第五部 その他の問題

第五部 その他の問題

七十四、悪は存在しない  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十五、二種類の苦痛  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十六、神の正義と慈悲  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十七、犯罪者の正しい取り扱いかた  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十八、ストライキ  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十九、外部世界の実体  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八十、  真の先在  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八十一、生まれ変わり  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八十二、汎神論  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八十三、知識を得る四つの方法  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八十四、神の顕示者の教えに従う必要性  ・・・・・・・・・・・・・・・・・

七十四、悪は存在しない

この問題の真の説明はきわめて困難です。万物には物質的なものと精神的なものと二種類あることを知りなさい。五感に知覚されるものと知的なものと。

知覚されるものは外面的な五感によって感じられるもので、肉眼が見る外界の存在は知覚し得るものと言われます。知的なものは外面的には存在せず、心意の概念です。たとえぱ、心意それ自体、何ら外面的存在のない、知的なものです。人間のすべての特徴、特質は知的存在を形づくり、五感には感じられません。

簡単に言えば、人間のもつあらゆる特質や賞賛すべき美徳のような知的な実体は、全く善であり、悪はこの本質の不在によります。-つまり盲目は視覚の欠如であり、ろうは聴覚の欠如であり、貧困は富のないことであり、病気は健康の不足であり、弱さは強さの不足です。

ですが、ある疑問が心に生じます。―つまりさそりや蛇は有毒です。それらも存在してい

る以上、善でしょうか、悪でしょうか。そうです。さそりは人間との関係においては悪です。蛇も人間との関係においては悪です。しかしそれら自身に関しては悪ではありません。それらの毒は、彼らの武器であり、その毒牙で自分自身を守っているのですから。しかし、その毒の成分は私たちの成分と一致しません。-つまり異なった成分の間には対立があります。

それでこの対立が悪なのです。しかし実際には彼ら自身に関してはそれらは善です。

この話のあらましは、あるものが他のものとの関係において悪であっても、同時に、その固有な環境の限界内では悪ではないかもしれないということも可能であるということです。そこで存在には、悪がないということが証明されます。神は創造したすべてのものを善として創造されました。こうした悪とは、何もないことです。ですから、死は命のないことです。人間がもはや命を受けないようになると死にます。暗黒は光のないことであり、光のない所には暗黒があります。光は実在するものであり、暗黒は存在しません。富は実在するものであり、貧困は存在しません。

そこであらゆる悪は不在に戻ることが明らかになります。善は実在し、悪は存在しません。

七十五、二種類の苦痛

苦痛には、微妙な一の一激しいものと二種類あることを知りなさい。たとえば無知は、それ自身苦痛です。それは、微妙な苦痛です。神への無関心はそれ自身苦痛です

裏切りもそうです。らゆる不完全さは苦痛です。しかしそれらは微妙な苦痛です。知性のある人にとっては、罪を犯すよりは、死の方が良く、嘘をつくこと串傷よりは舌を切られる方が良いことは確かです。

もう一つの苦痛は激しいものです。―例えば、刑罰、投獄、殴打、追放、放逐といったようなものですしかし、神の人々にとっては神から離れていることが最大の苦痛です。

七十六、神の正義と慈悲

正義を行うことは・人それぞれにふさわしい賞罰に応じて与えることであることを理解しなさい。たとえば、労働者が朝から晩まで働くなら、彼には賃金が支払わなければならないということは、正義の要求するところです。しかし彼が何の仕事もせず、何の骨折りもしないのに、贈り物を与えられるならば、これは恵沢です。もしあなたが、貧しい人に施し物や贈物をするなら、しかも貧しい人があなたに何かしてくれたのでもなく、贈り物にふさわしいことをしたのでもなければ、これは恵沢です。ですから、キリストが自分を殺した者たちのために赦しを願ったこと、これは恵沢と言われます。

さて、物事が善であるか悪であるかの問題は、理性によるか、法律によって決定されます。

一部の人々は法律によって決められると信じています。たとえばユダヤ人のように、旧約聖書の五書のおきては、全部絶対的義務であると信じており、善悪の判断を、理性の問題ではなく、法律の問題であると見なしています。

そこで彼らは五書のおきての一つとして、肉とバターを一緒に摂ることは不法であるな、なぜならそれはタレフであるからだと言います。ヘブライ語でタレフは不潔を意味し、コーシャが清潔を意味するのと同じです。これは法律の問題であり、理性の問題ではないと彼らは言います。

しかし神学者たちは、ものごとの善悪は、理性と法律の両方によっていると考えています。殺人・窃盗・裏切り・偽り・偽善・残虐の禁止の主要な根拠は理性です。知性ある人の誰もが、それらは悪であり、非難すべきものと理解しています。なぜなら人をとげで刺せば、その人は泣き叫び、苦痛を訴え、うめくでしょう。ですからその人は、殺人は理性によれば悪であり、非難すべきものであることを理解することは明らかです。もし彼が殺人を犯すならば、たとえ予言者の名声が彼に届いていようといまいと、彼には責任があります。なぜならその行為を非難すべきものと考えるのは実に理性であるからです。人がこうした悪の行為を犯すならば、彼はまちがいなく非難されるべきです。

しかし予言者の命令が知られていないところや、悪に対して善を返せというキリストの命令のような、人々が神の教えに従って行動せずに、ただ自然の欲望のままに行動するところでは、―つまり彼らは苦痛を与えた者に苦痛を与える。―宗教の見地からすれば、赦されます。

なぜなら神の命令は今だ彼らに、届けられていないからです。彼らは慈悲や恩恵をうける価値はありませんが、それにもかかわらず、神は慈悲をもって扱い、彼らを赦すのです。

さて理性によれば、復讐もまた非難すべきものです。なぜなら復讐しても復讐するものには何の利益も得られないからです。ですからもし人が他の者をなぐり、なぐられた者がなぐり返して復讐するとして、何の利益を得るというのでしょう。このことは傷のぬり薬や苦痛の治療薬になるのでしょうか。いいえ、絶対にそうではありません。実際のところ、双方の行動は同じであり、双方とも侵害行為です。ただ違うのは、一つは先に起こり、他は後に起こったということです。ですからもしなぐられた者が赦し、いえ、彼がもし彼にされたこととは反対の態度をとるならば、これは賞賛すべきことです。共同体の法律は侵略者を罰するでしょうが、復讐はしないでしょう。この刑罰には、他の人々が残酷性を発輝しないように、残酷性と犯罪を警戒し、保護し、対抗する目的があるのです。

しかし、なぐられた者が赦すならば、彼は最大の慈悲を示しているのです。これこそ、賞賛に価します。

七十七、犯罪者の正しい取扱いかた

質問 犯罪者は罰せられるべきですか。あるいはゆるされ、罪は見過ごされるべきですか。

答 報復のための罰には二種類あります。一つは復讐であり、もう一つは懲罰です。人には復讐する権利はありません。しかし、共同体は犯罪者を罰する権利があります。そしてこの刑罰はほかの人々が同じ犯罪を犯すことのないように警戒し、阻止する意図があります。この刑罰は人権の保護のためであり、復讐ではありません。復讐とは一つの悪を他の悪に対抗させることによって復讐者の怒りをやわらげるものです。これは許されません。人間には復讐する権利はないからです。しかし、もし犯罪者が完全に許されるとしたら、世界の秩序はひっくり返ってしまうでしょう。

ですから刑罰は共同体の安全のために基本酌に必要なものの一つです。しかし、犯罪人によって苦しめられた人には復讐する権利はありません。反対に彼は許すべきです。なぜなら、これこそ人間の世界にふさわしいことだからです。

社会は圧制者、殺人者、犯罪人を罰しなければなりません。それはほかの人が同じような罪を犯さないように警告し、抑制するためです。しかし、最も必要なことは、犯罪を犯さないように人々を教育することです。多くの人々に犯罪を犯すことを避け、しりごみするように教育する、また、犯罪それ自身が彼らにとって最大の懲罰であり、最高の非難に価し、最高の苦しみであると思われるほどに十分に教育することは可能だからです。そうなれば、懲罰を必要とする罪を犯すことはなくなるでしょう。

この世で、実行可能なことを話さなくてはなりません。この問題について数多くの理論や高遠な思想があります。しかし、それらは実用的ではありません。ですから、実行可能なことについて話さなければなりません。

たとえば、ある人がほかの人を抑圧し、危害を加え、虐待し、それに対して虐待された人が仕返しをする場合、これは復讐であり、非難すべきことです。もしアムルの息子がザイドの息子を殺しても、ザイドにはアムルの息子を殺す権利はありません。もし彼がそうするならば、これは復讐です。もしアムルがザイドの名誉を傷つけても、ザイドにはアムルの名誉を傷つける権利はありません。もし彼がそうするならば、これは復讐であり、極めて非難すべきことです。いいえ、むしろ彼は悪に対するに善をもって報いなくてはなりません。許すだけではなく、できれば加害者に対して奉仕しなければなりません。この行為こそ人間にふさわしいものです。復讐してもどんな利益が得られるのでしょう。二つの行為は同じことです。一方が非難すべきものであるならば、両方とも非難すべきものです。たった一つの違いは一つが先になされ、もう一つは後でなされたということだけです。

しかし、共同体は防衛、自己防護の権利を持っています。その上、共同体は、殺人者に対して憎しみも恨みも持っていません。ただほかの人々の保護と安全のために殺人者を牢に入れたり、罰したりするのです。それは殺人者に復讐するためではなく、罰を課すことによって社会を保護するためなのです。もし共同体や被害者の遺族たちが許し、悪に対して善をもって報いるならば、残酷な者は常に他人を虐待し続け、暗殺は絶え間なく起こるでしょう。悪徳の人々は狼のように神の羊たちを滅ぼすにちがいありません。共同体は罰を課すに当たって、悪意や憎悪があるのでもなければ被害者の心の怒りをやわらげようというつもりもありません。その目的は、罰することによってほかの人々を保護し、凶悪な行為が犯されないようにするためです。

そういうわけで、キリストが「汝 右の頬を打たれれば、左の頬も打たしめよ。」(マタイ5:39)と言ったのは、人々に個人的復讐をしないように教えるためでした。狼が羊の群れに飛びかかり、殺そうとする場合、狼はしようとしていることを奨励されるということをキリストは言おうとしたのではありません。いいえ、もし、キリストが、囲いに入れられた羊の群れに狼が入って、羊を殺そうとしていることを知っていたならば、キリストもそれを防禦したであろうということは確かなことです。

許すことは慈悲深きお方の属性の一つであるように、正義もまた「主」の属性の一つです。存在のテントは、正義の柱の上に支えられるものであり、許しの上に支えられるものではありません。人類の存続は正義によるのであり、許しによるのではありません。ですから、もし免赦の法律がすべての国で実行されるとすれば、ほどなく世界は混乱に陥り、人間生活の基礎は粉々にくだけてしまうでしょう。たとえば、もしヨーロッパの各政府があの悪名高いアッチラに抵抗しなかったならば、彼は一人の人間も生かしてはおかなかったに違いありません。

血に飢えた狼のような人がいます。もし、彼らが刑罰がないと知れば、単なる楽しみや気晴らしのために人を殺すでしよう。あるペルシャの暴君は、浮かれふざけて、ただおもして慰めのために家庭教師を殺しました。有名なペルシャの僧侶ムタワキルは、彼の大臣、顧問官、役人たちを自分の前に集め、その集団の中でさそりのたくさん入った箱を開け、誰も身動きすることを禁じました。さそりがそこにいる人たちに咬みついた時、彼はわれんばかりに爆笑したということです。

要するに、共同体の組織は正義に依存するものであって、許しに依存するものではありません。キリストが許しとして意味しているものは、他の国々が攻撃をしかけ、家を焼き、財産を略奪し、妻子や親類をおそい、名誉を侵害しても、こうした残忍な敵の前に屈服し、彼らは残虐と抑圧をほしいままにさせておかなければならないということではありません。そうではなく、キリストは二人の個人間の行為について言っているのです。もし一人が他におそいかかるならば、傷つけられた者は相手を許すべきであると言っているのです。しかし、共同体は人間の権利を保護しなくてはなりません。ですから、もし誰かが私をおそい、傷つけ、抑圧し、負傷させたとしても、私は何の抵抗もせずに彼を許すでしょう。しかし、もし誰かがサイドマンシャディ(同じテーブルについていたバハイ)をおそおうとするなら、私はきっと彼を阻止するでしょう。悪人にとっては、干渉されないことは明らかに親切ですが、これはマンシャデイにとっては抑圧になります。もし今、野蛮なアラブ人が引き抜いた刀を持って、あなたをおそい傷つけ、殺そうとするなら、私は絶対に彼を阻止するでしょう。もし私が、あなたがたをアラブ人のなすがままにさせれば、それは正義ではなく不正です。しかし、もし彼が私個人を傷つけるならば、私は彼を許すでしょう。

もう一つ言い残していることがあります。共同体は日夜、刑罰の法律を作成することや、刑罰の道具や方法を準備し組織することに専念しているということです。獄舎を建て、鎖や足かせを作り、追放、流刑の場所を手配し、さまざまな苦役、拷問を用意し、これらの手段によって罪人を罰することを考えています。ところが実際は道徳の破壊と人格の荒廃をもたらしているのです。共同体はこれとは反対に人問の教育の完成、人々が日毎に進歩し、科学や知識を増大させ、徳を高め、悪徳をさけて立派な徳を身につけさせるようにし、そうして犯罪が起こらないように最大限の熱意をもって日夜努力すべきです。現在はその反対のことが行き渡っています。共同体はいつも刑罪の法律を強化することを考え、懲罰の手段、死刑や懲罰の道具、投獄や追放の場所を用意することを考え、犯罪の起こることを期待しています。これは堕落させるもとです。

反対に、もし共同体が大衆を教育することに努力するならば、知識や学問は日に日に増大し、理解力は拡がり、感受性は発達し、風俗習慣は改良され、道徳は正常になるでしょう。ひとことで言えば、いろいろな美徳は進歩し、犯罪は少なくなるでしょう。

犯罪は非文明人より、文明人の方が少ないことが確かめられてきました。―つまり、真の

文明を獲得した人々の間では、ということです。その文明は神の文明であり、―あらゆる精神的、物質的美徳を兼ね備える人々の文明です。無知が犯罪の原因なのですから、知識や学問が増加すればするほど犯罪は少なくなります。アフリカの野蛮人の間では、どんなに多くの殺人がなされているか考えてごらんなさい。彼らはお互いの肉と血を食べるために殺し合うことさえします。ではなぜ、そうした野蛮な行為はスイスでは起こらないのでしょうか。その理由は明らかです。教育と美徳がそうした行為を防止しているのです。

ですから、共同体は、犯罪を厳しく罰することよりも防止することを考えなくてはなりません。

七十八、ストライキ

あなたはストライキについて質問されました。この問題は今も、この先も当分の間、非常に困難な問題です。ストライキは二つの原因によります。一つは企業家や資本家側の極端な貧欲、強欲であり、他方は労働者や職人の要求過多、貧欲、がんこさです。ですから、これら二つの原因を矯正することが必要です。

しかし、これらの困難の主な原因は、現代文明の法律にあります。なぜなら、法律はごく少数の個人に、比べものにならないような財産を彼らの必要とする以上に蓄積させ、一方、大多数の者を貧困、欠乏、極端な悲惨にあえがせています。それは非道の極みであり、神を満足させるものとは反対のものです。

この対比は、人間世界に特有なものです。他の創造物―つまり、ほとんどすべての動物―には、ある種の正義と平等があります。羊飼いのひきいる一群の羊にも、田舎にいる鹿の一群にも平等があります。同じように、草原、平野、岡、果樹園にいる小鳥の間にも、また、すべての種類の動物の間にも、ある種の平等が行き渡っています。これらの動物には生存上の手段におけるそのような相違は見い出されません。ですから、彼らは、完全な平和と喜びのうちに生活しています。

人間はとなるとことは全然違っています。人間は大きな誤り、全くの非道を続けています。

自分の利益のために国を植民地にすることによって財産を貯えた個人を考えてごらんなさい。

彼はたとえようもない富を獲得し、川のように流れる利益や収入を確保しており、一方、多くの力のない弱い不運な人々は、一口のパンにこと欠いています。そこには、平等、慈悲心もありません。ですから、全般的平和と喜びは破壊され、人類の福祉は、多くの人々の生活を実りないものにするほどに否定されています。財産、名誉、商業、工業は一部の資本家の手に握られ、他方、他の人々は、次々と起こる困難や果てしない難題にさらされています。彼らには、何の特典も利益もなく、楽しみも安らぎもありません。

ですから、ある特定の個人の持つあり余る財産を規制し、何百万という貧しい大衆の窮乏を満たす規則や法律が制定されるべきです。こうすればある程度の中庸が得られるでしょう。

しかし、絶対の平等もまた不可能です。財産、名誉、商業、農業、工業における絶対的平等は無秩序、混乱、生活手段の分裂に終わり、全員が失望するようになるでしょう。共同体の秩序はひどく破壊されるでしょう。このような不当な平等が押しつけられた場合にも困難が起こるでしょう。ですから、特定の個人に過剰な富が集まらないようにし、大衆の基本的必要を保護するために、法律や規則によって中庸が確立されることがより望まれます。たとえぱ、企業家や資本家は日々富を蓄積し、貧しい職人たちは日々の生活費も得られません。これこそ、不正の極みであり、正しい心を持つ人にはとても承認できることではありません。ですから、職人は工場主から賃金をもらい、さらに工場の能力に応じて、利益の四分の一か五分の一の分け前が得られるようにする、あるいは、別の方法で労働者の団体と企業側は、利益と特典を公平に分けるような法律や規則が設けられるべきです。もちろん、工場主は資本や管理を提供し、労働者の団体は仕事や労働を提供します。労働者は、適正な生計を保証する賃金を受けるべきであり、また、仕事をやめ、身体が弱くなったり、動けなくなれば、工場主の収入の中から十分な給付金を受けるべきです。あるいは、労働者の受けとる額が、貧しくなったり、動けなくなった日に備えて彼ら自身で少しづつ貯えることができるよう、十分彼らを満足させるものでなければなりません。

こういうふうに事が決まれば、工場主はもはや絶対必要以上の財を日々貯えることはないでしょう。(なぜなら、富が不均衡であれば、資本家は手に負えない負担に屈服し、非常な困難と苦労に追い込まれるでしょう。過度の財産の管理は非常に難しく、人間の体力をすり減らすからです。)そして、労働者や職人はもはやひどい悲惨や欠乏に追い込まれることはないでしょう。晩年になっても極度の貧困に悩まされることはなくなるでしょう。大衆が不足の状態にあるのに、一部の少数の個人に法外な財産を分配することは非道であり、正義に反することは以上で明らかです。同じように絶対的平等は、生活、福祉、秩序、人類の平和への障害となるでしょう。そうした問題では中庸が望ましいのです。それには資本家が自分の利益の取得に当たって適度にすること、貧しい人や困っている人の福祉に対して考慮することにかかっています。―つまり、労働者や職人は決まった日々の賃金を受けること―さらに彼らも工場の総利益の分け前を受けられるようにすることです。

資本家に適正な利益を与え、労働者には生活に必要な手だてと将来に対する保証を与える法律が制定されることは、資本家、労働者、職人の共通の権利として理にかなっています。こうすれば彼らが弱ったり、働けなくなったり、年老いて動けなくなったり、未成年の子供を残して死んだりしても、彼らも子供たちも極度の貧困によって死ぬようなことはなくなるでしょう。

さらに彼らは、彼らが権利を持っている工場それ自体の収入からたとえわずかであろうと、暮らしに対する分け前を得られるでしょう。

同様に、労働者も行き過ぎた要求や反乱も起こさず、権利を超えた要求もしなくなるでしょう。ストライキもせず、従順に服従し、法外な賃金を要求することもなくなるでしょう。しかし、労資双方の団体の相互の合理的権利は、正義とかたよらない法律によって、習慣に応じ合法的に確保され、定められるでしょう。双方の当事者の一方が違反した場合、裁判所は違反者に有罪を宣言し、行政部門は判決を執行し、こうして秩序は再興され、困難な問題は結着します。資本家と労働者の間の未決の困難な問題に裁判所や政府が干渉することは合法的です、というのは、労働者と資本家間の現在の情勢は、私的な個人間の普通の事情とは比較できないという理由からです。個人間の事情には公は関係なく、政府は関与しません。実際には、これら二つの当事者の困難な事態は、一見、個人的問題のように見えますが、公に損害を生じます。

商業、工業、農業そのほか国のすべてのことは緊密につながっているからです。そのうちの一つが悪用されても損害は全体に及びます。このように、労働者と資本家間の困難な事態は全般的損害の原因となります。

ですから、裁判所と政府は干渉する権利を持つのです。二人の個人間に困難が生じた場合、

第三者がこの問題を解決する必要があります。これが政府の役目です。そうであるならば、ストライキの問題-国の難問題を引き起こし、企業家の強欲ばかりでなく、労働者の過度のいらだちに結びついている一をどうしてほおっておくことができるでしょうか。

神よ!人は、同胞が飢え、すべてに事欠いているのを見ながら、自分はぜいたくな邸宅に心地良く暮らすことができるものなのでしょうか。他人が極度の悲惨の中であえいでいるのにであった人は、自分の幸運を楽しめるものなのでしょうか。だからこそ、神の宗教では、富める者は毎年、財産の一部を貧しく、不運な者の生活費として与えることが命ぜられ、定められているのです。それが神の宗教の根本であり、すべての人の義務です。そしてこのことに関して、人は政府によって強制されたり、義務づけられたりはされませんが、その人の真心の自然のなりゆきによって自発的に、輝かしい心で貧しい人に慈善心を示すのです。そのような行為は大いに讃美され、承認すべき喜ばしいことです。

そうした行為は、聖典や聖なる書簡にある善行の意味するものです。

七十九、外部世界の実体

一部の詭弁家は、存在は一つの幻影であり、それぞれの存在は、存在しない絶対的幻影であると考えています。―言いかえれば、万物の存在は蜃気楼のようなもの、あるいは水や鏡にうつる反映の像のようなものであり、それ自体、原理も根拠も実体もないあらわれにすぎないと考えています。

この理論は、まちがっています。万物の存在は神の存在に関していえば幻影ですが、万物の状態においてはそれは真実であり、確かな存在です。このことを否定することは、無益です。

たとえば、鉱物の存在は、人間の存在に比べれば存在しません。人間が死亡するとそのからだは鉱物になります。しかし、鉱物は鉱物界では存在します。ですから、地球は人間の存在に関しては存在しません。しかもその存在は幻影です。しかし、鉱物との関係においては存在します。

同じように、万物の存在は神の存在に比べれば幻影にすぎず、無です。それは一つのあらわれであり、鏡にうつる像のようなものです。しかし、鏡に見えている像は幻影ですが、その幻影と見える像の根源、実体はうつされた人間であり、その人の顔が鏡にあらわれます。簡単に言えば、うつされる人間からみれば、その反影が幻影です。

ですから、万物は神の存在との関係においては存在せず、蜃気楼のようなもの、あるいは、

鏡にうつる反影のようなものですが、しかし、それ自身の段階においては存在することは明らかです。

それゆえに、無頓着な者、神を否定する者は、一見、生きているように見えますが、死んでいるとキリストに言われたのです。信仰を持つ人々からみれば、彼らは死んでおり、目の見えぬ人、耳の聞こえぬ人、口のきけぬ人です。キリストが「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」(マタイ8:22)と言ったのはこの意味です。

八十、真の先在

質間 先在と現象は何種類あるのですか、

答 一部の賢者、哲学者は、二種類の先在があると信じています。即ち、本質的先在と時の先在と。現象もまた本質的現象と時の現象と二種類あります。

本質的先在は原因によって先行されない存在であり、一方、本質的現象は原因によって先行されます。時の先在は始めがなく、時の現象は始めと終わりがあります。あらゆる物の存在は四つの原因―動因、物質、形体、目的因の四つに依存するからです。たとえば、この椅子は、大工という製作者がおり、木材という物質があり、椅子という形体があり、坐るために使用するという目的があります。ですから、この椅子は本質的に現象的なものです。なぜなら、それは原因によって先行され、その存在は原因に依っているからです。これが、本質的で真に現象的なものと言われるものです。

さて、この存在の世界は、その創造者との関係においては真の現象です。肉体は精神によって維持されるのですから、肉体は精神との関係においては本質的現象です。精神は肉体とは独立しています。そして肉体との関係においては、精神は本質的先在です。太陽の光線は常に太陽から切り離すことはできませんが、それにもかかわらず太陽は先在しており、光線は、現象的なものです。なぜなら、光線の存在は太陽の存在に依存しているからです。しかし、太陽の存在は光線の存在には依存していません。なぜなら、太陽は与えるものであり、光線は賜物だからです。

第二の命題は、存在することと存在しないこととは相対的であるということです。あるものが無から存在するようになったという場合、絶対的無について言っているのではなく、その現象の状態からみれば、それ以前の状態は無であったということを意味しているのです。絶対的無は存在する力がないのですから、存在するようになることはできないからです。人間は、鉱物と同じように存在します。しかし、鉱物の存在は、人間の存在からみれば無です。なぜなら、人間のからだが死滅すれば塵となり、鉱物になるからです。しかし、塵が人間世界に前進してこの死体が生きるようになれば、人間は存在するようになります。塵―つまり鉱物―は、それ自体の状態においては存在しますが、人間との関係においては無です。どちらも共に存在しています。しかし、塵や鉱物の存在は、人間の存在に関しては不存在であり、無です。人が存在しなくなれば、塵や鉱物に戻るからです。

ですから、依存している世界は、存在していますが、神の存在からみれば不存在であり、無です。人間も塵もどちらも存在しています。しかし、鉱物の存在と人間の存在との間には何と大きな隔たりのあることでしょう。一方は、他方との関係においては不存在です。同じように創造物の存在は神の存在からみれば不存在です。このように万物は存在しますが、神と神の言葉からみれば、それらは不存在であることは明らかです。これが「われはアルファーであり、オメガである。」と言っている神の言葉の始めと終わりです。なぜなら、神は恩寵の始めであり終わりであるからです。創造主は、常に創造物を持っていました。太陽の光線は常に太陽の実体から輝き渡っています。なぜなら、光線がなければ太陽は不透明な暗黒体になってしまうだろうからです。神の御名と属性は万物の存在を必要とします。そして、永遠の恩寵は尽きません。もし尽きるとすれば、それは神の完全性に反するでしょう。

八十一、生まれ変わり

質問 ある人たちが信じている生まれ変わりという問題の真相は何ですか。

答 ここで述べることの目的は、真実を説明することです。―他の人たちの信じていることを笑ったりするためではありません。ただ事実を説明する、それだけです。何人の思想にも反対しませんし、批判を認めているのでもありません。

まず、生まれ変わりを信じる人々には、二種類あることを知ってください。一つの派は、他界における精神的罰や報酬を信じません。人間は生まれ変わりによってこの世に戻り、報酬と補償を得るものであると想像します。彼らは、天国と地獄はこの世だけにあるのであって、他界の存在を語りません。こうした人々もさらに二つの派に分けられます。その一方は、人間は時に厳しい罰を受けるために動物の姿となってこの世に戻り、この苦しい苦痛を耐えた後には動物界から解放され、再び人間世界に戻ると考えます。これは、輪廻転生と呼ばれます。もう一つの派は人間は人間世界からまた人間世界に戻り、この復帰によって前世の報酬や罰を受けると考えます。これは生まれ変わりと呼ばれます。これらの派の人々は皆、この世以外の他界について語りません。

生まれ変わりを信じるもう一派の人々は、他界の存在を肯定し、生まれ変わりを完全になるための手段であると考えています。一つまり、人間はこの世を去ったり、戻ったりすることによって次第に美徳を獲得し、ついに内面的完成に到達するということです。言いかえれば、人間は物質と力によって構成され、物質は始め―つまり第周期においては―不完全であり、この世に繰り返しやってくることによって進歩し、洗練と優美さを獲得し、ついには磨かれた鏡のようになる。そして、精神にほかならない力は、すべての完全性を備えてその中に実現されると考えます。

以上が生まれ変わりを信じる人々が、この主題に関して述べていることです。もし細かいことに立ち入れば長時間を要しますので、話を煮つめました。この要約で十分です。この問題についての論理的論議や証明も提出されていません。それは、ただ推測にもとづく仮定であり、推論であって決定的論証ではありません。生まれ変わりを信じる人々から、推測、仮定、想像ではない実証をしてもらわなくてはなりません。

しかし、あなたは、生まれ変わりの不可能であることの論証を尋ねておられるのです。このことについてまず説明しなければなりません。それが不可能であることの第一の論証は、外面は内面の表現であり、地球は神の王国の鏡であり、物質の世界は精神の世界に一致するということです。さて、感覚で捕えられる世界では出現は繰り返されません。存在物は何らかの点で他のものと異なり、全く同じということはないからです。単一であることのしるしは万物の中に明らかに示されています。仮に世界の穀倉が穀物でいっぱいであるとしても、完全に同じで、何の相違もなく全く同一であるようなふたつぶを見いだすことはできないでしょう。それらの間には相違や差異があることは明らかです。独自性の証拠は万物の中に存在しており、神の一体性と唯一性は万物の実体の中に現われているのですから、同じ出現の繰り返しは全く不可能です。ですから、生まれ変わり、つまり以前と同じ本質と状態を持った同じ精神が、この同じ出現の世界に繰り返し現われるということは不可能であり、あり得ないことです。それぞれの物質的存在物にとって、同じ姿で繰り返し現われることは不可能であり禁止されているように、精神的存在も下降の円弧にあろうと上昇の円弧にあろうと同じ状態に戻ることは禁止されており、不可能です。なぜなら、物質的なものは精神的なものと一致するからです。

それにもかかわらず、種に関しては物質的存在の復活は明らかです。過ぎ去った年月に葉、花、実を着けた木々は、これから来る年月にも全く同じ葉、花、実を着けるでしょう。もし誰かが葉、花、実は分解され、植物界から鉱物界へ降り、そして再び鉱物界から植物界へ戻ったのであるから同じ植物が繰り返しあらわれたと言って反対を唱えるのであれば、それに対する解答はこうです。昨年の花、葉、実は分解され、それらの構成要素は崩壊し、空間に分散されます。そして分解の後、昨年の葉や実をなしていた粒子が再び構成されることはありませんし、戻ってくるのでもありません。そうではなく、新しい要素の構成によって種が戻って来たのです。このことは人間の肉体についても同様です。人間の肉体も分解した後、崩解し、その構成要素は分散されます。同じように、仮にこの肉体が鉱物界あるいは植物界から再び戻ってくるとしても、以前の人間と全く同じ構成要素を持っていることはないでしょう。その構成要素は分解され崩解し、この広い空間にまき散らされます。その後、他の要素の粒子が結合し、第二の肉体が形成されます。以前の個体の要素の一つが次の個体の構成に入りこんだかも知れませんが、しかし、こうした粒子は何らの増減なしに正確で、その構成と混合から他の個体が存在するようになることはありません。ですから、この肉体がそのすべての粒子と共に戻ってくるとか、以前の人間が後の人間になるとか、その結果反復があるとか、肉体と同じように精神も戻ってくるとか、死後、その本質がこの世に戻ってくるとかと言うようなことは実証されません。

仮にこの生まれ変わりは物質が精練され、優雅になり、精神がその物質の中にこの上なく完全に現われるように、完全な美徳を身につけるためのものであるとしても、これまた単なる想像にすぎません。たとえこの論証を信じるものと仮定しても、再生と復活によって性質が変化することは不可能です。復活によって不完全さの本質が完全性の実体になることはありません。完全な暗黒が復活によって光の源になることはありません。弱さの本質は、力や強さに変わることはありません。世俗的な性質が神聖な実体になることもありません。ザクームの樹(コーランにある悪魔の木)は、何度生まれ変わろうとも甘い実をつけることはありません。そして良い木は、何度戻ってこようともにがい実はつけません。ですから、この世に復活することや回帰することによって完全になることはできないということは明らかです。その理論には証明も証拠もありません。それは単なる観念です。いいえ、実際のところ、美徳を獲得するもとは神の恩寵なのです。

神知学者の信じるところによれば、上昇の円弧にある人は「至高の中心」に到達するまで何回でも復活し、その状態では物質は曇りない鏡となり、精神の光は、そのすべての力をもってその上に輝きわたり、そうして本質的完全性が得られるということです。さて、物質の世界は下降の円弧(存在の周期の)の終点で終わり、人間の状態は下降の円弧の終点にあり、また「至高の中心」とは反対側にある上昇の円弧の始点にあるというのが確立された深遠な神学上の命題です。また上昇の円弧の始点から終点までには多くの精神的段階があります。下降の円弧は起源(生み出す)と呼ばれ、上昇の円弧は進歩(何か新しいものを生み出すこと)と呼ばれます。下降の円弧は物質性で終わり、上昇の円弧は精神性で終わります。円を描くコンパスの先は後退する運動をしません。なぜなら、逆行することは自然の運動と神の秩序に反することになるからです。そうでなければ、円の対称性は損なわれてしまいます。

その上、この物質の世界は人間がこの鳥かごから解放された後、再びこのわなに捕らえられたいと望むほどの価値のある、すばらしい世界ではありません。人間の価値、本当の能力は、永遠の恩恵を通して、復活によってではなく、存在の段階を横切ることによって明らかになります。いったん貝が開かれれば、真珠があるか、つまらないものが入っているかは一目瞭然です。植物もいったん成長すればとげを出すか、花を生じるかのどちらかでしょう。それがもう一度成長しなおす必要はありません。さらにあらゆる世界において、自然の法則に従って、直線的順序によって前進し、運動することは存在のもとであり、自然の組織、法則に反する運動は不存在のもとです。死後、魂が復活するということは、自然の運動に反しており、神の秩序にさからっています。

ですから、復活することによって存在を得ることは全く不可能です。それはあたかも、人が子宮から解放された後、再び子宮に戻るようなものです。生まれ変わりの信仰に含まれているものは何と子供じみた空想であることかよく考えてください。それを信じる者たちは、コップに水が入っているように、肉体を精神の入っている器と考えています。この水はコップから取り出され、別のコップに注がれたと。これは子供の遊びです。彼らは、精神の形のないものであり、出たり入ったりするものではなく、太陽と鏡の結びつきのように肉体に結びついているにすぎないことを理解していません。仮に彼らの言う通りだとし、精神はこの物質の世界に戻ることによって多くの段階を通過し、本質的美徳に達することができるとするならば、神がこの世における精神の命を完全な美徳と優雅さを獲得するまで引き延ばすほうがよいことになります。そうすれば、精神が死の盃を味わったり、第二の生を得る必要はありません。

存在はこの亡ぶべき世だけに限定されているという考えや、神の世界の存在の否定は、そもそも、生まれ変わりを信じる一部の人たちの想像から生まれたものです。しかし、神の世界は無限です。もし神の世界が極点に達してこの物質の世界ができたとすれば、創造にたわいもないものであったでしょう。いいえ、存在は完全に子供の遊びになってしまいます。この尽きることのない存在物の結果である人間の高貴な存在が、この亡ぶべき住み家に数日間去来して罰と報酬を受けたのち、ついにすべての者が完全になることになります。神の創造と無限に存在する存在物が完成され仕上げられることになり、その結果、このようにあらゆる存在物が精神的存在になるのであるから、主の神性、神の御名や特質はその影響に関して無為、無活動になることになります。「汝の主、力強き主に讃えあれ、彼らが描くものとはなんのかかわりもない方に。」(コーラン37:180)

以上はプトレミーやその他の者たちのような昔の哲学者の狭い心からでたものです。彼らは、世界、生命、存在はこの地球に限られ、この無限の字宙は天の九つの領域に限定され、すべては空で虚しいものであると信じ想像しました。彼らの考えはどんなに狭く、心はどんなに貧弱であったか考えてください。生まれ変わりを信じる人たちは、精神的世界は人間の想像の世界に限定されると考えています。さらにドルーズ派やヌーセイリ派のように、彼らの一部のものは、存在はこの肉体の世界だけに限定されると考えています。何と無知な想像でしょうか。なぜなら、至高の完全さ、美、威厳の中にあらわれるこの神の世界に、物質の世界の輝く星は無限にあるのですから。そこで私たちは、欠くことのできない基礎である精神の世界はどんなに広く、無限であるかを考えなくてはなりません。「見る目をもっている者は、よく注意を払うがよい。」(コーラン59:2)

ところで主題に戻りましょう。聖書や聖典には「復活」について語られています。しかし、無知な人はその意味を理解せず、生まれ変わりを信じる人々はこの問題についていろいろな推論を出しました。聖なる予言者が「復活」によって意味したものは本質が復活するのではなく、特質が復活することなのです。それは顕示者の復活ではなく、完全な美徳の再現です。福音書にゼカリアの息子であるヨハネはエリアであると述べられています。この言葉は、エリアの理性的魂と個性がヨハネの肉体に再現したと言っているのではありません。そうではなく、エリアの完全性と特質がヨハネの中に現れたという意味です。

昨夜、この部屋にランプがともっていました。そして今夜、ほかのランプがともる場合、昨夜の光が再び輝いていると言います。泉から水が流れ出ている、次にそれが止まって再び水が流れ始めると同じ水が再び流れていると言います。あるいは、この光は以前の光と同じものであると言います。去年の春についても同じです。その時、さまざまな花、甘い香りの草花が咲き乱れ、おいしい果実が実りました。次の年、その味のよい果実が戻って来た、その花々が再び戻って来たと言います。このことは、昨年の花を作りあげていた全く同じ粒子が分解したのち、再び結び合わされ戻り、復活したということではありません。そうではなく、昨年の花の甘さ、新鮮さ、甘い香り、あでやかな色彩が今年の花の中に全く同じように現われるということです。簡単に言えば、この表現は以前の花と後に現れる花との類似性のことを言っているのに過ぎないのです。聖典にいわれている復活とはこの意味です。崇高なるペン(バハオラ)は確信の書でこのことを十分に説明しています。それを参照してください。そうすれば、神の神秘と真理がわかるでしょう。

皆さんに、挨拶と称讃のあらんことを。

八十二、汎神論

質間 神知学者やスーフィ派(回教神秘主義者)は、汎神論の問題をどのように理解しているのでしょうか。汎神論とは何を意味するのですか。またどの程度、真理なのですか。

答 汎神論の問題は非常に古くからあります。それは神知学者やスーフィ派に限られる信仰ではなく、アリストテレスのようなギリシャの賢人たちも信じていました。アリストテレスは、「単一の真理は全てのものである。しかし、そのどれでもない。」と言いました。この場合、「単一な」は「組成された」の反対である。それは孤立した真理であり、それ自体無数の姿に分解する。だから真の存在は万物であり、しかもそのどの一つでもない、と。

要するに、汎神論者は、真の存在は海にたとえられ、存在物は海の波のようなものであると考えています。存在物を意味しているこれらの波は、真の存在の無数の姿である。だから、聖なる本質は先在の海(神)であり、創造物の無数の姿は、あらわれた波である。

同様に、彼らはこの理論を真の一と無数の数にたとえます。真の一は、無限の数の段階にそれ自体を反映する。なぜなら、数は真の一の繰り返しだからである。だから二という数は一の繰り返しであり、他の数についても同じである。と。

彼らの論証の一つは次のようなものです。万物は神によって知られているものであり、知られている物のない知識は存在しない。なぜなら、知識は存在するものに関係しており、無には関係していないからである。真の無は知識の段階で類別化や特徴づけができない。だから、存

在物の本質は、最も高遠なるお方である神によって知られているものであり、神の知識の形を持つのであるから、それは知識の持った存在(知的存在)を持つ。神の知識が先在するように、それらもまた先在する。知識が先在するので、知られているものも同じように先在し、一体性の精髄の先在する知識である存在物の類別化と特徴づけは、神の知識そのものである、一体性の精髄の本質、知識、知られている物は真実であり、確立ざれた絶対的一体性を持つのであるからである。さもなければ一体性の精髄は多様な現象の場となり、先在の多様性(神々)が必要になってしまう。これは不合理である。

そこで、知られているものは知識そのものを成しており、知識は精髄そのものを成している―つまり、知り給うお方、知識、知られているものは単一の実在であるということが証明される。もしこれ以外のことを考えるならば、先在の多様性と、原因と結果の果てしない繰り返しに戻ることが必要となる。そして先在は無数になることによって終わる。神の知識における存在物の類別化と特徴づけは一体性の精髄そのものであり、またそれらの間には相違はなかったのであるから、そこには全くの単一性のみがあり、知られているすべてのものは、一つの精髄の本質の中にまき散らされ、含まれていたのである。―つまり単一性の方式と唯一性の方式によれば、それらは最も高遠なる神の知識と真理の精髄を成しているのである。神がその栄光を現わした時、真実の存在を有する存在物はこれらの特徴づけと類別化1つまり、神の知識の姿をしていた存在物1は、外部世界にその存在を具体化したのである。そしてこの真の存在は、それ自身を無数の姿に分解したのである。以上が彼らの論議の基本です。

神知学者とスーフィ派も二派に分かれます。大多数を占める一派は、有名な学者たちの意味することを理解せず、ただ模放的に汎神論を信じています。スーフィ派の多くは、神の意味は普遍的に実在する実体であると考え、それは理性と知性によって理解される―つまり人間はそれを理解するということである。他の一派によれば、この一般的存在は、存在物の実体に浸み渡っている偶然の一つであり、存在物の特質はその本質であるとする。万物に依存する存在であるこの偶然の存在は、それらに依存する物の他の所有物のようなものである。それは偶然中の偶然であり、本質的なものは偶然にできたものより優れていることは確かである。なぜなら本質は根源であり、偶然は結果であるからである。本質はそれ自身に依存し、偶然はほかの何かに依存する。―つまり偶然は依存する本質を必要とする。この場合、神は創造物の結果になってしまいます。神は創造物を必要とし、創造物は神から独立してしまいます。

たとえば、個々別々の要素が神の普遍的システムに従って結合するごとに、あらゆる存在の中から一つの存在がこの世にあらわれる。つまり、ある要素が結合すると動物になる。また他のものが結合すると違った創造物が生み出される。こうなると、万物の存在は、万物の実体の結果となります、偶然中の偶然であり、依存すべき他の本質を必要とするこの存在が、万物の創造者である先在の精髄であるなどということがあり得ましょうか。

しかし、この問題を研究した神知学者やスーフィの奥義を授けられた学者たちは、存在には二つの部類があると考えています。一つは一般的存在であり、人間の知性によって理解される。これは一つの現象であり、偶然中の偶然であり、存在物の実体がその本質である。しかし、汎神論はこうした一般的な想像的存在に適用ざれるものではなく、あらゆる言説から解放され、聖別されている真の存在のみに適用される。真の存在を通して万物は存在する。この真の存在は、物質、エネルギー、人間の心によって理解される一般的存在のようなすべてのものをこの世にもたらした神の一体性であるとする。神知学者やスーフィによれば、以上がこの問題の真理です。

要するに、万物はこの一体性によって存在するという理論に関しては全員が同意します。―つまり哲学者たちと予言者たちと。しかし、彼らの間には相違があります。予言者はこう言います。神の知識は万物の存在を必要としない。しかし、創造物の知識は知られている物の存在を必要とする。もし神の知識が他の何かを必要とするならば、それは神の知識ではなく、創造物の知識となってしまう。なぜなら、先在は現象的なものとは異なっており、現象的なものは先在とは対立している。存在物に帰すことのできるもの―つまり依存している物の必要性―は、神には必要ないと言っているのである。不完全さからの浄化、聖別化は、神の必然の特質の一つである。そこで、我々は現象的なものには無知を見い出す、故に先在に知識を認める。現象的なものには弱さを見い出す。故に先在には力を認める。現象的なものには貧困を見い出す。故に先在には富を認める。だから、現象的なものは不完全さの源であり、先在は完全性の総和である。現象的知識は知られている物を必要とする。先在する知識は、それらの存在から独立している。それゆえ、最も高遠なる神に知られているものである万物の特徴づけと類別化は存在しない。そしてこれらの神聖で完全な属性は、我々が知性によって、神の知識は知られているものを必要とするかしないかを決定できるというようには理解されない、と予言者は言います。

要するに以上がスーフィ派の主な論議です。もし彼らのすべての証明を述べ、その答えを説明しようとすれば長時間必要です。これは少なくとも、スーフィ派や神知学者にとっては決定的証明であり、彼らの明白な論議です。

しかし、万物を存在させる真の存在の問題―つまり、あらゆる創造物をこの世に生じさせた一体性の精髄の本質―は、皆に認められています。違いはスーフィの言う「物の実体は真の一体性の顕示である。」というところにあります。しかし予言者はこう言います。「物の実体は、真の一体性から放射する、」と。顕示と放射の違いは非常に大きい。顕示による出現は一つのものが無限の形をとって現われることを意味します。たとえば種子は植物の完全性を持つ一つの物ですが、自らを枝、葉、花、果実に分解して、さまざまな形となって現われます。これは顕示による出現と呼ばれます。一方、放射による出現では、真の一体性はその神聖さの高みに留まり続け、創造物の存在はそれから放射しているのであり、それによって顕示されるのではありません。それは、すべての創造物に注ぎかける光を放射する太陽にたとえることができます。しかし、太陽はその神聖さの高みに留まっています。それは下降しませんし、光が、輝くいろいろな姿に分解することもありませんし、物を類別化したり、特徴づけることによって物の物質の中に現われたりすることもありません。先在は現象的なものとはなりませんし、独立している富は、鎖のようにつながった貧困になることもありません。全くの完全性は、絶対的不完全にはなりません。

まとめましょう。スーフィ派は、神と創造物を認める。そして神は自らを創造物の無限の姿に分解させ、海のように現れる。その海は波の無限な姿となって現れる。これらの現象的で不完全な波は、神のすべての完全性の合計したものである先在の海と同一のものであると。これに対して予言者は、神の世界、神の王国の世界、創造物の世界の三つがあると信じます。始めに神から放射されるものは神の王国の恩恵であり、それは創造物の実体に放射し、反映しています。ちょうど、太陽から放射する光が創造物の中に反映しているのと同じです。光であるこの恩恵は、万物の実体の中に無限の姿となって反映し、自らを物の許容量、価値、本来の価打ちに従って類別化し、特徴づけます。しかし、スーフィ派の信じるところに依れば、独立している富は、依存している物の限界に応じて、貧困の段階に下降し、先在は自らを現象的姿に制限し、純粋な力は弱い状態に限定されることになります。これは明らかな誤りです。よく考えてください。創造物中、最も高貴な人間の本質が動物の本質に下降することはありません。感覚力を与えられている動物の本質は植物の段階に身を落とすこともありません。成長する力そのものである植物の本質は鉱物の本質に下降することはありません。

要するに、より優れているものは、下位の地位に下降したり、身を落とすことはありません。それならば、すべての記述から解放されている神の普遍的本質が、その絶対的神聖さと清浄さにもかかわらず、不完全さの源である創造物の本質の中に自らを分解させるなどということがあり得るでしょうか。これは誰も考えることのできない全くの想像です。

それに反して、この聖なる本質は神の美徳の総和です。そしてあらゆる創造物は放射による輝きの恩恵によって恵みを受け、その王国の光、完全性、美を受けとります。それはちょうど、地上のあらゆる創造物は太陽の光線の光の受けてはいますが、太陽は恩恵を受けている地上のものの実体に下降することも、自らを落とすこともないということと同じです。

夕食後のことでもありますし、時間も遅くなりましたので、これ以上説明する時間がありません。では、ごきげんよう。

八十三、知識を得る四つの方法

理解の方法には、一般に認められた四つの方法しかありません。―つまり、ものごとの実体はこれら四つの方法によって理解されます。

第一の方法は五感によるものです。―つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚によって感じられるすべてのものは、この方法によって理解されます。今日、ヨーロッパの哲学者たちは、この方法が最も完全なものであると考えています。知識を得る主な方法は五感による方法であると彼らは考えています。それは誤りを犯しますから不完全なものなのですが、彼らはそれを最高のものと見なしています。たとえば、五感のうちで最も偉大なものは視力です。この視力でさえ、蜃気楼を水と見、鏡に映るさまざまな像を真実で実在するものと見ます。巨大な物体も遠くにあれば小さく見、まわっている点は円と見ます。視覚は、地球は動かずに太陽が運動しているように思ったり、同じような状態でたくさんの誤りを犯します。ですから私たちは視力に信頼を置くことはできません。

二番目は理性による方法です。それは英知の柱石とも言うべき古代の哲学者のとった方法でした。これは理解力による方法です。彼らは理性によってものごとを説明し、論理的証明にしっかりすがっていました。彼らの論議はすべて理性によるものです。それにもかかわらず、それらはまちまちで、彼らの意見は矛盾していました。彼らは自分の見解を変更さえしました。―つまり、二十年間あることの存在を論理的論法で証明していたかと思えば、その後、また論理的論法でそれを否定したりしました。―プラトンは始め、地球の不動性と太陽の運動を論理的に証明しましたが、後にまた論理的論法によって太陽は不動の中心であり、地球は動いていると証明したようなことはまさにその例です。後にプトレミー説がひろく普及し、プラトンの思想は全く忘れ去られ、ようやく新しい観測がそれを蘇らせました。このように、あらゆる数学者は理性による論議に頼ったのですが、皆くいちがっていました。同じようにある問題についてある時はこれを論理的に実証し、やがて同じ論法によってそれを否定したりしました。それで哲学者のうちにはしばらくの間、強力な論法と証明で一つの理論をしっかり支持していたかと思えば、後に理性の論法でこの論理をひっこめ、否定する者もありました。ですから理性による方法も完全ではないことが明らかです。古代哲学者の意見の相違、彼らの意見の安定性のなさと変動がこのことを証明しています。もしそれが完全であるならば、彼らは皆その思想において一致し、意見に同意するはずです。

第三の理解の方法は伝承によるものです。―つまり聖典の聖句によるものです。―「旧約聖書や新約聖書では神はこう言っている。」と人は言います。この方法も同様に完全ではありません。伝承は理性によって理解されるからです。理性そのものが間違いやすいものなのですから、伝承の意味を解釈する際にも間違いをしないとどうして言えるでしょうか。理性は間違いを犯す可能性があり、確実性は得られません。宗教的指導者の理解法はこの方法です。彼らが聖典の聖句から理解するものはすべて彼らの理性が理解するのであり、必ずしも本当の真理とは限りません。理性は秤のようなものであり、聖典の聖句の中に含まれる意味は秤で測られるようなものだからです。もし秤が狂っているならば、どうして重さを確かめることができるでしょうか。

ですから、人々の手の中にあるもの、人々が信じるものはとかく間違いやすいということをわかってください。あることを実証したり反証したりする際、私たちの五感から生まれる証明が持ち出されるならば、この方法もまたすでに明らかになったように完全ではありません。その実証が理性による場合も同じことが言えます。あるいはその実証が伝承によるものであってもそのような実証もまた完全ではありません。ですから人間の手中には信頼できる標準はありません。

しかし、聖霊の恩恵は、決して誤りのない、疑う余地のない真の理解法を与えてくれます。これは聖霊の助けによって人間に与えられたものであり、この場合のみ、確実性が得られるのです。

八十四、神の顕示者の教えに従う必要性

質間 善行とひろい慈悲心で祝福されている人々、賞讃すべき人格を持つ人々、すべての創造物に愛と優しさをもって接する人々、貧しい人の世話をする人々、世界平和確立のため努力へする人々―-そのような人々には神の教えの何が必要なのでしょうか。確かに彼らは神の教えから独立していると考えていますが。このような人々はどのような状態にあるのですか。

答 そうした善行、努力、言葉は賞讃すべきであり、認められるべきですし、人類の名誉であることを知りなさい。しかし、こうした行為だけでは十分ではありません。それらはこの上ない愛らしさの主体ですが、しかし精神が欠けています。いいえ、永遠の命と名誉、普遍的啓もう、真の救いと繁栄のもととなるものはまず第一に神の知識です。神の知識は、あらゆる知識を超えるものであり、人間世界の最大の名誉です。ものごとの実体についての今ある知識には物質的利益があり、それによって外界の文明は進歩発展します。しかし神の知識は、精神的進歩と引力のもとであり、それによって真の理解、人間性の高揚、神の文明、道徳と啓もうの正しさが得られます。

二番目に来るものは、神の愛です。神の愛の光は、神を知る人の心の灯に光り輝いています。その光り輝く光線は、地平線を照らし、人間に神の王国の命を与えます。事実、人間存在の果実は神の愛です。神の愛は命の精神であり、永遠の恩恵だからです。もし神の愛がなければ人の心は死に、存在の感動はないでしょう。神の愛がなければ精神的統合は失われ、和合の光は人類を照らさないでしょうし、東西が二人の恋人のように抱擁しあうこともないでしょう。神の愛がなければ分裂と不和は同胞愛に変わることもないし、無関心が愛情に終わることもなく、見知らぬ人が友人になることもないでしょう。人間世界の愛は神の愛から輝き出たのであり、神の恩恵と恩寵によって現れでたのです。

人間の実体はさまざまであり、意見はいろいろに分かれ、感情はまちまちであることは明らかです。そして人間にあるこうした意見、思考、知性、感情の相違は、本質的必然から生じます。創造物の存在の段階にある相違は存在の必然の一つであり、無数の姿となって現れます。

そこで、すべての人の感情、意見、思考を支配する普遍的な力が必要です。この力のお陰でこれらの分裂はもはや影響力がなくなり、個々の人々は人類世界の和合の影響力のもとに導かれるのです。それはさまざまな人々を愛情のテントの陰に導き、敵対意識のある国家や家族にこの上ない愛を和合をもたらします。

ごらんなさい。キリストの出現以来、神の愛の力によって、どれほど多くの国家、民族、家族、種族が、神の言葉の陰に結集したことでしょう。一千年もの間の分裂と不和が完全にうちくだかれ、取り払われました。人種とか祖国といった思想は完全に消え失せました。魂の和合、生活の和合が生じ、すべての人が本当の精神的キリ.スト教徒となりました。

人間性の第三の美徳は善行の基礎である善意です。ある哲学者は意志を行為より優れているものと考えました。善意は絶対的光であり、利己心、敵意、ごまかしといった不徳から浄化され、聖別されたものだからです。ところで、人は一見正しいように見えるが、実は貧欲に指示された行為をとることがあり得ます。たとえば肉屋は羊を飼い保護します。しかし、肉屋のこうした正しい行為は、利益を得たいという欲望にかられたものであり、この保護の結果はあわれな羊の屠殺です。いかに多くの正しい行為が貧欲によってなされていることでしょうか。しかし、善意はそのような不純から聖別されています。

簡単に言えば、神の知識に、神の愛、引力、喜悦、善意が加えられてこそ、正しい行為は完全になり、完成されます。さもなければ善行は賞讃すべきものではあっても、神の知識、神の愛、誠実な動機によって支えられていなければそれは不完全です。人間という存在は、完全であるためにあらゆる美徳を兼ね備えていなければなりません。たとえば視力は実に貴重な感謝すべきものですが、聴力によって援助されなければなりません。聴力は大いに感謝すべきものですが、しゃべる力によって助けられなければならないといった具合です。人間の他の能力、器官、肢体についても同じです。これらの力、感覚器官、肢体がともに備わって、始めて人間は完全になります。

さて今日、真実、普遍的善を願う人々、また力の及ぶ限り抑圧されている人々の保護と貧しい人の援助に専念する人々にであいます。彼らは平和と全人類の安寧に熱狂しています。この限りにおいて彼らは完全であるかも知れませんが、もし彼らが神の知識と神の愛を持っていなければ、彼らは不完全です。

医師であるガレン氏は、プラトンの政治方法論を論評する彼の著作の中でこう言っています。宗教の基本的原理は、理想的な文明に非常に大きな影響を及ぼす。なぜなら、「大衆は説明されている言葉の結びつきが理解できない。そこで、他界の報酬と罰を告げる象徴的言葉が必要である。」「この断言の真実を証明するものは、今日、報酬と罰を信じているキリスト教と呼ばれる人々がおり、この宗派は、真の哲学者が行うような美しい行為を見せることである。そして彼らは死を恐れず、大衆に正義と平等以外のものを望まず、彼らは真の哲学者と見なされることがはっきりわかる。」と。

ここで、キリストを信じている者の誠意、熱誠、精神的感性、友情に対する感謝の気持ち、善行はどの程度であったか考えてください。哲学者的医師であったガレン氏は、キリスト教徒ではありませんでしたが、こうしたキリスト教信者の美徳や道徳を証言して、彼らは真の哲学者であると言い切るほどでした。これらの美徳、道徳は善行を通してのみ得られたのではありません。し美徳が単に善を得たり、与えたりするだけのものであるならば、このランプが灯されてこの家を照らしているのに―疑いもなくこの明かりは有益ですなぜ私たちはこのランプを賞讃しないのでしょう。太陽は地上のすべての生き物を増やします。そしてその熱と光は成長発達を促します。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。それにもかかわらず、この善は善意からでたものではなく、神の愛、神の知識から生まれたものではないので不完全なのです。

これに反し、ある人が他の人に一杯の水を与える場合、後者は彼をありがたく思い、感謝します。ある人は深く考えることもしないで、こう言うかも知れません。「世界に光を与える太陽、その明らかな至高の恩恵は、崇拝され、賞讃されるべきである。我々はほんの小さな親切をする人を賞讃するのに、なぜ太陽の恩恵に対して感謝しないのだろう。」と。親切は、はっきり意識された感情から出たものであるので賞讃に価しますが、もし神の愛、神の知識から生まれたものでなければ、それは不完全です。さらに公正に考えてみるならば、神を知らない人たちのこうした善行も、根本的には神の教えの導きによってなされていることがわかります。―つまり、昔の予言者たちが、人々にこうした行為をするように導き、善行の美しさを説き、そのすばらしい効果を宣言したのです。やがてこれらの教えは人々の中に普及し、次々と人々の心を動かし、その心をこうした美徳へと振り向かせたのです。こうした行為が美しいものと見なされ、人類の喜びと幸せのもとになることが理解され、人々はそれに従うようになったのです。

ですから、こうした善意もまた神の教えから生じるのです。このことを理解するには、論争や討論ではなく正義が必要です。ありがたいことに、皆さんはペルシャを訪れ、ペルシャ人がバハオラの聖なる微風を受けて、いかに人類に対して慈悲深くなったかを目撃されました。以前には、別の人種に会えばその人を悩ませ、激しい敵意、憎悪、悪意に満ちて、汚物を投げつけたりするほどでした。福音書や旧約聖書を燃やしたり、これらの書に触れて手が汚れたといっては手を洗ったりしました。今日では、彼らの大多数がこれら二つの聖典の内容は立派なものであると親しく相集まって暗誦し、吟誦し、その深遠な教えを解釈します。彼らは敵を厚くもてなし、神の愛の平原にいるガゼルのように、血に飢えた狼に優しく接します。皆さんは彼らの風俗習慣を知っており、以前のペルシャ人の振舞について聞いています。この精神の変革、言動の改善、これらは神の愛による以外に可能なことでしょうか。いいえ、絶対に可能ではありません。学問と知識の助けによってこれらの道徳と習慣を取り入れようとするならば、真実、千年もかかることでしょう。しかも広く大衆に行き渡ることはないでしょう。.

今日、神の愛のおかげで、それらはいともたやすく達成されます。

知性の所有者たちよ、注意深くあれ!