線を投げかけてはならないのです。皆さんは、見知らぬ人というのはひょっとしてそうした好ましからざる人であるかも知れないからそのような人と知り合う危険をおかさないよう細心の注意を払う必要があると思っておられるかもしれません。

皆さん、自分のことしか考えないような人になってはなりません。トルコ、日本、ペルシャ、ロシヤ、中国、その他、世界中のどの国から来た見知らぬ人にも親切であるように。

彼らが完全にくつろげるようにしてあげましょう。滞在の場所を聞き、何か力になれることはないか尋ね、彼らの滞在を少しでも楽しいものにするよう努めましょう。

このようにする中で、たまには皆さんが最初疑ったようなことが起こるかも知れませんが、たとえそうであってもやはりその人たちに親切であるべきです。親切は彼らがより善い人間になるのを助けます。

とにかく、どうして他の国から来た人たちは見知らぬ人として扱われなければならないのでしょう。

あなたが出会う人に、あなたが自分はバハイ信徒であると口に出して言わなくとも、バハイ信徒であると分かってもらえるようにしましょう。

すべての国の人に親切であれというバハオラの教えを実行してください。言葉だけで友情を示すことに満足してはなりません。あなたの道において出会うすべての人に対してあなたの心を愛情あふれる優しさで燃え立たせなさい。

西洋の皆さん、東洋から来て皆さんの間に滞在しようとする人たちに親切にしてください。皆さんが彼らと話すときは自分たちの因習は忘れてください。彼らには皆さんの古くからのしきたりは分からないのですから。東洋の人たちから見れば、そのような態度は冷たく、薄情に思えます。むしろ、皆さんは思いやりをもって接しましょう。あなた方が普遍的愛情に満ちているということを示しましょう。皆さんがペルシャ人、あるいは他の国から来た見知らぬ人に会ったときは、友人に話すように話しかけてください。もしその外国人が一人ぼっちであれば手伝い、悲歎にくれていたら慰め、貧窮に苦しんでいたら救いの手をさしのべ、虐げられていたら護り、苦しんでいたら楽にしてあげましょう。そうすることで皆さんは、ただ言葉のうえだけでなく、行為においても本当に全ての人はみな兄弟であると思っているということを証明できるのです。

普遍の友情は素晴しいということに同意し、人類が一つに結束することは崇高な理想であると話すことにいったい何の益があるでしょう?こうした思想は行動に移されないかぎり何の役にも立たないのです。

この世の悪が存在し続けるのは、人々がただ自分たちの理想を語るだけで、それを実行に移すよう努力しないからです。もし行動が言葉にとって代るなら、世の中の苦難はまたたくまに楽しみに変えられるでしょう。

大きな善を行い、それを口にしない人こそ完成の途上にある人です。

小さな善をなし遂げ、それを大げさにいう人はとるに足らぬ人物です。

もし私が皆さんを愛していれば、私の愛について話し続ける必要はありません。言わなくとも皆さんは感じとるでしょう。一方、もし私が皆さんを愛していなければ、それも皆さんは感じることができ、私が皆さんを愛していると何千回言っても、皆さんは私を信じないに違いありません。

世間には、善いことをしたとおおげさに、立派な言葉をならべて口にする人があります。それは彼らが世間的な名声を求め、同輩たちよりももっと偉く、善い人間と見られたと思っているからです。至高の善を行う人は、それらの行為についてほとんど語りません。

神の子供たちは自慢することなく、神の掟に従って働きます。

皆さんはけっして暴虐や圧制を行うことなく、世界中に正義が行き渡るまで休むことなく働き、心を清らかに保ち、邪なことにかかわらないように。これが皆さんに対する私の望みです。

以上は、皆さんが神に近づくうえで必要なことであり、私が皆さんに期待していることです。

第二 正しい思想の力と価値はそれが行動に反映されるかどうかで決まる (十月十八日)

人間の実体はその人の思考であり、その肉体ではない。思考の力と動物性とはパートナーなのです。人間は部分的には動物的な創造物ですが、しかし人間以外のすべての創造物に優る思考の力を持っています。

もし人が不断に神のことがらに思いを向けていれば、やがて彼は高徳の人となるでしょう。しかし、思考が高められず、現世の俗事ばかりにとらわれるなら、その人はますます物質的になり、遂には動物より少しましといった状態になってしまいます。

思考は二つに分けることができます。

(第一)思考という枠内にとどまった思考

(第二)行動に現される思考

男でも女でも、高尚な思考を誇りにしている人たちがいるものです。しかし、こうした思考が行動にならなければ、それらはなんの役にもたちません。思考の力は、それがどのように行動に現われるかによってきまります。進化し発展する世界で、ひとりの哲学者の思想が他の人々の行動に反映されることがあるかもしれませんが、それでも、自分たちの生活の中でそれらの立派な思想を実践することはできず、また実践しようとはしないのです。哲学者の大多数がこの部類に属しており、彼らの思想は彼らの行動とはかけ離れています。これが精神的教育者といわれる哲学者と単なる哲学者との間の違いです。つまり、精神的教育者は自らが説く教えに従う最初の人なのです。彼は自分の精神的な概念や理想を実行の世界に移します。彼の聖なる思想は世界に示されます。彼の思想はすなわち彼自身であり、彼とは不可分なのです。正義の重要性と偉大さを強調しながら、強慾な君主の抑圧と虐政を助長するような哲学者は、第一の部類に属するものと思って間違いないのです。なぜなら、彼は聖なる思想を掲げながら、それに応じた聖なる美徳を実践しないからです。

こうした状態は精神的哲学者にはあり得ないことです。彼らはつねにその高貴な思想を行動の世界に現わすものだからです。

第三 神こそ真の治癒を施す唯一の偉大なる思いやり深い医師である (十月十九日)

すべて真の治癒というものは神から来ます。病気の原因には二つあります。一つは物質的なものであり、もう一つは精神的なものです。病気が身体上のものであれば物質的治療が必要であり、精神上の病気なら精神的な治療を必要とします。

私たちが病気の治療を受けている間に、もし神の御恵みがあれば、私たちは健康を回復することができます。なぜなら、薬剤は外的な、目に見える手段でしかなく、私たちはそれを通して神の治癒をうけるのです。精神が癒されないなら、肉体の治癒は何の価値もありません。すべては神の手中にあります。神がなければ私たちの健康はあり得ないのです。

世の中には、自分が研究してきた、まさにその病気で死亡する人がたくさんあります。たとえば、アリストテレスは消化器を専門に研究した哲人ですが、美食がもとで死亡しました。アヴィゾーは心臓病の専門家でしたが心臓病で死にました。神こそ真の治療を施す力を持つ、思いやり深い偉大なる医師です。

すべての創造物は、その知識、力、自立性がいかに偉大に見えようとも、神に依存しているのです。

強大な権力を誇る地上の君主たちをみてください。彼らは人間が与えることができる権力のすべてを持っているのですが、彼らも、身分卑しい農夫とまったく同じように、死の招きには従わなければならないのです。

動物を見てみましょう。一見強そうに見えても、なんと頼りないことでしょう。動物の中で一番大きい象にしても、蝿に悩まされるのです。ライオンは虫にさされて悩まされています。創造物の中で最高の形態をもつ人間でさえ、生きるために多くのものを必要とするのです。まず、第一に空気を必要とします。数分間でも空気が絶たれれば人間は死ぬでしょう。人間はまた、水や食料、衣服、温度、その他多くのものに依存して生きています。人間は危険と困難とに取巻かれています。肉体だけでこれらを処理することはできません。自分の周囲を見れば、すべての創造物がいかに自然の法則に依存し、またその法則に支配されているかが分るでしょう。

人間だけが精神的な的な力によって、自分自身を解き放ち、物質世界を超越し、思うままに物質界を支配できるのです。

しかし、この人間も神の助けなくしては死滅する野獣と同じです。しかし、神は人間に、神の慈愛の治療を懇願し、それを受けることを可能にする素晴しい力を他の贈り物の一つとして授けてくださったのです。

しかし悲しいかな!人はこの至高の賜物に感謝することなく、怠慢の眠りをむさぼり、神が人間に示し給うた偉大な慈愛に注意を向けず、神の栄光から顔をそむけ、闇黒の中をさ迷っているのです。

みなさんはこういう風にならないよう、あなた方の顔をしっかりと神の光明に向けてください。そして、それによって人生の暗闇を照らす松明(たいまつ)のようになられますように。これが私の切なる祈りです。

第四 東洋人と西洋人との融和の必要性(十月二十日、金曜日)

アブドル・バハの言葉

現在とおなじく過去にも、「聖なる真理の太陽」は常に東方の地平線から輝き出ました。

アブラハムは東洋に出現しました。モーゼが現われて人びとを教え導いたのも東洋でした。また、主キリストは東方の地平線上に現れ、モハメットも東洋に出現しました。バブが出たのは東方の地ペルシヤであり、バハオラが世に出て教えを説いたのも東洋でした。すべての偉大なる「精神的教育者」は、東方の世界に生れ出ました。キリストという太陽は東方の暁となって姿を現わしましたが、その光輝は西方にまで及び、その燦然たる栄光の輝きは西方にいっそう明らかに見られたのです。キリストの教えの聖なる光は西欧において力強く輝きわたり、その生誕地におけるよりいっそう急速な躍進を遂げたのです。

現代、東洋は物質的発展を必要としており、西洋は精神的理念を欠いています。西洋は東洋に精神的光明を求める一方で、その科学的知識を東洋に与えるというのは合理的で、これこそ恩恵の交換なのです。

東洋と西洋とは欠けているものを互いに補い合うために融和すべきです。この結合が真の文明をもたらし、そこでは精神性が物質的な形で表現され、実現されるのです。

このように、相互に補い合うようになると調和が拡大し、すべての国民は一つに結ばれ、素晴らしい完全の域に達し、強固な結合が生まれます。そして、この世は神の属性を反映する光り輝く鏡となるのです。

東洋人であると西洋人であるとを問わず、私たちはすべてこの高邁な理想を達成し、地上のあらゆる民族の結合を固めるために、日夜、心を込めて努力しなければなりません。こうしてはじめて、すべての人は活き活きとさせられ、目覚めさせられ、この上もない素晴しい力を与えられ、人類の幸福は確実なものとなります。

私たちは、神の限りない慈愛によりペルシャが西洋のもつ物質的、知的文明を受け取り、そのお返しとして、神の恩寵(おんちょう)によってペルシャが精神的光明を西洋に与えることができるよう、祈るべきです。西洋と東洋の諸国民が一体となって、献身的に熱心に働くなら成功するに違いありません。なぜなら聖霊の力が彼らに加護を与えるからです。

バハオラの教えの原理は、これを心魂こめて理解し、認識できるようになるまで、一つ一つ、丹念に研究しなければなりません。そうすれば、あなた方は光明の強力な使徒となり、また、本当に精神的な、聖なる戦士となって、真の文明を修得し、ペルシャ、欧州、そして全世界にそれを浸透させるでしょう。

これはこの地上における楽園であり、その時、全人類は神の栄光の王国にあって、融和の幕屋の下に共に集います。

第五 神はすべてを包含し、何ものにも包含されない (十月二十日 金曜夜)

アブドル・バハの言葉

パリでは毎日、政治、商業、教育、芸術、科学、その他数多くの間題をさまざまな目的のために討議する集会が数々催されています。

それらはすべて素晴しい集会ですが、本集会の目的は、聴衆の皆様の心を神へ向かわせ、人類の福祉のために働く最善の方法を学び、偏見を絶滅する方法を研究し、愛と普遍の同胞の思想を人類の心に養うためのものです。

神は私たちの集会の動機を認め、私たちを祝福しておられます。

旧約聖書には、神が「私自身のかたちにかたどって人間を造ろうではないか」と言われたと書かれています。ヨハネ伝には、キリストが「われは天なる父の中にあり、父はわれの中に居たまう」と言われたとあります。コーランでは、神は「人間はわが神秘であり、われは人間の神秘である」と言われました。バハオラは、神が「汝の心はわが家である。わが降臨のためにそれを清めよ。汝の精神はわが啓示の場である。わが顯現のためにそれを浄めよ」と言われたと書かれています。

すべてこうした聖なる言葉は、人間というものは神のかたちにかたどって造られたということを示しています。しかもなお、神の本質は人間の心意には理解できないものです。有限の理解力をもって、無限の秘義を理解することはできないからです。神は万有を包含されます。神が他のものに包含されるということはあり得ないことです。包含するものは包含されるものより優位を占めます。全体は部分よりは大きいのです。

人間が理解できるものは、人間の理解力の範囲に止まります。ですから、人間の心意は神の秘義がどのようなものであるかを理解することはできないのです。私たちの想像力ではせいぜい私たちが心に想像できる範囲のことを心に描き出すだけです。

理解力の程度は、創造物のそれぞれの世界で違います。鉱物界、植物界、動物界ではそれぞれその世界の圏外でいかなる創造が行われているかまったく理解できません。鉱物は植物の成長する力を想像することができないのです。樹木は動物が有する運動の力を理解できず、また視覚、聴覚、嗅覚が何を意味するかを理解することもできません。これらはみな物質な創造に属します。

人間もまたこの創造の性質を分かち合います。人間界より低級な創造界には人間の心に起ることを理解することはできないのです。動物は人間の知恵を認識することができず、ただ動物的な感覚によって感知したことしか分からないのです。また抽象的なことを想像することはできません。動物には、世界は丸い、地球は太陽の周りを回転している、あるいは、電信機の構造といったようなことは理解できないのです。こうしたことは人間だけに理解できることなのです。人間は最高の創造物であり、あらゆる創造物のうちでもっとも神に近いものです。

すべて優位を占める世界はそれより低級な世界には理解できない世界です。したがって、人間という創造物がどうして万物を創造し給うた全能の創造者を理解することができましょう。

私たちの想像したものは神の実体ではなく、神は不可知のもの、考えの及ばないものであり、それは人間の最高の概念を遙かに越えたものです。

存在する創造物はすべて、神の恩恵に依存しています。神の慈愛はそれらに生命を与えます。太陽の光が全世界に輝きわたるように、無限の神の慈愛はすべての創造物の上にそそがれています。太陽が地上の果実を熟させ、すべての生きとし生けるものに生命と温かさを与えるように、真理の太陽はすべての魂を照らし、神の愛と知識の炎で満たしているのです。

人間が聖なる精神の宿る魂を持っているということでもまた、人間が他の創造物より優位を占めるということが分かります。低位の創造物の魂は本質において劣等なのです。

あらゆる創造物のうちで人間は神の性質に一番近いものであり、従って、神の慈愛の素晴しい賜物を受けとるものであるということは間違いありません。

鉱物界は生存する力をもっています。植物は生存し、成長する力をもっています。動物には生存と成長に加え、動きまわる力と感覚の機能があります。人間界は、すべてこれら低位の世界の属性を有するだけでなく、さらに多くのものを持っています。人間はいままであげたそれぞれの創造の総和で、それらすべてを包含しているのです。

神は人間に、豊かな神の栄光をうけとることを可能にする英知という特別の賜物を施与し給いました。完全な人間は、真理の太陽を反映し、神の属性を顕現する磨かれた鏡のようなものです。

主キリストは「われを見るものは父を見るものである」と言いました。つまり、神は人間の中に顕現されたのです。

太陽が天上の場を去って鏡の中に降りてくるのではありません。昇ったり降ったり、また、行ったり来たりという行為は無限なるものの属性ではなく、それらは有限なものの方法です。完全に磨かれた鏡である神の顕示者の中には、人間が理解できる形でもろもろの神性が映し出されます。

これは極めて単純なことですから、誰にでも理解でき、理解できれば承認せざるを得ないことになるでしょう。

私たちが、理解することも信ずることもできない教義を拒否したからといって、私たちの天なる父は私たちに責任をおわせるようなことはされません。彼は常に限りなく、彼の子供たちに公平であるからです。

この例は極めて論理的ですからそのことに進んで考える人なら誰でも容易に把握することができるでしょう。

皆さんの一人一人が、神の愛の光に輝くランプになられますように。皆さんの心が和合の光で燃えるように。そして、皆さんの目が真理の太陽の光輝にたらされますように。

パリの街は大変美しく、現代の世界のどの国にも見られないほどに各分野において物質的発展を遂げた、どこよりも文化的な街です。しかし、長い間、パリの街には精神的光が射し込まなかったので、その精神的発展は物質文明からするとずっと遅れております。パリを精神的真理の実在に目覚めさせ、その眠れる魂に生命を吹きこむためには最高の力が必要です。皆さんは、パリの覚醒という仕事のために、また最高の力の助けによってパリの人々を再生させるために、皆で和合しなければなりません。

病気が軽いときはちょっとした治療で十分治りますが、その軽い病気も恐るべき重病になると、聖なる医師によって極めて強力な治療が施されなければなりません。寒冷地で花を咲かせ実を結ぶ樹木もあれば、完全に成熟するために最も暑い日光を必要とする樹木もあります。パリは、その精神的展開のために、神の聖なる力に燃えさかる太陽を必要としている樹木の一つです。

皆さん一人ひとりが、しっかりと聖なる教えの真理の光に従っていかれますように。これが私の念願です。そうすれば、やがて神は皆さんがあらゆる困難を克服し、人びとの間の不和と憎悪の原因となっているあらゆる偏見を絶滅できるよう、聖霊によって力づけて下さることでしょう。皆さんの心を神の大きな愛で満たし、すべての人にそれを感知してもらうようにするといいでしょう。すべての人は神に奉仕する僕であり、神の限りない恩恵に浴す資格をもつのです。

特に、唯物的な、退歩的な思想の持主に対しては気長に、しかも最高の愛を示すべきです。皆さんの親切の輝きによって彼らを仲間としての和合に誘うことができましょう。

皆さんが脇道にそれることなく、真理の聖なる太陽に従う、あなた方のすばらしい仕事に忠実ならば、この美しい都に普遍的な兄弟愛に祝福された日の夜明けをみるのです。

第六 戦争の悲しむべき原因と平和を追求するすべての人の義務 (十月二十一日)

アブドル・バハの言葉

皆さん、幸せでお変わりないことと思います。しかし、私は憂鬱で悲しい気持です。ベンガジの戦争のニュースが私の心を悲しませているからです。私は現代世界に今なお人間の残忍性が残存していることを実に不思議に思います。人間が、同胞の血を流しながら、相互に殺し合い、朝から晩まで戦争をするというようなことがどうしてあり得るのでしょうか。いったい、その目的は何なのでしょうか。地球の一部を所有するということなのでしょうか。動物でも闘争するときは、その攻撃について直接の、もっと道理にかなった理由があります。動物よりはずっと高度な部類に属する人間が、土地の所有をめぐって、同胞を殺し彼らを悲惨な状態に追い込むというところまで身をおとすとは、なんと恐るべきことではありませんか。

すべての創造物の中で最高の人間が、物質のうちでも最下級に属す土地の獲得のために戦うとは。土地というものは一国民に属するものではなく、それはすべての国民のものです。この土地は人間の住む家ではなく、彼の墓所なのです。人類は自ら埋葬される墓地を求めて戦争をしているに過ぎません。この世で、朽ち果てた人間の肉体のおさまる場である墓ほど恐ろしいものはないでしょう。

いかにその征服者が偉大であろうとも、また、いかに多くの国々を隷属させたにせよ、いったい彼はどれ程の荒廃した国土を保持できるでしょう。それはただごく小さい一部の土地、すなわち自分の墓地だけなのです。国民の生活状態を改善するために、文明を普及させるために、(野蛮(やばん)な風習に代えて正しい法律をしくために)もっと広い土地が必要というのであれば、平和裡の内に必要な領土を拡大することができるはずです。

戦争は常に人間の野望を満足させるためにされます。少数の人の世俗的利益のために無数の家庭がこの上もない悲惨な状態に追いまれ、幾多の男女の心が悲歎に暮れさせられるとは。

そして、私たちはいかに多くの未亡人たちが夫の死を悲しみ、いかに多くの残忍行為の物語を聞くことでしょう。死んだ父親を慕って泣き呼ぶ孤児たち、殺された息子のために泣きくれる婦人たちのいかに多いことか。

人間の残忍性の爆発ほど恐ろしい、悲しむべきことはありません。

皆さん、愛と和合に心からの思いを集中してください。戦いへの思いが湧いた時にはそれを払いのけ、それよりもっと強い平和への思いをふるい起していただきたいのです。憎悪の思いはそれよりずっと強力な愛の思いで絶滅させなければなりません。戦いへの思いはあらゆる調和、幸福、安寧、安心の状態を破壊に導きます。

愛の思いは同胞の思想、平和、友情、幸福を打ちたてます。

世界の兵士たちが殺すために劔をぬくとき、神の兵士たちは互いに握手をするのです。純粋な心とまこと溢れる魂で行動すれば、神の慈愛によってすべての人間の残忍性は姿を消してしまいます。世界の平和などというものは到底達成されない理想だと思わないでください。

神の偉大なる慈悲に不可能なものはありません。

皆さんが、地上のすべての民族と仲よくしたいと心の奥底から願うなら、そのような精神的な、積極的な思いは他にもひろがり、それが他の人たちの願いにもなり、だんだんその力は強くなり、遂にはあらゆる人間の心に同じ思いを植えつけることになるでしょう。

絶望しないでください。精進しましょう。誠実と愛は憎悪の念を征服するでしょう。不可能と思われた多くのことが、今日、現実のことになっています。神の世界の光明にしっかりと面を向けることです。すべての人たちに愛を示しましょう。「愛は人間の心の中にある聖霊の息吹です。」勇気をだしましょう。神は努力し、働き、祈る神の子たちを決して見捨てられません。平穏と調和が、この闘争の世界の全部を取り巻くようにという熱心な願いで心を満たしましょう。そうすれば、皆さんの努力は功を奏し、世界全体が同胞となって、平和と善意のうちに神の国が出現するでしょう。

本日この部屋にはフランス人、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人という多くの民族の人たち、兄弟姉妹が友情と調和のうちに集っています。この集会をこの世界に実際に出現するものを示すものとしようではありませんか。それはすべての神の子供たちが自分たち皆は一本の樹木に茂る葉であり、一つの庭園に咲きほこる花であり、大洋の一滴であり、愛という名の唯一無二の父の息子であり、娘であるということを悟るときに出現するのです。

第七 真理の太陽 (十月二十二日)

アブドル・バハの言葉

今日は実に好い天気です。太陽は明るく地上に輝き、あらゆる創造物に光と温かさを投げかけています。真理の太陽もまた燦然と輝きわたり、人々の魂に光と温かさを与えています。太陽は地上の生きものすべての肉体に生命を与えます。太陽の温かさなくしては生物の成長は妨げられ、その発達は途絶え、ついには朽ち果ててしまいます。人間の魂もこれと同じで、魂を進化発展させ、訓練し、生気をふきこむためには真理の太陽の光線がその魂に注ぎ込まれることが必要です。太陽と人間の肉体との関係のように、真理の太陽は人間の魂に深くかかわります。

高度に物質的発展をなしとげた人もいるかも知れません。しかし、真理の光明がなければ彼の魂はその成長を妨げられ、餓死の状態になるでしょう。また、物質的にはめぐまれず、社会的出世という点ではどん底の暮らしをしている人がいるかも知れません。しかし、彼の魂が真理の太陽であたためられていれば彼の魂は偉大であり、その精神的知性はすばらしいに違いありません。

全盛をきわめたキリスト教初期の時代のあるギリシヤ哲学者は、自らはキリスト教徒ではなかったのですが「私の信ずるところでは宗教こそ本当の文明の基礎である」と書いています。文明の確固とした基礎は民族の知性、才能は勿論のこと、その道徳的要素が教育されてはじめて確立されるものだからです。

道徳について教えているのが宗教ですから、宗教こそが最も正しい哲学であり、その上にのみ永遠の文明が築かれるのです。この例として、彼はその道徳性が極めて高度であった当時のキリスト教徒を指摘しています。この哲学者の信ずるところはまことに真理にかなったものといえます。なぜならキリスト教文明はこの上もなくすばらしいものであり、世界で一番進歩したものだったからです。キリスト教の教えは神の真理の太陽に照らされた信者たちはすべての人を兄弟の如く愛し、何ものも恐れず、死をも恐れないよう教えられました。自分自身を愛するように隣人を愛すること、そして、自分自身の利害を顧みることなく人類のより大なる利益のために努力するのです。キリストの唱えた宗教の偉大なる目的は、全人類の心を神の光り輝く真理へより近く導くことでした。

もし、キリストの信者たちがたゆみなく忠実にキリスト教の原理に徹し、信奉し続けたなら今ごろは偉大なる光輝ある文明が全世界を支配し、天の王国が地上に出現しているはずであり、いまさらキリストの言葉をあらためて伝え、信者たちを再び目覚めさせる必要はなかったでしょう。

しかしながら、実際はどうだったでしょう。人々は、自分たちの主キリストの神の栄光に光り輝く教義に従うことをせず、主より顔をそむけ、人びとの心は冬におそわれたのです。人間の肉体の生存が太陽の光線に依存してはじめて可能であるように、人間の魂の精神的美徳を育てるにはぜひとも光り輝く真理の太陽の光線がなければなりません。

神は本来、神の子供たちである私たちを不幸なままに放置されはしません。つまり、冬の闇黒におそわれて私たちの心が暗くなると、祝福された春が再び訪れるように、神は再び使者、予言者を遣わされます。真理の太陽は再び世界の地平線上に昇り、眠れる人たちの目に光を投げこみ、彼らを目覚めさせてその目に新しい夜明けの光を仰がせてくださるのです。やがて再び、人類の樹木は花を咲かせ、すべての民族を癒すために正義の実を結ぶでしょう。というのは、人は真理の声に耳をふさぎ、聖なる光から目をそむけ、神の法を無視しているので戦争、混乱、不安、不幸の闇黒が地上を荒廃させているからです。皆さんは一つになって、すべての神の子供たちをそれぞれ真理の太陽の光の中に連れ出し、さしこんで来る栄光の輝きによって闇黒が取り除かれ、神の慈愛の温かさによって冬の厳しさ、冷たさが溶かされるように努力していただきたい、これが私の祈りです。

第八 真理の光は今や東洋と西洋を照らしている (十月二十三日、月曜日)

とかく人は、あるところで人生の歓びを見出したら、もっと大きな歓びを見出そうとしてそこへ戻っていくものです。ある鉱山で金を発見した場合、再びその鉱山で更に多くの金を採掘しようとします。これは、神から与えられた、人間の潜在力、自然の本能であり、人間が生れながらに持つ活力です。

西洋はいつも精神的信条を東洋から受け入れてきました。天国の歌のしらべははじめ東洋で聞かれました。しかし、それは西洋においてより大きな音声となって人びとの耳になりひびいたのです。

キリストは東方の空に明星のようにかがやき出でましたがその教えは西洋においてより完成した光を放ちました。つまり、その勢力は彼の出生の地、東洋におけるよりもずっと堅固に西洋に根をおろし、その大業は一層高度に拡大したのです。

キリストの歌のひびきは西欧世界の全土に満ちあふれ、人びとの心に浸透しました。

西洋の人びとは堅実で、彼らが建設するものはすべて岩のような基礎の上にたっています。実に不動の精神を持つ民族で、容易に物事を忘れたりはしません。

西洋はちょうど強い頑丈な樹木のようなものです。しとしとと降る雨で栄養をとり、太陽の光をうけるとやがて花を咲かせ、時が来れば素晴らしい実を結びます。主キリストによって映し出された真理の太陽が西洋の世界に光をあててから久しいときが流れ、その間に神の面は人の罪と忘却のためにヴェールで覆われてしまいました。しかし、神に讃美あれ、いまや聖霊が新たに全世界にむかって話しかけているではありませんか。神の光を見ようと望むすべての人たちにこの上ない歓喜を与えようと、神の地平線から今ふたたび愛と知恵と力の星座がきらめきはじめたのです。バハオラは、いままで人々の魂を窒息させていた偏見と迷信のヴェールを剥ぎ取られました。人々がふたたび聖霊のいのちによって希望と生気とを与えられ、神の意志を実行しようとする望みが人々の心に湧いてくるよう神に祈りましょう。すべての人々の心と魂が生き生きとよみがえり、それによって人びとが新たな生まれ変わりを喜ぶことができますように。

人類には神の愛の光に輝く新たな衣が着せられ、それが新たな創造のはじまりとなるでしょう。最も慈愛深きお方の慈愛の雨は全人類に降りそそぎ、彼らは新しい生きかたを始めるでしょう。

皆さんは一つになって、この光栄ある目的のために努力され、新たな精神文明の建設に忠実に、しかも愛をもって尽力され、心からの喜びをもって素直に神の至高の計画を遂行する、神によって選ばれた者となってください。これが私の切なる願いです。まことに、成功はごくまじかに来ています。神の聖なる旗は高だかとひるがえっており、神の正義の太陽はすべての人の目にも明らかに地平線上に現れているのです。

第九 普遍の愛 (十月二十四日)

あるインド人がアブドル・バハに言いました。

「私の人生の目的はクリシュナの言葉を力の及ぶ限り世界にひろめることです」と。

アブドル・バハは 「クリシュナの言葉は愛の言葉です。すべての神の予言者たちは愛の言葉を説いたのです。戦争や憎悪を素晴しいと考えるものは一人もいません。皆さん口をそろえて愛と親切を最も善しとしたのです。」と答えられました。

愛の実体は言葉の上だけのものではありません。それは現実に行動となって現われるもので、言葉の上だけでは何の効果もないのです。愛がその力を現わすためには、そこに目的、手段、動機がなければなりません。

愛の本質を表現する方法は数々で、家族愛、国家愛、民族愛、それに政治的熱情、また自分が属し、関係がある社会への愛があります。こうしたものはすべて愛の力を示す手段であり、方法です。そうした手段や方法がなければ愛というものは決して表現されず、顕現されないので、見ることも、聞くことも、感じることもないでしょう。水は渇きを癒やし、種子を成長させるなど、色々な方法を通じてその力を示します。石炭はその偉力の一部をガスや光として表現し、電気はまたその一つの力を電灯として示します。もしガスも電気もなかったなら夜の世界は真っ暗であるに相違いありません。ですから、愛の顕現には手段、動機、目的、表現の方式が必要です。

私たちは人類に愛をひろめるために何らかの方法を見出さなければなりません。

愛は無限で果てしなく、無窮のものです。物質的事物には限りがあり、その範囲は限定されます。無限の愛を有限な物質的手段や方法で充分に表現することなど、とてもできるものではありません。

完全な愛はいかなる束縛もない、無欲無私の媒体を必要とします。この意味で家族愛は限られた愛です。血縁関係が最強のきづなではないからです。同じ家族のもので意見が違い、互いに憎みあうということもしばしばです。

愛国心も限られた愛の表現です。一つの国を愛するということはその他のすべての国を憎む原因となるので、完全な愛とはいえません。同胞の間にも争いがなくはないのです。

民族愛も限られた愛です。ここパリには何か連盟といったようなものがありますが、それは充分なものとは言えないでしょう。愛は国境を越えたものでなければなりません。

同族を愛するということは、しばしば他の民族を憎むことを意味します。同じ民族の間でも互いに憎みあっています。

政治的愛もまた、政党が互いに憎みあうことによって結ばれるもので、こうした愛はきわめて制限された不安定なものです。

自分が関係している団体に対する愛も同様に不安定です。たびたび競争が起り、それが嫉妬となり、遂には愛は憎悪に代ります。

二、三年前、トルコとイタリアは政治的に友好関係を結んでいましたが、今は戦争状態になっているのです。

すべてこうした形の愛のつながりは不完全なものです。普遍の愛を充分に表現するためには、限りのある物質的結びつきでは不十分ということは明白です。

人類に対する無私無欲の偉大なる愛はこうした不完全な、半ば利己的な結合のいかなるものにも拘束されはしません。この人類愛こそが全人類に可能な唯一の完全な愛であり、聖霊の力によってはじめて実現できるものです。世俗的ないかなる力もこの普遍の愛を完成させることはできないのです。

すべての人々がこの神の愛の力によって結ばれるようにしましょう。すべての人々が真理の太陽の光を受けて輝き、この光り輝く愛をすべての人に反映させるよう努力しましょう。人々の心が一つになり、常に限りない愛の輝きの中に安住できますように。

私が、パリに滞在した短い期間中に皆さんにお話した言葉を記憶してください。私は、皆さんの心がこの世の物質的事物によって縛られることがないよう、切に勧告するものです。そして、怠慢のベッドに安臥し、物質のとりこになることなく、その束縛の鎖を断ち切って自由になられますよう願います。

動物は物質に支配されるように創られていますが、神は人間には自由を与えられました。動物は自然の法則からのがれることができません。でも、人間は自然の法則を支配することもあるのです。なぜなら人間は自然を包み込み、その上に立つことができるからです。

聖霊の力は人間の知性を啓発し、多くの自然の法則を人間の意のままに変える方法の発見を可能にします。空中を飛び、海上を浮遊し、水中で行動するのは人間だけです。

こうした例はすべて、人間の知性がいかに人間を自然の制約から自由にすることができたか、そして、幾多の自然の神秘を解決することができたかを証明するものです。人間は物質の束縛の鎖をある程度までたち切ったのです。

もし人間が物事を精神的に探求し、神の無限の愛に自分の心の波長を合わすよう努力しさえすれば、聖霊によってより偉大な力を与えられるでしょう。

家族や同国人を愛す場合、無限の神の愛の光をもって愛するようにしましょう。神の中にある愛、また神に対する愛と同じ愛で愛しましょう。その人があなたの家族であろうと、他人であろうと、その人に神の属性をみつけたらいつもその人を愛するようにしようではありませんか。あなたの出会う人が自国の人であろうと、同族であろうと、同じ政党人であろうと、また、他国の人であろうと、あるいは肌の色や、その人の政見が多少変っていようと、とにかく、すべての人に限りない愛の光を投げかけましょう。こうして、世界各地に離れ離れになっている人々を和合させる神の天幕の下に集めるという仕事にあなたが精進するかぎり、天は助けの手をさしのべるでしょう。

皆さんは、神のお側にはべる神の僕となり、全ての人類に仕える奉仕において神の聖なる援助者となるのです。全ての人類。一人一人の人間のすべて。決してこのことを忘れないようにしましょう。

彼はイタリア人だ、フランス人だ、アメリカ人だ、イギリス人だなどと言うことなく、ただ神の子供である、至高のお方の僕である、人間である、ということを憶えてください。みんな人間です。国籍などは忘れましょう。神の目には人間はみな平等なのです。

自分の限界などは忘れてください。今にも神の援助の手があなたにさしのべられてくるからです。自分自身などは忘れ去ることです。神の援助は必ずもたらされます。

援助しようとして待っている神の慈愛にすがったなら、皆さんの力は十倍に強められるでしょう。

私を見てください。このとおり弱っていますが、皆さんのところへ来るだけの力を神は与えてくださいました。つまり、私はこの言葉を皆さんに送るためにやって来た一人の貧相な神の使者です。皆さんと一緒に居られる時間はあまりありません。断じて自分自身を弱いものと思ってはなりません。どの人間の内にも聖霊の愛の力は宿っており、その力によって誰でも教えを説くことができるのです。自分自身を弱いものと思う考えは絶望を生み出すだけです。私たちは、この世のどのような考えよりも高い世界を見なければなりません。つまり、あらゆる物資的な思想から離れ、精神的な物事を探究し、私たちの魂を神の「人類は相互に愛しあうべし」という至上命令に、喜びをもって奉仕するという幸せで溢たしてくれる全能者の不滅の恩寵(おんちょう)溢れる慈愛に目を向けねばなりません。

第十 アブドル・バハの入獄 (カムワンス四番地にて、十月二十五日、水曜日)

今朝は皆さんをお待たせいたし、大変申し訳ありません。私には限られた時間しかなく、神の愛の大業のためにたくさんのことをしなければなりません。

皆さんは私に会うためしばらく待たされたことを気にしていらっしゃらないでしょう。私は皆さんにお会いするこの機会を幾年もの間、獄舎で待ったのです。

何よりも、神に賛美あれ、私たち人間の心は常に和合し、一つの目的で神の愛へと導かれています。私たちの願望、心情、精神は天国の恩寵(おんちょう)によって一つに結ばれているのではないでしょうか。私たちの祈りは、全人類が調和して一つに集まるための祈りではないでしょうか。それゆえ私たちはいつもいっしょに暮らしているのではないしょうか。

私は、昨タドレフェス氏のお宅から帰ったときとても疲れていたのですが、眠れず、横になったままで色々考えました。

私は言いました、おお神よ、私は今パリに来ている、ここが果たしてパリなのだろうか、そしてここにいるのは果たして私なのだろうか。私が獄舎の暗黒の中から皆さんのところへやって来られるとは夢にも思いませんでした。もっとも、私は刑の宣告を受けたとき、そのままでいつまでも入獄しているとは信じなかったのですが。

当時、アブドール・ハミッドが私に終身刑を命じたということでした。私は「そんなことはあり得ない。私はいつまでも囚人のままでいることはないだろう。もしアブドール・ハミッドがいつまでも生きていれば、あるいはその判決が実際に行なわれるかも知れないが、私はいつかきっと自由の身になるだろう。私の身体はしばらくの間捕われの身であるかも知れないが、アブドール・ハミッドには私の精神までも支配する力はない。この精神こそはいつまでも自由のままであるにちがいない。これこそ誰も監禁することのできないものである」と言ったものです。

神のお力によって私は獄舎から解放され、このとおりパリで神の友らに会っています。神への感謝の念で一杯です。

神の大業をいっしょにひろめようではありませんか。私はこのために迫害に耐えてきました。

私たちがここで自由に会見できるということは何という特権でしょう。神の定めに従って、王国の到来のために共に働くことができる私たちは最高の幸福者です。

皆さんに栄光あるメッセージをお伝えするために獄舎から解放されてきたこのような客を迎えることを、皆さんは喜んで下さっているでしょうか。このような会合ができようなどとは夢にも考えられなかった私です。東洋の僻地で終身刑の宿命を担っていた私ですが、今や、神の恵みにより、そして神の偉大な素晴しい力により、このとおりパリに来て皆さんとお話しているのです。

やがて、全人類が平和の歌を唄いながら王国の天幕の下に共に集う日が到来するまで、私たちはこれからも常に心と魂と精神を一つにして前進しようではありませんか。

第十一 神が人間に与えられた最大の賜物 (十月二十六日、木曜日)

神が人間に与えられた最大の賜物は知性、あるいは理解力です。

人間が、いろいろ創造物の世界、生存のさまざまな段階、それに眼に見えない世界についての知識を獲得できるのは、実に理解力という力のおかげです。

人間はこの賜物をもつがゆえに本質において、創造界の下位にある創造物の頂点にたつものであり、人間はそれらの創造物の世界と接触することができるのです。また、しばしばその科学的知識をとおして、予言者のビジョンで未知の世界を知ることができるのです。

知性は、実際、神の慈愛、恩寵(おんちょう)によって人間に与えられたもっとも貴重な賜物です。あらゆる創造物のうちでこの素晴らしい力を持っているのは、唯一、人間だけです。

人間より下位にある創造物はすべて、きびしい自然の法則に縛られています。大いなる太陽、無数の星、大洋、海、山岳、河川、樹木、それに大小のあらゆる動物、これらはいずれも自然の法則への服従から逃れることはできません。

人間だけが自由を持っているのです。そして、その理解力、あるいは知性によって、必要に応じて、自然の法則のあるものには順応し、またあるものを支配してきたのです。急行列車で大陸を横断し、船舶で海洋を航海するだけでなく、魚のように潜航艇で水中を動きまわり、鳥をまねて飛行船で空中を飛びまわる方法を見つけたのも、実に人間の知性の力のおかげです。

人間は、照明、モーター、地球の果から果てまでの通信など、電力をいくつかの方法で使うことに成功しています。電力によって人間は幾千里も離れた遠方の地の声さえも聞くことができるのです。

この知性や理解力という賜物で、人間は太陽光線を使って人や物を描くことや、遙か遠方の天体の姿をとらえることを可能にしました。

私たちは、人間は実に多くの分野において自然の力を思うままに駆使しているということを実感します。

一方、実に嘆かわしいことには、神の与えられた賜物によって戦争道具を作り、「汝殺すなかれ」という神の至上命令に背き、「互に愛しあうべし」というキリストの訓戒を無視しているのです。

神がこの知性の力を人間に与えられたのは、文明の進化発展、人類の福祉増進、愛と調和と平和の増大に用いるためでした。しかるに人間はこの賜物を、建設ではなく破壊のために、不正と迫害のために、憎悪と不和と破壊のために、隣人を自分自身のごとく愛すようにと訓戒したキリストの教えに反して、同じ創造物を絶滅させるために使用する方を選択しているのです。

皆さんは理解力というものを人類の和合と平安の増進、人びとに光明と文明をもたらし、周囲の人びとの間に愛を生み出し、全世界の平和を実現する目的のために使われますよう、私は切に望みます。

あらゆる科学を学んでください。そうすれば、ますます知識を深めることができます。たしかに人は生涯の終りまで学ぶことができます。あなたの知識をいつも他の人びとの利益のために使いましょう。そうしてはじめて、戦争はこの美しい地球から姿を消し、平和と調和の栄光にかがやく建物が建てられるでしょう。天国にある王国のような神の国をこの地上に建設するという皆さんの高遠な理想が実現するよう努力いたしましょう。

第十二 真理の太陽を曇らすもの (十月二十七日、金曜日朝、カムワンス四番地にて)

今日はとても好いお天気です。空気は澄み、太陽は輝き、その輝きを曇らす霧も雲もありません。

きらめく光線はこの街のあらゆるところに浸透しています。同じように真理の太陽がすべての人の心に輝きますように。

キリストは言いました「彼らは人の子の天の雲に乗って来るのを見ん」(マタイ伝二十四章)バハオラはこう言われました。「キリストが最初に来たとき、彼は雲に乗ってこの世に来たのである」(ヨハネ伝三章)と。キリストは、自分は空から、天から、つまり神から生れ出たのである、と言いました。しかし彼は聖母マリアから生まれたのです。しかし、キリストが天から来たと宣言したとき、それは青空から来たという意味ではなく神の王国なる天のことをいっているのであり、その天国から雲に乗って来たと言っているのであるということは明らかです。雲が太陽の光線を妨げる障害物であるように、人間世界の雲がキリストの神性の輝きを人間の眼からさえぎったのです。

人びとは言いました。「キリストはマリアから生まれたナザレの人間だ。私たちは彼を知っている、彼の兄弟を知っている。彼は一体何ができるというのだ。彼は何を言ってるんだ。彼が神から生まれたとは」と。

キリストの肉体はナザレのマリアから生まれましたが、その精神は神から生まれたのです。彼の人間としての肉体的能力には限界がありましたが、精神力は膨大で、無限で、測り知れないほどでした。

人びとは尋ねました。「彼はどうして自分は神から生まれたと言うのか」と。もしも人々が、キリストの実相を理解していたら、彼の人間としての肉体が雲となって彼の神性を見ることができなかったと悟ったに違いありません。世間は単に彼の人間としての姿だけを見たので、どうして彼が「天から来る」ことができるのかと不思議に思ったのです。

バハオラはこう言われました、「ちょうど雲が太陽や空を私たちから隠すように、キリストの人間としての面が彼の真実の神性を人々の目から隠してしまったのです。」

皆さんが曇りなき目で、世俗の事物を見るのではなく、真理の太陽を見つめ、瞬間的快楽に心惹かれることがないように、また、太陽がその強さを皆さんに授け、偏見の雲があなた方の目から太陽の輝きをさえぎることのないよう切に希望いたします。やがて、太陽は雲にさえぎられることなく皆さんに光を投げかけるでしょう。

清らかな空気を吸いましょう。一人一人がみな天の王国の神の恩恵にあずかるよう、またキリストの人間としての肉体が彼の神性を当時の人びとから見えなくしてしまったように、現世の事物があなた方の目から真理を隠してしまうことがないように。そして、聖霊をはっきりと感知し、心が輝き、あらゆる物質的な雲を通して輝く真理の太陽、宇宙にみなぎる彼の輝きを認めることができますように。

肉体上の現象のために精神の聖なる光を曇らすことのないように、そうすれば、神からの恩恵をさずかり、神の子供たちとともに不滅の王国に入ることができましょう。

これが皆様方へおくる私の祈りです。

第十三 宗教上の偏見 (十月二十七日)

バハオラの教えの基盤は人類の和合であり、彼の最大の願いは人々の心のなかに愛と善意が燃えていることでした。

バハオラは人びとに闘争と不和を避けるよう勧告されました。そこで、私は皆さんに、諸国民の間に存在する心配の主な理由について説明したいと思います。その主な原因は宗教上の指導者や教師たちがもたらす宗教の間違った解釈です。彼らは自分たちの宗教の形だけが神意にかなうものであり、他の宗派の信徒たちはみな、すべてを愛し給う父によって非難されるものであり、神の慈愛や恩恵を奪うものであると信徒たちに説くのです。人びとの間に非難、軽蔑、反抗、憎悪が起るのはこのためです。もし、こうした宗教上の偏見を一掃できれば、諸国民はやがて平和と調和を楽しむようになるでしょう。

かつて私は、ユダヤ人の寺院のあるテベリヤにいました。その寺院の真向いの家に滞在していたので、そこで一人のラビ(師という意味)がユダヤ人の群集に話しているのを見たり聞いたりしました。彼はこう話していました。

「おお、ユダヤの人々よ、諸君はまさに神の民である。他のすべての民族や宗教は邪悪なものである。神は諸君をアブラハムの子孫として創り給い、諸君の上に彼の祝福を降り注がれたのである。神はモーゼやヤコブやヨセフ、その他多くの偉大な予言者たちを諸君のために送られた。こうした予言者はすべて、諸君の民族から出た人々である。

「神はフアラオの権力を破砕して紅海を干上がらせ、また諸君を養うために天からマナを下され、諸君の渇きを癒すために岩石から水を湧き出させ給うた。まことに諸君は神の選民であり、地上のあらゆる民族の優位を占めるものである。したがって、他のあらゆる民族は神の嫌い給うものであり、神の非難をうけるものである。まことに、諸君は世界を治め、制圧し、すべての人類は諸君の奴隷となるであろう。」

「諸君、われわれの宗教を信奉しない者らと交わって自らを冒涜することがないようにせよ。彼らと親しく交わってはならない」

このラビの雄弁な演説が終ったとき、聴衆は心の底から満足し歓喜に満たされました。彼らの幸福そうな様子を言い表すことはとてもできません。

悲しいかな、地球上の分裂や憎悪の原因はこうした間違って指導された人たちなのです。今もなお、何百万もの人が偶像を崇拝し、世界の大宗教が互いに争っています。キリスト教徒とイスラム信徒はもう一三〇〇年間も争っていますが、彼ら相互の間の異論、論争はほんのちょっとした努力で克服でき、平和と調和が樹立され、世界に平安をもたらすことができるのです。

コーランには、モハメットが信徒たちに話した言葉があります。

「信徒たちよ、諸君はどうしてキリストとその福音書を信じないのか。聖書は確かに神の書であるのに、どうしてモーゼやその他の預言者たちを受け入れないのか。事実、モーゼは崇高な預言者であったし、イエスは聖霊に満たされていました。彼は神の力を通してこの世に送られ、聖霊と祝福された聖母マリアから生まれました。キリストの母マリアは天からつかわされた聖女でした。彼女は大寺院で祈りの日々をすごし、天から食物を受けていたのです。マリアの父、ザカリヤがやって来て、どこから食料をもらっているのかと彼女に尋ねると、マリアは『高きところより』と答えました。たしかに、神はマリアを他のいかなる女性より高きものとされたのです。」

これはモハメットがイエスとモーゼについて人々に教えたことです。彼は、これらの偉大なる教育者に対する教徒たちの信仰の欠如をとがめ、真理と寛容について学習するよう彼らに諭しました。マホメットは、野獣のように野蛮(やばん)で未開の人々の中で働くようにと、神から下されました。彼らはまったく理解力を欠き、愛や思いやりや同情の感情の一切ない人びとでした。女性はきわめて見下げられ、男は自分の娘を生埋めにし、思いのままに自分の奴隷として幾人もの女を妻とすることができたのです。

こうした、半ば動物のような人びとの間にマホメットは神の聖なるメッセンジャーとして送られました。彼は、偶像崇拝の誤りについて、また、キリストやモーゼやその他の預言者たちへの崇敬について教えたのです。彼の偉大な力のおかげで彼らはかなり啓発され、文化的な民族となり、モハメットが出現した頃の野蛮(やばん)な状態から高められました。これはあらゆる賛美や尊敬、愛に値するじつに素晴しい仕事ではありませんか。

主キリストの福音書を見てください。なんとすばらしいものでしょう。それなのに今日においても、人々はそのうちにある極めて貴重な美を理解することなく、知恵の言葉を誤って解釈しているのです。

キリストは戦争を禁じています。弟子のペテロが主キリストの身をまもろうとして大祭司の僕の耳を斬り落したとき、キリストはペテロにこう言いました「剣を鞘におさめよ」と。自分たちが仕えると公言している主キリストから直接命令されているにもかかわらず今なお人びとは論争し、あらそい、互いに殺し合っています。キリストの勧告や教えはまったく忘れられてしまっているように思われます。

しかし、信徒たちの邪悪な行為をキリストやその他の預言者たちの責任にしてはなりません。もし祭司や伝道師、その他の人々が、自分が信奉していると公言している宗教に反する生き方に導いた場合、それをキリストやその他の偉大な教師たちのせいにできますか。

イスラム教徒たちは、イエスがいかにして神の国から来たのか、いかにして聖霊から生まれ、すべて人びとは彼の栄光を讃えるべきということを悟るよう、教えられました。モーゼは神の予言者でした。そして、彼の時代の人々のために神の書を現しました。

モハメットはキリストの崇高な威厳、それにモーゼやその他の予言者たちの偉大さを認めました。もし世界中の人びとが、モハメットやすべての天来の教師たちの偉大さを認めることができれば、やがて争闘や不和は地上から姿を消し、人々の中に神の王国が実現することでしょう。

キリストの栄光を称えたイスラム教徒たちは、そうしたからといって辱しめられることはないのです。

キリストはキリスト教徒の預言者であり、モーゼはユダヤ人の預言者です。いずれの預言者の信徒であるにせよ、他の予言者たちを同じように称え、尊んでならないという理由はありません。もしも人々が相互の許し合い、理解、同胞愛、一致和合の教えを学ぶことができれば、世界の和合はまもなくたしかな事実となって実現するに違いありません。

バハオラはこの愛と和合の教えを説くことに一生を捧げられました。私たちは、あらゆる偏見や不寛容を放棄し、キリスト教徒とイスラム教徒の間に理解と和合をもたらすよう心魂こめて努力しようではありませんか。

第十四 神の人間への恩恵 (カムワンス四番地にて、十月二十七日)

神のみが万物を定め、すべての力に満ち給います。そうであれば何故、神は僕らに試練与えられるのでしょうか。

人間の試練には二種類あります。(1)自分自身の行為の結果であるもの。もし、食べすぎると消化に変調を来たします。毒を飲めば病気になるか、あるいは死にます。ばくちをすればお金を失うし、飲みすぎれば平静を失うでしょう。こうした苦難はすべて、人間が自分で招くものであり、したがって、悲しみのあるものは、私たち自身の行為の結果生み出されるものであるということは確かです。

(2)もうひとつは、神を信仰する人たちに降りかかる試練です。キリストやその使徒たちが耐え忍んだ大きな苦難について考えて見ましょう。

最も大きな苦難を経験するものはすばらしい完成の状態に到達します。

キリストのために多くの苦難を甘受することを宣言するものは自分たちの誠意を示さなければなりません。大いなる犠性を払いたいという願望を宣言したものは、自分たちの行動によってのみその真実性を証明することができるのです。ヨブは、自己の生活の繁栄の時にも、また非常な逆境の時にも神を信じることによって、自分の神への愛の忠誠を実証しました。あらゆる試練と苦難に確固として屈せず、耐え忍んだキリストの使徒たちは、彼らの神への信仰深さを証明しなかったでしょうか。彼らの忍耐はその最善の証明だったのではないでしょうか。

さあ、このような悲しみの話はもうやめましょう。

ペテロが悲歎と試練の日々をおくっているとき、カヤバは楽しい幸せな生活を送っていました。いずれの生活を羨むべきでしょう。絶対に私たちはペテロの状態を選ぶべきです。カヤバは永遠の恥辱を勝ち取り、ペテロは不滅の生命を所有しているからです。ペテロの試練は彼の忠誠心を試めすものでした。試練こそは神からの恩恵であり、私たちはこの恩恵を神に感謝すべきです。悲歎や不幸は偶然に私たちを襲うものではなく、神が私たちを完全なものにしようとして与えてくださる神の慈愛です。

人は幸せだと神を忘れがちですが、悲痛に襲われ、悲しみに圧倒されると自分を屈辱から救い出すことができる、天の父を思い出します。

苦難のない人間は完全の域に到達することはありません。庭師の手が最も良く入った植物は、夏が来ると最も美しい花を咲かせ、一番豊かな果実を実らせます。

農夫がすきでしっかりと掘りかえした土地からは、豊富な、潤沢な収穫が生み出されます。人間は鍛えられれば鍛えられるほど、現われてくる精神的徳性の収穫がますます大きくなります。兵士も、最も激しい戦線に立って深い傷を経験するまでは、素晴しい将軍にはなれないのです。

「おお、神よ、私はあなたの道に生命を投げだすことを願います。あなたのためにわが血を流し、あなたの至高の犠性とならんことを願う」という神の予言者たちの祈りは常に捧げられ、今もなお捧げられているのです。

第十五 多様性の中の美と調和 (十月二十八日)

万物の創造者は唯一なる神です。

この同じ神からあらゆる創造物は生み出され、生存するようになりました。自然界のすべては神を切望し、目標として仰ぐのです。この観念は、キリストの「われは初めにして終わりであり、全き存在である」という言葉の中に具現化されています。人間は創造の総和であり、人間は創造主の完全な思考、すなわち神のことばの表現なのです。

創造物の世界を考えると、それらの種類がいかに多種多様であるかが分かります。しかも、それらは唯一の源から出ているのです。現れている相違はすべて、外面的な姿と色彩の相違です。こうした形の多様性は、自然界全体を通して明瞭です。

花や灌木、樹木などが一杯の美しい庭園を見てください。それぞれの花は異なった魅力、特異の美しさ、独特の甘い香り、美しい色をもっています。樹木もまた、大きさ、成長や葉の茂り具合が異なります。それに、なんと色々な果実を実らせることでしょう。しかも、こうした花、潅木、樹木のすべてが全く同じ土から生み出され、同じ太陽から光を受け、同じ雲から雨を得ているのです。

これは人間の場合も同じです。人間にはいろいろな種族があり、彼らは皮膚の色がさまざまに異なります。白、黒、黄、褐色、赤というように。しかし、彼らはすべて同じ神から生み出されたものであり、すべて神につかえる僕ですが、不幸にも、こうした人間の子供たちの間の多様性は、植物界に及ぼす影響とは異なります。このような多様性は植物界に調和した精神をもたらしています。人々の間には多様な敵意が存在し、これが戦争や、世界中の異なった国民の間にある反目の原因となっています。

ただ血が異なるだけでも相互に破壊し、殺し合う原因となるのです。悲しいかな。いまだにそうなのです。むしろ、その多様性の中に美しさと調和の美を見、植物界から教訓を学ぶようにしましょう。もし皆さんが、すべての植物が形も色も香りもみな同じの庭園を見たら、それは美しく見えるどころか、単調で味気ないものに見えるに違いありません。眼を楽しませ、心に喜びをもたらす庭園では、さまざまな色合いや姿、香りのいろいろな花が咲き並んで、喜ばしい色彩の対照が魅力と美しさを与えています。樹木の場合も同じです。果樹がたくさん実る果樹園も楽しい。また多くの種類の潅木の茂る農園もそうです。その魅力は、いろいろさまざまな多様性や種々の違いにあるのです。それぞれの花、樹、果実の魅力は、それ自体の美しさは別として、他の資質との対照のなかで引き出され、それらすべての特殊な愛らしさを見せるのです。

人間相互の間もそういう風でなければなりません。人類という家族の中の多様性は愛と調和の源であるべきです。ちょうど、多くの異なった音調が一つに融け合って完全な和音となる音楽と同じようなものです。もしあなたが、異なった人種や皮膚の色の異なった人と出会っても、彼らを疑ったり、従来の因襲の殻に引きこもったりしないで、むしろ、喜んで、親切にしましょう。彼らのことを人類という麗しい花園の中に成長しているさまざまな色彩の薔薇の花とみなし、自分がその中にあることを喜びましょう。

同様に、自分の意見と違った意見の人と出会っても、顔をそむけてはなりません。みんなが真理を探究しており、真理に到る道は幾つもあるのです。真理はいくつもの局面をもち、常に変わらず、永遠に一つです。

意見の相違や思想の相違を仲間との仲たがいや、反抗、憎悪、争いの念を起こす原因としないようにしましょう。

むしろ、丹念に真理を探求し、すべての人々と友達にならなければなりません。

堂々たる建物はみな、さまざまな数多くの石で造られています。どれか一つの石が置きかえられても、それが建物の全体に影響するほどに相互依存の関係にあり、もしその一つに欠陥があれば構造全体が不完全となるのです。

バハオラは和合の輪を描かれました。彼はすべての人々を和合させ、普遍的和合のテントのもとに彼らみなを集合させる設計図を作られました。これは聖なる恩寵(おんちょう)の仕事であり、私たちは、私たちの中に真の和合を築くまで心をこめて精進しなければなりません。精進すれば私たちには必要な力が与えられます。あらゆる私心を捨てて、ひたすら神の意志に従順に従うよう努力すべきです。これこそは神の王国の市民となり、永劫不滅の生に到達する道なのです。

第十六 キリスト出現に関する予言の真の意義 (十月三十日)

聖書にはキリスト出現についての予言が書かれています。ユダヤ人はいまなお救世主の出現を待っていて、彼の到来の早からんことを日夜神に祈っています。

キリストが出現したとき、ユダヤ人は「これは私たちの待っている偉大なる救世主ではない。救世主が出現するときには、その人がまことの救世主であることを実証する前兆や奇跡が起るはずである。私たちはその前兆や奇跡を知っているがそれらは現れなかった。救世主は未知の町から出現し、ダビデの王座につくであろう。見よ、彼は鋼の刀をたずさえて現れ、鉄の王笏をもって統治するであろう。彼は予言者たちの律法を履行し、東洋と西洋を制覇し、神の選民であるユダヤ人に栄光を与えるであろう。救世主は平和の御代を実現し、動物でさえも人間に敵意を抱かなくなるであろう。見よ、狼と小羊が同じ泉から水を飲み、ライオンと牝鹿が同じ牧場に住み、蛇と鼠が同じ巣にたわむれ、神の創造物のすべてが安らぐであろう。」と言って彼を非難し、殺害しました。

ユダヤ人によると、イエス・キリストはこうしたことを何一つ実現しなかったのです。と言うのは、彼らの目は拘束されていて、真実を見ることができなかったからです。

彼は未知の町とは言えないナザレの地から来ました。手に刀も持たず、一本の棒さえも持っていませんでした。ダビデの王座につくどころか、一人の貧しい男でした。彼はモーゼの律法を改革し、安息日を守らず、東洋と西洋の制覇もせず、彼自身がローマ法に従いました。ユダヤ人を高めることもなく、平等と人類すべて兄弟であることを説き、ユダヤ教の学者とパリサイ人を非難したのです。平和の御代は実現しませんでした。彼の生きている間は不正と残虐とがその極に達し、彼自身その犠牲となり、十字架にかかって屈辱的な死をとげました。

このようにユダヤ人は考え、言いました。彼らは聖書の言葉も理解できなかったし、またその中に書かれてある栄光に輝く真理を理解することもできなかったのです。彼らは文字を暗記していましたが、その生命溢れる精神については理解しなかったのです。

聴いてください。私はその意義を明らかにしようと思います。彼は人に知られているナザレの地から現れましたが、彼はまた、天からやって来たのです。肉体はマリアから生まれましたが、彼の精神は天から来たのです。彼が持っていた剣とは彼の舌でした。この剣を持って、彼は善を悪と、真実を虚偽と、信仰を無信仰と、そして光明を暗黒と区別しました。彼の言葉はまさに鋭利な剣でした。彼が坐した王座は、キリストが永遠に統治した、天上の玉座、永遠の王座であり、地上の王座ではなかったのです。なぜなら、地上の事物は一過性のものですが、天界の事物は過ぎ去るものではないからです。彼はモーゼの律法を解釈しなおし、完成させ、予言者たちの律法を成就しました。その言葉は東洋と西洋を制覇しました。彼の王国は永劫不滅です。彼は自分を認めたユダヤ人たちを高めました。彼らは生まれの卑しい男たちや女たちでしたが、彼と接することで彼らは高められ、不滅の尊厳を与えられました。かつてはいろいろな宗派や民族に分かれて、争いながら生きていた動物たちも、今や、永遠の泉であるキリストから生命の水を共にくみかわし、愛と慈愛のうちに生きるようになったのです。

このように、キリスト出現に関する霊的予言のすべては果たされました。しかし、ユダヤ人は目を閉じて見ようとせず、耳を塞いで聞こうとせず、キリストの聖なる実相は彼らに認められず、愛されず、聞かれないままに通りすぎていきました。

聖典を読むのは容易ですが、その真の意義を理解するにはきれいな心と純粋な心意がなければなりません。聖典を理解できるようになるために、神の助けを請い願いましょう。見る目と聞く耳、平和を祈願する心を持つことができるように、祈りましょう。

神の永劫不滅の慈愛は広大です。神は常に特定の魂を選んで神の心からなる聖なる恩寵(おんちょう)をその者の上にそそぎ、その人たちの心意を聖なる光で照らし、その人たちに聖なる神秘を啓示し、真理の鏡を常に明るく保ちました。こうした人たちこそ神の使徒であり、神の親切は無限のものです。最も高きにあるお方の僕である皆さんもまた、神の使徒となることができます。神の財宝は無限です。

聖典を貫いて息づいている精神は飢えているすべての人びとの食料です。彼の預言者たちに啓示を与えられた神は、確かに、忠実に彼に求めるすべての人たちに日々の糧を豊富に与え給うことでしょう。

第十七 聖霊‐神と人間との間の媒介力 (カムワンス四番にて、十月三十一日)

神の実相は、想像を超える、無限で、永遠不滅の、不可視のものです。

創造界は自然の法則に縛られており、有限で、死滅するものです。

無限の実相は上昇とか下降ということばでは表現できません。それは人間の理解力を超えており、創造界の現象に適用する言葉で言い表せるものではないのです。

そこで人間は、神の実相から援助を受けることのできる媒介となる唯一の力を絶対に必要としています。その力のみが人間にすべての生命の源との接触をもたらすのです。

両極端を相互に関係づけるには媒介物が必要です。富と貧困、豊さと欠乏、これらの正反対のものは媒介力がなければ関係づけることはできません。

このことで私たちは、神と人間との間には偉大なる媒介者があると言えます。それこそが聖霊にほかならず、この聖霊が創造された地球と想像を超えるもの、すなわち神の実相とを関係づけるのです。

神の実相は太陽に、聖霊は太陽の光線になぞらえることができます。太陽の光線が地球に太陽の光と温かさを与え、あらゆる創造物に生命を与えるように、神の顕示者たちは聖なる真理の太陽から人間の魂に光明と生命を与える聖霊の力をもたらすのです。

見てください、太陽と地球との間には媒介物が必要です。太陽は地球に降りてはきませんし、地球が太陽へ昇って行くこともありません。この接触は、光と温かさと熱をもたらす太陽の光線によってなされるのです。

聖霊はその無限の力であらゆる人類に生命と光明とを与え、あらゆる魂を聖なる輝きでみなぎらせ、神の慈愛の祝福を全世界に伝える真理の太陽から出る光です。地球は、太陽の光線の温かさと光とを媒介する物がなければ太陽の恩恵を受けることはできません。

同様に、聖霊は人間の生命の本源です。聖霊がなければ人間は知性を得ることができず、他の創造物に対して多大な影響力を持つ科学的知識の獲得も不可能です。聖霊の光は人間に考える力を与え、人間をして意のままに自然の法則を変えるような発見をさせます。

聖霊は神の予言者たちの媒体をとおして人間に精神的徳性を教え、永遠の生命に到達できるようにするものです。

こうした祝福のすべては聖霊によって人間に与えられます。したがって、聖霊は創造者と創造物との間の媒介であるということが分かります。太陽の光や熱は土地を肥沃にし、そこに成長するすべての物に生命をもたらし、聖霊は人間の魂を生き返らせます。

キリストの二大使徒、ペテロと伝道者ヨハネはただの身分卑しい労働者で、日々のパンのために働いていました。その彼らの魂は聖霊の力によって啓発され、主キリストの永遠の祝福をうけたのです。

第十八 人間の二つの性質 (十一月一日)

今日はパリの祝日です。万聖節が祝われる日です。これらの人たちが「聖者」と呼ばれるのはなぜだと思われますか。この言葉は深い意味をもちます。聖者とは清浄な生活をし、あらゆる人間的な弱さや不完全さを超越した人のことを指します。

人間には2つの性質、つまり精神的な、高位な性質と、物質的な、低級な性質があります。一方では人間は神に接近し、もう一方では物質界だけに生きています。こうした二つの性質の徴(しるし)は誰にも見られるものです。人間の物質的性質は虚言、残忍性、不正に現れます。これらは人間の低級な性質から出るものです。人間のもつ聖なる性質の属性は、愛や慈悲、親切、真実、正義として表現されます。これらはみな、高位も精神的性質の現れです。すべての善い習慣、高尚な性質は人間の精神的性質に属するものであり、人間のすべての不完全で罪深い行動は物質的性質から生まれるものです。もし聖なる性質が人間的性質を支配するなら、その人は聖者といわれるでしょう。

人間は善を行う力と悪を行う力の両方を持っています。もし善を行う力の方が勝っていて、悪を行う性癖を克服するならば、その人はまことに聖者と呼ばれましょう。しかし、逆に、神のことを排撃し、悪の情慾に支配されるままになれば、もはや彼はただの動物にも劣るものとなります。

聖者とは物質世界を解脱し、罪を克服した人たちです。彼らは現世に生きながら現世に縛られることなく、その思いは絶えず精神の世界にあります。聖なる生活を営み、その行為からは愛と正義と神々しさを表します。彼らはいと高きところから光をうけ、この世の暗さの中で光り輝くランプのような存在となります。これらの人々が神の聖者と言われる人たちです。イエス・キリストの門弟であった使徒たちは世間の人と全く同じでした。世俗のことに心惹かれ、自分自身の利益のことしか考えていませんでした。正義のことなど何も知らず、聖なる完全性が彼らの中にあるということも知りませんでした。しかし、彼らがキリストに従い、キリストを信じるようになったとき、彼らの無知は知恵に変わり、残忍性は正義に、虚偽は真実に、暗闇は光明に取って代ったのです。世俗的であったのが精神的になり、暗黒の子らが神の子供たちに一変し、聖者たちとなったのです。彼らにならって、世俗のことがらをすて、精神界に到達するよう努力しようではありませんか。

神が皆さんの心に聖なる徳性を強め給うようお祈りいたします。それによって皆さんは世の中の天使のようになり、理解力ある人々に王国の神秘を明かすかがり火となられることでしょう。

神は、人間を教え導き、啓発し、聖霊の力の神秘を説明し、彼のなかにその光を反映させ、そして、ひいてはその彼が他の人びとを教え導く源となるようにするため、預言者を世につかわされました。天上の書である聖書やコーラン、その他の聖なる書物は神が聖なる美徳や、愛、正義、平和への道の指導書として与えられたものです。

ですから私は、皆さんがこれらの祝福された書に書かれている勧告にしたがって精進し、示された実例にならって生活を建て直し、至高なるお方の聖者となられますよう、お祈りします。

第十九 物質的発展と精神的発展 (十一月二日)

アブドル・バハの言葉

今日はなんと美しいお天気でしょう。空は澄み、太陽は光り輝き、人の心も歓喜に満ちています。

このように明るい、美しいお天気は人々に新たなる活気と力を与え、病気の人も健康な楽しい希望が心によみがえってくるのを感じます。すべてこれら自然の贈り物は人間の物質面に関することです。というのは、物質的恩恵をうけることができるのはその肉体だけだからです。

商売、芸術、または自分の職業で成功すると、それによって物質的な幸福を増大し、肉体のよろこびと満足をもたらす安心と慰安を得ることができます。今日、周囲を見ると、私たちはいかに近代の便利さや贅沢品(ぜいたくひん)に埋もれ、肉体的な欲求はすべて満足させているかが分かります。しかし、肉体上のことばかりに心を奪われ、魂のことを忘れてしまうようなことがないよう注意しましょう。物質的利益は人間の精神を高めるものではないからです。世俗のことがらの成就は肉体を喜ばせることができるが、決してその魂を高めるものとはならないのです。

物質的思恵のすべてを得、近代文明から得られる最大の安楽を享受し、何ひとつ不自由なく暮らす人が、聖霊の重要な恵みをまったくうけていないということがあるかも知れない。

事実、物質的発展を遂げるということは素晴しく、称讃に値することですが、そのためにより重要な精神的発展を無視して、私たちの中に輝く聖なる光に目をつぶるようなことがあってはなりません。

物質面と同時に、精神的にも発展せしめることによってのみ真の発展を遂行することができ、完全な存在となるのです。偉大なる教師達が出現したのも、実にこの精神的生命と光をもたらすためでした。真理の太陽の顕現は人びとの心の中に輝きをもたらします。そして、その驚くべき力をとおして人びとは永遠不滅の光明へ到達するのです。

主キリストが出現したとき、彼は聖霊の光を周囲の人々にまき散らしました。キリストの使徒たちと、彼の光をうけた人たちはすべて啓発され、精神的になりました。

バハオラがこの世に出現したのも、実にこめ光明をもたらすためだったのです。彼は人々に永遠の真理を教え、すべての国々に聖なる光を投げかけました。

悲しいかな。人類はいかにこの光明を無視していることか。人類はなお暗黒の途上にあり、分裂や闘争、凶暴な戦争が盛んに行われています。

人類はその戦闘意欲を満足させるため物質的発展を利用し、破壊的な道具を作り、同胞を破滅するためにそれらを応用します。

しかし、私たちはむしろ精神的利益の達成のために精進しましょう。これこそ真の進歩への道であり、神から来るものであり、神々しいものだからです。

私は、皆さんが一人残らず聖霊の恩寵(おんちょう)をうけ、真に啓発され、神の王国へ向かって不断に発展し向上されるようお祈りします。やがて、皆さんの心は吉報をうけとるよう準備され、目は開かれ、神の栄光を見るでしょう。皆さんの耳をふさいでいる障害物は取り除かれ、天国の呼び声を聞くことができ、神の力と愛を認識するよう、雄弁な舌をもって人類に呼びかけるでしょう。

第二十 物質の進化と魂の発達  (十一月三日)

パリは大変寒くなってきました。あまり寒いのでやむなく他へ移るべきかとも思いますが、皆さんの暖かい愛情のおかげで今なおここに滞在しております。私がもう少し皆さんと共にここに留(とど)まるということは神さまのご意思でもありましょう。肉体的な暑さや寒さは精神に何の影響も及ぼすことはできません。精神は神の愛の火によって温まるものだからです。これを理解するとき、来世における私たちの生活を少しだけ理解できるように思えます。

神の慈愛のおかげで私たちはこの世において来世について味わい、肉体と魂と精神の間の違いについてある程度の証拠を見ることができるのです。

私たちは、寒さや暑さ、苦しみなどは単に肉体にかかわるもので、精神にかかわるものではないということを知っています。

私たちはよく、貧乏でしかも病気でみすぼらしい服装をして生計の道もない身でありながら精神的に強固な人を見ます。肉体がどれだけ苦しみをうけていようとも、精神は自由で健全なのです。一方、裕福で肉体的にも強健であるのに、魂が病んで死んでいるという人をしばしば見かけます。

物事をきちんと見る人には、人間の精神は肉体とは大いに異なるということは極めて明白なことです。

精神は不変であり、壊されるものではありません。魂の進化や発展、歓びや悲しみというものは物質的な肉体とは無関係のものです。

もし私たちが友人によって歓び、あるいは苦痛をもたらされたら、また、もしその愛情が真実か虚偽か、いずれかであることがわかった場合、影響されるのは魂です。私たちの親しい人たちが遠く離れている場合、悲しむのは魂であり、魂の悲しみや悩みは肉体に作用するでしょう。

このように精神が聖なる美徳で満たされているときは肉体も歓びに溢れています。もし魂が過ちを犯すと肉体は苦しみます。真実や貞節、忠実、愛を見いだしたら、私たちは幸福になりますが、虚偽や不貞、たくらみに出会ったらみじめになります。

こういうものはすべて魂に関するもので、肉体の病気ではありません。魂は肉体と同じようにそれ自身の個性をもっています。もし肉体上に変化が起ったとしても、精神は必ずしもその影響を受けることはありません。太陽の光が射し込んでいるガラスを壊したとき、ガラスは破損しても、太陽はなお輝き続けています。小鳥を入れている籠が壊されても、中の小鳥は何の傷害も受けません。ランプが割れても、炎はなお明るく燃え続けます。

人間の精神についても同じことが言えます。死は人間の肉体を崩壊させますが、その精神を支配する力はありません。精神は生まれることも死ぬこともない永劫不滅のものなのです。

死後の魂についていえば、それは肉体の生存中に達した清浄さの程度を保ち続け、肉体から解放された後は神の慈愛の大海に身を沈め、生存し続けます。

魂が肉体を離れ、天上の世界に入った瞬間からその進化は精神的なものであり、神への接近です。

物理的創造では、進化は完成の一つの段階から次の段階に進みます。鉱物はその完全性を植物に進化させ、植物の完全性は動物の世界に吸収され、やがて人間の世界に吸収されます。この世界には一見矛盾に見えることが一杯です。鉱物界、植物界、動物界のそれぞれにそれぞれの段階の生命が存在します。土地の生命は人間の生命に比べれば死んでいるように見えますが、その土地もまた生きているのであり、それ自身の生命をもっているのです。この世界では、万物は生まれ、死んで行き、そして再び別の形で生きるのですが、精神界はこれとはまったく異なります。

魂は、法則に従って一段一段進化するようなものではなく、それは、神の慈愛と恩恵によってただひたすら神へと接近する進化です。

私たちのすべてが神の王国に入り神に接近する、これが私の切なる祈りです。

第二十一 パリの心霊集会 (十一月四日)

欧州では今日、あちこちで集会や会合、その他いろいろな会が組織されているとお聞きします。商業や科学や政治に関する集会、その他多くの会合が組織されているようです。これらの集会はすべて物質部門の集会であり、物質界の発展と啓発を目指すものです。これらの集会には精神界の息吹はほとんど感じられません。そういう会合は神のことには関心がなく、神の声には気にもとめていないように思われます。しかし、パリのこの集会は本当に精神的な集会です。神の息吹は皆さんの間に吹きかけられ、王国の光は皆さんの心の中に輝いています。神の聖なる愛は皆さんの力になっていて、真理を渇望する皆さんは大いなる喜びをもたらす吉報を享受しています。

ここにいる皆さんはみんな寄り合い、心と心は互いに引きつけられ、魂には神の愛が満ちあふれ、世界が一つになることを念願し、そのために励んでおられるのです。

まことにこの集会は精神的な会合です。あたかも美しい香りの花園に来たようです。ここには天上の太陽が黄金の光線を投げかけ、その温かさは会場にあふれ、待ちうける心のすべてに喜びを与えています。すべての知識をもたらしたキリストの愛は皆さんの中にあり、聖霊は皆さんを援助しているのです。

この集会は日々成長し、ずっと強力なものとなり、その精神が遂には全世界を征服するようになるでしょう。

皆さんは心魂をつくして、自ら神の恩寵(おんちょう)の水門となるよう努力してください。なぜなら神は全世界に神の愛を広めるメッセンジヤーとなり、また、人類へ精神的賜物を持参する者となり、地上に和合と調和を普及する道具となるものとして皆さんをお選びになったからです。そうした素晴らしい特権を与えられたことについて、神に心から感謝しようではありません。そうした恩恵に対しては、一生を神の讃美に捧げても十分に感謝しきれるものではないでしょう。

心をふるい起し、現在を越えて、信仰の眼をもって将来を見ましょう。今日、種が蒔かれ、その種は地上に落ちました。それが一本の光栄ある樹木となり、その枝々が果実に覆われる日を思い浮かべましょう。この日の夜明けの始まりを喜び、それがいかに力強いものであるかを悟るよう努めましょう。それは実にすばらしいものです。神は、皆さんに栄誉の王冠を与え、皆さんの心に輝く星をちりばめてくださいました。まことにその光は全世界を明るくすることでしょう。

第二十二 光の二つの種類 (十一月五日)

今日は陰気な、うっとうしいお天気です。東方ではいつも太陽が輝き、星はかくされることがなく、雲はほとんど見られません。光はつねに東方にあがり、その光を西方にむかって投げています。

光には二つの種類があります。眼に見える太陽の光です。そのおかげで、私たちのまわりの世界の美を見分けることができます。この光なくしては、私たちは何も見ることはできません。

この太陽の光は私たちに物が見えるようにする機能はありますが、その物を見る力、またはそれがどんな魅力を持っているかを理解する力を私たちにもたらすことはできません。なぜならこの光は英知とか、意識というものを持たないからです。私たちに知識や理解力を与えるものは英知の光であり、この光なくしては、目は何の役にも立ちません。

この英知の光は存在する光の中で最高の光です。それは聖なる光から生まれ出るものだからです。

英知の光によって私たちは存在するすべてのものを理解し、認識することができるのですが、私たちに見えざるものを見させてくれ、今から幾千年後の世界でなければ見られないような真理を私たちに見せることができるものは、聖なる光だけです。

私たちがいま見ている事を、予言者たちは二千年前に見ることができたというのも全く聖なる光のためだったのです。私たちが探求しなければならないのはこの光です。それは他のいかなる光よりもずっと偉大だからです。

モーゼが神の顕現を見、それを知ることができ、燃える藪1の中から自分に語りかける天の声を聞くことができたのもこの神の光によるのです。 一:出エジプト記三:二

モハメッドが「アラーは天の光であり、地の光である」と言ったのも、この光のことなのです。

心をつくして、この天の光を求めましょう。そうすれば皆さんはやがて真実を理解し、神のもろも

ろの秘義を知り、隠されていた道が眼前に見えるようになるでしょう。

この光を鏡にたとえましょう。鏡がその前にあるものをすべて映し出すように、神の光は、霊眼をもった人たちに、神の王国にあるすべてのものや事物の真実の姿を見えるようにしてくれるものです。この光り輝く神の光の援助によって、聖なる書の精神的解釈のすべてが明らかにされ、神の世界の隠された事物が明らかにされ、私たちが人類に対する神の目的というものを理解することができるようになったのです。

私は神が慈悲をもって皆さんの心と魂に神の光栄の光を注いで下さるようお祈りします。そうすれば皆さんの一人一人がそれぞれ輝く星のようになって世界の暗黒の地を照らすようになるでしょう。

第二十三 西洋における精神的願望

アブドル・バハの言葉

皆さん、ようこそおいで下さいました!私は東方の国から西洋に参ったものです。東洋では、しばしば、西洋の人々は霊性をもたないというようなことが聞かれますが、私にはそうは思えません。私は、西洋の人々の間にも大いなる精神的願望があり、あるときはその精神的知覚は東洋の兄弟たちよりずっと鋭敏であるということをこの目で見、感じています。もし、東洋に与えられた教えが注意深く西洋に広められていたならば、今日の世界はもっと明るい場となっていたに違いありません。

過去において、偉大なる精神的教師たちはみんな東洋に出現したのですが、いまだに全く霊性を欠く人たちがみられます。彼らは、精神的なこととなるとまるで石のように生気がなく、しかもそれらのことを分かろうともしないのです。人間を、たかだか動物の高度の形態であるにすぎないと考え、神ことにはかかわりのないものと思っているからです。

しかし、人間の大志はこれを越えて高いところを目ざさすべきです。つねに自分の上を目指し、高きを見て精進し、遂には神の慈悲をとおして天の王国に到達するまで前進を続けるべきです。ここにもまた、物質的発展や物質世界の進化しか見えない人たちがいます。こうした人たちは、自分たちの霊と神の霊との光栄ある関係について熟考することよりも、むしろ自分たちの肉体と猿の肉体との間の相似点を研究する方を好むのです。人間が下位の創造物に似ているのは肉体的な面だけのことであり、人間の英知という観点から見ればまったく似ていないということは明らかなのに、誠に不思議なことです。

人間はつねに進歩します。人間の知識の輪は絶えず拡大し、精神活動は種々様々な経路を通じて躍動しています。人間が科学の分野で成就した業績を見てください。また多くの発見、無数の発明、そして人間の自然の法則に対する深い理解のことを考えてください。

芸術の世界においてもまったく同様で、人間の精神能力の驚くべき発達は時が進むにつれてますます速くなっています。過去一五〇〇年間のもろもろの発見、発明、それに物質的業績を見てみると、最近の一〇〇年間のそれは、それ以前の十四世紀におけるものよりはずっと大きいということが分かります。というのも、人間の進歩発展の速度は世紀毎に増大しているからです。

知力は神が人間に与えられた最大の賜物の一つで、人間をして動物より高位の創造物たらしめるものは、実にこの力です。人間の知性が世紀毎に、そして年毎に成長し、鋭敏になるのに、動物の知力は以前のままで停滞しているのです。彼らの知力は千年前と変わりがないのです。これは、人間が動物とは違う創造物であるということを示すこの上ない証拠です。それは火を見るより明らかです。

精神的完全性は人間の生れながらに持つ特権であり、あらゆる創造物のうちで唯一人間だけにふさわしいものです。人間は本質的に霊的存在であり、人間が霊的に生きるとき、本当に幸福となるのです。こうした霊的な憧れや知覚はすべての人間に同じように備わっているのであり、私は西洋の人々が偉大なる精神的願望をもつと確信いたします。

東洋の星がその輝かしい光を西洋世界になげかけ、そして西洋の人々が力強く、真剣に、勇気をもって起ち上り、東洋の同胞に援助をさしのべるよう、これが私の切なる祈りです。

第二十四 パリのスタジオでの講演 (十一月六日)

これこそバハイの会堂です。こうした会堂や集会所が建てられるたびに、その町、ないしはその町がある国の一般的発展にとって最大の助けになるのです。こうしたものは学問と科学の成長を奨励し、人びとにその強烈な精神性と愛をひろめるということが知られています。

このような集会所の設立はいつもすばらしい繁栄を見ます。テヘランにあった最初のバハイ行政会は並外れた祝福の的でした。それは一年間で急激に成長し、はじめのメンバーの九倍までになりました。今日、はるか遠方のペルシャには、神の友が喜びと愛と和合に満ちて共に集うそのような行政会がたくさんあります。彼らは神の大業を説き、無知の人々を教育し、兄弟愛の親切をもって人びとの心と心とを結びつけています。貧乏人や困窮者を助けて日々のパンを与えるのは、実に彼らでした。彼らは病人を愛し、面倒を見、孤独な人たちや虐げられた人々に希望と慰めを運ぶ人たちです。

パリの皆さん、皆さんの集会もこのようになるよう、そしてもっと大きい果実を結ぶよう努力してください。

おお、神の友らよ!もし、あなた方が神の言葉を信じ、強くなれば、また、もしバハオラの教えに従って病人に優しくし、落伍者を立ち上がらせ、貧乏人や困窮者の世話をし、窮乏の人たちを庇護し、虐げられている人たちを守り、悲しんでいる者を慰め、心をつくして人類世界を愛するならば、必ずや遠からずこの集会所は素晴らしい成果を収めることでしょう。各メンバーは日々進化し、ますます精神性をたかめることでしょう。しかし、皆さんは確固とした基盤に立たなければならず、またその目的や抱負は各メンバーによってはっきりと理解されなければならないのです。その目的や抱負は次の通りです。

一、全入類にあわれみと善意を示すこと。

二、人類に奉仕すること。

三、暗黒の中にある人たちを導き、目を開いてやる努力をすること。

四、万人に親切をつくし、生きとし生けるすべてのものに愛情を示すこと。

五、神に対して謙虚であり、日々、神に接近するよう不断に神に祈りを捧げること。

六、あなた方の全員が正直、愛、信仰、親切、寛容、勇気といった性格で知られるほどに、すべての行動に誠実で、真摯であること。神以外のすべてのことから離脱し、天上の息吹、つまり神聖なる魂に魅了されること。そうすれば世間は、バハイ信徒は完全な人間であると認めるようになるでしょう。

これらの集会でこれに達するよう努力してください。そうすれば、神の友であるあなた方は本当にこの上ない歓喜をもって集うことでしょう。互いに助け合い、すべての人が一つとなって、完全な和合に到達してください。

皆さんが日々、霊的に高まり、神の愛が皆さんの中にもっともっと現され、皆さんの心にいだく想念が清められ、そして、皆さんの顔がつねに神の方へと向いているよう、これが私の祈りです。皆さんの一人一人が和合の域に達し神の王国に入り、それぞれが神の愛の炎に明るく輝きわたる燃えさかる松明(たいまつ)となるようお祈りいたします。

第二十五 バハオラ (十一月七日)

アブドル・バハの言葉

今日はバハオラについてお話します。パブがその聖なる使命を宣言してから三年目にバハオラは新説を信奉しているというので当時の狂信的な回教指導者たちに告発され、遂に捕えられて投獄されました。しかし翌日、数人の政府の役人たちやその他の有力者たちが彼を自由の身としたのですが、しばらくしてからまた捕えられ、僧侶たちは彼に死刑の宣告をしました。政府の長は革命を恐れて、この宣告の執行を躊躇しました。僧侶たちは、死刑場の向い側にある回教寺院に参集し、町の人びとはその回教寺院の外に群がり集まりました。鋸やハンマーを持った大工、包丁を持った肉屋、鍬をかついだ煉瓦職人や建築業者たちは、狂乱の回教指導者たちに刺激されて、彼を殺す光栄に浴したいと勇んで参集したのです。回教寺院の中には回教学者のお歴々が集まっていました。バハオラは彼らの前に立ち、彼らのすべての質問にその偉大なる知恵の言葉をもって答えられました。特にその中の最高の地位にある賢者はバハオラの反駁にあって完全に沈黙しました。

そのうちに、二人の僧侶の間に、バブの著述中のある言葉の意味について議論が起こりました。バブのその言葉を誤りとして非難し、その点について弁明できるか否かとバハオラに詰め寄りました。しかし、僧侶は完全にその鼻柱を挫かれたのです。バハオラが、バブは絶対に正しく、バブを非難するのは無知なるが故であるということを全員の前で立証されたからです。

敗北者たちは彼を、足裏を鞭で打つという拷問にかけましたが、ますます募る激しい怒りに拍車をかけられた彼らは、遂に彼を引き出して、血迷った人たちの集っている死刑場へつれて行きました。

それでもなお、政府の主脳者たちは彼の刑の執行について僧侶たちの要求に応じることを怖れました。そして、この貴い囚人に迫っている危険をさとった彼らは、数人のものに命じて彼を救出したのです。命をうけたものたちは、寺院の壁を押し破り、その開いた所からバハオラを安全地帯に誘導し、どうにか彼の救済に成功したのですが、自由の身にしたのではなく、政府は彼を首都テヘランヘ送り、その責任をのがれたのです。ここで彼は地下牢獄に閉じこめられ、寸時も日光を見ることができませんでした。バハオラの首のまわりにつけられた重い鎖には他に五人のバビ信徒がしばられていました。鎖は強力な、非常に重いボルトやねじで組み合わされていました。衣服も、また頭の回教帽もぼろぼろになりました。バハオラはこうした恐ろしい状態で、四ケ月間そこにつながれていたのです。

この間、バハオラの友人は誰も彼に近づくことはできませんでした。

ある獄吏はバハオラの毒殺を企てましたが、その毒は彼にひどい苦しみを与えただけで殺すことはできませんでした。

しばらくして、政府はバハオラを自由にしました。彼は家族と共にパグダッドに追放され、そこに十一年間滞在されました。この間、幾多のきびしい迫害をうけ、外敵の執念深い憎悪に取り巻かれていたのです。

バハオラはこの上もない勇気とねばり強さであらゆる災害と苦悩を耐え忍ばれました。朝起きて日没まで生きるかどうかをいぶかることもたびたびでしたが、一方では、僧侶たちが宗教と形而上学について毎日教えをこうて来るという生活でした。

トルコ政府は遂に、バハオラをコンスタンテノープルヘ追放しました。そこからまたアドリアノープルヘ送られ、そこに五年間滞在されました。そして結局、はるか僻地の聖ジヤン・ダークルの城砦牢獄へ送られたのです。この城砦でバハオラは軍の管理する一廓に監禁され、きわめて厳重に監視されました。彼が受けなければならなかった幾多の試練や、獄舎で耐え忍んだあらゆる苦難は、とうてい言葉で表現することはできません。このような受難にもかかわらず、パハオラがヨーロッパ諸国の諸君主に書を送られたのは実にこの獄舎からでした。こうした手紙の数々はすべて郵便で送られたのですが、ただ一つ例外がありました。

ペルシャ王ナシリッド・ディンヘの書簡がそれです。

ペルシャのバハイ信徒、ミルザ・バディ・クラサニ(Mirza Badi Khurasani)に手紙を託し、直接王に手渡されたのです。この勇敢な男はテヘラン附近で、王の通るのを待ちました。王がその道を通って避暑のための宮殿に行くことになっていたからです。この勇気あふれる使者は王の宮殿の入口近くの道路で何日も待ちました。いつも同じ場所で待っていたので、人びとはなぜだろうといぶかり始めました。彼のことはついに王の耳に入り、王はその男をつれて来るよう僕たちに命じたのです。

バディは言いました。「おお、王の僕たちよ、私は書簡をもって参りました。この書簡を王さまの御手にお渡ししなければならないのです。」そして王にむかって、「私はバハオラの書簡をもって参ったのです」と。

彼は直ちにとらえられ、バハオラの追害を誘導するような情報を探ろうとする者らによっていろいろ質問されました。バディは一言も答えまいとしたので、拷問されました。それでも彼は沈黙を守ったのです。三日後に彼らはバディを殺しました。彼らは彼に語らせることはできませんでした。こうした残忍な連中が拷問中の彼を写した写真が残っています。 ※註:バディが王のところへ書簡を届けるよう命をうけたとき、その場にいたある人は、彼の顔が変って、彼の体中から光背が見えたと伝えている。

王はバハオラの書簡を僧侶たちに手渡し、説明するよう命じました。数日後、僧侶たちはこの書簡が政治上の宿仇からの書簡であると王に伝えました。王は怒って、「これは説明ではない。我の書簡を読んで、返事を書いたら報酬を興えるから、命令どおりにしろ」と言いました。

ペルシャ国王宛の書簡の精神や意味は、要約すれば次の通りでした。「いまや、神の栄光の大業が出現する時が到来した。テヘランに行き、僧侶たちが我に投げかけるあらゆる質問に答えることを我に許していただきたい。」

「我は汝が汝の帝国の世俗的なはなばなしさから離脱するよう勧告する。汝の前にあらわれたすべての偉大な王たちのことを思い起してみよ。彼らの栄誉も今は消え失せてしまったではないか。」

この手紙は実に立派に書かれ、将来、東洋と西洋の両世界でバハオラの王国が勝利を収めるであろうと警告し続けていました。

ペルシャの国王はこの手紙の警告には何らの注意も払いませんでした。そして最後まで従来どおりの生活を続けたのです。バハオラは獄舎にいらっしゃいましたが、偉大なる聖霊の力はつねに彼と共にありました。

おそらく獄舎の誰もが彼のようであることはできなかったでしょう。彼はあらゆる苦難をうけたにもかかわらず、一言の不平もおっしゃいませんでした。

彼は神の尊厳を保持し、政府の主脳者や町の有力者たちとの面会を常に拒絶したのです。

監視は容赦なくきびしいものでしたが、彼は思うまま行ったり来たりしました。彼は聖ジャン・ダーケルからほぼ三キロのところにある邸宅で亡くなられました。

第二十六 よい思想、観念は実行に移さなければならない (十一月八日)

すばらしいと賞賛される美しい言葉や、感心させられる高尚な教えは世界中で聞くことができます。すべての人が、善を愛し、悪なるすべてのものを憎むと言います。誠実は賞讃され、虚言は卑しまれる。信仰は美徳であり、裏切りは人類の恥。人びとの心に喜びを与えることは祝福すべきことであり、苦しめることは悪しきこと。慈悲深く親切であることは正しいことであり、人を憎むことは罪深いこと。正義は高尚な特質であり、不正は邪悪なもの。つまり、人に憐み深くあって、害を与えず、いかなる場合にも嫉妬と悪意を避けることは人間の義務である。人間の栄誉は知恵にあり、無知にではない、光にあって、暗黒にあるのではない。神へ顔を向けることは良いことであり、神を無視することは愚かしいことである。すなわち、人の向上を導き、間違った指導しないこと、人をおとしめないことは私たちの義務である。と言ったような名言の例はまだまだたくさんあります。

しかし、こうした名言というものはただ言葉であるにとどまり、行動に移されることはほとんどありません。それどころか、人びとは情欲と利己心に夢中で、皆が自分にとって得になるしか考えず、たとえそれが自分の兄弟を破滅させることであっても関係ないといった状態です。すべての人が自分自身の繁栄に躍起になり、他の人の福利のことなどほとんど、いや、全く気にかけないのです。彼らにとっては自分自身の平和と慰安だけが関心事であり、仲間たちの状態に心を痛めることなど全然ないのです。

不幸なことに、これが大低の人たちの歩む道です。

しかし、バハイたちはこのようであってはなりません。彼らはこの状態よりうえであるべきです。行動は言葉以上のものであるべきです。慈悲は彼らの行動をとおして示されるべきものであり、単なる言葉であってはならないのです。いかなる時も、自分たちの言葉は行動によって確認されるのです。彼らの行いは彼らの忠誠を証明し、彼らの行動は聖なる光を射しださなければなりません。

自分たちの行動を通して、我こそは誠のバハイ信徒であると世界にむかって声高らかに叫ぼうではありませんか。行動こそが世界にむかってもの言うものであり、人類発展の原因となるものだからです。

もし私たちが真実のバハイ信徒であるなら、言葉は不要です。私たちの行動は世界を援助し、文化をひろめ、科学の進歩を助け、もろもろの芸術を発達させる源となるのです。物質界においては、行動がなければ何も完成されず、また精神界においても、行動の助けのない言葉は人を進化させることはできないのです。神の選民たちが聖なる域に到達したのは口先だけの言葉の力によるのではなく、忍耐強い実践的奉仕の生き方のおかげで世界に光明をもたらしたのです。

それ故、自分たちの行動が美しい祈りとなるよう、日々努力いたしましょう。神へ顔を向け、常に正しく、高尚な行いをしましょう。貧しいものを豊かにし、落伍者を再起させ、悲嘆にくれるものを慰め、病人に癒しをもたらし、恐れるものを安心させ、虐げられたものを救済し、絶望した者に希望を与え、困窮者を庇護しようではありませんか。

これが真のバハイの仕事であり、バハイ信徒に期待されるところです。もし、こうしたすべてのことを実行するよう努力するならば、真実のバハハイ信徒といえるのですが、それをおろそかにするようなら光の従者ではなく、バハイ信徒を名のる資格はありません。

すべての心を知りたもう神は、私たちの生活が私たちの言葉をどれだけ実行しているかをご存知です。

第二十七 水と火の洗礼の真の意味 (十一月九日)

聖ヨハネによる福音書には、キリストは言いたもう「人は水と霊とによりて生れずば、神の国に入ること能わず」とあります。僧侶たちはこの言葉を、救済には洗礼が必要であるという意味に解釈しているのです。また、他の福音書では、「彼は聖霊と火とにて汝らに洗礼を施さん」と言っています。

このように洗礼における水と火は一つのものです。ここでいう「水」がいわゆる物質的な水でありえるはずはありません。水は「火」とは正反対のものであり、一方は他方を滅ぼすものだからです。福音書の中でキリストが「水」と言っているのは、生命をもたらすところのものという意味です。つまり、水がなければ地上の被(かぶ)造物は生きることができません。鉱物、植物、動物、人間など、あらゆる生存は水に依存しているのです。そうです、ごく最近の科学的発見によって、鉱物でさえある種の生命をもち、その生存のためにはまた水を必要とすることが証明されました。

水は生命の根源であり、キリストが水について言われた時、彼は永遠の生命の源を象徴しているのです。

キリストのいうこの生命を与える水は火に似ています。それは神の愛に他ならず、この愛はすなわち私たちの魂の生命を意味するのです。

この神の愛の火によって天上のもろもろの実在から私たちを引き離している暗幕が焼きつくされ、明確なビジョンのもとに、美徳と清らかな道において不断に、進歩発展するために前向きに努力することができ、世界に光を投げかけることができるのです。

神の愛こそは最も偉大で祝福されるものであり、これに優るものはありません。神の愛は病人を癒やし、負傷者を慰め、全世界に喜びと慰安を与えます。そして、神の愛をとおしてのみ人は不滅の生命に達することができるのです。神の愛はあらゆる宗教の本質であり、あらゆる聖なる教えの基礎です。

アプラハムやイザク、ヤコプを導き、エジプトのヨセフを力づけ、モーゼに勇気と忍耐力を与えたのは神の愛でした。

神の愛をとおして、キリストはこの世に送られました。そして、自己犠性と献身の完全な人生を示す啓発的な模範となり、不滅の生命のメッセージを人びとに伝えたのです。モハメッドに、アラブ人をその動物的堕落の状態から一段と高い生存状態に引上げる力を与えたのは神の愛です。

バブを支え、彼に最高の犠牲者の地位を得させ、その胸を喜んで何千もの弾丸の標的とさせたのは神の愛でした。

そして、バハオラを東洋に出現させたのも神の愛であり、今日その彼の教えの光ははるか遠い西欧において、また極地から極地に至る全世界に送られているのです。

このように私は、皆さんの一人ひとりが神の愛の力と美を認識し、あなた方のすべての考えと、言葉と、行動をつくして、神の愛についての知識をすべての心にもたらすよう、強く皆さんにお勧めいたします。

第二十八 心霊集会における演説 パリ、サン・ジエルマンアテネ食堂にて(十一月九日)

皆さんのご歓待に感謝し、皆様が精神的な考えをお持ちであることを喜んでおります。聖なるメッセージを聞くため集会であるこうした集りに出席できて幸せです。もし皆様が直理の眼をもって観ることができれば、偉大なる霊波がこの会場にうねっているのがみえることでしょう。聖霊の力は皆様のためにここにあります。神に賛美あれ、皆さんの心は聖なる熱情で啓発されています。皆さんの魂は精神の海の波のようです。つまり、それぞれの波は明らかに別々の波ですが、大洋は一つであり、すべては神のもとに結ばれているのです。

すべての人の心は和合の光を放射しなければならなりません。そうすれば、すべてのものにとって唯一の聖なる源の光が燦然と輝きでるでしょう。私たちは個々別々の波のことだけを考えるべきではなく、海全体を考えるべきです。私たちは個を超越して全体的に考えるべきです。神霊は一つの大きな海のようであり、波は人びとの霊魂です。

聖書は、新たなるエルサレムが地上に出現するであろうと説いています。いま、この聖なる都市は物質的な石材やモルタルで建てられるものではないということが明らかです。つまり、それは人間の手で造られる都市ではなく、天国の不滅の都市ということです。

これは、人びとの心を啓発する神の教えの再来を意味する予言的な象徴です。聖なる導きが人類の生活を支配しはじめてから長い年月が過ぎました。しかしいまや、ついに新たなるエルサレムの聖なる都市が現世に再現しました。それは東方の空のもとに新たに姿を顕わしたのです。それは全世界を照らす光となるために、ペルシャの地平線上から明るく輝き出ました。私たちはこれらの日々にこの聖なる予言の成就を見ています。エルサレムは姿を消し、天国の都市は破壊されました。しかし、いまやそれは再建されました。それは崩れ落ちたのですが、いまやその壁や尖塔は復興され、その新しく、栄光に満ちた美しさは高々とそびえ立っているのです。

西洋の世界では物質的繁栄が勝利し、東洋では精神的太陽がかがやいています。私はパリに精神的発展と物質的発展とが一つになっているこうした会合があることを知り、とても嬉しく思います。

真の人間は霊であって肉体ではありません。人間の肉体面は動物界に属するのですが、なお魂のゆえに彼は他の創造物より優位にあるのです。太陽の光がいかに物質界を照らしているかを見てください。それと同じように、神の光は霊界に照り輝やいているのです。人間という創造物が聖なる実在たり得るのは、実に霊のためです。

人間の霊を通して働く聖霊の力によって、人間は万物のうちに宿る神性を感知することができます。偉大なる芸術や科学の作品などあらゆるものがこの聖霊の力の証拠となるものです。

この同じ霊が不滅の生命を与えるのです。

この聖霊の洗礼をうけた者のみがすべての人間を和合のきづなで結びつける力を与えられています。聖霊の力によって、精神的考えの東洋世界が西洋の行動の世界と一体になり、物質界は清らかにされます。

当然のことながら、至高の計画を遂行するために励むすべての人たちは聖霊の軍隊の兵士ということになります。

聖なる世界の光は影と幻想の世界と戦います。真理の太陽の光は迷信と誤解の暗闇を追い散らします。

皆さんは神霊の人です。真理を探求する皆さんにとってバハオラの啓示は大いなる喜びとなります。この教えは霊的な教えであり、この中には神聖なる教えでないものはありません。

神霊は外界の兆候や作品に表現されない限り、肉体的な感覚で感知されるものではありません。人間の体は見えますが、魂は見えません。にもかかわらず、人間の諸機能に方向を与え、人間性を支配するのは魂です。

魂は二つの主要な機能をもちます。(a)外界の諸状況が目や耳や頭脳によってその人の霊に伝えられるように、魂は頭脳をとおして手や舌にその願いや目的を伝達してそれを表現するのです。魂の中の霊こそが、まさに生の真髄なのです。(b)魂の第二機能は、ビジョンの世界に表現されます。そこには霊が宿る魂があり、それが物質的な感覚の助けをうけることなく機能するのです。ビジョンの世界では、魂は肉眼の助けをうけずしてものを見、耳の助けによらずしてものを聞き、肉体の動きに頼ることなく旅をします。ですから、人間の魂は肉体的な感覚を使い、肉体をとおして機能することができ、また、それらの助けをうけずしてビジョンの世界で活動することもできるということは明らかです。これによって人間の魂は肉体より優位を占め、精神は物質よりも優位にあることがはっきりと証明されます。

たとえば、このランプを見てください。このランプの明りはそれを保持しているランプより優位にあるのではないでしょうか。ランプの姿がどんなに美しかろうと、その明りがなければランプの目的は達成されず、生命のない、死んだものとなります。ランプはどんな場合でも明りを心要としますが、明りはランプを必要としません。

精神は肉体を必要としませんが、肉体は精神を必要とし、それがなければ肉体は生きることができないのです。魂は肉体がなくても生きることができますが、肉体は魂がなければ死ぬだけです。

もし人間が視力や聴力、あるいは手や足を失っても、霊が宿っていれば彼は生存し、聖なる美徳を表すことができます。しかし、精神がなくなれば、いかに完全な肉体でも生存することは不可能です。

聖霊の最大の力は真理の聖なる顕示の中に存在します。聖霊の力をとおして、天なる教えが人類の世界にもたらされました。聖霊の力をとおして不滅の生命が人の子のたちにもたらされ、聖なる栄光が東方より西方へかがやきわたりました。聖なる人徳が現されたのも、実にこの聖霊の力のおかげです。

私たちは、全力をつくして世俗的な事から離脱するよう精進しなければなりません。より精神的で、もっと光かがやく人間になり、神聖な教えの忠告に従い、和合と真の平等の源に仕え、慈悲深く、すべての人たちに至高の愛を反映するように努力すべきです。そうすれば、私たちの行動のすべてに聖霊の光が輝きでて、ついには全人類が一つになり、荒れ狂う海は静まり、荒々しい波のすべてはあらゆる人生の大洋の水面から姿を消し、それ以後は、波立つことなく平穏になるでしょう。その時、新しいエルサレムは人類の前に現れ、彼らはその門を入り、神の恩恵をうけるでしょう。

私はこの午後、皆さんと共にあったことを神に感謝し、皆さんの精神的姿勢に対し皆さんに感謝します。

皆さんが聖なる熱情に燃え立ち、聖霊において和合の力を増されますよう、切にお祈りいたします。そうすれば、もろもろの予言は成就され、神の光の偉大な世紀において、聖書にかかれているすべての福音は現実のものとなるでしょう。このときこそ、主イエス・キリストが私たちに教えた、「あなたの天国は近づきたり。あなたの御心は天国にあるごとく、地上になるべし」という祈りの言葉が意味する栄光の日です。これはまた、皆さんの期待であり、大いなる願望であると私は思います。

私たちは、すべての人が一つとなり、すべての人の心が我らの天の父、神の愛によって輝くようにという一つの目的と希望で結ばれているのです。

私たちの全行動が精神的で、すべての関心と感情が栄光の王国に集中するよう祈ります。

第二十九 霊の進化 パリ グリーゼ街十五番地にて (十一月十日)

アブドル・バハの言葉

今夜は霊の進化、あるいは発展についてお話します。

自然界には絶対的な休息は存在しません。万物は進歩するか、衰退するかです。すべては前か後へ動いており、動かないものはないのです。人間は生まれてから、肉体的に成熟の域に到達するまで進化し、人生の最良の時というべき時期を迎え、やがて衰退しはじめ、体力や勢力は減退し、次第に死期に到ります。同様に、植物は種子から成長して実を結ぶようになり、やがてその生命が減退しはじめ、ついに色あせて枯れてしまいます。鳥は空高く舞い上がり、可能な限りの最高の高さにまで達するとだんだん地上に降りはじめす。

このように、あらゆる生存物にとって動きは必須のものであることが明らかです。すべての物質はある点まで発達するが、それから衰退しはじめます。これが物質的な創造物のすべてを支配する法則です。

さて、霊について考えてみましょう。運動はあらゆる生存物に必須のものであり、生存するもので運動をしないものは一つもないことが分かりました。それが鉱物であれ、植物であれ、動物界に属するものであれ、すべての創造物は、進化か、退化の運動の法則に従うことを余儀なくされているのです。しかし、人間の霊には衰退ということはありません。その運動は、ただ完全無欠の極みへ向けての運動だけです。霊の運動には、成長と進歩があるだけです。

神の完全性は無限であり、したがって霊の発達もまた無限です。人間が生れおちた時から霊は進歩し、英知は成長し、知識は増大します。肉体が死滅しても、霊は生き続けます。すべての物質的創造物のそれぞれの生存には制限がありますが、霊の生存は無限です。

すべての宗教には、魂は肉体の死後もなお生存を続けるという信仰があります。最愛の死者のために神へのとりなしの言葉がおくられ、死者の進化と、彼らの罪がゆるされるようにと祈りが捧げられます。もし霊魂が肉体と共に死滅するのであれば、こうしたことはすべて、全く意味のないことでしょう。それに、もし霊魂が肉体から解放された後に完全の極致へと前進することができないとすれば、これらの愛のこもった祈りや献身は一体何の役に立つのでしょうか。

聖典には「すべての善行は果報をもたらす」と書かれています。ところが、霊魂が肉体の死後に生存しないとすれば、これまた無意味となります。

物質界から去った私たちの最愛の人たちの安寧のために祈りを捧げずにはおれないという私たちの霊的本能は、確かにかなえられるとするこの事実こそは、死者の霊が生き続けるという証拠となるのではないでしょうか。

霊界には退歩はありません。死すべき宿命の人間の世界は矛盾の世界であり、対立の世界です。運動は強制的なものであるが故に、すべてのものは前進するか後退するかしなければならないのです。霊界では後退は不可能で、すべての運動は完全性に向かって前進します。「進歩」は、物質世界での霊の表現です。人間の英知、推理力、知識、科学的業蹟、これらのすべては霊の顕現で、精神的進化という不可避的な進歩の法則の適用をうけるものですから、それらは必然的に不滅のものです。

私は、皆さんが物質世界におけると同様、霊の世界においても進歩し、皆さんの知性が発達し、知識が豊かになり、理解力が拡大されますように願っております。

絶えず前進し、断じて立ち止まってはなりません。後退への第一歩である停滞で腐敗しないようにしなければなりません。

物質的創造物はすべて死滅する運命にあります。こうした物質的肉体は原子で構成されています。これらの原子が分離しはじめると分解作用が起り、いわゆる死が到来します。肉体やその他あらゆる創造物の、朽ちる要素を構成するこの原子構造というものは、一時的のものです。こうした原子を一つにしている牽引力がなくなると、もはや肉体は肉体として存在しなくなるのです。

霊はこれとは違います。霊は要素の結合体ではなく、多くの原子で構成されているのではありません。それは一つの不可分離の実在で、したがってそれは不滅です。それは完全に物質的創造物の秩序の外にあり、永劫不滅を特性としています。

科学は単一なる要素(単一とは結合体でないことを意味する)は破壊することができず、永続するということを実証しています。霊魂は要素の結合体ではないので、その性質上、単一要素と同じく滅亡はあり得ないのです。

霊は一つの不可分離の物質から成っているので、分裂や破壊をこうむることはなく、したがって、終末に到る理由もありません。生きとし生ける物は、それぞれ何らかの姿を現わし自己の生存を表します。必然的結果として、こうした生物の生存の表示というものは、その生存の元となるものが存在しなくなるとそれ自身もはや存在できません。勿論、存在しないものは何の存在をも表示することはできないわけです。精神の存在を示す様々な印は私たちの前に永遠に存在します。

イエス・キリストの霊の証跡、彼の聖なる教えの影響は今日なお私たちとともにあり、それは永遠です。

存在しないものが存在を示す印を現わすことはできないということは、誰も異論のないところです。書くためには人間の存在がなければならず、存在しない人間が書くことはありません。書物はそれ自体、書いた人の魂と英知の証跡です。あらゆる聖典(永遠に同じ教えと共に)は精神の永劫性を証明するものです。

万物創造の目的は何でしょうか。万物は幾世代を通じて創造され、進化発展しますが、その創造が、人間のごく僅かな年月の地上生活といったきわめて小さな目標のためであるはずはないでしょう。これが生存の最終の目的であるなどとは思えるはずがないでしょう。

鉱物は最終的に植物の生命に吸収されるまで進化し、植物は成長発達して、最後に動物の生命のためにその生命を失うのです。動物はまた人間の食料の一部となって、人間の生命に吸収されます。

このように、人間はあらゆる創造物の総和であるということが分かります。つまり、あらゆる創造物の優位を占めるものであり、世代を通じた存在の進化発展の目標なのです。

人間はこの世に生をうけてせいぜい九十歳位の寿命しかありません。実に短い人生です。

はたして人間は肉体を去るとき生存しなくなるものなのでしょうか。もし生存しなくなるとすれば、これまでの進化はすべて無駄であり、全く何もなくなってしまいます。万物の創造がこれだけの目的のために行われると想像できますか。

霊魂は永遠で、不滅のものです。

唯物論者は「霊魂はどこにあるのか。それは何か。私たちはそれを見ることも触れることもできないではないか」と言います。

私たちは彼らにこう答えるべきでしょう。鉱物がどれだけ進化しようとも、それは植物界を理解することはできません。しかし、それが理解できないからといって、植物が存在しないということにはなりません。

植物がいかに成長発達したとしても、植物は動物の世界を理解できません。植物が動物界を知らないからといって、動物が存在しない証拠にはなりません。

動物は、これ以上高度になることはできないというほど発展していますが、それでも人間の英知を想像することはできないし、また、自身の霊の性質を知ることもできません。しかし、これは人間に英知や霊魂がないという証明ではなく、ただ、一つの生存形態はそれより高位の存在を理解できないということを説明するものです。

この花は人間のような存在を意識しないでしょう。しかし花が知らないからといってそれは人間の存在を妨げません。

同じ論法で、たとえ唯物論者が霊魂の存在を信じないとしても、彼らの不信は決して精神界といった世界の不存在を証明することにはならないのです。人間に英知があるというそのこと自体が、実に人間が不滅であるということの証明であり、さらには暗闇は光の存在を証明するものです。と言うのも、光がなければ影というものはないでしょうから。貧乏は裕福の存在を証明するものです。なぜなら、裕福というものがなければ、私たちはどうして貧乏を評価できましょうか。無知は知識の存在を証明するものです。知識の存在がなければ、無知もないでしょう。

ですから、死すべき運命にあるという考えはすでに永劫不滅の存在を想定しているのです。と言うのも、もし永遠の生命が存在しなかったら、現世の生命を測る目安はどこにもないからです。

もし精神が不滅でなかったなら、どうして神の顕示者たちはかくも残虐な試練を耐えることができたのでしょう。

なぜイエス・キリストは十字架にかかって恐ろしい死をとげたのでしょう。

なぜモハメットは幾多の迫害を耐え忍んだのでしょう。

バブが至高の犠性者となり、バハオラがその生涯の長年を獄舎で過ごしたのはなぜなのでしょう。

もしそれが、精神の生命の永遠性を証明するものでないなら、なぜこうした苦しみを被(かぶ)る必要があったのでしょうか。

キリストは耐えられました。彼は自己の精神の不滅性の故にすべての試練を受け入れられたのです。もしふり返って見るならば、誰もが進化の法則の精神的意義を理解し、すべてのものがどのように低きより優位にむかって動くかを理解するでしょう。

このように考えると、万物創造の偉大なる計画が突然進化を止めるとか、万物の進化が不適切に終末を遂げると想像するなど、それは知性を欠いた人間でなければできないことでしょう。

このように理屈をならべて精神界など見ることができないとか、あるいは神の祝福を感知することはできないと主張する唯物論者たちはたしかに理解力をもたない動物に似ており、眼があって見えず、耳はあるけど聞こえないのです。この視力や聴力の欠如は、とりもなおさず、彼らが劣等であるという証拠です。そういう人たちについてコーランにはこう書かれています。「彼らは精神界について盲目であり、耳の不自由な者である。」彼らは神の偉大な賜物である理解力を使わないのです。それを使えば、彼らは霊眼をもって見、霊の耳をもって聞き、また天上から啓発された心をもって理解できるようになるはずです。

唯物主義的な考えの人が不滅の生命という観念を把握できないからといって、そうした生命が実在しないということにはならないのです。

そうした別の生命の理解のためには、私たちは精神的に生れかわらなければならないのです。

皆さんが霊的能力と抱負を日一日と増大させ、そして物質的感覚の支配によって聖なる光明の栄光から視力を遮られることがないように。これが私の祈りです。

第三十 アブドル・バハの念願と祈り(十一月十五日)

アブドル・バハの言葉

皆さん、ようこそおいで下さいました。私は皆さんに心からの愛を捧げます。

私は日夜、皆さんが強く生き、全員がバハオラの祝福をうけて王国に入られますよう天に祈りを捧げております。

皆さんが新しく生まれ変り、光が輝いているランプのように神の光で照らされますように、そしてヨーロッパの端から端まで神の愛が知れわたりますよう、嘆願いたします。

皆さんの心や考えは悲しみが入り込む余地がないほどに、この限りない愛に満ち溢れ、歓喜に満ちた心で、燦然と光り輝く天界に向かって小鳥のように舞い上がることができますように。

皆さんの心が真理の太陽の全栄光を反映する磨き上げられた鏡のように澄みわたり、純粋になりますように。

皆さんの眼が神の王国の兆を見、また、皆さんの耳が開かれて自分たちの中にひびきわたる天の宣言を完全に悟ることができますように。

皆さんの魂が助けと慰めを得て、バハオラの教えに従って生きられるほどに強められますように。

皆さんの一人一人が世界の愛の炎となり、皆さんの光の輝きとあたたかな愛情とが悲歎にくれる神の子供の心にしみわたりますように。

皆さんが、永遠に、王国にあかるく光り輝く星となられますように。

私は、皆さんがバハオラの教えを熱心に学び、神の助けを得て、正真正銘のバハイ信徒になられるよう謹んでお勧めいたします。

第三十一 肉体と霊魂と精神について パリ、カムワンス 四番地にて

(十一月十七日 金曜)

人間の世界は肉体、霊魂、それに精神の三つの段階に分けられます。

肉体は人間の物質的な、あるいは動物的段階をいいます。肉体面から言えば、人間は動物界に属します。人間の肉体も動物の肉体も、それを構成する諸要素が互いに引寄せ合う法則に支配されて一つの形を保持している点で相通じています。

動物と同様、人間には五感がそなわり、暑さ、寒さ、空腹、渇きなどの感覚に支配されますが、動物と違い人間には理性、つまり、人間の知恵がそなわっています。

この人知は、肉体と精神を媒介するものです。

人間が、霊魂を通して、精神の理解力を明るくされると、彼はすべての創造物を包容します。これまでにこの世に現われたあらゆる創造物の極致であり、以前の進化のすべてを越えて優位を占める人間は、下位の世界のすべてをわが内に包容するものだからです。霊魂の助けを得た精神によって啓発されると、人間の輝かしい知性がその者を万物の霊長とします。

しかし逆に、人間が精神の祝福に心を開かず、魂を物質面と人間性の肉体的面のみに向けているならば、彼は人間の高い地位より転落し、低級な動物界に住む動物にも劣る存在となります。この場合、人間は実に哀れな状態になります。もし神霊の活力に向けて開かれた霊魂の精神的諸特性が全く使われないなら、それらの機能は衰え、萎縮してついには全く能力しなります。一方、魂の物質的資質のみが使われ、それが非常に強くなり、その不幸な、心得違いの人間は下位の動物たちよりもずっと野蛮(やばん)で、不正で、下劣で、残忍で、悪意にみちた人間となります。彼のあらゆる希望や念願はその魂の資質の低級な面を強く反映し、ますます野獣的になり、ついには滅びる運命をもつ野獣にも劣る存在となり果てるのです。こうした人は悪事をはたらき、他を傷つけ、破壊することをたくらみます。彼らは聖なる哀れみの精神をまったくもたないのです。なぜなら魂の聖なる特性が物質的特質によって占拠されているからです。もし逆に、魂の精神的性質が強まり、その物質的性向を支配するなら、その人は神性に近づきます。その人の人間性は実に素晴らしく、天上の集合の諸美徳がその者の内に現わされます。その人は神の慈悲を放出し、人類の精神的発展を刺激します。なんとなれば、その人は人類の前途に光を投げかけるランプとなるからです。

皆さんは、霊魂がどのように肉体と精神の間の媒介となるかを感知されるでしょう。同様にこの木[1]は種子と果実との媒介をなすものです。(注[1] 近くのテーブルの上のオレンジの樹を指す)

木に果実が実り、熟したとき、私たちはその木が完全であることを知ります。もし実を結ばなければ、それは目的を達することのない無益な成長をしたことになるのです。

霊魂がその内に精神の生命を宿すとき、それはすばらしい果実を生み出し、聖なる木となります。この例を理解していただきたいと思います。そして、神の言いようもない素晴らしさが皆さんを強化し、精神と結びついている皆さんの魂の聖なる特質が永遠にその物質的性向を支配し、感覚を完全に支配して、その魂が天上の王国の完全性に近付くよう、私は希望します。神の光にしっかりと向けられた皆さんの顔が光り輝き、皆さんの想念、言葉、行動のすべてが皆さんの魂を支配する精神的な輝きによって照らされますよう、そして世界の集りにおいて、皆さんが自分たちの生命の完全性を示されるよう祈ります。

世間には、もっぱら俗事に心をうばわれ、外的様相や因襲的な利害関係に支配されてしまって、他の世界の存在や万物の精神的な意味には全く気付かない生活をしている人たちがいます。彼らは世俗の名声や物質的な発展を考え、夢みています。感覚的な歓びと安楽な環境のみに心をしばられ、世俗的な条件や境遇の良さに最大の望みをかけているのです。自分たちの低級な性質を抑制することなく、食べて、飲んで、寝るのです。動物のように、自分自身の物質的な安寧しか考えません。確かに、こうした生活上の必要はさっそく処理されなければなりません。生活は私たちが地上にいる間、運ばなければならない一種の重荷です。しかし生活上の低級な事物への思いが人間としての想念や大望のすべてを押しつぶすようであってはなりません。心にいだく大望はもっと素晴らしい目標に向かって上昇すべきであり、精神活動はより高いレベルに昇るべきです。人間はその霊に聖なる天国の完全性を見、その魂は聖霊の尽きることのない恩恵の住家とならなければならないのです。

皆さん、地上に天国の文明を建設するという大志をいだいてください。皆さんが聖霊の活力にみちあふれ、世界の生命の源となられますよう、皆さんのために至高の祝福を祈願いたします。

第三十二 バハイ信徒は世界によりよい状態をもたらすため心をつくして働かねばならない (十一月十九日)

このような集会に出ることは実に喜ばしい限りです。なぜなら実際この集会は「天国に近い人たち」の集りだからです。

私たちはみな、ただ一つの聖なる目的のために結ばれています。そこには物理的な動機はありません。私たちの最も大切な願いは神の愛を全世界にくまなく普及することです。

私たちは人類の和合のために働き、祈ります。つまり、地上のあらゆる種族が一つとなり、すべての国が一つとなり、すべての心臓が一つの心臓として鼓動するように、完全な和合と兄弟愛のために一致団結して働くのです。

神に賛美あれ、私たちの努力は心からのものであり、心は神の国に向けられています。真理をこの世に確立することこそ私たちの最大の念願であり、この希望のもとに私たちは愛と思いやりをもって互いに近づいています。すべての人が、人々の間の兄弟愛、平和、和合という大いなる理想にむかって、あらゆる個人的願望を犠性にして、一意専心、無私で精進しているのです。

私たちの右にも左にも神は私たちとともに在り、そして、日々、神は私たちの数を増大させ、私たちの集会は強力で有用なものとなることを疑ってはなりません。

皆さんのすべてが他の人にとって祝福となること、霊的に盲目の人たちに視力を与え、霊的に聾の人たちに聴力を与え、罪に死んでいる人たちに生命を与える人になっていただくことが私の最高の希望です。

皆さんは、物質生活におぼれている人たちに自分が神の子供であることを悟らせ、立ち上がり、生きるにふさわしい人となるように彼らを励ます人となってください。やがて皆さんの努力で人類の世界は神とその選民の王国となるでしょう。

私たちがこの大いなる理想の下に一つであり、私の念願はまた皆さんの念願であり、完全な和合のもとに共に働けることを、神に感謝いたします。

今日地上では、残酷な戦争の悲惨な光景が見られます。人間は利己的利益のために同胞を殺し、自分の領土を拡大しています。こうした卑しむべき野望のために人間の心は憎悪の虜となり、ますます血は流されているのです。

新たな戦争が始まり、敵の数は増大し、もっとたくさんの大砲や銃やあらゆる種類の爆発物が送り込まれ、恨みや憎悪は日ごとに増強しています。

しかし、ありがたいことに、この集会はただただ平和と和合を念願し、世界によりよい状態をもたらすために心魂をつくして働きます。

神の僕である皆さんが弾圧や憎悪や不和に抗して戦っているので、やがて戦争はやみ、平和と愛の聖なる神の法則が人類の中に樹立されるでしょう。

働きましょう。あらん限りの力をつくして働き、神の国の大業を人類の間に拡大しようではありませんか。尊大な人たちに対し謙虚に神へ向かうよう、また罪深き人たちに再び罪を犯さぬよう教え、神の王国の到来を、悦びをもって期待しましょう。

天の父を愛し、従いましょう。そして、神の助けは皆さんのものであることを確信しましょう。まことに、私は心から皆さんに申します、皆さんは確かに世界を征服するであろうということを。

ただただ信仰と忍耐と勇気とを持つことです。これは始まりに過ぎませんが、必ずや皆さんは成功するでしょう、なぜなら、神は皆さんと共にあるからです。

第三十三 中傷について (十一月二十日 月曜日)

世のはじめから今日に至るまで、神から遣わされたすべての「顕示者」は「暗闇の力」の権化によって妨害されました。

この暗闇の力はいつも光を消そうと努力しました。暴虐はつねに正義を征服しようとし、無知は執拗に知識を踏みにじろうと試みました。これが物質界における昔からの方法であったのです。

モーゼの時代には、古代エジプトのファラオはモーゼの光が世界にひろがるのを防ごうとしました。

キリストの時代には、アンナズとカヤバがユダヤ人たちを扇動してキリストに反対させ、イスラエルの学者たちも彼の力に抵抗するために結集しました。キリストに対するあらゆる種類の中傷が世間に流されました。法律学者やパリサイ人たちは、彼のことを嘘つきで背教者で不敬者であると人びとに信じさせようと共謀したのです。彼らは、反キリスト的なこうした中傷を東方の全域に流し、彼に対して恥ずべき死刑を宣告させたのです。

モハメットの場合もまた、同時代の学者たちは彼の影響の光を消そうと決議し、剣の力で彼の教えの普及を妨げようと試みました。

あらゆる彼らの努力にもかかわらず、真理の太陽は地平線上に照りかがやきました。どの場合にも、光明の軍隊はこの地上の戦場における暗黒の勢力を征服し、神の教えの光が地上を照らしたのです。教えを受け入れて神の大業のために働いた人たちは人類の天空に輝く星となりました。

いま私たちの時代においても、歴史は繰り返されます。

宗教は各人の個人的な財産であると人々に信じさせた人たちがまたもや、真理の太陽に抵抗しようと懸命になりました。彼らは神の命令に抵抗しました。彼らはそれについて論議することも、実証を求めることもしないで、中傷をねつ造したのです。彼らは日の光の中にどうどうと出てくることなく、覆面をして攻撃しました。

私たちの方法はこれと違い、攻撃したり、中傷したりすることはありません。私たちは議論や論証で示し、彼らに私たちの声明の誤りを立証するよう促します。彼らはそれに答えることができず、かえって、聖なるメッセンジャー・バハオラについて考え出せるかぎりの中傷を書き立てました。

こうした中傷的な文書に心を迷わされないようにしましょう。バハオラの言葉に従い、抽象的な言葉に応じないように。むしろ、こうした虚偽の宣伝が真理を普及する結果になることを喜びなさい。こうした中傷が流布されると、調査をします。調査をした人たちはやがてバハイ信教を知るようになるのです。

もし人が、「隣の部屋のランプは明かりがつかない」と言ったら、それを聞いた人はその報告で満足するかもしれませんが、より賢明な人は自分で判断するためその部屋へ行って見るでしょう。そして、あかあかと明かりがついているのを見て、彼は真実を知ります。

また、ある人が「あそこの庭園の樹々は枝が折れ、果実は実らないし、葉は色あせて黄色になっている。花の咲く樹は花も咲かせず、バラの木は枯れて死んでいる。あの庭園には行かないように」と言いました。その庭園についてそのような説明を聞いても、公正な人は、それが真実であるか否かを自分で見なければ満足しないでしょう。ですから、彼は庭園に入って見て、その庭園は手入れが行き届いていて、樹々の枝はしっかりとしており、美しい緑の葉の華やかさの中に甘く熟した果実がたわわに実っているのを発見します。花の咲く樹々はさまざまな色合いの花を咲かせ、バラの枝々にはすばらしい匂いの、美しい花が咲きみだれ、すべては青々と茂っています。この庭園の栄光が公正な人の眼前にくりひろげられるとき、彼は、つまらない中傷によってかくもすばらしく美しいところに導かれたことで神を讃美するのです。

これが中傷者たちのはたらきの結果です。つまり、真理の発見へと人々を導く源となるのです。

キリストやその使徒たちについての虚偽の報道、または反キリスト的著述のすべては人をキリスト教の教義の探求へと導いたにすぎませんでした。彼らはその美を見、その芳香を嗅ぎ、それ以来、あの聖なる庭園のバラの花や果実の中を歩いたのです。

従って、私は、心を尽して神の真理を普及するようにと皆さんに申します。そうすればその人びとの知性は啓発されましょう。これが中傷者に対する最善の回答です。私は彼らについてとやかく言うとか、悪口を言うつもりはございません。ただ、中傷は重大な問題ではないということを言いたいだけです。

雲は太陽を覆うかもしれませんが、いくら厚くなっても太陽の光線をさえぎることはできません。何ものも神の花園に暖を与え、活気つけるために降りそそぐ太陽の輝きを妨げることはできないのです。

いかなるものも天国から降る雨を妨げることはできないのです。

神の言葉の実現を妨げ得るものは存在しません。

だから、神の啓示を否定する書や論文を見ても悩むことはなく、それによって大業がますます強くなることを確信して気楽にするといいのです。

果実のない樹にむかって石を投げる人はいません。光のない灯を消そうとするものもないのです。

昔を見てみましょう。ファラオの中傷はどのような影響を及ぼしたでしょうか。彼は、モーゼが人殺しであり、人を殺したのだから死刑に処すべきと主張しました。また、モーゼとアロンとが不和を誘発するもので、エジプトの宗教を破壊しようとした罰によって死刑にしなければならないと言いました。こうしたファラオの言葉は空しいものでした。モーゼの光は輝きわたりました。神の法則の輝きは世界を取り囲んだのです。

パリサイ人がキリストについて、彼は安息日を守らず、モーゼの掟を無視し、エルサレムの寺院と聖都を破壊すると脅かしたので十字架にかけなければならないと言ったのです。こうした中傷的な攻撃は少しも福音書の普及を防害することはなかったことを私たちは知っています。

キリストの太陽は天空に光り輝き、聖霊の息吹は全地球に漂いました。

皆さん、いかなる中傷も神の光に打ち勝つことはできません。それはそのことをより広く認めさせることになるだけです。もし大業が重要なものでなければ、誰がわざわざそれに低抗したりするでしょう。

しかし、大業が大きければ大きいほど、いつも、それを打ち破ろうとする敵の数はますます多くなるものです。光が明るければ明るいほど、その影はますます暗くなるのです。謙遜に、そして確固としてバハオラの教えに沿って行動することこそ私たちの任務です。

第三十四 霊性なくして真の幸福と進歩はあり得ない (十一月二十一日)

動物にとって獰猛や残忍性は当然のことであるが、人間は愛と優しさという性質を体現すべきです。神がその予言者たちをこの世につかわし給うたのはすべて、人びとの心に愛と善意とを植えつけるというただひとつの目的のためでした。そして、この偉大な目的のために彼らは喜んで苦しみ、死んでいったのです。すべての聖典は人びとを愛と和合の道へと導くために書かれました。にもかかわらず、私たちの周りでは戦争や流血の悲しい光景が展開されています。

過去、現在を問わず、歴史をひもとくと、黒土が人間の血で赤く染められたことが分かります。人びとはまるで残忍な狼のように互に殺し合い、愛と寛容の法則を忘れています。

いまや、このように輝かしい時代がすばらしい文明と物質的発展をもってやってきました。人びとの知性は拡大し、その感知力は伸びました。にもかかわらず、悲しいかな、鮮血が毎日のように流されています。現在の土伊戦争をみてください。しばし、こうした不幸な人びとの運命について考えてみましょう。この悲しむべき戦争で何人の人が殺されたことでしょう。いかに多くの家が壊され、妻たちが未亡人に、子供たちが孤児になったことか。すべてこうした苦悩と心痛の代償として一体なにが得られるというのでしょう。せいぜい、地球の片隅の狭い土地を得るに過ぎないではありませんか。

こうしたことはすべて、物質的発展だけでは人間を向上させることはできないということを示しています。逆に、人間は物質的発展に浸れば浸るほど、その霊性はますます曇らされるのです。

過去の時代には、物質的発展はさほど急速ではなく、また、このようにおびただしい流血もありませんでした。古代の戦争には大砲も、銃も、またダイナマイトやさく裂弾、魚雷艇、戦艦、潜水艦というものはなかったのです。いまや、物質文明のおかげでこうしたものがすべて発明され、戦争はますます悪質になって行きました。ヨーロッパ自体があらゆる爆発物に満ちあふれる一つの拡大な軍需工場であるかのようです。神よ、その点火を防ぎたまえ。もしそのようなことが起ったなら、世界全体が巻きこまれてしまうでしょうから。

皆さん、物質的発展と霊的発展とは二つの非常に異なったものであり、物質的発展が霊性と共に進む場合にのみ真の発展が生み出され、最大平和が世界に行きわたるということを理解してください。もし、人びとが聖なる勧告や予言者たちの教えに従うなら、もし聖なる光がそれらすべての人びとの心にかがやき、本当に宗教心のある人間となったなら、やがて地上に平和が訪れ、人類の間に神の王国が築かれるでしょう。神の法則は魂にたとえられ、物質的発展は肉体にたとえることができます。肉体が霊魂によって活気づけられていなければ、肉体は存在しなくなるのです。現世において霊性がますます成長し、風習が啓発され、平和と調和とが確立されること、これが私の切なる祈りです。

すべての残虐性を伴う戦争や強奪は、神の目には忌まわしいことであり、それぞれに罰を受けるものです。なぜなら愛の神はまた正義の神であり、各人はみずから蒔いたものを自分で刈り取らなければならないからです。至高の御方の命令を理解し、私たちの生活を神の指示に従って処すよう精進しようではありませんか。真の幸福は、精神的に喜ばしい状態にあって、常に神の恩恵を受けるように心を開いているかどうかによって決まります。

もし、神が与えたもう祝福に背けているならばどうして幸福を望むことなどできましょうか。また神の慈悲を望まず、信じないとすれば、どこに平安を見出すことができるのでしょう。おお、神を信じましょう。神の恩恵は永遠不滅のものであり、その祝福はすばらしいものだからです。おお、あなたの信頼を全能なる御方のうえに置きなさい。神にはし損ないはなく、そのすばらしさは永遠に続くものだからです。神の太陽は光を放ち続け、神の慈悲の雲は憐みの水に満ちあふれています。そして、その水は神を信ずる人たちのすべての心をうるおすのです。神のさわやかな微風(びふう)はその翼でいつも人びとの乾いた魂に癒しを運びます。神の祝福を惜しみなく私たちに与えてくださる慈愛深き天の父に背を向けて、むしろ物質の奴隷となり果てるということははたして賢明でしょうか。

無限のすばらしさをもつ神は、私たちをかくも栄誉ある者として高め、物質界の支配者にされたのです。しからば、私たちは神の奴隷になるのでしょうか。否、むしろ神の相続権を主張し、神の霊的な子として生きるよう精進しようではありませんか。真理の、栄光ある太陽はふたたび東方に昇りました。はるかペルシャの地平線からその光は遠く、また広く輝きわたり、迷信の濃雲を消散させるのです。人類和合の光は世界を照らしはじめ、間もなく、聖なる調和と民族団結の旗が天界に高くひるがえるでしょう。そうです、聖霊の微風(びふう)が全世界に霊感を与えるでしょう。

おお、人々と諸国よ。起ち上り、働き、そして幸福になりましょう。人類和合のテントの下に共に集いましょう。

第三十五 苦しみと悲しみ (十一月二十二日)

現世において私たちの心を動かす感情には二つあります。喜びの感情と苦しみの感情です。

喜びは私たちに翼を与えてくれます。嬉しいとき私たちはますます活気付き、知性はずっと鋭くなり、理解力はよりはっきりしてきます。世事もよりうまく対処でき、いっそう有益な存在となります。しかし、悲しみが訪れると、気弱になり、力がぬけ、理解力は鈍り、知性は曇ります。自分の人生の実情が把握できず、内なる眼は聖なる神秘を発見し得ず、まさに生ける屍となるのです。

こうした二つの力に影響されない人間はいないのですが、この世の悲しみや苦しみはすべて物質界から来るものです。霊の世界は喜びのみを与えてくれます。

私たちの苦しみは物質的な事物の結果であり、すべての災難や問題は幻影の世界から来るのです。

たとえば、商人が商売に失敗して不況になってしまう。職人が解雇されて餓死寸前となる。農夫が不作で悩まされる。建てた家が全焼し、ホームレスになり、落ちぶれ絶望している。

すべてこうした例は、私たちの進路をさえぎるあらゆる苦難、悲しみ、苦しみ、恥辱、失敗が物質の世界から生み出されるものであるということを示すためのものです。一方、霊の王国が悲しみを生み出すことは決してないのです。この霊の王国を思いつつ生活する人は永遠の歓びを知るのです。すべての肉体が悩まされる病気も人を襲いますが、病気はただ人の生命の表面を犯すだけで、内奥は穏やかで落ち着いているのです。

今日、人類は苦難や悲しみにくれ、誰もそれから逃れられません。世界は涙で湿っています。しかし、ありがたいことに救済が直ぐそこにあります。物質の世界に顔をそむけ、霊の世界に生きようではありませんか。それだけで私たちは自由を得ることができるのです。もし、私たちがいろいろな問題に取り囲まれたとき、ただ神に助けを求めます。そうすれば、神の大いなる慈愛によって私たちは救われるでしょう。

もし、悲しみや逆境に見舞われたら、霊の王国へと顔を向けましょう。そうすれば、天の慰めが流れでるでしょう。

もしも病気になったり、貧苦に悩まされたりしたら、神の治癒を懇願しましょう。神は私たちの祈りに答えて下さるでしょう。

私たちの頭がこの世の苦痛でいっぱいになったときは、神の憐みの甘美さへと目を向けようではありませんか。神は聖なる平穏を与えて下さるでしょう。たとえ物質的世界に閉じこめられていようと、私たちの精神は天界に舞い上がることができ、私たちは本当に自由になれるのですから。

自分の寿命が終わりに近づいているとき、永遠の世界について考えましょう。そうすれば私たちは歓喜に満たされます。

物質的な事物が不適当なものであるという証拠は皆さんの周りの到るところにあります。実に歓喜、安楽、平和、慰めというものはこの世のはかない事物の中に見出されるものではありません。ならば、これらの宝物があると思われるところで宝物を探すべきであり、それを拒否するのは愚かでしょう。霊の王国の扉はすべての者に開かれており、その扉の外はまったくの暗黒です。

ここにお集まりの皆さんはこのことを知っています。神に感謝しましょう。なぜなら皆さんは、人生の悲しみのすべてに対し、至高の慰めを得ることができるからです。かりにあなたの地上での寿命が残り少なくなったとしても、皆さんは永遠の生が待っていることをご存知です。もし物質的な不安が皆さんを暗雲に包んだとしても、霊の光は皆さんの行く手を照らします。まことに、至高の霊によって思考が照らされている者はこの上もなく慰められます。

私自身、四十年間獄舎にいました。ただの一年でさえ耐えられないものであったかもしれないあの獄舎の生活で、だれも一年以上生き残った人はありませんでした。しかし、神様のおかげで、その40年間、毎日、私はこの上もなく幸福でした。朝、目が覚めるとすばらしい福音を聞き、夜は限りない喜びが私のものだったのです。精神的なことが私の慰めであり、神へ向かうことが私の最大の喜びでした。もしこうでなかったならば、私があの四十年の獄舎生活を耐えることができたと、皆さんは思いますか。

このように、霊性は神の最大の贈り物です。そして、「永遠に不滅の生命」とは、「神へ心をむける」ことにほかなりません。皆さんは一人残らず、日々、霊的に高められ、あらゆる善性を強め、聖なる慰めによってさらに助けられ、神の精霊によって自由にされること、また、天上の王国の力が皆さんの間に生き、作用するように。これが私の切なる念願であり、皆さんがこうした恩恵を受けとられるよう神にお祈りいたします。

第三十六 完全な人間的感情と美徳 (十一月二十二日)

アブドル・バハの言葉

皆さんはいま大いなる光栄に浴していることを神に感謝し、至福の喜びを感じるべきでしょう。

これは純粋に精神的な集会です。神に賛美あれ。皆さんの心は神へ向けられ、魂は王国に惹きつけられ、霊的情熱に燃え、思いは塵の世界を超えて飛翔しています。

皆さんは純粋の世界に属し、食べて飲んで眠って一日を過ごす動物の暮らしに満足してはいません。皆さんはまことの人間なのです。皆さんの重いと情熱は人間性の完成を習得することに向けられており、善を行い、他人に幸福をもたらすために生きておられます。皆さんは悲しむものに慰安を与え、弱者に力を与え、絶望した魂に希望を与えるものとなることを最大の願いとしておられます。皆さんは日夜、王国に向かい、心は神の愛に満ちあふれています。

そういうふうに皆さんは、生きとし生けるものを尊い存在とみなし、すべてに良かれと願って尽しておられるのですから、敵対や嫌悪や憎悪を知りません。

こうしたことが完全な人間的な感情であり、美徳なのです。こうしたことの全くない人間は生存を止めた方がよいのです。ランプが光を出さないようなら、こわしてしまった方がよいし、樹も実を結ばないなら切り倒してしまった方がよいのです。それは邪魔になるだけですから。

まことに、人は徳のない生活を続けるよりは死ぬ方が千倍もましです。

私たちは見るために眼を持っていますが、もし私たちがそれを使わないなら、眼は私たちの役にたつことができません。私たちに耳があるのはそれをもって聴くためです。でも私たちが聞かないなら、耳は何の役に立つでしょうか。

私たちに舌があるのは神を讃美し、神の福音を宣言するためですが、もし私たちが口をきかなければ、それはとても無用なものとなるでしょう。

万物を愛し給う神は、聖なる光に輝き、その言葉や行動や生きかたによって世界を照らすようにと人間を創造されました。人間にして徳がなければ動物と変わらないし、しかも知性なき動物は卑しいものです。

天の父は人間に英知というきわめて貴重な賜物を与えてくださいました。それによって人間は霊の光となり、有形の暗黒を突き通し、世界に善と真理をもたらすのです。もし皆さんがバハオラの教えに真剣に従うなら、実に、皆さんは世界の光となり、世界という肉体の魂となり、人類の慰安と助けとなり、全宇宙を救済する源泉となるでしょう。それゆえ、心魂をつくして、祝福された完全の勧告に従うよう努力いたしましょう。もし皆さんが、皆さんのために定められた生活を生きることができたなら、天上の王国における永遠の生と不朽の歓喜は必ず皆さんのものとなり、皆さんの一生を通じてすばらしい支えが皆さんを力づけるということを確信してください。

皆さんの一人一人がこうした完全な喜びに達するようになること、これが私の心からの祈りです。

第三十七 外国人の苦しみに対する人々の冷酷な無関心 (十一月二十四日)

アブドル・バハの言葉

ついいましがたこの国[フランス]で大きな事故があったと聞きました。列車が事故で河に落ち、少なくとも二十人の尊い人命が失われたのです。このことが今日仏議会で討議される予定になっています。国有鉄道総裁が証言のために召喚されています。総裁は鉄道の現状と事故の原因について尋問を受け、激しい議論になるでしょう。20人の尊い犠牲者についてはなんと大きな関心が払われていることでしょう。それに対して、何千人ものイタリア人、トルコ人、アラブ人の尊い人命がトリポリで失われたことにはそれほどの関心は無いのです。これはなんということでしょうか。トリポリの大虐殺については、仏政府は全く無関心です。しかし、不幸にも尊い生命を失ったその人々も同じ人間なのです。

なぜ二十人には大きな関心と共感が払われて、トリポリで生命を失った5千人に対しては誰も関心を払おうとしないのでしょうか。外国人だからでしょうか。しかし、彼らも全て人間で、人類の家族の一員なのです。関心の無い国にとっては、彼らが死んでも何でもないのでしょうか。もしそうなら、なんという不正義、冷酷で、また、善良で真実な感情を欠いていることでしょう。この外国の人々にも、子供たち、妻、母、娘や小さな息子たちがおります。亡くなった人々の所では、悲しみのために泣かないですむ家はほとんど無く、また、戦争の残酷な手から免れている家はほとんど無いでしょう。

なんと悲しいことでしょう。人間はなんと冷酷で、偏見に満ちていて、不正義なのでしょう。神の言うことを信じ、神の命令に従うことに人間はどうしてこれほどまで遅々としているのでしょう。

もし人々が剣や大砲をもって破壊することに熱心になる代りに、お互いに愛しあい助け合うなら世界はずっと気高いものになるでしょう。もし、人々が狼のように互いをむさぼり喰う代りに、平和と和合のうちにある鳩の群れのように生きるならばその方がずっとよいでしょう。もし人間が霊的な心を持つなら悲惨な結果をもたらす行為は不可能なはずです。神の預言者の法と教えが信じられ、理解され、従われてさえいれば、もはや戦争が地球上を暗くすることはないでしょう。

もし、人間に基本的な正義があれば、現在のような悲惨な事態は不可能であろうに。

なにゆえ人間の心はそのように冷酷なのでしょうか。それは人間がまだ神を知らないからです。もし人間が神を知っていれば神の法を犯す行為はできないでしょう。

それゆえ私はあなた方に、神に対面し、神よ、あなたの無限の同情と慈悲をもって、これらの誤って導かれている人間を助け、援助して下さいと祈って下さるようお願いします。神が人間に霊的な理解力を与え、人間に寛容と慈悲を教え、人間の心の眼を開き、霊の賜物を与えてくださいますようにお祈り下さい。そうすれば、平和と愛が世界中に満ちて、悲惨で不幸な人間が安らぐことができるでしょう。

よりよい状態をもたらすために昼夜を問わず頑張りましょう。私の心は現在の悲惨な状態によって大きな悲しみと悲嘆にくれています。願わくはこの嘆きが他の人々にも届きますように。

そうすれば、盲目の者が見、死者がよみがえり、正義が地球を支配するでしょう。

このことが実現するよう、私はあなた方全員に心からのお祈りを懇願いたします。

第三十八 バハイ信徒の数の少ないことに落胆(らくたん)してはならない (十一月二十五日)

キリストがこの世に現われたとき、キリストはエルサレムにその姿を現しました。彼は人びとを神の国へと導き、永劫不滅の生命へ招待しました。そして、人間性を完成させるよう教えたのです。その導きの光はその輝かしい星から輝き出ました。そして、キリストはついに生命をなげうって人類のために犠牲となりました。

キリストの祝福された生涯は苦難に満ちていました。にもかかわらず、その当時の人々はキリストの敵でした。

彼らはキリストを否定し、侮蔑し、虐待し、呪ったのです。キリストは人間として扱われなかったのですが、キリストは憐愍と至高の善と愛の具現者であったのです。

キリストは全人類を愛しましたが、彼らはキリストを敵として扱い、キリストの進化を認めることができませんでした。キリストの言葉を尊重せず、その愛の炎によって輝かされることはなかったのです。

後になって彼らは、キリストがなにものであるか、聖なる神の光であり、その言葉は永遠の生命をもたらすものであるということを悟りました。

キリストの心は全世界を包容する愛に満ちあふれ、彼の優しさは一人ひとりに行きわたるようになっていました。こうしたことが分かりはじめると、彼らは後悔しましたが、そのときキリストはすでに十字架にかかってしまっていたのです。

彼らがキリストは誰であるかを悟ったのは、キリスト昇天後幾年も経ってからのことでした。キリストが昇天した頃、使徒の数はごく少数でした。彼の教えを信じ、そのおきてに従うものはほんの少数しかなかったのです。無知な人は、「この者はいったい何だ、使徒もわずかしかいないではないか」と言いました。しかし、知者は、「彼こそ、東洋と西洋とに輝きわたる太陽であり、世界に生命を与える顕示者である」と言いました。

世間は後になって初期の使徒たちが見たことを悟りました。

それ故、ヨーロッパに住んでいる皆さん、信徒の数が少いからといって、あるいは世間があなた方の大業を重要視しないからといって、失望してはなりません。集会にあまり人が集まらないといって消沈することなく、嘲笑され、反対されても悲しむことはありません。キリストの使徒たちは同じことを耐え忍んできたのですから。彼らは口汚くののしられ、迫害され、呪われ、虐待されましたが、最後には、勝利をおさめ、彼らの敵の方が間違っていたということが分ったのです。

もし歴史が繰り返し、同じことがあなた方に起るとしても、悲しむことなく、喜びに満ちあふれ、むかしの聖人たちが苦しめられたように自分も苦難を受けるために呼び出されたことに対し、神に感謝しようではありませんか。反対するものがあっても、その人たちには優しく接し、否認されても自分の信念に確固として揺るがず、もし彼らがあなたを見捨て、あなたを避けたとしても、その人たちを探し出し、親切に付き合いましょう。どんな人をも害してはならず、すべての人のために祈り、あなた方の光が世界到るところに輝き、皆さんの旗が天空高くひるがえるよう努力すべきです。皆さんの高貴なる生活の美しい芳香は到るところに浸透し、皆さんの心にともされた真理の光ははるか彼方の地平線まで輝きわたるでしょう。

世間の無関心や嘲笑は問題ではありません。最も重要なのは皆さんの生活です。

聖なる王国の真理を探求する人たちはすべて星のようにかがやきます。彼らはえり抜きの果実が実る果樹のようであり、貴重な真珠にみちた海のようです。

ただひたすら、神の慈愛を信じ、聖なる真理を普及しようではありませんか。

第三十九 パリのパスター・ワグナー教会でのアブドル・バハの講話  (十一月二十六日)

私は、私に寄せられた数々の共感の言葉に深く感動し、私たちの間に真実の愛と思いやりが日ごとに深まっていくことを望んでおります。神は愛がこの世の活力になることを意図されております。そして、皆さんもお気づきのように愛について語ることは私の喜びとするところであります。

いつの時代も、神の預言者たちは真理の大業に仕えるためにこの世に遣わされました。モーゼは真理の法則をもたらし、彼につづくイスラエルの予言者たちはすべてそれを普及しようとしました。

イエスが出現すると、その真理の燃え立つたいまつに点火し、世界全体が啓発されるようにと、それを高々と掲げました。イエスに続いて選らばれたる使徒たちが世界各地に散らばり、自分たちの師の教えの光を暗黒の世に広めました。そして、彼らの役割は終わりました。

つづいてモハメットが遣わされました。彼は野蛮(やばん)な人たちの間に真理を知らしめました。いつも、こうしたことが神に選ばれたものの使命だからです。

かくしてついに、ペルシャにバハオラが出現しました。すべての国で消えかけていた真理の灯を再び燃え上がらせるというのが彼の熱烈な念願でした。神の聖なる使徒たちはみな、愛と和合の光明を全世界にひろめようと心魂をつくして努力しました。それにより、人類の子供たちの間に霊性の光が輝きわたり、物質性の暗黒が消えさるようにするためです。やがて、憎悪、中傷、殺害は姿を消し、それにかわって、愛と和合と平和が行き渡るようになりましょう。

神の顯示者たちはすべて同じ目的をもって出現しました。人びとを徳の道へと導いたのです。それなのに、彼らの僕である私たちはどうでしょう。いまなお互いに争い合っているのです。なぜそういう風なのでしょう。どうして、たがいに愛し合い、和合して行けないのでしょうか。

それは、私たちがあらゆる宗教の基本原理に眼を閉じているからです。つまり、神は唯一であり、私たち人類すべての父であり、私たちはみな神の慈愛の海に浸り、神のご親切な世話のもとに庇護されているのであるということにです。

実にすばらしい真理の太陽は万物に同じように光をなげかけ、聖なる慈愛の水はそれぞれを浸しています。その聖なる恩恵はすべての神の子供たちに与えられているのです。

この愛情あふれる神はあらゆる創造物に平和を望んでおられるのに、なぜ、人々は戦争ばかりしているのでしょうか。

神は神の子供たちを愛し、庇護しておられるのに、なぜ、彼らは神を忘れるのでしょう。

神は私たちのすべてを父親のように世話してくださっているのに、なぜ、私たちは兄弟たちをおろそかにするのでしょうか。

いかに神が私たちを愛し、庇護してくださっているかを知れば、私たちも神に近くなるよう私たちの生活を建てなおすはずです。

私たちはみんな、神に創造されました。私たちはすべて神の子であり、同じ父親を愛しているのに、神の意志に反して行動するのは一体なぜなのでしょう。私たちの周囲に見られるあらゆるこうした分裂、意見の相違、対立は人びとが儀式や外面的な慣例に心をとらわれ、基本的な真理を忘れてしまっていることから生み出されているのです。違いは宗教の外面的な慣例であり、それが意見の相違や敵意を生み出しているのです。ところが、実体は常に同じで、一つです。実質は真理であり、真理に分裂はありません。真理は神の導きであり、それは世界を照らす光であり、愛であり、慈愛です。こうした真理の属性はまた、聖霊によって霊感を与えられた人間の徳性です。

ですから、私たちはみんなが一つになり真理を固守しようではありませんか。そうすれば、私たちは本当に自由になれるでしょう。

世界のあらゆる宗教が一つになる日が来つつあります。と言うのも、あらゆる宗教はすでに一つだからです。これらの宗教を分離させているのは、実は外面の形だけのことであるということが理解できれば何ら分裂の必要はないはずです。人の子たちの中には無知のために苦しんでいる魂があります。さっそく彼らの教育にかかりましょう。また、他の人は子供たちのように、成長するまで庇護と教育を必要としています。また、他の人は病んでいます。私たちはこうした人たちに聖なる癒しをもたらさなければなりません。

無知であろうと、あるいは子供のような状態、または病気であろうと、彼らは愛され、助けられなければならず、不完全な状態だからといって嫌われるべきではないのです。

宗教の学識者たちは人びとを霊的に治癒し、諸国民を和合させるためにあります。もし彼らが分裂の原因となるのなら、存在しない方がよいのです。病気を癒すために治療が施されますが、もしそれが症状を悪化させるばかりだとすれば、放っておく方がよいでしょう。もし宗教がたんに分裂をうみだすだけならば、宗教などない方がよいのです。

神によって世に遣わされたあらゆる聖なる顯示者たちは、人類の中に真理と和合、調和を普及するという唯一の希望のために、艱難辛苦に耐えられました。キリストは完全な愛の模範をこの世にもたらそうと、悲嘆と苦悩の生活を耐え忍ばれたのですが、私たちはいまだに相互にかたくなな姿勢で対立しているではありませんか。

愛は神が人間に期待されている目的の基本的な原理です。神が私たちを愛されるように、私たちが互いに愛し合うよう神は私たちに命じておられます。私たちの身辺で見られるこうした不和や意見の相違はすべて、ただ物質性を助長だけのものです。

世界の大部分は唯物主義におぼれていて、聖霊の祝福など無視されています。真実の霊的感情はほんの少ししかありません。進歩の大方が単に物質的なものです。人は滅びゆく野獣のようになりつつあります。彼らには霊的感情がないからです。彼らは神に顔をむけず、宗教を持たないのです。霊的感情は人間だけがもつ属性であり、もし人がそれらを持たないなら、その者は自然の奴隷であり、動物と変りがないでしょう。

神は人間を万物の霊長とされたのに、動物的な生き方をすることにどうして満足できるのでしょうか。神は、すべての創造物を自然の法則に従うものとされましたが、人間はその法則を征服することができるようにされたのです。太陽はその栄光と威力にもかかわらず自然の法則に縛られ、その運行のコースを寸分も変えることはできません。あの偉大な大洋も、潮の満ち干を変える力はないのです。自然の法則に抗し得るものは人間の他にありません。

神は人間に自然を導き、支配し、征服する実にすばらしい力を与えられました。

自然の法則からいえば人間は地上を歩くものですが、人間は船を造ったり、空を飛んでいます。乾いた土地の上に住むよう創られているのに、海をわたり、海の下をさえ旅するのです。

人間は電力を支配することを学びました。そして、電力を思うままに使い、それをランプの中に閉じこめたのです。人間の声は短距離間で話せるようにできているのですが、人間の力は東洋から西洋へ話しかけることのできる道具を作りました。こうした実例は、いかに人間が自然を支配し、自然の剣をねじとってその剣を自然に対して振っているかを示しています。人間は自然を支配するように創られていると分かったならば、その人間が自然の奴隷になるということは実に馬鹿げたことではありませんか。神はその優しさで、人間を自然の支配者とされたのに、人間が自然を崇め、拝するのは無知で、ばかばかしいことです。神の力はすべてに明らかですが、人間は眼を閉じてそれを見ないのです。真理の太陽はその輝きのすべてを放出しているのに、人間はかたく眼を閉じているためその栄光を見ることができません。神の慈悲と愛情深い親切とによって皆さんが一つに結ばれ、至高の喜びに満たされるようになること、これが私の切なる神への祈りであります。

戦争や流血が終結し、愛と友情と平和と和合が世界を支配するように、私が捧げる祈りに協力して、皆さんも一諸にお祈りして下さるよう懇願します。

幾世代を通じ、私たちは流血がいかにこの地上を汚したかを見てきました。しかし、いまや偉大な光がさしこみ、人間の理性は一層高められ、精神性も成長し、世界の全宗教が仲良くなるときが来つつあることは明白です。外面の形に関する耳障りな口論をやめ、一つの聖なる大業にむかって一致団結しようではありませんか。そうすれば、あらゆる人類は一つの家族となり、愛情によって結ばれるでしょう。

第二編

バハオラの教えの十一の原則についてアブドル・バハのパリでの説明

真理の探求

人類は本来一つであること

宗教は愛と愛情の源となるべきである(別々のものではない)

宗教と科学の一致

偏見の廃棄

生活の手段

法の前に人間は平等である

世界平和

宗教は政治に関与せず

男女両性の平等―女性の教育

聖霊の力

第四十 パリにおける神知学会

私はパリ到着以来よく神知学会のことを耳にしました。そしていま、この会が名誉ある、世に尊敬されている人たちから構成されていることを知りました。皆さんは知性と思想の持主であり、精神的理想に燃えておられます。こうした皆さんの中にいることは私にとって大きな喜びであります。

今夕、私たちをここへ導いて下さった神に感謝いたしましよう。皆さんが真理の探求者であることを知り、嬉しく思います。皆さんは偏見という鎖に縛られることなく、真理を極めることを願っておられる。真理は太陽になぞらえることができます。太陽はあらゆる暗い影を消散させる発光体です。同じように、真理は私たちの想像からくる暗い影を消してくれます。太陽が人体に生気を与えるように、真理は魂に生気を与えます。真理は地平線上のいろいろな地点から昇る太陽のようなものです。

ある時、太陽は地平線の中央から昇りますが、夏になると北寄りの地点、冬には南寄りの地点から昇ります。しかし、どの地点から昇ろうと、それはまったく同じ太陽なのです。

同様に、真理はその現れかたに大きな相違があるとしても、一つのものである。世間にはそれを見る眼をもつ人もいます。こうした人たちは地平線上のどの地点から夜明けがはじまろうと、太陽を礼拝する。太陽が冬の空に没して夏の空から現われて来ようと、彼らはどうすれば太陽を見つけることができるか知っています。ところが、太陽が昇った地点のみを礼拝する人もいます。こうした人たちは太陽が違った地点から昇っても、依然としてそれが前に昇った地点を礼拝し続けるのです。悲しいかなこうした人たちは太陽の祝福をうけ損ないます。本当に太陽そのものを崇める人たちは、太陽がどの地点から昇ろうとそれが太陽であることを認め、その輝きにまっすぐ面をむけるでしょう。

私たちは太陽そのものを崇め、その出現の場所のみを礼拝するものとなってはなりません。同様に啓発された心の持主はその真理が地平線上のどこから現れようと、真理を礼拝するでしょう。彼らは個々の人物にとらわれることなく真理に従い、それがどこから来ようとそれを認めることができます。真理こそは人類を進歩発展させ、あらゆる創造物に生気を与えるものであり、それは「生命の大樹」なのです。

バハオラはその教えの中で真理について説明しておられます。私はこれについてあなた方に簡単にお話したいと思います。なぜなら、皆さんは理解してくださると思うからです。

バハオラの第一原理:真理の探求

心置きなく心理を探求するためには、人はあらゆる偏見や自分自身の想像から生まれでたものを心から断ち切ってしまわなければなりません。真理はあらゆる宗教で一つであり、このことによって世界の和合を実現させることができるのです。

あらゆる民族は根本的に共通する信仰を持っているのです。真理はただ一つであるがゆえに分裂させられることはありません。諸民族の間に意見の相違があるように見えるのは、彼らが偏見に固執する結果にほかならないのです。人びとが真理を探し出しさえすれば、彼らは自然に一つになるでしょう。

バハオラの第二原理  人類は一つ

唯一の、そしてすべてを愛し給う神は、その聖なる恩寵(おんちょう)と恩恵とを全人類に与えておられます。人類はすべて、至高なる御方の僕であり、神の優しさ、慈悲、慈愛は神の創造物すべての上にふり注がれています。この人類の栄光こそ、各人に授けられた財産です。

すべての人は、同じ一つの木の葉であり、果実です。彼らはすべてアダムの樹の枝で、同じ源から生まれているのです。同じ雨がすべてをうるおし、同じ暖かな日光によって成長し、同じ微風(びふう)をうけて活気づけられています。ただ一つの違い、そしてそれが彼らを別々にしているもの、それは、導きを必要とする子供、教えられねばならない無知者、いたわって癒やされなければならない病人があるということです。このように、全人類は神の慈悲と恩寵(おんちょう)に包まれています。聖典に述べられているように--全人類は神の前に平等である。神は何者も尊敬することなし。

バハオラの第三原理:宗教は愛と愛情の源となるべきである

宗教はあらゆる人の心を和合させ、戦争や不和をこの地上から消散させる源となり、精神性を生み出させ、一人一人の心に生命と光をもたらすものでなければなりません。もし宗教が不和や憎悪や分裂の原因となるなら、そんな宗教はない方がいいのであって、そうした宗教から身を引くことは真の宗教的行為です。治療の目的は癒やすことですが、もしその治療が症状を悪化させるだけであれば、治療をせず、そのままにしておいた方がよいでしょう。愛と和合をもたらさないような宗教は宗教ではありません。すべての聖なる預言者は魂を癒す医者のようなものです。彼らは人類の病を癒す処方箋を与えたのです。ですから、病気を生み出すような治療は、どのような治療であっても、偉大なる至高の医師から出される治療ではないのです。

バハオラの第四原理:宗教と科学との一致

科学を一つの翼、そして宗教をもう一つの翼と思ってください。烏が飛ぶために両翼を必要とします。一方だけでは何の役にも立ちません。いかなる宗教であれ、科学と矛盾する、あるいは科学と相反するようなら、それは無知でしかありません。無知とは知識と相反するものです。

偏見に満ちた祭式や儀式だけで成りたっている宗教は本物ではありません。皆で、宗教と科学を一つに結びつける道具になるよう真剣に努力しましょう。

モハメットの義理の息子アリはこう言いました。「科学と一致するものはまた宗教とも一致するものである。」人間の英知が理解できないようなものを、宗教が承認するはずはないのです。宗教と科学は手に手をとって歩むものであり、科学と相容れないような宗教はすべて本当のものではありません。

バハオラの第五原理:宗教的、人種的あるいは宗派的偏見は人類の基盤を破壊する

憎悪や戦争や流血といったような、世界にみられる分裂はすべて、これらの偏見のいずれかが原因で引き起こされたものです。

全世界を一つの国と見なし、あらゆる民族を一つの民族と見、全人類をただ一つの人種に属するものであると見なさなければなりません。さまざまな宗教、人種、民族というものはすべて、人間が作った分類であり、人間の思考の上で必要なだけです。神の前では、ペルシャ人もアラビア人もフランス人も、あるいはイギリス人もありません。神は万人の神であり、神にとってはすべての創造物は一つのものなのです。私たちは神のみに従い、あらゆる偏見を捨てて、地球上に平和をもたらすことによって神に従うよう、努力精進する必要があるのです。

バハオラの第六原理:生存手段の機会均等

人間は誰もが生存権をもち、安息とある程度の幸福を楽しむ権利をもっています。富者が大邸宅においてぜいたくと非常な安楽の生活をすることができるように、貧者も生活に必要な品は入手することができなければなりません。誰であれ餓死するというようなことがないようにすべきです。みんなが事足りるだけの衣服をもたなければなりません。一方で何の生活手段もない人がいるのに、一方ではあり余るほどもっているというようなことがあってはなりません。

誰も貧窮に泣くようなことがないよう、全力をつくしてより幸福な状態を実現するよう努力いたしましょう。

バハオラの第七原理:人間は法の前に平等である

法が統治するのであって、個人ではありません。そうであってこそ世界は麗しい住家となり、本当に皆が兄弟という姿が実現されるのです。一体性が達成されたとき、人類は真理を発見するでしょう。

バハオラの第八原理:世界平和

すべての国の人民と政府とによって最高裁判所が設立され、各国と政府から送られたメンバーが心を一つにしてここに集まるでしょう。そして、すべての論争がその法廷で裁かれます。戦争を防止することがこの裁判所の使命だからです。

バハオラの第九原理:宗教は政治問題に関与しない

宗教は精神的な問題にかかわり、政治は現世の問題に関与するものです。宗教は心の世界に作用するものであり、政治は外界のことがらを扱うものです。

人びとを教育し、彼らを導き、善き助言を与え、彼らが精神的に発達させるのは僧侶の仕事です。政治の問題には彼らは関与しません。

バハオラの第十原理:女性の教育と指導

女性はこの地上においては男性と同等の権利をもちます。宗教や社会において彼らはとても重要な構成部分です。女性がその最高の可能性に到達するのをはばまれている限り、男性もその卓越性を成就することはできないでしょう。

バハオラの第十一原理:聖霊の力、それによってのみ精神的発達は成就される

精神的発達というものは聖霊の息吹によってのみ実現されます。物質界がいかに発達しようと、いかに見事に装飾されようと、その内に魂がなければ、それは生命のない物体以外の何ものでもないのです。肉体に活力を与えるものは魂であり、肉体だけでは真の重要性はないからです。聖霊の祝福を奪われた物質的な肉体は活力のないものになるでしょう。

これらは、きわめて簡単な説明ですが、バハオラの原理の一部です。

要するに、真理を愛する者となることは私たちすべての者に課された義務です。いずれの時代、いずれの国においても、私たちは人物にとらわれないよう充分注意して、真理を探求しましょう。それがどこで輝こうとも、光を見、それが何処から昇ろうとも、真理の光を認めることができるようになろうではありませんか。いばらの中から漂いくる薔薇の芳香を吸いこもうではありませんか。そして、清らかな泉という泉から湧き出る水を飲もうではありませんか。

パリに着いて以来、皆さんのようなパリ市民にお会いできたことをとてもうれしく思います。というのも、神様のおかげで、皆さんは偏見がなく聡明で、真理を知りたいと願っておられるからです。皆さんは人類愛に燃え、力の限りをつくして、慈善事業のため、また、和合を実現するために努力しておられます。これはまさに、バハオラが特に願っていらっしゃるところのものです。

このような訳で、私は皆さんと共にあることをとても幸福に感じます。どうか皆さんの心の中につねに神の祝福が宿りますよう、そして皆さんがこの国の至る所に精神性を広める道具となられますようお祈りいたします。

皆さんはすでにすばらしい物質文明を持っておられます。同様に、精神的文明も実現されますように。

プレック氏がアブドル・バハに謝辞を述べると、彼はこう答えられました。

あなたが今述べられた心あたたまる親切なお言葉に心から謝意を表するものであります。これら二つの運動が間もなく全地球上に拡がるよう期待しております。その時、人類の和合は世界の中心にそのテントを張ることでしよう。

第四十一 第一原理:真理の探求 (パリ カムワンス4番地、十一月十日)

バハオラの教えの第一原理は真理の探究です。

真理の探究に成功したければ、先ず、第一に過去からのあらゆる伝統的な迷信に眼を閉じなければなりません。

ユダヤ人も伝統的な迷信をもっているし、仏教徒やゾロアスター教徒もそうした迷信を断ち切れず、キリスト教徒もまたそうです。すべての宗教は徐々に伝統と独断に縛られるようになってきたのです。

すべての宗教がそれぞれ、自分の宗教のみが真理の擁護者であり、他の宗教はすべて誤りから成立っていると考えています。自分たちだけは正しく、他は間違っているというのです。ユダヤ人は自分たちこそ真理の唯一の保持者であると信じ、他のあらゆる宗教を間違ったものと決め付けます。キリスト教徒は自分たちの宗教こそ唯一正しいものであるとし、他は間違ったものであると断言します。仏教徒やモハメット教徒もまた然り。すべては自分で自分を縛っているのです。みんなが互に非難しあうならば、私たちはどこに真理を求めればいいのでしょうか。すべてが互いを否認するなら、すべてが真理でないということになります。自分の宗教だけが唯一真実の宗教であると信じるならば、他の宗教の真理に眼を閉じることになります。例えば、もしユダヤ人がイスラエルの宗教の外面的礼式だけに縛られていれば、彼は他の宗教の中にもある真理を感知することができず、自分自身の宗教以外に真理があるはずはないと思うでしょう。

ですから私たちは宗教上の外面的な儀式や祭礼の形式にとらわれないようにすべきです。そして、こうした儀式や祭礼の形式は、それがいかに美しいものであったとしても、それはただ聖なる真理の暖かな心と活気ある四肢をつつむ衣服にすぎないということを悟らなければなりません。すべての宗教の心髄にある真理を発見することに成功したければ、伝統的な偏見を廃棄すべきです。もし、ゾロアスター教徒が太陽は神であると信じるなら、その者はどうして他の諸宗教と一つになれるでしょうか。また偶像崇拝者はさまざまな偶像を信じるが、彼らにどうして神は一つということを理解できるでしょう。

それ故、真理の探求を進めたければ、迷信を廃棄しなければなりません。真理の探求者が全員、この原理に従うなら、真理をはっきり見ることができるに違いないのです。

もし五人の人が真理を探求するために集まったなら、彼らは各自の特別の立場をすべて放棄し、あらゆる先入観を廃棄しなければなりません。真理を発見するため、あらゆる偏見を廃し、自分自身の小さな、つまらない考えを放棄すべきです。つまり、すべてを包容する広い心が不可欠です。もし、私たちの杯が自我でいっぱいであれば、生命の水の入る余地はないのです。自分たちだけが正しく、他の人はみんな間違っていると思うことこそが、和合の道における最大の障害物です。そして、もし私たちが真理へ到達することを望むなら、和合は必須です。なぜなら、真理は一つだからです。

したがって、真理の探求を心から望むなら、私たち自身の偏見や迷信を廃棄することが肝要です。もし私たちが自分で独断や迷信や偏見と真理とをはっきり区別できなければ、真理の探求はできません。一生懸命に何かを探すときは、あらゆる所を探しまわるでしょう。真理の探求に当ってはこの原則を適応すべきです。

科学は承認されなければなりません。いかなる真理も他の真理と相反するというようなことはないのです。光はいかなるランプの中で燃えていようとも、すばらしいのです。バラはどの庭園に咲いていようとも美しいのです。星は東洋から輝こうと、あるいは西洋から輝こうと、その輝きは同じです。偏見を断ち切りましょう。そうすれば、真理の太陽が地平線上のいずこの地点から昇ろうとも、それを愛するでしょう。イエス・キリストに輝きわたった真理の聖なる光は、モーゼや、仏陀の中にも輝きわたったということを悟るでしょう。真理の熱心なる探求者はこの真理に達するでしょう。これが「真理の探求」ということの意味です。

それはまた、私たちがいままで学んだすべてのものを取り除き、真理へ到る道の防害となるすべてのものを除去しようとすることを意味し、必要とあらば進んで私たちの教育をはじめからやり直そうとすることを意味します。どれか一つの宗教、あるいは一人の人物に執着するあまり、自分が迷信に縛られていることを自覚できないというようになってはならないのです。こうした束縛の一切を断ち切り、自由な心で真理を探求すれば、やがて私たちは目標に到達できます。

「真理を求めよ、真理はなんじを自由にする。」かくて私たちはすべての宗教の中に真理を見出すことでしょう。真理はすべてのものにあり、真理は一つだからです。

第四十二 第二原理:人類の和合 (十一月十一日)

昨日、私はバハオラの教えの第一原理:「真理の探求」について、このためにはあらゆる迷信的なものや、すべての宗教の心髄に真理が存在するという事実に目を閉じさせるあらゆる伝説を排除することがいかに必要であるかについて語りました。人間はある形式の宗教を偏愛し、それに執着することによって、他のすべての宗教を嫌ったりするようなことがあってはなりません。あらゆる宗教に真理を求める必要があります。そして、もし熱心に真理を探せば確かにそれに成功するでしょう。

さて、私たちが「真理の探求」を実行すると最初の発見が私たちを第二の原理「人類は一つ」へと導きます。すべての人間は、唯一無二の神の僕です。唯一なる神が世界の全民族を統御し、神の子としていつくしみ給うのです。全人類は一つの家族をなすもので、人類の栄冠はめいめいの頭上に輝きます。

創造主の眼には、神の子はみな平等です。神のご親切はすべてのもののうえに注がれています。この民族には恩恵を与えず、あの民族には恩恵を与えるということはなく、すべては同じように神の創造物なのです。であれば、なぜ私たちは互いに不和になり、離れ離れにならねばならないのでしょう。また、なぜ私たちは、人びとの間に争いや憎悪をもたらす迷信や伝統の障壁をつくらねばならないのでしょう。

人類家族のメンバーの間の唯一の違いはその成長の程度にあるのです。あるものは子供のようで無知であるため、成熟するまで教育しなければならず、あるものは病人のようであるため、優しい愛護の手が必要です。悪い人間とか邪な人間というものはないのです。私たちはこうしたかわいそうな子供たちを嫌がってはなりません。大いなる親切をもって、無知なる者に教え、病人を優しく看病しなければならないのです。

考えてみてください。和合は生存に必須のものです。愛は生の根源そのものであり、分裂は死滅をもたらすものです。例えば、物質的創造の世界では万物は和合のおかげでその生を保持しています。木や鉱物、あるいは石を構成する要素は引力の法則によって結合を保っています。もしこの法則が一瞬でもその作用を止めたならば、これらの要素はもはや結合を保つことができず、ばらばらに崩れ、その物はその形で存在することはできないでしょう。この美しい花も、引力の法則が幾つかの要素を一つにすることに寄ってその形を保持しているのですが、引力がその中心から消えるとそれは分解して花として存在することはできなくなるのです。

人類という大きな団体の場合もそうです。引力と調和と和合という驚くべき法則がこの不可思議な創造物を一つにまとめているのです。

全体に当てはまることは部分にも当てはまり、花であろうと人体であろうと、引きつけあいの原理が作動しなくなれば、花でも人間でも死滅するのです。ですから、引力や調和、和合、神の愛は生の根源であり、反発や不和、憎悪、分裂は死をもたらすものであることは明らかです。

私たちは生存の世界に分裂をもたらすものは何であれ、死の原因となるということを幾つも見てきました。同様に、霊の世界においも同じ法則がはたらいているのです。それ故、唯一なる神の僕はみなあらゆる憎悪や不和や争闘を避けて、愛の法則に従わなければなりません。大自然を見ても、比較的おとなしい動物は群をなして共に集団となるのですが、ライオンや虎、狼などの獰猛な動物は文明世界から離れた野生の森の中に住むものです。二匹の狼、あるいは二匹のライオンが仲よく一緒に住むこともあるでしょうが、一千匹の子羊は同じ囲いの中で住むことができ、多数の鹿は一つの群をなして住むことができます。二羽の鷲が同じ場所に住むこともできるのですが、千羽の鳩は同じ住みかに集まることができます。

少なくとも、人間は比較的やさしい動物のうちに入れられるべきものですが、いったん獰猛になると、最も残忍な動物よりもずっと冷酷で悪意に満ちたものになるのです。

いまやバハオラは、「人類は一つである」と宣言しました。すべての国民や民族は一つの家族をなすものであり、一つの父の子であり、互いに兄弟姉妹のようでなければなりません。私は、皆さんがこの教えを実生活に反映させ、世に広めるよう努力されることを期待しています。

私たちは敵でさえも愛し、友達にならなければならないとバハオラは言われました。すべての人びとがこの原理を遵奉(じゅんぽう)すれば、この上ない和合と理解が人類の心の中に根をおろすことでしょう。

第四十三 第三原理

宗教は愛と優しさの源であらねばならないというこの原理は、他のいくつかの原則の説明と同じく、この本に納められている講話の随所で大いに強調されているものです。

第四十四 第四原理-宗教と科学と関連性の容認 (パリ カムワンス4番地十一月十二日)

アブドル・バハの言葉

私はこれまでに、「真理の探求」と「人類は一つ」というバハオラの原理についてお話してきました。これから第四原理、すなわち、「宗教と科学の関連性の容認」についてお話しようと思います。

真の宗教と科学との間には矛盾はありません。宗教が科学に反するなら、それは単なる迷信となります。知識に反するものは無知だからです。

科学が不可能と実証していることをどうして事実と信ずることができるのでしょうか。理性に反しても信ずるというのは、信仰というよりむしろ無知な迷信です。すべての宗教にひそむ真の原理は科学の教えるところと一致するものです。

神の一体性の思想は論理的であり、この思想は科学的研究によって達する結論に反するものではありません。

あらゆる宗教は、私たちは善をなさなければならない、私たちは寛大で、誠実で、真実に満ちあふれ、法に従い、信仰深くあらねばならないと教えています。こうした教えのすべては理にかなっており、論理的にも人類が進歩する唯一の道です。

あらゆる宗教上の法則は理にかなうもので、それはその法則が定められた当時の人びととその時代によく適合するものです。

宗教には二つの主要な要素があります。

1)精神的要素

2)実践的要素

精神の部分は不変のものです。神の顕示者や預言者はすべて同じ一つの真理を教え、同じ一つの精神的法則をもたらしました。彼らはただ一つの道徳律を教えています。真理に分裂はありません。太陽は人間の知能を照らすためにたくさんの光線を投げかけます。その光はいつも同じ光なのです。

宗教の実践面は外面的形式や祭式、あるいは特定の罪に対する罰の方法を扱うものです。これは法則の物質的側面であり、人びとの風習や作法を導くものです。

モーゼの時代には、死刑に処せられるべき十の罪が定められていました。キリストが顕われるとこれは変えられました。「眼には眼を、歯には歯を」という古い原則は、「汝の敵を愛せよ。汝を憎むものに善を施せ」という原則に変えられました。つまり、古い厳しい律法は愛と慈悲と寛容の法に変えられたのです。

昔は窃盗に対する刑罰として右手が切断されましたが、現代においてはもはやこの法をそのまま適用することはできません。昔は自分の父親に悪態をつくと死刑に処せられましたが、今ではそのような者も生きることを許されます。ですから、精神的法則は変わりませんが、実践的規則についてはその時代の必要に応じて適用法が変えられるということは明らかです。宗教の精神的面は二つの要素の中でも遙かに偉大な、遙かに重要なものであり、これはいつの世でも同じことです。これは決して変るものではありません。このことは昨日も、今日も、そして永遠に同じです。「初めにそうであったように、今もそうであり、また、永遠にそうでしょう。」

さて、すべての宗教の精神的な、不変の法則に含まれている道徳上の論点はすべて論理的に正しいものです。宗教がもし論理的な理性に反するならば、それは宗教ではなくなり、単なる伝統でしかないのです。宗教と科学とは、人間の英知が無窮の高みに舞い上がるためになくてはならない一対の翼であり、それによって人間の魂は成長するのです。一つの翼だけでは飛ぶことはできません。もし人が宗教という翼のみで飛ぼうとしたら、その者は即座に迷信の泥沼に落ちこむに違いありません。一方、科学の翼だけであると、その人の進歩は止まり、唯物主義の絶望の渕に落ちこんでしまいます。今日の宗教はみな、それぞれの宗教が宣言する教えの真の原理からも、またその時代の科学的発見からもずれ、迷信的な因習に堕ちこんでいます。多くの宗教的指導者は、宗教の重要性は主としてある特定の独断的教義や儀式や祭式を守ることであると考えるようになっています。彼らは救済しようとする人たちにむかって自分と同じように信じるよう教え込み、教えられた人たちは外面的な形式をかたくなに固守して、内奥の真理と混同してしまうのです。

さて、こうした形式や祭式はいろいろな教会のあいだで、あるいは異なる宗派のあいだで違いがあり、中には互いに相反するものさえあって、不和と憎悪と分裂を生み出しています。多くの文化人たちが、宗教と科学とは互いに矛盾したものであり、宗教は内省の力を必要とせず、科学によって規制されるべきものではなく、したがって相互に反するのもまた止むを得ないと考えるのは、すべてはこうした意見の相違の結果なのです。不幸にもこうした風潮の結果、科学は全く宗教からかけ離れたものと考えられ、宗教はある宗教指導者たちの教える教義をただ盲目的に、これという感動もなく信じてゆくものと考えられるようになってしまいました。そうした指導者たちは、たとえ科学と矛盾していても、自分たちの都合のよい独断を承認されたものとして堂々と説いているのです。これは実に馬鹿げたことです。なぜなら、科学は光であり、そうであるなら、真の宗教といわれるものは知識に反するものでないということは明らかだからです。

「光明と暗黒」「宗教と科学」という言い方をよく耳にしますが、科学と手に手をとって歩まない宗教は自然に迷信と無知の暗黒の中に入ってしまいます。

世界の不和や分裂の多くは人間が勝手につくりだしたこうした反目や矛盾によって生まれました。もし宗教が科学と調和し、共に歩むならば、現在人類に悲しみをもたらしている憎悪や恨みは終焉するでしょう。

人間を他のすべての創造物より優れたものとしているものは何でしょう。それは人間の理性の力、人間の英知とは思いませんか。宗教について学ぶ際にこれらの力や英知を使ってはならないのでしょうか。私は、何であれ、これは宗教ですと示されたときは、理性と科学の天秤をもって注意深く検証するよう、皆さんにお勧めします。もしこのテストに通ったらそれを承認するとよいでしょう。それは真理であるからです。しかし、そうでないときはそれを拒否しましょう。なぜなら、それは無知というものだからです。

今日の世界がどんなに迷信や外面的形式に溺れているかを見てください。

ある人たちは自分たちの想像で産み出したものを礼拝しています。彼らは自分勝手な想像で神をつくり、それを礼拝します。しかもそれは、彼らの限られた思考が創り出す物ですから、眼に見えるもの、不可視のものすべてを含む、無限にして全能なる創造主の創造物とはなり得ないのです。また、太陽や樹木、あるいは石を拝む人たちもいます。過去においては、海や雲、あるいは粘土さえも礼拝する人たちもいました。

今日では、この祭式はどうの、あのやり方はどうのと論義するような、あるいは至るところで退屈な議論や不安の声を聞くようになるほど、人々は外面的形式や祭典への愛着を増強させています。世間には知的に貧弱な、そして道理にかなった考え方の発達していない人たちがいます。しかし、こうした人たちに理解できないからといって、宗教の力を疑ってはなりません。

小さな子供には自然を支配する法則は理解できません。しかし、それはその子供の知性が未熟であるからで、ずっと大きくなり、教育をうければ、その子供もまた永劫不滅の真理を理解できるようになります。子供は地球が太陽の周囲を回っているという事実を把握できませんが、彼の英知が目覚めるとその事実は彼にとって自明の理となるのです。

たとえ知性が貧弱で未熟であるため真理を理解することができない人がいるとしても、宗教が科学に矛盾するということはありえないのです。

神は、宗教と科学を、云わば、私たちの理解力の尺度とされました。そうしたすばらしい力を軽視しないよう注意しましょう。すべてのことをこの天秤にかけて見るべきです。

理解力のある人から見れば、宗教は開かれた書物のようなもので、理性と知性を欠く人がどうして神の聖なる実在を理解できましょう。

科学との調和を信じるべきです。真理は一つですから矛盾があろうわけはないのです。宗教がその迷信や伝統、無知な独断的教義と絶縁し、科学と完全に一致しているならば、そのときこそ世界を統一し、世界を清浄にする偉大なる力となり、その力の進むところには戦争も不和も仲たがいも争いも、すべて姿を消すことでしょう。そして、全人類は神の愛の力のもとに一つに結びつけられるでしょう。

第四十五 第五原理-偏見の廃棄 (パリ、カムワンス4番地、十一月十三日)

私たちは宗教、人種、政治、あるいは国家などの、あらゆる種類の偏見を断ち切ってしまわなければなりません。なぜなら、こうした偏見が世界の病を引きおこしているからです。それは重大なる病であり、阻止しなければ、全人類を破滅させる原因にもなり得るのです。恐ろしい流血や悲惨な破壊的戦争はすべて、これらの偏見のいずれかによって引きおこされます。

現代進行している嘆かわしい戦争は、一国民の他の国民に対する熱狂的な宗教上の憎悪か、あるいは人種上の、または皮膚の色についての偏見が原因です。

偏見からくるあらゆる障壁を除去しないかぎり、人類が平和に暮らすことは不可能です。このゆえにバハオラは言いました。「こうした偏見は人類を破滅に導くものである。」

先ず宗教上の偏見について考えて見ましょう。いわゆる宗教的な民族が、もし真に神を礼拝する民族であるならば、互いに殺し合うことを禁ずるという神の法に従うに違いありません。

宗教を奉ずる僧侶たちが、もし、真に愛の神を礼拝し、神の光に奉仕するものであるならば、彼らは「すべての人びとを愛し、あわれむべし」という主要な戒めを守るよう人びとに教えるでしょう。しかし実際は逆で、僧侶たちはしばしば諸民族に戦うよう奨めているのです。宗教上の憎悪ほど残酷なものはありません。

すべての宗教は私たちに、互いに愛し合い、他人の欠点を非難する前に自己の欠点を省み、隣人よりは自分の法が優れているなどと考えてはならないと教えています。私たちは、面目を失うまいとして高慢にならないよう注意すべきです。

私たちは判断を下すと言いますが、その私たちとはいったい何者ですか。神の目から見てこの人こそ最も正しい人間であるとどうして私たちが知ることができましょう。神の考えは決して私たちの考えているようなものではありません。友人たちの目に聖人のように見えた人たちが、この上もない屈辱を受けるようになったということはなんと多いことか。イスカリオテのユダのことを考えてください。初めはうまくいったのですが、彼の最後はどうだったでしょう。一方、聖なる使徒パウロは、初めはキリストの敵でした。しかし、後になってキリストの最も信仰深い僕となりました。私たちは得意になって他の人びとを軽蔑するようなことはできないのです。

ですから、偏見を捨てて、謙虚になり、自分の利益よりは他の人びとの利益を尊重するようにしようではありませんか。決して、「自分は信者であるが彼は異端者だ」「私は神に近いが彼は神に見放された者である」などと言ってはならないのです。私たちは、最後の審判がいかなるものかを決して知ることはできません。だから、どのような援助であれ、助けを必要としている人がいれば、それらすべての人を助けようではありませんか。

無知の者には教え、幼児については成熟するまで面倒をみましょう。苦難や罪のどん底に落ちこんでいる人を見たら親切にし、手をとって再起を助け、力づけるべきです。私たちは愛情と優しい心でその人を導き、敵ではなく友として遇すべきです。

私たちには他のいかなる人をも悪人と見る権利はありません。

人種的偏見について言えば、それは幻想であり、全く単純な迷信です。と言うのも、神は私たちのすべてを一つの人種として創られたからです。そもそも私たちの間には何の相違もなかったのです。すべてはアダムの子孫です。また、初めはそれぞれの土地の間に制限や国境はありませんでした。地球のどの部分も、特定の人民により多く属するというものではく、神の目には、種々の人種間に違いはないのです。人間はなぜそうした偏見を作り上げねばならないのでしょう。どうして私たちは、ある迷いによって引き起される戦争を支持できるのでしょうか。

神は、相互に破壊し合うような人間を創造されたのではありません。すべての人種、種族、宗派、階級の人々は一様に天なる父の恩恵を平等に受けています。

唯一の相違は、神の法に対する信仰と服従心の度合いにあるのです。明々とともる松明(たいまつ)のような人もいれば、人類という天空に輝く星のような人もいます。どのような民族や信仰、あるいは皮膚の色の人でも、人類を愛する優れた人たちがいます。「あっぱれなるかな、我がすばらしき忠実なる僕よ」という神の祝福の言葉をうけるのは実にこうした人たちなのです。その時、神は「お前はイギリス人か、フランス人か、それともペルシャ人か?東洋から来たのか、西洋からか?」などとお尋ねにはならないでしょう。

本当に存在している唯一の区別はこれです。すなわち、天界を仰いで暮らす人間と世俗的な暮らしをする人間、つまり、至高の神の愛で自分を犠牲にして人類のために奉仕し、人類に調和と和合をもたらし、平和と善意を教える人たちと、利己的で、兄弟を憎み、愛情深い親切ではなく偏見が心を支配し、絶えず不和と闘争とをかもし出す人たちです。

こうした二種類の人たちはどの人種に、あるいはいずれの肌の色の人に属しますか。白色人種ですか、黄色人種ですか、黒色人種でしょうか、あるいは東洋人、それとも西洋人でしょうか、北洋ですか、南洋ですか。もしこれらの区別が神によって創られたものであるなら、どうして私たちは別の区別を作り上げねばないのでしょう。政治的偏見も同じように有害で、それは人の子たちの間に激しい闘争を引き起す最大の原因の一つになっています。世間には不和をかもし出すことに快感を覚え、絶えず自国が他国と戦争をするよう煽動する人たちがいるものです。なぜでしょう。彼らは他を害して自国の利益をはかることを考えます。彼らは世界的に有名になり、征服の喜びを味わうために他国を悩まし破壊する目的で軍隊を派遺します。あるいは、「その国は他国を打ち負かし、それを遙かに強力な、優れた支配の下に置いた」と言うかもしれません。こうした勝利は多大な流血の代償を払って買い取られもので、長続きはしないのです。征服者はいつの日か征服され、征服された者が勝利を得ます。過去の歴史を見ても、フランスは一度ならずドイツを征服しましたが、やがてドイツ民族はフランスを打ち負かしました。

周知のようにフランスはイギリスも征服しましたが、やがてイギリス人はフランスを征服し、勝利を得ました。

こうした華々しい征服はきわめて儚(はかな)いものです。征服を達成するためにはその国民の血をあえて流させることになるのに、いったい彼らはなぜそれほどまでに征服とその名声を重視するのでしょう。いかなる勝利であれ、おそらくは双方の国民の実に数多くの家庭を苦しめ、圧倒する破滅や悲嘆、人間の殺戮(さつりく)の結果として必然的に起こる諸悪や不幸をあえて招いてまで勝ち取るべき値打があるでしょうか。なぜなら、一国だけが災難を被(かぶ)るということはないからです。

おお!神に背く者よ、なぜ精神的法則の力の模範となるべき人間が、神の教えから顔をそむけ、破壊と戦争に全力をつくすのでしょう。

私の希望は、聖なる光が全世界に輝きわたるこのような文明の世紀に、すべての人間の敏感な心の英知をさがし出すこと、また、真理の太陽の光が政治家たちを導き、彼らが偏見と迷信によるすべての主張を振り払い、とらわれない自由な心で神の聖なる政策に従うようになることです。神聖なる政治は力強く、人間の政治は内容の乏しいものだからです。神は全世界を創造し、万物に彼の聖なる恩恵を与え給いました。

私たちは神の僕ではありませんか。師の手本に従わず、神の戒めを無視してよいものでしょうか。

私は神の王国がこの地上に現れ、すべての暗黒が聖なる太陽の燦然たる輝きによって消散させられるよう祈ります。

第四十六 第六原理-生活の手段 (パリ、カムワンス四番地)

バハオラの教えの中で最も重要な原理の一つは、あらゆる人間は生存のための日々のパンを得る権利を持つ、あるいは生活手段の均等化ということです。

人びとの生活状態は、貧乏をなくし、すべての人が可能な限りその地位と身分とに応じて楽しみと幸福とを分かち合えるよう整えられるべきです。

実際、私たちの中にはあり余る財産を積み上げている連中がいるかと思うと、何もなくて飢えている人もいます。数軒の豪邸を持っている者もいれば、寝る場所もない者もいます。また、盛りだくさんの高価なご馳走ばかりを食べている人がいるかと思うと、命をつなぐに足りるだけのパン屑さえも得られない人もいるのです。ビロードや毛皮、リンネルの衣服を着る者もいれば、貧弱な薄っぺらな外套で寒さをしのがなければならない連中もいます。

こうした事態は不適切であり、矯正されなければなりません。いまやその対策を注意深く実施する時期です。これは人々の間に絶対的平等の状態をもってきたところで実現できることではありません。

絶対的平等というものは一種の妄想にひとしく、ギリシヤ神話にでてくる「頭は獅子、胴体は羊、しっぽは蛇で火を吹く怪獣」のようなものです。それを完全に実行するなど不可能なことです。たとえ実行したとしても永続するものではありません。もし絶対的平等が可能ならば、世界の全秩序は崩れてしまうに違いないからです。人類世界には常に秩序がなければなりません。天は人間の創造にあたってそのように定め給うたのです。

世間には知性にあふれている人もあり、並みの知性しか持たない人もあるし、また、知性を欠いている人もあります。こうした三つの階級の人たちの中には平等はありませんが秩序があります。知恵と愚鈍とが平等であるなどということはあり得ないでしょう。人類は大軍団と同じように、一人の将軍と隊長たち、およびそれぞれの階級の将校たちとそれぞれの義務を課せられた兵隊が必要です。秩序ある組織の保持には階級が不可欠です。将軍だけでも、隊長たちだけでも、また一人の指揮者も持たない兵隊だけでも軍隊は成り立ちません。そのようなことを行えば、その軍隊全体は無秩序となり、結局、士気を失ってしまうに違いないのです。

スパルタの哲学者であったリクルグス王はスパルタ人民の平等化という大計画を立て、知恵と自己犠牲をもってこの実験を開始しました。やがて、王は自分の王国の人民を招集し、たとえ自分が国を去ることがあっても今のままの政府の制度を維持し、自分が帰国するまではどんな事情があろうとそれを変えないと誓約させたのです。彼はこのような確約をさせてスパルタの国を去ったまま二度と帰って来ませんでした。リクルガスは自分の王国の財産や生活条件を平等化することによって人民の永遠の福利と幸福を達成させようと考え、王という高い地位をすて、それまでのすべての状態をあきらめたのです。王の自己犠牲のすべては無駄でした。この大実験は失敗したのです。しばらくすると、すべては破壊され、彼が丹念に考え出したこの制度も終りを告げました。

そうした計画をたてることがどれだけ無駄なことであるか、生活条件を平等化することがいかに不可能であるかはスパルタの古代の王国が十分に物語っています。現代においても、およそそうした企ては同じように失敗の運命をたどるに違いありません。

たしかにある者は莫大な財産を持ち、ある者は嘆かわしいほど貧しい状態にあるという状態に対して組織が統御し、改善する必要があります。金持ちに制限が重要であるように貧乏に対する制限もまた重要です。いずれにせよ、極端は良くありません。中庸[2]が一番望ましいのです。資本家が莫大なお金を所有することが正しいことであるならば、彼が使う労働者が充分な生活資金を得ることも同様に正しいことです。(注〔2〕「金持ちでもなく、貧乏でもないようにしてください」箴言書三〇・八)

その人のそばには極貧にあえぐ貧乏人がいるのに、巨大な富を持つ金融資本家があるというようなことがあってはなりません。貧困が放置され餓死のところまで来るようならば、疑いもなく何処かで圧制がある兆しです。人々はこの問題のために奮起しなければなりません。これ以上、みじめな貧困の悲しみを大勢の人たちに及ぼさないよう、きっぱりとして事態を変革すべきでしょう。富める者は彼らの豊満な財産を分ち与え、本当に日々の必需品にも事欠いて苦悩している惨めな人びとに思いを寄せ、心情を和らげ、哀れみ深い知性に目覚めなければなりません。

こうした極端な貧富の差を是正する何らかの特別の法律を制定すべきでしょう。政府の各メンバーは人民統治に関する諸計画を考えるとき神の法則を考慮に入れなければなりません。人類の普遍的権利は保護され、確保されなければならないのです。

国の政府は万物に平等に正義を与え給うた神の法則に従うべきです。この神の法則に従うことなくしては、到底、あの莫大な富の悲しむべき偏在をなくすことも、また社会の品位を落とし、秩序を乱すかの嘆かわしい貧困を廃除することもできません。こうした政治が行われてはじめて神の法則は遵奉(じゅんぽう)されるのです。

第四十七 第七原理 人間は平等である

「神の法則というものは神が気ままな気持から、あるいは権力をふるい、あるいは面白がって下す命令ではない。それは、真理と理性と正義とから生まれる神の決議である。」

すべての人間は法の前に平等であり、この「法」は絶対的な支配をもつものです。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪防止にあります。

王は知恵と正義とをもって統治しなければなりません。王子も貴族も、農民も、それぞれ正当な取扱いを受ける権利を平等に持っています。個人をえこひいきすべきではありません。裁判官は「人を尊重する人」ではなく、自分に委ねられた事件のすべてについて厳格に、公平に法を執行する人であるべきです。

もしある人があなたに対して罪を犯したとして、あなたには彼を赦す権利はありません。法は、他の人びとが同じ犯罪を再び繰返すのを防止するため、彼を罰さなければならないのです。個人の苦痛は多くの人びとの最大幸福に比べれば重要ではないからです。

完全な正義が東洋と西洋のあらゆる国を支配するようになるとき、この地上は美しい土地となるでしょう。神の僕、全員の尊厳と平等が認められ、人類は一つであるという理想、つまりすべてが兄弟姉妹であるという人間の真実の姿が実現されるでしょう。そして真理の太陽のすばらしい栄光は人類の魂を明るく照らすことでしょう。

第四十八 第八原理 世界平和 (パリ、カムワンス四番地)

各国の人民と政府からこのために選ばれたメンバーによって構成される最高裁判所が世界各国の人民や政府の手で設立されるべきです。この大評議会のメンバーは心を一つにして集らなければなりません。国際的な紛争はすべてこの大裁判所に提出され、この裁判所は、そのままにしておけば戦争の原因となるようなあらゆる問題を平和裡に処理する必要があります。この最高裁判所の使命は戦争防止にあります。

世界平和に向かう重要なステップの一つは、一つの国際語を制定することです。バハオラは、人類の僕たちは共に集い、現存する言語のうちの一つを選ぶか、または一つの新たな言語をつくるべきであると命じておられます。これは四十年前に「アグダスの書」に書かれています。言語の多様性の問題は実に難しいものであるということは、アグダスの書が指摘するところです。世界には800以上の言語がありますが、それらのすべてを修得することは誰にもできません。

人類の各種族は昔のように孤立状態ではなく、いまや、あらゆる国々と密接な関係を保持するためにはそれらの国々の言語を話せなければなりません。

一つの国際語はあらゆる民族との交りを可能にしてくれます。こうなると、母国語と国際語の二つを知るだけで事足りるのです。国際語を使えば世界中の誰とでも交流できます。

第三の言語は必要なくなります。あらゆる人種、あらゆる国の人たちとの会話に通訳の必要がないということは、実に有益で、必安まることでしょう。

エスペラントはこうした観点で作られました。それは立派な創案で、すばらしい仕事ですが、完成の必要があります。現行のエスペラントはある人々にはとても難しいのです。

西洋と東洋の世界の各民族の代表からなる国際会議が組織され、この会議では万人が修得できる一つの言語が使われるべきです。これが実現すれば、すべての国はどれほど益を得ることでしょう。

こうした言語が用いられるまでは、世界は相互の交流を容易にする手段の必要性を痛感し続けることでしょう。現在、諸民族問の嫌悪や不信を助長する原因となっているものは言語の相違です。それらの民族の心が互いに離れるというのも、何はともあれ、彼らが互いの言葉を理解しないからです。

誰もが一つの同じ言語で話すことができれば、人類への奉仕もどんなに容易になることでしょう。

ですから「エスペラント」の良さを認めましょう。それはバハオラの最も重要な法則の一つを実行する手始めで、やがて改善され、ますます完成された言語になるにちがいありません。

第四十九 第九原理-宗教は政治に干渉せず (パリ、カムワンス四番地 十一月十七日)

人間は日々の生活で、二つの主要な動機、つまり「報酬への期待」と「刑罰に対する恐れ」によって行動を決します。

政府の重要な地位を占める人たちは、当然、人びとがこの希望と恐怖とによって動いているという点を十分に考慮しなければなりません。彼らの仕事は法体制について共に協議し、正しい行政を行なうことです。

世界的秩序の幕屋はこの「飴と鞭」の二つの柱を土台に張りめぐらされます。

神聖な信仰がない人たちによって行われる専制政治にあっては精神的応報への恐怖というものはなく、法の執行は残酷で不当です。

圧制を抑えるうえでこうした二つの感情、すなわち、希望と恐怖とに優るものは他にありません。それらは政治的、および精神的結果を生み出すのです。

もし法の執行者が、自分たちの下す判決が生み出す精神的な結果を考慮し、宗教の導きに従うなら、「彼らは行動の世界における神の代理者、地上の人たちの神の代表者となり、神の愛の代行者として神の僕らの利益をあたかも自分自身の利益をまもるごとく保護するに違いありません。」もし統治者が自分の責任を自覚し、神の法則を侮ることを恐れるならば、彼の判決は正しいものになりましょう。なかでも、自己の行動の結果はこの地上での生活で終るだけではなく、来世にまでもついてまわるものであり、「自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」ということを信ずる人は、確かに、残酷な、不正なことを回避するはずです。

これに反して、神の恩恵や歓喜あふれる霊の国のことなどなにも知らず、信じず、自分の行動の責任はすべてこの地上生活で終るものと考える役人は、正しい行動をとろうという動機や、圧制と不正を撲滅しようというインスピレーションに欠けているでしょう。

統治者が、自分の判決はやがて聖なる裁判官の審判をうけ、その結果、合格と認められるなら天国に入り、天の恵みの光をわが身にうけるものであることを知るとき、彼は必ずや正義と平等をもって行動することでしょう。国の大臣たちが宗教によって啓発されることのいかに重大であるかを見てください。

しかしながら、僧侶は政治的問題にはなんの関係もありません。宗教上の諸問題は今の世界の状態では政治と混同されるべきではないのです。(つまり、彼らの関心事は全く宗教と一致しないからです)

宗教は心、精神、道徳上の諸問題に関与するものです。

政治は人生の物質的事物を扱います。宗教上の教師は政治の領域を犯すべきではないのです。彼らは人々を精神的に教え導くことに精進し、神と人類への奉仕を心がけるよう絶えずに人々に善き助言を与え、精神的希望に覚醒めさせ、人類についての理解と知識を広げ、道徳牲を高め、正義への愛を深めるよう努力すべきです。

これがバハオラの教えていることです。福音書にもあります。「カイザルのものはカイザルに返せ、神の物は神に納めよ」と。(新約聖書マタイ伝 第22章)

ペルシャにも、重要な国務大臣たちの中に宗教的であり、模範的で、神を礼拝し、神の法則に背くことを恐れ、正しい判定を下し、平等の精神をもって人民を統治するものがあります。この地のその他の知事たちの中には、神を恐れず、自分の行動の結果についてなにも考えず、自分自身の欲望を満たすためだけに働くものがあり、このような者がペルシャに困難と苦境をもたらしているのです。

おお、神の友らよ、正義の生ける模範となりましょう。そうすれば、神の慈悲によって、世間はあなたの行動が正義と慈悲の行動であると見るようになるでしょう。

正義には限界はなく、普遍的な性質のものです。その作業は、最高の階級から最下位の階級にいたるまで、すべての階級で実施されなければなりません。正義は神聖であり、すべての人々の権利が考慮されるべきです。自分が自分自身にこうありたいと願うことのみを、他人のためにも望むべきです。そうすれば、私たちは、神の地平線から輝きわたる正義の太陽に歓喜することでしょう。

私たちはみな栄誉ある地位に置かれているのです。それを棄てるべきではありません。身分卑しい職人が不正を犯したら、それは悪名高き暴君と同じに非難されるべきです。このように、人には正義と不正義のどちらを選ぶか、選択権が与えられているのです。

私は、皆さんの一人一人が正しい人になり、絶えず人類の和合に思いを寄せ、断じて隣人を傷つけず、悪口を言わず、すべての人の権利を尊重し、自分自身の利害よりも他の人々の利害を心にかけるよう希望します。そうしたならば皆さんは、バハオラの教えに従う神の正義の松明(たいまつ)となるでしょう。バハオラこそ、その存命中、神の世界の美徳を人類世界に明示し、霊の優位性を悟らしめ、神の正義に歓喜せしめんために数えきれぬ試練と迫害を耐え忍んだのです。

神の慈悲のはたらきで、神のお恵みが皆さんの上に降り注ぎますよう、これが私の祈りです。

第五十 第十原理-男女の平等 (パリ、カムワンス四番地十一月十四日)

バハオラの教えの第十番目の原理は男女の平等ということです。

神は万物をすべて男女一対として創造されました。人間、動物、植物、こうした三つの世界に属するものはすべて二つの性があり、この二つの性の間は完全に平等です。

植物界には雄株と雌株があります。それらは平等の権利を持ち、その種の美さを平等に持っています。ただ、果実を結ぶ樹の方が果実を結ばない樹より優れているといわれるかもしれませんが。

動物界を見ても、雄と雌とが平等の権利を持ち、それぞれの種としての利益を平等に享受していることが分かります。

さて、自然界のこれら二つの下位の世界には一つの性が他の性に優るなどというようなことはないということが分かりました。人間の世界は、これとは大いに異なっているように思います。女性はまるで劣等であるかのように扱われ、平等の権利と特権を許されていないのです。こうした状態は自然発生的なものではなく、教育がもたらしたものです。神の創造にはそうした差別はありません。神の目には、一つの性が他の性に優るなどということはないのです。だとすれば、一つの性が他の性を劣等であると主張し、当然認めるべき権利や特権を認めず、しかもそうした行為をまるで神がそうなさったかのように見るのはなぜでしょうか。もし女性が男性と同じ教育上の特典を与えられれば、その結果、両者は学識、能力において同じであると実証されるに違いありません。

ある面は女性の方が男性に優っています。女性の方がもっと優しく、ずっと包容力があり、その直感力はもっと強烈です。

多くの面で現代の女性は男性より遅れており、この一時的劣等状態は教育上の機会均等を欠いたためであるということは否めません。人生の必要上、女性の方が男性より活力に満ち溢れています。なぜなら、男性の存在そのものも女性のおかげなのですから。

もし母親に教育があればその子供たちはよく教育されるでしょう。母親が賢ければ、子供たちは知恵の道へと導かれるでしょう。もし母親に宗教心があれば、子供たちにどのように神を愛すべきかを教えるでしょう。母親が道徳的であれば我が子を正しい道へと導くでしょう。

ですから、未来の世代は現代の母親の双肩にかかっていることは明らかです。これは女性の重大な責任ではないでしょうか。そうした重大な責務を果すのに必要な素養を身につけるため、女性はあらゆる特典を必要としてはいませんか。

したがって、かくも重大な役目を持つ女性がその偉大な生涯の任務のために不可欠で、望ましい完成をとげるための訓練不足に苦しまなければならないということを、はたして神がお悦びになるでしょうか。両性はそれぞれ神の眼から見れば平等ですから、神の正義はそれぞれの性の権利が平等に尊重されるよう求めています。神の御前における人間の尊厳というものは性によって決まるのではなく、純粋な、輝く心によって決まるのです。人間の美徳はすべての人に平等にそなわっています。

女性はあらゆる点で男性と平等になり、遅れた状態から抜け出して前進し、向上し、男性がハッキリその能力を認めるまでに能力を発達させるよう努力すべきです。

ヨーロッパの女性は東洋の女性よりずっと進歩していますが、まだまだ進歩の余地はあります。学生には学年末に試験があり、その試験の結果で各自の知識と能力が実証されます。女性の場合も同じで、女性の力は女性の行動によって証明されます。ですから、それをわざわざ言葉で宣言する必要はないのです。

西欧の女性はもとより、東洋の女性たちが早急に進化し、全人類が完全な成長をとげることを私は希望いたします。

神はすべてのものに恩恵を施し、あらゆるものに進歩発展の力を与えられます。男性が女性と平等になるとき、彼らはもはや互いの権利について争う必要はなくなるでしょう。という訳で、男女の平等ということがバハオラの原理の一つです。

女性は自分たちの悟りと努力が人類の和合をもたらすほどまでに、精神的な力を身につけ、知恵と清らかさという美徳をますます磨くよう、あらゆる努力をすべきです。女性たちは、バハオラの教えを人々の間に浸透させるために情熱を燃やして働かなければなりません。そうすれば、やがて神の恩恵はその輝かしい光をもって世界のあらゆる民族の魂を包むことでしょう。

第五十一 第十一原理 聖霊の力 (パリ、カムワンス四番地十一月十八日)

バハオラは「人間は聖霊の力によってのみ進歩発達することができる。なぜなら人間の力は有限であり、神の力は無限だからである。」と教えておられます。歴史書は、真の偉人や人類の恩人と言われる人、人々を感動させて正しいことを愛し、不正を憎むよう導いた人、ほんとうの進歩発展をもたらした人々、こうした人びとはみな聖霊の力によって霊感を受けた人たちであったという結論を私たちに示しています。

神の予言者が全員、学校で哲学を学んだ者ばかりではありません。事実、彼らのうちにはしばしば身分卑しい家の出であったし、どう見ても無智で、世間の眼に何の変哲もない普通の人間としか思えない者もありました。時には読み書きの知識さえない者もありました。こうした偉人たちが世の人びとより優れ、真理を教える教師となることができたのは実に聖霊の力のおかげだったのです。彼らがこの強力な霊的啓示によって人類に及ぼす影響は偉大で、心に滲みこむものです。

この上もない賢明な哲学者で、きわめて博学で、学識がいかに深い者であろうとも、聖霊の力がなければその影響力も大したものではありません。

たとえばプラトン、アリストテレス、プリニー、ソクラテスといった哲学者の非凡な知性も、その教えのために生命をも犠牲にするというほどまで人びとの心を打ちはしませんでした。一方、素朴な人間でありながらその言葉が実に何千人という人たちを感動させ、その言葉の擁護のためにその人たちが喜んで殉教者となったという人もありました。なぜなら彼らの言葉は神の聖霊によって霊感を受けたものだったからです。ユダヤとイスラエルの予言者たちであったエリヤ、エレミヤ、イザヤ、エゼキエルたちは身分の卑しい人たちでした。イエス・キリストの使徒たちも同じです。

キリストの第一の使徒であったペテロはいつも白分の釣りの餌を七つに分け、毎日その一つずつを使い、最後の七つ目を使うときその日が安息日であると知ったのです。このことをよく考えていただきたいと思います。そして次ぎに彼がその後いかなる地位に着いたかを考えてください。聖霊が彼にすばらしい功徳を行なわせたおかげで、彼がどんなに輝かしい業を成しとげたかを。

私たちは、聖霊は人間の生命に活力を与える要素であると理解しています。聖霊の力を受け取るものは誰でも、自分が接するすべての人びとに力を与えることができます。

最も偉大なる哲学者でも、聖霊の力を感じることがなければ無力であり、その魂には活気がなく、心は死んでいるも同然です。聖霊が魂のうちに生気を吹き込まなければ、彼らも立派な仕事をすることはできないのです。いかなる哲学体系も人々の生き方や風習を改善することはできませんでした。学識ある哲学者でも、聖霊によって啓発されていない場合、しばしば道徳的に実に劣っています。彼らの語る美しい言葉の真実性が行動に表示されなかったのです。

精神的な哲学者とそうでない哲学者との間の相違は、その生活に示されます。精神的教師は自分が他の人びとに勧めることを自らの生活で実践することによって、自分の教えに自分の信念を示すものです。

学問のない身分卑しい人であっても、聖霊によって満たされていれば、この上ない高貴な生れの、学識ある学者で聖霊のインスピレーションを全く感知しない人よりはずっと強力です。聖霊によって教育された人は、その時代に、同じ霊感を受けるよう他の人々を導くことができます。

私は、皆さんが聖霊の生命によって活気づけられ、それにより他の人々を教え導く手段となられますようお祈りいたします。精神的な人の生活や道徳観は、それだけでその人を知る人たちにとって教育となるものです。

自分の限界を考えず、栄光の王国の福利だけを考えましょう。イエス・キリストがその使徒らに与えた影響力、そしてそれらの使徒がこの世に及ぼした影響について考えてみましょう。こうした素朴な使徒たちは聖霊の力のおかげで福音を世に広めることができたのです

ですから、皆さんも神の援助をうけられますように。神の聖霊に導かれるとき人間の能力は限界を超えることができます。

この地球そのものには生命はなく、太陽や雨によって肥沃にされないかぎり、それは不毛で乾燥したものです。それでもなお、地球はその力に限りがあることを歎き悲しむ必要はありません。

皆さんに生命が与えられますように。神の慈悲の雨と真理の太陽の温かさが皆さんの庭園に豊作をもたらし、優雅な香りと愛の美しい花々が豊かに咲きみだれますように。皆さんは自分自身の限界に思いを寄せるのではなく、永劫不滅の輝きを見ていただきたいと思います。そうすれば、皆さんの魂は聖なる力と限りない恩恵の祝福をたっぷりと受けることでしょう。

もし皆さんがこのような準備されていれば、皆さんは人間世界にあって燃えさかる炎となり、導きの星となり、果実を結ぶ樹木となり、すべての暗黒と悲しみは、慈悲の太陽の輝きと神の福音の限りない祝福とによって、光明と喜びに変わるでしょう。

以上が聖霊の力の意味です。この聖霊の力が皆さんの上にいっぱいに降り注ぎますようお祈りいたします。

第五十二 この偉大で栄光に満ちた大業 (パリ、カムワンス四地番にて十一月二十八日)

私たちがお会いして共に語りあったこれまでの集会で、皆さんはもう、この宗教制の諸原理やその申し立ての真実性に精通されたのではないしょうか。こうして皆さんにはこれらのことをご理解いただきましたが、しかし、世間にはいまだ啓発されることなく、迷信の中にうずもれている人が大勢います。彼らは、この偉大な、すばらしい神の大業について少しも聞くことなく、その知識のほとんどは単に世間の噂(うわさ)から得たものです。悲しいかな、彼らの知識は真理に基づいたものではなく、その信じているものはバハオラの教えではないのです。確かに彼らの聞いた話にも、ある程度、真理があったかもしれません。しかし、それらの情報の大方は不正確なものです。

神の祝福された大業の真の原理は、私がこれまでに話してきた十一の法則であり、私はその一つ一つについて入念に説明してきました。

皆さんは常にバハオラの教えと法則に従って生活し、行動するよう努力しなければなりません。そうすれば世間の誰もが皆さんの日々の行動を見て、なるほど皆さんはその言動からして祝福されたる完全の従者であると納得することでしょう。

このすばらしい教えが地球を取り巻き、霊性が人々の心に浸透するよう努力しましょう。

聖霊の息吹が皆さんに確証を与えれば、たとえ多くの人が皆さんに抵抗して立ち上ろうと、彼らは皆さんに打勝つことはできません。

主キリストがいばらの冠をいただいたとき、彼は、世の王冠はすべて自分の足下にあることを知っていました。あらゆる世俗の王冠は、それがいかに見事な、強力な、きらめくものであっても、いばらの冠の前にうやうやしく頭を垂れたのです。「天と地にあるすべての権力はわれに与えられた」(マタイ伝十八章)という彼の言葉は、彼がこのことをはっきりと確認されたことによるものです。

この事を皆さんの心にしっかり留(とど)めていただきたいと思います。まことに皆さんの光は全世界を明るく照らし、皆さんの霊性は事物の心に影響を及ぼすことでしょう。まことに皆さんは地球上で光り輝く松明(たいまつ)となるでしょう。恐れることはありません。迷うこともありません。なぜなら、皆さんの光は濃密な暗黒をも突き通すでしょうから。これは神の約束であるということを私は誓います。立ち上って神の御力にお仕えしましょう。

第五十三 最後の集会 (パリ、グリーズ通り十五番地) 十二月一日

私がはじめてパリに到着したとき、私は大いなる関心をもってあたりを見廻し、心の中でこの美しい街を一つの大きな花園にたとえました。

私は愛情をこめ、思慮深くこの花園の地質を調べてみました。そして実にすばらしい、確固たる信仰と信念の可能性に満ちあふれていると思いました。この土地には神の愛の種子が蒔かれているからです。

天なる慈悲の雲はこの花園に雨を降らし、真理の太陽は若き種子の上に暖かくふり注ぎ、そして今日こうして皆さんのうちに信仰の誕生を見ることができたのです。この地に蒔かれた種子は芽生えはじめ、それが日に日に成長しているのが分かります。まことにバハオラの王国の恩恵はすばらしい収穫をもたらすことでしょう。

ご覧ください!私は皆さんに喜びの福音を持ってきました。パリはバラの花園となるでしょう。この花園には様々な美しい花が芽をだし、繁茂し、それらの花の芳香と美の名声はあらゆる国々に広がるでしょう。将来、私がパリのことを考えるとき、聖霊の光を浴びているパリが見えるような気がします。まことに、パリが聖霊の光を受ける日の夜明けが始まり、神の優しさと恵みが生きとし生けるものの目に明らかになるでしょう。

現在を見るのではなく、信仰の眼をもって未来を見てください。まことに神の精神は皆さんの中で動いています。

二、三週間前に私がこの地に着いてから、霊性が育っているのがはっきり分かります。最初は、神の光を求めて私の話を聞きに来た人はわずかでしたが、しばらく滞在するうちに数は増え、二倍になりました。前途有望です。

キリストが十字架に架けられ昇天されたとき、彼にはたった十一人の使徒と少数の信奉者しかいませんでした。しかし、彼は真理の大業に仕えたので、今日、彼の生涯の仕事の成果を見ることができるのです。彼は世界を照らし、死者に生命を与えました。キリストが昇天後、キリストの大業は徐々に成長し、キリスト従者の魂はますます啓発され、彼らの聖なる生き方はその優雅な香りを四方にふりまいているのです。

お陰さまで、今これと同じ状態がパリにはじまっています。多くの人たちが神の王国へ面をむけ、その人たちの心は和合と愛と真理に惹きつけられています。

アブハの徳と慈悲がパリ全体を取り囲むよう励もうではありませんか。聖霊の息吹は皆さんを助け、神の国の聖なる光は皆さんの心に輝き、天国からの神の祝福された天使たちは皆さんを力づけ、救済するでしょう。皆さんはこうした至高の恩恵に預(あず)かったことに対し、心をつくして神に感謝すべきです。世界の大部分は眠りに陥っていますが、皆さんは目醒めたのです。多くの人は見ることができないのですが、皆さんは見えるのです。

神の国の呼び声は皆さんの中にこだましています。神に栄光あれ、皆さんは生れかわったのです。神の愛の火の洗礼をうけました。生命の海に身を投じ、愛の精神によって生れかわったのです。

かくもすばらしい恩恵をうけたことを神に感謝し、神の徳と愛情に満ちた親切を決して疑わず、ただ神の国の恵沢へ不滅の信仰を持ちましょう。互いに兄弟愛をもって交わり、親しいもののためばかりでなく、全人類のために互いに生命を投げ出すほどになりましょう。全人類を一つの家族のメンバーとみ、すべての人を神の子であると見るのです。そうすれば、皆さんは彼らの間に違いを見ることはないでしょう。

人類は一本の樹にたとえられます。この樹は枝や葉、芽、果実を持っています。すべての人をこの樹の花、あるいは葉や芽と見なし、互いに助け合い、神の祝福を実感し、楽しむようにしてください。神はなにものも無視されることはなく、すべてを愛されるのです。

人々の間にある唯一の相違は、彼らの発展段階がそれぞれに違うということです。ある者は不完全な状態ですから、完全へと導いていかねばなりません。ある者は眠りの状態にあるので、目醒めさせなければなりません。しかし、すべての者は神の子です。心から彼らを愛しましょう。互いに知らない仲ではなく、全員が友人なのです。今夜、私は皆さんに別れを告げに来ました。しかし、私達の体は遠く離れていても、心はいつも一緒であるということを覚えておいてください。

私は、皆さん一人一人のことを心に留(とど)め、忘れないでしょう。皆さん方も私のことを忘れないでいただきたいと思います。

世界に和合がみなぎり、すべての国の人々が一つになり、地球上が一つの国のごとくになるよう、私は東洋で、また皆さんは西洋で、心魂こめて励みましょう。真理の太陽はすべてを同じように照らすのですから。

すべての神の預言者は、ただこの偉大なる目的のために出現しました。

考えてみてください。アブラハムは信仰と愛を人びとの間にもたらすためにどれほど努めたか、健全なる法則によって人びとを和合させようといかにモーゼが試みたか、主キリストが暗国の世界に愛と真理の光明をもたらすため、死に到るまでいかに苦しめられたか、モハメットが自分の住む地の未開の部族の間に和合と平和をもたらすためいかに努めたかを。そして最後にバハオラは四十年の間その同じ目的、すなわち、バブがその生命を捧げられた高貴な目的、人の子の間に愛をひろめるということのために耐え忍ばれました。

こうした聖なる人々の模範に従い、彼らの泉から飲み、彼らの光によって照らされ、世間に神の慈悲と愛の象徴と見られるほどになるよう努力しましょう。世のための慈雨となり、慈悲の雲となり、真理の太陽になろうではありませんか。そして、一つの聖なる軍隊となり、まことに人の心の都を征服できるようになりましょう。

バハオラが私たちに確固とした堅固な基盤を与えてくださったことを神に感謝いたしましょう。彼は私たちの心に悲しみの入りこむ隙間をなくしてくれ、彼の聖なる筆による書には全世界への慰めが盛り込まれています。彼の言葉は真理であり、彼の教えに反するものはすべて誤りです。彼の全仕事の主要な目的は分裂を排除することでした。

バハオラの遺書は善の雨であり、真理の太陽、生命の水、聖霊であります。ですから心を開いて彼の美の力を十分に受けとってください。すべての人がこの喜びを自分のものとされますよう、お祈りいたします。

皆さん、さようなら。

私は物理的な面で「さようなら」と言っているのであり、魂の面で言っているのではありません。なぜなら、私たちの魂はいつも一緒にいるからです。

皆さんが日ごとに、さらに立派でより聖なるものとなり、一層神に近づき、神の愛の輝きによってますます明るくなられますよう、私はアブハの国にむかって日夜祈り続けましょう。どうぞ、このことを確信し、安心して下さい。

第三編

第五十四 アブドル・バハの講演 W.C.ロンドン聖マーチン通りの友の集会所

(一九一三年一月十二日 日曜日)

約千年前、ペルシャに「友の会」The Society Of The Friends という会が組織されました。ここで友らは共に集り全能の神と無言の交りを行うのでした。

彼らは聖なる哲学を二つに分けました。一つはその知識を講演や学校、大学における研究によって得るもので、もう一つは啓発された者、あるいは内なる光に従う人たちの哲学です。こうした哲学の勉学は無言で行なわれました。瞑想し、聖なる光の源へ面をむけ、その中心をなす光から神の国の秘密がそれらの人たちの心に映し出されました。聖なる諸問題はすべて、こうした啓発の力によって解決されたのです。

この「友の会」の会員数はペルシャで大いに増え、その会は今日まで存続しています。数多くの本や書簡が彼らの指導者によって書かれました。彼らは集会所に集ると静かに坐して黙想します。指導者がある課題をだし、参集者にむかって「この問題について黙想なさい」と言うと、彼らはその問題以外の一切を心から閉め出し、静かに坐して黙想するのです。やがてその解答が彼らに啓示されます。数多くの難解な神霊上の諸問題がこうした啓発された人によって解決されるのです。

人間の心に射しこむ真理の太陽の光線から明かされる大きな問題の幾つかをあげてみると、それは人間の霊の実体の問題、霊の誕生の問題、それが地上に誕生して神の国へ移行する問題、霊の内的生命に関する問題、霊が肉体を離れて昇天したあとの運命の問題などです。

彼らはまた現代の科学上の問題についても瞑想します。これらの問題も同じように解決されます。

「内なる光を信ずるもの」といわれるこうした人びとは至高の力に達し、盲目的な独断や模倣から完全に解放されるのです。人々はこうした人びとの言葉を信頼します。彼らはあらゆる神秘を自分たちで-心の中で-解決します。

もし彼らが内なる光の助けで解決を見出したら、彼らはそれを受け入れて発表しますが、そうでない場合、それは盲目的な模倣であると彼らは考えます。これまでのところ、彼らは神の本質的性格、聖なる啓示や、現世における神の顕示者の本質的性質について瞑想してきました。彼らは神霊の力を通してあらゆる神霊上、科学上の諸問題を解決しています。

バハオラは、あらゆる現象には(神からの)徴(しるし)があると言われました。識者の徴(しるし)は熟考であり、熟考の徴(しるし)は沈黙である、なぜなら人間は同時に二つのことをすることは不可能だからです。人間は喋りながら、同時に瞑想することはできないのです。

瞑想はその人のうちなる霊と話しあうことであるというのは自明の事実です。瞑想の状態である問題について内なる霊と話しあうとき、霊が答えます。光が輝きだし、実相が明らかにされます。

こうした瞑想の能力を欠くものには、「人間」という名を用いることはできません。瞑想能力のないものは動物でしかなく、野獣より低級のものです。

瞑想の能力をとおして人は永遠の生命に達し、瞑想をとおして聖霊の息吹を感受するのです。聖霊の賜物は反省と瞑想の中で感知されるものです。

人間の霊は、瞑想しているときに物を知らされ、強化されます。この瞑想のときに、今まで知らなかった事物がその者の眼に明らかにされるのです。瞑想を通して霊的啓示を感知し、瞑想を通して天の食物を授かるのです。

瞑想は神秘の扉を開く鍵です。瞑想の状態で人は自分自身を引き出します。この状態にあると、人はあらゆる外部の事物から絶縁します。そのような自己の世界に入ると、人は霊的生命大洋に身を浸し、事物それ自体の秘密を明らかにすることができるのです。このことを説明するために、人は二つの視力を与えられていると考えてください。内面的視力がはたらいているときは外面的視力は動かないのです。

こうした瞑想力は人間をその動物的性質から解放し、事物の実相を識別させ、神に触れさせるのです。

この瞑想の力が目に見えない世界から科学や芸術を生みだすのです。瞑想の力を通して発明が可能となり、巨大な企業が起こされ、施政が円滑になるのです。この力をとおして人はまさに神の国へ入るのです。

にもかかわらず、人間にとって全く無益な想念もあります。それらは大海を当てもなく動く波のようなものです。しかし、もし瞑想力が内なる光を浴びて、聖なる属性をそなえるなら、すばらしい結果が得られることは確かです。

瞑想の力は鏡に似ています。もしも鏡を世俗的な事物に向けるなら、鏡はそれらを反映します。ですから、人間の霊が世俗的なことを黙想するならば、そうした世俗のことで頭がいっぱいになるのです。

しかし、もしも皆さんがその霊の鏡を天界に向けるならば、天界の星座や真理の太陽の光が皆さんの心に反映し、神の国の美徳が得られるでしょう。

したがって、瞑想の力という鏡を正しい方向に向けましょう。つまり、俗事に向けるのではなく、天の太陽の方へ向けるのです。そうすれば私たちはやがて神の国の秘密を発見し、聖書の寓話の意味や神霊の神秘を理解するようになるでしょう。

私たちが誠に天上の真髄を反映する鏡となり、天の星を反映するまでに純粋になるよう願っております。

第五十五 祈り  (ロンドン・カドーガンガーデン九十七番地 一九一二年十二月二十六日)

祈りは行動に表現されるべきか。

アブドル・バハの言葉:その通りです。バハイ信教では芸術や科学やあらゆる技術は礼拝とみなされます。一冊の帳面を作るとき、能力の限りを尽くし、良心的に、また、完全なものにするために全力を集中する者は、取りも直さず神を讃美しているのです。簡単に言えば、人が心魂を尽くして行う精進のすべては、もし至高の動機に促され、人類への奉仕の意欲に燃えるものであれば、それは礼拝です。人類に奉仕すること、人びとの要求に応じて仕えること、これが礼拝です。奉仕は祈りです。医師がおだやかに優しく、偏見をもたず、人類の一体性という信念のもとに病人に接するとき、その医師は神を讃美しているのです。

私たちの人生の目的は何か。

アブドル・バハの言葉:それは美徳を備えることです。私たちは大地から生まれました。どうして私たちは鉱物界から植物界へ移され、植物界から動物界へと移されたのでしょう。私たちがこれら三つの世界のそれぞれにおける完全性を達成するためです。つまり、私たちは鉱物界の最良の諸特質を得、植物界における成長力を得、そして動物界の諸本能を備えて視力、聴力、嗅覚力、味覚力を持つようになり、さらに私たちは、動物界から人間界に踏み入れ、理性、発明力、霊的な力を付与されたのです。

第五十六 悪

悪とは何か。

アブドル・バハの言葉:悪とはいまだ完全でない状態を言います。罪悪は、劣位の世界にある人間の状態のことです。この状態は不正、暴虐、憎悪、敵意、闘争といったような欠陥があります。これらは世界の罪悪であり、アダムが食べた樹の実なのです。教育をとおして私たちはこうした不完全な状態から解放されなければなりません。神の予言者がこの世に遣わされ、聖典が書かれたのも人間を解放するためでした。人間がちょうど地上の母親の子宮からこの不完全な現世に生まれてきたように、彼は聖なる教育を通して霊の世界に誕生するのです。人はこの現象界に生まれ出て宇宙を発見します。そして、この現世から霊界に生れ出ると神の国を発見するのです。

第五十七 魂の進歩

現世における魂のより一層の進歩は悲しみを通してか、それとも喜びを通してか。

アブドル・バハのお話:人間の心と精神は苦しみによって試されるとき発達します。土地もまたよく耕せば耕すほど種子はよく成長し、収穫もよりすばらしいものとなります。ちょうど、土地を深くすいて雑草やアザミをきれいに取り除くように、苦痛や苦難は人間を、遂には現世の事物を完全に超越する状態に到達するまでに、この世のつまらぬ事柄から解放します。そして彼の現世における姿勢は聖なる幸福の態度となるでしょう。人間は、云わば、未熟なものですが苦難という火の熱によって成熟します。過去の時代をふり返って見てください。最も偉大な人は最も辛酸をなめた人であることが分かるでしょう。

人は苦難をとおして発達するのなら、はたして人は幸福を恐れるべきか。

アブドル・バハのお話:人間は苦難をとおして永遠の幸福に達します。そして、永遠の幸福は人間から何ものも奪い取ることがないのです。キリストの使徒たちは苦しみ、不滅の幸福に達しました。

しからば、苦難なくして幸福を得ることは不可能なのだろうか。

アブドル・バハの言葉:不滅の幸福に到達するには苦難が必要です。自己犠牲の域に達した人は本当の喜びを感じることができます。刹那的な喜びは消滅するでしょう。

死者の霊魂は地上に住む人と談話を交わすことができるか。

アブドル・バハの言葉:交わすことができますが、現世における私たちの交わりのようなものではありません。より高次の世界の力がこの地上の力と相互に作用しあうことは疑う余地もないのです。人間の心がインスピレーションを受け入れようとしているとき、それが霊的な交わりです。夢の中で人は、口は黙しているのに友と語ります。霊界における会話もそれと同じです。人は内なる自我に、「私はこれを行ってもいいのか。この仕事をすることは賢明なのか」と話しかけます。より高次の自我との会話はこのようなものです。

第五十八 愛の四つの種類 ロンドン・カドーガンガーデン九十七番地にて

(一九一二年一月四日 土曜日)

愛とはなんとすばらしい力でしょう。それは、あらゆる活力の中で最もすばらしい、最も偉大なる力です。

愛は生命なきものに命を与え、冷たい心に炎を燃やし、絶望している人に希望を与え、悲嘆にくれた人の心に喜びをもたらすものです。

存在の世界で、事実、愛の力ほど偉大な力は他にありません。心が愛の炎で燃えたっているとき、人はすべてを、自分の命さえも喜んで犠牲にします。聖書に、神は愛であるとあります。

愛には四種類あります。第一は、神から人間に注がれる愛です。それは、尽きない恩寵(おんちょう)と聖なる輝き、天上の光明からなりたっています。この愛をとおして存在の世界は生命を受けています。この愛をとおして人間は肉体的生存を与えられ、そして遂に、聖霊の息吹をとおして、すなわちこの同じ愛をとおして永遠の生命をうけ、生ける神の像となるのです。この愛こそ創造の中のあらゆる愛の根源なのです。

第二は、人間が神へ捧げる愛です。これが信仰であり、神へ惹きつけられ、燃え立ち、進化し、神の王国へ進入し、神の恩恵の享受し、神の王国の光に照らされることです。この愛はあらゆる博愛の根源であり、人びとの心に真理の太陽の光を反映させるものです。

第三は、神のご自身、あるいは神の本性に対する愛です。これは、神の美の変貌であり、神の創造の鏡の中に映る神自身の反映です。これが愛の真髄であり、古来の愛、永遠の愛です。この愛の一条の光で、他のすべての愛は存在するのです。

第四は、人間の人間に対する愛です。信者たちの間にある愛は、心霊の和合という理想によって促されます。こうした愛は神を知ることによって達成されます。神を知れば、心に反映する神の愛が分かるようになります。誰もが自分たちの魂に神の美が映しだされているということを知り、相互に同じであると思うようになり、互いに愛で結ばれるのです。この愛が全人類を一つの海の中の波、一つの天の星、一本の樹の果実とします。この愛によって真の調和についての認識、本当の和合の基磯がもたらされます。

しかし、友人間に時折ある愛は(真実)の愛ではありません。なぜなら、それは移ろい易い、単なる魅惑にすぎないものだからです。微風(びふう)が吹けば、貧弱な木はなびきます。もしも風が東方から吹けば、木は西方へかたむき、風が西へまわれば木は東へかたむきます。こうした種類の愛は人生の偶然の状況で発生します。これは、愛ではなく、ただ知り合いという程度のものにすぎません。いつどう変るか分らない状態です。

今日、二人は大変仲良しですが、明日になると全然変ってしまうかもしれません。昨日まで二人は互いのために死ぬほどの覚悟でしたが、今日は絶交しているのです。これは、愛ではありません。それは人生の偶然のことに心をふりまわされている状態です。こうした愛はそれを発生させた原因がなくなればなくなってしまいます。これは真実の愛ではありません。

愛には私がいままで説明した四種類しかありません。(a)神の、神の本性に対する愛。キリストは神は愛なりと言っています。(b)神の、神の子たち、つまり神の僕に対する愛。(c)人間の、神への愛。そして、(d)人間相互の間の愛です。これら四種類の愛は神から生じたものです。これらは真理の太陽からの光であり、聖霊の息吹であり、実在の徴(しるし)なのです。

第五十九 アブドル・バハの著わされた書簡  (一九一三年八月二十八日)

おお、汝、わが愛する娘よ.

汝の雄弁な、そして流暢な手紙を花園の、穏やかな微風(びふう)が漂う涼しい木陰で精読した。目の前には物理的喜びをもたらすあらゆるものがあり、汝の手紙は我にとって精神的喜びの原因となった。まことに、それは手紙ではなく、ヒヤシンスやさまざまな花で飾られたバラ園となったのである。

そこには天国の甘い芳香が漂い、神の愛の軟風がそのバラ色の言葉から吹いていた。

私は多忙で余り時間がないので、簡単に、要点をかいつまんで返事をしたためる。

このバハオラの啓示においては、女性は男性と肩をならべて行くのである。いかなる動きにおいても女性は取り残されることはない。女性の権利は男性の権利と同等である。女性は政治のあらゆる部門に入り、およそ人間世界の最高の地位と考えられる位にもつき、あらゆる事業にも参画するであろう。確信せよ。現在の状態が女性の地位などと見てはならない。女性の世界があまねく光り輝き、すべてがすばらしいものとなるのもそう遠くはない。なぜなら、それは尊師バハオラがそうなることを意図されたからである。選挙の際の投票権は、女性から奪うことのできない権利であり、女性が人間活動のあらゆる部門に進入することは、論争の余地のないことである。何人もそれを防害することはできない。

しかし、女性の参与がふさわしくないこともある。たとえば、国が敵の攻撃に対して活発に防衛戦線をはっているときは、女性は軍事行動から免除される。好戦的な野蛮(やばん)な種族が国民の全部を大規模に虐殺しようと激しく攻撃してくる場合があるかもしれない。そうした事情の下では防衛は必要である。しかし、そうした防衛手段を組織し、施行するのは男性の任務であって、女性の任務ではない。女性の心情は優しく、それがたとえ防衛のためであっても、慄然とする虐殺の光景には到底耐えることができないからである。女性はそうした仕事は免除される。

正義院の組織に関して、バハオラは男性に呼びかけておられる、「お、汝ら正義院の男性諸君よ!」と。

しかし、そのメンバーを選挙する場合、投票と発言に関する限りその権利が女性にあることは言うまでもない。そして遂に女性が最高度の発展をとげるとき、時代と場所の緊急度と、女性の偉大な能力に応じて、すばらしい特権が与えられよう。汝ら、これらの記述を信じよ。尊師バハオラは女性の正当性を大いに力説された。女性の権利と特権はアブドル・バハの最大原則の一つである。安心するがよい。まもなく、男性が女性にむかって、こう言いかける時が来るであろう、「汝ら、祝福されたるものよ。汝ら、祝福されたるものよ。まことに汝らはあらゆる神の賜物をうけるにふさわしい。まことに、汝らはその頭を不滅の栄光の冠で飾るにふさわしい。なぜなら、科学や芸術、それにあらゆる美徳や完成において、汝らは男性と同等であり、心の優しさ、あふれるばかりの慈悲とあわれみ深い情という点では汝らは男性に優るものだからである。」