日本でのバハイ共同体の発展

1914年、アレキサンダー女史の来日以来、バハオラの教えは神戸、京都、北海道と各地にひろがり、同時期に韓国と中国にも伝えられている。
1932年、日本で最初の地方行政会が東京に設立され、日本におけるバハイの行政機構の礎が築かれた。
1937年、アレキサンダー女史は長年待ちのぞんできたイスラエルの世界センターへの巡礼のために日本を発ったが、この間に世界情勢は瞬く間に悪化し、彼女は日本にもどることができなくなってしまう。

日本でも政治情勢が悪化し、国は軍国主義者に支配され、第二次世界大戦へと突入していった。当時は小規模で、散在していたバハイ共同体はお互いに会うことすらできなくなった。活動は停止され、終戦まで待たなければならなかった。

アレキサンダーが聖地イスラエルでショーギ・エフェンディに会ったとき、かれはこう述べている。

「日本のごく近い将来は暗いものであり、日本は苦しむであろう。今は大きく前進するときではない。太平洋は近づいている戦争で大嵐の中心となり、はげしい苦難が訪れるであろう」

その後、日本は派兵し、征服され、敗北した。それも二度にわたって原爆の惨事を経験しなければならなかった。

戦後、ふたたびアメリカ人のバハイが来日してバハイ共同体も活気づき、1948年戦後はじめての地方行政会が東京に設立された。アレキサンダー女史も1950年にふたたび日本にもどることができた。
その後、日本のバハイ共同体は徐々にそのメンバーが増え、1974年に日本全国行政会が設立され、バハイの活動もより充実したものとなってきている。
2010年現在、バハイは日本各地で、全国行政会の指導のもとで、さまざまな活動に従事している。