第三部 神の顕示者たちの力と状態について

第三部   神の顕示者たちの力と状態について

三十六、精神の五つの段階  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三十七、神は、神の顕示者を通してのみ理解される  ・・・・・・・・

三十八、神の顕示者の三つの地位  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三十九、神の顕示者の人間的状態と精神的状態  ・・・・・・・・・・

四十、  神の顕示者の知識  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四十一、宇宙の周期  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四十二、神の顕示者の力と影響  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四十三、二種類の予言者  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四十四、予言者が神から受ける譴責について  ・・・・・・・・・・・・・

四十五、アクダスの書にある「啓示の夜明けであるお方には、その最も偉大な不謬性を共有する者はいない。」という一節について  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

三十六、精神の五つの段階

一般に、精神には五つの区分があることを理解しなさい。まず第一は、植物の精神です。これは、至高の神の命令による元素の結合と物質の混合によって生じる力、さらに、その他の存在物の結合、作用、影響によって生じる力です。これらの物質や元素がばらばらになると成長力も失くなります。別な言い方をすれば、電気は元素の結合から生じ、これらの要素が切り離されると電力は分散され、失なわれます。植物の精神とはそのようなものです。

次は、動物の精神です。これもまた、元素の結合と混合から生じます。しかし、この結合はもっと完成なものであり、全能なる主の命令によって完全な結合が得られ、動物の精神――別な言葉で言えば感覚力――が生み出されます。この感覚力は、見えるもの、聞こえるもの、食べられるもの、触れられるもの、嗅いを嗅ぐことのできるものからものの実体を感じ取ります。結合している元素が分離、分解すると、この精神もまた自然に消えてしまいます。それは皆さんが見ているこのランプのようなものです。油と芯と火が一緒になると光が生じます。しかし、油が無くなり、芯が使い果たされると光も消え失せてしまいます。

人間の精神は、鏡の上に輝いている太陽の恩恵にたとえることができます。元素から組み立てられている人間のからだは、最も完全な形に結合され、混合されています。それは最も堅固な構造物であり、最も高貴な結合体であり、最も完全な存在です。それは、動物の精神を通して成長発達します。この完成された身体は鏡にたとえられ、人間精神は太陽にたとえられます。たとえ鏡が割れても、太陽の恩恵は持続します。鏡がこわされたり、存在しなくなっても、永遠である太陽の恩恵には何の被害もありません。この精神は発見する能力があり、万物をとりまいています。これらすべてのすばらしい徴、科学的発見、偉大な事業、誰もが知っている重要な歴史上の出来ごとは、この人問精神によっています。それらは精神の力によって、目に見えない隠された領域から目に見える平原に引き出されました。人間はこの地上にいて、天国のいろいろな発見もします。知られているものから――つまり目で見て知っているものから――まだ知られていないものを発見します。たとえば、人はこの半球にいても、コロンブスのように理性の力によって、それまで知られていなかった別の半球――つまりアメリカ――を発見するのです。人間のからだは重いですが、人間の発明した乗り物の助けによって飛ぶことができます。人間はゆっくりと運動しますが、人間の発明した乗り物によって、非常な速さで東西を旅します。要するに、この力は万物を包みこんでいます。

ところで、人間の精神は二つの面があります。一つは神性であり、もう一つは悪魔性です。――つまり、それは至高の完全さにもなり得るし、最低の不完全さにもなり得ます。もし人間の精神が美徳を獲得すれば、存在するもののうちで最も高貴なものとなります。もし悪徳を獲得すれば、救いようもなく堕落した存在になります。

精神の第四段階は天国の精神です。それは信仰の精神であり、神の恩恵です。それは聖霊の息吹きから生まれ、神の力によって永遠の命のもとになります。それは世俗的人間を天国の人間とし、不完全な人間を完全な人間にする力です。この精神は不純な者を純粋な者とし、無口な者を有弁にします。肉欲にとりつかれている者を純潔にし、聖別します。無知な者を賢者にします。

第五の精神は聖霊です。この聖霊は、神と神の創造物間の媒介者です。それは太陽に向いている鏡のようなものです。汚れのない鏡が太陽から光を受け、その恵みを他に移すように、聖霊は真理の太陽から来る聖なる光の媒介者であり、聖別された実体へ聖なる光を施します。それは、神のあらゆる完全性で飾られています。聖霊が現われるたびに世界は新しくされ、新しい周期が築かれます。人間世界というからだは新しい衣を身に着けます。それらは春にたとえることができます。春が来るたびに、世界は一つの状態から別の状態に変化します。春の季節の到来によって、黒い大地や野原や荒野は青々とし、花が咲き乱れます。さまざまな花や良い香りのする草が育ちます。木々は新しい命を得て、新しい果実が現われます。そして新しい周期が築かれます。聖霊の出現もこのようなものです。聖霊が現われる時はいつも人間界を新しくし、人問に新しい精神を与えます。それは存在の世界を賞讃すべき衣服で飾り、無知の暗黒を吹き払い、美徳の光の輝きのもととなります。キリストは、この力によってこの周期を新しくしました。この上ない新鮮さと甘美さを伴っている天国の春は、人間世界にそのテントを広げ、命を与えるそよ風は教化された人々の鼻孔に香り高く匂いました。

同じようにバハオラの出現は、聖なるそよ風と永遠に続く命の持ち主たちと天国の力を伴ってあらわれた新しい春のようでした。それは世界の中心に神の国の玉座を確立し、聖霊の力によって魂を復活させ、新しい周期を確立しました。

三十七、神は神の顕示者を通してのみ理解される

質問 神の本質は、壮麗なる昇る所と神の夜明けの地とどのような関係があるのですか。

神の本質、あるいは一体性の精髄の本質は純粋に清浄であり、絶対的神聖であることを理解しなさい。――つまりそれは、あらゆる賞讃から聖別され、超越しています。この水準に関しては、存在の段階にあるすべての至高の属性は、単なる想像にすぎません。それは目に見えず、理解を越えた、近づくことのできない、表現できない純粋なものです。なぜなら、神の本質は万物を取り囲んでいるからです。まことに、包囲するものは包囲されるものより偉大です。そして包囲されているものが包囲するものを含むことはできませんし、その本質を理解することもできません。知性がいかに高度に発達し、理解力の最高段階、知力の極限に達したとしても、それは神の世界ではなく、創造の世界での神の徴や属性を見るにすぎません。なぜなら、一体性の主の本質と属性は神聖さの極みにあり、知性や理解力にとってその地位に近づく道はありません。「道はとざされ、探究は禁じられている。」

人間の理解力は人間存在の特質であり、人間は神の一つの徴であることは明らかです。であるならばどうしてその徴の特質が徴の創造者を包囲できるでしょうか。――つまり、人間存在の特質である理解力でどうして神を理解することができるでしょうか。ですから、神の本質はすべての理解から隠されており、すべての人の知性から秘められています。その水準に昇ることは絶対に不可能です。低い位置にある物は、高い位置にあるものの本質を理解する力がないことはわかっています。ですから、石、大地、樹木がどれほど進化したとしても、人間の本質を理解できません。それらも皆同じように創造されたものではありますが、それらは視力、聴力、その他の感覚の力を想像することなどできません。それゆえ、創造されたものである人間がどうして純粋な創造者の本質を理解できるでしょうか。この水準は、理解力によって近づくことはできません。それを理解するにはどんな説明も充分ではありませんし、それを表現するどんな力もありません。塵の原子が、清浄の世界とどう関われるのでしょうか。知性は神を理解するには無力ですし、魂は神を説明する段になると狼狽してしまいます。「肉目は神を見ないが神は肉目を見る。神はすべてを知り給う全知者に在します。」(コーラン6:104)

要するに、この存在の水準に関しては、どのような発言も説明も不完全ですし、どのような賞讃も叙述も無価値であり、どのような概念も空しく、どのような眼想も役に立ちません。しかし、この本質中の本質、この真理中の真理、この神秘中の神秘について、存在の世界に反映、輝き、あらわれ、きらめきがあります。これらの輝きの差し昇る所、これらの反映の場所、こうしたあらわれの出現は、聖なる黎明の地であり、宇宙普遍の本質であり、それらは神聖な者たちであり、聖別された神の本質を映しだす真の鏡です。神から生まれ出るあらゆる完全性、恩恵、輝きは、聖なる顕示者たちの本質の中にはっきり見られます。それはあたかも太陽が、一点の曇りもなく磨きあげられた、澄んだ鏡にそのすべての完全性と思恵を伴って輝いているようなものです。仮に、その鏡が太陽を顕示するものであり、星の昇る審明の地であるとしても、それは太陽が神聖なる高所から降ってきて鏡と一体になってしまったとか、あるいは無限の本質がこの出現の場所に限定されるということを意味するものではありません。絶対にそうではありません。これは、神人同形同性論者の信条です。そうではなく、あらゆる賞讃、叙述、賞揚は聖なる顕示者について言われているものです。――つまり、私たちが口にするすべての叙述、特質、名称、属性は神の顕示者に帰すのです。それにしても誰一人、神の本質に到達したことはないのですから、誰もそれを叙述したり、説明、賞讃、讃美することはできません。ですから、人間の本質が神の名称、属性、完全性について知り、発見し、理解するすべてのことはこれらの聖なる顕示者にあてはまるのです。ほかに神に接近する道はありません。「道はとざされ、探究は禁じられている。」

それにもかかわらず、私たちは聖なる本質の名称や属性について語り、視力、聴力、力、命、知識を神からの賜物であるとして神を賞讃します。私たちがこれらの名称や属性を断言するのは、神の完全性を証明するためではなく、神は不完全であるということを否定するためです。現存する世界を見れば、無知は不完全であり、知識は完全であることがわかります。ですから、聖別された神の本質は英知であるといいます。弱さは不完全であり、力強さは完全です。したがって聖別された神の本質は力の頂点であるといいます。といっても、それは私たちの理解を越えたものなのですから、私たちは神の知識や視力、力や命を理解できるということではありません。なぜなら、神の本質的名称や属性は神の本質とまったく同じものであり、神の本質はすべての理解を超越しているからです。もし、それらの属性が本質と一致しないならば先在が多数あることになり、さらに、本質と属性の間に相異もあることになってしまいます。先在は必然のことですから、したがって先在が限りなく起こることになってしまいます。これは明らかな誤りです。

したがって、あらゆるこうした諸属性や名称、賞讃や讃美の言葉は、顕示者の地位に適用されるのです。そして、それ以外のことについて私たちが想像したり、推測したりすることは単なる空想です。なぜなら、私たちは目に見えないものや、近づくことのできないものを理解する手段を持たないからです。「あなたの明敏な知的イメージの中で、あなたが想像力の幻影によって区別したすべてのものは、あなた自身に似た創造物であるに過ぎない。そして、それはあなたに帰っていく。」(ハディース〔訳注イスラムの伝承〕より)と言われることの理由です。私たちが神の本質を想像しようとする場合、この想像は包囲されたものであり、私たちが包囲するものとなることは明らかです。そして、包囲するものは、包囲されるものより偉大であることは確かです。このことから、もし私たちが聖なる顕示者から離れて神の本質を想像するならば、それは全くの想像であることは確かであり、明らかなことです。神の本質は、私たちから切り離されてはいませんがそれに近づく道はないからです。そして、私たちが想像するすべてのものは単なる推測にすぎません。

そこで、世界中のさまざまな人々は、想像のまわりを堂々めぐりし、いろいろな想念や推測の作りだす偶像を礼拝しています。彼らはこのことに気づいていません。彼らは自分たちの想像があらゆる認識から導き出され、すべての叙述から浄化された本質であると見なしています。彼らは自分たちこそ、 一体性(神)の民であると見なし、他の人たちを偶像崇拝者であると見なしています。しかし、偶像には少なくとも鉱物としての存在がありますが、人間の想念と想像の偶像はただの空想にすぎません。それらは鉱物としての存在すらありません。「気をつけよ。洞察力を授けられている者たちよ。」(コーラン59:2)

完全性の諸属性や神の恩恵の輝き、霊感の光は、すべての聖なる顕示者の中にはっきり見ることができるということを理解してください。栄光ある神の言葉であるキリストも、そして最大名であるバハオラも、想像をはるかに越えた顕示であり証拠です。なぜなら、彼らはそれ以前の神の顕示者たちのすべての美徳を備えているばかりでなく、それ以上に他の顕示者たちを服従させるある完全性を兼ね備えています。ですから、イスラエルの全予言者は霊感の中心でしたし、キリストもまた霊感の受信者でしたが、神の言葉の霊感とイザヤ、エレミヤ、エリヤの啓示との間には、何と大きな相違があることでしょうか!

光は、エーテル物質の振動の表現であることを思い出してください。目の神経は、このような振動の影響を受けて視覚が生まれます。ランプの光は、エーテル物質の振動によって存在します。太陽の光もまた同じです。しかし、太陽の光と星やランプの光との間には、何と大きな相違があることでしょう!

人間の精神は、胎児の状態のときにあらわれ、明らかになります。また、子供の状態、成人の状態のときにもはっきりしますが、完全性を得た状態においてよりはっきりと光り輝きます。精神は一つですが、胎児の状態のときには視力と聴力を欠いています。成人し完全になるとこの上ない輝きの中にあらわれます。同じように、種子は初め葉になります。そこに植物精神があらわれています。――つまり、成長力が最も完全にあらわれます。しかし、葉の状態と果実の状態の間には何と大きな相違があることでしょうか!なぜなら、どちらも同じ植物精神によって成長し、発達するのですが、果実からは何十万という葉があらわれるのです。キリストの美徳、完全性、バハオラの輝きと、エゼキエルやサムエルのようなイスラエルの予言者たちの徳性の差に気づいてください。すべては、霊感の顕示者たちでしたが、彼らの間にはとてつもなく大きな相違があります。ではごきげんよう!

三十八、神の顕示者の三つの地位

聖なる顕示者は永遠の美徳の段階にありますが、それにもかかわらず、一般的に言ってただ三つの地位しかないことを知りなさい。第一の地位は肉体的なもの、第二は人間的なもの、つまり理性的魂の地位、第三は神性のあらわれと天の輝きを備えた地位です。

肉体としての地位は現象的なものです。肉体は元素から組み立てられており、組成されるものはすべて必然的に分解されなければなりません。組成された物が分解されないということはあり得ません。

第二は、人間の実体である理性的魂としての地位です。これもまた現象的なものであり、聖なる顕示者は全人類と共にこれを共有しています。人間の魂はこの地上に果てしない時間、世代を通じて存在してきたのですが、それでもそれは現象的なもの(その誕生において)であることを理解しなさい。人間の魂は神の証しですから、いったん存在するようになれば永遠のものとなります。人間の精神には初めがありますが終わりはありません。それは永遠に続きます。同じように、地上に存在する種も現象的なものです。なぜなら、これらの種が地上に存在しなかった時代があることは一般に認められていることです。さらに地球もまた常に存在していたのではありません。しかし、存在の世界は常に存在しました。宇宙はこの地球に限られていないからです。この意味するところは、人間の魂は現象的なものですが、それにもかかわらず、不滅であり、永遠永久のものであるということです。なぜかと言えば、人間の世界は物の世界に比べれば完全の世界だからです。不完全なものが完全なものの地位に到達すれば、それらは永遠のものとなります。これは、皆さんが意味を理解しなければならないもののひとつです。

第三の地位は、神性のあらわれと天の輝きとを備えた地位です。それは神の言葉であり、永遠の恩恵であり、聖霊です。それには始まりも終わりもありません。なぜなら、始めや終わりといったものは依存している世界に関係しているものであり、神の世界には関わりありません。神にとって、終わりは始まりと同じものです。ですから、日、週、月、年を数えたり、昨日、今日と数えたりすることは地球に関係のあることで、太陽にはそうしたことはありません。同じように、神の言葉はこれらの状態から全く浄化されており、依存している世界にある境界線、法律、制限と言ったものはありません。ですから、神の言葉であり、顕示の完全な地位である予言者の本質には、始まりもありませんでしたし、いかなる終わりもないでしょう。その出現は他のあらゆるものと異なっており、それは太陽の上昇に似ています。たとえば、キリストというしるしにおけるその夜明けは、至高の壮麗さと輝きを伴っておりました。そしてこれは永遠不滅です。他国を征服した王はどれほどたくさんいたことでしょう。政治家、王子、有力な組織者も数えきれないほどおりましたが、彼らは皆、姿を消しました。ところが、キリストの微風は今もなお吹いています。彼の光は今なお輝いています。彼のメロディーは今なお鳴り響いており、彼の旗は今なおたなびき、彼の軍隊は今なお戦っており、彼の天国の声は今なお甘美なメロディーを奏で、彼の雲は今なお宝石を降りそそぎ、彼の稲妻は今なお光っており、彼は今なおはっきりと輝いています。彼の壮麗さは今なお輝いており、そして彼に保護され、彼の光に輝く人々についても同じです。

そこで、神の顕示者には、三つの状態があることは明らかです。肉体的状態、理性的魂の状態、神性のあらわれと天国の壮麗さを備えた状態の三つです。肉体的状態は必ず分解されますが、理性的魂の状態には始めはありますが終わりはありません。それどころか、不滅の命を与えられています。聖なる神の本質についてキリストは「父は子の中にある。」と言っています。それには始まりも終わりもありません。始めと言われている場合は、出現の状態を意味しています。象徴的に言えば、沈黙の状態は睡眠にたとえられます。たとえば、一人の人が眠っている。――彼がしゃべり始めるとき彼は目覚めている。――しかし、常に同一の人です。彼が眠っていようと目覚めていようと、彼の地位、気品、栄光、本質、性格には何の相違も起きてはいません。沈黙の状態は睡眠にたとえられます。そして、顕示の状態は覚醒にたとえられます。人が眠っていようと目覚めていようと同じ人です。睡眠は一つの状態であり、覚醒はまた別の状態です。沈黙の時は睡眠にたとえられ、顕示と導きは覚醒にたとえられます。

福音書の中で、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった。」(ヨハネ1:1)と言われています。そこで、キリストは聖霊が鳩の姿をして彼の上に降りた洗礼の時に至って、顕示者としての地位、その完全性の地位に到達したのではないことがはっきりします。いいえ、神の言葉は永遠の昔から存在しており、またこの先も気高く聖別されて存在するでしょう。

三十九、神の顕示者の人間的状態と精神的状態

顕示者には、三つの面があることをお話しました。第一は物質としての実体であり、それは肉体に依存します。第二は個人としての実体、すなわち、理性的魂です。第三は神性のあらわれです。それは神の完全性であり、あらゆる存在の命の根源、魂の教育の根源、人々の導きの根源、依存している世界を光明化する根源です。

物質としての状態は、やがて亡びる人間としての状態です。それは元素によって構成されており、元素によって構成されているものはすべて必然的に分解され、消散するものだからです。

しかし、神の顕示者の実体は聖なる実体であり、その理由によりそれは聖別されており、その性質と特質に関わるものにおいては、万物から区別されています。それは、太陽のようなものです。太陽はその本質的性質により、光を生み出しており、月と比較し得るものではありません。それは、太陽の球体を作っている粒子は月を構成している粒子とは比べものにならないことと同じです。前者の粒子と組織は光線を生み出しますが、月を構成している粒子は光を生み出すことはできず、光を借りる必要があります。ですから、その他の人間の実体は、月のように太陽から光を受けとる魂です。しかし、聖なる真理は、彼自身で光り、輝いているのです。

その存在(顕示者)の第三の面は、神の恩恵であり、先在の美の壮麗さ、そして全能なるお方の光の輝きです。神の顕示者に独特な本質は、神の恩恵と主の壮麗さから分離することはできません。同じように太陽の球体は、光から切り離せないものです。ですから、聖なる顕示者の昇天は、単にこの元素から成る姿を去ることであると言えます。たとえば、ランプがこのニッチ(訳注=花びん、像などを置くための壁の凹み)を照らしているとします。そこでニッチがこわされてランプの光が照らさなくなったとしても、ランプの恵みが断たれたのではありません。要するに、聖なる顕示者においては、先在の美はこの光のようなものであり、個性はガラスのほやによってあらわされており、そして人間のからだはこのニッチのようなものです。もしニッチがこわされたとしても、ランプは燃え続けます。神の顕示者たちは実にさまざまな鏡です。しかしそれらの鏡に映るものはたった一つの太陽です。キリストの本質がモーゼの本質と異なることは明らかなことです。

まことに、この聖なる真理(顕示者)は、初めから存在の秘密を意識しており、子供の時から偉大さのしるしが彼の中にはっきりあらわれています。ですから、彼がこれらすべての恩恵や完全性を意識していないということがあり得るでしょうか。

聖なる顕示者は、三つの面があることを述べました。肉体的状態、個人としての状態、そして完全性のあらわれの中心の三つです。それは、太陽とその熱、光のようなものです。その他の人々は、肉体的面と理性的魂の面――精神と心意を持っています。そこで、「私は眠っていた。すると聖なる神の微風が私の上を吹いて私は目醒めた。」という言葉は、キリストの言葉、「肉体は悲しい。が、精神は幸福である。」に似ています。あるいはまた、「私は苦しみ悩んでいる。」あるいは「私は安らかである。」「私は困っている。」――これらの言葉は肉体的状態について言っているのであり、個人の実体にとっても、神の真理の顕示にとっても、何の関わりもありません。人間の肉体には何千という浮き沈みが起こることを考えてごらんなさい。しかし、精神はそれらによって影響されません。あるいは肉体の一部が全くかたわになるかもしれません。が、心意の本質は依然として変わりなく不滅です。衣服にはたくさんの出来事が起こるかもしれません。しかし、服を着ている者には何の危険もありません。「私は眠っていた。すると聖なる微風が私の上を吹いて、私を目醒めさせた。」というバハオラの言葉は、肉体について言っているのです。

神の世界には過去も現在もありません。すべては一つです。それゆえキリストの言った「初めに言葉があった。」(ヨハネ1:1)という意味は、それは過去にあり、今もあり、未来にもあるということです。なぜかと言えば、神の世界には時はないからです。時は創造物には影響を及ぼしますが、神には及ぼしません。たとえば祈りの際に彼の言う(御名のあがめられますように。)という言葉の意味は、「おんみの御名は過去も、今も、未来にもあがめられるであろう。」(マタイ6:9、ルカ11:2)ということです。朝、昼、晩はこの地上に関わるものであって、太陽にとっては朝も昼も夜もありません。

四十、神の顕示者の知識

質問 神の顕示者が持つ力の一つは知識です。それはどの程度限定されるのですか。

知識は二種類あります。一つは主観的なものであり、もう一つは客観的知識――つまり直感的知識と知覚から得られる知識とです。

人間が一般的に持っている物ごとについての知識は思考によるか、あるいは証拠によって得られます。――つまり心意の力によって対象物の概念が形づくられるか、あるいは対象物を見ることによって形体が心の鏡に作られるかのどちらかです。というのは、それは努力と到達度にかかっているからです。

しかし、第二の種類の知識、つまり存在についての知識は直感的です。それは、人間に備わっている認識や意識といったようなものです。

たとえば、人間の心意や精神は、からだの五体や構成各部のいろいろな状態を認識しており、さらにいろいろな肉体的感覚のすべてを意識しています。同様に、人間は自らの力や感情や精神状態を意識しています。これは、人が理解し、実感する存在についての知識です。なぜなら、精神は肉体を包容しており、肉体の感覚や力を意識しているからです。この知識は努力や学習から生まれるものではありません。それは存在しているものであり、純粋な賜物です。

聖別された本質である至高の顕示者は、創造物の本質と特質を包容し、存在している実体を超越し、しかも含んでおり、万物を理解しています。ですから、彼らの知識は神の知識であり、獲得されたものではありません。――つまり、それは聖なる恩恵であり、神の啓示です。

この問題をはっきりと理解するために、一例をあげましょう。地上における最も高貴な存在は人間です。人間は動物界、植物界、鉱物界を包容しています。――つまり、これら各界の状態は、人間がこれらのものの条件、状態の所有者である程度に応じて人間の中に含まれています。人間は、各界の神秘とそれらの存在の秘密に気づいています。これは単に一例であって類推ではありません。簡単に言えば、至高の顕示者は万物の神秘の実体に気づいているということです。顕示者――つまり聖なる法の賦与者――が、万物の実体を気づいていないならば、万物の実体か生じる必須のつながりを認識できないでしょうし、事実に合った、それらの状態にふさわしい宗教を確立することもできないでしょう。神の予言者、至高の顕示者は、熟達した医師にたとえられ、この依存している世界は人間のからだであり、神の法は治療であり、処置であるとたとえられます。したがって医師は患者のからだの様子や状態はもちろん、五体やあらゆる器官について知っていなければなりません。その結果、医師は病気の猛毒に対する効めのある薬を処方できるのです。実際には、医師は病気そのものから病人に適した処方を導き出します。なぜなら、彼は病気を診断し、それからその病気に対する治療法を処方するからです。病気が分からないのに、どうしてその治療法や処置を指示することができますか。その上、医師は患者のからだの様子や五体、器官や様態について充分な知識を持っていなければなりません。そして、適切な薬を処方するためにあらゆる病気や治療法について知っていなくてはなりません。

そこで、宗教は、万物の本質から放射する必須のつながりです。そして至高の神の顕示者は万物の神秘に気づいているからこそ、彼らはこの必須のつながりを理解し、この知識によって神の法を確立するのです。

四十一、宇宙の周期

質問 存在の世界に起こる周期について、真の説明はどのようなものでしょうか。

果てしない大空に輝く天体には、それぞれ運行時間を異にする回転周期があります。そして、それらの一つ一つはそれ自身の軌道を回転し、再び新しい回転を始めます。そこで地球は、三百六十五日五時間四十八分と少々で一回転を完了します。そして新しい周期が始まります。――つまり始めの周期がまた新しくなります。同様に、天国であろうと人間の世界であろうと、全宇宙にも、大異変、重大な事実、あるいは事件の周期があります。一周期が終わると新しい周期が始まります。そして古い周期は勃発する大異変のために完全に忘れ去られ、その根跡も記録も残りません。この地球上の生命はたいへん古いものであることを論証によって立証しましたが、皆さんもご存じのように、二万年前の記録は何もありません。それは十万年、二十万年、あるいは百万年、二百万年といった古さではなく、とてつもなく古いものです。そして、古い記録や根跡は完全に抹殺されています。

神の顕示者の一人一人にも同じような周期があります。その周期が続いている間に、彼の法や戒律は広まり実施されます。新しい顕示者の出現によって彼の周期が完了すると新しい周期が始まります。このように周期は始まり終わって新しくされます。世界で宇宙の一周期が完了すると重大な事件や大きな異変が起こって過去のあらゆる根跡や記録を消し去ってしまいます。それから新しい字宙の周期が世界に始まります。なぜなら、この宇宙には初まりがないからです。この問題については以前に証拠や証明を述べましたので繰り返す必要はありません。

要するに、この存在の世界における宇宙の周期は、長い時間の継続、計算しきれないほど膨大な時間、時代を意味しています。そうした周期の中に、顕示者たちは目に見える領域に堂々と出現します。そして遂に偉大な至高の顕示者が世界を彼の輝きの中心とします。彼の出現は、世界を成熟させるもととなります。そして彼の周期の広がりは実に偉大です。その後にまた別の顕示者が彼の陰のもとに台頭するでしょう。そして彼の下陰に留まりつつ時代の要求に応じて、物質的事態や問題に関する戒律を更新するでしょう。

私たちは、アダムと共に始まった周期の中にいます。そしてその至高の顕示者はバハオラです。

四十二、神の顕示者の力と影響

質問 真理の玉座である神の顕示者たちの持つ力と完全性はどの程度ですか。また、彼らの影響力の限界はどの程度ですか。

存在の世界――つまり物質の世界――について考えてごらんなさい。太陽系は暗くぼんやりしています。その中で太陽は光の中心であり、太陽系のすべての惑星は太陽の力のまわりを回転しており、太陽の恵みの分け前を受けています。太陽は命と輝きのもとであり、太陽系にある万物の成長発達の手段です。太陽の恵みがなければどんな生き物も存在できないし、すべては暗黒になり、破壊されてしまいます。ですから太陽は光の中心であり、太陽系に存在するものの命のもとであることは明らかです。

同じように、聖なる神の顕示者は真理の中心であり、神秘の根源の中心、愛の恵みの中心です。彼らは心と思想の世界に光り輝いており、精神の世界に永遠の恵みを降り注いでいます。彼らは精神的命を与え、真理と目的の光をともなって輝いています。思想の世界の教化は、こうした光の中心と神秘の源から生じます。これらの聖なる存在の輝きや指示の恩恵がなければ、魂と思想の世界はもうろうとした暗黒の世界になるでしょう。それらの神秘の源についての反ばくの余地のない教えがなければ、人間の世界は動物的欲望と特性の放牧場となり、万物の存在は非現実的なものとなるでしょう。そこには真の命はあり得ません。だからこそ、福音書に「初めに言葉があった。」(ヨハネ1:1)と言われているのです。言葉はすべての命の根源となったということを意味しているのです。

さて次に、地上の生き物に及ぼす太陽の影響力について、太陽が近い、遠い、あるいは、太陽の上昇、下降からどのようなしるしや結果がはっきり現われるかについて考えてみましょう。ある時は秋であり、ある時は春、はたまた夏や冬になります。太陽が赤道の線を通るときには、万物に命を与える春が輝いてあらわれます。そして夏至になれば果実は完成の極に達し、穀物や植物は実りを生じ、地上の生き物は成長の最も完全な発達の域に達します。

同じように、神の創造の世界の太陽である聖なる神の顕示者が精神の世界、思想の世界、心の世界を照らせば、精神的春と新しい命が現われ、すばらしい春の力が目に見えるようになり、驚くばかりの恩恵がはっきりします。皆さんもお気づきのように、神の顕示者が出現するたびに心意の世界、思想の世界、精神の世界に驚くべき進歩が生じました。たとえば、この聖なる時代に心意の世界、思想の世界にどれほど進歩があったかを理解してください。しかもそれはまだ夜明けが始まったばかりです。まもなく新しい恵みと神の教えがこの暗い世界を照らし、このみじめな地域をエデンの楽園に変えるでしょう。

個々の聖なる顕示者のしるしと恩恵を説明するには長時間が必要です。ご自分でよく熟考してください。そうすればこの問題の真理に到達するでしょう。

四十三、二種類の予言者

質問 予言者は何種類あるのですか。

一般的に言って、予言者には二種類あります。一つは人々が信奉する独立した予言者であり、もう一つは独立しているのではなく、彼ら自身信者である予言者です。

独立した予言者は法を与える者であり、新しい周期の創始者です。彼らの出現によって世界は新しい衣を着け、宗教の基礎は確立され、新しい書物が示されます。何の媒介もなしに、彼らは神の真理から恵みを受けます。彼らの輝きこそ本質的な輝きです。彼らは自ら輝く太陽のようなものです。光は太陽の本質的必然であり、他のいかなる星からも光を受けません。これらの一体性の朝の夜明けの場所は恩恵の源であり、真理の精髄の鏡です。

他の予言者たちは信者であり、推進者です。彼らは枝であり、独立してはいないからです。彼らは独立した予言者の恵みを受け、普遍的予言者の導きの光によって予言します。彼らは月のようなものであり、自ら輝くことはなく、その光を太陽から受けています。

独立して出現する普遍的予言者としての顕示者たちはたとえば、アブラハム、モーゼ、キリスト、マホメット、バブ、バハオラです。その他の信者であり、推進者である予言者は、ソロモン、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルのような人たちです。なぜなら、独立した予言者たちは創造者だからです。彼らは新しい宗教を確立し、人間を新しい創造物にします。彼らは一般道徳を変更し、新しい習慣と規則を推進し、周期と神の法を新しくします。彼らの出現は春の季節のようなものです。地上のあらゆる生き物を新しい衣で盛装させ、それらに新しい命を与えます。

信者である第二種の予言者たちもまた、神の法を推進し、神の宗教を知らせ、神の言葉を宣布します。彼らには独立した予言者たちから受けとる力以外に、彼ら自身の力はありません。

質問 仏陀や孔子はどの部類に属すのですか。

仏陀もまた新しい宗教を確立しました。孔子は道徳と古代の徳を一新しましたが、彼らの法は全く破壊されてしまいました。仏教徒や儒教徒たちの信条や儀式は、その基本の教え通りには続きませんでした。仏教の創始者はすばらしい魂の持ち主でした。彼は神の一体性を確立しましたが、後に彼の教義の独創的原理は序々に消え失せ、無知な習慣や儀式が起こって拡大し、ついに偶像や肖像を礼拝するようになってしまいました。

さて、よく考えてください。キリストは、五書にある十戒に従わなくてはならないとたびたび繰り返しました。そしてこの十戒は維持されるべきであると主張しました。十戒の中の一つには「いかなる絵、いかなる肖像も礼拝してはならない。」(出エジプト記20:4-5、申命記5:8-9)と言われています。現在、一部のキリスト教の教会にはたくさんの絵や肖像があります。ですから、神の宗教は、人々の間にその基本の原理を維持してはいません。それは序々に変化、変貌し、ついに完全に破壊され滅ぼされてしまったのです。こういうわけで、顕示者は新しくされ、新しい宗教が確立されます。それにしても宗教が変化、変貌しなければ、一新される必要もないのです。

木は初め、そのすべての美の中にあり、花や果実をたくさんつけましたが、しまいには年老いて全く実をつけなくなり、しおれ、朽ちてしまいます。そういう訳で真の庭師は、同じ種類の比類のない若い木を植え直すのです。その木は日に日に成長発達し、神の庭に広大な影を広げ、感嘆すべき果実を産み出します。神の宗教の場合も同じです。時の経過と共に、それはその本来の姿から変わってしまい、神の宗教の真理は完全に薄れ、その精神は失われてしまいます。異端が出現し、魂のないからだになります。それゆえ、宗教は一新されるのです。

現代の仏教徒や儒教徒たちは、肖像や偶像を礼拝しているということを言っているのです。彼らは神の一体性など全く無関心であり、古代ギリシャ人のように想像上の神々を信じています。しかし、初めはそうではなかったのです。全く違った原理や法令があったのです。

もう一度、どれほどキリストの宗教の原則が忘れ去られ、どれほど多くの異端があらわれているか考えてください。たとえば、キリストは復讐と違反を禁じました。さらに、傷害や悪を加えられても博愛と慈悲をもって応えるように命じられました。ここでよく考えてください。キリスト教の国自身の間にいかに残酷な戦争が起ったことか、どれほど多くの抑圧、残忍行為、強欲、流血ざたが起ったことでしょう。それらの多くはローマ法王の命令によって行なわれました。ですから、時の流れによって、宗教は完全に変わってしまうことがはっきりします。それゆえ、宗教は更新されるのです。

四十四、予言者が神から受ける譴責について

質問 どの聖典にも予言者に向けられた咎め、けん責の言葉があります。そのけん責は誰に向けられ、誰のためなのですか。

神に対するあらゆる講話には、咎めの言葉があります。それは明らかに予言者に向かって言われていますが、実際には人々に向かって言われているのです。全くの慈悲の英知によって、人々が勇気を失い、挫折することのないようにするためです。ですから、それらは予言者に向けられているように見えます。しかし、外見的には予言者に向けられてはいても、真実のところ人々に対して言われているのであって、予言者に対してではありません。

また、力のある、独立した王は、その国を代表しています。彼の言うことは万民の声であり、彼の結ぶ協定は万民の協定です。なぜなら、彼の臣民の希望や願いは、彼の希望や願いに含まれるからです。同じようにどの予言者も人類全体をあらわしています。ですから、彼に向かって言われる神の約束や言葉は、全員に向かって言われているのです。一般的に言って、咎めやけん責の言葉はどちらからと言えば、人々にとってあまりにも厳しすぎて胸が張り裂けるような気持ちにさせるでしょう。そこで神の完全な英知は、こうした言い方を使うのです。それは聖書自身がはっきり示しています。たとえば、イスラエルの人々が反抗してモーゼに「我々はアマレク族と戦えない。彼らは力に満ちており、強く勇敢だから。」と言った時、モーゼは背く心はなく、完全に服従していたにもかかわらず、神はモーゼとアロンを咎めました。神の恵みの媒介者であり、神の法をとりつぐそうとした偉大な人間は、当然、神の命令に従わなくてはなりません。こうした聖なる人々は、彼らの欲望によってではなく、吹く風によって動かされる木の葉のようなものです。なぜなら、彼らは神の愛の微風に引きつけられ、彼らの意志は従順そのものです。彼らの言葉は神の言葉であり、彼らの命令は神の命令であり、彼らの禁止は神の禁止です彼らはランプから光を受けるガラスのほやのようなものです。光はガラスから発射するように見えますが、実はそれはランプから輝いているのです。同様に、顕示の中心である神の顕示者にとって彼らの行動や休息は神の霊感からくるのであって、人間の激情から生まれるものではありません。もしそうでないならば、どうして予言者を信頼する価値があるでしょうか。また、神の命令や禁止をとりつぐ神の使者であり得るでしょうか。あらゆる聖典で顕示者たちについて述べられているすべての欠陥はこの種の問題について言われているものです。

皆さんがここへ来られ、神の僕たちに出会われたことに対して、神を讃えよ!皆さんは、彼らに神への喜びの香り以外のものを感じましたか。もちろん、感じられないでしょう。彼らは日夜、努力精進し、神の言葉の高揚、人々の教育、大衆の向上、精神の進歩、世界平和の普及、全人類への善意、あらゆる国への親切などの目的以外を持たないことをあなたご自身の目で見られたことでしょう。そして人類への親善のために自己を犠牲にして物質的利益から超越し、人類に徳を施そうと努力しています。

ところで、主題に戻りましょう。たとえば旧約聖書のイザヤ書四十八章十二節に「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル、わたしは神、始めであり、また終わりであるもの。」と述べられています。このことは、イスラエル人であったヤコブのことを意味しているのではなく、イスラエルの人々のことを意味していることは明らかです。また、イザヤ書四十三章第一節には、「ヤコブよ、あなたを創造された主は今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。」と述べられています。

さらに民数記二十章二十三節に「エドム領の海岸近くのホル山で、主はモーゼとアロンに言われた。アロンは先祖の列に加えられる。わたしがイスラエルの人々に与える土地に彼は入ることができない。あなたたちがメリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。」また十三節には、「これがメリバ(争い)の水である。なぜなら、イスラエルの人々が主と争い、また主はご自分の聖なることを示されたからである。」

ごらんなさい。イスラエルの人々が背いたのです。しかし、明らかに咎めはモーゼとアロンに向けられています。申命記の三章二十六節に言われているとおりです。「しかし主は、あなたたちゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」

さて、こうした講話や咎めは、真実イスラエルの人々について言っているのです。彼ら神の命令に背いたので長い間ヨルダンの対岸の乾燥した砂漠に捕われたのでした。それはヨシュア――彼が敬まわれんことを――の時まで続きました。こうした話しかけや咎めは一見モーゼやアロンに向けられているように見えますが、実はイスラエルの人々に向けられているのです。

同じようにコーランの中でもマホメットに向かって言われています。「われは汝に明らかな勝利を授けた。神が汝のこれまでの罪とその後の罪を許したもうためである。」(コーラン48:1―2)この言葉も一見マホメットに向けられているように見えますが、実際には人々に向けられているのです。前に述べたように、こうした言い方は人々の心を悩ませたり、心配させたり、苦しめたりしないようにするために、神の完全な英知が用いた方法でした。

神の予言者や神の至高の顕示者たちはその祈りの中で、自分たちの罪や過ちを告白することが何としばしばあることでしょうか!これは人々に教・え、彼らを勇気づけてけんそんと従順を身につけるようにしむけ、彼らの罪と過ちを告白する気を持たせようとする以外の何ものでもありません。なぜなら、こうした聖なる人々はあらゆる罪から浄化され、過ちから聖別されているからです。福音書の中に述べられています。ある人がキリストの所へ来て「良い師よ。」と呼びかけました。キリストは答えて「なぜあなたは私を良いと言うのですか。良いお方はひとりです。それは神です。」(マタイ19:16、17)このことは、キリストが罪人である―神よ許したまえ―と言っているのではありません。その意図は、彼が話しかけた人に服従とけんそん、従順、慎みを教えるためだったのです。こうした聖者たちは光であり、光は闇と一体にはなりません。彼らは命であり、生と死は混同されません。彼らは人を導くものであり、導きと過ちが一体となることはあり得ません。彼らは従順さの精ずいであり、従順と反抗は両立しません。

結論として、あらゆる聖典の中にある咎めの形でいわれている言葉は一見、予言者、すなわち神の顕示者に向けられているように見えますが、実際には人々に向かって言われているのです。聖典を丹念に調べてみればはっきりするでしょう。

では皆さんごきげんよう。

四十五、アクダスの書にある「啓示の夜明けであるお方には、その最も偉大な不謬性を共有する者はいない。」という一節について。

「啓示の夜明けであるお方(神の顕示者)には、その最も偉大な不謬性(絶対誤りのないこと)を共有する者はいない。」と聖句に言われています。真実、彼は創造の王国で「神は望むことを成し給う。」という言葉の象徴です。まことに、全能なるお方はこの地位をまったく顕示者だけに確保された。そして、他の何人にもこの気高い、最高に高められた栄誉を分け与えられない。

不謬性には二種類あることを理解しなさい。すなわち、本質的不謬性と習得した不謬性と。同様に、本質的知識と習得した知識があり、その他の名称や属性についても同じことが言えます。本質的な不謬性は、至高の顕示者に特有なものです。というのは、それは顕示者としての欠くことのできない必要条件であり、そして、本質的必要条件は物そのものから分離してはあり得ないからです。光線は太陽に欠くことのできない必要条件であり、太陽から切り離すことはできません。知識は欠くことのできない神の必要性であり、神から切り離すことはできません。もしそれが神から分離し得るならば、神ではあり得ないでしょう。もし光線が太陽から分離し得るならば、太陽ではなくなるでしょう。ですから、もし至高の顕示者から最も偉大な不謬性を分離することを想像するならば、彼はもはや至高の顕示者ではあり得ず、本質的に必要な美徳を欠くことになります。

しかし、習得された不謬性は、当然の必要性ではありません。反対にそれは真理の太陽から出て人々の心に輝く不謬性の恩恵の光線であり、諸々の魂に光線の一部を分え与えます。こうした人々には本質的不謬性はありませんが、神の保護下にあります。―つまり、神は彼らを誤りから保護します。このように最も偉大な不謬性の夜明けの地とはならなかった多くの聖者もまた神の保護と後見の下陰にあって過誤から保護されました。なぜなら、彼らは神と人間の間をとりもつ恩寵の媒介者であったからです。もし神が彼らを誤りから保護しなければ、信仰を持つ人々を誤りに陥らせ、神の宗教の基礎は覆されることになります。そのようなことは神にふさわしくありません。

要約しましょう。本質的不謬牲は、特に至高の顕示者に属し、習得された不謬性はすべての聖なる魂に与えられています。たとえば、万国正義院が必要な条件の下に―つまり、全人民から選ばれた役員によって―設立されるならば、神の保護と誤りのない指導のもとに置かれるでしょう。もし万国正義院が満場一致か、あるいは多数決によって、バハイ書に述べられていない問題を決定するならば、この決定や命令は誤りから守られるでしょう。正義院の役員には個人的には本質的不謬性はありませんが、正義院という団体は神の保護と、誤りのない指導のもとにあります。これは協議による不謬性と呼ばれます。

要するに、「啓示の夜明け」は、「神は望み給うことを成す。」という言葉のあらわれであり、この状態は聖なるお方に特有なものであり、他のいかなる者もこの本質的完全性を共有することはないと言われています。つまり、至高の顕示者は本質的不謬性を持つのですから、彼らから放射されるすべてのものは真理と完全に一致し、真実に適合します。彼らは以前の法の下陰にいるのではありません。彼らの言うことは神の言葉であり、彼らのすることは正しい行為です。信者には批判する権利はありません。信者はある種の絶対服従でなくてはなりません。なぜなら、顕示者は完全な英知をもって立ちあがるからです。一ですから、至高の顕示者の言うこと成すことは完全な英知であり、真実に一致しています。

仮に、顕示者の命令や行動の隠された秘密を理解できない者があるとしても、彼らはそれに反対すべきではありません。なぜなら、至高の顕示者は望むことを成すものだからです。ある賢明で完全な、知的な人がある事を行なったが、その英知を理解できない人々がそれに反対し、この賢人がよくもそうしたことを言ったりしたりすることができるものだとすっかり驚いてしまうようなことがこれまでどれほどしばしば起こったことでしょうか。人々の反対は彼らの無知から生じたものであり、聖人の英知は純粋であり、誤りがありません。同様に、熟達した医師は患者を処置する際に彼の望むことを成しますし、患者には反対する権利はありません。その医師の言うことすべて正しく、すべての人は彼を「彼は欲することを成し、彼の望むことを命ずる。」という言葉のあらわれであるとみなされなければなりません。その医師は、人々の考えとは異なる薬を使うことは確かです。が、ここで科学や薬学についてより優位ではない者がこれに反対することは許されません。絶対にできません。それどころか、すべての人は熟達した医師の言うことに服従し、その通りにすべきです。ですから熟達した医師は彼の望むことを成し、患者はこの権利にあずかりません。まず、医師の技量が確かめられなければなりません。そしていったんその技量が証明されたならば、彼は望むことを成すのです。

さらにまた、軍隊の長官が戦術において無比であるならば、彼が言うこと命ずることにおいて、彼は望む通りにします。船長が航海術にたけていれば、彼の言うこと命ずることにおいて彼は望む通りにします。そして真の教育者が完全な人間であれば、彼が言うこと命ずることにおいて彼は望む通りにします。

簡単に言いますと、「彼は望むことを成す。」という意味は、仮に顕示者があることを言ったり、命令したり、実行したりする際に、信者がその英知を理解できなくても、彼らは彼がなぜそう言ったのだろうかとか、なぜそのようなことをしたのだろうかといぶかしがるような単純な考えで反対してはならないということです。至高の顕示者の下陰にある人々は、神の法の命令に服従し、それから寸分もそれるべきではありません。彼らのすべての言行は、神の法に一致させなければなりません。もし彼らが神の法からはずれるならば、彼らは神の面前で責任を問われ、咎められるでしょう。彼らは、「彼は望み給うことを成す。」という許しにはあずかりません。なぜなら、この地位は至高の顕示者に特有なものだからです。

したがって、キリスト―我が精神が彼への犠牲となりますように。―は、「彼は望み給うことを成す。」という言葉のあらわれでした。しかし、キリストの弟子たちは、この地位を共にする者ではありません。なぜなら、彼らはキリストの下陰にあったのですから、彼の命令や意志から寸分もたがうことはできなかったからです。


エーテル、電気、磁気などを伝える媒質として考えられている仮想的な物質。

人類の世界においてのみ精神が不滅を顕示する。36「精神の五つの段階」および64「人問の地位と死後の進歩」参照のこと。

55魂、精神、心意、参照のこと。

アクダスの書、最も聖なる書、バハオラの主要な著作であり、その戒律の大部分が含まれている。それはバハイ信教の原則の基礎をなしている。